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三沢鈔

全集 第2巻 2段 定本: #20275(定本の該当ページへ)

書下し

三沢鈔みさわしよう


[1]柑子こうじ一百・こぶ(昆布)・のり(海苔)・をご(於胡)等のすゞの物、はるとわざ山中へをくり給ひて候。ならびにうつぶさ(内房)の尼ごぜんの御こそで(小袖)一給び候おわんぬ。
[2]さてはかたのをほせ(仰)くはしくみほどき(見解)候。抑も仏法をがく(学)する者は大地微塵よりをほけれども、まことに仏になる人はの上の土よりもすくなしと、大覚世尊・槃経にたしかにとかせ給ひて候しを、日蓮みまいらせ候て、いかなればかくわかた(難)かあるらむとかんがへ候しほどに、げにもさるらむとをもう事候。仏法をばがく(学)すれども、或は我が心のをろかなるにより、或はたとい智慧はかしこきやうなれども師によりて我心のまがるをしらず。仏教をなをし(直)くならい(習)うる事かたし。
[3]たとい明師並に実経に値い奉りて正法をへ(得)たる人なれども、生死をいで仏にならむとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、障四魔と申して七の大事出現す。たといからくして六をすぐれども、第七にやぶられぬれば仏になる事かたし。その六は且らくをく。第七の大難は天子魔と申す物なり。たとい末代の代聖教の御心をさとり、訶止観と申す大事の御ふみの心を心えて、仏になるべきになり候ぬれば、あらあさましや、第六天の魔王この事を見て驚きて云く、この者この国にあととどむるならば、かれが我身の生死をいづるかはさてをきぬ。また人を導くべし。またこの国土ををさへと(押取)りて穢土を浄土となす。いかんがせんとて、欲・色・無色の界の一切の眷属をもよを(催)し仰せ下て云く、各々ののう(能々)に随て、かの行者をなやま(悩)してみよ。それにかなわずば、かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて、あるひはいさめ、或はをどし(威)てみよ。それに叶はずば、我みづからうちくだりて、国主の身心に入りかわりてをどして見むに、いかでかとど(止)めざるべきと、せんぎ(僉議)し候なり。
[4]日蓮さきよりかゝるべしとみほどき(見解)候て、末代の凡夫の今生に仏になる事は大事にて候けり。仏の仏にならせ給いし事を経々にあまたとかれて候に、第六天の魔王のいたしける大難、いかにも忍ぶべしともみへ候はず候。婆達多・闍世王の悪事はひとへに第六天の魔王のたばかりとこそみて候へ。まして〔如来の現在すらなお怨嫉多し、いわんや滅度の後をや〕と申して大覚世尊の御時の御難だにも、夫の身日蓮等がやうなる者は片時一日ひとひも忍びがたかるべし。まして五十余年が間の種種の大難をや。まして末代にはこれには百千万億倍すぐべく候なる大難をば、いかでか忍び候べきと心に存じて候しほどに、聖人は未萌みほうを知ると申して三世の中に未来の事を知るをまことの聖人とは申すなり。しかるに日蓮は聖人にあらざれども、日本国の今の代にあたりてこの国亡亡たるべき事をかねて知りて候しに、これこそ仏のとかせ給いて候〔いわんや滅度の後をや〕の経文に当て候へ。これを申しいだすならば、仏の指させ給いて候未来の華経の行者なり。知りてしかも申さずば世々生々の間、をうし()ことどもり(うまれん上、教主釈尊の大怨敵、その国の国主の大讎敵しゆうてき他人にあらず、後生はまた間大城の人これなり、とかんがへみて、或は衣食にせめられ、或は父母兄弟師匠・同行にもいさめられ、或は国主・万民にをどされしに、すこしもひるむ心あるならば一度に申し出ださじと、としごろ(年来)ひごろ(日来)心をいましめ候しが、抑も過去遠々劫より定めて法華経にも値い奉り菩提心もをこしけん。なれどもたとい一難二難には忍びけれども、大難次第につゞき来りければ退たいしけるにや。今度いかなる大難にも退せぬ心ならば申し出だすべしとて申し出して候しかば、経文にたがわずこの度々の大難にはあいて候しぞかし。
