小乗大乗分別鈔
136 小乗大乗分別鈔
夫小大定なし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云、五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云。
外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云。大法東漸 通指仏教 以為大法等と釈する是也。
仏教に入ても鹿苑十二年の説、四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して、小乗経と名たり。
又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云。華厳の大乗経に其余楽小法と申文あり。天台大師はこの小法といふは常の小乗経にはあらず、十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名と釈し給へり。
又法華経第一巻方便品に若以小乗化乃至於一人と申文あり。天台妙楽は阿含経を小乗というのみにあらず、華厳経の別教、方等・般若経の通別の大乗をも小乗と定む。又玄義の第一に会小帰大是漸頓泯合と申釈をば、智証大師は始め華厳経より終り般若経にいたるまでの四教・八教権実諸大乗経を漸頓と釈す。泯合と云者八教を会して一大円教に合とこそことはられて候へ。
又法華経の寿量品に楽於小法徳薄垢重者と申文あり。天台大師は此経文に小法と云は小乗経にもあらず、又諸大乗経にもあらず、久遠実成を説ざる華厳経の円乃至方等・般若・法華経の迹門十四品の円頓大法まで小乗の法也。又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那・盧舎那・大日如来等をも小仏也と釈し給ふ。
此心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小権実顕密の諸経は皆小乗経。八宗の中に倶舎宗・成実宗・律宗を小乗と云のみならず、華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として、唯天台宗一宗計実大乗宗なるべし。
彼彼の大乗宗の所依の経経には絶て二乗作仏・久遠実成最大法をとかせ給はず。譬ば一尺二尺の石を持者をば大力といはず、一丈二丈の石を持を大力と云が如し。華厳経の法界円融四十一位・般若経の混同無二十八空・乾慧地等の十地・瓔珞経の五十二位・仁王経の五十一位・薬師経の十二大願・双観経の四十八願・大日経の真言印契等、此等は小乗経に対すれば大法・秘法也。法華経二乗作仏・久遠実成に対すれば小乗の法也。一尺二尺を一丈二丈に対するがごとし。
又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云へども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。一念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて、華厳・大日経等に分絶たるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師名をだにもしらず、天竺の大論師龍樹菩薩・天親菩薩は内には珠を含、外にはかきあらわし給ざりし法門なり。而を雨衆が三徳・米斉が六句の先仏の教を盜みとれる様に、華厳宗の澄観・真言宗の善無畏等は天台大師の一念三千の法門を盜取て、我所依の経の心仏及衆生の文の心とし、心実相申文の神とせるなり。かくのごとく盜取て、我宗の規模となせるが、又還て天台本宗をば下して、華厳宗・真言宗には劣れるなりと申す。此等の人師は世間の盜人にはあらねども仏法盜人なるべし。此等をよくよく尋ね明むべし。
又世間の天台宗の学者並に諸宗の人人の云、法華経は但二乗作仏・久遠実成計也等[云云]。今反詰して云、汝等が承伏に付て、但二乗作仏と久遠実成計法華経にかぎて諸経になくば、此なりとも豈奇が中の奇にあらずや。二乗作仏諸経になくば、仏の御弟子頭陀第一の迦葉・智慧第一の舎利弗・神通第一の目連等の十大弟子・千二百の羅漢・万二千の声聞・無数億の二乗界、過去遠遠劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値たてまつらずば、永く色心倶に滅して永不成仏の者となるべし。豈大なる失にあらずや。又二乗界仏にならずば、迦葉等を供養せし梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界八番の衆はいかんがあるべき。又久遠実成が此経に限らずんば、三世の諸仏無常遷滅の法に堕しなん。譬ば天に諸星ありとも日月ましまさずんばいかんがせん。地に草木ありとも大地なくばいかんがせん。是は汝が承伏に付ての義也。
