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兄弟鈔

第一巻 定本番号 174 文永12(1275) 分類: 真蹟断片現存

祖寿: 54 対告衆: 池上 著作地: 身延 真蹟: 池上 本門寺外四ヶ所 

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    174   兄弟鈔
夫法華経と申は八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄也。三世の諸仏は此経を師として正覚をなり、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ。今現に経蔵に入て此を見に、後漢の永平より唐の末に至るまで、渡れる所の一切経論に二本あり。所謂旧訳の経は五千四十八巻也。新訳の経は七千三百九十九巻也。彼一切経は皆各各分分に随て我第一也となのれり。然而法華経と彼経経とを引合て見之勝劣天地也、高下雲泥也。彼経経は衆星の如く、法華経は月の如し。彼経経は燈炬星月の如く、法華経大日輪の如し。此は総也。
別して経文に入て此を見奉れば二十の大事あり。第一第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫と申二の法門也。其三千塵点と申は第三巻化城諭品と申処に出て候。此三千大千世界を抹して塵となし、東方に向て千の三千大千世界を過て一塵を下し、又千の三千大千世界を過て一塵を下し、如此三千大千世界の塵を下はてぬ。さてかえつて、下せる三千大千世界と下さざる三千大千世界をともにおしふさねて又塵となし、此諸の塵をもてならべをきて一塵を一劫として、経尽しては又始始、かくのごとく上の諸塵の尽経たるを三千塵点とは申なり。今三周の声聞と申て舎利弗・迦葉・阿難・羅云なんど申人人は、過去遠遠劫三千塵点劫のそのかみ、大通智勝仏と申せし仏の、第十六の王子にてをはせし菩薩ましましき。かの菩薩より法華経習けるが、悪縁にすかされて法華経をすつる心つきにけり。かくして或は華厳経へをち、或は般若経へをち、或は大集経へをち、或は涅槃経へをち、或は大日経、或は深密経、或は観経等へをち、或は阿含小乗経へをちなんどしけるほどに、次第に墮ゆきて後には人天の善根、後に悪にをちぬ。かくのごとく墮ゆく程に三千塵点劫が間、多分は無間地獄、少分は七大地獄、たまたまには一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅なんどに生、大塵点劫なんどを経て人天には生候けり。されば法華経の第二の巻云、常処地獄如遊薗観在余悪道如己舎宅等[云云]。
十悪をつくる人は等活・黒縄なんど申地獄に墮て、五百生或は一千歳経、五逆をつくる人は無間地獄に墮て、一中劫を経て後は又かへり生ず。いかなる事にや候らん。法華経をすつる人は、すつる時はさしも父母を殺なんどのやうに、をびただしくはみへ候はねども、無間地獄に堕は多劫を経候。設父母を一人二人十人百人千人万人十万人百万人億万人なんど殺て候とも、いかんが三千塵点をば経候べき。一仏二仏十仏百仏千仏万仏乃至億万仏を殺たりとも、いかんが五百塵点劫をば経候べき。しかるに法華経をすて候けるつみによりて、三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩の五百塵点劫を経候けることをびただしくをぼへ候。せんするところは_をもて虚空を打はくぶしいたからず、石を打はくぶしいたし。悪人を殺は罪あさし、善人を殺は罪ふかし。或他人を殺は_をもつて泥を打がごとし。父母を殺は_もて石を打がごとし。鹿をほうる犬は頭われず、師子を吠る犬は腸くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打し提婆は大地われて入にき。所対によりて罪の軽重はありけるなり。さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺る罪にもすぎ、十方の仏の身より血出す罪にもこへて候けるゆへに、三五の塵点をば経候けるなり。此法華経はさてをきたてまつりぬ。
又此経を経のごとくにとく人に値ことが難にて候。設一眼の亀は浮木には値とも、はちすのいとをもつて須弥山をば虚空にかくとも、法華経を経のごとく説人にあひがたし。
