浄蓮房御書
184 浄蓮房御書
細美帷一送給候畢。善導和尚と申人は漢土に臨_と申国の人也。幼少の時、密州と申国の明勝と申人を師とせしが、彼の僧は法華経と浄名経を尊重して、我も読誦し人をもすゝめしかば、善導に此を教ゆ。善導此を習て師の如く行ぜし程に、過去の宿習にや有けん。案云、仏法には無量の行あり。機に随て皆利益あり。教いみじといへども機にあたらざれば虚きがごとし。されば我法華経を行は我が機に叶はずばいかんが有べかるらん。教には依べからずと思て、一切経蔵に入、両眼を閉て経をとる。観無量寿経を得たり。披見すれば此経云、為未来世為煩悩賊之所害者説清浄業等[云云]。華厳経は二乗のため、法華経・涅槃経等は五乗にわたれども、たいし(大旨)は聖人のためなり。末法の我等が為なる経は唯観経にかぎれり。
釈尊最後の遺言には涅槃経にはすぐべからず。彼経には七種の衆生を列たり。第一は入水則没一闡提人也。生死の水に入しより已来いまに出ず。譬へば大石を大海に投入たるがごとし。身重して浮ことを習はず。常海底に有。此常没と名く。第二をば出已復没と申。譬へば身に力有とも浮ことをならはざれは出已て復入りぬ。此は第一の一闡提人には有ねども、一闡提のごとし。又常没と名く。第三は出已不没と申。生死の河を出でてよりこのかた没することなし。此は舎利弗等の声聞。第四は出已即住。第五は観方。第六は浅処。第七到彼岸等也。第四・第五・第六・第七は縁覚・菩薩也。
釈迦如来世に出させ給て一代五時の経々を説給、第三已上人々を救給畢。第一は捨てさせ給ぬ。法蔵比丘阿弥陀仏、此をうけとて四十八願を発して迎とらせ給。十方三世の仏と釈迦仏とは第三已上の一切衆生を救給。あみだ(阿弥陀)仏は第一・第二を迎とらせ給。而に今末代の凡夫は第一・第二に相当れり。而を浄影大師・天台大師等の他宗人師は此事を弁ずして、九品の浄土に聖人も生と思へり。_が中_也。
一向末代の凡夫の中に上三品は遇大、始て大乗に値凡夫。中三品は遇小、始て小乗に値へる凡夫。下三品は遇悪、一生造悪無間非法荒凡夫。臨終の時、始て上の七種の衆生を弁たる智人に行きあひて、岸上の経経をうちすてゝ溺水の機を救はせ給。観経の下品下生の大悪業南無阿弥陀仏を授たり。されば我一切経を見るに、法華経等は末代の機には千中無一也。第一第二の我等衆生は第三已上機の為に説れて候法華経等を、末代に修すれば身は苦んで益なしと申て、善導和尚は立所に法華経を抛すてゝ観経を行ぜしかば、三昧発得して阿弥陀仏に見参して、重て此法門を渡給。四帖の疏是也。
導云、然諸仏大悲於苦者心偏愍念常没衆生。是以勧帰浄土。亦如溺水之人急須偏救。岸上之者何用済為と[云云]。又云、言深心者即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転無有出離之縁。又云、二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生無疑無慮乗彼願力定得往生[云云]。此の釈の心は上にかき顕て候浄土宗の肝心と申は此也。我等末代の凡夫は涅槃経の第一・第二也。さる時に釈迦仏の教には無有出離之縁。法蔵比丘の本願にては定得往生と知を、三心の中の深心とは申也等[云云]。
此又善導和尚の私義には非ず。綽禅師と申せし人の、涅槃経を二十四反かう(講)ぜしが、曇鸞法師の碑の文を見て立所に涅槃経を捨てゝ、観経に遷て後此法門を導には教て候也。鸞法師と申せし人は斉の代の人也。漢土にては時に独歩人也。初には四論と涅槃経とをかうぜしが、菩提流支と申三蔵に値て、四論涅槃を捨観経に遷て往生をとげし人也。三代が間伝て候法門也。漢土日本には八宗を習智人正法すでに過て像法に入しかば、かしこき人々は皆自宗を捨てゝ浄土念仏に遷し事此也。日本国のいろはは天台山の慧心往生要集此也。三論永観が十因往生講式、此等皆此法門をうかがい得たる人々也。法然上人亦爾也[云云]。
