神国王御書
書下し
神国王御書
[1]〔それおもんみれば、日本国をまたは水穂の国、または野馬台、または秋津嶋、または扶桑等と云ふ〕云云。六十六国・二つの嶋、已上六十八ケ国。東西三千余里、南北は不定なり。この国に五畿七道あり。五畿と申すは山城・大和・河内・和泉・摂津等なり。七道と申すは東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七ケ国・山陰道八ケ国・山陽道八ケ国・南海道六ケ国・西海道十一ケ国。〔また鎮西、または太宰府と云ふ〕云云。已上これは国なり。国主をたづぬれば、神代十二代は天神七代・地神五代なり。天神七代の第一は国常立尊、乃至、第七は伊奘諾尊、男なり。伊奘册尊、妻なり。地神五代の第一は天照太神、伊勢太神宮日の神これなり。いざなぎ・いざなみの御女なり。乃至、第五は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊。この神は第四のひこほの御子なり。母は竜の女なり。已上地神五代。已上十二代は神世なり。人王は大体百代なるべきか。その第一の王は神武天皇、これはひこなぎさの御子なり。乃至、第十四は仲哀天皇〈八幡の御父なり〉。第十五は神功皇后〈八幡の御母なり〉。第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子。今の八幡大菩薩なり。乃至、第二十九代は宣化天皇なり。この時まで月氏・漢土には仏法ありしかども、日本国にはいまだわたらず。
[2]第三十代は欽明天皇。この皇は第二十七代の継体の御嫡子なり。治三十二年。この皇の治十三年〈壬申〉十月十三日〈辛酉〉、百済国の聖明皇、金銅の釈迦仏を渡し奉る。今日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申すこれなり。〔その表文に云く、「臣聞く、万法の中には仏法最も善し。世間の道にも仏法最も上なり。天皇陛下もまた修行あるべし。故に敬て仏像・経教・法師を捧げて使に附して貢献す。宜しく信行あるべき者なり」〕〈已上〉。しかりといへども、欽明・敏達・用明の三代三十余年は崇め給ふ事なし。その間の事さまざまなりといへども、その時の天変地夭は今の代にこそにて候へども、今はまたその代にはにるべくもなき変夭なり。
[3]第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまり給いき。この時、三論宗と成実宗と申す宗、始めて渡つて候ひき。この三論宗は、月氏にても漢土にても日本にても、大乗の宗の始めなり。故に宗の母とも、宗の父とも申す。人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給ふ。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、ただ律宗ばかりを弘めて、天台法華宗は弘通なし。
[4]人王第五十代に最澄と申す聖人あり。法華宗を我と見出して、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗をせめをとし給ふのみならず、漢土に大日宗と申す宗ありとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて、四宗をならいわたし給ふ。いわゆる法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗なり。しかりといへども、法華宗と律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給はず。真言宗をば宗の字をけづり、たゞ七大寺等の諸僧に灌頂を許し給ふ。しかれども世間の人々は、いかなる故という事をしらず。当時の人々の云く、この人は漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくはしく知し食し給はざりけるか、とすい(推)し申すなり。
[5]同じき御宇に空海と申す人、漢土にわたりて真言宗をならう。しかりといへども、いまだこの御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に、弘仁十四年〈癸卯〉正月十九日に、真言宗の住処東寺を給ひて護国教王院とがうす。伝教大師御入滅の一年の後なり。人王五十四代仁明天皇の御宇に、円仁和尚漢土にわたりて、重ねて法華・真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に、仁寿と斉衡とに金剛頂経の疏・蘇悉地経の疏、已上十四巻を造りて、大日経の義釈に並べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に捴持院を建立し、真言宗を弘通する事この時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼たり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくといいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼て兼学し給ひけり。大衆もまたかくのごとし。同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐。漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝す。この人は、本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に、法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、また東寺の真言をも習ひ給へり。その後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の法華・真言の元祖智証大師これなり。已上四大師なり。捴じて日本国には真言宗にまた八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。
[6]人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は太政入道の女建礼門院なり。この王は元暦元年〈乙巳〉三月二十四日、八嶋にして海中に崩じ給ひき。この王は源頼朝将軍にせめられて、海中のいろくづの食となり給ふ。人王八十二代は隠岐の法皇と申す、高倉の第三王子、文治元年〈丙午〉御即位。八十三代には阿波の院、隠岐の法皇の長子、建仁二年に位に継き給ふ。八十四代には佐渡の院、隠岐の法皇の第二の王子、承久三年〈辛巳〉二月二十六日に王位につき給ふ。同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。この二・三・四の三王は父子なり。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へるなり。
[7]ここに日蓮大に疑つて云く、仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日・月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり、三界の諸王は皆この釈迦仏より分ち給ひて、諸国の捴領・別領等の主となし給へり。故に梵・釈等はこの仏を、或は木像、或は画像等にあがめ給ふ。須臾も相背かば、梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり(冠)落ち給ふべし。神と申すはまた国々の国主等の崩御し給へるを、生身のごとくあがめ給う。これまた国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時もそむかば国安穏なるべからず。これを崇むれば、国は三災を消し七難を払ひ、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給ふべし。
