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小乗大乗分別鈔

全集 第2巻 2段 定本: #136(定本の該当ページへ)

書下し

小乗大乗分別鈔しようじようだいじようふんべつしよう


[1]それ小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云い、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云う。道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う。〔大法東漸して通じて仏教を指して大法となす〕等と釈するこれなり。
[2]仏教に入りても鹿苑ろくおん十二年の説、四含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して、小乗経と名けたり。また諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云う。厳の大乗経に〔其の余の小法をねがう〕と申す文あり、台大師はこの小法といふは常の小乗経にはあらず、十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法をくだして小法と名くと釈し給へり。また華経第一の巻便品に〔もし小乗を以て乃至一人をも化す〕と申す文あり。天台・楽は阿含経を小乗というのみにあらず、華厳経の別経、等・若経の通別の大乗をも小乗と定む。また義の第一に〔小を会して大に帰す、これ漸頓泯合〕と申す釈をば、証大師は始め華厳経より終り般若経にいたるまでの四教・八教の権実諸大乗経を漸頓と釈す。泯合と云うは八教を会して一大円教に合すとこそことはられて候へ。また法華経の寿量品に〔小法をねがえる徳薄垢重の者〕と申す文あり。天台大師はこの経文に小法と云うは小乗経にもあらず、又諸大乗経にもあらず、遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等・般若・法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法也。又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・びるしやな盧舎るしやな日如来等をも小仏なりと釈し給ふ。
[3]この心ならば涅槃経・日経等の一切の大小・権実・顕密の諸経は皆小乗経。八宗の中に舎宗・実宗・宗を小乗と云うのみならず、厳宗・相宗・論宗・言宗等の諸大乗宗を小乗宗として、唯台宗一宗計り実大乗宗なるべし。彼彼の大乗宗の所依の経経には絶て乗作仏・久遠実成の最大の法をとかせ給はず。譬ば一尺二尺の石を持つ者をば大力といはず、一丈二丈の石を持つを大力と云うが如し。華厳経の法界円融四十一位・般若経の混同無二むに十八空・乾慧地けんねじ等の十地・瓔珞経ようらくきようの五十二位・王経の五十一位・師経の十二の大願・観経の四十八願・大日経の真言印契*いんげい等、これらは小乗経に対すれば大法・秘法也。法華経の二乗作仏・久遠実成に対すれば小乗の法なり。一尺・二尺を一丈・二丈に対するがごとし。
[4]また二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云へども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて、華厳・大日経等に分絶ぶんたえたるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師名をだにもしらず、天竺の大論師樹菩親菩は内には珠を含み、外にはかきあらわし給ざりし法門なり。
[5]而るを雨衆うずが三徳・米斉べいさいが六句の先仏の教を盗みとれる様に、華厳宗の観・真言宗の無畏等は天台大師の一念三千の法門を盗み取て、我が所依の経の心仏及衆生の文の心とし、心実相と申す文のたましいとせるなり。かくのごとく盗み取て、我宗の規模となせるが、また還て天台本宗をば下して、華厳宗・真言宗には劣れるなりと申す。此等の人師は世間の盗人ぬすびとにはあらねども仏法の盗人なるべし。此等をよくよく尋ねあきらむべし。
[6]また世間の天台宗の学者並びに諸宗の人人の云く、法華経はただ二乗作仏・久遠実成ばかりなり等云云。今反詰はんきつして云く、汝等が承伏に付て、但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎつて諸経になくば、これなりとも<傍>あに奇が中の奇にあらずや。二乗作仏諸経になくば、仏の御弟子頭陀第一の葉・智慧第一の利弗・神通第一の連等の十大弟子・千二百の羅漢・万二千の聞・無数億の乗界、過去遠遠劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値いてたてまつらずば、永く色心しきしん倶に滅して永不成仏ようふじようぶつの者となるべし。あに大なるとがにあらずや。また二乗界、仏にならずば、葉等を供養せし天・釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界八番の衆はいかんがあるべき。
