撰時抄
書下し
撰時抄
[1]<述>釈子 日蓮述述>
[2]それ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし。過去の大通智勝仏は、出世し給ひて十小劫が間、一経も説き給はず。経に云く、〔「一坐十小劫」〕と。また云く、〔「仏、時のいまだ至らざるを知ろしめし、請を受くるも黙然として坐す」〕等と云云。今の教主釈尊は四十余年の程、法華経を説き給はず。経に云く、〔「説くべき時いまだ至らざるが故に」〕と云云。老子は母の胎に処して八十年。弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給ひて、五十六億七千万歳をまち給うべし。彼の時鳥は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをかくのごとし。いかにいわんや、仏法を修行せんに時を糾ざるべしや。寂滅道場の砌には十方の諸仏示現し、一切の大菩薩集会し給ひ、梵・帝・四天は衣をひるがへし、竜神・八部は掌を合せ、凡夫大根性の者は耳をそばだて、生身得忍の諸菩薩、解脱月等、請をなし給ひしかども、世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし、即身成仏・一念三千の肝心、その義を宣給はず。これらは偏にこれ機はありしかども、時の来らざればのべさせ給はず。経に云く、〔「説くべき時いまだ至らざるが故に」〕等と云云。霊山会上の砌には閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達多には天王如来と名をさづけ、五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。決定性の成仏は燋種の花さき果なり、
久遠実成は百歳の翁二十五の子となれるかとうたがふ。一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず。さればこの経の一字は如意宝珠なり。一句は諸仏の種子となる。これらは機の熟・不熟はさてをきぬ、時の至れるゆへなり。〔経に云く、「今正しく是れ其の時なり、決定して大乗を説かん」〕等と云云。
[3]問うて云く、機にあらざるに大法を授けられば、愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕つるならば、あに説く者の罪にあらずや。
[4]答へて云く、人路をつくる。路に迷ふ者あり。作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう。病人嫌いて服せずして死せば、良医の失となるか。
[5]尋ねて云く、法華経の第二に云く、〔「無智の人の中にこの経を説くことなかれ」〕。同じき第四に云く、〔「分布して妄りに人に授与すべからず」〕。同じき第五に云く、〔「この法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中において最もその上にあり、長夜に守護して妄りに宣説せざれ」〕等と云云。これらの経文は機にあらずば説かざれというか、いかん。
[6]今反詰して云く、〔不軽品に云く、「しかもこの言をなさく、我れ深く汝等を敬う」等と云云。「四衆の中に瞋恚を生じ、心不浄なる者あり。悪口罵詈して言く、この無智の比丘」と。また云く、「衆人或は杖木瓦石をもつてこれを打擲す」等と云云。勧持品に云く、「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者あらん」〕と云云。これらの経文は、悪口罵詈乃至打擲すれどもととかれて候は、説く人の失となりけるか。
[7]求めて云く、この両説は水火なり。いかんが心うべき。
[8]答へて云く、〔天台云く、「時に適うのみ」。章安云く、「取捨宜きを得て一向にすべからず」〕等と云云。釈の心は、或時は謗じぬべきにはしばらくとかず。或時は謗ずとも強ひて説くべし。或時は一機は信ずべくとも万機謗ずべくばとくべからず。或時は万機一同に謗ずとも強て説くべし。初成道の時は法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩、梵・帝・四天等の凡夫大根性の者かずをしらず。鹿野苑の苑には、倶隣等の五人、迦葉等の二百五十人、舎利弗等の二百五十人、八万の諸天。方等大会の儀式には、世尊の慈父の浄飯大王もねんごろに恋せさせ給ひしかば、仏、宮に入らせ給ひて観仏三昧経を説かせ給ひ、悲母の御ために忉利天に九十日が間籠らせ給ひしには、摩耶経をとかせ給ふ。慈父悲母なんどにはいかなる秘法か惜しませ給ふべき。なれども法華経をば説かせ給はず。せんずるところ、機にはよらず、時いたらざれば、いかにもとかせ給はぬにや。
[9]問うて云く、何なる時にか小乗・権経をとき、何なる時にか法華経を説くべきや。
[10]答へて云く、十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで、時と機とをば相知りがたき事なり。いかにいわんや、我等は凡夫なり。いかでか時機をしるべき。
[11]求めて云く、すこしも知る事あるべからざるか。
[12]答えて云く、仏眼をかつて時機をかんがへよ。仏日を用て国をてらせ。
[13]問うて云く、その心如何。
[14]答えて云く、大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。いわゆる、我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固〈已上一千年〉、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固〈已上二千年〉、次の五百年には〔「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」〕等と云云。
[15]この五の五百歳、二千五百余年に人々の料簡さまざまなり。漢土の道綽禅師が云く、正・像二千、四箇の五百歳には小乗と大乗との白法盛なるべし。末法に入つては彼等の白法皆な消滅して、浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし。日本国の法然が料簡して云く、今日本国に流布する法華経・華厳経並に大日経・諸の小乗経、天台・真言・律等の諸宗は、大集経の記文の正・像二千年の白法なり。末法に入つては彼等の白法は皆滅尽すべし。たとい行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず。十住毘婆沙論と曇鸞法師が難行道、道綽の「未有一人得者」、善導の「千中無一」これなり。彼等の白法隠没の次には浄土三部経・弥陀称名の一行計り大白法として出現すべし。これを行ぜん人々はいかなる悪人・愚人なりとも「十即十生、百即百生」、〔「ただ浄土の一門のみあつて通入すべき路」〕とはこれなり。されば後世を願はん人々は、叡山・東寺・薗城・七大寺等の日本一州の諸寺・諸山の御帰依をとどめて、彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばいと(取)て念仏堂につけば、決定往生、南無阿弥陀仏とすゝめければ、我朝一同にその義になりて今に五十余年なり。日蓮これらの悪義を難じやぶる事は事ふり候ぬ。
[16]かの大集経の白法隠没の時は、第五の五百歳当世なる事は疑ひなし。ただし彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並に万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり。
[17]問うて云く、その証文如何。
[18]答へて云く、法華経の第七に云く、〔「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなけん」〕等と云云。経文は、大集経の白法隠没の次の時をとかせ給ふに「広宣流布」と云云。同じき第六の巻に云く、〔「悪世末法の時、能くこの経を持つ者」〕等と云云。また第五の巻に云く、〔「後の末世の法滅せんと欲する時において」〕等と。また第四の巻に云く、〔「しかも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」〕と。また第五の巻に云く、〔「一切世間怨多くして信じ難し」〕と。また第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く、〔「悪魔・魔民・諸の天・竜・夜叉・鳩槃荼等、その便を得ん」〕と。大集経に云く、〔「我が法の中において闘諍言訟せん」〕等と云云。法華経の第五に云く、〔「悪世の中の比丘」〕と。また云く、〔「或は阿蘭若にあり」〕等と云云。また云く、〔「悪鬼その身に入る」〕等と云云。文の心は、第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。その時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、その時天変地夭盛なるべし。国主等そのいさめを用ひずば、隣国にをほせつけて、彼々の国々の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし。その時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏・菩薩にいのり(祈)をかくともしるし(験)なくば、彼のにくみ(憎)つる一の小僧を信じて、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆頭を地につけ、掌を合せて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。例せば、神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく、裟婆世界に向つて大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏〳〵、南無妙法蓮華経〳〵と一同にさけびしがごとし。
[19]問うて曰く、経文は分明に候。天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや。
[20]答へて云く、汝が不審逆なり。釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ。経文に分明ならば釈を尋ぬべからず。さて釈の文、経に相違せば経をすてて釈につくべきか、如何。
[21]彼の云く、道理至極せり。しかれども凡夫の習ひ、経は遠し釈は近し。近き釈分明ならば、いますこし信心をますべし。
[22]今云く、汝が不審ねんごろなれば少々釈をいだすべし。〔天台大師云く、「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」〕と。〔妙楽大師云く、「末法の初め、冥利なきにあらず」〕と。〔伝教大師云く、「正像稍過ぎ已りて、末法太だ近きに有り、法華一乗の機、今正しく是れ其の時なり。何をもつて知ることを得る。安楽行品に云く、末世法滅の時なり」〕と。また云く、〔「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり。経に云く、猶多怨嫉況滅度後と。この言良に以あるなり」〕と云云。
[23]それ釈尊の出世は住劫第九の減、人寿百歳の時なり。百歳と十歳の中間、在世五十年、滅後二千年と一万年となり。その中間に法華経流布の時二度あるべし。いわゆる在世の八年、滅後には末法の始めの五百年なり。しかるに天台・妙楽・伝教等はすす(進)では在世法華の御時にももれさせ給ひぬ。退ひては滅後末法の時にも生れさせ給はず。中間なる事をなげかせ給ひて、末法の始をこひ(恋)させ給ふ御筆なり。例せば、阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給ひしを見て悲んで云く、現生には九十にあまれり。太子の成道を見るべからず。後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず。正・像・末にも生るべからず、となげきしがごとし。道心あらん人々はこれを見きゝて悦ばせ給へ。正・像二千年の大王よりも、後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ。これを信ぜざらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱る癩人とはなるべし。梁の武帝の願に云く、寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも、鬱頭羅弗とはならじと云云。
[24]問うて云く、竜樹・天親等の論師の中にこの義ありや。
[25]答へて云く、竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給ふとはいえども、言にはこの義を宣べ給はず。
[26]求めて云く、いかなる故にか宣べ給はざるや。
[27]答へて云く、多くの故あり。一には彼の時には機なし。二には時なし。三には迹化なれば付嘱せられ給はず。
[28]求めて云く、願くはこの事よく〳〵きかんとをもう。
[29]答へて云く、それ仏の滅後二月十六日よりは正法の始なり。迦葉尊者仏の付嘱をうけて二十年、次に阿難尊者二十年、次に商那和修二十年、次に優婆崛多二十年、次に提多迦二十年、已上一百年が間は、ただ小乗経の法門をのみ弘通して、諸大乗経は名字もなし。いかにいわんや法華経をひろむべしや。次には弥遮迦・仏陀難提・仏駄蜜多・脇比丘・富那奢等の四、五人、前の五百余年が間は大乗経の法門少々出来せしかども、とりたてゝ弘通し給はず、ただ小乗経を面としてやみぬ。已上大集経の先の五百年、解脱堅固の時なり。正法の後六百年已後一千年が前、その中間に馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅睺尊者・僧佉難提・僧佉耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人々、始には外道の家に入り、次には小乗経をきわめ、後には諸大乗経をもて諸小乗経をさん〴〵に破し失ひ給ひき。これらの大士等は、諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給ひしかども、諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかゝせ給はず。たとひ勝劣をすこしかゝせ給ひたるやうなれども、本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の肝要の法門は分明ならず。ただ或は指をもつて月をさすがごとくし、或は文にあたりてひとはし(一端)計りかゝせ給ひて、化道の始終・師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみへず。これらは正法の後の五百年、大集経の禅定堅固の時にあたれり。正法一千年の後は、月氏に仏法充満せしかども、或は小をもて大を破し、或は権経をもつて実経を隠没し、仏法さま〴〵に乱れしかば、得道の人やうやくすくなく、仏法につけて悪道に堕る者かずをしらず。
[30]正法一千年の後、像法に入つて一十五年と申せしに、仏法東に流れて漢土に入りにき。像法の前五百年の内、始の一百余年が間は、漢土の道士と月氏の仏法と諍論していまだ事さだまらず。たとひ定まりたりしかども、仏法を信ずる人の心いまだふかからず。しかるに仏法の中に大小・権実・顕密をわかつならば、聖教一同ならざる故、疑をこりて、かへりて外典とともな(伴)う者もありぬべし。これらのをそれあるがのゆへに、摩騰・竺蘭は自らは知つてしかも大小を分けず、権実をいはずしてやみぬ。その後、魏・晋・宋・斉・梁の五代が間、仏法の内に大小・権実・顕密をあらそひし程に、いづれこそ道理ともきこえずして、上み一人より下も万民にいたるまで不審すくなからず。南三北七と申して仏法十流にわかれぬ。いわゆる南には三時・四時・五時、北には五時・半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等、各々義を立て辺執水火なり。しかれども大綱は一同なり。いわゆる一代聖教の中には華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三なり。法華経は阿含・般若・浄名・思益等の経々に対すれば、真実なり、了義経・正見なり。しかりといえども、涅槃経に対すれば、無常教・不了義経・邪見の経等云云。
[31]漢より四百余年の末へ五百年に入つて、陳・隋二代に智顗と申す小僧一人あり。後には天台智者大師と号したてまつる。南北の邪義をやぶりて、一代聖教の中には法華経第一、涅槃経第二、華厳経は第三なり等と云云。これ像法の前五百歳、大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたれり。
[32]像法の後の五百歳は、唐の始太宗皇帝の御宇に、玄奘三蔵月支に入つて十九年が間、百三十ケ国の寺塔を見聞して、多くの論師に値ひたてまつりて、八万聖教・十二部経の淵底を習ひきわめしに、その中に二宗あり。いわゆる法相宗・三論宗なり。この二宗の中に法相大乗は、遠くは弥勒・無著、近くは戒賢論師に伝へて、漢土にかへりて太宗皇帝にさづけさせ給ふ。この宗の心は、仏教は機に随ふべし。一乗の機のためには三乗方便一乗真実なり。いわゆる法華経等なり。三乗の機のためには三乗真実一乗方便。いわゆる深密経・勝鬘経等これなり。天台智者等はこの旨を弁へず等と云云。しかも太宗は賢王なり。当時名を一天にひびかすのみならず、三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき、漢土を手ににぎるのみならず、高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし、内外を極めたる王ときこえし賢王の第一の御帰依の僧なり。天台宗の学者の中にも頸をさしいだす人一人もなし。しかれば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ。同じき太宗の太子高宗、高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師と云ふ者あり。法相宗に天台宗のをそ(襲)わるるところを見て、前に天台の御時せめられし華厳経を取り出して、一代の中には華厳第一、法華第二、涅槃第三と立てけり。太宗第四代玄宗皇帝の御宇、開元四年と同八年に、西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り、真言宗を立つ。この宗の立義に云く、教に二種あり。一には釈迦の顕教、いわゆる華厳・法華等。二には大日の密教、いわゆる大日経等なり。法華経は顕教の第一なり。この経は大日の密教に対すれば、極理は少し同じけれども、事相の印契と真言とはたえてみへず。三密相応せざれば不了義経等と云云。已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども、天台大師程の智人、法華宗の中になかりけるかの間、内々はゆはれなき由は存じけれども、天台のごとく公場にして論ぜられざりければ、上国王・大臣、下一切の人民にいたるまで、皆仏法に迷ひて、衆生の得道みなとどまりけり。これらは像法の後の五百年の前二百余年が内なり。
[33]像法に入つて四百余年と申しけるに、百済国より一切経並に教主釈尊の木像・僧尼等日本国にわたる。漢土の梁の末、陳の始にあひあたる。日本には神武天王よりは第三十代、欽明天王の御宇なり。欽明の御子用明の太子に上宮王子、仏法を弘通し給ふのみならず、並に法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ。その後人王第三十七代に孝徳天皇の御宇に、三論宗・成実宗を観勒僧正百済国よりわたす。同じき御代に道昭法師漢土より法相宗・倶舎宗をわたす。人王第四十四代元正天王の御宇に、天竺より大日経をわたしてありしかども、しかも弘通せずして漢土へかへる。この僧をば善無畏三蔵という。人王第四十五代に聖武天皇の御宇に、審祥大徳、新羅国より華厳宗をわたして、良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて、東大寺の大仏を立てさせ給えり。同じき御代に大唐の鑑真和尚、天台宗と律宗をわたす。その中に律宗をば弘通し、小乗の戒場を東大寺に建立せしかども、法華宗の事をば名字をも申し出させ給はずして入滅し了んぬ。
[34]その後人王第五十代、像法八百年に相当つて桓武天皇の御宇に、最澄と申す小僧出来せり。後には伝教大師と号したてまつる。始には三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並に禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給ひし程に、我と立て給へる国昌寺、後には比叡山と号す。ここにして六宗の本経・本論と宗々の人師の釈とを引合せて御らむありしかば、彼の宗々の人師の釈、所依の経論に相違せる事多き上、僻見多々にして、信受せん人皆悪道に堕ちぬべしとかんがへさせ給ふ。その上法華経の実義は、宗々の人々我も得たり〳〵と自讃ありしかども、その義なし。これを申すならば喧嘩出来すべし。もだ(黙)して申さずば仏誓にそむきなんと、をもひわづらわせ給ひしかども、終に仏の誡ををそれて、桓武皇帝に奏し給ひしかば、帝この事ををどろかせ給ひて、六宗の碩学に召し合させ給ふ。彼の学者等、始は慢幢山のごとし、悪心毒蛇のやうなりしかども、終に王の前にしてせめをとされ、六宗七寺一同に御弟子となりぬ。例せば、漢土の南北の諸師、陳殿にして天台大師にせめをとされて御弟子となりしがごとし。これはこれ円定・円慧計りなり。その上、天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給ふのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏の滅後一千八百余年が間、身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始る。されば伝教大師は、その功を論ずれば、竜樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり。されば日本国の当世の東寺・薗城・七大寺、諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。かの漢土九国の諸僧等は、円定・円慧は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒にをいては弟子とならぬ者もありけん。この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり、悪人なり。しかれども漢土・日本の天台宗と真言の勝劣は、大師心中には存知せさせ給ひけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるゆへにや、伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万人にいたるまでをぼしめしをもえり。しかれば天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。この伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にはあたらず。
[35]今末法に入つて二百余歳、大集経の「於我法中闘諍言訟白法隠没」の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり。伝へ聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打やぶられぬ。花洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝、北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給ひぬ。徽宗の孫、高宗皇帝は長安をせめをとされて、田舎の臨安行在府に落ちさせ給ひて、今に数年が間京をみず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も、皆皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬並に九国のごとし。闘諍堅固の仏語地に堕ちず。あたかもこれ、大海のしをの時をたがへざるがごとし。これをもつて案ずるに、大集経の白法隠没の時に次で、法華経の大白法の日本国並に一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか。彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるゝ道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記し給ひけるは寸分もたがわざりけるにや。いかにいわんや、法華経は釈尊は「要当説真実」となのらせ給ひ、多宝仏は真実なりと御判をそへ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給ひて、後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて、謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・竜神等に仰せつけられし金言、虚妄なるべしや。大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来らずとも、日は東へかへるとも、月は地に落るとも、この事は一定なるべし。
[36]この事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と並に万民等が、仏の御使として南無妙法蓮華経と流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚痴の者は咒詛すとをもいぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く、〔「彼がために悪を除くは、すなわちこれ彼が親なり」〕等と云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、また主君なり。しかるを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば、日月いかでか彼等が頂を照し給ふべき。地神いかでか彼等の足を載せ給ふべき。提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば、大地揺動して火炎いでにき。檀弥羅王は師子尊者の頭を切りしかば、右の手、刀とともに落ちぬ。徽宗皇帝は法道が面にかなやき(火印)をやきて江南にながせしかば、半年が内にえびすの手にかかり給ひき。蒙古のせめもまたかくのごとくなるべし。たとひ五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切衆生兵難に値ふべし。されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかは、これにて見るべし。教主釈尊記して云く、「末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも、百千万億倍すぎたるべし」ととかせ給へり。しかるを今の日本国の国主・万民等雅(我)意にまかせて、父母宿世の敵よりもいたくにくみ、謀反・殺害の者よりもつよくせめぬるは、現身にも大地われて入り、天雷も身をさかざるは不審なり。日蓮が法華経の行者にてあらざるか。もししからばをゝきになげかし。今生には万人にせめられて片時もやすからず、後生には悪道に堕ちん事あさましとも申すばかりなし。
[37]また日蓮法華経の行者ならずば、いかなる者の一乗の持者にてはあるべきぞ。法然が法華経をなげすてよ、善導が「千中無一」、道綽が「未有一人得者」と申すが法華経の行者にて候べきか。また弘法大師の云く、「法華経を行ずるは戯論なり」とかゝれたるが法華経の行者なるべきか。経文には「能持是経」「能説此経」なんどこそとかれて候へ。よくとくと申すはいかなるぞと申すに、「於諸経中最在其上」と申して、大日経・華厳経・涅槃経・般若経等に法華経はすぐれて候なりと申す者をこそ、経文には法華経の行者とはとかれて候へ。もし経文のごとくならば、日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は、一人も法華経の行者はなきぞかし。いかに〳〵とをもうところに、「頭破作七分」「口則閉塞」のなかりけるは、道理にて候けるなり。これらは浅き罰なり。ただ一人二人等のことなり。日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。これをそしり、これをあだむ人を結構せん人は、閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。これらをみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすゝめたる人一人もなし。この徳はたれか一天に眼を合せ、四海に肩をならぶべきや。
