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安国論御勘由来

全集 第1巻 2段 定本: #49(定本の該当ページへ)

書下し

安国論御勘由来あんこくろんごかんゆらい


[1]正嘉しようか元年〈太歳丁巳たいさいひのとみ〉八月廿三日戌亥いぬいの時、前代に超えたる大地振だいじしん。同二年〈戊午つちのえうま〉八月一日、大風たいふう。同三年〈己未つちのとひつじ〉大飢饉。正元元年〈己未〉大疫病。同二年〈庚申かのえさる〉四季に亘つて大疫やまず。万民ばんみんすでに大半にえて死を招きおわんぬ。しかる間、国主これに驚き、内外典ないげてんに仰せ付けて、種種の御祈ごきとうあり。しかりといえども、一分いちぶんしるしもなく、還つて飢疫きえき等を増長ぞうちようす。日蓮、世間のていを見て、ほぼ一切経*いつさいきようかんがうるに、御祈請験ごきしようしるしなく、還つて凶悪を増長するのよし、道理・文証*もんしようこれを得了えおわんぬ。ついに止むことなく、勘文*かんもん一通をつくし、その名を立正安国論と号す。文応ぶんのう元年〈庚申〉七月十六日〈辰時〉、屋戸野*やどや入道にし、古最明寺入道こさいみようじにゆうどう殿に奏進そうしんし了んぬ。これひとえ国土こくどの恩を報ぜんがためなり。
[2]その勘文かんもんこころは、日本国天神にほんごくてんじん七代・地神ちじん五代・百王ひやくおう百代、人王第卅代欽明きんめい天皇の御宇ぎように、始めて百済国くだらこくより仏法この国に渡り、桓武かんむ天皇の御宇に至る。その中間五十余代、二百六十余年なり。その間、一切経並びに六宗、これありといえども、天台てんだい真言しんごんの二宗いまだこれあらず。桓武の御宇に、山階寺やましなでら行表ぎようひよう僧正そうじよう御弟子みでし最澄さいちようという小僧あり〈のち伝教大師*でんぎようだいしと号す〉。已前いぜんに渡る所の六宗、並びに禅宗ぜんしゆう、これをきわむといえども、いまだ我意わがいかなわず。聖武しようむ天皇の御宇に、大唐だいとう鑑真和尚*がんじんわじよう渡す所の天台の章疏しようじよ、四十余年を経て已後、始めて最澄これを披見ひけんし、ほぼ仏法の玄旨げんしさとおわんぬ。最澄、天長地久てんちようちきゆうのために、延暦えんりやく四年、叡山えいざん建立こんりゆうす。桓武皇帝これをあがめ、天子本命てんしほんめい道場どうじようと号す。六宗の御帰依ごきえを捨て、一向天台円宗いつこうてんだいえんしゆう帰伏きぶくしたもう。同じき延暦十三年に、長岡ながおかみやこうつして平安城へいあんじようつ。同じき延暦廿一年正月十九日、高雄寺たかおじにおいて南都なんと七大寺の六宗の碩学せきがく勤操ごんそう耀ちようよう等の十四人を召し合せ、勝負しようぶを決断す。六宗の明匠めいしよう、一問答もんどうにも及ばず、口をとずること鼻のごとし。華厳*けごん宗の教・法相*ほつそう宗の時・三論*さんろん宗のぞう三時の所立しよりゆうし了んぬ。ただ自宗を破らるるのみにあらず、皆謗法ほうぼうの者たることを知る。同じき二十九日、皇帝勅宣ちよくせんくだしてこれをなじる。十四人、謝表しやひようを作つて皇帝に捧げ奉る。その後、代々の皇帝、叡山の御帰依、孝子こうしの父母に仕うるにえ、黎民れいみん王威おういを恐るるにまされり。或御時あるおんとき宣明せんみようを捧げ、或御時はをもつてしよす等云云。こと清和せいわ天皇は叡山のえりよう和尚の法威ほういに依つて位にき、皇帝の外祖父九条右亟相がいそふくじよううじようしよう誓状せいじようを叡山に捧ぐ。源右将軍みなもとのうしようぐんは清和の末葉まつようなり。鎌倉の御成敗ごせいばい是非ぜひを論ぜず。叡山に違背いはいせば、天命てんめい恐れある者か。