[5]今は一こうなり。いかなる大難にもこらへてん、我身に当て心みて候へば、不審なきゆへにこれ山林にはすみ候なり。各々はまたたといすてさせ給うとも、一日かたときも我が身命をたすけし人々なれば、いかでか他人にはに(似)させ給うべき。本より我一人いかにもなるべし。我いかにしなるとも心に退転なくして仏になるならば、とのばら(殿原)をばみちびきたてまつらむとやくそく申して候き。各々は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上、俗なり、所領あり、妻子あり、所従あり。いかにも叶いがたかるべし。ただいつわりをろか(偽愚)にてをはせかしと申しゝぎこそ候べけれ。なに事につけてかすて(捨)まいらせ候べき。ゆめをろか(疎)のぎ(儀)候べからず。
[6]また法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前いぜんの法門は、ただ仏の前の経とをぼしめせ。この国の国主我をもたもつべくば、真言師等にも召し合せ給はずらむ。の時まことの大事をば申すべし。弟子等にもなひ(内々)申すならばひろう(披露)してかれらしり(知)なんず。さらばよもあわ(合)じとをもひて各々にも申さざりしなり。しかるに去る文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頸をはねられんとせし時よりのち(後)、ふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわ(言)ざりける、とをも(思)てさどの国より弟子どもに内々申す法門あり。これは仏より後、葉・難・樹・親・台・楽・教・真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず。その故は仏制して云く、我滅後法に入らずばこの大法いうべからずとありしゆへなり。日蓮はその御使にはあらざれどもその時剋にあたる上、存外にこの法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあら申すなり。しかるにこの法門出現せば、正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠たくみの後につたなきを知るなるべし。この時には正・像の寺堂の仏像、僧等の霊験は皆きへうせて、ただこの大法のみ浮提に流布すべしとみへて候。各々はかゝる法門にちぎりある人なればたのもしとをぼすべし。
[7]また<傍>うつぶさの御事は御としよらせ給いて御わたりありし、いたわし(痛)くをもひまいらせ候しかども、うぢがみ(氏神)へまいり(参)てあるついで(次)と候しかば、けざん(見参)に入るならば定めてつみ(罪)ふかかるべし。その故は神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君へのけざんは世間にもをそれ候。その上、尼の御身になり給いては、まづ仏をさきとすべし。かたの御とが(失)ありしかば、けざんせず候。これまた尼ごぜん一人にはかぎらず。その外の人々も、しもべ(下部)のゆのついでと申す者を、あまたをひかへ(追返)して候。尼<傍>ごぜんはをや(親)のごとくの御としなり。御なげきいたわしく候しかども、この義をしら(知)せまいらせんためなり。
[8]また、との(殿)はをとゝし(一昨年)かのけざんの後、そらごとにてや候けん、御そらう(所労)と申せしかば、人をつかわしてきかんと申せしに、この御房たちの申せしは、それはさる事に候へども、人をつかわしたらばいぶせく(不審)やをもはれ候はんずらんと申せしかば、世間のならひはさもやあるらむ。げん(現)に御心ざしあるなる上、御所労ならば御使もありなんとをもひしかども、御使もなかりしかば、<傍>いつわりをろかにてをぼつかなく候つる上、無常は常のならひなれども、こぞことし(去年今年)は世間はう(法)にすぎて、みみへ(目見え)まいらすべしともをぼほ(覚)へず。こひし(恋)くこそ候つるに、御をとづれ(音信)ある、うれしとも申す計りなし。尼ごぜんにもこのよしをつぶ(委曲)とかたり申させ給い候へ。