[8]しかるに我が日本国は一閻浮提の内、月氏・漢土にもすぐれ、八万の国にも超へたる国ぞかし。その故は月氏の仏法は、西域(記)等に載せられて候にはただ七十余ケ国なり。その余は皆外道の国なり。漢土の寺は十万八千四十所なり。我朝の山寺は十七万一千三十七所。この国は月氏・漢土に対すれば、日本国に伊豆の大嶋を対せるがごとし。寺をかずうれば漢土・月氏にも雲泥すぎたり。かれはまた大乗の国・小乗の国、大乗も権大乗の国なり。これは寺ごとに八宗・十宗をならい、家々宅々に大乗を読誦す。かの月氏・漢土等は仏法を用ふる人は千人に一人なり。この日本国は外道一人もなし。その上、神はまた第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等の三千余社。昼夜に我が国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給ふ。その上、天照太神は内侍所と申す明鏡にかげをうかべ、大裏にあがめられ給ひ、八幡大菩薩は宝殿をすてて、主上の頂を栖とし給ふと申す。
[9]仏の加護と申し、神の守護と申し、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は、相伝の所従等にせめられて、或は殺され、或は嶋に放たれ、或は鬼となり、或は大地獄には堕ち給ひしぞ。日本国の叡山・七寺・東寺・園城等の十七万一千三十七所の山々寺々に、いさゝかの御仏事を行ふには、皆天長地久、玉体安穏とこそいのり給ひ候へ。その上、八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり。人王第四十八代に高野天皇の玉体に入り給ひて云く、〔我が国家開闢以来、臣をもつて君となすこといまだあらざる事なり。天之日嗣は必ず皇緒を立つ〕等云云。また〔太神、行教に付して云く、我に百王守護の誓あり〕等云云。されば神武天皇より已来百王にいたるまでは、いかなる事ありとも玉体はつゝがあるべからず。王位を傾くる者もあるべからず。一生補処の菩薩は中夭なし。聖人は横死せずと申す。いかにとして彼々の四王は王位ををいをとされ、国をうばわるるのみならず、命を海にすて、身を嶋々に入れ給ひけるやらむ。天照太神は玉体に入りかわり給はざりけるか。八幡大菩薩の百王の誓はいかにとなりぬるぞ。
[10]その上、安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道並に一門怠状を捧げて云く〔彼の興福寺をもつて藤氏の氏寺となし、春日の社をもつて藤氏の氏神となせしがごとく、延暦寺をもつて平氏の氏寺と号し、日吉の社をもつて平氏の氏神と号す〕云云。叡山には明雲座主を始として三千人の大衆、五壇の大法を行ひ、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽さずという事なし。また承久の合戦の御時は天台座主慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催し、日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行なわれ給ふ。いわゆる承久三年〈辛巳〉四月十九日に十五壇の法を行はる。天台座主は一字金輪法等。五月二日は仁和寺の御室、如法愛染明王法を紫宸殿にて行ひ給ふ。また六月八日には御室、守護経法を行ひ給ふ。已上四十一人の高僧十五壇の大法、この法を行ふ事は日本に第二度なり。権大夫殿はこの事を知り給ふ事なければ、御調伏も行ひ給はず。またいかに行ひ給ふとも、かの法々、かの人々にはすぐべからず。仏法の御力と申し、王法の威力と申し、彼は国王なり、三界の諸王守護し給ふ。此は日本国の民なり、わづかに小鬼ぞまほりけん。代々の所従、重々の家人なり。譬へば王威を用ひて民をせめば、鷹の雉をとり、猫のねずみを食ひ、蛇がかへるをのみ、師子王の兎を殺すにてこそあるべけれ。なにしにか、かろがろしく天神地祇には申すべき。仏・菩薩をばをどろかし奉るべき。師子王が兎をとらむに精進をすべきか。たかがきじを食はんにいのりあるべしや。いかにいのらずとも、大王の身として民を失はんには、大水の小火をけし、大風の小雲を巻くにてこそあるべけれ。その上、大火に枯木を加ふるがごとく、大河に大雨を下すがごとく、王法の力に大法を行ひ合せて、頼朝と義時との本命と元神とをば、梵王と帝釈等に抜取らせ給ふ。譬へば古酒に酔へる者のごとし。蛇の蝦の魂を奪ふがごとし。頼朝と義時との御魂・御名・御姓をばかきつけて、諸尊・諸神等の御足の下にふませまいらせていのりしかば、いかにもこらうべしともみへざりしに、いかにとして一年一月も延びずして、わずかに二日一日にはほろび給ひけるやらむ。仏法を流布の国の主とならむ人々は、能能御案ありて、後生をも定め、御いのりもあるべきか。
[11]しかるに日蓮、この事を疑ひしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並に諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し、勘へ見て候へば、故の候ひけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛へ、人の寿も長く、また仏法に付きて国もほろび、人の寿も短かるべしとみへて候。譬へば水は能く舟をたすけ、水は能く舟をやぶる。五穀は人をやしない、人を損ず。小波小風は大船を損ずる事かたし。大波大風には小舟やぶれやすし。王法の曲るは小波小風のごとし。大国と大人をば失ひがたし。仏法の失あるは大風大波の小舟をやぶるがごとし。国のやぶるゝ事疑ひなし。仏記に云く、我滅後、末代には悪法・悪人の国をほろぼし、仏法を失はんには失すべからず。譬へば三千大千世界の草木を薪として須弥山をやくに、やけず。劫火の時、須弥山の根より大豆計りの火出て須弥山をやくがごとく、我が法もまたかくのごとし。悪人・外道・天魔・波旬・五通等にはやぶられず。仏のごとく、六通の羅漢のごとく、三衣を皮のごとく身に紆い、一鉢を両眼にあてたらむ持戒の僧等と、大風の草木をなびかすごとくなる高僧等、我が正法を失ふべし。その時、梵・釈・日月・四天いかりをなし、その国に大天変・大地夭等を発していさめむに、いさめられずば、その国の内に七難ををこし、父母・兄弟・王臣・万民互に大怨敵となり、梟鳥が母を食ひ、破鏡が父をがいするがごとく、自国をやぶらせて、結句は他国よりその国をせめさすべしとみへて候。