実をもて勘へ申さば、二乗作仏なきならば、九界の衆生仏になるべからず。法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり。譬ば人一人は必ず四大を以てつくれり。一大かけなば人にあらじ。一切衆生のみならず、十界の依正の二法、非情草木一微塵にいたるまで皆十界を具足せり。二乗界仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず。又余界の中の二乗界仏にならずば、余界の八界仏になるべからず。譬ば父母ともに持たる者兄弟九人あらんか、二人は凡下の者と定められば、余の七人も必ず凡下の者となるべし。仏と経とは父母の如し。九界の衆生は実子なり。声聞縁覚の二人永不成仏の者となるならば、菩薩・六凡七人あに得道をゆるさるべきや。今此三界皆是我有。其中衆生悉是吾子。乃至唯我一人能為救護の文をもて知べし。
又菩薩と申は必四弘誓願ををこす。第一衆生無辺誓願度の願成就せずば、第四の無上菩提誓願証の願は成べからず。前四味の諸経にては菩薩凡夫は仏になるべし。二乗は永く仏になるべからず等[云云]。而をかしこげなる菩薩も、はかなげなる六凡も共に思へり、我等仏になるべし。二乗は仏にならざればかしこくして彼道には入ざりけると思ふ。二乗はなげきをいだき、此道には入まじかりし者をと恐れかなしみしが、今法華経にして二乗を仏になし給へる時、二乗仏になるのみならず、かの九界の成仏をもときあらはし給へり。諸菩薩此法門を聞て思はく、我等が思ひははかなかりけり。爾前の経経にして二乗仏にならずば、我等もなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説給ふは二乗一人計なげくべきにあらざりけり。我等も同じなげきにてありけりと心うる也。
又寿量品の久遠実成が爾前の経経になき事を以て思ふに、爾前には久遠実成なきのみならず、仏は天下第一の大妄語の人なるべし。爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に始成正覚 我昔坐道場等[云云]。真実甚深正直捨方便無量義経と法華経の迹門には我先道場 我始坐道場と説れたり。此等の経文は寿量品の然我実成仏已来無量無辺の文より思見ればあに大妄語にあらずや。仏の一身すでに大妄語の身也。一身に備たる六根の諸法あに実なるべきや。大冰の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや。水中の満月は実に体ありや。爾前の成仏・往生等は水中の星月の如し。爾前の成仏・往生等は体に随ふ影の如し。本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節・当分得道共に有名無実なり。
天台大師此法門を道場にして独り覚知し、玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給に、諸経に二乗作仏・久遠実成絶てなき由を書をき給ふ。是は南北の十師が教相に迷て、三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教・四教等を立てて教の浅深勝劣に迷し、此等の非義を破んが為に、まづ眼前たる二乗作仏・久遠実成をもて諸経の勝劣を定め給也。然りと云て余界の得道をゆるすにはあらず。其後華厳宗の五教、法相宗の三時、真言宗の顕密・五蔵・十住心、義釈の四句等は南三北七の十師の義よりも尚悞れる教相也。此等は他師の事なればさてをきぬ。
又自宗の学者、天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷て、爾前の経経には二乗作仏・久遠実成計こそ無れども、余界の得道は有なんど申人人、一人二人ならず日本国に弘まれり。他宗の人人是に便を得て弥天台宗を失ふ。此等の学者は譬ば野馬の蜘蛛の網にかゝり、渇鹿の陽炎をおふよりもはかなし。例せば頼朝右大将家泰衡を打がために、泰衡を狂て義経を打せ、大将の入道清盛源氏を喪て世をとらんが為に、我伯父平馬介忠正を切る。義朝はたぼらかされて慈父為義を切るが如し。此等は墓なき人人のためしなり。天台大師法華経より外の経経には二乗作仏・久遠実成は絶てなしなんど釈し給へば、菩薩の作仏・凡夫の往生はあるなんめりとうち思て、我等は二乗にもあらざれば爾前の経経にても得道なるべし。此念心中にさしはさめり。其中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば、法華経をばなげすて、念仏申して浄土に生れて、観音・勢至・阿弥陀仏に値たてまつりて成仏を遂べしと[云云]。当世の天台宗の人々を始として諸宗の学者かくのごとし。
実義をもて申さば、一切衆生の成仏のみならず、六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力也。例せば日本国の人唐土の内裏に入らん事は、必ず日本の国王の敕定によるべきが如し。穢土を離れて浄土に入事は、必法華経の力なるべし。例せば民の女乃至関白大臣の女に至るまで、大王の種を下せば、其産る子王となりぬ。大王の女なれども、臣下の種を懐妊せば、其子王とならざるが如し。十方の浄土に生るる者は三乗人天畜生等までも、皆王種姓と成て生るべし。皆仏となるべきが故也。