[7]また久遠実成がこの経に限らずんば、三世の諸仏無常遷滅の法に堕しなん。譬ば天に諸星ありとも日月ましまさずんばいかんがせん。地に草木ありとも大地なくばいかんがせん。これは汝が承伏に付ての義なり。
[8]実をもて勘へ申さば、二乗作仏なきならば、九界の衆生仏になるべからず。法華経の心は法爾ほうにのことはりとして一切衆生に十界を具足せり。譬ば人一人は必ず四大を以てつくれり。一大かけなば人にあらじ。一切衆生のみならず、十界の依正の二法、非情の草木、一微塵にいたるまで皆十界を具足せり。二乗界仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず。又余界の中の二乗界仏にならずば、余界の八界仏になるべからず。譬ば父母ともに持ちたる者兄弟九人あらんか、二人は凡下の者と定められば、余の七人も必ず凡下の者となるべし。仏と経とは父母の如し。九界の衆生は実子なり。声聞・覚の二人永不成仏の者となるならば、菩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや。〔今この三界は皆これ我が有なり。その中の衆生はことごとくこれ吾が子なり。乃至ただ我れ一人のみよく救護をなす〕の文をもて知るべし。
[9]また菩と申は必らず弘誓願ををこす。第一衆生無辺誓願度の願成就せずば、第四の無上菩提誓願証の願は成ずべからず。前四味の諸経にては菩・凡夫は仏になるべし。二乗は永く仏になるべからず等云云。しかるをかしこげなる菩も、はかなげなる六凡も共に思へり、我等仏になるべし。二乗は仏にならざればかしこくして彼道には入ざりけると思ふ。二乗はなげきをいだき、この道には入るまじかりし者をと恐れかなしみしが、今法華経にして二乗を仏になし給へる時、二乗ほとけになるのみならず、かの九界の成仏をもときあらはし給へり。諸の菩この法門を聞て思はく、我等が思ひははかなかりけり。前の経経にして二乗仏にならずば、我等もなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくにあらざりけり。我等も同じなげきにてありけりと心うるなり。
[10]また寿量品の久遠実成が爾前の経経になき事を以て思ふに、爾前には久遠実成なきのみならず、仏は天下第一の大妄語の人なるべし。爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に〔始めて正覚を成ず〕〔我れ昔道場に坐す〕等云云。真実甚深正直捨方便の量義経と法華経の迹門には〔我れ先に道場にして、我れ始め道場に坐す〕と説れたり。これらの経文は寿量品の〔然るに我実に成仏してより已来、無量無辺なり〕の文より思い見ればあに大妄語にあらずや。仏の一身すでに大妄語の身なり。一身に備えたる六根の諸法あに実なるべきや。大冰の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや。水中の満月は実に体ありや。爾前の成仏・往生等は水中の星月の如し。爾前の成仏・往生等は体に随ふ影の如し。本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節かせつ・当分の得道共に有名無実なり。
[11]台大師この法門を道場にして独り覚知し、義十巻・句十巻・観十巻等かきつけ給うに、諸経に二乗作仏・久遠実成絶えてなき由を書きをき給ふ。これは南北の十師が教相に迷うて、三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教・四教等を立てて教の浅深勝劣に迷いし、これらの非義を破らんが為に、まづ眼前たる二乗作仏・久遠実成をもて諸経の勝劣を定め給いしなり。然りと云て余界の得道をゆるすにはあらず。
[12]その後、華厳宗の教、法相宗の時、真言宗の顕密・五蔵・十住心、義釈の四句等は三北七の十師の義よりもなおれる教相なり。これらは他師の事なればさてをきぬ。また自宗の学者、天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷うて、爾前の経経には二乗作仏・久遠実成計りこそなけれども、余界の得道はありなんど申す人人、一人二人ならず日本国に弘まれり。他宗の人人ここに便を得ていよいよ天台宗を失ふ。これらの学者は譬ば野馬とんぼの蜘蛛の網にかゝり、かわける鹿の陽炎かげろうをおふよりもはかなし。例せば頼朝の右大将家は泰衡やすひらを打たんがために、泰衡をたぼらかして義経を打たせ、大将の入道清盛源氏をほろぼして世をとらんが為に、我伯父平馬へいま介忠正すけただまさを切る。義朝はたぼらかされて慈父為義を切るがごとし。これらは墓なき人人のためしなり。
