諌暁八幡抄
395 諌暁八幡抄
夫馬は一歳二歳の時は設つがいのび、まろすね(円脛)にすねほそく、うでのびて候へども病あるべしとも見えず。而ども七八歳なんどになりて身もこへ、血ふとく、上かち下をくれ候へば、小船に大石をつめるがごとく、小き木に大なる菓のなれるがごとく、多のやまい出来して人の用にもあわず、力もよわく、寿もみじかし。天神等も又かくのごとし。成劫の始には先生の果報いみじき衆生生来る上、人の悪も候はねば、身の光もあざやかに、心もいさぎよく日月のごとくあざやかに、師子象のいさみをなして候し程に、成劫やうやくすぎて住劫になるまゝに、前の天神等は年かさなりて下旬の月のごとし。今生れ来る天神は果報下劣の衆生多分は生来す。
然間、一天に三災やうやくをこり、四海に七難粗出現せしかば、一切衆生始苦と楽とををもい知る。此時仏出現し給て、仏教と申薬を天と人と神とにあたへ給しかば、燈に油をそへ、老人に杖をあたへたるがごとく、天神等還て威光をまし、勢力を増長せし事、成劫のごとし。
仏経に又五味のあぢわひ分れたり。在世の衆生は成劫ほどこそなかりしかども、果報いたうをとろへぬ衆生なれば、五味の中に何の味をもなめて威光勢力をもまし候き。仏滅度後、正像二千年過て末法になりぬれば、本の天も神も阿修羅大龍等も年もかさなりて、身もつかれ、心もよはくなり、又今生れ来る天人修羅等は、或は小果報、或は悪天人等なり。小乗・権大乗等の乳・酪・生蘇・熟蘇味を服すれども、老人に麁食をあたへ、高人に麦飯等を奉がごとし。
而を当世此を弁ざる学人等、古にならいて日本国の一切の諸神等の御前にして、阿含経・方等・般若・華厳・大日経等を法楽し、倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・浄土・禅等の僧を護持僧とし給る。唯老人に麁食を与へ、小児に強飯をくゝめるがごとし。何況今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗とは、古の小大乗の経宗にはあらず。天竺より仏法漢土へわたりし時、小大の経々は金言に私言まじはれり。宗々は又天竺・漢土の論師人師、或は小を大とあらそい、或は大を小という。或は小に大をかきまじへ、或は大に小を入、或は先の経を後とあらそい、或は後を先とし、或は先を後につけ、或は顕経を密経といひ、密経を顕経という。譬へば乳に水を入、薬に毒を加がごとし。涅槃経に仏未来を記して云爾時諸賊以醍醐故加之以水。以水多故乳酪醍醐一切倶失等[云云]。阿含小乗経は乳味のごとし。方等大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし。般若経等は生蘇味の如く、華厳経等は熟蘇味の如く、法華・涅槃経等は醍醐味の如し。設小乗経の乳味なりとも、仏説の如ならば争か一分の薬とならざるべき。況や諸大乗経をや。何に況や法華経をや。然に月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人也。其中に羅什三蔵一人を除て、前後の一百八十六人は純乳に水を加へ、薬に毒を入たる人々也。此理を不弁一切の人師末学等、設一切経を読誦し、十二分経を胸に浮べたる様なりとも、生死を離事かたし。又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈とは不可成。魔王魔民等、守護を加て法に験の有様なりとも、終には其身も檀那も不可安穏。譬ば旧医の薬に毒を雑へてさしをけるを、旧医の弟子等、或は盗取り、或は自然に取て、人の病を治せんが如し。いかでか安穏なるべき。
当世日本国の真言等の七宗並に浄土・禅宗等の諸学者等、弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に法華第二第三等の私の水を入たるを不知。仏説の如ならばいかでか一切倶失の大科を脱ん。大日経は法華経より劣事七重也。而を弘法等、顛倒して大日経最第一と定て日本国に弘通せるは、法華経一分の乳に大日経七分の水を入たる也。非水非乳非大日経非法華経。而も似法華経似大日経。大覚世尊是を集て涅槃経に記云於我滅後О正法将欲滅尽。爾時多有行悪比丘。乃至如牧牛女為欲売乳貪多利故加二分水。乃至此乳多水。О爾時是経於閻浮提当広流布。是時当有諸悪比丘鈔略是経分作多分能滅正法色香味美。是諸悪人雖復読誦如是経典滅除如来深密要義。乃至鈔前著後鈔後著前前後著中中著前後。当知。如是諸悪比丘是魔伴侶等[云云]。