[3]しかるに後鳥羽院ごとばいん御宇ぎよう建仁けんにん年中に法然*ほうねん大日*だいにちとて、二人の増上慢ぞうじようまんの者あり。悪鬼あつきその身につて、国中こくちゆうの上下を誑惑おうわくし、げて念仏者と成り、人毎ひとごとに禅宗におもむく。ぞんほか山門さんもん御帰依浅薄ごきえせんぱくなり。国中の法華・真言の学者、弃置きちせられおわんぬ。故に叡山守護の天照大神てんしようだいじん正八幡宮しようはちまんぐう山王さんのう七社、国中守護の諸大善神しよだいぜんじん法味ほうみくらわずして威光いこうを失い、国土を捨てて去り了んぬ。悪鬼便あつきたよりて災難を致し、結句けつく他国よりこの国を破るべき先相勘せんそうかんがうるところなり。
[4]またその後、文永ぶんえい元年〈甲子きのえね〉七月五日、彗星すいせい東方にで、余光よこう大体一国等に及ぶ。これまた始りてより已来このかた、なきところの凶瑞きようずいなり。内外典ないげてんの学者もその凶瑞の根源を知らず。予、いよいよひたん増長ぞうちようす。しかるに、勘文かんもんを捧げて已後、九ケ年をて今年のちの正月、大蒙古国だいもうここく国書こくしよを見る。日蓮が勘文に相叶あいかなうこと、あたかも符契ふけいのごとし。仏記ほとけきして云く、「我滅度わがめつどのち、一百余年を経て、阿育大王出世あいくだいおうしゆつせ我舎利わがしやりを弘めん」と。しゆうの第四昭王しようおう御宇ぎよう大史蘇由たいしそゆうに云く、「一千年のほか声教しようぎようこのこうむらしめん」と。聖徳太子*しようとくたいしに云く、「我滅度わがめつどの後、二百余年をて、山城やましろの国に平安城を立つべし」と。天台大師のに云く、「我滅後わがめつご、二百余年の已後のち、東国に生れて我正法わがしようぼうを弘めん」等と云云。皆はたして記文きもんのごとし。日蓮、正嘉*しようかの大地震・おなじ大風たいふう・同き飢饉ききん正元しようげん元年の大疫だいえき等を見てして云く、「他国よりこの国を破るべき先相せんそうなり」と。自讃じさんに似たりといえども、もしこの国土を毀壊きえせば、また仏法の破滅疑いなきものなり。
[5]しかるに、当世とうせいの高僧等、謗法ほうぼうの者と同意の者なり。また自宗の玄底げんていを知らざる者なり。定めて勅宣ちよくせん御教書みぎようしよを給いて、この凶悪きようあく祈請きしようせんか。仏神ぶつしんいよいよ瞋恚しんにをなし、国土を破壊はえせんこと疑いなきものなり。日蓮、またこれを対治たいじするのほう、これを知る。叡山を除いて、日本国にはただ一人いちにんなり。譬えば、日月にちがつの二つなきがごとく、聖人せいじん肩を並べざるが故なり。もしこの事妄言こともうげんならば、日蓮がたもつところの法華経守護の十羅刹じゆうらせつ治罰ちばつ、これをこうむらん。ただひとえに国のため、法のため、人のためにして、のためにこれを申さず。また禅門ぜんもんに対面をぐ。故にこれをぐ。これを用いざれば定んで後悔あるべし。恐恐謹言きようきようきんげん
[6]文永五年〈太歳戊辰たいさいつちのえたつ〉<日>四月五日
[7]<人>日 蓮<花押>花押
[8]<先>法鑑御房*ほうかんごほう
現代語訳