[38]疑ふて云く、たとひ正法の時は、仏の在世に対すれば根機劣なりとも、像・末に対すれば最上の上機なり。いかでか正法の始に法華経をば用ひざるべき。随つて馬鳴・竜樹・提婆・無著等も正法一千年の内にこそ出現させ給へ。天親菩薩は千部の論師、法華論を造りて諸経の中第一の義を存す。真諦三蔵の相伝に云く、「月支に法華経を弘通せる家五十余家、天親はその一なり」と。已上正法なり。像法に入ては、天台大師像法の半に漢土に出現して、玄と文と止との三十巻を造りて法華経の淵底を極めたり。像法の末に伝教大師日本に出現して、天台大師の円慧・円定の二法を我朝に弘通せしむるのみならず、円頓の大戒場を叡山に建立して、日本一州皆同じく円戒の地になして、上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰がせ給ふは、あに像法の時、法華経の広宣流布にあらずや。
[39]答へて云く、如来の教法は必ず機に随ふという事は世間の学者の存知なり。しかれども仏教はしからず。上根上智の人のために必ず大法を説くならば、初成道の時なんぞ法華経をとかせ給はざる。正法の先五百余年に大乗経を弘通すべし。有縁の人に大法を説かせ給ふならば、浄飯大王・摩耶夫人に観仏三昧経・摩耶経をとくべからず。無縁の悪人・謗法の者に秘法をあたえずば、覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず。不軽菩薩は誹謗の四衆に向つていかに法華経をば流通せさせ給ひしぞ。されば機に随ひて法を説くと申すは大なる僻見なり。
[40]問うて云く、竜樹・世親は法華経の実義をば宣べ給はずや。
[41]答へて云く、宣べ給はず。
[42]問うて云く、何なる教をかのべ給ひし。
[43]答へて云く、華厳・方等・般若・大日経等の権大乗・顕密の諸経をのべさせ給ひて、法華経の法門をば宣べさせ給はず。
[44]問うて云く、何にをもつてこれをしるや。
[45]答えて云く、竜樹菩薩の所造の論三十万偈。しかれども尽して漢土・日本にわたらざればその心しりがたしといえども、漢土にわたれる十住毘婆沙論・中論・大論等をもつて、天竺の論をも比知してこれを知るなり。
[46]疑ふて云く、天竺に残れる論の中に、わたれる論よりも勝れたる論やあるらん。
[47]答えて云く、竜樹菩薩の事は私に申すべからず。仏記し給へり。我が滅後に竜樹菩薩と申す人南天竺に出ずべし。彼の人の所詮は中論という論にあるべし、と仏記し給ふ。随つて竜樹菩薩の流、天竺に七十家あり。七十人ともに大論師なり。彼の七十家の人々は皆中論を本とす。中論四巻二十七品の肝心は「因縁所生法」の四句の偈なり。この四句の偈は華厳・般若等の四教三諦の法門なり。いまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず。
[48]疑ふて云く、汝がごとくに料簡せる人ありや。
[49]答えて云く、天台云く、〔「中論をもつて相比することなかれ」〕と。また云く、〔「天親・竜樹内鑑冷然にして外は時の宜しきに適ふ」〕等と云云。妙楽云く、〔「もし破会を論ぜば、いまだ法華に若かざる故に」〕と云云。従義云く、〔「竜樹・天親いまだ天台に若かず」〕と云云。
[50]問うて云く、唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす。その名を菩提心論となづく。竜猛菩薩の造なり云云。弘法大師云く、「この論は竜猛千部の中の第一肝心の論」と云云。
[51]答へて云く、この論一部七丁あり。竜猛の言ならぬ事、処々に多し。故に目録にも或は竜猛、或は不空と両方なり。いまだ事定まらず。その上、この論文は一代を括れる論にもあらず。荒量なる事これ多し。先ず「唯真言法中」の肝心の文あやまりなり。その故は、文証・現証ある法華経の即身成仏をばなきになして、文証も現証もあとかたもなき真言の経に即身成仏を立てて候。また「唯」という「唯」の一字は第一のあやまりなり。事のていを見るに、不空三蔵の私につくりて候を、時の人にをも(重)くせさせんがために、事を竜猛によせたるか。その上、不空三蔵は誤る事かずをほし。いわゆる法華経の観智の儀軌に、寿量品を阿弥陀仏とかける、眼の前の大僻見。陀羅尼品を神力品の次にをける、属累品を経末に下せる。これらはいうかひなし。さるかと見れば、天台の大乗戒を盗んで代宗皇帝に宣旨を申し、五台山の五寺に立てたり。しかもまた真言の教相には天台宗をす(為)べしといえり。かたがた誑惑の事どもなり。他人の訳ならば用ふる事もありなん。この人の訳せる経・論は信ぜられず。惣じて月支より漢土に経・論をわたす人、旧訳・新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵を除きては、いづれの人々も誤らざるはなし。その中に不空三蔵は殊に誤り多き上、誑惑の心顕なり。
[52]疑ふて云く、何にをもつて知るぞや、羅什三蔵より外の人々はあやまりなりとは。汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土・日本にわたる一切の訳者を用ひざるか、いかん。
[53]答へて云く、この事は余が第一の秘事なり。委細には向つて問ふべし。ただしすこし申すべし。羅什三蔵の云く、「我漢土の一切経を見るに、皆梵語のごとくならず、いかでかこの事を顕すべき。ただし一つの大願あり。身を不浄になして妻をたひ(帯)すべし。舌計り清浄になして仏法に妄語せじ。我死せば必ずやくべし。焼かん時、舌焼くるならば我が経をすてよ」と、常に高座してきかせ給ひしなり。上一人より下万民にいたるまで願して云く、「願くは羅什三蔵より後に死せん」と。終に死し給ふ後、焼きたてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ。御舌計り火中に青蓮華生てその上にあり。五色の光明を放ちて夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給ひき。さてこそ一切の訳人の経々は軽くなりて、羅什三蔵の訳し給へる経々、殊に法華経は漢土にはやす〳〵とひろまり候しか。
[54]疑ふて云く、羅什已前はしかるべし。已後の善無畏・不空等は如何。
[55]答へて云く、已後なりとも訳者の舌の焼くるをば、誤りありけりとしるべし。されば日本国に法相宗のはやり(流行)たりしを、伝教大師責めさせ給ひしには、羅什三蔵は舌焼けず、玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給ひしかば、桓武天皇は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給ひしなり。涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば、我が仏法は月氏より他国へわたらんの時、多くの謬誤出来して衆生の得道うすかるべしととかれて候。されば妙楽大師は〔「並に進退は人にあり、何ぞ聖旨に関はらん」〕〈記九〉とこそあそばれて候へ。今の人々、いかに経のまゝに後世をねがうとも、あやまれる経々のまゝにねがわば得道もあるべからず。しかればとても仏の御とがにはあらじとか(書)かれて候。仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをく。これこそ第一の大事にては候らめ。
[56]疑ふて云く、正法一千年の論師の内心には、法華経の実義の顕密の諸経に超過してあるよしはしろしめしながら、外には宣説せずして、ただ権大乗計りを宣べさせ給ふことはしかるべしとわをぼへねども、その義はすこしきこえ候ひぬ。像法一千年の半に天台智者大師出現して、題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め「如是我聞」より終り「作礼而去」にいたるまで、一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべてまた一千枚に尽し給ふ。已上玄義・文句の二十巻には、一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ、十方界の仏法の露一渧も漏さず、妙法蓮華経の大海に入させ給いぬ。その上、天竺の大論の諸義一点ももらさず、漢土南北の十師の義、破すべきをばこれをはし、取るべきをばこれを用ふ。その上、止観十巻を注して、一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。この書の文体は、遠くは月支一千年の間の論師にも超え、近くは尸那五百年の人師の釈にも勝れたり。故に三論宗の吉蔵大師、南北一百余人の先達と長者らをすゝめて、天台大師の講経を聞かんとする状に云く、〔「千年の興、五百の実、また今日にあり、乃至、南岳の叡聖、天台の明哲、昔は三業住持し、今は二尊紹係す。あにただ甘露を震旦に灑ぐのみならん。またまさに法鼓を天竺に震うべし。生知の妙悟、魏・晋より以来、典籍の風謡実に連類なし。乃至、禅衆一百余の僧と共に、智者大師を奉請す」〕等と云云。終南山の道宣律師、天台大師を讃歎して云く、〔「法華を照了すること、高輝の幽谷に臨むがごとく、摩訶衍を説くこと、長風の大虚に遊ぶに似たり。たとひ文字の師千群万衆ありて、数々彼の妙弁を尋ぬるとも、よく窮むる者なし。乃至、義は月を指すに同じ。乃至、宗は一極に帰す」〕と云云。華厳宗の法蔵法師、天台を讃して云く、〔「思禅師・智者等のごときは、神異に感通して迹登位に参わる。霊山の聴法、憶い今にあり」〕等と云云。真言宗の不空三蔵・含光法師等、師弟共に真言宗をすてゝ天台大師に帰伏する物語に云く、〔「高僧伝に云く、不空三蔵と親り天竺に遊びたるに、彼に僧あり。問うて云く、大唐に天台の教迹あり。最も邪正を簡び偏円を暁るに堪えたり。よくこれを訳してまさにこの土に至らしむべきや」〕等と云云。この物語は含光が妙楽大師にかたり給ひしなり。妙楽大師この物語を聞いて云く、〔「あに中国に法を失いて、これを四維に求むるにあらずや。しかもこの方に識ることある者少し。魯人のごときのみ」〕等と云云。身毒国の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば、南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき。これあに像法の中に法華経の実義顕れて、南閻浮提に広宣流布するにあらずや。
[57]答へて云く、正法一千年、像法の前四百年、已上仏滅後一千四百余年に、いまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給ふのみならず、その声月氏までもきこえぬ。法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓の戒壇を立てられず。小乗の威儀をもつて円の慧・定に切つけるは、すこし便なきににたり。例せば日輪の蝕するがごとし、月輪のかけたるににたり。いかにいわうや、天台大師の御時は大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたて、いまだ広宣流布の時にあらず。
[58]問うて云く、伝教大師は日本国の士なり。桓武の御宇に出世して、欽明より二百余年が間の邪義をなんじやぶり、天台大師の円慧・円定を撰し給ふのみならず、鑑真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり、叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり。この大事は仏滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり。内証は竜樹・天台等には、或は劣るにもや、或は同じくもやあるらん。仏法の人をすべ(統)て一法となせる事は、竜樹・天親にもこえ、南岳・天台にもすぐれて見えさせ給ふなり。惣じては如来御入滅の後一千八百年が間、この二人こそ法華経の行者にてはをはすれ。故に秀句に云く、〔「経に云く、もし須弥を接りて他方無数の仏土に擲げ置かんも、またいまだこれ難しとせず。乃至、もし仏の滅後に悪世の中において、よくこの経を説かん。これすなわちこれ難し等云云。この経を釈して云く、浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し、法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し、法華宗を助けて日本に弘通す」〕と云云。釈の心は、賢劫第九の減、人寿百歳の時より、如来の在世五十年、滅後の一千八百余年が中間に、高さ十六万八千由旬六百六十二万里の金山を、有人五尺の小身の手をもつて、方一寸二寸等の瓦礫をにぎりて一丁二丁までなぐるがごとく、雀鳥のとぶよりもはやく鉄囲山の外へなぐる者はありとも、法華経を仏のとかせ給ひしやうに説かん人は末法にはまれなるべし。天台大師・伝教大師こそ、仏説に相似してとかせ給ひたる人にてをはすれとなり。天竺の論師はいまだ法華経へゆきつき給はず。漢土の天台已前の人師は或はすぎ、或はたらず。慈恩・法蔵・善無畏等は、東を西といい、天を地と申せる人々なり。これらは伝教大師の自讃にはあらず。
[59]去ぬる延暦二十一年正月十九日、高雄山に桓武皇帝行幸なりて、六宗七大寺の碩徳善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人、最澄法師と召し合せられて宗論ありしに、或は一言に舌を巻て二言三言に及ばず、皆一同に頭をかたぶけ、手をあざ(叉)う。三論の二蔵・三時・三転法輪、法相の三時・五性、華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相十玄、皆大綱をやぶらる。例せば大屋の棟梁のをれたるがごとし。十大徳の慢幢も倒れにき。その時、天子大に驚かせ給ひて、同じき二十九日に弘世・国道の両吏を勅使として、重ねて七寺六宗に仰せ下されしかば、各々帰伏の状を載て云く、〔「窃に天台の玄疏を見れば、惣じて釈迦一代の教を括りて、悉くその趣を顕すに通ぜざるところなく、独り諸宗に逾え殊に一道を示す。その中の所説甚深の妙理なり。七箇の大寺、六宗の学生、昔よりいまだ聞かざるところ、かつていまだ見ざるところなり。三論・法相久年の諍い、渙焉として氷のごとく釈け、照然としてすでに明かなること、なお雲霧を披いて三光を見るがごとし。聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずるところの経論、その数多し。彼此理を争いて、その疑いいまだ解けず。しかるにこの最妙の円宗、なおいまだ闡揚せず。蓋しもつてこの間の群生、いまだ円味に応わざるか。伏して惟れば、聖朝久しく如来の付を受け、深く純円の機を結び、一妙の義理始めてすなわち興顕し、六宗の学者初めて至極を悟る。謂つべし、此界の含霊、今より後は悉く妙円の船に載せ、早く彼岸に済ることを得ん。乃至、善議等、牽かれて休運に逢い、すなわち奇詞を閲す。深期にあらざるよりは何ぞ聖世彼に託せんや」〕等と云云。彼の漢土の嘉祥等は、一百余人をあつめて天台大師を聖人と定めたり。今日本の七寺二百余人は、伝教大師を聖人とがうしたてまつる。仏の滅後二千余年に及んで両国に聖人二人出現せり。その上、天台大師未弘の円頓の大戒を叡山に建立し給う。これあに像法の末に法華経広宣流布するにあらずや。
[60]答へて云く、迦葉・阿難等の弘通せざる大法を馬鳴・竜樹・提婆・天親等の弘通せる事、前の難に顕れたり。また竜樹・天親等の流布し残し給へる大法、天台大師の弘通し給ふ事、また難にあらわれぬ。また天台智者大師の弘通し給はざる円頓の大戒を、伝教大師の建立せさせ給ふ事、また顕然なり。ただし詮と不審なる事は、仏は説き尽し給へども、仏の滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親、乃至、天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。この深法、今末法の始、五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事、不審〔極りなき〕なり。
[61]問ふ、いかなる秘法ぞ。先づ名をきき、次に義をきかんとをもう。この事もし実事ならば、釈尊の二度世に出現し給ふか。上行菩薩の重ねて涌出せるか。いそぎ〳〵慈悲をたれられよ。彼の玄奘三蔵は六生を経て月氏に入つて十九年、法華一乗は方便教、小乗阿含経は真実教。不空三蔵は身毒に返りて寿量品を阿弥陀仏とかかれたり。これらは東を西という、日を月とあやまてり。身を苦しめてなにかせん、心に染てようなし。幸我等末法に生れて、一歩をあゆまずして三祇をこえ、頭を虎にか(飼)わずして無見頂相をえん。
[62]答へて云く、この法門を申さん事は、経文に候へばやすかるべし。ただしこの法門には先づ三つの大事あり。大海は広けれども死骸をとどめず。大地は厚けれども不孝の者をば載せず。仏法には五逆をたすけ、不孝をばすくう。ただし誹謗一闡提の者、持戒にして大智なるをばゆるされず。この三つのわざわひとは、いわゆる念仏宗と禅宗と真言宗となり。
[63]一には念仏宗は日本国に充満して、四衆の口あそびとす。二に禅宗は三衣一鉢の大慢の比丘の四海に充満して、一天の明導とをもへり。三に真言宗はまた彼等の二宗にはにるべくもなし。叡山・東寺・七寺・薗城、或は官主、或は御室、或は長吏、或は検校なり。かの内侍所の神鏡燼灰となりしかども、大日如来の宝印を仏鏡とたのみて、宝剣西海に入りしかども、五大尊をもつて国敵を切らんと思へり。これらの堅固の信心は、たとひ劫石はひすらぐともかたぶくべしとはみへず。大地は反覆すとも疑心をこりがたし。
[64]彼の天台大師の南北をせめ給ひし時も、この宗いまだわたらず。この伝教大師の六宗をしえたげ給ひし時ももれぬ。かた〴〵の強敵をまぬがれて、かへて大法をかすめ失う。その上、伝教大師の御弟子慈覚大師、この宗をとりたてゝ叡山の天台宗をかすめをとして、一向真向宗になししかば、この人には誰の人か敵をなすべき。かゝる僻見のたよりをえて、弘法大師の邪義をもとがむる人もなし。安然和尚すこし弘法を難ぜんとせしかども、ただ華厳宗のところ計りとがむるにて、かへて法華経をば大日経に対して沈みはてぬ。ただ世間のたて入りの者のごとし。
[65]問うて云く、この三宗の謬誤如何。
[66]答えて云く、浄土宗は斉の世に曇鸞法師と申す者あり。本は三論宗の人、竜樹菩薩の十住毘婆沙論を見て難行道・易行道を立てたり。道綽禅師という者あり。唐の世の者、本は涅槃経をかうじけるが、曇鸞法師が浄土にうつる筆を見て、涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土の二門を立てたり。また道綽が弟子善導という者あり。雑行・正行を立つ。日本国に、末法に入つて二百余年、後鳥羽院の御宇に法然というものあり。一切の道俗をすすめて云く、仏法は時機を本とす。法華経・大日経、天台・真言等の八宗九宗、一代の大小・顕密・権実等の経宗等は上根上智、正・像二千年の機のためなり。末法に入つては、いかに功をなして行ずるとも、その益あるべからず。その上、弥陀念仏にまじへて行ずるならば、念仏も往生すべからず。これわたくしに申すにはあらず。竜樹菩薩・曇鸞法師は「難行道」となづけ、道綽は「未有一人得者」ときらひ、善導は「千中無一」となずけたり。これらは他宗なれば御不審もあるべし。慧心の先徳にすぎさせ給へる天台・真言の智者は末代にをはすべきか。かれ往生要集にかゝれたり。顕密の教法は予が死生をはなるべき法にはあらず。また三論の永観が十因等をみよ。されば法華・真言等をすてて一向に念仏せば、十即十生百即百生とすゝめければ、叡山・東寺・園城・七寺等、始は諍論するやうなれども、往生要集の序の詞、道理かとみへければ、顕真座主落させ給ひて法然が弟子となる。その上、たとひ法然が弟子とならぬ人人も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにをもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。この五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば、日本国一人もなく謗法の者となりぬ。譬へば千人の子が一同に一人の親を殺害せば、千人共に五逆の者なり。一人阿鼻に堕ちなば余人堕ちざるべしや。結句は法然流罪をあだみて悪霊となつて、我並に弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入つて、或は謀反ををこし、或は悪事をなして、皆関東にほろぼされぬ。わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は、俗男俗女にあなづらるゝこと、猿猴の人にわらはれ、俘因が童子に蔑如せらるるがごとし。
[67]禅宗はまたこの便を得て持斎等となつて人の眼を迷かし、たつとげなる気色なれば、いかにひがほうもん(法門)をいゐくるへども、失ともをぼへず。禅宗と申す宗は、教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにさゝやかせ給えり。されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、犬の雷をかむがごとし。猿の月の影をとるににたり云云。この故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ、無礼なる故に主君にかんだうせられ、あるいは若なる法師等の学文にものうき、遊女のものぐるわしき本性に叶へる邪法なるゆへに、皆一同に持斎になりて、国の百姓をくらう蝗虫となれり。しかれば天は天眼をいからかし、地神は身をふるう。
[68]真言宗と申すは上の二つのわざわひにはにるべくもなき大僻見なり。あら〳〵これを申すべし。いわゆる大唐の玄宗皇帝の御宇に、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす。この三経の説相分明なり。その極理を尋ぬれば会二破二の一乗、その相を論ずれば印と真言と計りなり。なお華厳・般若の三一相対の一乗にも及ばず。天台宗の爾前の別・円程もなし。ただ蔵・通二教を面とす。しかるを善無畏三蔵をもわく、この経文を顕わにいゐ出す程ならば、華厳・法相にもをこつかれ、天台宗にもわらわれなん。大事として月支よりは持来りぬ。さてもだせば本意にあらずとやをもひけん。天台宗の中に一行禅師という僻人一人あり。これをかたらひて漢土の法門をかたらせけり。一行阿闍梨うちぬかれて、三論・法相・華厳等をあら〳〵かたるのみならず、天台宗の立てられけるやうを申しければ、善無畏をもはく、天台宗は天竺にして聞しにもなをうちすぐ(勝)れて、かさむべきやうもなかりければ、善無畏は一行をうちぬひて云く、和僧は漢土にはこざかしき者にてありけり。天台宗は神妙の宗なり。今真言宗の天台宗にかさむところは、印と真言と計りなり、といゐければ、一行さもやとをもひければ、善無畏三蔵一行にかた(語)て云く、天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく、大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう。汝かきなんや、といゐければ、一行が云く、やすう候。ただしいかやうにかき候べきぞ。天台宗はにくき宗なり。諸宗は我も〳〵とあらそいをなせども、一切に叶はざる事一つあり。いわゆる法華経の序分に無量義経と申す経をもつて、前四十余年の経々をば、その門を打ふさぎ候ぬ。法華経の法師品・神力品をもつて後の経々をば、またふせがせぬ。肩をならぶ経々をば今説の文をもつてせめ候。大日経をば三説の中にはいづくにかをき候べき、と問ひければ、その時に善無畏三蔵大に巧んで云く、大日経に住心品という品あり。無量義経の四十余年の経々を打はらうがごとし。大日経の入漫陀羅已下の諸品は、漢土にては法華経・大日経とて二本なれども、天竺にては一経のごとし。釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて、印と真言とをすててただ理計りをとけるを、羅什三蔵これをわたす。天台大師これを見る。大日如来、法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給ふ。これを大日経となづく。我まのあたり天竺にしてこれを見る。されば汝がかくべきやうは、大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし。もししからば、大日経は已今当の三説をば皆法華経のごとくうちをとすべし。さて印と真言とは、心法の一念三千に荘厳するならば、三密相応の秘法なるべし。三密相応する程ならば天台宗は意密なり。真言は甲なる将軍の、甲鎧を帯して弓箭を横たへ、太刀を腰にはけるがごとし。天台宗は意密計りなれば、甲なる将軍の赤裸なるがごとくならん、といゐければ、一行阿闍梨はこのやうにかきけり。漢土三百六十箇国にはこの事を知る人なかりけるかのあひだ、始には勝劣を諍論しけれども、善無畏等は人がら重し、天台宗の人々は軽かりけり。また天台大師ほどの智ある者もなかりければ、ただ日々に真言宗になりてさてやみにけり。年ひさしくなれば、いよ〳〵真言の誑惑の根ふかくかくれて候ひけり。
[69]日本国の伝教大師、漢土にわたりて天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならひわたす。天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。ただし六宗と天台宗の勝劣は入唐以前に定めさせ給ふ。入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論か、計りなかりけるかのあひだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん。また末法にせめさせんとやをぼしけん。皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。弟子等にもはか〴〵しくかたらせ給はず。ただし依憑集と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落たるやうをかゝれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。
[70]弘法大師は同じき延暦年中に御入唐、青竜寺の恵果に値ひ給ひて真言宗をならわせ給へり。御帰朝の後、一代の勝劣を判じ給ひけるには、第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候。この大師は世間の人々はもつてのほかに重んずる人なり。ただし仏法のことは、事は申すにをそれあれども、もつてのほかにあらき(荒量)事どもはんべり。この事をあら〳〵かんがへたるに、漢土にわたらせ給ひては、ただ真言の事相の印・真言計り習ひつたえて、その義理をばくはしくもさはぐらせ給はざりけるほどに、日本にわたりて後、大に世間を見れば、天台宗もつてのほかにかさみたりければ、我が重んずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに、本日本国にして習ひたりし華厳宗をとりいだして、法華経にまされるよしを申しけり。それも常の華厳宗に申すやうに申すならば、人信ずまじとやをぼしめしけん。すこしいろをかえて、これは大日経、竜猛菩薩の菩提心論、善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども、天台宗の人々いたうとがめ申す事なし。
[71]問うて云く、弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論に云く、〔「かくのごとき乗々、自乗に名を得れども、後に望めば戯論と作す」〕。また云く、〔「無明の辺域にして、明の分位にあらず」〕。また云く、〔第四熟蘇味なり」〕。また云く、〔「震旦の人師等、諍いて醍醐を盗みて、各自宗に名く」〕等と云云。これらの釈の心如何。
[72]答へて云く、予、この釈にをどろいて、一切経並に大日の三部経等をひらきみるに、華厳経と大日経とに対すれば法華経は戯論、六波羅蜜経に対すれば盗人、守護経に対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候わず。この事はいとはかなき事なれども、この三、四百余年に日本国のそこばくの智者どもの用ひさせ給へば、定めてゆへあるかとをもひぬべし。しばらくいとやすきひが(僻)事をばあげて、余事のはかなき事をしらすべし。