[9]法門の事こまとかきつへ(書伝)申すべく候へども、事ひさしくなり候へばとどめ候。ただし宗と仏宗と宗等の事は少々さきにも申して候。真言宗がことにこの国と<傍>たうど(唐土)とをばほろぼして候ぞ。無畏三蔵・剛智三蔵・空三蔵・法大師・覚大師・証大師この六人が日の三部経と法華経との優劣に迷惑せしのみならず、三三蔵、事をば天竺によせて両界をつくりいだし狂惑しけるを、三大師うちぬかれて日本へならひわた(習渡)し、国主並に万民につたへ、漢土の玄宗皇帝も代をほろぼし、日本国もやうやくをとろへて、幡大菩の百王のちかいもやぶれて、八十二代隠岐の法王、代をあずまにとられ給いしは、ひとへに三大師の大僧等がいのり(祈)しゆへに、還著於本人げんじやくおほんにんして候。関東はこの悪法悪人を対治せしゆへに、十八代をつぎて百王にて候べく候つるを、またかの悪法の者どもを御帰依あるゆへに、一国には主なければ、釈・日月・天の御計いとして他国にをほせつけてをどして御らむあり。また華経の行者をつかわして御いさめあるをあやめずして、彼の法師等に心をあわせて世間・出世の政道をやぶり、法にすぎて法華経の御かたきにならせ給う。すでに時すぎぬれば、この国やぶれなんとす。やくびやうはすでにいくさ(軍)にせんふ(先符)せむ(は)、まくるしるしなり。あさまし
[10]<日>二月二十三日
[11]<人>日 蓮 <花押>花押
[12]<先>さわどの
[13]かへす。するが(駿河)の人々みな同じ御心と申させ給い候へ。
現代語訳

三沢鈔


建治四年(一二七八)、五七歳、於身延、三沢氏宛、和文、定一四四三—一四五〇頁。

[1]柑子(ミカン科の常緑低木、果実は扁平で小さく、濃黄色)百箇・昆布・海苔・おご海苔などのいろいろな御供養の品、わざわざ、はるばると身延の山中にお送り下され、また内房の尼御前から御小袖を一つ御届け頂き、ありがたく拝受した。
[2]御書面の件につき委細拝見した。釈尊は涅槃経の中で「そもそも仏法を学ぶ者は大地の<傍>ちりの数よりも多いが、本当に仏になる人は爪の上に置いた土ほど、わずかで少ない」と説かれているが、日蓮はこの経文を拝見して、どうしてこのように難しいのかと考えたところ、なるほどもっともだと納得するところがある。仏法を学んでも、自分の心が愚かであったり、智慧はあったとしても悪い師匠について自分の心が曲がったのに気付かないために、仏法を正しく学びとることができないのである。
[3]たとえ正しい師匠や真実の経に出会って正法を得たとしても、生死の迷いをはなれて、いよいよ仏になろうとする時には、かならず影が形にそうように、雨がふる時には雲があるように、三障四魔(仏道修行をさまたげる障害)という七つの重大なでき事が現われる。たとえ努力精進してようやくその中の六つを除き去っても、第七番目の魔障に破られてしまえば仏になることはできない。その六つの魔障についてはここで述べないが、第七番目の大難とは「天子魔てんしま」というものである。わたしたち末代の凡夫が釈尊の仏教のすべての精神を体得し、天台大師の摩訶止観という重要著作の法門をも心得て、やがて仏になろうとする時になると、大変なことであると、第六天の魔王はこれを見て大いに驚くのである。そして「この者がこの国にあったならば、その者が自分自身に生死の迷いを離れて成仏することはむろんだが、それのみならず多くの人々を導いて仏道に入れ、またこの世界を押え取ってけがれた穢土を浄土としてしまう。どうしたらよいであろう」と考えて、魔王は欲界・色界・無色界のすべてのつき従う者をよび集めて号令を下して言うには「各々の得意とする手段によって、あの修行者を悩ましてみよ(迷いの世界から脱れさせてはならぬ)。それができない時には、その修行者の弟子や信者ならびに国中の人々の心の中に入れ替わって、修行者を諫めたり、おどしたりして修行をやめさせよ。もしそれでもかなわないのならば、みずから地上へ降り下って、国主の身と心に入れ替って修行者を迫害するならば、必ずやその成仏を阻止できるであろう」と魔王とその従者は議をこらしたのである。
[4]日蓮はかねてよりこのような事があることを見ぬいて、末代の凡夫が今生にて仏になることは容易なことではないと思ったのである。教主釈尊が仏になられたありさまは、色々な経典にたくさん説かれているが、いずれも第六天の魔王が妨害したことが記してあり、その大難はとうてい忍ぶことができないと思っていた。提婆達多(山の上から大岩を落して足の小指から血を出すという、わずかであるが釈尊にけがを負わせた)、阿闍世王(酔った象を放して釈尊を踏み殺させようとした)などの悪事は、すべて第六天の魔王の<傍>しわざであったとみることができる。まして法華経の法師品には「仏の在世中でさえ迫害されることが多いのであるから、入滅された後の世にはなおさら大きな困難が待ちうけている」と説かれており、釈尊の御在世の時の御法難でさえも、凡夫の身である日蓮には片時も、一日でさえも忍ぶことはできないに違いない。まして五十余年の長い間の種々の大難についてはなおさら忍びがたいことである。