[12]今日蓮、一代聖教の明鏡をもつて日本国を浮べ見候に、この鏡に浮んで候人々は、国敵・仏敵たる事疑ひなし。一代聖教の中に、法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮ぶるのみならず、心をも浮べ給へり。心を浮ぶるのみならず、先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし。法華経の第七の巻を見候へば、〔「如来の滅後において、仏の所説の経の因縁及び次第を知つて、義に随つて実のごとく説かん。日月の光明の能く諸の幽冥を除くがごとく、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」〕等云云。文の心は、この法華経を一字も一句も説く人は、必ず一代聖教の浅深と次第とを能々弁へたらむ人の説くべき事に候。譬へば暦の三百六十日をかんがうるに、一日も相違せば万日倶に反逆すべし。三十一字を連ねたる一句一字も相違せば、三十一字共に歌にてあるべからず。たとひ一経を読誦すとも、始め寂滅道場より終り双林最後にいたるまで、次第と浅深とに迷惑せば、その人は我が身も五逆を作らずして無間地獄に入り、これを帰依せん檀那も阿鼻大城に堕つべし。いかにいわんや、智人一人出現して一代聖教の浅深・勝劣を弁えん時、元祖が迷惑を相伝せる諸僧等、或は国師となり、或は諸家の師となりなんどせる人々、自らのきずが顕るゝ上、人にかろしめられん事をなげきて、上に挙ぐる一人の智人を、或は国主に訴へ、或は万人にそしらせん。その時、守護の天神等の国をやぶらん事は、芭蕉の葉を大風のさき、小舟を大波のやぶらむがごとしと見へて候。
[13]無量義経は、始め寂滅道場より終り般若経にいたるまでの一切経を、或は名を挙げ、或は年紀を限りて「未顕真実」と定めぬ。涅槃経と申すは、仏最後の御物語に、初め初成道より五十年の説教の御物語、四十余年をば無量義経のごとく邪見の経と定め、法華経をば我が主君と号し給ふ。中に法華経ましまして、已今当の勅宣を下し給ひしかば、多宝・十方の諸仏加判ありて、各々本土にかへり給ひしを、月氏の付法蔵の二十四人は、ただ小乗・権大乗を弘通して、法華経の実義を宣べ給ふ事なし。譬へば日本国の行基菩薩と鑑真和尚との、法華経の義を知り給ひて弘通なかりしがごとし。漢土の南北の十師は、内にも仏法の勝劣を弁へず、外にも浅深に迷惑せり。また三論宗の吉蔵・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩、これらの人々は、内にも迷ひ外にも知らざりしかども、道心堅固の人々なれば、名聞をすてゝ天台の義に付きにき。知らず、さればこの人々は懺悔の力に依りて生死やはなれけむ。はたまた謗法の罪は重く、懺悔の力は弱くして、阿闍世王・無垢論師等のごとく地獄にや堕ちにけん。
[14]善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は、一切の真言師の申すは、大日如来より五代六代の人々、即身成仏の根本なり等云云。日蓮勘へて云く、法偸の元師なり、盗人の根本なり。これらの人々は、月氏よりは大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を齎来る。この経々は華厳・般若・涅槃経等に及ばざる上、法華経に対すれば七重の下劣なり。経文に見へて赫々たり明々たり。しかるを漢土に来りて天台大師の止観等の三十巻を見て、舌をふるい心をまどわして、これに及ばずば我が経弘通しがたし。勝れたりといはんとすれば妄語眼前なり。いかんがせんと案ぜし程に、一つの深き大妄語を案じ出し給ふ。いわゆる大日経の三十一品を、法華経二十八品並に無量義経に腹あわせに合せて、三密の中の意密をば法華経に同じ、その上に印と真言とを加へて、法華経は略なり、大日経は広なり。已にも入れず、今にも入れず、当にもはづれぬ。法華経をかたうどとして三説の難を脱れ、結句は印と真言とを用ひて、法華経を打落して真言宗を立てゝ候。譬へば三女が后と成りて三王を喪せしがごとし。法華経の流通の涅槃経の第九に、「我れ滅して後、悪比丘等我が正法を滅すべし。譬へば女人のごとし」と記し給ひけへるはこれなり。されば善無畏三蔵は閻魔王にせめられて、鉄の縄七脈つけられて、からくして蘇りたれども、また死する時は黒皮隠々として骨甚だ露はると申して、無間地獄の前相をその死骨に顕はし給ひぬ。人死して後ち色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教の定むるところなり。金剛智・不空等もまたこれをもて知んぬべし。この人々は改悔はありと見へて候へども、強盛の懺悔のなかりけるか。今の真言師はまたあへて知る事なし。玄宗皇帝の御代の喪し事も不審はれて候。
[15]日本国はまた弘法・慈覚・智証、この謗法を習ひ伝へて自身も知ろしめさず、人はまたをもいもよらず。しばらくは法華宗の人々相論ありしかども、終には天台宗やうやく衰へて、叡山五十五代の座主明雲、人王八十一代の安徳天皇より已来は、叡山一向に真言宗となりぬ。第六十一代の座主顕真権僧正は、天台座主の名を得て真言宗に遷るのみならず、しかる後、法華・真言をすてゝ一向謗法の法然が弟子となりぬ。承久調伏の上衆慈円僧正は、第六十二代並に五・九・七十一代の四代の座主、隠岐の法皇の御師なり。これらの人々は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚・智証等の真言をば、器はかわれども一の智水なり。その上、天台宗の座主の名を盗みて、法華経の御領を知行して三千の頭となり、一国の法の師と仰がれて、大日経を本として七重くだれる真言を用ひて、八重勝れりとをもへるは、天を地とをもい、民を王とあやまち、石を珠とあやまつのみならず、珠を石という人なり。教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御怨敵たるのみならず、一切衆生の眼目を奪ひ取り、三善道の門を閉ぢ、三悪道の道を開く。梵・釈・日月・四天等の諸天善神、いかでかこの人を罰せさせ給はざらむ。いかでかこの人を仰ぐ檀那をば守護し給ふべき。天照太神の内侍所も、八幡大菩薩の百王守護の御ちかいも、いかでか叶はせ給ふべき。
[16]余、この由をかつ知りしより已来、一分の慈悲に催されて、ほぼ随分の弟子にあら〳〵申せし程に、次第に増長して国主まで聞えぬ。国主は理を親とし非を敵とすべき人にてをはすべきが、いかんがしたりけん、諸人の讒言ををさめて、一人の余をすて給ふ。彼の天台大師は南北の諸人あだみしかども、陳・隋二代の帝重んじ給ひしかば、諸人の怨もうすかりき。此の伝教大師は南都七大寺讒言せしかども、桓武・平城・嵯峨の三皇用ひ給ひしかば、怨敵もをかしがたし。今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用ひ給はざれば、万民あだをなす事、父母の敵にも超へ、宿世のかたきにもすぐれたり。結句は二度の遠流、一度の頭に及ぶ。彼の大荘厳仏の末法の四比丘、並に六百八十万億那由佗の諸人が、普事比丘一人をあだみしにも超へ、師子音王仏の末の勝意比丘の無量の弟子等が、喜根比丘をせめしにも勝れり。覚徳比丘がせめられし、不軽菩薩が杖木をかをほりしも、限りあればこれにはよもすぎじとぞをぼへ候。もし百千にも一つ日蓮法華経の行者にて候ならば、日本国の諸人、後生の無間地獄はしばらくをく、現身には国を失ひ他国に取られん事、彼の徽宗・欽宗のごとく、優陀延王・訖利多王のごとくならむ。またその外は、或はその身は白癩・黒癩、或は諸悪重病疑ひなかるべきか。もしその義なくば、また日蓮法華経の行者にあらじ。この身現身には白癩・黒癩等の諸悪重病を受け取り、後生には提婆・瞿伽利等がごとく無間大城に堕つべし。日月を射奉る修羅はその矢還つて我が眼に立ち、師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる。釈子を殺せし波琉璃王は水中の中の大火に入り、仏の御身より血を出せし提婆達多は現身に阿鼻の炎を感ぜり。金銅の釈尊をやきし守屋は四天王の矢にあたり、東大寺・興福寺を焼きし清盛入道は現身にその身もう(燃)る病をうけにき。彼等は皆大事なれども日蓮が事に合はすれば小事なり。小事すらなおしるしあり。大事いかでか現罰なからむ。