[73]法華経を醍醐味と称することは陳・隋の代なり。六波羅蜜経は唐の半に般若三蔵これをわたす。六波羅蜜経の醍醐は陳・隋の世にはわたりてあらばこそ、天台大師は真言の醍醐をば盗ませ給わめ。傍例あり。日本の得一が云く、「天台大師は深密経の三時教をやぶる、三寸の舌をもつて五尺の身をたつべし」とののしりしを、伝教大師これをただして云く、「深密経は唐の始、玄奘これをわたす。天台は陳・隋の人、智者御入滅の後、数箇年あつて深密経わたれり。死して已後にわたれる経をば、いかでか破し給ふべき」とせめさせ給ひて候しかば、得一はつまるのみならず、舌八つにさけて死し候ぬ。これは彼にはにるべくもなき悪口なり。華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台等、乃至、南北の諸師、後漢より已下の三蔵・人師を、皆をさえて盗人とかゝれて候なり。その上、また法華経を醍醐と称することは、天台等の私の言にはあらず。仏涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給ひ、天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかゝれて候。竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給ふ。されば法華経等を醍醐と申す人盗人ならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか。弘法の門人等、乃至、日本の東寺の真言師、如何に自眼の黒白はつたなくして弁へずとも、他の鏡をもつて自禍をしれ。この外、法華経を戯論の法とかかるゝこと、大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ。たとい彼々の経々に法華経を戯論ととかれたりとも、訳者の誤る事もあるぞかし。よく〳〵思慮のあるべかりけるか。孔子は九思一言、周公旦は沐には三にぎり、食には三たびはかれけり。外書のはかなき世間の浅き事を習ふ人すら、智人はかう候ぞかし。いかにかゝるあさましき事はありけるやらん。かゝる僻見の末へなれば、彼の伝法院の本願とがうする聖覚房が舎利講の式に云く、〔「尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり。驢牛の三身は車を扶くること能わず。秘奥なる者は、両部曼荼羅の教なり、顕乗の四法は履を採るに堪えず」〕と云云。顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、これらの仏・僧は真言師に対すれば、聖覚・弘法の牛飼、履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候。
[74]彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学、顕密二道胸にうかべ、内外の典籍掌ににぎる。されば王臣頭をかたぶけ、万民師範と仰ぐ。あまりの慢心に、世間に尊崇する者は、大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊、この四聖なり。我が座の四足にせんと、座の足につくりて坐して法門を申しけり。当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて、灌頂する時、敷まんだらとするがごとし。禅宗の法師等が云く、この宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし。しかるを賢愛論師と申せし小僧あり。彼をただすべきよし申せしかども、王臣万民これをもちゐず、結句は大慢が弟子等・檀那等に申しつけて、無量の妄語をかまへて悪口打擲せしかども、すこしも命もをしまずのゝしりしかば、帝王賢愛をにくみてつめ(詰)させんとし給ひしほどに、かへりて大慢がせめられたりしかば、大王天に仰ぎ地に伏してなげいての給はく、朕はまのあたりこの事をきひて邪見をはらしぬ。先王はいかにこの者にたぼらかされて阿鼻地獄にをはすらんと、賢愛論師の御足にとりつきて悲涙せさせ給ひしかば、賢愛の御計いとして、大慢を驢にのせて、五竺に面をさらし給ひければ、いよ〳〵悪心盛になりて現身に無間地獄に堕ちぬ。今の世の真言と禅宗等とはこれにかわれりや。
[75]漢土の三階禅師云く、教主釈尊の法華経は第一、第二階の正・像の法門なり。末代のためには我がつくれる普経なり。法華経を今の世に行ぜん者は、十方の大阿鼻獄に堕つべし。末法の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時の礼懺、四時の坐禅、生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかども、わづかの小女の法華経をよみしにせめられて、当坐には音を失ひ、後には大蛇になりて、そこばくの檀那・弟子並に小女・処女等をのみ食ひしなり。今の善導・法然等が「千中無一」の悪義もこれにて候なり。これらの三つの大事はすでに久くなり候へば、いやしむべきにはあらねども、申さば信ずる人もやありなん。これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり。
[76]慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なり。しかれども上一人より下万民にいたるまで、伝教大師には勝れてをはします人なりとをもえり。この人真言宗と法華宗の奥義を極めさせ給ひて候が、真言は法華経に勝れたりとかかせ給へり。しかるを叡山三千人の大衆、日本一州の学者等、一同帰伏の宗義なり。弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣るとかかせ給へるは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもつてをもうに、真言宗の法華経に勝れたることは一定なり。日本国にして真言宗を法華経に勝ると立つるをば、叡山こそ強きかたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば、真言宗はをもうがごとし。されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず。例せば浄土宗・禅宗は余国にてはひろまるとも、日本国にしては延暦寺のゆるされなからんには、無辺劫はふとも叶ふまじかりしを、安然和尚と申す叡山第一の古徳、教時諍論と申す文に九宗の勝劣を立てられたるに、第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗等云云。この大謬釈につひて禅宗は日本国に充満して、すでに亡国とならんとはするなり。法然が念仏宗のはやりて一国を失はんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり。師子の身の中の虫の師子を食ふと、仏の記し給ふはまことなるかなや。
[77]伝教大師は日本国にして十五年が間、天台・真言等を自見せさせ給ふ。生知の妙悟にて、師なくしてさとらせ給ひしかども、世間の不審をはらさんがために、漢土に亘りて天台・真言の二宗を伝へ給ひし時、彼土の人々はやう〳〵の義ありしかども、我心には法華は真言にすぐれたりとをぼしめししゆへに、真言宗の宗の名字をば削らせ給ひて、天台宗の止観・真言等とかかせ給ふ。十二年の年分得度者二人ををかせ給ひ、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し、永代日本国の第一の重宝神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給ひき。叡山第一の座主義真和尚・第二の座主円澄大師まではこの義相違なし。
[78]第三の慈覚大師御入唐、漢土にわたりて十年が間、顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう。また天台宗の人々、広修・維蠲等にならわせ給ひしかども、心の内にをぼしけるは、真言宗は天台宗には勝れたりけり。我が師伝教大師はいまだこの事をばくはしく習はせ給はざりけり。漢土に久しくもわたらせ給はざりける故に、この法門はあらうち(荒唐)にみ(見)をはしけるやとをぼして、日本国に帰朝し、叡山東塔止観院の西に惣持院と申す大講堂を立て、御本尊は金剛界の大日如来、この御前にして大日経の善無畏の疏を本として、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻をつくる。この疏の肝心の釈に云く、〔「教に二種あり。一は顕示教、謂く三乗教なり。世俗と勝義といまだ円融せざるが故に。二は秘密教、謂く一乗教なり。世俗と勝義と一体にして融するが故に。秘密教の中にまた二種あり。一には理秘密の教、諸の華厳・般若・維摩・法華・涅槃等なり。ただ世俗と勝義との不二を説きて、いまだ真言・密印の事を説かざるが故に。二には事理倶密の教、謂く大日経・金剛頂経・蘇悉地経等なり。また世俗と勝義との不二を説き、また真言・密印の事を説くが故に」〕等と云云。釈の心は、法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給ふに、真言の三部経と法華経とは、所詮の理は同じく一念三千の法門なり。しかれども密印と真言等の事法は、法華経はかけてをはせず。法華経は理秘密、真言の三部経は事理倶密なれば、天地雲泥なりとかかれたり。しかも、この筆は私の釈にはあらず。善無畏三蔵の大日経の疏の心なりとをぼせども、なを〳〵二宗の勝劣不審にやありけん。はたまた他人の疑をさんぜんとやをぼしけん。大師〈慈覚なり〉の伝に云く、〔「大師二経の疏を造り、功を成し已畢りて、心中に独り謂らく、この疏仏意に通ずるや否や。もし仏意に通ぜざれば、世に流伝せず。仍て仏像の前に安置し、七日七夜深誠を翹企し、祈請を勤修す。五日の五更に至つて夢みらく、正午に当りて日輪を仰ぎ見て、弓をもつてこれを射るに、その箭日輪に当りて、日輪すなわち転動すと。夢覚めての後、深く仏意に通達せりと悟り、後世に伝ふべし」〕等と云云。慈覚大師は本朝にしては伝教・弘法の両家を習ひきわめ、異朝にしては八大徳並に南天の宝月三蔵等に、十年が間最大事の秘法をきわめさせ給へる上、二経の疏をつくり了り、重ねて本尊に祈請をなすに、智慧の矢すでに中道の日輪にあたりてうちをどろかせ給ひ、歓喜のあまりに仁明天皇に宣旨を申しそへさせ給ひ、天台座主を真言の官主となし、真言の鎮護国家の三部とて、今に四百余年が間、碩学稲麻のごとし、渇仰竹葦に同じ。されば桓武・伝教等の日本国建立の寺塔は、一宇もなく真言の寺となりぬ。公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあをぎ、官をなし寺をあづけたぶ。仏事の木画の開眼供養は、八宗一同に大日仏眼の印・真言なり。
[79]疑ふて云く、法華経を真言に勝ると申す人はこの釈をばいかんがせん。用ふべきか、またすつべきか。
[80]答ふ、仏の未来を定めたまうに云く、〔「法に依りて人に依らざれ」〕。竜樹菩薩云く、〔「修多羅に依るは白論なり。修多羅に依らざるは黒論なり」〕。天台云く、〔「また修多羅と合せば録してこれを用ふ。文なく義なきは信受すべからず」〕。伝教大師云く、〔「仏説に依憑して、口伝を信ずることなかれ」〕等と云云。これらの経・論・釈のごときんば、夢を本にはすべからず。ただついさして法華経と大日経との勝劣を、分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ。ただし印・真言なくば木画の像の開眼の事、これまたをこの事なり。真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか。天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行き、或は説法し、或は御物語あり。印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた、利生もかた〴〵失たるなり。これは常の論談の義なり。この一事にをいては、ただし日蓮は分明の証拠を余所に引くべからず。慈覚大師の御釈を仰いで信じて候なり。
[81]問うて云く、何にと信ぜらるるや。
[82]答へて云く、この夢の根源は、真言は法華経に勝ると造り定めての御ゆめなり。この夢吉夢ならば、慈覚大師の合せさせ給ふがごとく真言勝るべし。ただし日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか。内典五千七千余巻・外典三千余巻の中に、日を射るとゆめに見て吉夢なる証拠をうけ給はるべし。少少これより出し申さん。阿闍世王は天より月落るとゆめにみて、耆婆大臣に合せさせ給ひしかば、大臣合せて云く、仏の御入滅なり。須抜多羅、天より日落るとゆめにみる。我とあわせて云く、仏の御入滅なり。修羅は帝釈と合戦の時、まず日月をいたてまつる。夏の桀・殷の紂と申せし悪王は、常に日をいて身をほろぼし国をやぶる。摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給ふ。かるがゆへに仏のわらわなをば日種という。日本国と申すは、天照太神の日天にしてましますゆへなり。さればこのゆめは、天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経をいたてまつれる矢にてこそ二部の疏は候なれ。日蓮は愚癡の者なれば、経論もしらず。ただこの夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は、今生には国をほろぼし、家を失ひ、後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候。
[83]今現証あるべし。日本国と蒙古国との合戦に、一切の真言師の調伏を行ひ候へば、日本かちて候ならば、真言はいみじかりけりとをもひ候ひなん。ただし承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候ひしが、調伏せられ給ひし権の大夫殿はかたせ給ひ、後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の天子は佐渡の嶋々へ調伏しやりまいらせ候ぬ。結句は野干のなき(鳴)の己が身にをうなるやうに、「還著於本人」の経文にすこしもたがわず。叡山の三千人かまくらにせめられて、一同にしたがいはてぬ。しかるにまたかまくら、日本を失はんといのるかと申すなり。これをよく〳〵しる人は一閻浮提一人の智人となるべし。よく〳〵しるべきか。今はかまくらの世さかんなるゆへに、東寺・天台・薗城・七寺の真言師等と、並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人々、関東にをちくだりて、頭をかたぶけ、ひざをかがめ、やう〳〵に武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり、長吏となりて、王位を失ひし悪法をとりいだして、国土安穏といのれば、将軍家並びに所従の侍已下は、国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもいてあるほどに、法華経を失ふ大禍の僧どもを用ひらるれば、国定めてほろびなん。
[84]亡国のかなしさ、亡身のなげかしさに、身命をすてゝこの事をあらわすべし。国主世を持つべきならば、あやしとをもひて、たづぬべきところに、ただざんげんのことばのみ用ひて、やう〳〵のあだをなす。しかるに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は、古の謗法をば不思議とはをぼせども、これをしれる人なければ、一子の悪事のごとくうちゆるして、いつわりをろかなる時もあり、またすこしつみしらする時もあり。今は謗法を用ひたるだに不思議なるに、まれ〳〵諫暁する人をかへりてあだをなす。一日二日・一月二月・一年二年ならず数年に及ぶ。かの不軽菩薩の杖木の難に値ひしにもすぐれ、覚徳比丘の殺害に及びしにもこえたり。しかる間、梵・釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やう〳〵にいかり、度々いさめられるれども、いよ〳〵あだをなすゆへに、天の御計ひとして、隣国の聖人にをほせつけられてこれをいましめ、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし、自界反逆せしむ。吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて、仏滅後二千二百三十余年が間、いまだいでざる大長星、いまだふらざる大地しん出来せり。漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度々ありしかども、いまだ日蓮ほど法華経のかたうど(方人)して、国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮第一の者としるべし。
[85]仏法日本にわたて七百余年、一切経は五千七千、宗は八宗十宗、智人は稲麻のごとし、弘通は竹葦ににたり。しかれども仏には阿弥陀仏、諸仏の名号には弥陀の名号ほどひろまりてをはするは候はず。この名号を弘通する人は、慧心は往生要集をつくる、日本国三分が一は一同の弥陀念仏者。永観は十因と往生講の式をつくる。扶桑三分が二分は一同の念仏者。法然せんちやくをつくる、本朝一同の念仏者。しかれば今の弥陀の名号を唱ふる人人は一人が弟子にはあらず。この念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人はこれをすい(推)しぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目もまた流布すべし。欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱へよと他人をすゝめ、我と唱へたる智人なし。日出ぬれば星かくる。賢王来れば愚王ほろぶ。実経流布せば権経のとどまり、智人南無妙法蓮華経と唱えば愚人のこれに随はんこと、影と身と、声と響とのごとくならん。日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもつてすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者はあるべからず。
[86]問うて云く、正嘉の大地しん・文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや。
[87]答へて云く、天台云く、〔「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」〕等と云云。
[88]問うて云く、心いかん。
[89]答へて云く、上行菩薩の大地より出現し給ひたりしをば、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人々も、元品の無明を断ぜざれば愚人といわれて、寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、この菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり。
[90]問うて云く、日本・漢土・月支の中にこの事を知る人あるべしや。
[91]答へて云く、見思を断尽し、四十一品の無明を尽せる大菩薩だにもこの事をしらせ給はず、いかにいわうや、一毫の惑をも断ぜぬ者どものこの事を知るべきか。
[92]問うて云く、智人なくばいかでかこれを対治すべき。例せば病の所起を知らぬ人の、病人を治すれば人必ず死す。この災の根源を知らぬ人々がいのりをなさば、国まさに亡びん事疑ひなきか。あらあさましや〳〵。
[93]答へて云く、蛇は七日が内の大雨をしり、烏は年中の吉凶をしる。これすなわち大竜の所従、また久学のゆへか。日蓮は凡夫なり。この事をしるべからずといえども、汝等にほぼこれをさとさん。彼の周の平王の時、禿にして裸なる者出現せしを、辛有といゐし者うらなつて云く、「百年が内に世ほろびん」。同じき幽王の時、山川くずれ、大地ふるひき。白陽と云ふ者勘へていはく、「十二年の内に大王事に値せ給ふべし」。今の大地震・大長星等は、国主日蓮をにくみて、亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたうどせらるれば、天いからせ給ひていださせ給ふところの災難なり。
[94]問うて云く、なにをもつてこれを信ぜん。
[95]答へて云く、最勝王経に云く、〔「悪人を愛敬し、善人を治罰するによるが故に、星宿及び風雨皆時をもつて行われず」〕等と云云。この経文のごときんば、この国に悪人のあるを、王臣これを帰依するという事疑いなし。またこの国に智人あり。国主これをにくみて、あだすという事もまた疑いなし。また云く、〔「三十三天の衆、咸忿怒の心を生じ、変怪の流星堕ち、二の日倶時に出で、他方の怨賊来りて、国人喪乱に遭わん」〕等と云云。すでにこの国に天変あり、地夭あり。他国よりこれをせむ。三十三天の御いかりあることまた疑いなきか。仁王経に云く、〔「諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く。その王別ずしてこの語を信聴す」〕等と云云。また云く、〔「日月度を失ひ、時節反逆し、或は赤日出で、或は黒日出で、二三四五の日出で、或は日触して光なく、或は日輪一重二重四五重輪現ず」〕等と云云。文の心は、悪比丘等国に充満して、国王・太子・王子等をたぼらかして、破仏法・破国の因縁をとかば、その国の王等、この人にたぼらかされてをぼすやう、この法こそ持仏法の因縁・持国の因縁とをもひ、この言ををさめ(納)て行ならば日月に変あり、大風と大雨と大火等出来し、次には内賊と申して親類より大兵乱をこり、我がかたうどしぬべき者をば皆打失ひて、後には他国にせめられて、或は自殺し、或はいけどりにせられ、或は降人となるべし。これ偏に仏法をほろぼし、国をほろぼす故なり。守護経に云く、〔「彼の釈迦牟尼如来の所有の教法は、一切の天魔・外道・悪人・五通の神仙も、皆乃至少分をも破壊せず。しかるに、この名相ある諸の悪沙門、皆悉く毀滅して、余りあることなからしめん。須弥山をたとい三千界の中の草木を尽して薪となし、長時に焚焼すとも一毫も損ずることなきに、もし劫火起り、火内より生じ、須臾に焼滅して、灰燼を余すことなきがごとし」〕等と云云。蓮華面経に云く、〔「仏、阿難に告げたまわく、譬えば師子の命終せんに、もしは空、もしは地、もしは水、もしは陸、所有の衆生、あえて師子の宍を食わず。ただ師子自ら諸の虫を生じて、自ら師子の宍を食うがごとし。阿難、我が仏法は余の能く壊るにあらず。これ我が法の中の諸の悪比丘、我が三大阿僧祇劫に積行し勤苦し集むる所の仏法を破らん」〕等と云云。経文の心は、過去の迦葉仏、釈迦如来の末法の事を訖哩枳王にかたらせ給ひ、釈迦如来の仏法をばいかなるものがうしなうべき。大族王の五天の堂舎を焼払い、十六大国の僧尼を殺せし、漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ、僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は、釈迦の仏法をば失ふべからず。三衣を身にまとひ、一鉢を頸にかけ、八万法蔵を胸にうかべ、十二部経を口にずう(誦)せん僧侶が、彼の仏法を失うべし。譬へば須弥山は金の山なり。三千大千世界の草木をもつて四天・六欲に充満してつみこめて、一年二年百千万億年が間やくとも、一分も損ずべからず。しかるを劫火をこらん時、須弥の根より豆計りの火いでて須弥山をやくのみならず、三千大千世界をやき失うべし。もし仏記のごとくならば、十宗・八宗・内典の僧等が、仏教の須弥山をば焼き払うべきにや。小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり。真言の善無畏等・禅宗の三階等・浄土の善導等は、仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり。伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の碩徳等を六虫とかかせ給へり。日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく。また天台宗の慈覚・安然・恵心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。これらの大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば、天神もをしみ、地祇もいからせ給ひて、、災夭も大に起るなり。されば心うべし。一閻浮提第一の大事を申すゆへに、最第一の瑞相ここにをこれり。
[96]あわれなるかなや、なげかしきかなや、日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ。悦しきかなや、楽かなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下も万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経〳〵と唱へ、掌を合せて、たすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。例せば月支の大族王は幼日王に掌をあわせ、日本の盛時はかじわらをうやまう。大慢のものは敵に随ふという、このことわり(此理)なり。彼の軽毀大慢の比丘等は、始には杖木をとゝのへて不軽菩薩を打しかども、後には掌をあはせて失をくゆ。提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども、臨終の時には南無と唱ひたりき。仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを、業ふかくしてただ南無とのみとなへて仏とはいわず。今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん。
[97]外典に云く、未萌をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖人という。余に三度のかうみやう(高名)あり。一には、去し文応元年〈太歳庚申〉七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。この事を御用ひなきならば、この一門より事をこりて、他国にせめられさせ給ふべし。二には、去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には、去年〈文永十一年〉四月八日、左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗がこの国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰せ付けらるべからず。もし大事を真言師調伏するならば、いよ〳〵いそいでこの国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問うて云く、いつごろ(何頃)かよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。この三つの大事は、日蓮が申したるにはあらず。ただ偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。経に云く、「所謂諸法如是相」と申すは何事ぞ。十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給ふ。「智人は起をしる、蛇はみづから蛇をしる」とはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始しは、日本国には一渧一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道はこれよりほかにまたもとむる事なかれ。
[98]問うて云く、第二の文永八年九月十二日の御勘気の時は、いかにとして我をそん(損)せば自他のいくさをこるべしとはしり給ふや。
[99]答ふ、大集経〈五十〉に云く、〔「もしまた、諸の刹利・国王諸の非法をなし、世尊の声聞の弟子を悩乱し、もしはもつて毀罵し、刀杖をもて打斫し、及び衣鉢種種の資具を奪い、もしは他の給施に留難をなす者あらば、我等、彼をして自然に卒に他方の怨敵を起さしめ、及び自界の国土にもまた、兵起して飢疫・飢饉・非時の風雨・闘諍言訟・譏謗せしめ、またその王をして久しからずしてまたまさに己が国を亡失せしめん」〕等と云云。
