其中衆生御書
書下し
其中衆生御書
[1]その中の衆生はことごとくこれわが子なり。しかも今この処は諸の患難多し。ただ我一人のみよく救護をなす等云云。この経文は釈尊は三義を備え、阿弥陀等の諸仏は三義闕けたり。この義前前のごとし。ただし、ただ我一人の経文は小乗経の語にもあらず。諸大乗経の帯権赴機の説にもあらず。多宝・十方の仏の証明を加えし金言なり。今の念仏者等の賢父の教言なり。明王の奉詔なり。聖師の教訓なり。三義に背き廿逆罪を犯し入阿鼻獄の人と成る事悲しむべし悲しむべし。これは法華経の初門の法門なり。次第に深くこれを説く云云。
[2]迹門には三千塵点已来、娑婆世界の衆生は阿弥陀等の諸仏に棄てられおわんぬ。化城喩品に云く、その時の聞法の者、各々諸仏の所にあり乃至この本因縁を以て、今法華経を説く云云。このごとき経文は文に云く、娑婆世界の衆生は過去三千塵点已来一人として阿弥陀等の十方の十五仏の浄土へは生るる者これなし。天台云く、旧西方を以て以て合す。長者今これを用いず。西方は仏別に縁異る。仏別なる故に隠顕の義成ぜず。縁異る故に子の養成ぜず。またこの経の首末全くこの旨なし。眼を閉て穿鑿せよ。妙楽云く、西方等とは宿昔縁別にして化道同じからず。結縁は生のごとく成就は義のごとし。生養縁異なれば子父成ぜず等云云。このごときの文は十方の諸仏は養父。教主釈尊は親父なり。天台に多くの釈ありといえども、この釈を以て本となすべし。所所に弥陀を讃むる事は且らく依経による。例せば世親等の阿含経を讃めたるがごとし。
[3]本門を以てこれを論ずれば、五百塵点已来釈尊の実子なり。しかりといえども或は世間に著して法華を捨て、或は小乗権大乗経に著して法華経を捨て、或は迹門に著して本門を知らず、或は当説に著して法華を捨て、或は十方の浄土に心を懸け、或は弥陀の浄土に心を懸る等。今、七宗八宗等の悪師に遇うて法華を捨るの間、今に五百塵点を歴たり。涅槃経の二十二に云く、天台云く、もし悪友に値えば則ち本心を失う。
[4]疑て云く、本迹二門の流通たる薬王品に弥陀の浄土を勧めたりいかん。
[5]答て云く、薬王品の弥陀は爾前迹門の弥陀にあらず。名同体異これなり。無量義経に云く、言辞これ一にして、しかも義は別異なり云云。妙楽云く、須臾も観経等を指さざるなり。一切これを以て知るべし。所詮発起影向等の深位の菩薩は十方の浄土より娑婆世界へ来り、娑婆世界より十方浄土へ往く。
現代語訳
其中衆生御書
文永一〇年(一二七三)、五二歳、於佐渡一谷、和文、定七九五—七九六頁。
[1]法華経の譬喩品に「その世の中の衆はすべて私の子である。しかもこの所は災いが多いが、ただ私一人がそれを救い護るのである」とある。この経文は、釈尊だけが主師親の三徳を具えており、阿弥陀仏などの諸仏はこの三徳が欠けていることをいうのである。この意味はこれまでに前々から述べてきた通りである。ただし「私一人だけが」の経文はもちろん小乗経の語でもなく、方便を用いたり相手の理解能力に応じたりなどする諸大乗経の説でもない。多宝如来が宝塔とともに出現して真実と証明し、十方のあらゆる世界の諸仏が広長舌相を示して讃嘆した、釈尊の金言の法華経なのである。すなわち今の念仏者をはじめとしてすべての衆生の唯一の賢父の教えさとすことばであり、明君の<傍>みことのり傍>であり、聖者の教訓である。しかしながら、三徳を具えた釈尊の言葉を信ぜず背いて、二十逆罪の大罪を犯して、阿鼻地獄という最も罪の重い者が堕ちる地獄に入ってしまうことは、非常に悲しいことである。これは法華経の前半、初門の迹門の法門である。言うまでもなく法華経は迹門から後半の本門へと次第に法門が深くなっていくのである。