[17]悦ばしいかな。経文に任せて五五百歳広宣流布をまつ。悲しいかな、闘諍堅固の時に当つてこの国修羅道となるべし。清盛入道と頼朝とは源平の両家、本より狗犬と猿猴とのごとし。小人小福の頼朝をあだみしゆへに、宿敵たる入道の一門はほろびし上、科なき主上の西海に沈み給ひし事は不便の事なり。これは教主釈尊・多宝・十方の仏の御使として、世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。その外、小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし、その室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしを、とりいだして頭をさん〴〵に打ちさいなむ。この事いかなる宿意もなし。当座の科もなし。ただ法華経を弘通する計りの大科なり。
[18]日蓮天に向ひ声をあげて申さく、法華経の序品を拝見し奉れば、梵・釈と日月と、四天と竜王と、阿修羅と二界八番の衆と、無量の国土の諸神と集会し給ひたりし時、已今当に第一の説を聞きし時、我とも雪山童子のごとく身を供養し、薬王菩薩のごとく臂をもやかんとをもいしに、教主釈尊、多宝・十方の諸仏の御前にして〔「今仏前において自ら誓言を説け」〕と諫暁し給ひしかば、幸に順風を得て、〔「世尊の勅のごとくまさに具に奉行すべし」〕と二処三会の衆一同に大音声を放ちて誓ひ給ひしはいかんがあるべき。ただ仏前にてはかくのごとく申して、多宝・十方の諸仏は本土にかへり給ふ。釈尊は御入滅ならせ給ひてほど久しくなりぬれば、末代辺国に法華経の行者ありとも、梵・釈・日月等、御誓をうちわすれて守護し給ふ事なくば、日蓮がためには一旦のなげきなり。無始已来、鷹の前のきじ、蛇の前のかへる、猫の前のねずみ、犬の前のさるとありし時もありき。ゆめの代なれば、仏・菩薩・諸天にすかされまいらせたりける者にてこそ候わめ。なによりもなげかしき事は、梵と帝と日月と四天等の、南無妙法蓮華経の法華経の行者の大難に値ふをすてさせ給ひて、現身に天の果報も尽きて、花の大風に散るがごとく、雨の空より下るごとく、〔「其人命終、入阿鼻獄」〕と無間大城に堕ち給はん事こそ、あわれにはをぼへ候へ。たとひ彼の人々、三世十方の諸仏をかたうどとして知らぬよしのべ申し給ふとも、日蓮はその人々には強きかたきなり。もし仏のへんぱをはせずば、梵・釈・日月・四天をば、無間大城には必ずつけたてまつるべし。日蓮が眼と口とをそろしくば、いそぎ〳〵仏前の誓ひをばはたし給へ。日蓮が口(後欠)
[19]<追伸>またむぎ(麦)ひとひつ(一櫃)・鵞目両貫・わかめ・かちめ・みる一俵給び了んぬ。干い(飯)・やきごめ各々一かうぶくろ給び畢んぬ。一々の御志はかきつくすべしと申せども、法門巨多に候へば留め候ひ了んぬ。他門にきかせ給ふなよ。大事の事どもかきて候なり。追伸>
現代語訳
神国王御書
文永一二年(一二七五)二月、五四歳、於身延、和文、定八七七—八九三頁。
日本の国名・地理・国主
[1]よく考えてみると、わが日本国には瑞穂の国、野馬台(邪馬台、耶馬台、大和、倭)、秋津島、扶桑などのいろいろな異名がある。日本国は六十六ケ国のほかに、壱岐・対馬の二島を加えて六十八ケ国である。東西はおよそ三千里、南北は明確ではない。全国を大きく五畿七道に分けている。五畿とは山城・大和・河内・和泉・摂津の五ケ国をいい、七道とは東海道十五ケ国・東山道八ケ国・北陸道七ケ国・山陰道八ケ国・山陽道八ケ国・南海道六ケ国・西海道十一ケ国であって、西海道はまた鎮西とも太宰府とも呼んでいる。以上は日本の国土について述べたのである。次に日本国の国主についてみると、歴史以前の神話時代においては、天神七代・地神五代の十二代である。天神七代の第一はクニトコタチノミコトで、それより皇孫相嗣いで、第七代はイザナギノミコト(男)・イザナミノミコト(女)の二尊である。また地神五代の第一はアマテラスオオミカミで、今の伊勢の大神宮の日の神がそれで、イザナギ・イザナミの御娘である。それより下って第五代はヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトで、第四代のヒコホホデミノミコトの御子であり、母は竜王の娘である。以上が地神五代で、前の天神七代と合わせて十二代は神々の統治する時代であった。人王はおよそ百代であろうか。その第一はヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの御子、神武天皇である。それより皇統連綿として第十四代は仲哀天皇〈八幡の御父君〉、第十五代は神功皇后〈八幡の御母君〉である。第十六代の応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の皇子であって、今は八幡大菩薩と崇められているのがそれである。それより下って第二十九代の宣化天皇の御代にいたるまでは、インドや中国には仏法はあったけれども、まだ日本には伝わっていなかったのである。
仏法の伝来
[2]第三十代は欽明天皇で、第二十七代継体天皇の御嫡子である。御治世は三十二年間であったが、御即位の第十三年目(<暦>五五二暦>)の十月十三日に、百済国の聖明王が、金銅の釈迦仏をわが朝廷へ奉献された。それ以来今日まで日本国の上は天皇より下は万民にいたるまで、みな阿弥陀仏と思っているのがこの仏像である。その時の聖明王の上表文に、「臣、承っておりますには、もろもろの教えのなかでは仏法が第一であり、世間一般の道のなかでも仏法が最上の道であります。そこで陛下もまたこの仏法をぜひご修行なされますよう、ここに恭しく使者をもって仏像・経巻・法師を献上申しあげます。どうぞこの仏法をご信仰、ご修行下さいますように」とあった。しかし、欽明・敏達・用明の三代三十余年の間は、ついにご信仰はなかった。その間に起こった疫病などの天変地異は、今の世の災難とよく似ているけれども、今のはその当時に比べてはるかにはなはだしいものである。
南都六宗の伝来
[3]第三十三代崇峻天皇の御代から仏法がようやく崇められるようになり、第三十四代推古天皇の御代にいたってさかんに弘まったのである。それは聖徳太子が摂政として天皇を補佐し、十七条憲法などを定め、仏教興隆に力を尽くしたことによる。この時に三論宗が朝鮮の僧恵灌によって伝えられ、同時に成実宗も伝わったのである。その中の成実宗は小乗宗であったが、三論宗はインド・中国・日本における大乗・小乗の宗旨の始めであったから、宗の母とも、宗の父ともいって元祖とするのである。その後、第三十六代皇極天皇の御代に道昭によって禅宗が伝えられ、第四十代天武天皇の御代に法相宗が伝わり、第四十四代元正天皇の御代に大日経が伝わり、第四十五代聖武天皇の御代に良弁僧正が華厳宗を弘め、第四十六代孝謙天皇の御代に鑑真和上が律宗と天台法華宗とを伝えたが、和上は律宗だけを弘めて、天台法華宗は弘めなかったのである。
天台法華宗の弘通
[4]第五十代桓武天皇の御代に、伝教大師最澄という聖人があって、みずから天台法華宗の宗義が諸宗にすぐれていることを見出して、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗などの六宗と法論を行ない、六宗の宗義をことごとく論破されたのである。そればかりでなく、中国に大日宗(真言宗)という宗旨のあることを知って、延暦二十三年(<暦>八〇四暦>)七月に中国に渡り、天台法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗の四宗を学んで帰国したのである。しかしながら、その中の天台法華宗と大乗律宗とだけを弘通され、禅宗は弘められなかった。また真言宗については、宗の字を削って独立した一宗とは認めず、ただ奈良七大寺の僧侶に灌頂を許しただけであった。ところが当時の人びとは伝教大師の真意を知らず、大師は中国に渡って天台法華宗の法門は深く研究されたが、真言秘密の法門はくわしく学ばなかったのであろう、と推測していた。