[13]天台大師法華経より外の経経には二乗作仏・久遠実成はたえてなしなんど釈し給へば、菩の作仏・夫の往生はあるなんめりとうち思いて、我等は二乗にもあらざれば爾前の経経にても得道なるべし。このおもい心中にさしはさめり。その中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば、法華経をばなげすて、仏申して浄土に生れて、音・至・弥陀仏に値いたてまつりて成仏をとぐべしと云云。当世の天台宗の人々を始として諸宗の学者かくのごとし。実義をもて申さば、一切衆生の成仏のみならず、六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり。例せば日本国の人唐土の内裏に入らん事は、必ず日本の国王の勅定によるべきがごとし。穢土を離れて浄土に入る事は、必ず法華経の力なるべし。例せば民のむすめ乃至関白大臣の女に至るまで、大王のたねおろせば、そのうめる子王となりぬ。大王の女なれども、臣下の種を懐妊せば、その子王とならざるがごとし。十方の浄土に生るる者は三乗人天畜生等までも、皆王の種姓と成て生るべし。皆仏となるべきが故なり。含経は民の女の民をおとことし、華厳・方等・般若等は臣の女の臣を夫とせるがごとし。また華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩等は王女の臣下を夫とせるがごとし。皆浄土に生るべき法にはあらず。
[14]また華厳・阿含・方等・般若等の経々の間に六道を出ずる人あり。これは彼々の経々の力にはあらず。過去に法華経の種をえたりし人、現在に法華経を待たずして機すゝむ故に、爾前の経経を縁として、過去の法華経の種を発得して、成仏往生をとぐるなり。例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し、孝養父母の者の梵天に生るるがごとし。飛花落葉・孝養父母等は独覚と天との修因にはあらねども、かれを縁として過去の修因を引きおこし、彼の天に生じ、独覚の菩提を証す。しかるになお過去に小乗の三賢四善根にも入らず、有漏の禅定をも修せざる者は、月を観じ、花を詠じ、孝養父母の善を修すれども、独覚ともならず、色天しきてんにも生ぜず。過去に法華経の種を殖えざる人は、華厳経の席に侍りしかども初地・初住にものぼらず、鹿苑説教のみぎりにても見思をも断ぜず、経等にても九品の往生をもとげず、ただ大小の賢位のみに入て聖位にはのぼらずして、法華経に来て始て仏種を心田に下して、一生に初地初住等に登る者もあり、また涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり。
[15]過去に法華経の種を殖えたる人々は、結縁の厚薄に随て、華厳経を縁として初地・初住に登る人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗となる者あり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり。方等・般若もこれをもて知んぬべし。これらは彼彼の経経の力にはあらず、偏に法華経の力なり。たとえば民の女に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ、大臣等の女に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へども、大王よりこれを尋ぬれば皆王種となるべし。爾前にして界外かいげへ至る人を、法華経よりこれを尋ぬれば皆法華経の得道なるべし。また過去に法華経の種を殖えたる人の根鈍にして、爾前の経経に発得ほつとくせざる人人は法華経にいたりて得道なる。これは爾前の経経をばめのと(乳母)として、きさき(后)腹の太子・王子と云うがごとくなるべし。
[16]また仏の滅後にも、正法一千年が間は在世のごとくこそなけれども、過去に法華経の種を殖えて法華・槃経にて覚りのこせる者、現在在世にて種を下せる人人もこれ多し。また滅後なれども現に法華経ましませば、道の法より小乗経にうつり、小乗経より権大乗にうつり、権大乗より法華経にうつる人々数をしらず。竜樹菩著菩親論師等これなり。像法一千年には正法のほどこそなけれども、また過去現在に法華経の種を殖えたる人々も少少これあり。しかるを漸漸に仏法澆薄になる程に、宗宗も偏執石のごとくかたく、我慢山のごとく高し。像法の末に成りぬれば、仏法によて諍論興盛して仏法の合戦ひまなし。世間の罪よりも、仏法の失に依て間地獄に堕る者数をしらず。今はまた法に入て二百余歳、過去現在に法華経の種を殖えたりし人人もやうやくつきはてぬ。また種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出世の法の者数をしらず国に充満せり。譬ば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中のまみず、大地の中の金なんどのごとく、悪業とのみなりぬ。また過去の善業もなきがごとく、現在の善業もしるしなし。