されば慈恩大師と申せし人は、玄奘三蔵の御弟子太宗皇帝の御師なり。梵漢空にうかべ、一切経胸にたゝへ、仏舎利を筆のさきより雨、牙より光を放給し聖人なり。時人も日月のごとく恭敬、後人も眼目とこそ渇仰せしかども、伝教大師これをせめ給には雖讃法華経還死法華心等[云云]。言は彼人の心は法華経をほむとをもへども、理のさすところは法華経をころす人になりぬ。善無畏三蔵は月支国うぢやうな国の国王なり。位をすて出家して天竺五十余の国を修行して顕密二道をきわめ、後には漢土にわたりて玄宗皇帝の御師となる。尸那日本の真言師、誰か此人のながれにあらざる。かゝるたうとき人なれども一時に頓死して閻魔のせめにあわせ給。いかなりけるゆへとも人しらず。日蓮此をかんがへたるに本は法華経の行者なりしが、大日経を見て法華経にまされりといゐしゆえなり。されば舎利弗・目連等が三五の塵点劫を経しことは十悪五逆の罪にもあらず、謀反八虐の失にてもあらず。但悪知識に値て法華経の信心をやぶりて権経にうつりしゆへなり。天台大師釈云 若値悪友則失本心[云云]。本心と申は法華経を信ずる心なり。失と申は法華経の信心を引かへて余経へうつる心なり。されば経文云、然与良薬而不肯服等[云云]。天台云 其失心者雖与良薬而不肯服流浪生死逃逝他国[云云]。されば法華経を信ずる人のをそるべきものは、賊人・強盗・夜打・虎・狼・師子等よりも、当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人々なり。
此世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼魔王の眷属なり。六道の中に二十五有と申ろうをかまへて一切衆生を入のみならず、妻子と申ほだしをうち、父母主君と申あみをそらにはり、貪・瞋・癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす。但あく(悪)のさかな(肴)のみをすゝめて三悪道の大地に伏臥せしむ。たまたま善の心あれば障碍をなす。法華経を信ずる人をばいかにもして悪へ堕とをもうに、叶ざればやうやくすか(賺)さんがために相似せる華厳経へをとしつ。杜順・智儼・法蔵・澄観等これなり。又般若経へをとしつ、嘉祥・僧詮等これなり。又深密経へ墮つ。玄奘・慈恩此なり。又大日経へ堕つ、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智勝等これなり。又禅宗へ墮。達磨・慧可等是也。又観経へすかしをとす悪友は、善導・法然是也。此は第六天の魔王が智者の身に入て善人をたぼらかす也。法華経第五巻に悪鬼入其身と説れて候は是也。設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入て、法華経と申妙覚の功徳を障へ候也。何況其已下の人人にをいてをや。
又第六天の魔王或は妻子の身に入て親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入て法華経の行者ををどし、或は父母の身に入て孝養の子をせむる事あり。悉達太子は位を捨んとし給しかば羅羅はらまれてをはしませしを、浄飯王此子生れて後出家し給といさめられしかば、魔王子ををさへて六年なり。舎利弗は昔禅多羅仏と申せし仏の末世に、菩薩の行を立てて六十劫を経たりき。既に四十劫ちかづきしかば百劫にてあるべかりしを、第六天の魔王、菩薩の行成ぜん事をあぶなしとや思けん。婆羅門となりて眼を乞しかば相違なくとらせたりしかども、其より退する心出来て舎利弗は無量劫が間無間地獄に墮たりしぞかし。大荘厳仏の末の六百八十億の檀那等は、苦岸等の四比丘にたぼらかされて、大地微塵劫間無間地獄には経しぞかし。一切明仏の末の男女等は、勝意比丘と申せし持戒の僧をたのみて喜根比丘を笑てこそ、無量劫が間地獄に堕つれ。今又日蓮が弟子檀那等は此にあたれり。法華経には如来現在猶多怨嫉況滅度後。又云 一切世間多怨難信。