真言宗の伝来
[5]同じ桓武天皇の御代に、空海という僧が中国に渡って真言宗を学んだが、その御代には帰国せず、第五十一代平城天皇の大同元年(<暦>八〇六暦>)に帰国した。第五十二代嵯峨天皇の弘仁十四年(<暦>八二三暦>)正月十九日に、真言宗弘通の道場として京都に東寺を賜わり、教王護国寺と名づけた。それは伝教大師御入滅の一年後のことであった。第五十四代仁明天皇の御代の承和五年(<暦>八三八暦>)に、慈覚大師円仁が中国に渡って、重ねて天台法華宗と真言宗の法門を学んで承和十四年(<暦>八四七暦>)に帰国した。そして円仁は、第五十五代文徳天皇の仁寿(<暦>八五一—八五四暦>)・斉衡(<暦>八五四—八五七暦>)年間に、金剛頂経疏七巻・蘇悉地経疏七巻の十四巻の注釈書を作って、これに大日経義釈を加えて、真言宗の三部と名づけ、比叡山に捴持院を建立して真言宗を弘めはじめたのである。こうして比叡山に真言宗を弘めることを許したのであるから、天台宗の座王は法華と真言の二宗を兼ねて学ぶこととなったのである。しかし、天台・真言二宗を比べて、天台宗は月のごとく真言宗は太陽のごとしといわれたので、世間の人びとは真言宗の方がすぐれていると思うようになった。しかし、座主は天台(止観業)と真言(遮那業)とを兼学したから、一山の大衆もみなこれにならって二宗の法門を学んだのである。同じく文徳天皇の御代の仁寿三年(<暦>八五三暦>)に、智証大師円珍が中国に渡り、法華・真言の二宗を学び、天安二年(<暦>八五八暦>)に帰国した。この円珍和尚は、わが国では叡山第一の座主義真和尚、第二の座主円澄寂光大師および別当大師光定、第三の座主慈覚大師円仁などについて天台法華と真言の二宗を習い究めたばかりでなく、東寺の真言宗までも学んだ人である。その後に中国に渡って、さらに天台法華と真言の二宗の宗義を深く研究されたのである。今の三井寺の天台密教の元祖たる智証大師がそれである。以上が真言の四大師と呼ばれている人びとである。およそ日本の真言宗には八派があって、東寺流の五派は弘法大師空海を元祖とし、天台流の三派は慈覚大師を元祖とするのである。
寿永・承久の乱
[6]第八十一代安徳天皇は、御父高倉天皇の嫡子で、御母は太政入道清盛の娘建礼門院である。安徳天皇は元暦元年(<暦>一一八四暦>)三月二十四日、源平の合戦に源頼朝の軍勢に攻められて、屋島の海に投じて崩御されたのである。第八十二代は後に隠岐の法皇といわれた後鳥羽天皇である。高倉天皇の第三皇子で、文治元年(<暦>一一八五暦>)に即位された。第八十三代は阿波の院といわれた土御門天皇で、後鳥羽天皇の御嫡子で建仁二年(<暦>一二〇二暦>)に即位された。第八十四代は佐渡の院といわれた順徳天皇で、後鳥羽天皇の第二皇子、承久三年(<暦>一二二一暦>)二月二十六日に即位されたが、同年七月に佐渡が島へ遷されたのである。このように八十二、三、四代の三天皇は父子であられたが、鎌倉の右大将源頼朝の家臣であった北条義時に攻められて、三天皇がそれぞれに隠岐・阿波・佐渡の三国に配流せられるという、未曾有の大不祥事を生じたのである。
仏法と国家・社会
[7]ここに日蓮は大いに疑問とすることがある。それは元来、仏は三界の国主たる大梵天王・第六天の魔王・帝釈天・日天・月天・四天王・転輪聖王、その他諸王の師匠であり、主君であり、親である。三界の諸王は、いずれもみなこの釈尊から国土を分け与えられて、諸国の総領や別領などの主となったものである。それゆえに梵天・帝釈天などは釈尊を木像に彫り、また画像に画いて尊崇せられるのである。もしもそれらの諸王が釈尊の教えに少しでも背くならば、たちまちに梵天王の高い宮殿も崩れ、帝釈天の居城たる喜見城も破壊し、転輪聖王の王冠も地に落ちるであろう。また神というのは、諸国の国主らが崩御されたのを、生身のように崇め祀ったものである。したがって神もまた国王や国民にとっては父母であり、主君であり、師匠である。ゆえにこの神に少しでも背くならば、国家は一日たりとも安穏ではありえないのである。これに対し、神を尊崇すれば、国からは三災七難は消滅し、国民は病気がなく長寿を保ち、後生には人間・天上やさらには声聞・縁覚・菩薩の三乗とも仏ともなる果報を受けることができよう。
[8]わが日本国はこの世界において、インドや中国よりもすぐれ、八万の国々に優越した国である。なぜならば、インドに仏法が弘まったのは、西域記などに記載される七十余箇国にすぎず、その他の国々はすべてバラモン教など仏教以外の宗教が信仰されている。また中国の寺院は十万八千四十箇寺である。ところがわが日本国の寺院は十七万一千三十七箇寺の多数である。わが国の領土をインドや中国に比べれば、伊豆の大島と日本全体と比べたようなものであるのに、その寺院の数においては中国やインドとは雲泥の差がある。しかもインドや中国では、たとえ仏教が信仰されていても小乗の国もあれば大乗の国もあり、その大乗も方便大乗の国にすぎないのである。わが日本国は寺ごとに八宗・十宗の宗義を習い究め、家ごとに大乗の経典を読誦している。またインドや中国では仏教を信仰する人は千人に一人くらいであるが、この日本国はすべて仏教の信者で、仏教以外の教えの信者は一人もない。さらに日本国には、第一に天照太神、第二に八幡大菩薩、第三に山王権現などをはじめとして、三千余社の神々があって、昼も夜もわが国を守り、朝に夕に国家を見護られているのである。それだけでなく、天照太神は宮中の賢所に安置される明鏡に御魂を宿され、また八幡大菩薩はみずから宝殿を出られて国王の頭に住まわれ、護られるということである。
[9]仏の御加護といい、神々の御守護といい、ともにこの国にはとくに厚いのに、どうして安徳天皇と後鳥羽天皇と土御門天皇と順徳天皇の四天皇は、代々仕えてきた家来のために攻められて、殺されたり、流されたり、また配所の鬼となり、地獄に堕ちられたのであろうか。比叡山をはじめ奈良七大寺・東寺・園城寺などの日本国中十七万一千三十七箇所の諸寺諸山においては、小さな仏事を営む場合でも必ず「天長地久、玉体安穏」と国家の平和と陛下の安泰とを祈願する習わしである。それだけでなく、八幡大菩薩はとくに天皇守護の大願を立てられている。それは第四十八代孝謙天皇の玉体に御魂が入られて、「わが日本国は開闢以来、臣下をして皇位につかしめたことは未だかつて一度もない。天皇の位には必ず天皇の血統を立てねばならない」と仰せられたのである。また清和天皇の貞観元年(<暦>八五九暦>)に大安寺の行教法師にお告げがあって「われには百王守護の誓願がある」といわれたのである。それゆえに神武天皇から第百代の天皇にいたるまでは、たとえどのようなことがあろうとも天皇の玉体に災難などのあろうはずがなく、王位を奪うような者もないはずである。仏教でも、倶舎論の註に「一生のうちに煩悩を断じ尽くして次の生に仏の位を継ぐべき等覚の菩薩は、途中で死ぬということはない」といい、また仏本行集経では「聖人は災難で死ぬことはない」と説かれているが、どうして一国の王位に即かれた四人の天皇にかぎって王位を追い落とされ、国家を奪われたばかりでなく、海中に身を投じられたり、島々へ配流せられたりしたのであろうか。日本国の守護神たる天照太神は四人の天皇の御身に入り代わりたまわなかったのであろうか。八幡大菩薩の百王守護の御誓いは、いったいどうなったのであろうか。不審にたえないのである。
