千日尼御返事(阿仏房書)
371 千日尼御返事
こう入道殿の尼ごぜんの事、なげき入て候。又こいしこいしと申つたへさせ給へ。鵞目一貫五百文・のり・わかめ・ほしい(干飯)・しなじなの物給候了。法華経の御宝前に申上て候。
法華経云若有聞法者無一不成仏[云云]。文字は十字にて候へども法華経を一句よみまいらせ候へども、釈迦如来の一代聖教をのこりなく読にて候なるぞ。故に妙楽大師云若弘法華凡消一義皆混一代窮其始末等[云云]。始申者華厳経、末と申は涅槃経。華厳経と申は仏 最初成道の時、法慧・功徳林等の大菩薩、解脱月菩薩と申菩薩の請に趣て仏前にてとかれて候。其経は天竺・龍宮城・兜卒等は知ず、日本国にわたりて候は六十巻・八十巻・四十巻候。末と申は大涅槃経、此も月氏・龍宮等は知ず、我が朝四十巻・三十六巻・六巻・二巻等也。此より外の阿含経・方等経・般若経等は五千・七千余巻なり。此等の経々は見ずきかず候へども、但法華経の一字一句よみ候へば、彼々の経々を一字もをとさずよむにて候なるぞ。譬へば月氏・日本と申は二字。二字に五天竺・十六の大国・五百中国・十千の小国・無量の粟散国の大地・大山・草木・人畜等をさまれるがごとし。譬へば鏡はわづかに一寸二寸三寸四寸五寸と候へども、一尺五尺の人をもうかべ、一丈二丈十丈百丈の大山をもうつすがごとし。
されば此の経文をよみて見候へば、此の経をきく人は一人もかけず仏になると申文なり。九界六道の一切衆生各々心々かわれり。譬へば二人三人乃至百千人候へども一尺の面の内じち(実)ににたる人一人もなし。心のにざるゆへに面もにず。まして二人十人、六道九界の衆生の心いかんがかわりて候らむ。されば花をあいし、月をあいし、すき(酸)をこのみ、にがきをこのみ、ちいさきをあいし、大なるをあいし、いろいろなり。善をこのみ、悪をこのみ、しなじななり。かくのごとくいろいろに候へども、法華経に入ぬれば唯一人の身、一人の心なり。譬へば衆河の大海に入て同一鹹味なるがごとく、衆鳥の須弥山に近て一色なるがごとし。提婆が三逆と羅睺羅が二百五十戒と同く仏になりぬ。妙荘厳王の邪見と舎利弗が正見と同授記をかをほれり。此即無一不成仏のゆへぞかし。四十余年の内阿弥陀経等には舎利弗が七日の百万反大善根ととかれしかども、未顕真実ときらわれしかば七日ゆ(湯)をわかして大海になげたるがごとし。ゐ(韋)提希観経をよみて無生忍を得しかども、正直捨方便とすてられしかば法華経を信ぜずば返て本の女人なり。大善も用事なし。法華経に値ずばなにせん。大悪もなげく事なかれ。一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん。此等皆無一不成仏の経文のむなしからざるゆへぞかし。
されば故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑とも、法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝搭の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候。若此事そらごとにて候わば、日蓮がひがめにては候はず、釈迦如来の世尊法久後要当説真実の御舌と、多宝仏の妙法蓮華経皆是真実の舌相と、四百万億那由他の国土にあさ(麻)のごとく、いね(稲)のごとく、星のごとく、竹のごとく、ぞくぞくとひまもなく列ゐてをはしましゝ諸仏如来の、一仏もかけ給はず広長舌を大梵王宮に指し付てをはせし御舌どもの、くぢら(鯨)の死てくされたるがごとく、いわし(鰯)のよりあつまりてくされたるがごとく、皆一時にくちくされて、十方世界の諸仏如来大妄語の罪にをとされて、寂光の浄土の金るりの大地はたとわれて、提婆がごとく無間大城にかはと入、法蓮香比丘尼がごとく身より大妄語の猛火ぱといでて、実報華王の花のその(園)一時に灰燼の地となるべし。いかでかさる事は候べき。故阿仏房一人を寂光の浄土に入給はずば諸仏は大苦に堕給べし。たゞをいて物を見よ物を見よ。仏のまことそら事は此にて見奉べし。
さては、をとこははしら(柱)のごとし、女はなかわ(桁)のごとし。をとこは足のごとし、女人は身のごとし。をとこは羽のごとし、女はみ(身)のごとし。羽とみとべちべちになりなば、なにをもんてかとぶべき。はしらたうれなばなかは地に堕なん。いへにをとこなければ人のたましゐなきがごとし。くうじ(公事)をばたれにかいゐあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき。一日二日たがいしをだにもをぼつかなしとをもいしに、こぞの三月の二十一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどもみゆる事なし。今年もすでに七つき(月)になりぬ。たといわれこそ来らずとも、いかにをとづれはなかるらん。ちりし花も又さきぬ。をちし菓も又なりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらむ。月は入て又いでぬ。雲はきへて又来る。この人の出でゝかへらぬ事こそ天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすらめ。