涅槃経云 横羅死殃呵嘖・罵辱・鞭杖・閉繋・飢餓・困苦受如是等現世軽報不堕地獄等[云云]。般泥経云 衣服不足飲食麁疎求財不利生貧賤家及邪見家 或遭王難及余種種人間苦報現世軽受斯由護法功徳力故等[云云]。文の心は、我等過去に正法を行ける者にあだをなしてありけるが、今かへりて信受すれば過去に人を障つる罪未来に大地獄に墮べきが、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば、未来の大苦をまねきこして少苦に値なり。この経文に過去の誹謗によりてやうやう(様々)の果報をうくるなかに、或は貧家に生、或は邪見の家に生、或は王難に値等[云云]。この中に邪見の家と申は誹謗正法の父母の家なり。王難等申は悪王に生あうなり。此二の大難は各々の身に当ておぼへつべし。過去の謗法の罪滅とて邪見の父母にせめられさせ給。又法華経の行者をあだむ国主にあへり。経文明々たり、経文赫々たり。我身は過去に謗法の者なりける事疑給ことなかれ。此を疑て現世の軽苦忍がたくて、慈父のせめに随て存外に法華経をすつるよしあるならば、我身地獄に墮のみならず、悲母も慈父も大阿鼻地獄墮てともにかなしまん事疑なかるべし。大道心と申はこれなり。各々随分に法華経を信ぜられつるゆへに、過去の重罪をせめいだし給て候。たとへば鉄をよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし。石はやけばはいとなる。金はやけば真金となる。此度こそまことの御信用はあらわれて、法華経の十羅刹も守護せさせ給べきにて候らめ。雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり。尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし。十羅刹心み給がために父母の身に入せ給てせめ給こともやあるらん。それにつけても心あさからん事は後悔あるべし。
又前車のくつがへすは後車のいましめぞかし。今の世にはなにとなくとも道心をこりぬべし。此世のありさま厭ともよも厭れじ。日本の人々定て大苦に値ぬと見へて候。眼前の事ぞかし。文永九年二月の十一日にさかんなりし花の大風にをるるがごとく、清絹の大火にやかるるがごとくなりしに、世をいとう人のいかでかなかるらん。文永十一年の十月ゆき・つしまふのものども一時に死人となりし事は、いかに人の上とをぼすか。当時もかのうて(打手)に向たる人々のなげき、老たるをや、をさなき子、わかき妻、めづらしかりしすみか、うちすてて、よしなき海をまほり、雲のみ(見)うればはた(旗)かと疑、つりぶねのみゆれば兵船かと肝心をけす。日に一二度山えのぼり、夜に三四度馬にくらををく。現身に修羅道をかんぜり。
各々のせめられさせ給事も、詮するところは国主の法華経のかたきとなれるゆへなり。国主のかたきとなる事は、持斉等・念仏者等・真言師等が謗法よりをこれり。今度ねうしくらして法華経の御利生心みさせ給へ。日蓮も又強盛に天に申上候なり。いよいよをづる心ねすがたをはすべからず。定て女人は心よはくをはすれば、ごぜんたちは心ひるがへりてやをはすらん。がうじやうにはがみをしてたゆむ心なかれ。例せば日蓮が平左衛門尉がもとにてうちふるまい、いゐ(言)しがごとくすこしもをづる心なかれ。わだ(和田)が子となりしもの、わかさのかみ(若狭守)が子となりしもの、将門・貞当が郎従等となりし者、仏になる道にはあらねどもはぢををもへば命をしまぬ習なり。なにとなくとも一度の死は一定なり。いろばしあしくて人にわらわれさせ給なよ。あまりにをぼつかなく候へば大事のものがたり一申。白ひ・叔せいと申せし者は、胡竹国の王の二人の太子なり。父の王弟の叔せいに位をゆづり給き。父しして後叔せい位につかざりき。白ひが云、位につき給。叔せいが云、兄に位に継給。白ひが云、いかに親の遺言をばたがへ給と申せしかば、親の遺言はさる事なれども、いかんが兄ををきては位には即べきと辞退せしかば、二人共に父母の国をすてて他国へわたりぬ。
周の文王につかへしほどに、文王殷紂王に打しかば、武王百ヶ日が内いくさををこしき。白ひ・叔せいは武王の馬の口にとりつきていさめて云、をやしして後三ヶ年が内いくさををこすはあに不孝にあらずや。武王いかりて白ひ・叔せいを打とせしかば、大公望せいして打せざりき。二人は此の王をうとみてすやう(首陽)と申山にかくれゐて、わらびををりて命をつぎしかば、麻子と申者ゆきあひて云、いかにこれにはをはするぞ、二人上件の事をかたりしかば、麻子が云、さるにてはわらびは王の物にあらずや。二人せめられて爾時よりわらびをくわず。天は賢人をすて給ぬならひなれば、天白鹿と現じて乳をもつて二人をやしなひき。叔せいが云、此白鹿の乳をのむだにもうまし、まして肉をくわんといゐしかば、白ひせいせしかども天これをききて来らず。二人うへて死ににき。一生が間賢なりし人も一言に身をほろぼすにや。