それどころか釈尊の入滅後の末代には、この難の百千万倍も増した大難があるというのを、どうして堪え忍ぶことができようかと考えていたが、昔から聖人は未萌(これから起こること)を知ると言って、過去・現在・未来の三世の中でも未来のことを知るのが真の聖人と言うのである。しかしながら日蓮はもとより聖人ではないが、今の日本国は(正法である法華経の信仰に回帰しなければ)亡びてしまうであろうことをかねてより知っていたが、これこそ仏がお説きになった「まして入滅後にはなおさら困難が多い」との経文と符合する。このことを知ってあえて申し出す者こそ、仏が未来を予見された滅後の末法の法華経の行者である。これを知っていながら言い出さなければ、生々世々のうまれかわりのあいだ困難をうけ、その上、教主釈尊の大怨敵、日本の国主の<傍>かたきに、他人でなく、まさに自分がなり、後生は無間地獄むけんじごくという最も罪の重い者がおちる大きな城のような地獄の人の、責めに苦しむ姿こそこれにちがいないと考えてみて、衣食の不自由に苦しめられたり、父母・兄弟・師匠や同行の者に諫められたり、国主や民衆におびやかされても、すこしもひるまずに申し出そう、それにひるむならば一向に申し出さぬ方が良いと、年来、かねてから堅い決心をしてきたのである。過去の遠い昔から今日にいたるまで、いくたびか法華経にも出会うことができ、菩提心をおこしたこともあったであろう。しかし、そのために一難か二難くらいは堪え忍ぶことができても、大難がつぎつぎに起こってきたので、信心が破れ退転してしまったのであろう。今度こそは、どのような大難をこうむろうとも決して退くまいと決心して申し述べたところが、経文の予見の通りに、このような度々の大難をこうむったのである。
[5]今は一向ひたすらに法華経を捨てずに大難にも退転しないという信心が確定した。これまでの体験によって経文の未来の予見を自ら実践し、大難にも堪えうることは疑いないので、この山の中にんでいるのである。各々方はたとえ法華経の信心を捨てられても、一日片時なりと日蓮の身と命を助けて下さった人々であるから、どうして他人と思うことができよう。もとより日蓮一人はどうなっても構わない。たとえどうなろうとも法華経の信心に退転なくして仏になるならば、必ず各々方を導こうと約束したのである。各々方は日蓮ほど仏法について御存知ない上、在家の身であり、領地もあり妻子もあり家来もあることだから、信心を貫き通すことはむずかしいであろう。それであるから表面的にはいつわりおろかにして法華経の信者ではないようにしておられるがよいと、かねがね申したことであった。日蓮をお助け下さった方であるからには、どのようなことがあろうとも見捨てることはしない。決して疎略にすることもない。
[6]また法門のことについては、日蓮が佐渡へ流される以前に申し述べた法門は、釈尊の法華経以前の四十余年間の説法と同じと思って頂きたい(真実・本懐については申し述べていないところがあった)。幕府が正しい政治によって世を治めたいと思うならば、必ず真言宗の僧達とも対論することになるだろうから、その時にはじめて大切な法門を申し述べよう。弟子たちにも内々でも申し聞かせるならば、自然ともれて彼らの耳にも入り、(種々にはかりごとをして)対論できないようにするであろうと思って、いままで各々方にも話さなかったのである。しかしながら去る文永八年九月十二日の夜、竜の口で頸を刎ねられそうになった時から、一門の人々にいままで真実を申し述べなかったのは<傍>ふびんなことであると考えて、流罪地の佐渡から弟子たちに内々に申し送った法門がある。これは釈尊の後に出られた葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真らの大論師・大人師(偉大な学者・指導者)は心の中で承知していながら決して口には出さなかった法門である。それは釈尊から「私の入滅の後の正法千年、像法千年を過ぎて末法の世に入らないうちは、この重要な法門を広く伝えてはならぬ」と固くいましめられたからである。日蓮は直接に釈尊からつかわされた御使いではないけれども、末法というその時刻に出現した上、思いのほかこの法門を体得したのであるから、仏の御使いである上行菩が現われるまでの先駆として、大体を申し伝えるのである。しかしながら、この法門がひとたび表明されると、正法・像法の時代に先人たちが布教した法門は、太陽が出ると星が見えなくなるように、上手な匠の後に下手な匠を見るようなことになってしまうであろう。末法になると正法と像法の時代の寺堂の仏像や僧たちの霊験はみな消えせてしまって、ただこの大法だけが世界中に布教されるであろうと経文には説かれている。各々方はこのような尊い法門にゆかりの深い人たちなのであるから、たのもしいことと思わなければならない。