安国論御勘由来


文永五年(一二六八)四月、四七歳、於鎌倉、法鑑房宛、原漢文、定四二一—四二四頁。

[1]正嘉元年(<暦>一二五七)八月二十三日午後九時ごろ、前代未聞の大地震があった。同二年八月一日には大風、同三年には大飢饉、正元元年(<暦>一二五九)には大疫病、同二年にも四季を通じて大疫病がまなかった。こうした連続する災害のために国民の大半は死に絶えてしまった。この状況を見て国主は大いに驚き、仏教の各宗寺院や神社や儒教の人びとなどに命じて、種々の災難をはらい除くための祈を行なわせたのである。しかし、少しも効験はなく、かえって飢饉ききんや疫病を増すばかりであった。私(日蓮)も災難の続出する世間の状況を観察し、これを一切経の文に照らし合わせて考えてみると、いろいろな祈に効験がなく、むしろ災難が増すばかりである理由を知り、その証拠を見出すことができたのである。そこでこれは一大事であると考え、経文をもとに一通の勘文を書きあげて、立正安国論と題し、文応元年(<暦>一二六〇)七月十六日午前八時、宿屋入道を通じて、今は亡き最明寺入道時頼殿に上申したのである。これは日蓮の私情によるものではなく、ただひたすら国土の恩に報いんがための心情にほかならない。
[2]その立正安国論の趣旨は次の通りである。<改行>
 日本国が始まってから天神七代・地神五代・人皇百代であるが、その人皇第三十代欽明天皇の御代みよに、百済の国から初めて仏法が日本に伝えられたのである。それから桓武天皇の御代までは五十余代、二百六十余年であるが、その間に一切経とくしや成実じようじつりつ三論さんろん法相ほつそう華厳けごんの六宗が伝えられたけれども、まだ天台・真言の二宗はなかった。桓武天皇の御代に、山階寺の行表僧正の御弟子に最澄という小僧があった。のちには伝教大師と号した人である。最澄はそれまでに伝えられた六宗と禅宗の教えを学び、深く研究したけれども満足することができなかった。ところが聖武天皇の御代に鑑真和尚が伝えた天台の書物を、たまたま手にすることができた。この天台の書は四十余年の間、誰も読まずにきたのを最澄がはじめて手に入れ読んだのである。そしてこの書によって仏法の奥深い意味を覚ることができたのである。そこで最澄は国家の安泰を祈るため、延暦四年(<暦>七八五)に比叡山に登り、ここに一乗止観院を建立したのである。桓武天皇はこれを崇めて、天皇の本命星を祈念して国家を鎮護するための道場と定められ、南都の六宗を捨てて天台法華宗に帰依されたのである。天皇は延暦十三年に長岡京を廃して平安京にうつられた。延暦二十一年正月十九日、高雄寺において南都六宗七大寺の学者、勤操・長耀などの十四人を召し合わせ、最澄と法門の優劣を対決させられた。六宗の学者たちは口を鼻のように閉じて一問答にも及ばなかった。その時、華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の法門はことごとく破られてしまった。ただ破られただけではなく、それらの宗旨が謗法であることも明らかとなった。そこで同二十九日に天皇は勅宣を下して彼らを厳しく問いつめ責められたので、十四人の学者たちは帰伏の状を書いて天皇に捧げたのである。その後、代々の天皇が叡山に御帰依なさることは、ちょうど親孝行な子が父母に仕えるにも超えた態度であり、人民が王の威力を恐れるより以上に、法華経に御帰依され、尊ばれたのである。このために、ある時は宣命みことのりを捧げたり、ある時は理を曲げても叡山を保護されたのであった。ことに清和天皇は叡山の亮和尚の御祈の威力によって王位にかれたので、天皇の外祖父の藤原良房よしふさは誓状を叡山に捧げられたのであった。源の右将軍頼朝は清和天皇の末孫である。ところが今日の鎌倉幕府の方針が、是非善悪のいずれにあるかを問うことなく、叡山を無視し、その意に背いて、法華信仰を圧迫するようなことがあれば、天罰を招くことになるであろう。