[100]それ諸経に諸文多しといえども、この経文は身にあたり、時にのぞんで殊に尊くをぼうるゆへに、これをせんじいだす。この経文に我等とは、梵王と帝釈と第六天の魔王と日月と四天等の三界の一切の天竜等なり。これらの上主、仏前に詣して誓つて云く、仏の滅後、正法・像法・末代の中に、正法を行ぜん者を邪法の比丘等が国主にうつたへば、王に近きもの、王に心よせなる者、我がたつとしとをもう者のいうことなれば、理不尽に是非も弁えず、彼の智人をさん〴〵とはぢ(恥)にをよばせなんどせば、その故ともなく、その国ににわかに大兵乱出現し、後には他国にせめらるべし。その国主もうせ、その国もほろびなんずととかれて候。いたひ(痛)とかゆき(痒)とはこれなり。日蓮が身には今生にはさせる失なし。ただ国をたすけんがため、生国の恩をほうぜんと申せしを、御用ひなからんこそ本意にあらざるに、あまさへ(剰)召し出して、法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだして、さんざんとさいなみ、結局はこうぢ(小路)をわたしなんどせしかば、申したりしなり。日月、天に処し給ひながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずは、一には日蓮が法華経の行者ならざるか、忽に邪見をあらたむべし。もし日蓮法華経の行者ならば、忽に国にしるしを見せ給へ。もししからずば、今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり。提婆が虚誑罪、倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと、声をあげて申せしかば、忽に出来せる自界叛逆難なり。されば国土いたくみだれば、我が身はいうにかひなき凡夫なれども、御経を持ちまいらせ候分斉は、当世には日本第一の大人なりと申すなり。
[101]問うて云く、慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり。汝が大慢は仏教に明すところの大慢にも百千万億倍すぐれたり。彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼せず、大慢婆羅門は四聖を座とせり。大天は凡夫にして阿羅漢となのる、無垢論師が五天第一といゐし、これらは皆阿鼻に堕ちぬ。無間の罪人なり。汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる。大地獄に堕ちざるべしや。をそろし〳〵。
[102]答へて云く、汝は七慢・九慢・八慢等をばしれりや。大覚世尊は三界第一となのらせ給ふ。一切の外道が云く、「只今天に罰せらるべし。大地われて入なん」。日本国の七寺三百余人が云く、「最澄法師は大天が蘇生か、鉄腹が再誕か」等と云云。しかりといえども天も罰せず、かへて左右を守護し、地もわれず、金剛のごとくなりぬ。伝教大師は叡山を立てて一切衆生の眼目となる。結句七大寺は落て弟子となり、諸国は檀那となる。されば現に勝れたるを勝れたりという事は、慢ににて大功徳となりけるか。伝教大師云く、〔「天台法華宗の諸宗に勝れたるは、所依の経に拠るが故なり。自讃毀他にあらず」〕等と云云。法華経第七に云く、〔「衆山の中に須弥山これ第一なり。この法華経もまたかくのごとし。諸経の中において最もこれその上なり」〕等と云云。この経文は、已説の華厳・般若・大日経等、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千七千、月支・竜宮・四王天・忉利天・日月の中の一切経、尽十方界の諸経は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のごとし。日本国にわたらせ給へる法華経は須弥山のごとし。また云く、〔「よくこの経典を受持することあらん者もまたかくのごとし。一切衆生の中においてまたこれ第一なり」〕等と云云。この経文をもつて案ずるに、華厳経を持る普賢菩薩・解脱月菩薩等、竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇、深密・般若経を持る勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天皇、真言宗の大日経を持る金剛薩埵・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・恵果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持し迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵・光宅寺法雲・南三北七の十師等よりも、末代悪世の凡夫の一戒も持たず、一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて、しかも一分の解なからん人々は、彼等の大聖には百千億倍のまさりなりと申す経文なり。彼の人々は、或は彼の経々にしばらく人を入れて法華経へうつさんがためなる人もあり。或は彼の経に著をなして法華経へ入らぬ人もあり。或は彼の経々に留逗のみならず、彼の経々を深く執するゆへに、法華経を彼の経に劣るという人もあり。されば今法華経の行者は心うべし。〔「譬えば一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるがごとく、法華経を持つ者もまたかくのごとし」〕。また〔「衆星の中に月天子最もこれ第一なるがごとく、法華経を持つ者もまたかくのごとし」〕等と御心えあるべし。当世日本国の智人等は衆星のごとし、日蓮は満月のごとし。
[103]問うて云く、古へかくのごとくいえる人ありや。
[104]答えて云く、伝教大師の云く、〔「まさに知るべし、他宗所依の経はいまだ最もこれ第一ならず。そのよく経を持つ者もまたいまだ第一ならず。天台法華宗は所持の経最もこれ第一なるが故に、よく法華を持つ者もまた衆生の中の第一なり。すでに仏説に拠る、あに自歎ならんや」〕等と云云。それ騏驎の尾につけるだに(蜹)の一日に千里を飛ぶといゐ、輪王に随へる劣夫の須臾に四天下をめぐるというをば難ずべしや、疑ふべしや。「あに自歎ならんや」の釈は肝にめひずるか。もししからば、法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ、帝釈にもこえたり。修羅を随へば須弥山をもにないぬべし。竜をせめつかわば大海をもくみほしぬべし。伝教大師云く、〔「讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」〕等と云云。法華経に云く、〔「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至、その人命終して阿鼻獄に入らん」〕等と云云。教主釈尊の金言まことならば、多宝仏の証明たがわずば、十方の諸仏の舌相一定ならば、今日本国の一切衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや。法華経の八の巻に云く、〔「もし後の世において、この経典を受持し読誦せん者は、乃至、所願虚しからず、また現世においてその福報を得ん」〕。また云く、〔「もしこれを供養し讃歎することあらん者は、まさに今世において現の果報を得ん」〕等と云云。この二つの文の中に「亦於現世得其福報」の八字、「当於今世得現果報」の八字、已上十六字の文むなしくして、日蓮今生に大果報なくば、如来の金言は提婆が虚言に同く、多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ。一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず。三世の諸仏もましまさざるか。されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、この度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
[105]そもそもこの法華経の文に、〔「我身命を愛せず、ただ無上道を惜む」〕。涅槃経に云く、〔「譬へば、王使のよく談論して、方便に巧なる、命を他国に奉るに、むしろ身命を喪うとも、終に王の所説の言教を匿さざるがごとし。智者もまたしかなり。凡夫の中において身命を惜まず、要必大乗方等、如来の秘蔵、一切衆生皆仏性ありと宣説すべし」〕等と云云。いかやうなる事のあるゆへに、身命をすつるまでにてあるやらん。委細にうけ給はり候はん。
[106]答へて云く、予が初心の時の存念は、伝教・弘法・慈覚・智証等の勅宣を給ふて漢土にわたりし事の「我不愛身命」にあたれるか。玄奘三蔵の漢土より月氏に入しに、六生が間身命をほろぼしし、これらか。雪山童子の半偈のために身を投げ、薬王菩薩の七万二千歳が間臂をやきし事か、なんどをもひしほどに、経文のごときんばこれらにはあらず。経文に「我不愛身命」と申すは、上に三類の敵人をあげて、彼等がのり、せめ、刀杖に及んで身命をうばうとも、とみへたり。また涅槃経の文に「寧喪身命」等ととかれて候は、次下の経文に云く、〔「一闡提あり。羅漢の像をなし、空処に住し、方等経典を誹謗す。諸の凡夫人見已りて、皆真の阿羅漢、これ大菩薩なりと謂わん」〕等と云云。彼の法華経の文に第三の敵人を説きて云く、〔「或は阿蘭若に納衣にして空閑にあつて、乃至、世に恭敬せらるること、六通の羅漢のごとくならん」〕等と云云。般泥洹経に云く、〔羅漢に似たる一闡提ありて、悪業を行ず」〕等と云云。これらの経文は、正法の強敵と申すは、悪王・悪臣よりも、外道・魔王よりも、破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし。されば妙楽大師かひて云く、〔「第三最も甚し、後後の者は転た識り難きをもつての故なり」〕等と云云。法華経の第五の巻に云く、〔「この法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中において最もその上にあり」〕等と云云。この経文に「最在其上」の四字あり。さればこの経文のごときんば、法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか。しかるをまた国に尊重せらるる人々あまたありて、法華経にまさりてをはする経々ましますと申す人にせめあひ(責合)候はん時、かの人は王臣等御帰依あり、法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞつてこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく、賢愛論師がごとく、申しつを(強)らば身命に及ぶべし。これが第一の大事なるべしとみへて候。この事は今の日蓮が身にあたれり。予が分斉として、弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんどを、法華経の強敵なり、経文まことならば無間地獄は疑ひなし、なんど申すは、裸形にして大火に入るはやすし、須弥山を手にとてなげんはやすし、大石を負て大海をわたらんはやすし、日本国にしてこの法門を立てんは大事なるべし云云。霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵・釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。
現代語訳
撰時抄
建治元年(一二七五)六月、五四歳、於身延、和文、定一〇〇三—一〇六一頁。
[1]<述>釈子 日蓮述述>
仏法と時
[2]仏法を学び修行しようとする者は、必ず時を知らなければならない。法華経化城喩品によれば、過去の大通智勝仏は、衆生救済のために世に出られても、十小劫という長い間、成仏の時を待ち、また説法を請われてもその間一経をも説かれなかった。それゆえに経には「一度禅定に入ったまま十小劫」とも、また「仏は説法すべき時が来なかったから、説法を請われたけれども黙って坐禅を続けられた」とも説かれている。インドに応現された教主釈尊も、成道されてから四十余年もの長い間、出世の本懐である法華経を説かれなかったのである。これを法華経方便品には「説くべき時が来なかったからである」といわれている。道教の祖である中国の老子は八十年の間母の胎内に宿っていたといい、また釈尊にかわってこの娑婆世界の教主となるべき弥勒菩薩は、兜率天の内院に籠られて五十六億七千万歳もの間、成道の時を待たれているという。人間ばかりでなく、時鳥は春を送り夏のはじめに鳴き、鶏が暁を待って鳴くように、鳥や獣でさえ時をたがえないのであるから、まして仏法を修行しようとするにおいては、時を明らかにしなければならないことはいうまでもないのである。仏が初めて寂滅道場で華厳経を説かれた時には、十方世界からもろもろの仏たちが現われ来たばかりでなく、一切の大菩薩たちも集まり、ことに大梵天王や帝釈天王や四大天王などは衣をひるがえして喜ばれ、竜神や八部の雑衆たちは手を合わせて仏を礼拝し、凡夫の中でも智恵のすぐれた人たちはどのような説法があるかと耳を澄まして聞こうとし、今度はじめて悟りを開いた解脱月などの多くの菩薩たちは、一心に説法を願ったけれども、釈尊は出世の本懐である法華経の「二乗作仏」と「久遠実成」との二大法門はその名目さえも秘し、まして即身成仏と一念三千との肝心の法門については何も述べられなかった。これらの法門を聞いて悟ることのできる人びとはいたけれども、方便品に「説くべき時が来なかったから」と説かれているように、その時が来ないから、仏はその本懐を述べられなかったのである。華厳から阿含・方等・般若と次第に人びとの機根を調えられた仏が霊鷲山で法華経を説かれた時には、父の頻婆沙羅王の王位を奪い、父母を牢獄に幽閉した世界一の不孝者というべき阿闍世王もその説法の座に列なって結縁衆となり、一生の間謗法の重罪を犯していた悪逆非道の提婆達多には天王如来の名を授けて成仏を保証し、五障の罪深い八歳の竜女は蛇身のまま即身成仏し、古来より仏になれないと決定された二乗が成仏したのは、ちょうど炒った種から芽が生じ花が咲き実がなったようなもので、まことに不思議なことである。本門にいたって久遠実成の法門が説かれる時には、百歳の老人が二十五歳の青年の子となったのかというほどに、人びとは疑ったのである。さらに一切衆生成仏の原理である法華経の肝心一念三千の法門については、九界の迷いのわれら衆生がそのまま悟りの仏界であり、仏の悟りの仏界の外に九界の迷いの衆生はなく、われら迷いの衆生と悟りの仏とはまったく別のものではなく、互いに融け合っていると説かれたのである。ゆえに法華経の一字はすべての功徳を含むことにおいて、万宝を降らすという如意宝珠のようなものであり、一句も仏となるべき種子となるのである。このように尊くすぐれた法門が説かれたのは、人びとの機根が成熟したか未成熟であるかの智恵や信力の問題ではなく、まさに説くべき時が来たから説かれたのである。それゆえに法華経方便品に「今はまさにその時である、ためらうことなく大乗の妙法蓮華経を説く」と述べられているのである。
教と機と時の関係
[3]問うていう、聞くだけの力のない人にこの大法を説いたならば、愚かな人はこの法門を信じないばかりか、かえって謗りをなして悪道に堕ちるであろうが、これは説く人の罪ではないだろうか。
[4]答えていう、たとえば人が路を作って、その路に迷う者があったとしても、作った人の罪ではない。またすぐれた医師が病人に薬を与えるに、病人が嫌って服まずに死んだとしても、医師の罪とはいえない。それと同じく教えを謗って悪道に堕ちるのは、謗った者の罪であって、教えを説いた人の罪ではない。
[5]さらに尋ねていう、聞く人の罪だというが、では法華経第二の巻の譬喩品には「無智の人の中ではこの経を説いてはならない」といい、また第四の巻の法師品には「みだりにこの経を多くの人に説いてはならない」といい、第五の巻の安楽行品には「この法華経は諸仏如来の秘蔵の法門であって、諸経の中では最もすぐれている。それゆえに長く守護して決してみだりに説いてはならない」とある。これらの経文はすべて聞くことのできる人でなければ説くなというのではないか。つまり人を見て法を説けというのではないか。では機を中心として教えを選ぶのが正しいのであるか。
[6]それならば逆に問おう、同じ法華経第七の巻の不軽品には、不軽菩薩が出会う人ごとに「あなたがたは、みな仏であるから、私は深く敬う」といって礼拝讃嘆し、また「人びとの中には心のよくない者があって怒りを生じ、この無智の僧などと悪口を言ったりののしったり」、また「人びとは杖や棒や瓦や石で打ちすえた」とも説き、第五の巻の勧持品には「多くの無智の人びとが悪口を言ったりののしったり、刀や杖で害を加える者などがある」と説かれている。同じ法華経の中でも不軽品と勧持品の経文は、悪口や罵りを受け、また打ちたたかれながらも法華経を説かれたということは、説く人が間違っているというのであろうか。もし間違っていないとすれば、経は機に随ってのみ説くべきではない。
[7]求めていう、右に引いた法華経の譬喩品・法師品・安楽行品の文と、不軽品・勧持品の文とについてみると、この両説は水と火のような相違があるが、いったいどのように心得たらよいであろうか。
[8]答えていう、これについて天台大師は法華文句に「時の宜しきに順うべきである」といい、弟子の章安大師は涅槃経疏に「取捨いずれとも宜しいようにして、決して一方に偏よってはならない」といわれている。この天台・章安二師の釈の意味は、もし人びとが謗るような時にはしばらく説かない方がよいし、またもし人びとが謗っても時には強いて説くべき時もあり、また時には一部の人が信じても大部分の人が謗るならば説いてはならないし、また時には大部分の人が一同に謗っても強いて説くべきである、ということである。今、釈尊一代の説法についてみると、仏がはじめて悟りを開かれて、ただちに寂滅道場で最初の華厳経を説かれた時には、法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月などの大菩薩や、梵天・帝釈天・四天王などの、智恵のすぐれた凡夫が無数にいた。また次の波羅奈国の鹿野苑において阿含経を説かれた時には、倶隣などの五人をはじめ、迦葉などの二百五十人、舎利弗などの二百五十人、さらに八万の多くの諸天がいた。しかし、いずれにおいても法華経をお説きにならなかった。次に方等部の諸経を説かれた時には、御父の浄飯大王があまりに恋い慕われたので、大王の宮殿に行って観仏三昧経を説かれ、また御母の摩耶夫人のためには忉利天に上って一夏九十日の間籠られて摩耶経を説かれたのである。御両親のためにはどのような秘法でも惜しまれるはずはないのに、法華経は説かれなかったのである。こうしたことから考えると、仏法は人によって説くのではなく、時が来なければ決して軽々しくは説かれないということである。
五箇五百歳の経説
[9]問うていう、それではいつ小乗経や権大乗経を説き、いつ法華経を説くべきであるか。
[10]答えていう、その時については誰も知ることはできない。菩薩の中でも発心したばかりの十信の位に入った菩薩から、仏のすぐ前の補処の位といわれる等覚の菩薩にいたるまで、明瞭に時と機とを知ることはできないのである。ましてやわれら凡夫が、どうして時と機とを知ることができようか。
[11]求めていう、それではどうしても時と機とを知ることはできないのであろうか。
[12]答えていう、何物をも明瞭に見透すことのできる仏の智恵の眼を借りて時と機とを考え、また日光のように明らかな仏の智恵をもって国土の相を照らして見るがよい。
[13]問うていう、仏眼や、仏智を借りるということはどういうことであるか。
[14]答えていう、それは仏の未来記の経文を明鏡として考えてみることである。仏が月蔵菩薩に対して未来の時を予言して説かれた大集経についてみれば明らかである。すなわち大集経の第五十五の閻浮提品によれば、仏の滅後には五箇の五百歳があって、最初の五百年間は解脱堅固といって、戒をよく守り悟りを開く者の多い時代である。次の五百年間は禅定堅固といって、一心に仏法を学んで修行する者の多い時代である。以上が仏滅後千年の状態で、この二時代を正法という。また次の五百年を読誦多聞堅固といって、学問を専らにし多くの経典を読んで見聞を広くしようとする時代である。次の五百年は多造塔寺堅固といって、寺塔などを多く建立して福徳を求めようとする時代である。以上が仏滅後二千年までの状態で、この二時代を像法という。そして最後の第五の五百年は闘諍言訟といって仏法の中に種々の争いが起こり、白法隠没といって仏法の真実義が滅びる時代である。この時代を末法という。この仏の未来記の明鏡をもって仏滅後の仏法流布の状況を考えなければならないのである。
[15]この大集経の五箇の五百歳の予言、仏滅後二千五百年の仏法流布について、学者たちの間に種々の見解がある。中国浄土教の道綽禅師は安楽集を著わし、仏滅後、正・像二千年の四箇の五百歳の間は、小乗と大乗とがさかんであるが、第五の五百歳の末法に入っては、従来の仏法はみな滅びて、浄土念仏の法を修行する人だけが生死の苦しみを離れて、極楽浄土に往生することができる、といっている。また日本の法然は、今、日本に弘まっている法華経・華厳経・大日経などのもろもろの大乗経や小乗経と天台・真言・律などの諸宗は、大集経に予言された正像二千年の間に弘まるべき仏法であって、末法には当然滅亡すべきものである。たとえ末法に修行する人があっても、一人も生死の迷いから離れることはできない。なぜならば、インドの竜樹菩薩の十住毘婆沙論易行品や中国浄土教の元祖曇鸞法師の浄土論の注釈などには、法華経などの諸大乗経をさして「修行しがたい道」といい、また道綽禅師の安楽集には「一人も成仏した者はいない」といい、さらに善導和尚の往生礼讃には「千人に一人も成仏する者はない」といわれているのを見れば明らかである。しかし右の諸師は一同に、末法に入って法華経などの難解な仏法が滅びた次には、必ず浄土の三部経と弥陀念仏の修行ばかりが末法の衆生を救う最高の教法として世間に弘まり、この念仏を修行する人びとはどのような悪人・愚人でも、「十人は十人、百人は百人すべて弥陀の極楽浄土に往生することができる」、「ただこの念仏の修行だけが極楽に往生する唯一の路である」と説いている。それゆえに、後生の往生を願う人びとは、法華経や大日経などの仏法を弘める比叡山・東寺・園城寺・南都七大寺などの日本国中の寺々に帰依することをやめて、それらの寺々に寄附した田畠や郡郷を取り戻し念仏堂に寄附するならば極楽往生は疑いない、だから南無阿弥陀仏と唱えよと法然が念仏を勧めたから、日本国中こぞって念仏の教えにしたがってすでに五十年あまりである。日蓮が建長五年(<暦>一二五三暦>)の開宗以来、これらの教えを謗法の邪義であると守護国家論や立正安国論などで糾明し破折したことは、すでに久しいことである。
後五百歳広宣流布の仏法
[16]かの大集経に白法隠没という時は、第五の五百歳すなわち末法の初めで、日蓮の生まれた現在であることは疑いない。ただし、かの白法隠没の次には、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の大白法が弘まるに相違ない。世界じゅうには八万の国々があり、その国々の八万の王がいずれもその臣下や万民とともに、今の日本国の人びとが一人残らず弥陀の名号を口々に唱えるように、南無妙法蓮華経と唱えるようになる。法華経の題目が末法の時代に世界じゅうに広く弘まるということは仏の定めおかれたことであるから必ず実現されなければならないのである。
[17]問うていう、何によってそう言えるのか、その証拠があるか。
[18]答えていう、法華経の第七の巻の薬王品に「わが滅度の後、後の五百歳の中、この世界中に広く弘まって絶えることがない」とある。この経文は、まさしく第五の五百歳、かの大集経の白法隠没の次の時を「広宣流布」と説かれたのである。また法華経第六の巻の分別功徳品には「悪世末法の時によくこの法華経を持つ者がある」といい、また第五の巻の安楽行品には「後の末世の仏法の滅びようとする時に、この法華経を弘めて」といい、第四の巻の法師品には「この法華経は仏の御在世ですら、なお怨み嫉む者が多い。まして仏の滅後悪世においてはなおさらのことである」といい、第五の巻の安楽行品には「法華経を滅後に弘めるならば、世の中に怨む者が多くて、信仰し修行することは容易ではない」といい、さらに第七の巻の薬王品には、大集経の第五の五百歳の闘諍堅固の時を説いて「もろもろの悪魔や魔民や、天・竜・夜叉・鳩槃荼などの八部の衆たちが法華経の行者を惑わそうとして、つねにその隙を狙っている」と説いている。大集経には「仏法の中で言い争いが起こる」とある。また法華経の第五の巻の勧持品には「悪世の中の僧は邪な智恵にたけ、諂いの心ばかりで」とも、「大寺院に住して行ないすましたように見せかけている」とも、「悪世には、もろもろの悪鬼が隙を狙って悪僧たちの心に入りこんで正法の行者を罵る」とも説かれている。これらの法華経の文の意味は、第五の五百歳の時には、悪魔に魅入られた偽の高僧たちが国じゅうに充満するであろう。その時に仏の勅命を受けた一人の智者が現われるであろう。するとその悪魔に魅入られた偽の高僧たちは、時の王や臣下をはじめ万民をあざむいて味方につけ、この一人の智者の悪口を言い、ののしり、杖や木で打ったり、石や瓦を投げつけたり、ついには流罪・死罪にまで行なおうとする時、釈迦・多宝・十方の諸仏は本化地涌の菩薩に命じて、これらの大菩薩はまた梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などに命を下して、さかんに天変地異を起こすのである。この天変地異の諫めを国主らが用いない時には、さらに隣国の王に命じて天の警めを用いない悪王や悪僧を責められるから、ここに前代未聞の大動乱が世界に起き、大集経の闘諍堅固の時が現われるのである。その時、日月の照らす所に住むすべての人びとは、あるいは国を大事に思い、わが身を大事に思って、あらゆる仏や菩薩に一生懸命に祈りを捧げるのであるが、何の効験もない時に始めて、今までさんざんに憎んだ一人の小僧を信じて、ここに多くの高僧たちや八万の大王や一切の万民が、みな頭を地につけ、手を合わせて南無妙法蓮華経と唱えるであろう。たとえば、法華経の神力品で、仏が十種の大神力を現わされたその第八番目の時に、十方世界の一切衆生が一人残らずこの娑婆世界に向かって、大音声をあげて南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と一同に唱えたようなものである。
法華経広宣流布の釈文
[19]問うていう、法華経が第五の五百歳に広く弘まることは経文に明らかであるが、天台・妙楽・伝教などの先師の予言があるかどうか。
[20]答えていう、貴殿の疑問は逆である。人師の釈を引いて証拠とした時こそ、経論の本文はどうかと疑いをもってもよいが、今は根本の仏説の経文に明らかな証拠があるのに、人師の釈を尋ねる必要はない。もし人師の釈の文が根本の経文と違っていたならば、根本の経文を捨てて人師の釈に随うというのであるか、どうか。
[21]彼が問うていう、道理はもちろんその通りであるが、しかし凡夫の習いとして、経は遠い昔に仏がインドで説かれたものであり、釈はその後にできたものであるから、遠い経には凡夫はとうてい及ばないが近い釈は親しく思われるから、釈の文が明瞭であれば、いま一層の信心を増すであろう。
[22]答えていう、貴殿の疑問がもっともであるから、少しばかり人師の釈を示そう。まず中国天台宗の開祖天台大師は法華文句に「後の五百歳までも遠く法華の教えによって大いなる利益を受けるであろう」といい、また第六祖の妙楽大師は法華文句記に「大集経には後五百歳は白法隠没というが、末法のはじめこそ法華経の利益はあるであろう」といい、日本天台法華宗の祖伝教大師は守護国界章に「正法や像法の時代はほぼ過ぎ去って、末法がいよいよ近づいた。法華一乗の弘まる時はまさしく今である。なぜかというに法華経の安楽行品には末法の法の滅びる時に法華を弘めよとあるからである」といい、さらに法華秀句には「今の時代はまさしく像法の終わり、末法の初めである。所は唐の東、摩羯(旧、満州地方)の西に当たり、人は五濁にまみれた衆生で闘諍のさかんな時である。法華経の法師品には仏の御在世でさえ怨み嫉む者が多い、まして滅度の後はいっそう激しいであろうと説かれているが、この言はまことに意味が深い」といわれている。これらが法華経による人師の意見である。これによって法華経が末法に弘まるということは、間違いないことであろう。
[23]そもそも教主釈尊が世に出でられたのは、人類がこの世に出てから、その寿命が八万歳より十歳の間を増減する成・住・壊・空の四劫の中の住劫の第九番目の減ずる時で、人の寿命が八万四千歳から次第に減じて百歳になった時であった。この人の寿命が百歳の時から百年ごとに一歳を減じて十歳になるまでの一万年の中間において重要な時は、仏の御在世の五十年と、入滅後の正法の千年と、像法の千年と、末法の万年とである。この間において法華経の弘まる時が二度ある。すなわち釈尊八十年のご生涯の最後の八箇年と、入滅後の正像二千年を過ぎた末法万年のはじめの五百年とのただ二度だけである。ところが天台・妙楽・伝教の三師は、先に進んでは釈尊の法華経を説かれた時にも値わず、後に退いては滅後に法華経の弘まる末法の時代にも生まれないで、ちょうどその中間の正像二千年の中の像法の半ばに生まれ、法華経の弘まる時に縁のなかったことを歎かれ、末法のはじめに法華経の広く弘まることを知られて、恋い慕われて記されたのが先に引いた三師の釈である。たとえば、インドの有名な占い師である阿私陀仙人が、悉達太子のお生まれになったのを見て、この王子はのちに大聖人となるが、自分はすでに九十歳を越えているから、もはやこの太子の成道をみることはできない。また死後は無色界に生まれるから、この欲界の娑婆世界における五十年の説法を聞くこともできない。まのあたり釈尊の教えに値えないだけでなく、滅後の正法にも像法にも末法にも生まれることができないので、残された法華経の経文にも値えない、と嘆き悲しまれたようなものである。それゆえに今日道心ある人びとは、これら三師の釈を見るにつけ、阿私陀仙人の話を聞くにつけ、大いに悦ぶべきである。なぜならば今は末法の時代であり、法華経の弘まる滅後唯一の時代であるから、その時に生まれ合わせたことは本当に幸運であると喜ぶべきである。正像二千年の間に生まれて大王となり意のままにふるまうよりも、後世の成仏を願う人びとは、末法の法華経の弘まる世の民衆と生まれ法華経を信仰する方が幸いである。どうしてこの幸いを信ぜずにいられよう。像法の時代に生まれて天台宗の座主となって崇められるよりも、末法に生まれて南無妙法蓮華経と題目を唱える重病人となる方が幸いである。梁の武帝はみずから発願文を書いて「提婆達多となって無間地獄の底に堕ちてもなお信心を起こすことができるが、たとえ天上に生まれても成仏のできない欝頭羅弗とはなりたくない」といわれたが、この願文の意味は末法の衆生が法華経の弘まる時に出会ったと同じ喜びである。