[17]或は弥陀の名号をもて人を狂はし、法華経をすてしむれば、背上向下のとがあり。或は禅宗を立てて外と称し、仏教をば真の法にあらずと如として増上慢を起し、或は法相・三論・華厳宗を立てて法華経を下し、或は真言宗・大日宗と称して、法華経は如来の顕教にして真言宗に及ばず等云云。しかるに自然に法門に迷う者もあり、或は師師に依て迷う者もあり、或は元祖・論師・人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来る者もあり、或は悪鬼・天魔の身に入りかはりて、悪法を弘て正法とをもう者あり、或ははづか()の小乗一途の小法をしりて、大法を行ずる人はしからずと我慢して、我小法を行ぜんが為に、大法秘法の山寺をおさへとる者もあり、或は慈悲魔と申す魔身に入て、衣一鉢を身に帯し、小乗の一法を行ずるやから、わづかの小法を持ちて、国中の棟梁たる叡山の竜象のごとくなる智者どもを、一分我教にたがへるを見て、邪見の者悪人なんどうち思へり。この悪見をもて国主をたぼらかし、誑惑して、正法の御帰依をうすうなし、かへ(却)て破国破仏の因縁となせるなり。かの姐己だつきほうじなんと申せしきさきは心もをだやかに、みめかたち人にすぐれたりき。愚王これを愛し国をほろぼす縁となる。当世の禅師・律師・念仏者なんと申す一・隆・観・阿弥・阿弥なんど申す法師等は鳩鴿いえばとが糞を食するがごとく、西施せいしが呉王をたぼらかしゝににたり。或は我小乗臭糞の驢乳の戒を持て……。
現代語訳

小乗大乗分別鈔


文永一〇年(一二七三)、五二歳、於佐渡一谷、和文、定七六九—七七九頁。

[1]物の大小ということは、一定しているものではない。一寸(約三センチ)の物を一尺(約三十センチ)の物に比べれば小といい、五尺の身長の男に対して六尺・七尺ある男を大男というのである。これと同様に、仏教以外のインドの宗教に対すれば、すべての大乗・小乗の仏教を総括してみな大乗というのである。これは法華玄義の序に章安大師が、次第に東の国に仏教が伝播していく様子を「大法東漸」といい、これを妙楽大師が「通じて仏教全体を大法というのだ」と解釈したことと同じである。
[2]仏教の中においても鹿野苑ろくやおんで十二年間にわたって説かれた阿含経(漢訳では、長・中・増一・雑の四部)などのすべての小乗経を、その後に説かれた諸大乗経に対して小乗経と呼ぶのである。また諸大乗経の中でも他の大乗経と比べて内容的に劣るものを小乗経というのである。大乗経の華厳経の十地品に「その他の小法をねがう」という経文があるのを、天台大師は法華文句に「ここに小法というのは通常のように小乗経を指すのではなく、菩の位階が五十二位あるうちの、高位の十地の大法に対して、十住・十行・十回向の三十位をしりぞけて小法と名づけるのだ」と解釈している。また法華経巻一の方便品に「もし一人でも小乗経によって教化するならば、(私は大乗を惜しむ罪を犯したことになる)」とあり、また天台大師・妙楽大師は阿含経を小乗経というばかりではなく、華厳経の別教、方等・般若経の通教・別教の大乗をも、小乗と定めた。また法華玄義の第一に「小乗を開会して大乗に入れるのを、漸教と頓教とが泯合(混ぜあわせ平等とする)された」とする解釈があるが、それを智証大師円珍は授決集の中で「始めの華厳経から終りの般若経にいたるまでの、化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)と化法の四教(蔵・通・別・円)の八教のうちにある権・実の諸大乗経を漸頓(法は<傍>頓だが、所化の機は<傍>漸)にとどまっているといい、これらの八教の意義を明らかにして一大円教としたのを泯合というのである」と解釈している。また法華経の寿量品に「小法を信ずる徳薄く罪の重い者」という文があるが、天台大師は「この文に小法というのは、阿含等の小乗経でもなく、華厳等の諸大乗経でもない。法華経の後半、本門の寿量品にみられる久遠実成の教えを説かない華厳の円教ならびに方等・般若はもちろん法華経の前半の迹門十四品の円頓の大法までは小乗の法と位置づけられる。また華厳経等の諸大乗経を説いた教主の盧遮法身・盧舎報身、さらには真言の教主の大日如来でさえも、ことごとく小仏にすぎないのである」と解釈している。