今日本国を案ずるに代始て已に久く成ぬ。旧き守護の善神は定て福も尽き寿も減じ、威光勢力も衰ぬらん。仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たがひ(違)ぬ、齢はたけぬ、争か国の災を払、氏子をも守護すべき。其上、謗法の国にて候を、氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば、仏前の起請を毀神也。しかれども氏子なれば、愛子の失のやうにすてずして守護し給ぬる程に、法華経の行者をあだむ国主国人等を対治を加ずして、守護する失に依て、梵釈等のためには八幡等は罰せられ給ぬるか。此事は一大事也可秘可秘。
有経の中に、仏此世界と他方世界との梵釈・日月・四天・龍神等を集て、我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王悪鬼神等が、人王人民等の身に入て悩乱せんを、乍見乍聞治罰せずして須臾もすごすならば、必梵釈等の使をして四天王に仰つけて治罰を加べし。若氏神治罰を加ずば、梵釈四天等も守護神に治罰を加べし。梵釈又かくのごとし。梵釈等必此世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし。若不然者三世の諸仏の出世に漏れ、永く梵釈等の位を失て、無間大城に可沈、釈迦多宝十方の諸仏の御前にして起請を書置れたり。
今案之、日本小国の王となり、神となり給は、小乗には三賢の菩薩、大乗には十信、法華には名字五品の菩薩也。何なる氏神有て無尽の功徳を修すとも、法華経の名字を不聞、一念三千の観法を不守護者、退位の菩薩と成て永く無間大城に沈み候べし。故に扶桑記云又伝教大師奉為八幡大菩薩於神宮寺自講法華経。乃聞竟大神託宣我不聞法音久歴歳年。幸値遇和尚得聞正教。兼為我修種種功徳。至誠随喜。何足謝徳矣。兼有我所持法衣。即託宣主自開宝殿手捧紫袈裟一・紫衣一。奉上和尚。大悲力故幸垂納受。是時祢宜祝等各歎異云元来不見不聞如是奇事哉。此大神所施法衣今在山王院也[云云]。
今謂八幡人王第十六代応神天皇也。其時は仏経無し。此に袈裟衣有べからず。人王第三十欽明治三十二年に神と顕れ給、其已来弘仁五年までは祢宜・祝等次第に宝殿を守護す。何の王の時、此袈裟を納けると意へし。而祢宜等云元来不見不聞等[云云]。此大菩薩いかにしてか此袈裟衣は持給けるぞ。不思議なり不思議なり。又欽明より已来弘仁五年に至までは王は二十二代、仏法は二百六十余年也。其間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗日本国に渡て、八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人々、其数を不知。又法華経を読誦する人も争か無からん。又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂、大師より已前に是あり。其時定て仏法を聴聞し給ぬらん。何今始我不聞法音久歴年歳等託宣し給べきや。幾の人々か法華経一切経を講じ給けるに、何ぞ此御袈裟・衣をば進させ給はざりけるやらん。当知。伝教大師已前は法華経の文字のみ読けれども、其義はいまだ顕ざりけるか。
去延暦廿年十一月の中旬の頃、伝教大師比叡山にして、南都七大寺の六宗碩徳十余人を奉請て、法華経を講じ給しに、弘世・真綱等の二人の臣下聴聞此法門してなげいて云慨一乗之権滞悲三諦之未顕。又云長幼摧破三有之結猶未改歴劫轍等[云云]。其後延暦廿一年正月十九日に高雄寺に主上行幸ならせ給て、六宗の碩徳と伝教大師とを召合られて宗の勝劣を聞食しに、南都十四人皆口を閉て鼻のごとくす。後に重て怠状を捧たり。其状云自聖徳弘化以降于今二百余年之間所講経論其数多矣。彼此争理其疑未解。而此最妙円宗猶未闡揚等[云云]。此をもつて思に、伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕ざりけるか。八幡大菩薩の不見不聞と御託宣有けるは指也、指也。白也、白也。法華経第四云我滅度後能窃為一人説法華経。当知是人則如来使。乃至如来則為以衣覆之等[云云]。当来の弥勒仏は法華経を説給べきゆへに、釈迦仏大迦葉尊者を御使として衣を送給。又伝教大師仏御使として法華経を説給べきゆへに八幡大菩薩を使として衣を送給か。
又此大菩薩は伝教大師已前には加水の法華経を服してをはしましけれども、先生の善根に依て大王と生給ぬ。其善根の余慶、神と顕て此国を守護し給けるほどに、今は先生の福の余慶も尽ぬ。正法の味も失ぬ。謗法の者等国中に充満して年久けれども、日本国の衆生に久仰れてをわせし。大科あれども捨がたくをぼしめし、老人の不孝の子を捨ざるが如くして天のせめに合給ぬるか。