[7]また内房の尼御前のことは、老年の身でわざわざおこしになったのであるから、気の毒に思ったのであるが、氏神に参詣するついでに、身延の日蓮のもとへ来るということであったので対面しなかった。もし対面するならばかえって尼御前に罪をつくらせることになるからである。それは神は従者であり、法華経は主君なのである。従者へのついでに主君のもとへ訪れるというのは世間の道にも背くからである。その上、尼の身となったからには、まず仏陀みほとけに仕えることを先とするのが当然である。このように重ねがさねの不心得があったので対面しなかったのである。対面しなかったのは尼御前一人に限ったことではなく、その他の人々でも下部の温泉のついでと言って訪ねてきた者も多く、みな追い返してしまっている。尼御前は日蓮からみると親のような年齢であられる。それがわざわざ訪ねてきて会えなかったのであるから、御嘆きのほどは察せられるが、このものごとの筋道を知って頂きたいがために対面しなかったのである。
[8]また貴殿とは一昨年の御対面の後に、御病気という風評を聞いたので、使いを遣わして様子を知ろうとしたが、弟子達の申すには、それもごもっともであるが、使者などを送ってもかえって御不快に思われるに違いないということなので、それも世間の習いかと思いやめておいた次第である。つねづね実直な貴殿のことであるから、もし御病気ならば何か使いでもあるにちがいないと思ったのであるが、それもないので、わざと疎遠にしてはいたが実は案じていた次第である。無常は世のつねの習いであるが、去年から今年にかけての様子は何となく変わっていたため、再び対面しないと心もとなく恋しく思っていたところへの御音信、この上もない喜びである。尼御前にもこの由を委細にお伝えを願う。
[9]法門のことは委しく書き遣したいと思うのであるが、あまり長くなるから筆をとどめておく。ただし禅宗と念仏宗と律宗などの事は、少々前にも申しておいたが、特に真言宗がこの日本国と中国とを亡ぼす宗旨である。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師の六人は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言の三部経と法華経との優劣に間違った考えを持ったばかりでなく、この三人の三蔵が金剛界・胎蔵界の荼羅をインドに元々あったように作り、それによって人々を惑わしたのを、この三大師らはそれにすっかりだまされて、日本に習い伝えて国主や民衆にもこれを伝えたのである。中国の玄宗皇帝が国を失ったのもこの真言の法を信じたためであり、日本国も次第におとろえて、八幡大菩が百代の王を守護するという誓いも破れて、第八十二代の後鳥羽院が鎌倉方に天下をとられて隠岐に流されたのも、まったく弘法大師らの三大師が真言のまちがった法で祈ったから、法華経の観世音菩普門品の経文通りに「かえって本人にきなん(呪詛して人に害をなす者にはかえってその本人に害がおよぶ)」ということになったのである。鎌倉幕府はこの真言の悪法と真言師の悪人とを対治したため、八十二代のあとに十八代をうけついで、(八幡大菩の誓いどおり)百代まで無事であるべきものを、またもや、かの悪法を信じ悪人どもに帰依したので、わが国には正邪を判別する国主がなくなってしまって、梵天・帝釈・日天・月天・四天王のおはからいにより、他国(蒙古)に仰せつけて日本国を脅かしてごらんになったのである。また法華経の行者をつかわして諫められたにもかかわらず、かえって真言師らの法師に心をあわせて味方し、それがために世間の政治も仏法も乱してしまい、思ってもみなかった法華経の敵となってしまったのである。このような間にも時刻が経過して、日本国はやがて亡びようとしている。疫病が流行しているのは、大合戦の起こるべき前兆に違いない。あさましいことである。あさましいことである。
[10]<日>二月二十三日
[11]<人>日 蓮 <花押>花押
[12]<先>みさわどの
[13]返す返すも、駿河の人々はみな同一の心で結束していると伝えてほしい。