[3]この天台大師の解釈によるならば、法華経の本門を基準とすると涅槃経・大日経などの大乗・小乗、権教・実教、顕教・密教などの諸の経はいずれもみな小乗経となる。したがって、これらの諸経を依りどころとする八宗の中では倶舎宗・成実宗・律宗を小乗と言うばかりでなく華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗などの諸の大乗宗もまた小乗宗となり、ただ天台宗だけが実大乗宗であると言うべきこととなる。法華経以外の、諸の大乗宗の依りどころとする経典には声聞・縁覚も成仏するという二乗作仏と、釈尊の永遠性を示した久遠実成の二つの大法は説かれていない。たとえば、一尺二尺ぐらいの石を持ち上げる者は力持ちと言わないで、一丈二丈の石を持ち上げる者を力持ちと言うようなものである。華厳経で説く天地法界の万物は互いに融通しているという法界円融の思想と、それを修行する階位の十住・十行・十回向・十地・妙覚の四十一位や、般若経の九界所修の法と仏界の法とその性は二あることなく同一法性であるという混同無二の思想の内空・外空・内外空等の十八空および諸法皆空や、それを修行する乾慧地等の十地の位や、瓔珞経の十信・十住・十行・十回向・十地と等覚・妙覚の五十二位、仁王経の五十一位、薬師経の薬師如来の十二の大願、無量寿経の法蔵比丘の四十八願、大日経の真言や印契など、これらは小乗経に比較すれば大法であり秘法である。しかし、これを法華経の二乗作仏と久遠実成とに比較すれば小乗の法である。あたかも一尺二尺を一丈二丈に比べるようなものである。
[4]また法華経の二乗作仏と久遠実成の法門は、法華経の肝心肝要であって、これを諸経の法門と比較すればとりわけ<傍>すぐれた教え(奇の法門)であるが、法華経の中にはさらになみはずれて巧みな教え(奇妙なる法門)がある。一念三千という法門(仏の教説)こそ、奇が中の奇、妙が中の妙で、華厳経や大日経などには絶えてないばかりでなく、八宗の祖師達の中にも天台大師のほか、真言宗等の七宗の学者たちは名前さえ知らず、天竺の大学者である竜樹・天親でさえ、この一念三千の珠を深く胸の内にしまって、外には少しも書きあらわさなかったほどの法門である。
[5]しかしながら、劫比羅仙人かびらせんにんの弟子の筏里沙いりしやが、同じような考えを持つ者を集めて雨衆と名けて数論派すろんはを立て、仏教の貪・瞋・痴の三毒の教えにヒントを得てきん七十論を著作し、二十五諦を説いて自性に勇・塵・闇の三徳が具わっていると主張し、また勝論かつろん外道の米斉仙人が同じように仏教にヒントを得て実・徳・業・大有・同異性・和合の六句論を著作したように、華厳宗の澄観、真言宗の善無畏らは天台大師の一念三千の法門を換骨奪胎して、自分たちの宗旨のよりどころとしてしまい、華厳経の「心と仏と衆生との三は差別がない」という経文や、大日経の「心の実相」という経文の心としてしまい骨格としてしまったにもかかわらず、かえって天台宗をおとしめて、華厳宗や真言宗よりも劣ると言っている。これらの人々は物を取ったのではなく世間でいう盗人とはちがうが、仏教の法門を剽窃する大罪を犯した者である。このことをよく注意して明らかにしなければならない。
[6]また昨今の天台宗の学者や、諸宗の学者たちは、法華経はただ二乗作仏と久遠実成とを説いているばかりである、と主張している。それならば反問する。二乗作仏と久遠実成が法華経だけが持つ特徴であって、諸経にないことを承伏するのならば、この二つだけでも奇が中の奇ではないのか。もし二乗作仏が説かれなければ、釈尊の弟子の中でも行法第一の葉尊者、智慧第一の舎利弗尊者、神通力第一の目連尊者などの、いわゆる仏の十大弟子、方便品にみられる千二百人の羅漢、序品にみられる一万二千の声聞、寿量品に示される無数億の二乗界の人々は、過去はるか遠々劫の昔より、未来はるか無数劫の末まで、法華経に出会うことがなければ、灰身滅智して肉体も精神も皆滅皆空に帰すという小乗の悟りの境地に満足するばかりで、結局永久に成仏しないとのそしりをまぬがれないのである。仏教を修行する者として、なんと大きな欠点ではなかろうか。またもし二乗界が成仏しないならば、釈尊の在世に葉等を供養した梵天、帝釈、僧・尼・信男・信女の四衆、天・竜等の二界八番の者どもは、どのように身を処したらよいのであろうか。
[7]また久遠実成が法華経によってはじめて明らかにされなかったならば、十方三世の諸仏は、はかない無常のことわりによってうつろい行く<傍>はかない仏にすぎないことになってしまう。それは、ちょうど天に多くの星があっても月や太陽がなければ何ともしかたがない。地面に草木が生い茂っていても、大地がなければ枯れはててしまうにちがいない。これはあなたが、二乗作仏と久遠実成が法華経に限るすぐれた特徴であると認めていることに基づく結論である。