又此袈裟は法華経最第一と説かん人こそかけまいらせ給べきに、伝教大師の後は第一の座主義真和尚、法華最第一の人なればかけさせ給事其謂あり。第二の座主円澄大師は伝教大師の御弟子なれども、又弘法大師の弟子也。すこし謗法ににたり。此袈裟の人には有ず、かけがたし。第三の座主円仁慈覚大師は名伝教大師の御弟子なれども、心は弘法大師の弟子、大日経第一法華経第二の人也。此袈裟は一向にかけがたし。設かけたりとも法華経の行者にはあらず。其上又当世の天台座主は一向真言座主也。又当世の八幡の別当は或は薗城寺の長吏、或は東寺の末流、此等は遠くは釈迦・多宝・十方諸仏大怨敵、近は伝教大師讐敵也。譬へば提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし。又猟師が仏衣を被て師子のかわをはぎしがごとし。当世叡山の座主は伝教大師の八幡大菩薩より給て候し御袈裟をかけて、法華経の所領を奪取て真言の領となせり。譬へば阿闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。而を大菩薩の此袈裟をはぎかへし給ざる一の大科也。
此大菩薩は法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請をかきながら、数年が間、法華経の大怨敵を治罰せざる事不思議なる上、たまたま法華経の行者の出現せるを来て守護こそなさざらめ。我前にして国主等の怨する事、犬の猿をかみ、蛇の蝦をのみ、鷹の雉を、師子王の兎を殺がごとくするを、一度もいましめず。設いましむるやうなれども、いつわりをろかなるゆへに、梵釈・日月・四天等のせめを、八幡大菩薩かほり給ぬるにや。例せば欽明天皇・敏達天皇・用明天皇已上三代の大王、物部・大連・守屋等がすゝめて依て宣旨を下て、金銅の釈尊を焼き奉、堂に火放、僧尼をせめしかば、天より火ふりて内裏をやく。其上日本国万民とがなくして悪瘡をやみ、死こと大半に過ぬ。結句三代の大王・二人の大臣・其外多の王子・公卿等、或は悪瘡或は合戦にほろび給しがごとし。其時日本国の百八十神の栖給し宝殿皆焼失ぬ。釈迦仏に敵する者を守護し給し大科也。
又薗城寺は叡山已前の寺なれども、智証大師の真言を伝て今に長吏とがうす。叡山の末寺たる事疑なし。而に山門の得分たる大乗戒壇を奪取て、薗城寺に立て叡山に随じと[云云]。譬へば小臣が大王に敵し、子が親に不孝なるがごとし。かゝる悪逆の寺を新羅大明神みだれがわしく守護するゆへに、度々山門に宝殿を焼る此のごとし。今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼給ぬるか。例せば秦始皇の先祖襄王と申せし王、神となりて始皇等を守護し給し程に、秦の始皇大慢をなして三皇五帝の墳典をやき、三聖の孝経等を失しかば、沛公と申人剣をもて大蛇を切死ぬ。秦皇の氏神是也。其後秦の代ほどなくほろび候ぬ。此も又かくのごとし。安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。平家ををごらせし失に、伊勢大神宮八幡等に神うちに打失れて、其後平家ほどなくほろび候ぬ。此又かくのごとし。
法華経の第四云仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼等[云云]。日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国弘通し候は諸天世間の眼にあらずや。眼に五あり。所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼也。此の五眼は法華経より出生せさせ給。故に普賢経云此方等経是諸仏眼。諸仏因是得具五眼等[云云]。此方等経と申は法華経を申也。又此経云人天福田応供中最等[云云]。此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼・二乗菩薩の眼・諸仏の御眼也。而に法華経の行者を怨む人は人天の眼をくじる者也。其人を罰せざる守護神は、一切の人天の眼をくじる者を結構し給神也。