正法におけるインドの仏法
[24]問うていう、天台・伝教などの釈の文は明らかであるが、インドの竜樹や天親などの諸論師にも、同じような末法に法華経が流布するという文があるかどうか。
[25]答えていう、竜樹や天親らは、末法に法華経が弘まることを内心には知っていたけれども、言葉に出しては述べられなかったのである。
[26]問うていう、それはどういう理由で述べられなかったのか。
[27]答えていう、それにはいろいろな理由があるが、その主なるものをあげれば三つある。一には竜樹・天親の時代には法華経の法門を説いても聞くべき人がいなかったからである。二には彼らの出現した正法の時代は、まだ法華経を説くべき時期になっていなかったからである。三には迹化の菩薩には末法の法華経弘通を委嘱されなかったからである。
[28]問うていう、これは非常に重要な問題であるから、仏の滅後における仏法の弘通について、よくよく詳しく聞きたいと思う。
[29]答えていう、そもそも仏のご在世の説法に、先に方便の教えを説いて後に真実の教えを説くという順序があるように、仏の滅後の仏法弘通にも順序次第があるのである。仏は二月十五日に御入滅されたのであるが、その翌十六日から正法の時代に入る。付法蔵経によれば、仏御入滅の時に迦葉尊者が仏の委嘱を受けて二十年の間仏法を弘めた。つぎに阿難尊者が二十年、つぎに商那和修が二十年、つぎに優婆崛多が二十年、つぎに提多迦が二十年。以上百年の間は仏法と外道との対立時代であったから、小乗経をもってこれに対したために、ただ小乗経の法門だけが弘まって、大乗経はその名前さえなかったのである。まして大乗の中でも実大乗たる法華経の弘まるはずはないのである。次には弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢らの四、五人があって、正法千年の前半の五百年の間に出て、大乗経の法門を少しは説いたけれどもとくに弘めようとはせず、もっぱら小乗経を主として説いた時代であった。以上は大集経の第一の五百年、解脱堅固の時である。正法の後半の六百年から千年にいたる五百年間には、馬鳴・迦毘羅・竜樹・迦那提婆・羅睺羅跋陀羅・僧佉難提・僧佉耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・婆修盤陀・摩努羅・鶴勒夜那・師子などの十余人の人びとが、はじめは外道の教えを学び、つぎに仏教に入って小乗経を究め、後には小乗経の教えの浅いことを知って、もろもろの大乗経の深遠な教義をもって小乗経を破折したのである。ここに大乗中心の時代となった。これらの菩薩たちは大乗の教理をもって小乗の教理を破折したけれども、いまだもろもろの大乗経と法華経との勝劣については明瞭に説かなかった。たとえ勝劣について少しは説いたようでも、法華経が諸経にすぐれる本迹二門における二十種の特質を述べた本迹の二十妙をはじめ、二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千などの、法華経の重要な法門は明らかにされなかった。ただ指で空の月をさす程度にすぎず、また書物には少しばかり書いたとしても、その中心である化道の始終・師弟の遠近の有無などの重要な法門については、まったく述べられていない。これが正法の後半の五百年、大集経に禅定堅固と説かれた時代に当たるのである。正法一千年の後は、仏法はインドに広く弘まったけれども、小乗経をもって大乗経を破折し、あるいは方便経をもって真実経を隠し、仏法がさまざまに乱れたので、仏教によって解脱を得る者は次第に少なくなり、かえって仏法を破ることによって悪道に堕ちる者が数えきれないほど多くなったのである。
像法における中国の仏法
[30]正法一千年の後、像法に入って十五年目の後漢の永平十年(<暦>六七暦>)に初めて仏教が東に伝わり中国に入った。像法千年のうちの前半五百年のはじめの百余年の間は、中国伝統の道教と新来のインドの仏教とが法の邪正を争って、勝劣がいずれとも定まらなかった。たとえ勝劣が定まったとしても、仏教を信ずる人の心はそれほど深くはなかった。それゆえにこのような時に、仏教の中に大乗と小乗、方便教と真実教、顕教と密教などと勝劣浅深の相異を分けたならば、教えがさまざまとなって、かえって疑問が起こって、道教や儒教などの外典に親しむ者も出てくるであろう。こうした事態を恐れて最初に仏教を伝えた摩騰迦や竺法蘭は、自分たちは仏法の正邪を知っていたけれども、大乗と小乗の区別をせず、方便と真実の相異を言わなかったのである。その後、魏・晋・宋・斉・梁の五代の間に、仏教のうちに大乗・小乗、権教・実教、顕教・密教などの争いがあったが、いずれとも勝劣が定まらなかったため、上は皇帝から下は民衆にいたるまで、仏教の勝劣について疑いが少なくなかった。この時代に南三北七といって、江南に三家、江北に七家の十流の分立を見たのである。江南の三家とは、岌法師の三時教、宗愛法師の四時教、僧柔・慧次・慧観法師などの五時教であり、江北の七家とは、北地師の五時教、菩提流支の半満二教、仏駄三蔵並びに光統などの四宗教、自軌法師などの五宗教、凛法師などの六宗教、北地禅師の二種の大乗教、および一音教である。これらの十家がおのおのその主張を述べて、自己の意見に偏執して互いに水火の争いをしたのである。しかし、その主張の大綱は一つで、釈尊一代の聖教の中では華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三というのである。ゆえに法華経は前の阿含経・般若経・浄名経(維摩経)・思益経などの経々に比べれば、真実の意義を説いた正しい経であるが、しかし後の涅槃経に比べると、仏は無常であり、したがって真理を尽くさない邪見の経であるというのである。
[31]後漢の仏教伝来から四百余年を経た五百年代に入って、陳・隋の二代にわたって智顗という一人の僧があった。後には天台智者大師と尊敬された大徳である。智顗は南三北七の十家の邪義を破って、一代聖教の中では法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三と定められた。これは像法の前半の五百年のことで、大集経にいう第三の読誦多聞堅固の時に当たるのである。
[32]像法の後の五百年、唐の第二祖太宗皇帝の時代に、法相宗の開祖玄奘三蔵(<暦>六〇〇—六六四暦>)がインドに仏教を求めて十九年の間、百三十か国の寺々を廻って、多くの学者に会い、八万の聖教・十二部経の奥義を習い究めたのであるが、その中に玄奘の注目した二つの宗旨があった。それは法相宗と三論宗とである。この二宗の中で、とくに法相大乗宗は、インドにおいては遠く弥勒菩薩・無著菩薩に始まり、近くは玄奘が那蘭陀寺において戒賢論師から学んで、中国に帰ってからこれを太宗皇帝に授け、中国に弘めたのである。この法相宗の宗義は、仏教は人の機根に随って法を説くべきであるという。ゆえに一切の衆生はみな仏であるという一乗の機のためには、衆生の機根を利鈍によって声聞・縁覚・菩薩の三種に分ける三乗教は一仏乗に入らせるための方便であり、衆生は等しく仏であると説く一乗教は真実であると説くのである。法華経などがそれである。これに対して一切の衆生には自ずから三種の差別があるとされる三乗の衆生のためには、三乗教が真実であって一仏乗は方便であると説くのである。解深密経や勝鬘経などがそれである。ところが天台大師らは、仏教は人の機根によって方便と真実を分けるという趣旨を知らないで、三乗方便一乗真実を主張したのである、などというのが法相宗の主張である。時の太宗皇帝は賢王であって、その当時において高名が天下に鳴り響いていただけでなく、古の三皇五帝にもすぐれていることが広く世界に知れわたっており、中国全土を手に握った上に、西は高昌、東は高麗にいたるまでの一千八百余国を従えて、威を国の内外に輝かせたほどである。玄奘はこの賢王の帰依を一身に集めた名僧であったから、かの三乗真実一乗方便の主張に対して、一乗真実を宗旨とする天台宗の中に、誰一人として玄奘に反論し、宗義の正邪を争う人もなかった。ゆえに法華経の実義は中国の人びとから忘れられてしまった。また太宗の子の高宗、その高宗の継母則天皇后の時代に、華厳宗に法蔵法師(<暦>六四三—七一三暦>)という学者があった。法相宗の勢力が天台宗を圧倒するのを見て、以前に天台大師に実義を尽くしていないと批判された華厳経を取り出して、仏一代の聖教の中では華厳経第一、法華経第二、涅槃経第三と主張したのである。太宗から四代目の玄宗皇帝の時代に入って開元四年(<暦>七一六暦>)にはインドから善無畏三蔵が大日経と蘇悉地経を持って長安に入り、同八年には金剛智三蔵と不空三蔵が金剛頂経を持って洛陽に来たり、ここに真言三部経がそろって中国に真言宗を弘めた。真言宗の主張によれば、一切経を二つに分けて、一を顕教といって釈尊の説いた華厳経・法華経などをいい、二を密教といって大日如来の説いた大日経などをいうのである。法華経は顕教の中では第一であるが、密教に比べれば、真言の身口意三密の中で意密に当たる実相の極理だけは同じであるが、事相の身密の印契といって手に印を結ぶことと口密の真言を唱えることとの二密を説いていない。ゆえに大日経のように身口意三密を具えていないから即身成仏を説くことができず、実義を尽くした経とはいえない、というのである。以上のように、法相・華厳・真言の三宗が興隆して、天台法華宗を破ったけれでも、当時の天台宗は衰退期であって、天台大師ほどの智者がいなかったから、内心では彼らの主張が理由のないことは承知していても、天台大師のように天下の公場において対論し、正邪を明らかにしなかったので、上は国王大臣から下は万民にいたるまで、みな仏教の正邪に迷って、成仏得脱の道は塞がってしまった。このような状態が像法の後半の五百年のうちの前二百余年の状況であった。
像法における日本の仏法
[33]像法に入って四百余年、日本国第三十代欽明天皇の御代に百済の聖明王が一切経と教主釈尊の木像ならびに僧尼などを献納され、ここに仏教がわが国に初めて伝えられたのである。時は中国の梁の末、陳のはじめに当たっている。欽明天皇の御子、用明天皇の太子に上宮王子すなわち聖徳太子(<暦>五七四—六二二暦>)があって、早く仏法を信じてこれを弘めただけでなく、法華経・浄名経(維摩経)・勝鬘経の三経の注釈書を製作し、三経を鎮護国家の法と定められた。その後、第三十七代孝徳天皇の御代に観勒僧正が百済から三論宗と成実宗の二宗を伝え、道昭法師が中国から法相宗と倶舎宗の二宗を伝えた。第四十四代元正天皇の御代に善無畏三蔵がインドから大日経を伝えたが、弘めることなく中国へ帰った。第四十五代聖武天皇の御代に審祥大徳が新羅より華厳宗を伝え、良弁僧正・聖武天皇に授け、さらに東大寺を建立し本尊の大仏を造立した。同じ時代に大唐の鑑真和尚が天台宗と律宗との二宗を伝え、東大寺に小乗の戒壇を建立して律宗を弘めたけれども、法華宗のことはその名前さえも出さず、弘めることなく入滅してしまった。
[34]その後、像法に入って八百年の頃、第五十代桓武天皇の御代に最澄という僧が現われて、後には伝教大師と称された。最澄ははじめ十二歳で出家し行表僧正らについて三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の南都六宗、ならびに禅宗などの教えを学び究められたが、十九歳の時、みずから思い立たれて比叡山に国昌寺を建立し、のちには比叡山延暦寺と号した。この山に籠られて南都六宗の依りどころとする本経や本論と、各宗の学者たちの注釈とを比較対照し研究したところが、学者たちの注釈が、依りどころとする本経本論に相違することが多いだけでなく、間違った考えが多くて、もしもこれを信受する人があれば、みな謗法の罪によって三悪道に堕ちるであろうと見究められた。そればかりでなく、各宗の学者たちが誰も彼も法華経の実義を悟ったように自分で自分を讃めているが、いずれも間違っていることを発見したのである。しかし、もしこのことを指摘するならば諍論が起こるのは避けられないが、沈黙して指摘しなければ「仏法を破る者を見たら、きびしく責めただせ」と涅槃経に説かれた仏の誡めに背くことになると思い悩んだけれども、ついに仏の誡めを恐れて桓武天皇に奏問したのである。天皇は大いに驚かれて、南都六宗の善議・勝猷らの学者を召し合わせ、延暦二十一年(<暦>八〇二暦>)高雄寺で対論させたのである。六宗七寺の学者たちの高慢の心は幢のように山よりも高く、悪心邪念は毒蛇よりもはなはだしかったけれども、いずれも桓武天皇の前で最澄に論伏されて、一同に最澄の弟子となった。たとえば、中国の南北の学者たちが陳王の前で天台大師に言い伏せられて弟子となったようなものである。しかしこれは法華経の実義についていえば、円の三学のうちの円定と円慧、すなわち法華経による禅定と智恵をみがく修行についてのことであった。伝教大師はそのうえに、天台大師が破折されなかった小乗の別受戒を破折し、梵網経による大乗の別受戒を南都六宗の八人の大徳に授けたばかりでなく、比叡山に法華円頓の大戒壇を建立されたから、延暦寺の円頓の別受戒は日本第一であるばかりでなく、仏の滅後一千八百余年の間、インド・中国のみならず世界中にもいまだなかった霊鷲山で説かれた法華経を本とする大乗戒、霊山直授の円頓大戒が、日本に始まったのである。それゆえ伝教大師の円頓戒壇建立の功績を論ずれば、インドの竜樹・天親にも超え、中国の天台・妙楽にもすぐれた聖人というべきである。それゆえに日本の今の世の東寺・園城寺・奈良の七大寺、諸国に弘まっている八宗・浄土宗・禅宗・律宗などの僧たちは、伝教大師の円頓戒に背く者は誰一人としてなかった。かの中国の僧たちは、三学の中の円定と円慧については天台大師の弟子になったようだが、一同に円頓戒を授ける戒壇は中国にはなかったから、円戒においては天台の弟子にならない者もあった。しかし、この日本国においては伝教大師の弟子でない者は、外道か悪人のように思われたのである。こうして法華経にもとづく仏教の統一を計られたのであったが、中国・日本に弘まっていた天台宗と真言宗との勝劣については、伝教大師は自分の心中では承知していたけれども、六宗と天台宗とのように天皇の御前で対論し、勝劣を明らかに定めなかったためであろうか、伝教大師以後には真言宗が力を得て、東寺・七大寺・園城寺などの諸寺をはじめ、上は天皇から下は万民にいたるまで、日本国全体が真言宗は天台宗よりすぐれていると思うようになってしまった。それゆえに天台法華宗が全仏教の中で第一であったのは、ただ伝教大師の時ばかりであった。この伝教大師の時は像法の末で、大集経に多造塔寺堅固という第四の五百歳の時で、まだ「わが仏法の中において言い争いがさかんとなり、教法が滅びる」という第五の五百歳、末法の時には当たっていないのである。
末法における日本の仏法
[35]今はすでに末法に入って二百余年を経て、大集経の「わが仏法の中において言い争いがさかんに起こり、教法が滅びる」の時に当たっている。もし仏の未来記が真実であるならば、必ず全世界に戦乱の起こるべき時である。聞くところによれば、中国三百六十か国二百六十余州は、すでに蒙古国によって攻め破られ、都も陥落して徽宗・欽宗の二人の皇帝は北方の蕃族のために生け捕られ、韃靼に連れて行かれてそこで崩御せられ、徽宗の孫の高宗皇帝は長安を攻め落とされて、田舎の臨安府の行在所に逃げていって、今日にいたるも都へ帰られていない。また朝鮮半島でも高麗の六百余国も新羅・百済などの諸国もみな、大蒙古国に攻められたことは、今の日本の壱岐・対馬や九州のようである。このように大集経で闘諍堅固といわれた戦乱が起こり、仏の予言が的中したことは、ちょうど大海の潮が時を違えることなく満ち干きするようなものである。これらの事実から考えても、大集経の白法隠没の時についで、法華経の大白法である南無妙法蓮華経の題目が、日本国をはじめ全世界に広く弘まることはまったく疑う余地はないのである。かの大集経は仏説ではあるが、方便大乗の教えである。肝心の生死を離れる解脱の道は説いていないから、法華経によって生死を離れる縁が結ばれない者のためには、いまだ真の悟りの道を説いた教えではない。しかし、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道や卵生・胎生・湿生・化生の四生や過去・現在・未来の三世の因果を説いていることは、法華経と少しも異なっていないようである。まして法華経は釈尊みずから方便品で「必ず真実を説くべし」と仰せられ、また法華経の真実であることを証明することを本願とする多宝仏は宝塔品で「みな是れ真実なり」と証言され、また神力品において十方世界の分身の諸仏は広長舌を梵天まで届かせて誠諦、すなわち真実であると証明されたのである。釈尊もまた舌を色界の頂上にある色究竟天まで届かせて「第五の五百歳の一切の仏法が滅びる時、上行菩薩に法華経の肝心の妙法蓮華経の五字を持たせて、法華経を謗る極悪不信の者たち、ちょうど不治の重病のような者たちの良薬としよう」と定められ、また、釈尊が梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・竜神たちにその教えを護るように命じられた言葉に虚妄があろうか。たとえ大地がひっくり返ることがあっても、高山が崩れることがあっても、春の次に夏が来なくとも、太陽が西から東へ進むとも、月が大地に落ちることがあっても、第五の五百歳に法華経の大白法が弘まると言われたこの仏の言葉に相違はないのである。
法華経の行者の受難と閻浮第一の行者
[36]この釈迦・多宝・十方の諸仏の言葉に相違がないならば、闘諍堅固の時代に、日本国の王・臣・万民などが、仏の御使として末法の衆生を救うために南無妙法蓮華経の題目を弘めようとする者を、あるいはののしったり、悪口をいったり、流罪にしたり、打ちすえたり、さらに弟子やつき従う者たちまで種々の難にあわせる人びとが、どうして安穏でいられようか。もしこういうならば、愚かな者は日蓮は天下を呪うと思うであろう。しかしながら、末法の衆生を救うために法華経の題目を弘める者は、日本国の一切衆生の父母である。章安大師は涅槃経疏に「人のために悪を責めて取り除いてやるのは、その人のためには親切な者である」といわれている。それゆえに日蓮は当代の天皇の父母であり、法華経誹謗の念仏者・禅衆・真言師などの師範であり、主君である。それにもかかわらず、上は天皇から下は万民にいたるまですべての人びとが怨をなすのに、どうして日月は彼らの頭上を照らし、地神はどうして彼らの足を載せるのであろうか。昔、提婆達多は釈尊を打ったために大地が揺れ動いて火炎が燃え出し、檀弥羅王が付法蔵第二十四祖の師子尊者の首を切った時に右の手が刀とともに落ち、徽宗皇帝は法道三蔵の諫めを怒って顔に烙印を押して江南の道州に流罪させたために、間もなく蒙古のために生け捕られ北蕃の地で崩御されたのである。今、日本へ蒙古が攻めてくるのも、これらと同じように法華経の行者を流罪死罪に処した現罰であろう。これに対しては、たとえインド全体の兵を集めて須弥山を囲む鉄囲山を城として防いでも防ぎきれるものではない。必ず法華経謗法の日本国の一切衆生が謗法の現罰として戦禍に遭うに相違ない。この事実をもって日蓮が法華経の行者であるかないかを試してみるがよい。これについて教主釈尊は法華経に次のように予言されている。すなわち第四の巻の法師品に「末代悪世に法華経を弘通する者の悪口を言ったり、罵ったりする者は、仏を一劫という長い間罵り怨む者の罪よりも、百千万億倍重い」と説かれている。それにもかかわらず、今の日本の国主・万民らは自分の勝手な考えで、自分の親の敵や前世からの敵よりも深く憎んだり、謀反人や人殺しよりも強く責めるのに、これらの人びとが生きながら大地が割れて落ちたり、天の雷が落ちてきてその身を裂かないのは、まことに不思議なことである。それとも日蓮が法華経の行者ではないのだろうか。もしそうだとすれば大いに嘆かわしいことである。今生では万人から不当の法師と責められて、一日片時も安穏に過ごしたことはなく、後生には悪道に堕ちなければならないとは何と悲惨なことであろう。
[37]また日蓮が法華経の行者でないというならば、いったい誰が法華経の行者であろう。法然が選択集で「法華経を捨てよ」といい、善導が往生礼讃に「千人のうちの一人も悟る者はない」といい、道綽が安楽集に「いまだ仏に成った者は一人もいない」といっているが、彼らが法華経の行者であるのだろうか。また十住心論に「法華経によって修行するなど戯論である」と書いている弘法大師が法華経の行者なのであろうか。しかし法華経の文を見ると、分別功徳品には「よくこの経を持つ者」といい、宝塔品には「よくこの経を説く者」とも説かれている。この宝塔品の「よく説く」というのはどういうことであるかというに、安楽行品に「諸経の中で最もその上にある」と説かれているように、大日経・華厳経・涅槃経・般若経などの諸大乗経よりも法華経がすぐれていると主張する者だけを、経文には法華経の行者であると説かれているのである。ゆえにもし経文の明鏡に照らした通りであるならば、仏教が日本国に渡って以来、今日まで七百余年になるが、伝教大師とわれ日蓮との他には一人も法華経の行者はないはずである。それなのにこの法華経の行者を憎み恨み種々の難を加える者が、今日まで何の罰も受けないのはいかにも不思議に思っていたが、法華経の陀羅尼品や安楽行品に説かれているように「頭が七分に破れる」とか「口が閉塞がる」とかいう現罰のないのも道理である。これらの罰は罰の中でも軽い罰であって、ただ一人か二人の身の上のことである。よく考えてみると、日蓮は世界第一の法華経の行者であるから、この日蓮を謗ったり、怨んだりする人びとを供養したり、信用したりする者は、世界第一の大難にあうであろう。ゆえに日本国中を揺り動かした正嘉元年(<暦>一二五七暦>)八月の大地震や、一天に渡るような文永元年(<暦>一二六四暦>)七月の大彗星などが現われたのである。これらの事実からみても明らかであるが、仏の滅後に仏法を弘める者に怨をなした者は数多くあったけれども、今のような大難は一度もなかったのである。それは日蓮のように南無妙法蓮華経と唱えよと一切衆生に勧めた行者が一人もいなかったからである。このような法難に耐えて法華経の題目を弘める功徳の大きさを思うに、世界中に誰か日蓮と眼を合わせ、肩を並べる者がいるだろうか。日蓮以外に誰もいるはずがない。
正像弘通の批判
[38]疑っていう、仏滅後一千年の正法の時代は、仏の在世に比べれば衆生の機根は劣ってはいるが、後の像法や末法の時代に比べれば最上の機根である。だから正法の時代に法華経の教えを用いないはずはない。それゆえに正法一千年の中には、馬鳴・竜樹・提婆・無著などのもろもろの菩薩たちがインドに出現して大乗仏教を弘め、千部の論師といわれた天親菩薩は法華論を造って、法華経が諸経の中の第一であると述べられたのである。真諦三蔵の相伝によれば、「インドにおいて法華経を弘めた人が五十余人もあって、天親はその一人である」といわれている。以上は正法の時代における法華経弘通の状況である。さらに像法に入ってその中頃に、天台大師が中国に出現して法華玄義・法華文句・摩訶止観のいわゆる天台三大部三十巻を造って、法華経の奥義を究め広く世に伝えられた。また像法の末には、伝教大師が日本に出現して、天台大師が悟られた円慧・円定の二法、すなわち法華経による禅定と智恵を磨くという教えを日本国に弘められたばかりでなく、法華経にもとづく円頓の大戒壇を比叡山に建立して、日本全体をみなことごとく円戒の国として、上は天皇から下は万民までが、比叡山延暦寺を師匠と仰ぐようになったのである。これらの事実は像法の時代において法華経が広く弘まった証拠ではないだろうか。
[39]答えていう、仏教は必ず機根に随って説くということは、世間の学者のよくいうところである。しかし仏の御心にしたがって考えると仏教は決してそうではない。もし世間の学者のいうように、上根上智のすぐれた人のために必ず大法を説くというのであるならば、なぜ仏は最初に成道せられた時に出世の本懐である法華経を説かれなかったのか。また仏の御在世に近い正法の時代は後の像法や末法に比べれば機根がすぐれているから、正法の前五百年に大乗経を弘通すべきであろう。また縁の深い人のために真実の大法を説くというならば、仏は御父の浄飯大王や御母の摩耶夫人のために観仏三昧経や摩耶経のような権大乗経を説かずに法華経を説くべきであろう。また縁のない悪人や正法を謗る者に真実の秘法を説かないというならば、覚徳比丘は多くの破戒の者に涅槃経を説くことはしなかったであろう。また不軽菩薩は正法を誹謗する出家在家の男女に向かってどうして法華経を説かれたのであろうか。このような事実から考えても、機根に随って法を説くという世間の学者たちの考えは大きな間違いであるといわなければならない。機よりも時が大事なのである。
[40]問うていう、対機説法が誤りであるというならば、正法時代に出現した竜樹・天親などは、法華経の実義を弘めなかったのであろうか。
[41]答えていう、まだ説かなかった。
[42]問うていう、ではどのような法門を弘めたのであるか。
[43]答えていう、華厳・方等・般若などの前四時の顕教と第三方等部の大日密教との権大乗の諸経を弘めたが、実大乗たる法華経の法門はまだ説かなかったのである。
[44]問うていう、何によってそれを知ることができるのか。
[45]答えていう、竜樹菩薩が生涯に造った論は三十万偈あるといわれるが、それらすべてが中国や日本に伝わったのではないから、その実義を知ることはできないけれども、中国に伝えられた十住毘婆沙論や中論・大智度論などの代表的な著作から、インドに残った論をも推測して考えることができるのである。
[46]疑っていう、インドに残った論の中に、中国に伝えられた論よりもすぐれた論はなかったのであろうか。
[47]答えていう、あるかないかはともかく、竜樹菩薩のことは自分が勝手にあれこれというべきではない。仏が付法蔵経に予言されているからである。すなわち「わが滅後七百年に竜樹菩薩が南インドに出現し、中論という書を造るが、それに本意が述べられている」といわれている。それゆえに竜樹菩薩の末流はインドに七十流もあって、その各流派の祖七十人がすべて大論師であり、しかもすべて中論を根本聖典としている。その中論は四巻二十七品から成るが、その肝心の教えは「因縁所生法、すなわち、すべての物は因縁から生じるが、それがそのまま有・空・中の真理に契っている」という四句の偈である。この四句の偈は華厳・方等・般若などの範疇である蔵・通・別・円の四教と、差別の空仮中三諦の法門であって、いまだ法華経の開会による完全円満な三諦の法門を述べていないのである。
[48]疑っていう、貴殿のように言った人が今までにいたかどうか、またその証拠はあるのか。
[49]答えていう、すでに多くの先師が法華経の最もすぐれていることを述べている。天台大師は法華玄義に「中論をもって法華経に比べてはならない」といい、また摩訶止観に「天親や竜樹は心の中では法華経の教義について明らかに知ってはいたが、実際の弘通はその時その時に適うように弘めた」といい、妙楽大師は法華玄義釈籖に天台大師の法華玄義の意を釈して「諸経の教理の浅深を破折し会合することは、とうてい法華経に及ぶものはない」といい、従義は三大部補注に天台の摩訶止観の意を釈して「竜樹・天親も仏の御本意を悟ったという点では、いまだ天台に及ばない」といっている。
菩提心論と不空の邪見
[50]問うていう、唐の末に不空三蔵が一巻の論を中国に伝えた。その名を菩提心論といい、竜猛菩薩すなわち竜樹の造られた書である。真言宗の開祖弘法大師は「この論は竜樹の作った千部の論の中でも第一の肝心の論である」といったが、はたしてどうであろうか。
[51]答えていう、この論はわずか一部七丁の紙数のきわめて簡単なものであって、しかも疑問が多くある。まずこの論の中には竜樹の言でないところが多いこと、次に目録にも竜樹の作とも不空の作とも定まっていないこと、さらにこの論は仏一代の経々を総括した論ではないこと、また杜撰な点の多いことなどである。まずこの論の肝心の文という「唯、真言の法の中においてのみ即身成仏できる」という文が誤りである。その理由は、経文の証拠もあり成仏の実証もある法華経の即身成仏をないがしろにして、経文の証拠も事実の裏づけもない真言経に即身成仏があるといったことである。これはとうてい信ずることはできない。また「唯」という一字をもって即身成仏は真言経に限るとしたことが根本の誤りである。このようになった事情を考えてみるに、菩提心論は不空三蔵が勝手に偽作して、当時の人びとに重く思わせようとして、竜樹の名を借りて竜樹造としたものであろう。そのうえ、不空三蔵は誤ることが非常に多い。その主たるものは、不空の訳という法華経の観智儀軌に、寿量品の仏を阿弥陀仏といったのは眼の前の大きな間違いである。また法華経諸品の順序について、陀羅尼品を神力品の次の第二十二に置き、属累品を経の最後に移したことは、もってのほかのことである。さらに天台の大乗戒を盗んで、代宗皇帝に願い出て宣旨をいただき、五台山の五寺に大乗戒壇を建立したことや、また真言宗の教相に天台宗の五時八教判を用いるというなど、いろいろと誤りの多いことは数かぎりないのである。このような事実から考えても、同じ経論でも不空以外の訳者が翻訳したものならば用いることもあろうが、不空の訳した経論は信用できないのである。総じて翻訳のことについてみるに、インドから中国へ経論を伝え翻訳した人が旧訳・新訳あわせて百八十六人ある。この中で羅什三蔵一人を除いては、いずれの訳者でも間違いのない者はないが、中でも不空三蔵はことに間違いが多くて、人びとを惑わすような偽りの心が明らかである。