[8]もし事実について考えれば、二乗作仏が説かれなければ、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩の九界の衆生は仏になることができないのである。しかし法華経の心からすれば、法のおのずからの道理として十界すべての衆生にはそれぞれ十界を具えている。たとえば人間は誰でも必ず地・水・火・風の四大の元素から構成されており、その一元素が欠けても人間とはならない。人間のみならず、十界の環境世界と心身との二面を、心の働きを持たない草木や一微塵にいたるまで、すべてが十界を具えているのである。もし二乗界が仏になれないのであれば、その他の八界の中に具わる二乗界も仏になることができない。また八界の中の二乗界が成仏できなければ、他の八界も仏になることはできない。たとえば、両親がっている九人の兄弟があって、その中の二人が劣っている者ときめつけられれば、他の七人も劣っている者とされてしまうようなものである。仏と法華経は父母のようなものであり、九界の衆生は実の子供である。もし九人のうち声聞と縁覚の二人が永遠に成仏できないとされれば、兄の菩と下の六道の凡夫の七人は、どうして成仏の願いを聞き入れられようか。法華経の譬喩品に「いまこの世界はみな私の保有するところである。その中の衆生は一人残らず私の子である。しかし今この世界には色々な災いが絶えないが、ただ私一人だけがこれを救う本仏である」と釈尊は説かれているが、この文が明らかな証拠である。
[9]また菩は必ず「数限りない多くの衆生を教化せん。限りのない煩悩を断じ尽さん。限りのない法門を学び尽さん。この上ない仏道を成就せん」という四つの大いなる誓願を起こしている。しかし、もし菩が第一の衆生教化の誓願を成就しなければ、当然、最後の仏道成就の願も成就するはずがない。法華経以前の諸経では「菩や凡夫は仏になれるが、声聞乗・縁覚乗の二乗は永久に仏になれない」と説かれている。だから、賢い菩も愚かな地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の凡夫も、自分達は仏になれるが二乗はなれないから、私達はあの二乗の道に入らなかったのは賢明だったと喜ぶ。また二乗は嘆き悲しんで、この道に入らなければよかったなあと、恐れ悲しんでいたが、今、法華経が説かれるに至って、はじめて成仏が許されたとき、ただ二乗が成仏するばかりでなく、菩以下の九界全体が成仏することを説き明かした。諸の菩はこの法門を聞いて思ったのは、自分達が思い違いをしていたことである。すなわち、法華経以前の諸経で二乗が成仏できないのならば、四弘誓願が満足しないのだから、自分達も成仏できない。このため二乗が永久に成仏できないと説かれたのは、二乗だけが嘆き悲しむべきことではなく、自分達も同じように悲しまなければならないことに思い至ったのである。
[10]また寿量品の久遠実成が法華経以前の諸経に説かれないことについて思いめぐらすと、ただその事実にとどまらず、釈尊は天下第一の大きな偽りを語った人になってしまう。なぜならば法華経以前の諸大乗経の中で第一といわれる華厳経には「苦行を経た後、いま<傍>始めて正覚を成じた」とあり、また大日経には「われ昔、<傍>菩提樹の下に坐して正覚を得た」とあり、さらに「真実この上なく正直に方便を捨てた」無量義経にも「われ<傍>始めて道場にして正覚を得た」とあり、さらに法華経前半の迹門の方便品でさえも「われ<傍>先に道場にして正覚を得た」と説かれている。これらの経文は法華経寿量品に「しかるにわれ実に成仏してより已来このかた、無量無辺なり」と説かれた経文と比較して考えてみれば、どうしても大きな偽りの言葉ではないだろうか。釈尊の一身は大きな偽りを語る身になってしまう。その身に備えている眼・耳・鼻・舌・身・意の六根の諸法も真実であるはずがあろうか。氷の上に建てられた家屋は、春になって氷が解ければ倒れるに決っている。水に映った満月には実体があるはずがない。法華経以前に説かれた成仏・往生は、水中の星や月のようなもの。法華経以前の成仏・住生は、久遠実成の本仏の影にすぎない。本門寿量品から見れば、寿量品の判断を離れては、円教から保証された得道も、それぞれの経典で示された得道もただ名ばかりで実際の利益はない。
[11]二乗作仏と久遠実成、そしてその理論的根幹ともいえる一念三千の法門を天台大師一人だけが大蘇山の法華道場において悟って、法華玄義十巻、法華文句十巻、摩訶止観十巻に著作し、二乗作仏・久遠実成が法華経以外の諸経にないことを書き示した。これは当時の中国に展開していた江南の三師と北地の七師が釈尊の生涯にわたる説法の勝劣浅深に迷って、江南では、法師の三時教、宗愛法師の四時教、僧柔法師の五時教、北地では、仏陀三蔵らの四宗教、自軌法師らの五宗教、凛法師らの六宗教、北地禅師らの一音教、菩提流支の半満二教、光統の三教、四教の七家の説などがあって、十派はそれぞれ間違った学説に終始していたが、法華経が最も勝れていることと、各師が誤っていることを明確にするために、最も明瞭な超勝点である二乗作仏と久遠実成とによって法華経と諸経の勝劣を定めたのである。しかしながら、二乗以外の他の菩・凡夫などの七界の得道を許すわけではない。