[3]それなのに、後鳥羽院の御代みよの建仁年間(<暦>一二〇一—一二〇四)に、法然・大日という二人のおごり高ぶり慢心のさかんな者があって、悪鬼が彼らの身に入って、国じゅう上下の人びとを迷わせたため、世の中はみな念仏者となり、人はことごとく禅宗を信ずるようになって、叡山の御帰依は薄くなり、日本国じゅうの法華・真言の学者たちも捨てられて、誰も顧みる者はいなくなってしまった。そのために、叡山を守護する天照太神・正八幡宮・山王七社、並びに日本国を守護するもろもろの大善神たちは、みな法華経の法味を味わうことができず、その威光勢力を失って、ついに国土を捨て去ってしまった。悪鬼がそれにつけこんで、いろいろな災難を起こし、最後には他国から攻められるであろう、とは、かつて予言し警告したところである。
[4]またその後、文永元年(<暦>一二六四)七月五日には前代未聞の大彗星が東の空に現われ、その光はほとんど国じゅうに及んだほどであった。これは実に日本国始まって以来なかったところの不吉な前兆で、仏教の学者も儒教の学者も、この凶兆の根源を知る者は一人もいないのである。私(日蓮)はこの凶兆を見て、他国しんぴつの予言の的中することを思って、いよいよ悲しみを増すばかりであった。ところが安国論を上奏してから九年を経た今年の閏正月、大蒙古国から国書が届いたが、それを見ると、安国論に予言したことが割符わりふを合わせたように符合したのである。これは、仏が付法蔵経などに「わが滅後一百余年に阿育大王が出て、わが舎利を分布して法を弘めるであろう」と予言され、周の第四代昭王の史官の蘇由が「一千年の後、仏教がこの国に弘まるであろう」といい、聖徳太子は「わが滅後二百余年を経て、山城の国に平安城が建つであろう」と予言され、天台大師は「わが滅後二百余年の後、東国に生まれてわが正法を弘めるであろう」といわれているが、これらの予言はいずれもみなその通りに実現したように、日蓮の予言も同じ価値をもつのである。日蓮もまた正嘉元年(<暦>一二五七)の大地震、同二年の飢饉、正元元年(<暦>一二五九)の大疫病などを見て、一切経にもとづいて、「これは他国からわが国を攻め破らんとする先兆である」と予言したのである。この予言は今日明らかに的中した。今このことをいうのは自讃のようであるが、もしわが国が破られたならば、仏法も滅びてしまうであろうから、あえていうのである。
[5]ところが今の世の高僧たちは謗法の者と同じ心の者であり、また自分の宗旨の根本を知らない者である。これらの者が勅宣や御教書を下されて、外敵対治の祈を行なうであろう。そうなればかえって仏や神の怒りを増し、国の滅びることは疑いないことである。日蓮はまたこの外敵を退け、国を安穏にする方法を知っている。これを知る者は日本国には叡山を除いては、ただ日蓮一人である。ちょうど太陽や月が二つないように、世に聖人は同時に二人出ないのと同じである。もしこのことが妄語であるならば、日蓮は自ら持つところの法華経と法華経守護の十羅刹女らせつによの罰を受けることになるであろう。これはまったく国のため、法のため、人のために言うのであって、自分一身のために言うのではない。貴殿には先に対面して一々申したことであるから、今また書面をもって申しあげるのである。もし私の進言を信用せず採用しないならば、必ず後悔するであろう。恐々謹言。
[6]  文永五年〈太歳戊辰〉<日>四月五日
[7]<人>日 蓮<花押>花押
[8]<先>法鑑御房