[52]疑っていう、どうして羅什三蔵一人が正しく、それ以外の訳者が間違っているとわかるのか、また貴殿は禅宗・念仏宗・真言宗などの七宗を破折するばかりでなく、中国・日本に伝わった一切の訳者の翻訳を用いないというのであるか。それは何にもとづいているのか。
[53]答えていう、このことは自分の最も大切な事であるから、詳細に問うがよい。しかしいま少しばかり話そう。羅什三蔵がいうには「中国で翻訳された一切経をみるに、みなインドの梵本を正しく訳していない。どうかしてこの事実を世間に知らしめようと、一つの大願を立てた。身を不浄にするために妻帯したが、舌だけは清浄にして仏法を論ずるに偽りを言わないことを誓った。その証拠に自分の死後に必ず焼いてみよ、その時にもし舌が不浄の身とともに焼けたならば、自分の翻訳した経論は間違ったものとして捨てるがよい」と常に高座にあっていわれたのであった。そこで人びとは上は皇帝より下は万民にいたるまで、どうかして羅什三蔵より後に死にたいものであると願った。その後、羅什三蔵が死んで火葬にしたところが、不浄の身はすべて灰となったが、舌だけは火中に焼けずに残って、青蓮華が生え、その上に載せられて、五色の光を放って、夜も昼のようで、昼は太陽の光さえ薄らいだということである。ここにおいて初めてすべての訳者の翻訳した経々は間違いであるというので軽視され、羅什三蔵の訳した経々、その中でもとくに法華経は重んぜられて中国全土に容易に弘まったのである。
[54]疑っていう。羅什以前の翻訳はそうであったろうが、その後の唐代の善無畏・不空などは誤りはないであろうか、どうか。
[55]答えていう、たとえ羅什以後であっても、訳者の舌が焼けた場合には翻訳に誤りがあると知るべきである。それゆえに、その後、日本に法相宗がさかんな勢いで弘まったとき、伝教大師が責められていうには、羅什三蔵の舌は焼けなかったが、法相宗所依の経論を訳した玄奘・慈恩の舌は焼けたと指摘し、ゆえに法相宗の教えは誤りであるといわれたのである。桓武天皇はこれを道理であると思われて、天台法華宗に帰依されたのである。涅槃経第三巻の寿命品の醍醐に水を加える譬えと、第九巻の如来性品の正法が次第に衰えるとの文などをみると、仏法がインドから他国へ流伝する時に多くの誤りが生じて、衆生の得道も次第に少なくなると説かれている。それゆえに妙楽大師は法華文句記に「誤ると誤らぬとは、その責はともに訳者にあることで、仏の御意に関わらない」といわれている。今の人びとがどのように後世を願ったとしても、間違った経文の通りに願ったのでは、成仏得道はできないのである。そうであってもそれは仏の責任ではない、というのが妙楽大師の釈の意味である。およそ仏教を習うには、大乗・小乗、権経・実経、顕教・密教の区別があることを知らなければならないが、それよりもまず翻訳に間違いがあるかないか、仏の御意が正しく伝えられているかどうかを知ることこそが、第一の大事というべきである。
像法における天台大師の弘通
[56]疑っていう、仏減後の正法一千年の間に出た竜樹・天親などの論師は、いずれも内心には法華経の実義が華厳・般若・大日などの顕教や密教の諸経に比べてもっともすぐれていることを知りながら、外に向かってはそのことを説かないで、ただ方便の大乗経だけを弘通されたことは、必ずしもそうだとは思われないけれども、その理由は少しはわかったように思う。像法一千年の中間に(仏滅後一千四百八十七年、西暦<暦>五三八暦>年)、天台智者大師が中国に現われて法華経を弘められた。天台大師は、法華経の経題たる妙法蓮華経の五字の意味を法華玄義十巻一千枚に説き明かし、また法華文句十巻には法華経の最初の「如是我聞」から最後の「作礼而去」にいたるまで、一部八巻の一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈を並べて一千枚に書き尽くされた。以上の玄義・文句の二十巻には法華経と一切経とを比較して、諸宗依拠の一切経を江河に譬え、法華経を大海に譬えて、十方法界の仏法は露一しずくも残さず妙法蓮華経の大海に注ぐべきものであると定められたのである。さらにインドの大論師の論述された諸義まで一点も残さず法華経に帰入された。また中国の南三北七の十師の教判についても破折すべきは破折し、依用すべきは依用して、五時八教の教判を立てて一切諸経を批判され、法華経のもとに統一されたのである。さらに摩訶止観十巻を著わして、仏一代五十年の実践修行法をわれらの一念に統括し、仏界から地獄界にいたる十界の国土とそこに住む衆生との依正二報を三千の道理に収め尽くしたのである。この摩訶止観の文体は、遠くはインドの正法一千年の間の論師よりもすぐれ、近くは中国の像法のはじめ五百年の間に出現した人師たちの解釈にもすぐれているのである。そこで三論宗の嘉祥大師吉蔵は、江南江北の一百余人の先達と長者とに勧めて、天台大師の講義を聞こうとして天台大師に捧げた招請状には「千年の内に聖人が出で、五百年のうちに賢人が出るということは、実に今日のような時をいうのである。南岳大師の智恵のすぐれたことといい、天台大師の賢明なることといい、ともに万人にすぐれて、その昔を尋ねれば霊山にあって観音・薬王の二尊として、身口意の三業に法華経を持たれたが、今は師となり弟子となって妙法を伝えている。この二人は今日甘露の教えを中国に弘められるばかりでなく、その名声は遠くインドにまで及んでいる。生まれながらにして仏教の深い実義を会得せられて、魏・晋以来、経典の講義について巧妙を極めたことは実に無類である。よって一百余人の僧とともに智者大師を請じたてまつって、法華経の講義を請い願うところである」とある。また終南山の道宣律師は内典録に天台大師を讃歎して「法華経の義理に通じて明らかであることは、日中の太陽が深い谷間まで照らすようであり、大乗の法義を自在に説くことは、風が大空を自由に吹き廻るようである。たとえ大学者が千万人あったとしても、その中から天台のような巧妙な講演を尋ねても探し求めることはできない。またその義理を説くことが明瞭で、指で大空の月をさしても指に執着しないように、文字に拘泥しないでついに法華経の真理の極致に帰着している」といっている。華厳宗の法蔵法師は五教章に天台大師を讃歎して「慧思禅師や智者大師のような人は、その心がおのずから天地の神秘に通じて、その行ないは凡人ではなくてすでに悟りの位に登った菩薩である。昔、霊鷲山で親しく釈尊の説法を聞かれたが、今もなおそのまま記憶しておられる」といっている。また真言宗の不空三蔵と含光法師の師弟が、ともに真言宗を捨てて天台大師に帰伏した物語が宋高僧伝に見える。それによれば「含光法師が不空三蔵とともにインドに行ったところが、一人の僧が問うていうのに、中国には天台の教があって仏法の邪正を分別し、諸経の偏円優劣を判定したそうであるが、それを翻訳してインドに伝えることはできないかといった」とあるが、この物語は含光が妙楽大師に話したものである。妙楽大師はこの話を聞いて法華文句記に、「これはインドに仏法がなくなって、かえって四方の国々にこれを求めるものではないか。しかもこの国で天台の教えを正しく識る者が少ないのは、ちょうど魯の国の人でありながらその国の聖人孔子を知らないようなものである」と記している。もしインドの国に天台の法華玄義・法華文句・摩訶止観の三大部三十巻のようなすぐれた大論書があるならば、インドの僧がどうして中国の天台の注釈書を見たいと願うであろうか。これらの事実からみて、これは像法の時代に法華経の真実義が顕われて、世界中に広く弘まったといえるのではないか。
[57]答えていう、正法一千年と像法一千年のうちの前四百年を合わせた仏の滅後一千四百余年の間に、天台大師はまだインドの諸論師が弘めなかった仏一代の所説に超過したところの法華の円定と円慧とを中国に弘められただけでなく、その名声は遠くインドにまで聞こえたのである。これはたしかに法華経が広く弘まったようではあるが、円定・円慧だけでいまだ円頓の戒壇を立てられなかった。そこで小乗の戒律をもって大乗法華経の円定・円慧と結びつけたのは少し無理のように思われる。たとえば日蝕の時に太陽が欠け、月蝕の時に月が欠けたようなものである。それだけでなく天台大師の出世された時代は、大集経に説かれる第三の読誦多聞堅固の時で、まだ法華経の広く弘まる第五の五百歳ではないのである。
像法における伝教大師の弘通
[58]問うていう、伝教大師は日本国の人で、第五十代桓武天皇の御代に出世して、欽明天皇の時に伝来してから二百余年の間に弘まった六宗の邪義を破折し、天台大師が弘通された円慧・円定の教えを弘めただけでなく、鑑真和尚の立てた日本三所の小乗の戒壇を破折して、比叡山に大乗円頓の別受戒を授くべき戒壇を建立した。この大事業は仏の滅後一千八百年の間、インド・中国・日本はもちろん、世界第一の不思議のことであった。伝教大師の内心の悟りにおいては竜樹や天台などに比べれば、あるいは劣っているか、あるいは同じであるかも知れない。しかし、仏法が種々に分かれていたのを円戒の一法に統一したことは、竜樹や天親にも超え、南岳や天台にもすぐれてみえるのである。したがって仏滅後一千八百年の間を通じて天台・伝教の二人だけが法華経の行者であった。ゆえに伝教大師は法華秀句に、見宝塔品の仏の滅後における法華経弘通の困難さを説いた六難九易の文を引いて、「もし須弥山を手にとって、他方の多くの仏国土へ投げることはまだ難しくはない。(中略)しかし仏の滅後の悪世末法の時に、この法華経を説くことは難しい、との経文を解釈して、教理の浅い経は信じやすく、教理の深い経は信じがたいというのは釈尊の定められたことであるから、浅い経を捨てて深い経を信ずるのは立派な男子たるものの覚悟である。天台大師は釈尊の教えに随って法華宗を中国に弘め、今わが叡山の一家は天台の教えを承け継いで法華宗を日本全国に弘めるのである」といっている。この文の意味は、賢劫第九番目の減劫の時において、人の寿命が百歳の時から如来の世に在した五十年と、仏の滅後一千八百年との間に、高さ十六万八千由旬、六百六十二万里の金山を、身長五尺ばかりの小身の者が、わずか一寸か二寸の瓦礫を取って一丁二丁ほども投げるように、また雀が飛ぶよりも早く、この須弥山世界をとり囲む鉄囲山の外まで投げる者があっても、末法に法華経を仏が説かれたように説く人はきわめて稀である、ただ天台大師や伝教大師だけがその困難をのりこえて仏が説かれたように説いた人である、というのである。この二人に比べれば、インドの竜樹や天親らの論師たちは、まだ法華経の実義を説くまでにはいたらなかったのである。中国でも天台以前の学者たちは、あるいは過ぎたり足りなかったのである。天台以後の法相宗の慈恩・華厳宗の法蔵・真言宗の善無畏などは東を西といい、天を地といったほど誤りの多い人びとであった。それゆえ法華秀句の語は伝教大師の自慢の言葉ではないのである。
[59]去る延暦二十一年(<暦>八〇二暦>)正月十九日、高雄寺に桓武天皇が行幸せられ、当時南都の六宗七大寺の碩学といわれた善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏らの十有余人を召して、最澄法師と対論させて教法の邪正を決せられた時、あるいは一言に説き伏せられ、二言三言に及ぶ者はなく、みな一同に頭を下げ、手を組み合わせて黙ってしまった。三論宗で立てる二蔵・三時・三転法輪の教判や、法相宗で主張する三時教判・五性各別説や、華厳宗で説く四教・五教・根本枝末の教判と六相円融・十玄門の教理などは、ちょうど大きな家の棟や梁が折れたように、みなその大綱を破られて、十大徳の高慢の幢は倒されたのである。その時、桓武天皇は非常に驚かれて、その月の二十九日に和気弘世・大伴国道の両名を勅使として、重ねて七大寺・六宗に対して天台に帰伏すべき旨を仰せ下されたから、諸大徳は一同に帰伏状を提出したのである。この帰伏状には「心ひそかに天台の法華経の註釈を見るに、釈尊一代の教法を統括していて、よくその義理を究めて通じないところはない。ひとり諸宗よりすぐれ、ことに法華一乗の道を示して、その説くところは非常に深い真理である。このような法門は南都七大寺六宗の学者たちが、昔からまだ聞きもせず見もしなかったところである。よって三論宗と法相宗との間の永年の論争も、春の陽気に氷の解けるように解決し、明らかに邪正が決せられたことは、ちょうど雲や霧が晴れて太陽や月や星の光を見るようである。推古天皇の御代に聖徳太子が仏法を弘通されてより以来、今日まで二百余年であるが、その間に講讃された経論も数多くあって、彼と此と教理の優劣を争っていて疑問も解決されなかったのである。それなのにこの最妙の天台円宗がまだ弘まらずにいたのは、この間の衆生がまだ天台円宗の妙理を聞くまでにいたっていなかったからだろうか。深く考えるに、桓武天皇ははるか遠く霊山において如来の付嘱を受けていたから、深く純円の法華一乗の機根であることを察して、はじめて法華経の教えを興して、六宗の学者もはじめて仏教の極理を悟ったのである。まことにこの世界の衆生は、今日より後は法華経の船に乗って、早く菩提の彼岸に渡ることができるであろう。(中略)不肖善議らは幸いにも過去の因縁に引かれて、この良き時代に遇ったために、天台の法華経の註釈の巧妙なる言葉を聞くことができたのである。もしも深い宿縁がなかったならば、どうしてこの聖明の世に生まれ合わせることができよう」と述べた。彼の中国の嘉祥などは一百余人とともに天台大師を聖人と定めたが、いま日本の南都七大寺の二百余人の学者たちは伝教大師を聖人と呼んだのである。こうしてみると、仏の滅後二千余年に及んで、中国と日本とに聖人が二人現われたのである。そのうえ、伝教大師は天台大師のまだ弘めなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立されたのであるから、これは像法の末に法華経が広く弘まったというべきではないか、どうか。
[60]答えていう、正法時代の前の五百年に迦葉・阿難などの弘めなかった大法を、後の五百年に馬鳴・竜樹・提婆・天親などが弘通したことは、前にすでに明らかにした。また像法に入って竜樹・天親などの弘め残した大法を天台大師が弘めたことも前にすでに明らかにした。また像法の前半に出た天台大師の弘めなかった円頓の大戒壇を、伝教大師が建立されたこともすでに明らかなことである。ただしもっとも疑問に思われることは、仏は懇切に末代のためにと説き尽くされたが、仏の滅後正法・像法二千年の間に、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親から天台・伝教にいたるまでの人びとが、まだ弘めなかったところの最大微妙甚深秘密の正法が存することが、法華一部の経文の上に明らかに顕われているのに、まだそれを弘める人が出てこないことである。ゆえにこの深秘の正法は、ただ今日末法の始め第五の五百歳に、広く世界中に弘まるという仏の予言が、はたしてそうであるのかどうか、不審この上ないのである。
正像未弘の秘法と三宗の邪義
[61]問うていう、末法に弘まるという正法はどのような秘法であるか、まず名を聞いて、次にそのわけを聞きたいと思う。もし末法に弘まる正法があるというのが真実であるならば、教主釈尊が再び世に出られてその秘法を説かれるというのか、あるいは上行菩薩が涌出品のように重ねて大地より涌出されるというのであるか。急いでこのことについて教えをお聞きしたい。かの玄奘三蔵は六度も生まれかわってようやくインドに入り、十九年の年月をかけて法華一乗は方便教、小乗阿含経は真実教と習い、不空三蔵は中国からインドへ帰って、寿量品の釈迦牟尼仏を阿弥陀仏と書いたのである。これらは東を西といい、太陽を月と誤ったようなものであって、このような誤った教えを長い間身を苦しめて学んでも何の益にも立たないし、心を砕いて学んでも何の用にもならないのである。幸いにもわれらは末法に生まれ合わせ法華経の弘まるべき時機に値ったのだから、一歩も歩まないで、小乗の菩薩のように三祇百大劫もの長い間法を求めた人よりもすぐれ、わが頭を虎の餌食にするほどの冒険をしなくても、仏のように尊い無見頂相、すなわち仏の頂は誰も見ることができないという相を具えた仏の身と成れるであろう。これは非常に尊く有り難いことであるから是非くわしく聞きたいものである。
[62]答えていう、末法に広く弘まるべき秘法について述べることは、法華経の文に明らかに現われているからたやすいことであるが、しかしこの法門を発表するには、順序としてまず批判しなければならない三つの大悪事がある。大海は広いけれども死骸を留めないし、大地は厚いけれども不孝の者は載せないという。仏法では五逆罪を犯した悪人や不孝の者は救うけれども、正法を誹謗する一闡提と戒を持って聖者のようなふりをする者とは救われないのである。この三つの禍というのは、念仏宗と禅宗と真言宗とである。
[63]第一に念仏宗は、法然の開宗以来、日本国中に弘まって僧俗一同の口ずさみのように唱えられている。第二に禅宗は、聖者のふりをした三衣一鉢の姿の大高慢の僧が、国じゆうに充満して天下の指導者であると思っている。第三に真言宗は、念仏・禅の二宗とは比ぶべくもない大邪悪である。比叡山をはじめ東寺・奈良七大寺・三井園城寺の官主となり、御室となり、長吏となり、検校となったりして、大いに栄えている。そしてかの内侍所の神鏡は焼けて灰となったけれども、大日如来の宝印を仏の鏡と頼んで、また宝剣は安徳天皇とともに西海に沈んだけれども、真言の不動・降三世・軍咤利・六足・浄心の五大尊の力で国敵を切り払うといっている。このように悪く固まった信仰は、たとえ方高四十里の石が仙人の薄い衣の袖ですり減らされても傾きそうにも見えないし、また大地が転倒したとしても疑いを起こしそうにもないのである。
[64]この真言宗というのは、中国の天台大師が南三北七の学者たちを破折した時にはまだ伝わっていなかったから批判を受けていない。またわが伝教大師が南都の六宗を破折した時にも非難から漏れていたのである。天台・伝教のような強敵から破折を免れて、かえって法華の真実の大法に敵対して、法華の大法を失おうとしている。それだけでなく、伝教大師の御弟子である慈覚大師は、この真言宗を取り立てて、叡山の天台宗を滅ぼして一向に真言宗としてしまったから、この人には誰が敵対しようとする者があろうか、誰もいない。このような状況であったから、その僻見を好都合として、弘法大師の邪義をとがめる人は叡山に一人もなかったのである。のちに五大院の安然和尚が教時問答を著わして弘法の十住心の教判を少し批判したけれども、ただ弘法が華厳よりも法華が劣っているといったところだけをとがめたので、かえって法華経を大日経以下に落としてしまったのである。それゆえ安然はちょうど世間でいう仲人のようなものである。
浄土宗を破折する
[65]問うていう、この三宗に誤りがあり邪義であるというが、それはどういうことであるか。
[66]答えていう、まず浄土宗からその誤りの理由を説き明かそう。浄土宗というのは、中国の斉の時代に曇鸞法師という人があって、この人ははじめは三論宗の学者であったが、たまたま竜樹菩薩の十住毘婆沙論を見て、仏道修行の方法に難行道と易行道の二種があると立て、弥陀念仏の易行を取ってそれ以外の諸行を捨てよと主張したことに始まるのである。また唐の時代に道綽禅師という人があった。はじめは涅槃宗の学者であったが、曇鸞法師が浄土論註二巻を著わして難易二道を立てて浄土宗に移ったのを見て、涅槃経を捨てて浄土宗に移り、安楽集二巻を著わして、仏教には自力で悟りを得ようとする聖道門と弥陀の本願他力にすがる浄土門の二門があると立てて、聖道門を捨てて浄土門に帰入したのである。また道綽の弟子に善導という人があって、この人は観無量寿経を中心として、正行と雑行の二行を立てて、念仏以外の諸行を捨て弥陀の浄土に往生を願う念仏の一行だけを正行として、これに帰依すべきことを主張した。日本においては、末法に入って二百余年の後鳥羽院の御代に法然という人があって、はじめ叡山の天台宗を学んだが後に浄土門に移り、善導の観経疏によって専修念仏の一行を立てた。当時の一切の僧俗に勧めて言うには、仏法は時代と衆生の機根とを本として説くべきである。法華経・大日経などによる天台宗・真言宗などの八宗九宗、すなわち仏一代仏教の中の大乗小乗、顕教密教、権教実教などの経々やそれらに依るところの宗々は、正法・像法の時代の知識も機根もすぐれた人びとのための仏法であって、今の末法の劣った機根の者はどのように励んで修行しても何の利益も得られない。それだけでなく、諸教諸宗のもろもろの修行を弥陀念仏にまじえて修行すれば、念仏の修行もまた往生極楽の行とはならなくなるのである。これは自分の勝手な意見ではなく、念仏以外の諸行に対しては、インドの竜樹菩薩や中国の曇鸞法師は「難行道」といわれ、道綽は「いまだ一人も成仏した者はない」と否定し、善導は「千人に一人も成仏する者はない」と定めたのである。これらの諸師はいずれも他宗の人であるから念仏往生について疑問もあろう。末代の今日においては天台・真言の智者としては恵心僧都以上の人はいないであろうが、その恵心僧都が往生要集の序に「顕教や密教の教えは、自分のような末代の愚かな者が生死の苦を離れる道ではない」と書いている。また三論宗の永観の往生拾因という書物などを見るがよい。これらの人びとも末代の世には念仏が最もふさわしいと説いている。それゆえ法然も法華・真言などを捨てて一向に念仏を唱えるならば、十人は十人、百人は百人がみな往生することができると勧めたのである。かくして叡山・東寺・園城寺・南都七大寺なども、はじめは教義の是非を争ったけれども、恵心の往生要集の序の詞が道理のようにみえたので、叡山の顕密第一の座主ともいわれた顕真座主がまず第一に法然の教えを信じてその弟子となったのである。それだけでなく、たとえ法然の弟子とならない人でも、弥陀念仏は他の仏の名を唱えるのと違って唱えやすいので口ぐせのように唱え、また頼みとして心を傾けたから、日本国中の者が一同に法然の弟子となったように見えたのである。この五十年の間に日本中の人びとが一人残らず法然の弟子となったのである。すでに謗法の根本である法然の弟子となったから、日本国こぞって一人残らず謗法の者となったのである。ちょうど千人の子供が、みなで力を合わせて一人の親を殺せば、千人が一同に五逆罪を犯した者となり、その中の一人が無間地獄に堕ちるならば、残りのすべての者も堕ちるのと同じである。結局、法然は念仏を勧めて流罪にされたのを怨んで悪霊となり、自分や弟子たちを罪に落とした国主や叡山・三井の僧たちの身に取り憑いて、謀反を起こさせたり、悪事を働かせたりして、みな関東に滅ぼされたのである。わずかに残った叡山や東寺などの僧たちは、ちょうど猿が人の真似をして人に笑われ、辺境未開の人びとが子供にさえも蔑まれるように、在家の人びとにまで侮られるのである。これらはすべて法然の邪義によるのである。
禅宗を破折する
[67]禅宗はまた叡山や東寺などの仏法の衰微につけこんで、戒律を堅く持つ聖者のようなふりをして、世間の人の眼を迷わせて尊げに見えるところから、いくら間違った法門を宣伝しても、誰も間違ったとは思わない。元来が禅宗という宗旨は、「経典の所説のほかに仏の悟りは別に伝える」といって、本来の悟りは一切経のほかにあって、釈尊はその悟りを迦葉尊者の心へと伝えたというのである。それゆえに禅宗を知らないで一切経を習うのは、犬が雷にかみつこうとしたり、猿が水に映った月影を捕えるようなものであるといっている。このようなわけであるから、禅宗という宗旨は、日本国中で、不孝のために親に捨てられたり、無礼のために主君に勘当されたり、また年若い法師らが学問を怠けたり、落ちつきのない正気を失った遊女のような者の性分に合っている邪法であるから、このような者たちがみな一同に禅宗に帰依して、表面に戒律を持ち殊勝にふるまって、一国の民衆を取り食らう蝗虫となった。そこで天は眼を瞋らすから天変が起こり、地神は身を震わすから地異が起こるのである。
真言宗を破折する
[68]真言宗は、上の念仏・禅二宗の邪義とは比較にならないほどの大邪見の宗旨である。今その大体を説き明かそう。その源は、唐の玄宗皇帝の時代に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人が大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言三部をインドから中国に伝えたことに始まる。この三経の究極の真理は、小乗教の二乗を卑しんで菩薩だけを讃える会二破二の一乗という第三方等部に属するもので、その経の説相が他経と異なるのはただ印相と真言とを説いているところだけである。ゆえに華厳経や般若経の声聞・縁覚・菩薩の三乗に比べて説いた相対的の一仏乗の説にも及ばない。また天台宗の法華以前の別教や円教ほどでもなく、それ以下の小乗の教えや小乗と大乗の両方にわたった教え程度にすぎないのである。それを善無畏三蔵が考えるに、もしこの経をありのままに説いたならば、華厳宗や法相宗にもあざけられ、天台宗にも笑われるであろう。しかし、すぐれたお経と思ってせっかくインドから伝来したものを、このまま弘めずにおくのも不本意と思ったと見えて、天台宗の一行禅師というひねくれ者を騙して、当時中国に弘まっている諸宗の教理を聞いてみたのである。ところが一行阿闍梨がすっかり騙されて、三論・法相・華厳などの宗旨をだいたい述べただけでなく、天台宗の教義の立て方まで述べたのを聞いて、善無畏は、天台宗はすぐれているとは聞いていたが、今くわしく聞いてみるとインドで聞いていた以上にすぐれた宗旨で、自分の奉ずる真言宗はとうていその上に出られそうにもない、何とかしなければならないと考えた。そこで善無畏が一行を騙して、貴僧は中国にはめずらしい賢人であり、また天台宗はまことに神妙な宗旨であるが、しかしわが真言宗が天台宗よりすぐれているところは事相の手に印を結び、口に真言を唱える方法とがあることだといったのを、一行はそうかもしれないと思いこんでしまった。そこで善無畏三蔵が一行に相談して、天台大師が法華経の註釈を書かれたように、大日経の註釈を書いて真言宗を弘めようと思うが、貴僧が書いてくれないか、といったところが、一行がいうのには、とてもたやすいことであるが、しかしどのように書けばよいのであろうか、まことに天台宗は小憎い宗旨であって、諸宗がみな天台宗に対しておのおのに自分の宗旨がすぐれているといって争ってみたところで、どうしても及ばないことが一つある。それは法華経の序分の無量義経に「四十余年未顕真実」という文があって、この文によって法華経以前の四十余年間に説いた一切の経々を、真実を説いていないと否定してしまい、さらに法華経の法師品の已今当の三説超過の文と神力品の四句の要法の文とで、法華経以後に説かれる経々も真実の成仏の経ではないと定めて、さらに法華経と同時に説かれた経々をも法師品の「今説く」の文をもって法華経に遠く及ばない経と説かれている。そこで大日経は法華経より以前に説かれたか、以後に説かれたか、または同時か、この三説の中で、いつ、どこの説であるかと問うたのである。この時に善無畏が大いにたくらんでいうには、大日経の最初に入真言門住心品という品があって、成仏の因となる極無自性心を説いていて、諸経との優劣を判定することは、ちょうど法華経の序分の無量義経が四十余年の経々を成仏の道でないと否定したと同じようである。さらに大日経第二の入曼荼羅具縁品以下の諸品は、中国に伝わってからは法華経と大日経との二本に分かれているが、インドでは一経であったのである。釈迦仏が舎利弗や弥勒に向かって、密教の大日経を顕教の法華経と名づけ、事相の印と真言とを略してただ教理だけを説かれたのを、羅什三蔵が伝え翻訳し、天台大師はこれを見て天台法華宗を立てたのである。また大日如来が金剛薩埵に向かって説いた法華経を大日経と名づけたもので、自分はこれを現にインドで見たのである。このようなわけであるから、貴僧が大日経の註釈を書く時には、大日経と法華経とを水と乳とを混ぜたように一味のものとして書けばよい。もしそうすれば、大日経は法華経のように、大日経以前と同時と以後との経々よりすぐれていると諸経を打ち落とすであろう。そしてその上で、事相の印と真言とで、同一の教理である心法の一念三千を飾りたてるならば、身(印)と口(真言)と意(心法)との三密が相応一致した秘法となるのである。このように三密が相応一致する秘法であることから天台宗と比較するならば、天台宗はただ意密の一つだけで、真言宗は身口意三密を具えている。だから、真言宗はちょうど剛勇な将軍が甲鎧を着た上に弓矢を持ち、腰には太刀を差したようなものであるが、これに対して天台宗は意密だけであるから、剛勇な将軍が武器を着けない赤裸のようなものであるといったのを、一行阿闍梨はそのまま信じてその通りに書いたのである。大日経疏がそれである。中国三百六十か国にはこの事実を知る人がなかったとみえて、はじめのうちは顕密の勝劣を争い論じたけれども、真言密教を中国に伝えた善無畏などは人柄や地位もすぐれ、皇帝の帰依を得ていたから、それに対する当時の天台宗は天台大師滅後の暗黒時代で、人びとは軽くて善無畏に対するほどの人物はなく、また天台大師ほどの智者もなかったから、ただ日々に真言宗が勢力を得ていくばかりであった。こうして年を経るにしたがってますます真言宗の教義が人びとをあざむきまどわすものであることの根本が隠れて知られないようになってしまったのである。