而に弘法・慈覚・智証等は正く書を作て、法華経を無明辺域非明分位。望後作戯論。力者に及ばず履者とりにたらずとかきつけて四百余年。日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあなづらせ、一切衆生の眼をくじる者を守護し給は、あに八幡大菩薩の結構にあらずや。去弘長と又去文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわらわせ給しは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや。其のいましめとをぼしきは、ただどしうちばかりなり。日本国の賢王たりし上、第一第二の御神なれば八幡勝たる神はよもをはせじ。又偏頗はよも有じとはをもへども、一切経並に法華経のをきてのごときんば、この神は大科神也。
日本六十六箇国二の島、一万一千三十七の寺寺の仏は皆或は画像或は木像、或は真言已前の寺もあり、或は已後の寺もあり。此等の仏は皆法華経より出生せり。法華経をもつて眼とすべし。所謂、此方等経是諸仏眼等[云云]。妙楽云 然此経以常住仏性為咽喉以一乗妙行為眼目以再生敗種為心腑以顕本遠寿為其命等[云云]。而を日本国の習、真言師にもかぎらず、諸宗一同に仏眼の印をもつて開眼し、大日の真言をもつて五智を具足すと[云云]。此等は法華経にして仏になれる衆生を真言権経にて供養すれば、還て仏を死し、眼をくじり、寿命を断、喉をさきなんどする人々なり。提婆が教主釈尊の身より血を出し、阿闍世王の彼の人師として現罰に値しに、いかでかをとり候べき。八幡大菩薩は応神天皇、小国王也。阿闍世王は摩竭大国の大主也。天と人と、王と民との勝劣也。而ども阿闍世王猶釈迦仏に敵をなして悪瘡身に付給ぬ。八幡大菩薩いかでか其科を脱べき。去文永十一年に大蒙古よりよせて、日本国の兵を多くほろぼすのみならず、八幡の宮殿すでにやかれぬ。其時何彼国の兵を罰し給はざるや。まさに知べし。彼国の大王は此国の神に勝たる事あきらけし。襄王と申せし神は漢土の第一の神なれども、沛公が利剣に切給ぬ。此をもつてをもうべし。
道鏡法師、称徳天皇の心よせと成て国主と成とせし時、清丸、八幡大菩薩に起請せし時、八幡御託宣云夫神有大小好悪乃至彼衆く我寡し。邪強正弱。乃当仰仏力之加護為紹隆皇緒等[云云]。当知八幡大菩薩は正法を力として王法をも守護し給ける也。叡山東寺等の真言の邪法もつて権大夫殿を調伏せし程に、権大夫殿かたせ給ひ、隠岐法皇はまけさせ給ぬ。還著於本人此也。今又日本国一万一千三十七の寺並に三千一百三十二社の神は国家安穏のためにあがめられて候。而に其寺々の別当等、其社々の神主等は、みなみなあがむるところの本尊と神との御心に相違せり。彼々の仏と神とは其身異体なれども、其心同心に法華経の守護神也。別当と社主等は或は真言師、或は念仏者、或禅僧、或律僧なり。皆一同に八幡等の御かたきなり。謗法不孝の者を守護し給て、正法の者或は流罪或死罪等に行するゆへに、天のせめを被給ぬる也。
我弟子等の内、謗法の余慶有者の思ていわく、此御房は八幡をかたきとすと[云云]。これいまだ道理有て法の成就せぬには、本尊をせむるという事を存知せざる者の思也。付法蔵経と申経に大迦葉尊者の因縁を説て云時摩竭国有波羅門名尼倶律陀。於過去世久修勝業О多饒財宝巨富無量О比摩竭王千倍為勝О雖饒財宝無有子息自念老朽死時将至。庫蔵諸物無所委付。於其舎側有樹林神。彼婆羅門為求子故即往祈請。経歴年歳無微応。時尼倶律陀大生瞋忿語樹神曰我事汝来已経年歳都不見為垂一福応。今当七日至心事汝若復無験必相焼剪明樹神聞已甚懐愁怖向四天王具陳斯事。於是四王往白帝釈。帝釈観察閻浮提内無福徳人堪為彼子。即詣梵王広宣上事。爾時梵王以天眼観見有梵天当臨命終。而告之曰汝若降神宜当生彼閻浮提界波羅門家。梵天対曰婆羅門法多悪邪見。我今不能為其子也。梵王復言彼婆羅門有大威徳。閻浮提人莫堪往生。汝必生彼吾相護終不令汝入邪見也。梵天曰諾。敬承聖教。於是帝釈即向樹神説如斯事。樹神歓喜尋詣其家護婆羅門。汝今勿復起恨於我。卻後七日当満卿願。至七日已婦始覚有身満足十月生一男児。乃至今迦葉是也[云云]。応時尼倶律陀大生瞋忿等[云云]。常のごときんば、氏神に向て大瞋恚を生者今生には身をほろぼし、後生には悪道に堕べし。雖然尼倶律陀長者、氏神に向大悪口瞋恚を生じて大願を成就し、賢子をまうけ給ぬ。当知瞋恚は善悪に通者也。
