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法蓮鈔

第一巻 定本番号 175 建治1(1275) 分類: 真蹟曽存

祖寿: 54 対告衆: 曽谷 著作地: 身延 真蹟: 身延山(曽) 京都本国寺外四ヶ所断片 

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    175   法蓮鈔
夫以法華経第四法師品云 若有悪人以不善心於一劫中現於仏前常毀罵仏 其罪尚軽。若人以一悪言毀在家出家読誦法華経者 其罪甚重等[云云]。妙楽大師云 然約此経功高理絶得作此説。余経不然等[云云]。此経文の心は一劫とは人寿八万歳ありしより百年に一歳をすて、千年に十歳をすつ。如此次第に減ずる程に人寿十歳になりぬ。此の十歳の時は当時の八十の翁のごとし。又人寿十歳より百年ありて十一歳となり、又百年ありて十二歳となり、乃至一千年あらば二十歳となるべし、乃至八万歳となる。此一減一増を一劫とは申也。又種種の劫ありといへども仮令此劫を以て申べし。此一劫が間、身口意の三業より事おこりて、仏をにくみたてまつる者あるべし。例せば提婆達多がごとし。
仏は浄飯王の太子、提婆達多は斛飯王の子也。兄弟の子息同く仏の御いとこ(従弟)にてをはせしかども、今も昔も聖人も凡夫も人の中をたがへること、女人よりして起りたる第一のあだにてはんべるなり。釈迦如来は悉達太子としてをはしし時、提婆達多も同太子なり。耶輸大臣に女あり、耶輸多羅女となづく。五天竺第一の美女、四海名誉の天女也。悉達と提婆と共に后にせん事をあらそひ給し故に中あしくならせ給ぬ。後に悉達は出家して仏とならせ給、提婆達多又須陀比丘を師として出家し給ぬ。仏は二百五十戒を持ち、三千威儀をとゝのへ給しかば、諸天人これを渇仰し、四衆これを恭敬す。提婆達多を人たと(貴)まざりしかば、いかにしてか世間の名誉仏にすぎんとはげみしほどに、とかう(左右)案いだして、仏にすぎて世間にたとまれぬべき事五あり。四分律云 一糞掃衣・二常乞食・三一座食・四常露座・五不受鹽及五味等[云云]。仏は人の施衣をうけさせ給。提婆達多は糞掃衣。仏は人の施食をうけ給。提婆は只常乞食。仏は一日に一二三反も食せさせ給。提婆は只一座食。仏は塚間樹下にも処し給。提婆は日中常露座なり。仏は便宣にはしを(鹽)復五味を服し給。提婆はしを等を服せず。かうありしかば世間提婆の仏にすぐれたる事雲泥なり。かくのごとくして仏を失たてまつらんとうかがひし程に、頻婆舎羅王は仏の檀那なり、日日に五百輛の車を数年が間一度もかかさずおくりて、仏並御弟子等を供養し奉。これをそねみとらんがために、未生怨太子をかたらて父頻婆舎羅王を殺させ、我は仏を殺さんとして或は石をもて仏を打たてまつるは身業なり。仏は誑惑の者と罵詈せしは口業なり。内心より宿世の怨とをもいしは意業なり。三業相応の大悪此にはすぐべからず。
此提婆達多ほどの大悪人、三業相応して一中劫が間、釈迦仏を罵詈打擲し嫉妬し候はん大罪はいくらほどか重候べきや。此大地は厚は十六万八千由旬なり。されば四大海の水をも、九山の土石をも、三千の草木をも、一切衆生をも頂戴して候へども、落ちもせず、かたぶかず、破ずして候ぞかし。しかれども提婆達多が身は既に五尺の人身なり。わづかに三逆罪に及しかば大地破れて地獄に入ぬ。此穴天竺にいまだ候。玄奘三蔵漢土より月支に修行して此をみる。西域記と申文に載られたり。而に法華経の末代の行者を心にもをもはず、色にもそねまず、只たわふれて(戯)のり(罵)て候が、上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫、仏を罵詈し奉にすぎて候ととかれて候。何況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもて、多年が間法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや。
問云、末代の法華経の行者を怨める者は何なる地獄に墮るや。答云 法華経第二云 見有読誦書持経者軽賤憎嫉而懐結恨。乃至其人命終入阿鼻獄。具足一劫劫尽復死展転至無数劫等[云云]。此大地の下五百由旬を過て炎魔王宮あり。其炎魔王宮より下一千五百由旬が間に、八大地獄並に一百三十六地獄あり。其中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処、八大地獄は重罪の者の住処なり。八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処。第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処也。今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈誹謗せん人人はおつべしと説給へる文なり。