真言の祈禱への疑問
[10]そのうえ、安徳天皇の御代には、叡山の明雲座主を国師と頼んで、太政入道清盛以下平家一門の十名が連名でたてまつった起請文には、「昔、藤原氏が興福寺を建てて氏寺とし、春日神社を氏神と崇めたように、今日以後延暦寺をもって平氏の氏寺と崇め、日吉神社をもって氏神とする」と誓っている。そこで叡山では、明雲座主をはじめ三千人の僧侶が五壇の祈禱を行ない、大臣以下家ごとに尊勝陀羅尼を唱え、不動明王を供養して攘災の祈禱を行ない、そのうえ、諸寺諸山に幣帛を捧げるなど、あらゆる大法秘法を尽くして、頼朝調伏の祈禱を行なったのである。しかし、その効なくついに安徳天皇は西海に没せられたのである。また承久の合戦の時、朝廷では叡山の座主慈円僧正・仁和寺の御室道助法親王・三井園城寺などの高僧たちを召し集めて、日本国に伝わるありとあらゆる大法秘法を尽くして、鎌倉調伏の祈禱を行なわれたのである。承久三年(<暦>一二二一暦>)四月十九日には宮中で十五壇の秘法が行なわれ、天台座主の慈円僧正は一字金輪法を行ない、五月二日には仁和寺の道助法親王が紫宸殿において如法愛染法を行なわれ、六月八日にはさらに法親王は守護経法を行なわれたのである。このようにして四十一人の高僧が次々と十五壇の大法をもって祈禱を行なわれたが、日本国でこの大法が行なわれたのはこれが二度目であった。一方、鎌倉方では権大夫北条義時は、そんなこととは夢にも知らないから、とくに調伏の祈禱も行なわなかったのである。また、かりに行なったとしても、その大法秘法といい、それを修する高僧といい、とうてい朝廷方に及ぶべくもなかったのである。仏法の法力といい、国王の威力といい、朝廷方は日本国の国主であるから、三界の諸王諸神が守護されている。これに対し鎌倉方は代々日本国の臣下で、わずかに小神が守るにすぎないのである。頼朝は代々朝廷に仕えてきた臣下であり、義時はその家来である。この両者の地位やその他の条件からみれば、国王の権威をもって陪臣たる義時を攻めるのは、ちょうど鷹が雉を捕え、猫が鼠を食い、蛇が蛙を呑み、獅子が兎を殺すようなもので、きわめて簡単である。それなのにどうして朝廷では軽々しく天地の神々に祈りをかけたり、仏・菩薩の加護を願ったりされたのであろうか。獅子が兎を捕えるのに全力を用いる必要はないし、鷹が雉を食うのに何の祈りが必要であろうか。別に何も祈らなくても、一国の王として民を滅ぼすのは、ちょうど大水が小火を消し、大風が小雲を吹き払うようなものである。そのうえに大火に枯れ木を投じ、大河に大雨を降らせたように、それほどに偉大な国王の威力に加えて、真言の大法秘法を行なって、頼朝や義時の命と魂とを梵王と帝釈天とに抜き取らせたのであるから、あたかも古い酒に酔った者の命を取るか、蛇が蛙の魂を取るように易々たるものであるはずである。それにまた頼朝や義時の姓名や年令などを書きつけて、諸仏諸菩薩諸神の足に踏ませて彼らの調伏を祈ったのであるから、ひとたまりもなく亡びそうなものであったが、一月一年はおろか、わずか一日か二日で負けとなり滅びてしまわれたのは、いったいどうしたわけであろうか。仏法の弘まる国の国主ともあろうほどのお方は、後生のためにもよくよくその理由をお考えになって、お祈りをなさるべきであると思う。
仏法の正邪と国家の盛衰
[11]日蓮はこの日本史上の二大事件を不思議に思い、疑いを晴らしたいために、幼少のころから顕密二教をはじめ諸宗の経々を人びとに尋ね学び、また自分でも開き見て深く考えてみたところ。ようやくこれには大きな理由のあることがわかったのである。そもそも自分の顔を見るには曇りない鏡に写してみるべきである。それと同じように国家の盛衰消長を測り知るには仏法の鏡に照らしてみるに越したことはない。そこで仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経などの大乗経典を拝見するに、その信ずる仏法の邪正によって、その国が栄えたり亡びたり、また人の寿命も長くもなり短くもなると説かれている。たとえば水はよく船を浮かべるけれども、また時には船を覆えすこともあり、五穀は人の身を養うものであるが、また時には身を損うことがあるようなものである。小さな波風では大船を破損することは難しいが、大きな波風のためには小船は簡単に破壊されてしまうのである。ちょうど王法の誤っているのは小さな波風のようなものであるから、そのために大国と大人とを亡ぼすことはないが、仏法の誤りは大きな波風のようなものであるから、小船の沈没するように国の亡びることは疑いないところである。教主釈尊は守護国界経の阿闍世王受記品に予言して、「わが滅後の末法の世には、たとえ悪法や悪人が現われて国を滅ぼし、仏法を滅ぼそうとしても滅ぼすことはできない。たとえば三千大千世界の草木を薪として須弥山を焼こうとしても焼けないが、しかし、この世界が破滅する時が来て劫火が起こると、須弥山の麓に豆粒ほどの火が生じて、さすがの須弥山もついに焼けつきてしまうのである。仏法もまたその通りで、悪人や外道や悪魔が外から破ろうとしても仏法は滅びないが、活き仏か六神通を得た羅漢のように、法にかなった袈裟衣をいかめしく身にまとい、鉄鉢を捧げて戒法厳しく托鉢の修行をする戒律の僧たちと、大風が草木をなびかすように人びとから崇め尊ばれている高僧たちが、まさしくこの正法を内から滅ぼすのである。そこで梵天・帝釈天・日月・四天王などが怒って、その国に大天変大地異を起こして諫めるのであるが、それでも気がつかなければ、さらに国じゅうに七難を起こし、父母・兄弟・君臣・万民らがお互いに敵同志となって、ちょうど梟がその母を食い殺し、破鏡という獣がその父をかみ殺すように、自分の国を破滅に陥れ、最後には他国からその国を攻めさせるのである」と説かれている。
法華経の明鏡と日本の現状
[12]いま、日蓮が一代仏教の明鏡に日本国の現状を照らしてみるのに、この鏡に浮かんだ日本国の人びとが国敵、仏敵であることは疑いないのである。一代仏教の明鏡中においても法華経はとくに明らかな神鏡である。銅の鏡は人の顔形を映すけれども、心を映すことはできない。法華経の神鏡は人の姿形を映すばかりか、その心までも映すのである。しかも現在の心を映すだけでなく、前世の業から未来の果報までもありありと照らし見ることができるのである。法華経第七巻の如来神力品には「仏の滅後に生まれて、仏の説き遺された経の因縁や浅深次第の順序とを知って、真実の教義を説くならば、ちょうど太陽や月の光がよくすべての闇を照らし破るように、この人が世間に出現して人びとを教化して、一切衆生の無明煩悩の闇を滅するであろう」と説かれている。この経文の意は、法華経の一字一句でも説く人は、必ず一代仏教の教理の浅深勝劣とこれを弘むべき順序とをよく弁えなければならないというのである。たとえば一年三百六十五日の暦でも、一日でも違うと万日すべてが間違ってしまうし、また三十一文字を連ねた和歌も、一句一字でも誤れば歌ではなくなってしまうようなものである。それと同じように、たとえ経文を読誦しても、最初寂滅道場で説かれた華厳経から、最後に沙羅双樹の林で説かれた涅槃経にいたるまでの一代聖教の順序次第と、法門の浅深勝劣とに迷うならば、その人はわが身に五逆罪を作らなくても必ず無間地獄に堕ち、この人に帰依した信者たちもまた無間地獄に堕ちることを免れないのである。これほどに厳しい関係であるから、一人の智者が世に現われて、一代仏教の浅深勝劣を正しく弁えてこれを発表する時に、それぞれその宗の元祖の誤った宗義を相伝してきた僧たちが、あるいは一国の国師と仰がれ、あるいは貴族たちの師となったりして、智者の正義のために自分たちの宗旨の欠点が顕われたうえに、世間の人びとから軽蔑されることを恐れて、その一人の智者を国主に讒訴したり、万人に非難させたりするであろう。その時こそ仏法守護の諸天善神が怒って、ちょうど大風が芭蕪の葉を裂き、大波が小船を覆すように、この国を滅ぼすであろうと説かれている。