今日蓮は去建長五年[癸丑]四月二十八日より、今弘安三年[太歳庚辰]十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入とはげむ計也。此即母の赤子の口に乳を入とはげむ慈悲也。此又時の当ざるにあらず。已に仏記の五々百歳に当れり。天台伝教の御時は時いまだ来ざりしかども、一分の機ある故、少分流布せり。何況今は已に時いたりぬ。設機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ。只不軽のごとく大難には値とも、流布せん事疑なかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏に依て無智の国主等留難をなす。此を対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背べしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。蘇悉地経云治罰本尊如治鬼魅等[云云]。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしばり、或は打なんどせよととかれて候。相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか。此は他事にはにるべからず。日本国の一切の善人が或は戒を持、或は布施を行、或は父母等の孝養のために寺搭を建立し、或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止て諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法者たるゆへに、謀反の者知ずしてやどしたるがごとく、不孝の者に契なせるがごとく、今生には災難を招き、後生も悪道に堕候べきを扶とする身也。而を日本国の守護善神等、彼等にくみして正法の敵となるゆへに、此をせむるは経文のごとし。道理に任たり。
我弟子等がをもわく、我が師は法華経を弘通し給とてひろまらざる上、大難の来は、真言は国をほろぼす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給ゆへなり。例せば道理有問注に悪口のまじわれるがごとしと[云云]。日蓮我弟子反詰云汝爾者我が問を答よ。一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向て南無妙法蓮華経と唱給と勧進せば、彼等云我が弘法大師は法華経と釈迦仏とを戯論・無明の辺域・力者・はき物とりに及ずとかゝせ給て候。物の用にあわぬ法華経を読誦せんよりも、其口に我が小呪を一反も誦すべし。一切の在家の者云、善導和尚は法華経をば千中無一、法然上人は捨閉閣抛、導綽禅師は未有一人得者と定させ給へり。汝がすゝむる南無妙法蓮華経は我念仏の障なり。我等設悪をつくるともよも唱じ。一切禅宗云我宗は教外別伝と申て一切経の外に伝たる最上法門也。一切経は指のごとし。禅は月のごとし。天台等の愚人は指をまほて月をしらず。法華経は指也。禅は月也。月を見て後は指は何のせんかあるべきなんど申。かくのごとく申さん時は、いかにとしてか南無妙法蓮華経良薬をば彼等が口には入べき。
仏は且く阿含経を説給て後、法華経へ入とたばかり給しに、一切の声聞等阿含経に著して法華経へ入ざりしをば、いかやうにかたばからせ給し。此仏説云設五逆罪は造とも、五逆の者をば供養すとも、罪は仏の種とはなるとも、彼等が善根は仏種とならじとこそ説給しか。小乗大乗はかわれども同く仏説なり。大が小を破て小を大となすと、大を破て法華経に入と、大小は異なれども法華経へ入と思志は是一也。されば無量義経に大を破て云未顕真実。法華経に云此事為不可等[云云]。仏自ら云我世に出て華厳般若等を説て法華経をとかずして入涅槃せば、愛子に財ををしみ、病者に良薬をあたへずして死したるがごとし。仏自記云地獄に堕べしと[云云]。不可と申は地獄の名也。況法華経の後、爾前の経に著して法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるがごとし。親に子の見へざるがごとし。設法華経を破せざれども、爾前の経々をほむるは法華経をそしるに当れり。妙楽云 若称歎昔豈非毀今文。又云 雖欲発心不簡偏円不解誓境未来聞法何能免謗等[云云]。