法華経第四法師品云 有人求仏道而於一劫中乃至歎美持経者其福復過彼等[云云]。妙楽大師云 若悩乱者 頭破七分 有供養者福過十号等[云云]。
夫人中には転輪聖王第一也。此輪王出現し給べき前相として大海の中に優曇華と申大木生て華さき実なる。金輪王出現して四天の山海を平になす。大地は緜の如くやはらかに、大海は甘露の如くあまく、大山は金山、草木は七宝なり。此輪王須臾の間に四天下をめぐる。されば天も守護し、鬼神も来てつかへ、龍王も時に随て雨をふらす。劣夫なんどもこれに従ひ奉れば須臾に四天下をめぐる。是偏に転輪王の十善の感得せる大果報なり。毘沙門等の四大天王は又これには似るべくもなき四天下の自在の大王也。帝釈は利天の主、第六天の魔王は欲界の頂に居して三界を領す。此は上品の十善戒・無遮の大善の所感なり。大梵天王は三界の天尊、色界の頂に居して魔王・帝釈をしたがへ、三千大千界を手ににぎる。有漏の禅定を修行せる上に慈悲喜捨の四無量心を修行せる人也。
声聞と申て舎利弗・迦葉等は二百五十戒・無漏の禅定の上に苦・空・無常・無我の観をこらし、三界の見思を断尽し、水火に自在なり。故に梵王と帝釈とを眷属とせり。縁覚は声聞に似るべくもなき人なり。仏と出世をあらそふ人なり。昔猟師ありき。飢たる世に利咤と申辟支仏にひえ(稗)の飯を一盃供養し奉て、彼猟師九十一劫が間、人中天上の長者と生る。今生には阿那律と申天眼第一の御弟子也。此を妙楽大師釈云 稗飯雖軽以尽所有及田勝故得勝報等[云云]。釈の心はひえの飯は軽しといへども貴き辟支仏を供養する故に、かゝる大果報に度度生るとこそ書れて候へ。
又菩薩と申は文殊・弥勒等也。此大菩薩等は彼辟支仏に似るべからざる大人なり。仏は四十二品の無明と申闇を破る妙覚の仏なり。八月十五夜の満月のごとし。此菩薩等は四十一品の無明をつくして等覚の山の頂にのぼり、十四夜の月のごとし。
仏と申は上の諸人には百千万億倍すぐれさせ給へる大人也。仏には必三十二相あり。其相と申は梵音声・無見頂相・肉髻相・白毫相・乃至千輻輪相等也。此三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり。百福と申は、仮令大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国、乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを、本の如く一時に開たらんほどの大功徳を一の福として、此福百をかさねて候はんを以て三十二相の中の一相を成ぜり。されば此一相の功徳は三千大千世界の草木の数よりも多、四天下の雨の足よりもすぎたり。設壊劫の時僧陀と申大風ありて、須弥山を吹抜て色究竟天にあげてかへて微塵となす大風なり。然れども仏の御身の一毛をば不動。仏の御胸に大火あり。平等大慧大智光明火坑三昧と云。涅槃の時は此大火を胸より出して一身を焼給しかば、六欲四海の天神・龍衆等、仏を惜奉る故にあつまりて大雨を下し、三千の大地を水となし、須弥は流といへども此大火はきへず。
仏にはかゝる大徳ましますゆへに、阿闍世王は十六大国の悪人を集め、一四天下の外道をかたらひ、提婆を師として、無量の悪人を放て、仏弟子をのり、うち、殺害せしのみならず、賢王にてとがもなかりし父の大王を一尺の釘をもて七処までうちつけ、はつけ(磔)にし、生母をば王のかんざし(簪)をきり、刀を頭にあてし重罪のつも(積)りに悪瘡七処に出き。三七日を経て三月七日に大地破て無間地獄に墮て一劫を経べかりしかども、仏所に詣で悪瘡いゆるのみならず、無間地獄の大苦をまぬかれ、四十年の寿命延たりき。又耆婆大臣も御つかひなりしかば炎の中に入て瞻婆長者が子を取出したりき。以之思之一度も仏を供養し奉る人はいかなる悪人女人なりとも成仏得道無疑。提婆には三十相あり。二相かけたり。所謂白毫と千輻輪と也。仏に二相劣たりしかば弟子等軽思ぬべしとて、螢火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ、千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付て行ほどに足焼て大事になり、結句死せんとせしかば仏に申す。仏御手を以てなで給しかば苦痛さりき。こゝにて改悔あるべきかと思しにさはなくして、瞿曇が習ふ医師はこざかしかりけり。又術にて有など云ひしなり。かゝる敵にも仏は怨をなし給はず。何況仏を一度も信じ奉る者をば争か捨給べきや。