各々も御心の内はしらず候へば、をぼつかなしをぼつかなし。釈迦如来は太子にてをはせし時、父の浄飯王太子ををしみたてまつりて出家をゆるし給わず。四門に二千人のつわものをすへてまほらせ給しかども、終にをやの御心をたがへて家をいでさせ給き。一切はをやに随べきにてこそ候へども、仏になる道は随ぬが孝養の本にて候か。されば心地観経には孝養の本をとかせ給には、棄恩入無為真実報恩者等[云云]。言はまことの道に入には、父母の心に随ずして家を出て仏になるが、まことの恩をほうずるにてはあるなり。世間の法にも、父母の謀反なんどををこすには随ぬが孝養とみへて候ぞかし。孝経と申す外経にみへて候。天台大師も法華経の三昧に入せ給てをはせし時は、父母左右のひざに住して仏道をさえんとし給しなり。此は天魔の父母のかたちをげんじてさうるなり。
白ひ・すくせいが因縁はさきにかき候ぬ。又第一の因縁あり。日本国の人王第十六代に王をはしき。応神天王と申。今の八幡大菩薩これなり。この王の御子二人まします。嫡子をば仁徳、次男をば宇治王子。天王次男宇治王子に位をゆづり給き。王ほうぎよならせ給て後、宇治王子云、兄位につき給べし。兄の云、いかにをやの御ゆづりをばもちゐさせ給ぬぞ。かくのごとくたがいにろむじて、三ヶ年が間位に王をはせざりき。万民のなげきいうばかりなし。天下のさい(災)にてありしほどに、宇治王子云、我いきて有ゆへにあに(兄)位に即給ずといつて死せ給にき。仁徳これをなげかせ給て、又ふししづませ給しかば、宇治王子いきかへりてやうやうにをほ(仰)せをかせ給て、又ひきいらせ給ぬ。さて仁徳位につかせ給たりしかば国をだやかなる上、しんら・はくさひ・かうらいも日本国にしたがひて、ねんぐ八十そうそなへけるとこそみへて候へ。
賢王のなかにも兄弟をだやかならぬれいもあるぞかし。いかなるちぎりにて兄弟かくはをはするぞ。浄蔵・浄眼の二人の太子の生かわりてをはするか、薬王・薬上の二人か。大夫志殿の御をやの御勘気はうけ給しかども、ひやうへの志殿の事は今度はよもあににはつかせ給わじ。さるにてはいよいよ大夫志殿のをやの御不審は、をぼろげにてはゆりじなんどをもいて候へば、このわらわ・鶴王の申候はまことにてや候らん。御同心と申候へばあまりのふしぎさに別の御文をまいらせ候。未来までのものがたりなに事かこれにすぎ候べき。
西域と申文にかきて候は、月氏に波羅斯国施鹿林と申ところに一の隠士あり。仙の法を成とをもう。すでに瓦礫を変じて宝となし、人畜の形をかえけれども、いまだ風雲にのて仙宮にはあそばざりけり。此事を成がために一の烈士をかたらひ、長刀をもたせて壇の隅に立てゝ息をかくし言をたつ。よひよりあしたにいたるまでものいわずば仙の法成ずべし。仙を求る隠士は壇の中に坐て手に長刀をとて口に神呪をずうす。約束して云、設ひ死なんとする事ありとも物言事なかれ。烈士云、死とも物いわじ。かくのごとくしてすでに夜中をすぎてよまさにあけなんとす。いかんがをもひけん。あけんとする時烈士をゝきな声をあげてよばわる。すでに仙の法成ぜず。隠士烈士に云、いかに約束をばたがうるぞ、くち惜き事也と云。烈士歎て云、少し眠てありつれば、昔し仕へし主人自来て責つれども、師の恩厚ければ忍で物いはず。彼主人怒て頸をはねんと云。然而又ものいはず。遂に頸を切つ。中陰に趣く我が屍を見れば惜く歎かし。然而物いはず。遂に南印度の婆羅門の家に生ぬ。入胎出胎するに大苦忍がたし。然而息を出さず、又物いはず。已に冠者となりて妻をとつぎぬ。又親死ぬ。又子をまうけたり。かなしくもあり、よろこばしくもあれども物いはず。如此年六十有五になりぬ。我妻かたりて云、汝若物いはずば汝がいとをしみの子を殺さんと云。時に我思はく、我已に年衰へぬ、此子を若殺されなば又子をまうけがたしと思つる程に、声をおこすとをもへばをどろきぬと云ければ、師が云、不及力、我も汝も魔にたぼらかされぬ。終に此事成ぜずと云ければ、烈士大に歎けり。我心よはくして師の仙法を成ぜずと云ければ、隠士が云、我が失也。兼て誡めざりける事をと悔ゆ。然れども烈士師の恩を報ぜざりける事を歎て、遂に思ひ死にししぬとかかれて候。
仙の法と申は漢土には儒家より出て、月氏には外道の法の一分也。云にかひ無き仏教の小乗阿含経にも不及、況や通別円をや。況や法華経に及べしや。かゝる浅事だにも成ぜんとすれば四魔競て成じがたし。何況法華経の極理南無妙法蓮華経の七字を、始て持たん日本国の弘通の始ならん人の、弟子檀那とならん人人の大難の来らん事をば、言をもて尽し難し、心をもてをしはかるべしや。