真言の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は設法華経を大日経に相対して勝劣を論ぜずして大日経を弘通すとも、滅後に生たる三蔵人師なれば謗法はよも免候はじ。何況善無畏等の三三蔵は法華経は略説、大日経は広説と同じて而法華経の行者を大日経えすかし入、弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて戯論なんどかゝれて候を大科を明ずして、此四百余年一切衆生を皆謗法の者となりぬ。例せば大荘厳仏の末四比丘が六百万億那由佗の人を皆無間地獄に堕とせると、師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいを皆阿鼻大城に導と、今三大師の教化に随て日本国四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生、又四十九億等の人々四百余年に死て無間地獄に堕ぬれば、其後他方世界よりは生て又死して無間地獄に堕ぬ。かくのごとく堕者大地微塵よりも多し。此皆三大師の科ぞかし。此を日蓮此にて見ながらいつわりをろかにして申ずば倶堕地獄の者となて、一分の科なき身が十方の大阿鼻地獄を経めぐるべし。いかでか身命をすてざるべき。涅槃経云一切衆生受異苦悉是如来一人苦等[云云]。日蓮云一切衆生同一苦悉是日蓮一人苦と申べし。
平城天皇御宇八幡の御託宣云我是日本鎮守八幡大菩薩也。守護於百王有誓願等[云云]。今云人王八十一二代隠岐法皇、三四五の諸皇已破畢。残二十余代今捨畢。已此願破がごとし。日蓮料簡云百王を守護せんと云は正直の王百人を守護せんと誓給。八幡御誓願云以正直之人頂為栖以諂曲之人心不亭等[云云]。夫月は清水に影をやどす、濁水にすむ事なし。王と申は不妄語の人、右大将・権大夫殿は不妄語の人、正直の頂、八幡大菩薩の栖百王の内也。
正直に二あり。一には世間正直、王と申は天人地の三を串を王と名づく。天人地の三は横也。たつてん(立点)は縦也。王と申黄帝中央の名也。天の主・人の主・地の主を王と申。隠岐法皇は名は国王、身は妄語の人、横人也。権大夫殿は名は臣下、身は大王、不妄語の人、八幡大菩薩の願給頂也。二出世の正直と申は爾前七宗等の経論釈は妄語、法華経天台宗は正直の経釈也。本地は不妄語の経の釈迦仏、迹には不妄語八幡大菩薩也。八葉八幡、中台は教主釈尊也。四月八日寅日に生、八十年を経て二月十五日申の日に隠させ給。豈教主の日本国に生給に有ずや。大隅正八幡宮石文云昔在霊鷲山説妙法華経今在正宮中示現大菩薩等[云云]。法華経云今此三界等[云云]。又常在霊鷲山等[云云]。遠は三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近は日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉やうにもてなし、釈迦仏をすて奉、影をうやまつて体をあなづる。子に向て親をのる(罵)がごとし。本地釈迦如来にして月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説給、垂迹日本国生ては正直の頂にすみ給。諸の権化の人々本地は法華経一実相なれども垂迹の門無量なり。所謂髪倶羅尊者は三世に不殺生戒を示、鴦掘摩羅生々に殺生を示す、舎利弗外道となり、如是門々不同なる事は、本凡夫にて有し時の初発得道の始を成仏の後化他門に出給時、我が得道の門を示すなり。妙楽大師云若従本説亦如是。昔於殺等悪中能出離。故是故迹中亦以殺為利他法門等[云云]。
今八幡大菩薩は本地月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと[云云]。若爾者此大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給とも、法華経の行者日本国に有ならば其所に栖給べし。法華経第五云 諸天昼夜 常為法故 而衛護之 文。経文の如ば南無妙法蓮華経と申人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり。又第六巻云 或説己身 或説他身 或示己身 或示他身 或示己事 或示他事文。観音尚三十三身を現じ、妙音又三十四身を現じ給ふ。教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云 即是垂形十界作種々像等[云云]。
天竺国をば月氏国と申、仏の出現し給べき名也。扶桑国をば日本国と申、あに聖人出給ざらむ。月は西より東に向へり。月氏の仏法東へ流べき相也。日は東より出。日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世は但八年なり。日は光明月に勝れり。五々百歳の長闇を照べき瑞相也。仏は法華経謗法の者を治給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我弟子等はげませ給へはげませ給へ。 弘安三年[太歳庚辰]十二月 日 日蓮 [花押]