かゝる仏なれば木像画像にうつし奉るに、優填大王の木像は歩をなし、摩騰の画像は一切経を説給ふ。是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて、頭を低て他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ、飢て食を思がごとく、無間供養し奉る功徳よりも、戯論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃供養せん功徳は、彼三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説給て候。これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり。十号と申は仏の十の御名なり。十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝とかかれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝たる事を二十あつむる其一也。
已上、上の二の法門は仏説にては候へども心えられぬ事也。争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。而ども此を妄語といはんとすれば釈迦如来の金言を疑、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。若爾者現身に阿鼻地獄に墮べし。巌石にのぼりてあら馬を走るが如し。心肝しづかならず。又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。如何してか今度法華経に信心をとるべき。信なくして此経を行ぜんは手なくして宝山に入、足なくして千里の道を企がごとし。但近き現証を引て遠信を取べし。
仏の御歳八十の正月一日、法華経を説おはらせ給て御物語あり。阿難・弥勒・迦葉、我世に出し事は法華経を説ためなり。我既に本懐をとげぬ。今は世にありて詮なし。今三月ありて二月十五日に涅槃すべし[云云]。一切内外の人人疑をなせしかども、仏語むなしからざれば、ついに二月十五日に御涅槃ありき。されば仏の金言は実なりけるかと少し信心はとられて候。又仏記し給ふ。我滅度の後一百年と申に阿育大王と申王出現して、一閻浮提三分の一分が主となりて、八万四千の塔を立我舎利を供養すべしと[云云]。人疑申ほどに案の如くに出現して候き。是よりしてこそ信心をばとりて候つれ。又云、我滅後に四百年と申に迦貳色迦王と申大王あるべし。五百阿羅漢を集て婆沙論を造べしと。是又仏記のごとくなりき。是等をもてこそ仏の記文は信ぜられて候へ。若上に所挙二の法門妄語ならば、此一経は皆妄語なるべし。
寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説給。我等は凡夫なり。過にし方は生てより已来すらなをおぼへず。況や一生二生をや。況や五百塵点劫の事をば争信ずべきや。又舎利弗等に記して云、汝於未来世 過無量無辺 不可思議劫 乃至当得作仏号 曰華光如来[云云]。又又摩訶迦葉に記して云、於未来世 乃至 於最後身 得成為仏名 曰光明如来[云云]。此等の経文は又未来の事なれば、我等凡夫信べしともおぼへず。されば過去未来を不知凡夫此経は信じがたし。又修行しても何の詮かあるべき。是を以て思之、現在に眼前の証拠あらんずる人、此経を説かん時は信ずる人もありやせん。
今法蓮上人の送給諷誦の状云、相当慈父幽霊第十三年忌辰奉転読一乗妙法蓮華経五部等[云云]。夫教主釈尊をば大覚世尊と号たてまつる。世尊と申尊の一字を高と申。高と申一字は又孝と訓ずるなり。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊とは号し奉る。釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備へ給ふ。彼三十二相の中に無見頂相と申は、仏は丈六の御身なれども、竹杖外道も其御長をはからず、梵天も其頂を見ず、故に無見頂相と申す。是孝養第一の大人なればかゝる相を備へまします。
孝経と申に二あり。一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典。今の法華経是也。内外異なれども其意は是同。釈尊塵点劫の間修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ。孝養の事也。然るに六道四生の一切衆生は皆父母也。孝養おへざりしかば仏にならせ給はず。今法華経と申は一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。所謂地獄の一人・餓鬼の一人乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことはり(理)顕る。譬ば竹の節を一破ぬれば余の節亦た破るるが如し。囲碁と申あそびにしちやう(四丁)と云事あり。一石死ぬれば多の石死ぬ。法華経も又如此。金と申ものは木草を失用を備へ、水は一切の火をけす徳あり。法華経も又一切衆生を仏になす用おはします。六道四生の衆生に男女あり。此男女は皆我等が先生の父母なり。一人ももれ(漏)ば仏になるべからず。故に二乗をば不知恩の者と定て永不成仏と説せ給。孝養の心あまねからざる故也。仏は法華経をさとらせ給て、六道四生の父母孝養の功徳を身に備へ給へり。此仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給。例せば悲母の食物の乳となりて赤子を養が如し。