[12]その後に華厳宗が起こって五教判を立て、また法相宗が起こって三時教を立て、さらに真言宗は顕密二教判・五蔵教判・十住心教判を立て、また大日経義釈には四句教判によって釈尊一代の説法を判じているが、これらは南三北七の考え方よりもなお誤った考え方である。これらは天台法華宗のことではなく他宗の学者のことであるからしばらく置くとして、自宗の学者のうちで天台・妙楽・伝教の解釈を誤解して、法華経以前の諸経には二乗作仏や久遠実成はないが、他の七界の得道はあり得るなどと述べる者が一人二人でなく多く出てきて、日本国における主張の一つとなった。そのために、他宗の人々はこれをよい事にして、いよいよ天台法華宗が損なわれて行く結果となったのである。これらの学者はちょうどトンボが蜘蛛の網にひっかかり、のどのかわいた鹿が陽炎を水だと思って追いかけるのより愚かなことである。例えば源頼朝が文治五年陸奥守藤原泰衡を討つためにだまして弟の義経を討たせ、太政入道平清盛は、源氏を滅して天下を取るために、保元元年に実の伯父にあたる平馬介忠正を六条河原に斬り、源義朝も平忠正にだまされて実父の為義を殺したようなものである。これらは愚かな人々の実例である。
[13](今の天台宗の学者もそれと同じで)天台大師が法華経以外の経々には二乗作仏・久遠実成は決してないと解釈しているのを見ても、菩の成仏と凡夫の往生はその他の経にもあるようだと思って、自分たちは二乗でないから法華経以前の経々でも成仏できるであろう、という思いを心の中に持ってしまった。中でも観無量寿経の説く九品往生は願いやすいことなので、法華経を投げすてて念仏を唱えて浄土に生まれて、観音・勢至・阿弥陀如来の浄土の三尊に会い奉り成仏をとげられると思っている。いまの天台宗の人々をはじめとして、諸宗の学者もみなこのように思っている。しかし真実を申し述べれば、すべての衆生の成仏のことはもちろん、六道の迷いの世界をのがれて十方の仏の浄土に往生することができるのは、必ず法華経の力なのである。例えば日本国の人が、中国の宮廷に入ろうとするならば、必ず日本国王の勅掟ちよくじようをあおがなければならないのと同じである。穢土えどをはなれて浄土に入るには、ぜひとも法華経の力に依らねばならない。それはあたかも、一般民衆の娘でも関白大臣の娘でも、大王の血筋さえ宿せば、産んだ子供は必ず王となるが、もし大王の娘でも臣下の血筋を宿したのでは、その子は王となれないようなものである。このように、たとえ諸経によって十方の浄土に往生したとしても、三乗・人天・畜生に至るまでも、法華経の王種となって生まれるのである。それは、みな仏となるはずだからである。このため法華経が王種なのに対して、阿含経は民と民との縁結びであり、華厳・方等・般若等は臣下同志の縁結びであり、また華厳・方等・般若・大日経等のうち、円満教に属する菩等は、大王の娘が臣下を夫に持ったようなもので、その血筋では大王になれないようなものである。それらの教えは、浄土に生まれることができる法ではないのである。
[14]また法華経が説かれる以前に、華厳・阿含・方等・般若等の諸経を聞いて六道のりんねから解脱げだつする者もあるが、これは決してそれらの経々の力によるのではない。過去の世において法華経を聞いて成仏すべき種を植えつけてあった人が、現世で法華経の説法を聞く前に、機根が成熟して諸経を縁として、過去に植えた法華経の種が芽をふいて成仏往生したものである。ちょうど二乗の中の縁覚が仏のいない世に生まれて、風に散る花や落ち葉などを見て無常を悟ったり、また父母に孝養した者が、その善根の果報として欲界を離れた天に生まれるようなものである。しかし、これらは散る花や落ち葉、父母の孝養などが悟りを得ることや梵天に生まれる原因ではないわけではないが、ただそれらの事実が縁となって、過去に植えつけておいた因を誘い出して、梵天に生まれたり、無常について悟って独覚の果を得たのである。しかしながら、過去の世に小乗教の三賢・四善根等の凡位にさえ入らず、天上界に生まれる因である世間的禅定さえ修し得ない者は、たとえ月を観じ花を詠じ、また父母に孝養をつくしたとしても、独覚の果も得ないし天にも生まれないのである。過去に法華経の種を植えていない者は、華厳経を聞いても悟りの入り口である初地・初住の位にも登ることができないし、鹿野苑で説いた阿含経を聞いても見思の惑さえ断ちきることができないし、また観無量寿経等を聞いても九品の往生も遂げられず、ただ大乗小乗の賢人の位には登れるが、それ以上の聖なる位階には登ることができないのである。これらの人々も法華経の説法によってはじめて成仏すべき種を心の田地に植えて、一生の間に菩の初地・初住等の位に登るものもあれば、また涅槃経の説法の時までくだり、さらに仏の滅後未来の世に至って得道する者もある。