諸経・諸宗への批判
[13]無量義経には、仏が初めて寂滅道場で説かれた華厳経から般若経にいたるまでのすべての経々の名を挙げ、或いは四十余年の間の経々と年限を切って「未顕真実」の経と定められている。また涅槃経は仏が最後に説かれた経であるが、その中に三十歳成道のはじめから五十年間の説法について、四十二年の経々を無量義経と同じく「邪見の経」と定め、後八箇年の法華経を主君の経であると説かれている。この無量義経と涅槃経との中間に法華経があって、その中に已に説いた四十二年の経々、今説いた無量義経、これから当に説こうとする涅槃経よりも、この法華経ははるかにすぐれているといわれたのである。すると宝浄世界の多宝如来をはじめ、十方世界から集ってきた諸仏もまたその言葉を証明して、それぞれ諸仏は本国へ帰られたのである。ところが釈尊の滅後にインドに仏法を弘めた大迦葉以下師子尊者にいたる二十四人の聖者たちは、ただ小乗経や方便大乗経を弘めて、いまだ法華経の実義は弘められなかったのである。ちょうど日本の行基菩薩と鑑真和尚が、法華経が真実の教えであることを知りながら弘通されなかったのと同じである。中国においても南方の三師、北方の七師などは、内心にも仏法の勝劣を知らず、また外の弘教においても諸経の浅深に深く迷っていたのである。また三論宗の吉蔵や華厳宗の澄観や法相宗の慈恩などの人びとも、内心にも外の弘教にも仏法の浅深勝劣を知らなかったけれども、ただ信心が堅固な人びとであったから、自分の地位とか外聞とかにかまわず、天台大師の説に従ったのである。そうであるからこれらの人びとは、その懺悔の功徳によって生死の迷いから離れたのであろうか。それとも自分の宗旨を弘めた前の謗法の罪の方が重く、後の懺悔の力は弱くて、かの阿闍世王が文殊師利菩薩の前で懺悔したけれどもなお無間地獄に堕ち、無垢論師が衆賢論師の前で誓いを立てたけれども、なお大地が割れて地獄に堕ちたように、たぶん地獄に堕ちたのであろうか。その点ははっきりとはわからないのである。
真言宗三三蔵の謗法堕獄
[14]また真言宗の人びとは、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人は、大日如来から五代目、六代目の付法相伝の人びとであり、即身成仏の法門を唱えた元祖である、などという。しかし日蓮の考えからいえば、これらの人びとは、むしろ法門盗みの元祖であり、盗人の張本人である。彼らはインドから大日経・金剛頂経・蘇悉地経などを中国に持ってはきたが、この経々はいずれも華厳経・般若経・涅槃経などにもはるかに及ばないだけでなく、法華経に比べれば七重も劣っていることは経文に明らかに見えている。ところが、善無畏は中国へ来て、天台大師の法華玄義・法華文句・摩訶止観の三大部三十巻の書を見るに及んで、舌を巻いて驚き、法華経にはとても及ばないからこの大日経を弘通することは困難である。といって大日経がすぐれているといえば妄語だということは明らかである。どうしようかと思案のすえに、ようやく一つの大妄語を考え出した。それは大日経の三十一品を法華経の二十八品と無量義経の三品とを合わせた三十一品に引き合わせて、大日経の身口意三密の中の意密は法華経とまったく同じであるといい、ただ法華経は已今当の三説に超過した最勝の経であると説いているけれども、事相の手に印を結び、口に真言を唱える作法は説いていないから、法華経は略して説いた経であり、大日経は印と真言とを加えて法華経以上に説いているから広く詳しく説いた経であるとしたのである。そして大日経と法華経とは広略の相異のみであるから、大日経は法華経に説かれる已説の四十二年の諸経、今説の無量義経、当説の涅槃経のいずれにも入らない経であると主張した。このようにたくみに法華経を味方として、三説超過という法華経の批判を免れた上、かえって印と真言とにおいて大日経がすぐれていると誇って、法華経を打ち落として、真言宗を立てたのである。この大妄語は、たとえば妲妃・妹喜・褒姒の三女が皇后となって殷の紂・夏の桀・周の幽の三人の愚かな国王をたぶらかして王の世を滅ぼしたようなものである。法華経の流通分に当たる涅槃経の第九巻の如来性品に「わが滅後に悪僧たちがわが仏法を滅ぼすことは、ちょうど女人が国を滅ぼすと同じである」と説かれているのは、まさしくこのことである。善無畏三蔵はこのような妄語をもって正法を乱したから、頓死した時に閻魔王に責められて七筋の鉄の縄で縛られ、後にかろうじて蘇ったけれども、臨終の時にはその伝記に「全身の皮膚の色は黒くなり、骨がごつごつと現われた」とあるように、経文の通りに死骸に無間地獄の相が現われたのである。人が死んだ時に色が黒くなるのは無間地獄に堕ちる前相であるとは、仏法に明らかに定められている。善無畏三蔵の死相はまさにその通りであったことからみると、彼の法門を承けた金剛智三蔵と不空三蔵の二人の死後もこれによって推知することができよう。これらの人びとも晩年には後悔の心は起こったようであったが、心からの深い懺悔でなかったので地獄の苦を免れることはできないだろう。今の真言宗の人びとは少しもこの真相を知らないでいる。上に述べた善無畏三蔵の誑惑を知れば、彼を信じた玄宗皇帝の世の亡びた理由もおのずから理解されることであろう。
天台法華宗の衰滅
[15]日本において弘法・慈覚・智証らが、この善無畏らの弘めた真言の邪法を習い伝えて、それが謗法であるとは自分自身少しも知らないのである。ましてその他の真言師たちが、謗法だと気がつくはずがない。このようにして、しばらくの間は天台法華宗の人びとと議論を闘わせたが、やがて天台法華宗が次第に衰えて、第八十一代の安徳天皇の御代に、比叡山第五十五代の座主に就任した明雲以後は、叡山仏教はまったく真言宗となってしまった。さらに第六十一代の座主顕真権僧正にいたっては、叡山座主でありながら真言宗に移ったばかりでなく、ついには法華も真言をも捨てて、まったく謗法の張本人である法然の弟子となり、念仏を称えるにいたったのである。また承久の乱に北条氏の調伏を祈った叡山の慈円僧正は第六十二、六十五、六十九、七十一代と四代の座主となり、隠岐の法皇後鳥羽上皇の御師であった。これらの人びとは、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵および慈覚・智証などの真言の流れをそのまま伝えた人びとで、容器は変わっても中の水にまったく変わりはない真言師である。そのうえ、身を天台宗において叡山座主の名をけがし、長年法華経へ供養された叡山の領地を知行して三千の大衆の棟梁となり、日本国の国師と仰がれていながら、法華経より七重も劣っている大日経を根本として、かえって法華経に八重もすぐれていると思っているが、これはあたかも天を地と思い、民を王と誤り、石を宝珠と見誤るばかりでなく、尊い宝珠をも石だと主張する人たちである。かの座主たちは教主釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏の大怨敵であるばかりでなく、一切衆生の眼を抜き取り、修羅・人・天の三善道の門を塞ぎ、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の道を開く人びとである。これに対して梵天・帝釈天・日月・四天王などの法華経守護の諸天善神が、どうして罰せずにいられようか。またどうして彼の人びとを尊ぶ信者たちを守護されるはずがあろうか。天照太神が内侍所に魂を宿された賢所も、八幡大菩薩が百王の末までもこの日本国を守護するといわれたお誓いも、どうしてかなうはずがあろうか。