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 等[云云]。教主釈尊は此功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給。赤子の水火をわきまへず、毒薬を知ざれども、乳を含めば身命をつぐが如し。阿含経を習事は舎利弗等の如くならざれども、華厳経をさとる事解脱月等の如くならざれども、乃至一代聖教を胸に浮たる事文殊の如くならざれども、一字一句をも聞之人仏にならざるはなし。彼の五千の上慢は聞てさとらず、不信人也。然ども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき。若信若不信則生不動国と涅槃経に説るるは此人の事也。法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞つるが不思議にて仏になるなり。所謂七歩蛇に食れたる人一歩乃至七歩をすぎず。毒の用の不思議にて八歩をすごさぬなり。又胎内の子の七日の如し。必七日の内に転じて余の形となる。八日をすごさず。
今法蓮上人も又如此。教主釈尊の御功徳御身に入かはらせ給ぬ。法蓮上人の御身は過去聖霊の御容貌を残しおかれたるなり。たとへば種の苗となり、華の菓となるが如し。其華は落て菓はあり、種はかくれて苗は現に見ゆ。法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり。松さかふれば柏よろこぶ。芝かるれば蘭なく。情なき草木すら如此。何況情あらんをや。又父子の契をや。
彼諷誦云 従慈父閉眼之朝至于第十三年之忌辰於釈迦如来之御前自奉読誦自我偈一巻回向聖霊等[云云]。当時日本国の人、仏法を信じたるやうには見へて候へども、古いまだ仏法のわたらざりし時は、仏と申事も法と申事も知らず候しを、守屋と上宮太子と合戦の後、信ずる人もあり又不信もあり。漢土も如此。摩騰、漢土に入て後、道士と諍論あり。道士まけしかば始て信ずる人もありしかども、不信の人多し。
されば烏龍と申せし能書は手跡の上手なりしかば人用之。然れども於仏経いかなる依怙ありしかども不書。最後臨終の時、子息遺龍を召云、汝我家に生れて芸能をつぐ。我孝養には仏経を書べからず。殊に法華経を書事なかれ。我本師の老子は天尊なり。天に二日なし。而に彼経に唯我一人と説。きくわい(奇恠)第一なり。若遺言を違へて書程ならば、忽に悪霊となりて命を断べしと云て、舌八にさけて、頭七分に破、五根より血を吐て死し畢ぬ。されども其子善悪をへざれば、我父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕たりともしらず。遺言にまかせて仏経を書事なし。況口に誦する事あらんをや。かく過行程に、時の王を司馬氏と号し奉る。御仏事のありしに、書写の経あるべしとて、漢土第一の能書を尋らるるに遺龍に定りぬ。召て仰せ付らるるに再三辞退申しかば、力及ばずして他筆にて一部の経を書せられけるが、帝王心よからず。尚遺龍を召て仰に云、汝親の遺言とて不書朕経事雖無其謂且免之。但題目計は書べしと三度敕定あり。遺龍猶辞退申す。大王龍顔心よからずして云、天地尚王の進退也。然ば汝が親は即我家人にあらずや。私をもて公事を軽ずる事あるべからず。題目計は書べし。若不然者仏事の庭なりといへども速に汝が頭を刎べしとありければ、題目計書けり。所謂 妙法蓮華経巻第一 乃至巻第八等[云云]。
其暮に私宅に帰て歎云、我親の遺言を背き、王敕術なき故に、仏経を書て不孝の者となりぬ。天神も地祇も定て瞋、不孝の者とおぼすらんとて寝る。夜の夢中に大光明出現せり。朝日の照すかと思へば天人一人庭上に立給へり。又無量の眷属あり。此天人の頂上の虚空に仏、六十四仏まします。遺龍合掌して問云、如何なる天人ぞや。答云、我は是汝が父の烏龍なり。謗仏法故に舌八にさけ、五根より血を出し、頭七分に破れて無間地獄に墮ぬ。彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに、無間の苦は尚百千億倍なり。人間にして鈍刀をもて爪をはなち、鋸をもて頸をきられ、炭火の上を歩ばせ、棘にこめられなんどせし人の苦を、此苦にたとへばかずならず。