されば天台大師の摩訶止観と申文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡て五百余年、南北の十師智は日月に斉く、徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候しが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給のみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取出して、三国の一切衆生に普く与へ給へり。此法門は漢土に始るのみならず、月氏の論師までも明し給はぬ事也。然れば章安大師釈云、止観明静前代未聞[云云]。又云 天竺大論尚非其類等[云云]。其上摩訶止観の第五巻の一念三千は、今一重立入たる法門ぞかし。此法門を申には必魔出来すべし。魔競はずは正法と知るべからず。
第五巻云 行解既勤三障四魔紛然競起乃至不可随不可畏随之将人向悪道畏之妨修正法等[云云]。此釈は日蓮が身に当るのみならず、門家の明鏡也。謹て習伝て未来の資糧とせよ。此釈に三障と申は煩悩障・業障・報障也。煩悩障と申は貪・瞋・癡等によりて障礙出来すべし。業障と申は妻子等によりて障礙出来すべし。報障と申は国主父母等によりて障礙出来すべし。又四魔の中に天子魔と申も如是。今日本国に我も止観を得たり。我も止観を得たりと云人人、誰か三障四魔競へる人あるや。随之将人向悪道と申は只三悪道のみならず、人天九界を皆悪道とか(書)けり。されば法華経をのぞいて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等也。天台宗を除て余の七宗の人人は、人を悪道に向しむる獄卒也。天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて、人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒也。
今二人の人人は隠士と烈士とのごとし。一もかけなば成ずべからず。譬ば鳥の二の羽、人の両眼の如し。又二人の御前達は此人々の檀那ぞかし。女人となる事は物に随て物を随る身也。夫たのしくば妻もさかふべし。夫盜人ならば妻も盜人なるべし。是偏に今生計の事にはあらず。世世生生に影と身と、華と果と、根と葉との如くにておはするぞかし。木にすむ虫は木をは(食)む、水にある魚は水をくらふ。芝かるれば蘭なく、松さかうれば柏よろこぶ。草木すら如是。比翼と申鳥は身は一にて頭二あり。二の口より入る物一身を養ふ。ひほく(比目)と申魚は一目づつある故に一生が間はなるる事なし。夫と妻とは如是。此法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔る事なかれ。一同して夫の心をいさめば龍女が跡をつぎ、末代悪世の女人の成仏の手本と成給べし。如此おはさば設ひいかなる事ありとも、日蓮二聖二天十羅刹釈迦多宝に申て順次生に仏になしたてまつるべし。
心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文也。設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして、只法華経の事のみさはぐらせ給べし。中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが、今は前前いひをきし事既にあひぬれば、よし(由)なく謗ぜし人人も悔る心あるべし。設ひこれより後に信ずる男女ありとも、各々にはかへ(替)思ふべからず。始は信じてありしかども、世間のをそろしさにすつる人々かずをしらず。其中に返て本より謗ずる人々よりも強盛にそしる人々又あまたあり。在世にも善星比丘等は始は信てありしかども、後にすつるのみならず、返て仏をはうじ奉しゆへに、仏も叶給はず、無間地獄にをちにき。此御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候。又太夫志殿の女房・兵衛志殿の女房によくよく申きかせさせ給べし。きかせさせ給べし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。   文永十二年四月十六日   日蓮[花押]