法華経の行者と法難
[16]自分日蓮は寿永の乱と承久の乱との二難の原因を知ってから、慈悲の心に動かされて黙視するに忍びず、はじめはしかるべき弟子たちに向かって聞かせたのであるが、次第に広がって幕府にも聞こえたのである。いやしくも国主たるものは道理を先とし非道を斥けるべきであるのに、どうしたことか人びとの讒言を信じて、ただ一人正義を唱える日蓮を捨ててしまった。かの中国の天台大師に対しては、南三北七などの学者たちが憎んだけれども、陳の宣帝や隋の晋王らが重く用いられたから、人びとの怨嫉もそれほど激しくはなかった。また日本の伝教大師に対しても南都七大寺の僧綱らがさまざまに讒言したけれども、桓武・平城・嵯峨の三帝が深くご信用になったから、敵対する南都六宗の僧綱たちも如何ともすることができなかった。今、日蓮に対しては、日本国中十七万一千三十七箇寺の僧侶たちが憎むばかりでなく、国主たる北条氏もご信用がないから、国じゅうの人びとは父母の敵よりもはなはだしく、宿世の敵にもまして日蓮を憎むのである。その結果、伊豆・佐渡と二度の流罪に処せられ、一度は竜の口で斬首の座に据えられたのである。この迫害は昔、大荘厳仏の滅後末法の世に苦岸・薩和多・将去・跋難陀の四人の僧とこれに加担した無数の信者が、ひとり仏の正法を護持した普事比丘に害を加えたよりも激しく、また師子音王仏の末法に勝意比丘と無数の弟子たちが喜根比丘を責めたよりもはなはだしい迫害であった。涅槃経に説かれる覚徳比丘が謗法の徒に責められたことや、法華経に説かれる不軽菩薩が杖木瓦石の難に遭ったのも、おそらくはこの日蓮の受難には及ばないと思われる。もし万が一にも日蓮が法華経の行者であるならば、日蓮を迫害した罪によって、日本国の人びとが後生に無間地獄に堕ちて大いなる苦しみを受けるのはしばらくおいて、国主は、かの中国の徽宗・欽宗のように今生には国を亡ぼし、またインドの賓頭盧尊者の諫めを用いなかった優陀延王や、僧侶を国外に追放した訖利多王のように、他国から攻め滅ぼされるであろう。その他の人びとは謗法の罪の報いで、現身にもろもろの重い病いにかかることは疑いないのである。もしそのような現証がないとすれば、日蓮が法華経の行者ではないのであるから、みずから現身にもろもろの重い病いにかかり、死んだ後は提婆達多や倶伽利のように無間地獄に堕ちるであろう。日月を射落とそうとした修羅はかえってその矢が己の眼に立ち、獅子を吼えた犬はかえって自分の腹が破れ裂けるものである。また仏弟子を殺した波瑠璃王はアシラ河の上で酒宴の時、雷火のために焼死し、釈尊を害せんとして御身から血を出した提婆達多は、生きたまま無間地獄の炎を感じたという。また日本でも金銅の釈尊を焼き捨てた物部守屋は聖徳太子の射た四天王の矢に当たって死に、奈良の東大寺や興福寺を焼き払った太政入道清盛は生きながらに身を焼くような熱病にかかった。これらはいずれも大事には違いないが、法華経の行者たる日蓮に加える迫害に比べればなお小事である。その小事に対してさえなおこのような現罰があったのだから、ましてこれほどの日蓮を迫害する大事にどうして現罰のないはずがあろうか。諸天の現罰が下されるのは当然である。
受難の法悦と歎き
[17]日蓮が今、無上の悦びとするのは、経文の予言にある通りに、五五百歳の末法に生まれて法華経を弘め、その広宣流布の時を待つことである。しかしまた悲しみにたえないのは、この闘諍のさかんな末法に生まれて、この日本国が修羅道となるのを見なければならないことである。太政入道清盛と源頼朝とは源平両家の大将であって、犬と猿の間柄である。地位もなく徳も薄い小人の頼朝を苦しめたから、その恨みをかって代々の敵と狙われ、太政入道の一門は亡びたのである。そのうえ、罪もない幼い安徳天皇まで西海に沈めたてまつったことは、まことにいたましいことであり、恐れ多いことであった。今、日蓮は教主釈尊・多宝如来・十方の諸仏の御使として法華経を弘めるのであって、世間的には何の罪もない者であるのに、日本国中の人びとに憎ませるばかりか、二度までも流罪に処し、あたかも国家に対する反逆者であるかのように白昼鎌倉の大路小路を引き廻して恥ずかしめた。さらに釈尊を本尊に奉安し、一切経を安置してある日蓮の庵室を打ち壊して、仏像や経巻を人びとに踏みにじらせたうえ、泥の中へ投げこませ、あまつさえ日蓮が懐中にしていた法華経を取り出して頭をさんざんに打ちすえたのである。このようなはなはだしい迫害は、日蓮に前々からの深い怨みがあったためでもなく、またこれという罪があったためでもなく、ただ日蓮が法華経を弘通するだけで、こうした大いなる迫害を受けるのである。
諸天諫暁
[18]そこで日蓮は天に向かって大声で申すのである。「法華経の序品を拝見すると、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・竜王・阿修羅および欲界・色界の諸天ならびに無数の国々の諸神が集った会座で、已今当の三説にすぐれてこの法華経が最第一の経であると聞かれた時、われわれもこの経のために、かの雪山童子が鬼神に身を供養して法を求め、薬王菩薩が臂を焼いて仏に供養したように、法華経を守護せんと意気ごむところへ、教主釈尊は多宝如来・十方世界の諸仏の面前において、一同に向かって『今この席で法華経を守護するとの誓いを述べよ』と仰せられたので、かの諸天らは追手に風を得た思いで一同声をそろえて『仏の仰せの通りに必ず法華経の行者を守護いたしましょう』と誓われたではないか。その仏前の誓いは、いったいどうなったのであろうか。多宝如来や十方の世界から集った諸仏は、この仏前の誓言を聞いて安心されて、それぞれ本国へ帰られたのである。その後、釈尊は御入滅になられてすでに年久しくなったので、末法の今日、辺土の日本に法華経の行者があっても、梵天・帝釈天・日月などの諸天は、法華経の会座における仏前の誓いを忘れて守護されないのであるならば、法華経の行者である日蓮にとっては一時の嘆きにすぎない。それは悠久の過去から生々世々の間には、鷹の前に怯えた雉、蛇ににらまれた蛙、猫に狙われた鼠、犬に追われた猿などとなって苦しむこともたびたびあった。この世は夢のようにはかない世の中であるから、仏・菩薩・諸天などにあざむかれたのだと思えば諦めもつく。しかし、それにつけても嘆かわしいことは。梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などの神々が、法華経の行者が南無妙法蓮華経と唱えて大難に値うのをみて、守護しなかった罪で現身に天上界の果報も尽きて、ちょうど花が嵐に吹き散るように、雨が大地に落ちるように『その人の命終わって阿鼻地獄に堕ちる』とある経文の通りに、無間地獄へ堕ちることである。それが何とも不憫でならないのである。たとえ、かの諸天が三世十方の諸仏を味方として、そのような仏前の誓言は知らないといわれても、日蓮は諸天にとっては強敵である。もし仏に偏頗さえなければ、必ず梵天・帝釈天・日天・月天・四天王をば無間地獄へ堕すであろう。日蓮のこの眼が恐しいならば、即座に仏前の御誓言を果たされるがよい。日蓮の口(後欠)」
[19]追伸<改行>
<追伸> また麦一櫃、銭二貫文、わかめ、かちめ、みる各々一俵ずつ。干飯、・焼米一袋ずつお送り下され、ありがたく拝受しました。厚い御志に対して一々に心ゆくまで書き送りたいとは思いますが、重要な法門も数多くありますので、これで筆をおきます。この手紙には大事な法門が書いてありますから、決して他門の者に聞かせてはなりません。ご注意ください。追伸>