阿含経は民の女の民を夫とし、華厳・方等・般若等は臣の女の臣を夫とせるが如し。又華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は王女の臣下を夫とせるが如し。皆浄土に生るべき法にはあらず。
又華厳・阿含・方等・般若等の経々の間に六道を出る人あり。是は彼々の経々の力には非ず。過去に法華経の種を殖たりし人、現在に法華経を待ずして機すゝむ故に、爾前の経経を縁として、過去の法華経の種を発得して、成仏往生をとぐるなり。例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し、孝養父母の者の梵天に生るるが如し。飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねども、かれを縁として過去の修因を引おこし、彼の天に生じ、独覚の菩提を証す。而に尚過去に小乗の三賢四善根にも入らず、有漏の禅定をも修せざる者は、月を観じ、花を詠じ、孝養父母の善を修すれども、独覚ともならず、色天にも生ぜず。過去に法華経の種を殖ざる人は、華厳経の席に侍りしかども初地初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず、観経等にても九品往生をもとげず、但大小の賢位のみに入て聖位にはのぼらずして、法華経に来て始て仏種を心田に下して、一生に初地初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり。
過去に法華経の種を殖たる人々は、結縁の厚薄に随て、華厳経を縁として初地初住に登人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗となる者あり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり。方等般若も此をもて知ぬべし。此等は彼彼経経の力にはあらず、偏法華経の力也。譬ば民の女に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ、大臣等の女に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へども、大王より是を尋ぬれば皆王種となるべし。爾前にして界外へ至る人を、法華経より之を尋ぬれば皆法華経の得道なるべし。又過去に法華経の種を殖たる人の根鈍にして、爾前の経経に発得せざる人人は法華経にいたりて得道なる。是は爾前の経経をばめのと(乳母)として、きさき(后)腹の太子・王子と云が如くなるべし。
又仏の滅後にも、正法一千年が間は在世の如くこそなけれども、過去に法華経の種を殖て法華・涅槃経にて覚のこせる者、現在在世にて種を下せる人人も是多し。又滅後なれども現に法華経ましませば、外道の法より小乗経にうつり、小乗経より権大乗にうつり、権大乗より法華経にうつる人々数をしらず。龍樹菩薩・無著菩薩・世親論師等是也。
像法一千年には正法のほどこそ無れども、又過去現在に法華経の種を殖たる人々も少少有之。而を漸漸に仏法澆薄になる程に、宗宗も偏執石の如くかたく、我慢山の如く高し。像法の末に成ぬれば、仏法によて諍論興盛して仏法の合戦ひまなし。世間の罪よりも、仏法の失に依て無間地獄に堕る者数をしらず。
今は又末法に入て二百余歳、過去現在に法華経の種を殖たりし人人もやうやくつきはてぬ。又種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出世の謗法者数をしらず国に充満せり。譬ば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の水、大地の中の金なんどの如く、悪業とのみなりぬ。又過去の善業もなきが如く、現在の善業もしるしなし。
或は弥陀の名号をもて人を狂はし、法華経をすてしむれば、背上向下のとがあり。或は禅宗を立てて教外と称し、仏教をば真の法にあらずと蔑如して増上慢を起し、或は法相・三論・華厳宗を立て法華経を下し、或は真言宗大日宗と称して、法華経は釈迦如来の顕教にして真言宗に及ばず等[云云]。而るに自然に法門に迷者もあり、或は師師に依て迷者もあり、或は元祖・論師・人師の迷法を年久く真実の法ぞと伝へ来る者もあり、或は悪鬼天魔の身に入かはりて、悪法を弘て正法とをもう者あり、或ははづか(僅)の小乗一途の小法をしりて、大法を行ずる人はしからずと我慢して、我小法を行ぜんが為に、大法秘法の山寺をおさへとる者もあり、或は慈悲魔と申魔身に入て、三衣一鉢を身に帯し、小乗の一法を行ずるやから、わづかの小法を持て、国中棟梁たる比叡山龍象の如なる智者どもを、一分我教にたがへるを見て、邪見の者悪人なんどうち思へり。
此悪見をもて国主をたぼらかし、誑惑して、正法の御帰依をうすうなし、かへ(却)て破国破仏の因縁となせるなり。かの姐己褒姒なんと申せし后は心もをだやかに、みめかたち人にすぐれたりき。愚王これを愛して国をほろぼす縁となる。当世の禅師・律師・念仏者なんと申聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申法師等は鳩鴿が糞を食するがごとく、西施が呉王をたぼろかしゝににたり。或は我小乗臭糞の驢乳の戒を持て。