伝教大師の真言宗観
[69]その後、わが国の伝教大師が中国に渡って、天台宗の奥義を道邃・行満から学び伝えて帰る途中に、真言宗を順暁から習い伝えたのである。そして天台宗を桓武天皇に授けるとともに、真言宗を南都六宗の大徳に授けたのである。ただし南都六宗と天台宗との勝劣は入唐以前に定めておいたから、帰国後は天台宗と真言宗との勝劣を定むべきであったが、大乗円頓の戒壇を比叡山に立てる立てないの議論がはかばかしくなかったので、敵が多くては円頓戒壇建立の大事が成就しがたいと思われたのか、あるいはまた真言宗の批判は後の末法の行者に折伏させようと思われたのか、天皇の御前においても真言宗のことについては何の発言もなく、また弟子たちに向かっても明らかに語られなかった。ただし伝教大師の著作に依憑天台集という一巻の秘書があって、その中に律・三論・法相・華厳・禅および真言宗など中国・朝鮮の七宗の人びとが天台宗に帰伏したことを書いているが、その序文に真言宗の誤っていることが一筆みえているのである。
弘法大師の邪義を破折する
[70]弘法大師空海は伝教大師と同じく延暦二十三年(<暦>八〇四暦>)に中国へ渡って、青竜寺の恵果阿闍梨について真言密教を習学し相伝したのである。在唐三年の後に大同元年(<暦>八〇六暦>)八月帰国し、十住心論などを著わして一代仏教の勝劣を判定して、第一真言・第二華厳・第三法華と立てた。弘法大師は世間の人たちが思いのほかに重んずる人である。しかし、仏法については言うをはばかるけれども、思いのほかに粗雑な考えをする人である。今このことをだいたい考えてみると、弘法大師は中国へ渡って、ただ真言の事相の印と真言、すなわち手に印を結び、口に真言を唱えるという実際修行上のことだけを習い伝えて、その意味については深く学ばれなかったのである。日本に帰ってから、真言宗を弘めようと思って当時の仏教界の様子をみると、天台宗がすぐれた教えとして人びとの帰依を集め意外に勢力を得ていて、真言宗を弘められそうもなかったから、中国へ渡る前に学んだ華厳宗の教理を取り入れて、華厳経は法華経よりすぐれているといったのである。しかしそれも普通の華厳宗でいうようにいったのでは人も信じないと思ったのか、少し潤色を加えて、これは大日経や竜猛菩薩の菩提心論、善無畏などの実義であると、大妄語を付け加えて弘めたのである。しかし当時の天台宗の人びとは、伝教大師御入滅の後は伝教ほどの人はいなかったので、誰一人として強く咎める者はなかったのである。
[71]問うていう、弘法大師の代表的著述である十住心論・秘蔵宝鑰・弁顕密二教論についてみると、秘蔵宝鑰には「このように真言密教以外の諸経では、おのおのその教の上ではいずれも仏乗と名乗るけれども、後に説かれた密教に比べれば戯論である」といい、また「釈尊を大日法身に比べれば、なお無明の分域である因位にあって、迷いを解脱した明の分位ではない」といい、弁顕密二教論には五蔵の教判を立てて法華経を「第四熟蘇味である」といい、さらに「中国の学者たちは争って真言の第五醍醐味を盗んで、おのおの自宗の教理を高めた」などといっているが、これらの解釈はどうであろうか。
[72]答えていう、自分はこの解釈の文を見て驚いて、一切経ならびに真言宗所依の大日の三部経などを開いてみたが、十住心論や秘蔵宝鑰にいうように、華厳経と大日経とに比べると法華経は第三戯論であり、また二教論にいうように六波羅蜜経による真言の五蔵教判によれば中国の学者たちは醍醐の盗人であり、さらに秘蔵宝鑰によれば守護経にあるように釈尊を無明の分域であるという経文は、一字一句もないのである。これらの邪義は何の依りどころもない取るに足らぬことではあるけれども、日本に仏教が伝来してからこの三、四百年の間の日本の学者たちが少しも疑うことなく用いたことであるから、たぶん何らかの理由があると思うのである。そこでさしあたりわかりやすい誤りをあげて、その他の主張も信ずるに足らないことを知らせよう。
[73]元来、法華経を醍醐味と定めたのは陳・隋の時代に天台大師(<暦>五三八暦>—<暦>五九七暦>)が最初に言ったことである。ところが六波羅蜜経はその後の唐の時代の半ば(<暦>七八八暦>年)に般若三蔵が伝えたのである。もし六波羅蜜経の醍醐が陳・隋の時代に伝わっていたならば、天台大師が真言の醍醐味を盗んだともいえようが、天台の滅後に伝来したものをどうして盗むことができようか。これについては近くに適当な例がある。日本法相宗の徳一が、「天台大師は解深密経による三時教を誤りだというが、これは三寸の舌をもって五尺の身を誤るものだ」と罵ったのを、伝教大師がこれを糺して、「解深密経は唐のはじめ(<暦>六四七暦>年)に玄奘三蔵が中国に伝えたものであるが、天台大師はその前代の陳・隋の人であるから、大師の滅後に数十年を経て伝わったのである。滅後に伝えられた経をどうして生前に破折することができようか」と責められたところが、徳一は返答につまっただけでなく、舌が八つに裂けて死んだということである。今の弘法が、中国の学者たちが争って醍醐を盗んだといったことは、かの徳一が天台大師を評した以上の悪口である。中国の学者たちといえば、華厳宗の法蔵・三論宗の嘉祥・法相宗の玄奘・天台大師智顗をはじめ、江南江北の学者たちや後漢の仏教伝来以来のあらゆる学者たちをすべて盗人といったのであるから、これほどの悪口は他に類を見ないのである。そればかりでなく、法華経を醍醐ということは、天台大師らが自分勝手にいったのではない。仏が涅槃経の中に法華経を醍醐とお説きになり、インドの天親菩薩は法華論に法華経と涅槃経とを醍醐と書かれ、竜樹菩薩は大智度論に法華経を妙薬と名づけられたのである。それゆえ、もし法華経を醍醐という人が盗人であるならば、最初に法華経を醍醐と説かれた釈尊、これを証明した多宝如来と十方の諸仏をはじめとして、インドの竜樹・天親なども、みな盗人であろうか。弘法の門人らはもちろん、日本真言宗の道場である東寺の真言の学者たちよ、どんなに自分が愚かで、正しいか正しくないかを見分けることができないにしても、仏説ならびに論師人師の言葉を鏡として、自分の謗法の罪を知らなければならない。このほか、弘法は法華経を第三戯論であると書いたが、これについて大日経や金剛頂経などに確かな文証があるならば出すがよい。あるはずはないが、万が一、何かの経文に法華経が戯論であると書いてあったとしても、その経を翻訳した人の誤りということもあるから、よくよく考えなければならない。孔子は論語に「九思一言」といって、一度物をいうにも何度も考えたといい、周公旦は沐浴する間や食事する間にも、他人の言葉には常に注意を怠らなかったそうである。仏教以外の世間の事柄を学ぶ人でも、智者はこのように注意をするものである。それを弘法大師はどうして浅はかにも法華経を第三戯論などといったのであろう。このような誤りを受けついだ末学であるから、かの伝法院の本願と名乗る新義真言宗の祖、正覚房覚鑁は舎利講式に「最も尊いものは唯一絶対の最高の教えを説いた密教の教主大日如来で、それに比べると驢馬や牛のような顕教の釈迦如来はその車を引くにも足らない。ゆえに仏教の中で甚深秘奥というのは金剛界・胎蔵界の両部の曼荼羅を説く密教である。それに比べれば顕教の四法は、その履物取りにも足らない」といっている。ここに顕教の四法というのは、法相・三論・華厳・法華の四宗をさし、驢牛の三身というのは法華・華厳・般若・深密の四経の教主たる釈尊をいうのである。これらの教主を本尊と仰ぎ修行する四宗の僧たちは、真言の師に比べれば、正覚房や弘法の牛飼いや履物取りにも足らない者というのである。末学の者にこのような妄言をいわせた張本人の弘法大師の謗法をよくよく知るべきである。
三宗の邪義を破折する
[74]かのインドの大慢婆羅門は生まれながらの博学で、顕教密教の二教に通じていたばかりでなく、仏教と仏教以外の世間一般の書籍にまで通じていた。それゆえ、国主も臣下も頭を下げ、万人はみな師範として仰いだのである。そこで彼は慢心のあまりに、世間の人びとが尊崇する者は大自在天と婆籔天と那羅延天と大覚世尊の四人であるから、この四人を自分の坐る高座の足にしようといって、高座の四隅の足に作り、その上に坐って法門を説いたのである。ちょうど今の真言師たちが釈尊をはじめ一切の仏を描き集めて、結縁灌頂をする時にこれを敷曼荼羅として地に敷き投花するのに用い、また禅宗の法師などが、この宗は仏の頂を踏む大法である、というようなものである。この大慢婆羅門のいた当時、賢愛論師という小僧があって、かの大慢婆羅門の誤りを糾したいといったけれども、国主も臣下も万民も、みなこれを用いないばかりか、かえって大慢の弟子や信者などに言いつけて種々の偽りごとを作って、賢愛の悪口をいったり、打ち叩いたり、さまざまに迫害を加えた。しかし賢愛は少しも命を惜しむことなく、ますます大慢の誤りを言い張ったので、国主は賢愛を憎んで問答で言い詰めさせようとした。ところが逆に大慢が責められたのをみて、大王は深く悔悟して、天を仰ぎ地に伏して嘆いて、自分は目前にこのことを聞いて日頃の邪見を改めることができたが、先王はまったく大慢に騙されて今は阿鼻地獄にあるであろう、と賢愛論師の足に取りついて泣き悲しまれたのである。そこで賢愛論師のお計らいとして、大慢を驢馬に乗せてインドじゅうを引き廻したところが、いよいよ悪心をさかんにして、生きながら無間地獄に堕ちたのである。今の世の真言師や禅宗の人びとが、釈尊と法華経をないがしろにするのは、この大慢婆羅門と少しもかわってはいないのである。その謗法の罪は大慢の堕地獄に相当するのである。
[75]また中国の隋代に出て三階仏法を主張した信行禅師が、教主釈尊の出世の本懐という法華経は、三階仏法から判ずれば第一階の正法、第二階の像法の二千年に弘まる法門であって、第三階の末法のためには自分が作った普経に依るべきである。それゆえ法華経を今の世に修行する者は、十方の大阿鼻地獄に堕ちるであろう。それは、法華経が末代の機根に合わない教えであるからだといって、昼夜六時の勤行と、一年四時の坐禅とを厳重に修して、生き仏のようであったから、多くの人に尊敬され、万余人の弟子があったけれども、のちに法華経信者の少女に責められて、その場で声が出なくなり、後には大蛇となって、多くの弟子や信者や、さらには少女や処女までも飲み食ったということである。今の浄土宗の善導や法然が「末法に法華経を信じて成仏する者は、千人に一人もいない」と主張した悪義も、三階禅師の邪義とまったく変わらないのである。これら念仏・禅・真言の三宗の大悪事は、すでに事久しく世に行なわれていることであるから、軽々しく言うべきではないが、その誤りを指摘すればまた信ずる人もあろうかと思う。しかしこの三宗の邪義よりも百千万億倍も信じかねる最大悪事があるのである。
慈覚大師を破折する
[76]慈覚大師は日本天台宗の開祖伝教大師から義真・円澄・円仁と相承されるように、伝教大師の第三の御弟子である。ところが上は天皇から下は万民にいたるまでが、伝教大師よりもすぐれていると思っている。この慈覚大師は真言宗と法華宗との実義を究められたが、真言は法華経よりすぐれていると書いているのである。それなのに比叡山の三千人の学徒や日本全国の学者たちは、すべてこの邪義に帰伏してしまったのである。それゆえに、弘法の門人たちは、弘法が十住心教判を立てて法華経は第三戯論の法で華厳経にも劣ると書かれたのは、真言の方から見ても少し書き過ぎではないかと思ったが、真言は法華経にまさるという法華宗の慈覚大師の解釈から考えても、真言宗が法華経にすぐれていることは確かなことだと思ったのである。そもそも日本国で真言宗が法華経よりすぐれているとの主張に対しては、法華宗の根本道場である比叡山がもっとも強く反対しなければならないのに、かえって慈覚が真言勝法華劣の意見で比叡山三千人の学徒の口を塞いだから、真言宗は思うままに第三戯論の主張ができ、日本国に弘まったのである。それゆえ真言宗の根本道場である東寺第一の味方は、慈覚大師以上の者はいないのである。さらに例をあげれば、浄土宗や禅宗はほかの国では弘まっても、日本国では延暦寺の許可がなければいつまでたっても弘まるはずはなかったのである。ところが安然和尚という叡山第一の古徳が教時諍論という書を作って、当時の仏教九宗の勝劣を立てた時、第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗などと書いたのである。この大きく間違った解釈のために、禅宗が日本国に弘まって、国はまさに滅びようとしているのである。また法然の念仏宗が流行して国が滅びようとする原因は、恵心僧都の往生要集の序から始まったことである。このように叡山の先師である慈覚・安然・恵心らの力によって、真言宗と禅宗と念仏宗とが弘まって法華経の正法が失われたために国が滅びるということについて、「獅子の身の中に棲む虫が、かえって獅子の身を食う」と仏が蓮華面経に予言されたことは、まことにもっともなことであり、悲しむべきことである。
伝教大師と慈覚大師の教義の相異
[77]伝教大師は十一歳で出家してから延暦二十三年(<暦>八〇四暦>)に中国に渡るまでの約十五年の間、日本国において天台・真言などの諸宗の教義をひとりで研究し、生まれながらに智恵がすぐれていたので、とくに師匠について学ばなくともその奥義を悟られたのである。しかし世間の人びとの疑いを晴らすために、中国に渡って天台・真言二宗の奥義を学ばれた時、中国の学者たちの間には種々の説があったけれども、伝教大師自身の心には法華は真言よりもすぐれていると思っていたから、翌年帰国してからは、もっぱら法華経を弘め、真言宗の宗の字を削って、天台法華宗の止観・真言などと書かれたのである。毎年年分度者として止観・真言の二人の学生を出家得度させ、十二年の間研究と修行に努めさせて天台法華宗の後継者を養成し、また一乗止観院すなわち根本中堂において法華経と金光明経と仁王経の三部を長講させて、この三部の経典を鎮護国家の三部と定めた。そして天皇の仰せをこうむって、日本国の建国以来の永年の第一の重宝である神璽・宝剣・内侍所のいわゆる三種の神器に擬え、これを崇められたのである。叡山第一の座主の義真和尚、第二の座主の円澄大師まではこの定めに相違はなかったのである。
[78]第三の慈覚大師は承和五年(<暦>八三八暦>)に中国に渡って十年の間、顕教と密教との二教の勝劣を宗叡・全雅などの八人の師から学び伝え、また天台宗の広修・維蠲などの人びとにも学んだけれども、心の中では真言宗は天台宗よりすぐれていると思っていたのである。そしてわが師伝教大師はこの法門についてはまだくわしく学ばれなかったのであり、中国に滞在していた期間も短かったから、顕密の勝劣の法門についてはほんのあらましだけを学ばれたのであろうと思われた。日本に帰って比叡山の東塔、止観院の西に総持院という大講堂を建て、真言の金剛界の大日如来を御本尊として勧請し、その御宝前で善無畏三蔵の書いた大日経の疏に基づいて、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、以上十四巻を作ったのである。これらの疏の中心をなす解釈は、蘇悉地経疏に「仏教に二種の別がある。一は顕示教で、三乗の教えがそれである。この教えは世俗と勝義、すなわち俗諦と真諦、事と理との融合一体を説かない。二には秘密教で、一仏乗の教えがそれである。この教えは真俗の二諦と、事と理の二法が完全に一体となって何のさまたげもないからであると説くのである。またこの秘密教に二種の別があって、一は唯理秘密教といって、華厳・般若・維摩・法華・涅槃などの諸経をいうのである。これらの経では真諦と俗諦、事と理との一体不二は説くが、まだ真言と密印との実践の行である事相を説かないからである。二は事理倶密教といって、大日経・金剛頂経・蘇悉地経などの真言三部経をいうのである。これらの経は真俗二諦、事と理の一体不二を説くだけでなく、真言と密印の実践の事相をも説くからである」といっている。この釈の意味は、法華経と真言三部経との勝劣を判定するのに、真言の三部経と法華経とはその究極の真理は同じく一念三千の法門である。しかし密印と真言との実践の事相は法華経には欠けている。ゆえに法華経はただ理秘密といって深い理を説き明かすだけであるのに、真言の三部経は理事倶に秘密で理論と実践ともに説いているから、その相違は天地雲泥の差があるというのである。しかもこのように書いたのは自分の勝手な考えではなく、善無畏三蔵の大日経の疏の意であると思いながら、それでもなお天台・真言二宗の勝劣を不審に思われたか、それともまた他人の疑いを晴らそうとしたのであろう。慈覚大師の伝によれば、「大師は二経の疏を作った後に、なお心中ひそかに思うには、この疏がはたして仏意にかなっているかどうかということである。もし仏意にかなわなければ世の中へ出すまいと思った。そこで大日如来の前にこの疏を置いて、七日七夜の間、心をこめて祈請をこらしたのである。ところがその五日目の明け方の夢に、ちょうど正午の時に日輪に向かって弓を射たところが、その矢が日輪に当たって、日輪が転動したのを見たというのである。大師はこの夢によって、この二経の疏は仏意にかなったものと悟って、後世に伝えようといわれた」とある。慈覚大師はわが国では伝教の顕教と弘法の密教とを習い究め、中国においては八人のすぐれた師や南インドの宝月三蔵などについて十年の間、最大事の秘法である真言密教を習い究めた上、二経の疏を作ってその是非につき本尊に祈請をしたところが、智恵の矢が真理の日輪に当たったところで夢が覚めて、喜びのあまりに仁明天皇に奏問し勅許を受けて、この疏を世間に出したのである。そして天台の座主を真言の官主とし、真言の三部経をもって鎮護国家の三部といって弘めたのである。それより今日まで四百余年の間、学者は稲や麻のように多く、信者は竹や葦のように多かったのである。それゆえ桓武天皇や伝教大師などの建立された日本国中の寺院はことごとく真言の寺となり、公家も武家も一同に真言師を請じて師匠と仰ぎ、僧官に昇らせ、寺を任せたのである。そのために、仏の木像や画像の開眼供養をするには、八宗一同に、みな大日如来の印と真言との事相を用いるようになったのである。
慈覚大師の邪義を批判する
[79]疑っていう、法華経が真言よりもすぐれるという人は、この慈覚の釈を用いるべきであるか、捨てるべきであるか、どうしたらよいか。
[80]答えていう、仏は滅後の未来における仏法の正邪を判定する基準を定められて、涅槃経に「法に依って人に依るな」といわれ、竜樹菩薩は十住毘婆沙論に「経典に依るのは正しいが、経典に依らないのは邪説である」といわれ、天台大師は法華玄義に「経典と合うものは採用し、経典に文も義もないものは信じてはならない」といわれ、伝教大師は法華秀句に「ただ仏説に依って、人師の口伝を信じてはならない」といわれた。これらの経や論や釈によるならば、後世の人師の夢を根拠とした勝手な解釈に依るような愚かなことはしてはならない。ただ直々に法華経と大日経との勝劣を明白に説いた経論の文証が何よりも大切なのである。法華経には釈尊みずから法華経が第一であり、経王であると説かれているが、大日経にはそのような経文はあるはずがない。ただし印と真言とがなくては木画二像の開眼ができないなどということは、まことにおかしなことである。もしそうだとすれば、真言宗が伝わらなかった以前には木画二像の開眼がなかったのであろうか。インド・中国・日本には、真言宗以前の木像や画像には、あるいは歩いたり、説法したり、物をいったりした奇蹟も伝えられているものもあるのである。しかし真言宗が伝来して印や真言をもって仏像の開眼をするようになってからは、かえってそのような利益もなくなってしまった。これらのことは日常に話しあわれていることを述べただけである。この二経の疏の誤りについては、日蓮は明白な証拠をよそから引くまでもない。ただ慈覚大師の御釈たる二経の疏をそのまま信じたらよいのである。慈覚大師の発言に基づいて、慈覚の誤りを証明できるのである。
[81]問うていう、慈覚の釈をどう信じたらよいか。
[82]答えていう、慈覚が夢で真言が法華にすぐれていることを知ったというが、そのような夢を見た根本の原因は、真言が法華よりすぐれていると前から自分で心に決めていたからである。それともこの夢がもし吉夢であるならば、慈覚大師が夢をもって真言がすぐれていると占ったように、真言がすぐれているに違いないであろう。しかしながら日輪を射るという夢が、はたして吉夢といってよいだろうか。仏教の経論五千七千余巻や仏教以外の三千余巻の中に、日輪を射るという夢が吉夢であるという証拠があるならば聞きたいものである。まずこちらから少し証拠を出してみよう。仏典によれば、仏の在世に摩竭陀国の阿闍世王が天から月が落ちる夢を見て、耆婆大臣に占わせたところが、大臣は仏の御入滅であると答えたという。また須跋多羅は天から太陽が落ちると夢みて、自分で占って仏の御入滅であるといった。外典によれば、阿修羅は帝釈天と合戦する時には、まずその臣下である日月を射るといわれている。また中国古代の夏の桀王・殷の紂王という悪王は、常に太陽を射て身を滅ぼし、国を滅ぼしたのである。さらに仏典では、仏の御母摩耶夫人は太陽を孕んだ夢をみて悉達太子をお産みになったので、仏の幼名を日種といわれるのである。またわが国を日本国というのは、天照太神が太陽の神であられるからである。このように内外典に見える事実に照らし合わせてみると、慈覚大師の夢は、天照太神と伝教大師と釈迦仏と法華経とを射た矢が、金剛頂経と蘇悉地経の二経の疏であるということになるであろう。これはまことに神仏を畏れぬもってのほかの話である。日蓮はもとより愚かな者であって、経論も詳細には知らないが、ただこの慈覚大師の夢だけによって、真言が法華経よりもすぐれるという人は、今生には国を滅ぼし、家を失くし、後生は無間地獄に必ず堕ちることは、法華経の明文によって知っているのである。
真言亡国の現証
[83]今、真言亡国の現証を示そう。日本国と蒙古国との合戦に、国じゅうのすべての真言師が調伏の祈禱を行なって、日本が勝ったならば、真言がすぐれていると思ってもよいであろう。しかし先例としては、承久の合戦に多くの真言師が祈った時も、調伏された方の北条義時が勝って、かえって後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の順徳天皇は佐渡の島へお遷しするように調伏したことになり朝廷方は敗北したのである。結局は狐が鳴いたために犬などに殺されるように、また「還って本人に著く」といって、邪法をもって祈ればその禍いは祈った者に還ってくるという法華経普門品の経文のように、人を調伏すればかえって自分が調伏されるのである。この経文のとおりに叡山の三千人は鎌倉方に攻められて一同に降伏したのである。ところが今また鎌倉で真言師に蒙古の調伏を祈らせるのは、日本を滅ぼそうと祈らせるのではないかといってよい。実に不思議なことである。このことをよく心得ている人は世界第一の智者というべきである。まことによく心得ておかなければならない。今は鎌倉方の勢力がさかんな世であるから、京都の東寺・天台の叡山・園城寺・南都の七寺の真言師などと、法華経を読みながら自分の宗旨の立て前を忘れた慈覚・智証などのような法華経謗法の人びとが関東に落ち下って、頭を下げ、膝を地につけて、さまざまに武士の機嫌をとって、処々の寺々の別当となったり、長吏となったりして、前に王位を失わせた真言の悪法をもって、国土の安穏を祈っている。それを将軍家ならびに付き従う侍以下の者どもは、真言で祈ったならば国土が安穏になることと思っているうちに、かえって法華経に背く禍の根源である真言の僧侶たちを重く用いるのであるから、国は必ず滅びるであろう。
末法流布と導師の出現
[84]国の滅びることが悲しく、身の滅びることが歎かわしいから、日蓮は身命を捨ててこの天下の謗法を絶滅すべき事を言い顕わすのである。もし国主が国の安泰を願うならば、自分が今まで述べてきたことに疑いを起こして、その理由を尋ねなければならないのに、ただ諸宗の人びとの讒言ばかりを信じて、さまざまに日蓮に迫害を加えているのである。それなのに法華経守護の梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・地神などは、昔から謗法は不都合だとは思っていたけれども、これを知って責め顕わす人がなかったから、一人子の悪事を見逃しておくように知らぬふりをしたり、また少しばかり罰して誡めた時もあった。今はこの謗法の者を用いることさえ不都合であるのに、たまたま謗法を諫め暁す人があると、かえって害を加えて、しかもそれが一日二日、一月二月、一年二年ならまだしも、数年に及んだのである。日蓮が受けた迫害は、昔、不軽菩薩が杖木の難に値ったことにもすぐれ、覚徳比丘が殺されようとしたことにも過ぎている。それゆえに梵天・帝釈天の二王・日天・月天・四天王・衆星・地神などがさまざまに怒って、たびたび天変地異などを起こして誡めたけれども、目を覚まさず、かえっていよいよ害を加えるから、天のお計らいとして隣国の聖人に仰せつけてこの国を誡め、また鬼神を国内に入れて人の心を迷わせ、自界叛逆といって国内に戦乱を起こさせるのである。吉につけ凶につけ、前兆が大きければ大きいほど、来たるべき災難も大きい道理で、仏滅後二千二百三十余年の間、いまだ出たことのない大長星が現われ、いまだかつて震わなかった大地震が起こったのである。古来より中国や日本にも、智恵がすぐれ、才能が秀でた聖人は多くあったけれども、いまだ日蓮ほどに法華経を信仰して、国内に多くの強敵を作ったものはないのである。まず眼前の事実をもって日蓮を世界第一の法華経の行者と知るべきである。
[85]仏教が日本に伝わった欽明天皇十三年(<暦>五五二暦>)から、この年建治元年(<暦>一二七五暦>)までは七百余年になるが、この間に伝来した一切経は五千巻、七千巻の多きを数え、これによる宗派は八宗・十宗となり、これを伝持する学者は稲や麻のように多く、その弘通に努める者は竹や葦のように多くいる。しかし、諸宗の中でいずれの宗が最も弘まっているかといえば、仏では阿弥陀仏、修行法としては諸仏の名号の中では弥陀の名号を唱える念仏ほど広く弘まっているものはないのである。この念仏をさかんに弘めた人は誰であるかといえば、まず最初に叡山の先徳たる恵心僧都が往生要集を作って弥陀の名号を勧めたことにより、日本国の三分の一は念仏者となった。次に永観が往生拾因と往生講式とを作って念仏往生を勧めたために、日本国の三分の二までが一同の念仏者となってしまった。そして法然が選択集を作って浄土宗を開き、専修念仏を宣伝して日本国一同が念仏者となってしまったのである。このような次第で、今の日本の念仏者たちは法然一人の弟子というわけではない。恵心と永観と法然の三人の力によって、念仏が日本国中に弘まったのである。この念仏というのは、浄土三部経といわれる双巻経すなわち大無量寿経と観経すなわち観無量寿経と阿弥陀経との題名であって、この三経の教主である阿弥陀仏を信じ、その名を唱えることである。浄土三部経は仏の一代五時の諸経の中では、第三方等部に属する経典で、法華経に比べれば方便の権大乗経である、権大乗の浄土三部経の題目である念仏が弘まるのは、次に真実の大乗経である法華経の題目の弘まる順序と見るべきである。心ある人はこの道理をよく考えるがよい。先に権経が弘まればそれに続いて必ず実経が弘まるのである。ゆえに権経の題目たる念仏が弘まれば、次に実経の題目である南無妙法蓮華経も必ず弘まることは間違いないのである。欽明天皇の時に仏教が伝来してから現在の後宇多天皇まで七百余年になるが、いまだかつて南無妙法蓮華経と法華経の題目を自らも唱え、他人にも唱えよと勧めた智人は見たことも聞いたこともないのである。日が出れば星が隠れ、賢王が現われれば愚王は亡びる道理で、実経が弘まれば権経が廃れ、智人が南無妙法蓮華経と唱えれば、愚人がこれに随うことは、影が身に随い、響きが音に応ずるようなものである。以上のように、正嘉以来のもろもろの前兆といい、日蓮が蒙ったもろもろの法難といい、これをもって推知するに、日蓮は疑いなく日本第一の法華経の行者である。末法に法華経が弘まると仏が予言され、その予言された時に出現し、法華経を弘めるのであるから、中国・インドはもちろん、世界中にも日蓮と肩を並べるほどの法華経の行者のあるはずはないのである。
災難の由来と上行菩薩の再誕
[86]問うていう、正嘉の大地震と文永の大彗星とは、どうして起こったのであろうか。この天地の異変と法華経の題目流布とは何か関係があるのだろうか。
[87]答えていう、天台大師は「智者は事の起こる理由を知り、蛇でなければ蛇を知らない」といわれている。
[88]問うていう。それはどういう意味であるか。
[89]答えていう。法華経の経説についてみると、涌出品の時に上行菩薩を中心とするもろもろの菩薩たちが、末法に法華経を弘めることを委嘱されるために大地から涌出したのである。その時、弥勒菩薩をはじめ文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩などの菩薩たちは、上行菩薩らが出現した意味がよくわからなかった。この菩薩たちはすでに四十一品の煩悩を断じて仏の次に位する智恵すぐれた菩薩たちであったけれども、最後の元品の無明の煩悩の根本を断って妙覚の仏位に至らないから愚人である、その智恵は完全ではないといわれた。すなわち、弥勒菩薩らは、法華経本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経を末法に弘めるために、この上行菩薩たちを呼び出された深い意味を知らなかったということである。
[90]問うていう、それならば日本・中国・インドの三国の中で、この災難の起こる理由を知っている人があるだろうか。