[15]過去に法華経の成仏の種を植えた人々は、結縁の厚薄にしたがって、初めの華厳経を縁として初地・初住の位階に登る人もあり、縁の薄い人々は阿含経を縁として見思の惑を断ちきって二乗となる者もあり、さらに観無量寿経等の九品の修行を縁として往生するものもあり、また方等部の諸経や般若部の諸経を縁として得脱する者も、これらの例によって知るべきである。しかしながらこれら諸経による得脱は、それぞれの諸経の力に依るのではなく、ひとえに法華経の力によるのである。それはちょうど一般民衆の娘に王の種が宿っていることを知らないで、それを単に一般民衆の子だと思い、また大臣らの娘に王の種が宿っていることを知らないで、やはり臣下の子だと思っていたところに、王からその事実を尋ね知るならば、はじめて王の種を宿したことを知るようなものである。このため、法華経以前の諸経に依って、三界をはなれ、六凡をはなれて、四聖の位に登った人々を法華経から尋ね知るならば、きっと、ことごとく法華経の下種結縁による得道なのであろう。また過去の世に法華経の種を下された人であっても、なかなか得脱できない鈍根であったために、法華経以前の経々によって得道の芽ばえのない人々は、法華経に至って得道することができるのである。これは法華経以前の経々を乳母として、法華経によって成熟をとげたのであり、それはあたかも王后の産んだ太子が乳母に育てられて皇太子となったようなものである。
[16]また仏の入滅後においても、正法・像法・末法の三時の中、はじめの正法一千年の間は、仏の在世の時と同様というわけにはいかないけれども、過去に法華経の種を植えた人で、法華経・涅槃経で悟るまでいかなかった者、現在の在世に法華経を下種された人々も少なくない。また仏の入滅の後であっても、実際に法華経が存在するのであるから、外道の教えから小乗経に移り変わり、小乗経から権大乗へ移り変わり、権大乗より法華経に進む人も数多くある。竜樹菩・無著菩・世親論師らがその例である。正法の次の像法の一千年の間は正法の時代のようではないけれども、また過去や霊鷲山での法華経の会座えざにて法華経の種を植えた人々も少しはある。しかしながら、次第に仏法の利益がうすくなっていくにつれて、宗派同志のかたよった考え方も石のように固くなり、思いあがりの心は山のように高くなっている。いよいよ像法の時代の中でも末の頃になると、仏法による論争がさかんに行なわれて、その論争はとどまることを知らない。一般世間的な罪よりも、仏法をそこなう罪によって地獄の最下層の無間地獄に堕ちる者がはかりしれなく存在する。現在になると末法に入って二百余年をすぎ、過去世や霊鷲山の説法の場で法華経を下種した人はすでに尽きてしまった。また下種した人も少しはあるだろうが、一般世間の大悪人は数を知らず、出世間の仏道の中でも仏法をそしる者は数多く国中に充満している。それはあたかも、大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の真水、大地の中の金などのように、下種された人は少なく、仏法をそしる悪業の人のみが多く存在するのである。またこれらの人々は過去の善業もなく、現在の善業の兆候さえないのである。
[17]あるいは阿弥陀仏の名号を唱えれば往生極楽疑いなしと人心を動して法華経を捨てさせるから、上には背き下にはそしる罪を作らせる念仏宗がある。あるいは禅宗を立てて教外別伝きようげべつでんと主張して、経典の他に仏の真実があるなどと唱えて仏教をおとしめ思い上がりの心を起こしている。また法相宗・三論宗・華厳宗を立てて、それぞれの教判によって法華経をおとしめ、また、真言宗、大日宗と称して、法華経は応身の釈如来の説いた顕教けんぎようで、大日法身の説いた真言密教にはとてもかなわないなどといっている。このようなことであるから、自然と法門に迷う者もあり、また誤った師について迷う者もあり、また諸宗の元祖や、インドの論師や、中国・日本の学者の間違った考え方を、永い間真実の法だと伝えているものがあり、また、悪鬼や天魔が身にとりついているので、悪法を布教しているのに正しい法だと信じてしまっている者もあり、また小乗の中でもほんのごく一部だけを知っているだけなのに、大乗仏教の大法を修行する者を間違っていると思い違って自分だけが正しいと思い上っている者は、自分の小さな法の主張を広めるために、大法秘法を布教しようとしている山寺を抑え取ろうとする者もあり、また慈悲魔という魔がとりついて、三衣一鉢さんねいつぱつを身にまとい、小乗の一法を修行するやからが、わずかの小法を持つという分際を知らずに、日本国の仏教の棟梁である比叡山の智行を合わせ備えた高僧の僧たちを、わずかなところで自分の教えとちがっているのをみて、邪見の人であり悪人であるなどと思いこんでしまっている。このような悪見によって国主をたぶらかして、だまし惑わせて、次第に正法に帰依しないようにしむけ、かえって国を破り仏に背く重い罪の因縁を作ったのである。殷の紂王の妃の妲己や周の幽王の妃の褒は、心だてもやさしく容姿も万人にすぐれていたが、殷の紂王や周の幽王などの愚かな王は、これにれて国を亡ぼす原因となったのである。これと同じように、今の世の禅師・律師・念仏者などと名乗っている聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥などという法師たちは、家鳩が糞などのきたないものを好んで食べるようなもの、西施という美人が呉の国の王夫差ふさをたぶらかしたようなものである。あるいは小乗の取るに足らない戒律をたもって、(鎌倉殿をたぶらかし、国中をあざむいているようなものである。)