いそぎいそぎ法華経をらうれう(粮料)とたのみまいらせさせ給て、りやうぜん浄土へまいらせ給て、みまいらせ給べし。
抑子はかたきと申経文もあり。世人為子造衆罪の文なり。鵰・鷲と申とりはをやは慈悲をもつて養へば子はかへりて食とす。梟鳥と申とりは生は必ず母をくらう。畜生かくのごとし。人の中にも、はるり王は心もゆかぬ父の位を奪取る。阿闍世王は父を殺せり。安禄山は養母をころし、安慶緒と申人は父安禄山を殺す。安慶緒は子史師明に殺ぬ。史師明は史朝義と申子に又ころされぬ。此は敵と申もことわりなり。善星比丘と申教主釈尊の御子也。苦得外道をかたらいて度々父の仏を殺奉らんとす。
又子は財と申経文もはんべり。所以経文云其男女追修福有大光明照地獄令其父母発信心等[云云]。設仏説ならずとも眼の前に見て候。天竺に安足国王と申せし大王はあまりに馬をこのみてかいしほどに、後にはかいなれて鈍馬を龍馬となすのみならず、牛を馬ともなす。結句は人を馬となしてのり給き。其国の人あまりになげきしかば、知ぬ国の人を馬となす。他国の商人ゆきたりしかば薬をかいて馬となして御まやう(厩)につなぎつけぬ。なにとなけれども我が国はこいしき上、妻子ことにこいしく、しのびがたかりしかども、ゆるす事なかりしかばかへる事なし。又かへりたりとも、このすがたにては由なかるべし。たゞ朝夕にはなげきのみしてありし程に、一人ありし子、父のまちどき(待時)すぎしかば、人にや殺れたるらむ。又病にや沈らむ。子の身としていかでか父をたづねざるべきといでたちければ、母なげくらく、男も他国にてかへらず、一人の子もすてゝゆきなば、我いかんがせんとなげきしかども、子ちゝのあまりにこいしかりしかば安足国へ尋ゆきぬ。ある小家にやどりて候しかば家の主申やう、あらふびんや、わどのはをさなき物なり。而もみめかたち人にすぐれたり。我に一人の子ありしが他国にゆきてしに(死)やしけん、又いかにてやあるらむ。我が子の事ををもへば、わどのをみてめ(目)もあてられず。
いかにと申せば、此国は大なるなげき有。此国の大王あまり馬をこのませ給て不思議の草を用給へり。一葉せばき草をくわすれば人馬となる。葉広草をくわすれば馬人となる。近も他国の商人の有を、この草をくわせて馬となして、第一の御まやに秘蔵してつながれたりと申。此男これをきいて、さては我父は馬と成てけりとをもひて、返て問云、其馬は毛はいかにとといければ、家主答云、栗毛なる馬の肩白くぶちたりと申。此物此事をきゝて、とかうはからいて、王宮に近づき、葉広草をぬすみとりて、我父の馬になりたりしに食せしかば本のごとく人となりぬ。其国の大王不思議なるをもひをなして、孝養の者なりとて父を子にあづけ、其よりついに人を馬となす事とどめられぬ。子ならずばいかでか尋ねゆくべき。目連尊者は母の餓鬼の苦をすくい、浄蔵・浄眼は父の邪見をひるがえす。此よき子の親の財となるゆへぞかし。
而に故阿仏聖霊は日本国北海の島のえびすのみ(身)なりしかども、後生ををそれて出家して後生を願しが、流人日蓮に値て法華経を持、去年の春仏になりぬ。尸陀山の野干は仏法に値て、生をいとひ死を願て帝釈と生たり。阿仏上人は濁世の身を厭て仏になり給ぬ。其子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利を頸に懸、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登て法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登て慈父のはかを拝見す。子にすぎたる財なし子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。 七月二日 日蓮 [花押] 故阿仏房尼御前 [御返事]
追申 絹染袈裟一まいらせ候。豊後房に申るべし。既法門日本国にひろまりて候。北陸道をば豊後房なびくべきに学生ならでは叶べからず。九月十五日已前にいそぎいそぎまいるべし。 かずの聖教をば日記のごとくたんば(丹波)房にいそぎいそぎつかわすべし。山伏房をばこれより申にしたがいて、これへはわたすべし。山伏ふびんにあたられ候事悦入て候。