[91]答えていう、見惑思惑の煩悩といった思想的な迷いや感情的な迷いを断じ尽くして、さらに無智から起こる迷いのかずかずを四十一品まで断じ尽くして仏の次の位にある大菩薩でさえも、末法の導師として上行菩薩を呼び出したことを知らなかったのであるから、まして少しの煩悩をも断たない凡夫が、大地震や大彗星の起こった理由を知るわけがない。
[92]問うていう、事の起こりを知る智者がなければ、どうしてこの災難を絶滅することができようか。たとえば、病気の起こった根本を知らない人が病気を治そうとすれば、かえって病人を殺してしまうように、この災難の起こり来たった根源を知らない人びとが、災難を絶滅するための祈禱を修するならば、かえって国が滅びることは疑いないのである。まことにもって嘆かわしいことである。何とかしてこの亡国の危機を脱れる道はないものだろうか。
[93]答えていう、それは決してないわけではない。たとえば、人ならぬ身である蛇でさえ七日のうちに大雨の降るのを知り、烏でさえ一年中の吉凶を知っているという。これは、蛇は雲を起こし雨を降らすという大竜に従うものであり、烏は長い間にいろいろなことを学んだ習わしによるのである。日蓮はもとより凡夫であるから、現在の災難の理由を知ることはできないけれども、法華経を信じ学んだお蔭でほぼ知ることができたから、貴殿たちにそのあらましを話そう。かの中国古代の周の平王の時に、頭髪は乱れ、身は赤裸の者が現われたのを、辛有という者が占って「百年のうちに周は滅びるであろう」といった。同じ周の幽王の時には、大地震があって山や川が崩れ塞がった時、白陽という者が考えて「十二年のうちに大王が大難に値うであろう」といった。これらはいずれもその予言どおりになったのである。これら中国の例から考えてみるに、物事には必ず前兆というものがあり、今の大地震・大彗星などは、国主が法華経の行者日蓮を憎んで、亡国の法である禅宗と念仏者と真言師とを味方とするから、天が怒って起こさせた災難に相違ないのである。ゆえにその根本の邪法を絶滅しなければ災難は払い除くことができないと、知ることができたのである。
[94]問うていう。天変地異は国主が法華経の行者を迫害するから起こるというが、どうしてそれが信じられようか。何か信用すべき証拠があるのだろうか。
[95]答えていう、金光明最勝王経第八の王法正論品に、「悪人を敬い、善人を苦しめるから、星宿や風雨などが不順となる」とある。この経文の通りならば、この国に悪人があって国王や臣下がこれに帰依していることは疑いない。またこの国に智人があって国主がこれを憎んで迫害するということも疑いないのである。さらに同経に「三十三天の天人たちが非常に怒っているから、怪しい流星が堕ちたり、二つの太陽が同時に出たり、他国から賊が攻めてきて国民が悲惨な目に遇う」ともある。この経文に基づいて見ると、すでにわが日本国には天変があり、地異があり、また他国からも攻められたから、三十三天の怒りであることは疑いないことである。また仁王経の嘱累品には「多くの悪僧たちが、名誉や利益のために、国王や太子や王子の前で、仏法を破り国を滅ぼす邪法を説くのに、王は正邪をわきまえずにそれを信ずる」とあり、さらにまた「日月が規則正しく出なかったり、寒暑の時節が狂ったり、赤い太陽や黒い太陽が出たり、二、三、四、五の太陽が並んで出たり、日蝕があったり、太陽が一重二重三重四重五重と重なって出たりする」とある。この経文の意味は、悪僧たちが国に充満して、国王や太子や王子たちに向かって、仏法を滅ぼし、国を滅ぼすような教えを説くのを、その国王らはこの悪僧に騙されて、この教えこそ正しい仏法であり国家を安泰にする教えであると思って、その言葉を信用するから、たちまちに日月に変異が生じ、大風・大雨・大火などが相次いで起こり、次には内賊といって親類の中に合戦が起こって、自分の味方をする者をみな失い、後には他国から攻められて自殺したり、生け捕られたり、また降参するようなことになる、というのである。これはまったく悪僧たちが仏法を滅ぼし、国を滅亡させることに他ならないのである。さらに守護国界主陀羅尼経の阿闍世王受記品によれば、「釈迦牟尼如来のすべての教法は、一切の天魔や外道や悪人や五神通を得た神仙などのような、仏教者以外からは少しも壊られるものではない。かえって僧の姿をした名ばかりの多くの悪僧たちが、内から毀して仏法を滅ぼし尽くしてしまうのである。ちょうど須弥山世界は、たとえ三千大千世界の草木を薪として長い間燃やしても、少しも損ずることはできないが、もし世界破滅の時がきて、劫火が内から燃え出る時には、またたく間に灰も残さぬよう焼き尽くしてしまうのと同じである」と説いている。また蓮華面経巻上には、「仏が阿難尊者におっしゃるには、法滅の時というのは、ちょうど獅子が死んだ時には空を飛ぶ鳥や地中に棲む虫や水中に棲む魚類や陸上に棲む生物などは、決して獅子の肉を食わないけれども、ただ獅子自身の体から生じた虫が内から獅子の肉を食ってしまうように、わが仏法も外から壊されるのではなく、わが教団の内の悪僧たちが、自分が三大阿僧祇もの長い間、修行を積み重ね、苦労して努めた結果、覚ったところの正法を破るのである」と説いている。まず守護経の意味について説明すれば、これは、過去七仏の一人の迦葉仏が、現在の釈迦如来の教えが衰えてゆく末法の状況を訖哩枳王に説かれたものである。それによると、釈迦如来の仏法をどういう者が滅ぼすであろうかといえば、かの大族王が全インドの寺院を焼き払い、十六大国の僧や尼を殺したり、中国の武宗皇帝が国じゆうの寺塔四千六百余か所を破壊し、僧や尼二十六万五百人を還俗させたなどという悪人でも、そのような外部から迫害では釈迦如来の仏法を滅ぼすことはできない。しかし、三衣を身にまとい、一鉢を手に持ち、仏一代の聖教八万法蔵を胸に浮かべ、十二部経を暗んじて読むほどの僧侶が、かえって仏の本意を知らないで仏法を破滅させるのである。それはたとえば、須弥山は金の山であるから、三千大千世界の草や木を欲界の初天である四天王天から第六の他化自在天にいたるまで、この地上から天上界にいたるまでうずたかく積みあげて、一年二年ばかりでなく百千万億年もの間焼いたとしても、少しも破損することはできないのである。しかしながら、もし世界滅亡の壊劫の時に、劫火が燃え出す時には、須弥山の根元から豆粒ほどの小さな火が出て、ただ須弥山を焼き尽くすばかりでなく、三千大千世界をもすべて焼き尽くすようなものである。もし守護経に説かれた仏の予言の通りであるならば、今の日本における十宗・八宗の僧侶たちが、仏教の須弥山を焼き払うのではないだろうか。また八宗の中でも小乗の倶舎・成実・律などの僧たちが法相・三論・華厳などの大乗を嫉む胸の怒りは、仏教を焼く炎のようなものである。さらに蓮華面経の文の意によってみれば、真言宗の善無畏が密教を最勝の仏法といい、禅宗の三階禅師が普経をもって末法の仏教といい、浄土宗の善導らが弥陀称名をもって極楽往生を勧めたことなどは、いずれもみな、仏教を破壊する邪説であって、ちょうど師子の肉から生じた蝗虫が師子の肉を食うように、彼らは仏教を滅ぼす蝗虫の比丘というべきである。伝教大師は顕戒論に三論・法相・華厳などの南都六宗の学者たちを六虫と書かれたが、日蓮は今、真言の善無畏・禅宗の三階・浄土の善導などの三宗の元祖を、仏教を滅ぼす三虫と名づけるのである。また天台宗の慈覚・安然・恵心などは法華経と伝教大師にとって、獅子身中の三虫というべきである。仏教を滅亡に導こうとするこれらの大謗法の根源を糾明する日蓮に迫害を加えるから、天神も光を惜しんで日月の運行に異常を来たし、地祇も怒って飢饉・疫病などの災いも起こるのである。それゆえよく心得なければならない。このように日蓮が立正安国論で世界第一の大事を指摘したから、自界叛逆・他国侵逼の二難も起こり、法華経広宣流布の最第一の瑞相がここに起こったのである。
[96]まことに哀れに思われ、また嘆かわしいことは、日本国の人びとが法華経を謗り、法華経の行者を迫害して無間地獄に堕ちることである。悦ばしくもまた楽しいことは、不肖の身でありながら法華経を弘めることによって今度わが心田に仏になる種を植えつけたことである。今に見ているがよい。他国侵逼の難がたちまちに現われて、大蒙古国が数万艘の兵船をもって日本国を攻めて来たならば、上は天皇より下は万民にいたるまで、国じゅうこぞって一切の寺院や一切の神社への帰依を投げすてて、一同に声を合わせて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え、掌を合わせて「助けたまえ、日蓮御房、日蓮御房」と叫ぶようになるであろう。ちょうどインドの大族王が戦いに敗れた時、幼日王(幻日王)に掌を合わせて救いを求め、日本の平宗盛が捕えられて鎌倉へ連行された時に梶原景時を敬って慈悲を求めたようなものである。大高慢の者が敵に降るというのはこのことである。かの威音王仏の時、不軽菩薩を軽んじ毀った大慢の比丘たちは、はじめは杖や木をもって打ち、瓦や石を投げつけたけれども、後には掌を合わせてその罪を悔いたのである。提婆達多は釈尊の御身から血を流して五逆罪を犯したけれども、臨終の時には「南無」と唱えて帰仏の意を表わしたが、もしその時に「南無仏」と「仏」の一字を唱えたならば地獄へは堕ちなかったものを、犯した罪業が深すぎてただ「南無」とだけいって「仏」とは唱えられなかったので、救われなかったのである。今の日本国の諸宗の高僧たちも「南無日蓮聖人」と唱えようとしても唱えられずに、おそらくは提婆達多のように「南無」とだけしか唱えられないで地獄へ堕ちるであろう。まことに哀れむべきことであるが、自業自得果で自ら招いたことであるからやむを得ないことである。
三度の高名
[97]外典すなわち仏教以外の書物によれば、物事のいまだ萌さない時にあらかじめこれを知るのを聖人というとあり、仏教では、広く過去・現在・未来の三世の一切のことを知るのを聖人というとあるが、自分日蓮には三度の高名すなわち三度未来のことを予言し、それがすべて的中したことがある。第一には、去る文応元年(<暦>一二六〇暦>)七月十六日に、立正安国論を最明寺入道時頼に奏上した時、宿谷入道光則に向かって、禅宗と念仏宗とを禁止せよと告げてもらいたい、もしこの日蓮の言を用いないならば、北条の一門からは反乱が起こり、また他国からも攻められるであろう、といったことである。第二には、去る文永八年(<暦>一二七一暦>)九月十二日の夕刻、平左衛門尉頼綱が松葉谷の草庵を襲い、竜口で斬罪に処せんとした時、彼に向かって、日蓮は日本国の棟梁である、日蓮を失うは日本国の柱を倒すのである。見ているがよい、今すぐにも自界叛逆の難といって北条一門の同士討ちが始まり、他国侵逼の難といってこの国の人びとが他国の敵に打ち殺されるだけでなく、多く生け捕りにされるであろう。それゆえに早く建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺などの一切の念仏者や禅僧たちの寺院を焼き払って、彼らの首を由比が浜で斬り、謗法の根源を断たなかったならば、日本国は必ず滅びるであろうといったことである。第三には、去年すなわち文永十一年(<暦>一二七四暦>)の四月八日、佐渡流罪を赦され鎌倉へ帰ってきた時に平左衛門尉に向かって、北条氏の統治する国に生まれたから身は国法に随うようであるけれども、心だけは随うわけにはいかない。念仏が無間地獄へ堕ちる業であり、禅宗は天魔の仕業であることは疑いない。ことに真言宗が日本国に大なる災難を引き起こす根源であるから、大蒙古を調伏する祈禱を真言師に命じてはならない。もしこの大事を真言師に調伏させるようならば、日本国の滅亡はいよいよ早まるだろうといった。その時に頼綱が、では何時ごろ攻めて来るのかと問うたので、自分は、経文にははっきり何時とは見えてはいないが、天の御気色から見れば、たいへんな御怒りのようであるから、ますます急のように思われる。おそらく今年を越すことはないであろうと答えたのである。以上の三つの大事は、日蓮が勝手に言ったのではない。ただひとえに釈迦如来の御魂魄がこの日蓮の身に入りかわらせたまい、未来のことまで見透すことができたのである。実に不思議にありがたいことであって、わが身ながらも身に余る喜びである。法華経の事の一念三千という大切な法門は、すなわちこの三度におよぶ国家諫暁において謗法亡国の根源を指摘したことである。法華経方便品に「所謂諸法の如是相」と説かれたのは何であるかといえば、十如是の中で最初の相如是、すなわち宇宙の実相を正しく見きわめることが第一の大事の法門であるから、仏はこれを説き示し、人びとが仏の智恵を具えるようにするために世に出られたのである。すでに述べたように妙楽大師が「智者でなくては物事の起こりを知ることができないし、蛇でなければ蛇を知らない」といわれたのは、この如是相を知ることである。多くの流れが集まって大海となり、一微塵が積もって須弥山となったのである。そのように、日蓮が法華経を信じはじめたのは、日本国から見れば一滴の水か、わずかの塵のようなものである。しかしながら、法華経の題目を二人・三人・十人・百千万億人と次第に唱え伝えてゆくならば、塵が積もって山となるように、やがて妙覚の極果を得た仏の須弥山ともなり、大涅槃の妙果を得た悟りの大海ともなるのである。ゆえに仏道に入って悟りを得ようとするならば、題目のほかに何物も求める必要はないのである。
第二の高名について
[98]問うていう、第二の文永八年(<暦>一二七一暦>)九月十二日の御勘気の時に、どうして日蓮を迫害するならば、今すぐにも自界叛逆・他国侵逼の二難である内乱と外冦が起こると知ったのであるか。
[99]答えていう、それは経文に基づいてのことである。大集経の忍辱品によれば、「もしまた多くの国王や王族らが種々の非法を行って、仏の弟子たちを悩ませて、悪口をいったり、刀や杖で打ったり切ったりし、また袈裟や鉄鉢やその他種々の道具を奪い取ったり、または他の人が布施供養するのを妨害したりする者があるならば、梵天・帝釈天・日天・月天などは、みずからただちに他国の怨敵をしてこの国を攻めさせ、また国内にも内乱を起こさせ、疫病や飢饉や時ならぬ風雨を吹かせて、その他種々の争いごとを起こし、人びとを互いに謗りあわせ、ついにはその王の身を滅ぼし、国を滅亡させてしまうであろう」と説かれている。
[100]この大集経だけでなく、仁王経・金光明経・守護経などにこのような文は多いけれども、この大集経の文はことに日蓮の身に当たり、いま末法の時に臨んでとくに尊く思われるので、ここに撰び出したのである。この経文に「我等」とあるのは、大梵天と帝釈天と第六天の魔王と日天と月天と四天王などの三界の一切の天・竜などのことである。これらのうちの主だった者たちが仏前に詣でて誓っていうには、仏の滅後、正法・像法・末法の中に、正しい仏法の行者を邪法を信ずる僧たちが国主に讒言し、正法の行者を弾圧しようとする時、王の側近の者や王に心をよせている者や王が尊いと思う者などのいうことであるからと、その言葉を信じて理不尽にもその是非を糾すことなく、かの正法を行ずる智人をはなはだしく侮辱したりなどすれば、正法に目ざめさせるために、もろもろの災いを起こすであろう。自然にその国にすぐさま大兵乱が起こり、後には他国に攻められて、その国主も亡くなり、その国も滅亡するであろう、と説かれたのである。痛し痒しというのはこのことである。今、日蓮の身には今生にはこれという失はなく、ただ自分の国を助け、生まれた国の恩を報じようと思って、未萌の自叛・他逼の二難を警告したのを、お用いにならないことこそ残念であるのに、その上に召し出して懐にしていた法華経の第五の巻を取り出して、さんざんに責め打擲し、ついには鎌倉の町々を引き廻したりしたのである。そこで自分日蓮は日月などの諸天を諫暁して「そもそも日月は、昔霊山会上において法華経の行者を守護すると誓って天にましましながら、法華経の行者日蓮が大難に値うのを見て身代わりになろうともしないのは、日蓮が法華経の行者ではないからであるか、もしそうならば、さっそくその邪見を改めよう。もし日蓮が法華経の行者であるならば、すぐにもこの国に験を見せるがよい。もしそうしなければ、今の日月などは釈迦・多宝・十方の諸仏を偽った大妄語の者である。昔、提婆達多が犯した世の人びとを偽り欺いた罪や倶伽梨の大妄語にも百千万億倍も過ぎた大妄語の諸天である」と大声をあげて申したから、その験としてたちまちに起こった自界叛逆の難である。だから国が非常に乱れたのであるが、自分は取るに足らない凡夫であるけれども、法華経を持っている上では、当世では日本第一の大人であるといえるのである。
法華経の行者の尊勝と門下激励
[101]問うていう、慢の煩悩には、七慢・九慢・八慢とあるが、日本第一の大人と名乗る貴殿の大慢心は、仏教で説くところの大慢心に百千万億倍もすぐれている。かの徳光論師は弥勒菩薩に礼を尽くさず、大慢婆羅門が四聖を座としたり、大天が凡夫でありながら阿羅漢であると名乗り、無垢論師が全インド中第一の者といったが、これらはみな無間地獄に堕ちた地獄の罪人である。貴殿はどうして世界第一の智人であると名乗ったのか、その大慢心は大地獄へ堕ちないではすむまい、何と恐ろしいことではないか。
[102]答えていう、貴殿は七慢・九慢・八慢ということを知っていていうのか。釈尊はみずから三界第一と名乗られたので、これを聞いた一切の外道が、「釈尊は今すぐにも天から罰せられるだろうし、また大地が割れて地獄に堕ちるであろう」といった。また日本では南都七大寺の三百余人の者は、伝教大師を指して、「最澄法師はインドの大天が生き返ったか、鉄腹婆羅門が生まれかわったのか」といった。しかし、天も釈尊を罰しないばかりか、かえって左右から守護し、大地も割れるどころか金剛のように堅かった。また伝教大師は比叡山に延暦寺を立てて一切衆生の眼目となって人びとを教え導き、ついには南都七寺が伝教大師に帰伏して三百余人は弟子となり、諸国の人びとはみな檀那となったのである。それゆえ、この例でも明らかなように、事実すぐれているものをすぐれたというのは、慢のようにも見えるが、実は大功徳ではないだろうか。伝教大師は法華秀句に「天台法華宗が他の諸宗にすぐれているというのは、その根本所依の経典である法華経がすぐれているからである。これは決していたずらに自分を讃めて他を毀るのではない」といわれていたが、まさにその通りで、最勝の法華経に依るから「日本第一の大人」と名乗っても大慢ではないのである。法華経第七の巻の薬王品には、十喩をもって法華経が諸経にすぐれる理由を説いているが、その第二に「多くの山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経の中で最もその上にある」と説かれている。この経文の意味は、法華経以前に説かれた華厳・般若・大日経などの経々、法華経と同時に説かれた無量義経、後に説かれた涅槃経などの五千巻七千巻の経々、さらにはインド・竜宮・四天王天・忉利天・日天・月天の中にある一切経、また十方世界のあらゆる経々は、土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のようなものであるが、日本に伝来している法華経はあたかも須弥山のようなもので、いかに多くの経があろうとも、法華経にまさる経は決してないというのである。また薬王品の第八喩には「法華経はこのようにすぐれているから、よく法華経を受持する者は、小乗の聖者の中で阿羅漢が第一であるように、この人も一切衆生の中において第一である」と説かれている。ゆえにこの薬王品の経文によって考えてみると、華厳経の請主たる普賢菩薩・聴衆たる解脱月菩薩や滅後の華厳経の伝持者であるインドの竜樹菩薩・馬鳴菩薩、中国の法蔵大師・清涼国師・則天皇后、日本の審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇、解深密経の対告衆たる勝義生菩薩、般若経の説者たる須菩提尊者、滅後における解深密経による法相宗の伝持者である中国の玄奘三蔵・太宗・高宗、日本の道昭・孝徳天皇、また般若経による三輪宗の伝持者である中国の嘉祥大師、日本の観勒、また真言宗所依の大日経の聴衆たる金剛薩埵、滅後における真言経の伝持者であるインドの竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王、中国の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・恵果、日本の東密の弘法・台密の慈覚、涅槃経の請問主である迦葉童子菩薩、聴聞衆たる五十二類の衆生、滅後における涅槃経の伝持者として中国の曇無懺三蔵・光宅寺法雲・南三北七の十師など、以上列挙した諸師よりも、末代悪世の凡夫が一つの戒も持たず、極悪不信の者のように思われても、経文に説かれている通りに、法華経がそれ以前の経と同時の経と以後の経よりもすぐれていて、この三説超過の法華経以外に仏になる道はないと強く信じて疑わないならば、たとえ一分の智解はないにしても、この人は前に列ねた大聖たちよりも、百千万億倍もすぐれているというのが、薬王品の経意である。しかし前に掲げた人びとの中には、後に法華経を信じさせるためにしばらく他の経々を勧めた人もあり、または彼の経に深く執着して法華経に入らない人もあり、または彼の経々に留まるだけでなく彼の経々に深く執着しているから法華経を彼の経より劣るという人もある。それゆえに法華経の行者は、薬王品の十喩の第一・第二に「たとえば一切の川流江河の諸水の中で海が第一であるように、法華経の行者もまた第一であり、また多くの星の中で月天子が第一であるように、法華経の行者もまた第一である」という経文の通りに心得るべきである。この経文の意からみれば、当世の日本国の智人たちはあたかもたくさんの星のようなものであり、法華経の行者日蓮は唯一の満月のようである。日本第一の智者である。
[103]問うていう、昔からこのようなことをいった人があっただろうか。
[104]答えていう、その前例はある。たとえば伝教大師は法華秀句の下巻で「まず知るべきである。他宗の依拠とする経はいまだ最第一の経ではないから、その経を信ずる者もまた第一ではない。天台法華宗の依拠とする法華経は最第一であるから、よくこの経を信ずる人もまた衆生の中で第一である。これは仏の説かれた経文に依るのであって、決して自分で勝手に自分を讃めるのではない」といわれている。かの一日に千里を走るという駿馬の尾についた蜹が千里を飛び、転輪聖王に随っている家来が瞬時に世界中を廻るということを、いったい、誰が非難したり、疑ったりすることができようか。それと同じことで、法華経がすぐれているから、それを持つ行者もまたすぐれているのである。伝教大師が「決して自分で勝手に自分を讃めるのではない」といわれた言葉は肝にしみてありがたく思われるではないか。もしそうであるならば、法華経を経に説かれた通りに信ずる人は、大梵天王にもすぐれ、帝釈天にも超えているから、修羅を従えれば須弥山をも荷いあげるし、竜神を使えば大海の水をも汲み干すことができるようなものである。また伝教大師は依憑集に「法華経を讃める者は功徳を須弥山のように高く積み、謗る者は謗法の罪で無間地獄に堕ちる」といわれ、法華経の譬喩品には「この経を読んだり書写したりする者を見て、軽んじ、賤しみ、また憎み、嫉み、恨みを懐くならば、その人は必ず死んでから無間地獄へ堕ちるであろう」と説かれている。教主釈尊の説かれたお言葉が真実であり、多宝如来の「皆是真実」の証明が違わず、十方の諸仏が真実と証明して舌を梵天まで付けたことが確かであるならば、今の日本国の一切衆生が無間地獄へ堕ちることは疑いないのである。また法華経第八の巻の普賢菩薩勧発品には「もし後の世において法華経を信じ持ち、読誦する者は、その所願が成就するばかりでなく、また現世において福報を得る」とあり、また「もし法華経を供養し讃歎する者があるならば、今の世においてまのあたりの果報を得る」と説かれている。これら二文の中、前の「また現世で福報を得る」という八字と、後の「今の世でまのあたりの果報を得る」という八字の、十六字の文が真実ではなくて、もし日蓮が今生において大果報を得られないならば、教主釈尊のお言葉は提婆の虚言に同じく、多宝如来の証明は倶伽梨の妄語と変わらないのである。そして、法華経謗法の一切衆生が無間地獄に堕ちず、三世の諸仏も世にましまさぬということになる。それゆえにわが弟子たちよ、まず試みに法華経に説かれているように身命を惜しまず修行して、このたびこそ仏法の真実か否かを試みるがよい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
不惜身命の折伏弘通を勧める
[105]そもそもこの法華経の勧持品の文に「自分は身命を惜しまないで、ただ無上道を惜しむ」と説き、涅槃経巻九の如来性品に「たとえば談論に巧みな王の使者が、王の命を受けて他国に行った時は、むしろ身命を喪っても必ず王命を果たすように、仏法を弘通する智者も、謗法不信の凡夫の中においては身命を惜しまずに、必ず如来の最も秘蔵である大乗方等経の一切衆生悉有仏性の旨を宣説すべきである」と説かれている。どのような理由があって身命を捨ててまで弘通しなければならないのか、くわしく承りたいものである。
[106]答えていう、このことについては、自分の若いころの考えでは、伝教・弘法・慈覚・智証などの先師が、天皇から勅宣を受けて中国へ求法したことが「我不愛身命」ということかと思われた。あるいは玄奘三蔵が中国からインドへ行くのに、六度も命がけの目に遇ったことかとも思われた。さらに雪山童子が半偈の教えを聞くために身を鬼神に与えたことか、薬王菩薩が日月浄明徳仏に供養するため七万二千歳のあいだ臂を焼いたことか、などとも思ったのである。しかし法華経・涅槃経の文の真意は、これらのことをいうのではないようである。そもそも勧持品二十行の偈は、八十万億那由他の菩薩が末法における値難忍受の弘通を誓われたものである。経文に「我不愛身命」と説いてある前文には、三類の強敵をあげて、この強敵が法華経の行者を罵り、責め、杖をもって打ちつけ、刀をもって切りつけ、身命を奪うと説かれている。また涅槃経に「寧喪身命」などと説かれているのは、次の経文に「極悪の一闡提の者があって、羅漢の姿をして、山寺に住んで、大乗経典を誹謗するのに、もろもろの凡夫はこの人を見て、真の阿羅漢であり、これぞ大菩薩であるというであろう」とある。法華経の勧持品に三類の強敵を説く中に第三の僣聖増上慢を説いて「あるいは山寺に住み、袈裟を着け、世間の紛争を避けて、(中略)世の人からは六神通を得た阿羅漢のように敬われている」と説き、般泥洹経には「阿羅漢に似た極悪の一闡提があって、悪事を行ずる」と説いている。これらの経文によれば、正法の強敵というのは、悪王や悪臣でもなく、外道や魔王でもなく(第一俗衆増上慢)、破戒の僧侶でもなく(第二道門増上慢)、戒律を堅く持ち智者といわれる高僧(第三僣聖増上慢)たちこそがそうであり、彼らの中に大謗法の人びとが多くいるのである。それゆえに妙楽大師は法華文句記に勧持品の三類の強敵の経文を註釈して「第三の聖者のように見える者が最もひどい。それは第一・第二・第三と後の者ほど聖者のように装っているので、謗法の悪行が知られないからだ」と書かれている。法華経第五の巻の安楽行品には「この法華経は諸仏如来の最も深密の法であるから、仏一代諸経の中でも最も上に位置する経である」と説かれている。この経文に「最もその上に在り」という語が大事である。それゆえ、もしこの経文の通りであるならば、法華経をもって一切経の頂上にありという人が真の法華経の行者というべきであろう。ところが国の王臣らに尊重される今の世の真言師などのような人びとが多くあって、法華経よりもすぐれている経々があると主張して、法華経の行者と問答対決する時には、それらの人びとには王臣の帰依があり、法華経の行者は貧しく勢力がないから、国じゆうの者がこぞって行者を賤しんで信用しない。そのような時、法華経を弘めるために、威音王仏の時に不軽菩薩が増上慢の四衆を責め、賢愛論師が大慢婆羅門を責めたように、強く彼らの謗法を責めたならば、世間の迫害はますます激しくなり、必ず身命にかかわることになろう。この身命に及ぶということが第一の大事というべきである。この身命を惜しまぬ覚悟で謗法を呵責するということは、今の日蓮の身に正しく当たっているのである。自分のような賤しい分斉で、弘法大師や慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のような世間の帰依渇仰を受けている諸師たちを、法華経の強敵であるといい、法華経の文が真実であるならば、かの諸師たちは無間地獄に堕ちることは疑いないなどというのは、容易なことではない。たとえば法華経の宝塔品に説かれているように、裸で大火の中に入ったり、須弥山を手に取って投げたり、大石を背負って大海を渡ったりすることはなおたやすいが、末法の日本国で正直にこの法華経の法門を立て、法華経が最もすぐれた経である、法華経と教主釈尊だけを信仰せよと強く勧めることは難事の中の最大の難事である。この大事を果たすためには不惜身命の決意をしなければならない。末法の時代に法華経を弘めるという大任を全うするためには、霊山浄土にまします教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩たち、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などの諸仏・諸菩薩・諸尊が、陰になり陽になって加被力を与え、助勢して下さらなければ、一日片時も安穏では日本国に法華経の題目を弘通できないのである。ゆえにこの諸仏・諸菩薩・諸尊の加護を仰ぎ信じ、「広宣流布」の実現に身命を惜しまず努めるのである。日蓮の弟子たちも、諸仏の加護を信じ、命がけで法華経を弘めることに努めなければならないのである。