如何してか我子に告んと思しかどもかなはず。臨終の時、汝を誡て仏経を書ことなかれと遺言せし事のくやしさ申ばかりなし。後悔先にたたず、我身を恨み舌をせめしかどもかひなかりしに、昨日の朝より法華経の始の妙の一字、無間地獄のかなへ(鼎)の上に飛来て変じて金色釈迦仏となる。此仏三十二相を具し面貌満月の如し。大音声を出して説云、仮使遍法界 断善諸衆生 一聞法華経 決定成菩提[云云]。此文字の中より大雨降て無間地獄の炎をけす。閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ、獄卒は杖をすてて立てり。一切の罪人はいかなる事ぞとあはてたり。又法の一字来れり。如前。又蓮、又華、又経如此。六十四字来て六十四仏となりぬ。無間地獄に仏六十四体ましませば、日月の六十四、天に出たるがごとし。天より甘露をくだして罪人に与ふ。
抑此等の大善は何なる事ぞと、罪人等仏に問奉しかば、六十四仏答云、我等が金色の身は栴檀宝山よりも出現せず。是は無間地獄にある烏龍が子の遺龍が書る法華経八巻の題目八八六十四の文字なり。彼遺龍が手は烏龍が生める処の身分也。書ける文字は烏龍が書にてあるなりと説給しかば、無間地獄の罪人等は我等も娑婆にありし時は、子もあり婦もあり眷属もありき。いかにとぶらはぬやらん。又訪へども善根の用の弱して来らぬやらんと歎ども歎ども甲斐なし。或は一日二日・一年二年・半劫一劫になりぬるに、かゝる善知識にあひ奉て助られぬるとて、我等も眷属となりて利天にのぼるか。先汝をおがまんとて来なりとかたりしかば、夢の中にうれしさ身にあまりぬ。別て後又いつの世にか見んと思し親のすがたをも見奉り、仏をも拝し奉りぬ。六十四仏の物語に云、我等は別の主なし。汝は我等が檀那なり。今日よりは汝を親と守護すべし。汝をこたる事なかれ。一期の後は必来て都率の内院へ導べしと御約束ありしかば、遺龍ことに畏て誓て云、今日以後不可書外典文字等[云云]。彼世親菩薩が小乗経を誦せじと誓、日蓮が弥陀念仏を申さじと願せしがごとし。さて夢さめて此由を王に申す。大王の敕宣云。此仏事已に成じぬ。此由を願文に書奉れとありしかば敕宣の如し。さてこそ漢土日本国は法華経にはならせ給けれ。此状は漢土の法華伝記に候。是書写の功徳なり。五種法師の中には書写は最下の功徳なり。何況読誦なんど申は無量無辺の功徳なり。今の施主十三年の間、毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏乃能究尽なるべし。
夫法華経は一代聖教の骨髓なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申べからず。次下に分別功徳品に載られたり。此自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候へ。其上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。涅槃経四十巻の中に集て候し五十二類にも、自我偈の功徳をこそ仏は重て説せ給しか。されば初寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩天人等雲の如くに集て候し、大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も、過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五塵点を経しかども、今度釈迦仏に値奉て法華経の功徳すゝむ故に霊山をまたずして、爾前の経経を縁として得道なると見えたり。されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給。世界の人の父母の如し。今法華経寿量品を持人は諸仏の命を続人也。我得道なりし経を持人を捨給仏あるべしや。若此を捨給はば仏還て我身を捨給なるべし。これを以て思に、田村・利仁なんどの様なる兵を三千人生たらん女人あるべし。此女人を敵とせん人は此三千人の将軍をかたきにうくるにあらずや。法華経の自我偈を持人を敵とせんは三世諸仏を敵とするになるべし。
今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとへば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各別也。此法華経の文字は盲目の者は不見之。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種種の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文云、若有能持 則持仏身等[云云]。天台云 稽首妙法蓮華経 一帙八軸四七品 六万九千三八四 一一文文是真仏 真仏説法利衆生等と書れて候。