日蓮云、此義を存ずる人々等も但恒河の第一第二は一向浄土の機と[云云]。此此法門の肝要か。日蓮涅槃経の三十二三十六を開見に、第一は誹謗正法の一闡提、常没大魚と名けたり。第二は又常没。其第二の人を出さば提婆達多・瞿伽梨・善星等也。此は誹謗五逆人々なり。詮ずる所、第一第二は謗法と五逆也。法蔵比丘の設我得仏、十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚。唯除五逆誹謗正法[云云]。此願の如きんば、法蔵比丘は恒河の第一第二を捨はてゝこそ候ぬれ。導和尚の如くならば、末代の凡夫阿弥陀仏の本願には千中無一也。法華経の結経たる普賢経には五逆と誹謗正法は一乗の機と定給たり。されば末代の凡夫の為には法華経は十即十生百即百生也。
善導和尚が義に付て申詮は私案にはあらず。阿弥陀仏は無上念王たりし時、娑婆世界は已にすて給ぬ。釈迦如来は宝界梵志として此の忍土を取給畢。十方の浄土には誹謗正法と五逆一闡提とをば迎べからずと、阿弥陀仏・十方の仏誓給き。宝界梵志の願云、即集十方浄土擯出衆生我当度之[云云]。法華経云、唯我一人能為救護等[云云]。唯我一人の経文は堅きやうに候へども釈迦如来の自義にはあらず。阿弥陀仏等の諸仏我と娑婆世界を捨しかば、教主釈尊唯我一人と誓て、すでに娑婆世界に出給ぬる上は、なにをか疑候べき。
鸞・綽・導・心・観・然等の六人の人々は智者也。日蓮は愚者也、非学生也。但上の六人は何国の人ぞ、三界の外の人か、六道の外の衆生歟。阿弥陀仏に値奉て出家受戒して沙門となりたる僧歟。今の人々は将門・純友・清盛・義朝等には種性も及ばず、威徳も不足。心のかう(剛)さは申ばかりなけれども、朝敵となりぬれば其人ならざる人々も将門か純友かと舌にうちからみて申ども、彼の子孫等もとがめず。義朝なんど申故右大将家の慈父也。子を敬まいらせば父をこそ敬まいらせ候べきに、いかなる人々も義朝・為朝なんど申ぞ。此則王法の重く逆臣の罪のむくゐ也。上の六人又かくのごとし。
釈迦如来世に出させ給て一代の聖教を説をかせ給。五十年の説法を我と集て、浅深勝劣、虚妄真実を定て、四十余年は未顕真実。已今当第一等と説せ給しかば、多宝十方の仏真実なりと加判せさせ給て定をかれて候を、彼六人は未顕真実の観経に依て、皆是真実の法華経を第一第二悪人の為にはあらずと申さば、今の人々は彼にすかされて数年を経たるゆへに、将門・純友等が所従等彼を用ざりし百姓等を或は切、或は打なんどせしがごとし。彼をおそれて従し男女は官軍にせめられて、彼人人と一時に水火のせめに値しなり。今日本国の、一切の諸仏菩薩・一切経信ずるやうなれども、心は彼の六人の心也。身は又彼の六人家人也。彼の将門等は官軍の向はざりし時は、大将所従知行の地且安穏なりしやうなりしかども違勅の責近づきしかば、所は修羅道となり、男子は厨者の魚をほふ(屠)るがごとし。炎に入水に入しなり。今日本国又かくのごとし。彼六人が僻見に依て、今生には守護の善神に放されて三災七難の国となり、後生には一業所感の衆生なれば阿鼻大城炎に入べし。法華経の第五巻に末代の法華経の強敵を仏記置給るは如六通羅漢と[云云]。上の六人は尊貴こと如現六通羅漢。
然に浄蓮上人の親父は彼等の人々の御檀那也。仏教実ならば無間大城疑なし。又君の心を演は臣、親の苦をやすむるは子也。目_尊者悲母の餓鬼の苦を救、浄蔵浄眼は慈父の邪見を翻し給き。父母の遺体は子の色心也。浄蓮上人の法華経を持給御功徳は慈父の御力也。提婆達多は阿鼻地獄に堕しかども天王如来の記を送給き。彼は仏と提婆と同性一家なる故也。此は又慈父也、子息也。浄蓮上人の所持の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とならざるべき。事多と申せども止畢。三反人によませてきこしめせ。恐恐謹言。 六月二十七日 日蓮 [花押] 返返するが(駿河)の人々みな同御心と申させ給候へ。