[2]さて迹門をみると、三千塵点劫という遥かな過去から、私たちの生きるこの娑婆世界の衆生は釈尊と深い縁に結ばれ、阿弥陀仏などの諸仏とは縁がないことがわかる。そのことは化城喩品に「その時に法を聞く者はそれぞれ諸仏の<傍>みもと傍>にあり、この本因縁によっていま法華経を説く」とある。この経文は、娑婆世界の衆生は過去三千塵点劫の昔より已来、阿弥陀仏などの十方世界の十五仏の浄土へ生まれることはないと説いている。天台大師は法華文句に「古い考え方によれば、西方の教主阿弥陀如来を譬え話の中の父である長者にあてはめているが、これは誤りであり今はこれを用いない。西方極楽世界は娑婆世界とは仏も別、縁もことなっている。仏がこの世界とは別であるから、娑婆世界における阿弥陀如来の降誕と涅槃の義は成立しない。縁がちがっているのであるから阿弥陀如来と私たちとは親子の関係が成立しない。そして法華経の全巻を通じて阿弥陀如来が娑婆世界の主師親であるというようなことはひとつもみられない。本当に心から仏を求め法を求める者は、眼を閉じて深くこれを吟味しなければならない」と述べている。また妙楽大師の法華文句記には文句の文を解釈して「天台大師が以上のように述べているのは、釈尊と阿弥陀とは過去世における衆生との縁が別であって、化道の世界がちがっていることを明らかにしようとするものである。結縁というのは人間の生まれた時のようなもので、成就とは養育されて成人することのようなものである。生(まれること)も養(育すること)も阿弥陀如来とこの娑婆世界の衆生とは縁が異なるから父子の関係が成立しないのである」と述べている。このような文から考えてみると、阿弥陀如来などの十方世界の諸仏は養父のようなもので、教主釈尊こそ真実いつくしみの心を持つ実父のようなものである。天台大師には法華経を解釈した多くの著作があるが、ここに示した解釈を根本として釈尊が娑婆世界に縁のある仏であることを知るべきである。しかしながら天台大師がところどころで阿弥陀如来をほめているのは、依りどころにする経に応じてのことにすぎない。例えば大乗仏教の研究者として有名な世親菩薩がはじめのころは、阿含経をほめているようなことも同じである。
[3]さらに法華経後半の本門によってこれを論ずれば、私たち衆生は五百億塵点劫のはるか永遠の過去により釈尊の実子なのである。しかしながら一般世間のわだかまりにとらわれて法華経を捨てたり、あるいは小乗経や権大乗経などの仮りの教えに執著して法華経を捨てたり、あるいは法華経の前半の迹門ばかりにとらわれて後半の本門の深義を知らずにいたり、あるいはまさにこれから説かれるであろうといわれる観普賢経や涅槃経に執著して法華経を捨てたり、あるいは十方の浄土にばかり心を向けて、あるいは阿弥陀如来の極楽浄土のことばかり気にかけるなどしている。今実際に南都の六宗に平安時代の真言宗を加えた七宗や、さらにそれに密教化したり、浄土教に傾斜してしまった天台宗を加えた八宗の間違った考え方を持つ僧侶につき従って法華経を捨ててしまったので、五百億塵点劫という遥かな時を経過しても、三徳を兼ね具えた釈尊にまみえることができないのである。涅槃経巻二十二の高貴徳王菩薩品に「悪い象は人の体に危害を与えるだけであるが、悪い師、悪い友は心も体もむしばんでしまう、最も恐るべき存在である」とあり、天台大師の法華玄義にも「もし悪友と出会えば本心を失って悪道・地獄に堕ちる」とある。
[4]疑って言うには、法華経の迹門と本門の教えを広めるために設定されている流通分の薬王菩薩本事品には、女人が法華経を一心に修行すれば命終って後、安楽世界の阿弥陀仏のもとに生まれると、極楽浄土を勧めている点はどうであろうか。
[5]答えていう。薬王品に説かれる阿弥陀如来は法華経以前の浄土三部経や、迹門の化城喩品の弥陀ではない。名前が同じであるが実体は異なるのである。このため無量義経の説法品にも「言辞が一つであっても意義は別である」とある点もこの例であるし、妙楽大師も法華文句記に「少しも観無量寿経の弥陀を指してはいない」と述べている。この疑問のすべてについてはこれらによって理解すべきである。すべて修行の位階の高い発起衆・影向衆の菩薩ら(初住以上、無明の惑を断じた菩薩)はみな、十方世界の浄土からこの娑婆世界に来たり、この娑婆世界から十方世界の浄土へ往くのである。