以之案之 法蓮法師は毎朝口より金色文字を出現す。此文字の数は五百十字也。一一の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放て大地をつきとをし、三悪道無間大城を照し、乃至東西南北、上方に向ては非想非非想へものぼり、いかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋行給て、彼聖霊に語給らん。我をば誰とか思食す。我は是汝が子息法蓮が毎朝所誦法華経の自我偈の文字なり。此文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならんとこそ、ねんごろに語せ給らめ。其時過去聖霊は我子息法蓮は子にはあらず善知識なりとて、娑婆世界に向ておがませ給らん。是こそ実の孝養にては候なれ。
抑法華経を持と申は経は一なれども持事は時に随て色色なるべし。或は身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり。又身を牀として師に供養し、又身を薪となし、又此経のために杖木をかほり、又精進し、又持戒し、上の如くすれども仏にならぬ時もあり。依時不定なるべし。されば天台大師は適時而已と書れ、章安大師は取捨得宜、不可一向等[云云]。
問云、何なる時か身肉を供養し、何なる時か持戒なるべき。答云、智者と申は如此時を知て法華経を弘通するが第一の秘事なり。たとへば渇者は水こそ用事なれ。弓箭兵杖はよしなし。裸なる者は衣を求む。水は用なし。一をもて万を察すべし。大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし。余の衣食は詮なし。悪王あて法華経を失ば身命をほろぼすとも随べからず。持戒精進の大僧等法華経を弘通するやうにて而も失ならば是を知て責べし。法華経云 我不愛身命 但惜無上道[云云]。涅槃経云 寧喪身命終不匿王所説言教等[云云]。章安大師云 寧喪身命不匿教者身軽法重死身弘法等[云云]。
然に今日蓮は外見の如ば日本第一の僻人也。我朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆上下万人に怨まる。仏法日本国に渡て七百余年、いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし。月氏・漢土にもありともきこえず。又あるべしともおぼへず。されば一閻浮提第一の僻人ぞかし。かゝるものなれば、上には一朝の威を恐れ、下には万民の嘲を顧て、親類もとぶらはず、外人は申に及ばず。出世の恩のみならず、世間の恩を蒙し人も、諸人の眼を恐て口をふさがんためにや、心に思はねどもそしるよしをなす。数度事にあひ、両度御勘気を蒙りしかば、我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも、或は御勘気、或は所領をめされ、或は御内を出され、或は父母兄弟に捨らる。されば付し人も捨はてぬ。今又付人もなし。
殊に今度の御勘気には死罪に及べきが、いかが思はれけん佐渡の国につかはされしかば、彼国へ趣者は死は多、生は希なり。からくして行つきたりしかば、殺害謀叛の者よりも猶重く思はれたり。鎌倉を出しより日日に強敵かさなるが如し。ありとある人は念仏の持者也。野を行き山を行にも、そば(岨)ひら(坦)の草木の風に随てそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ。やうやく国にも付ぬ。北国の習なれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも、身の上につみしられたり。栖にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、雨もり壁は風もたまらぬ傍に、昼夜耳に聞者はまくらにさゆる風の音、朝暮に眼に遮る者は、遠近の路を埋む雪也。現身に餓鬼道を経、寒地獄に墮ぬ。彼蘇武が十九年之間胡国に留られて雪を食し、李陵が巌窟に入て六年蓑をきてすごしけるも我身の上なりき。今適御勘気ゆりたれども、鎌倉中にも且も身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま、松の下に身を隠し心を静れども、大地を食とし、草木を著ざらんより外は、食もなく衣も絶ぬる処に、いかなる御心ねにてかくかきわけ(掻分)て御訪のあるやらん。不知、過去の我父母の御神の御身に入かはらせ給か。又不知、大覚世尊の御めぐみにやあるらん。涙おさへがたく候へ。
問云、抑正嘉の大地震・文永の大彗星を見て、自他の叛逆我朝に法華経を失故としらせ給ゆへ如何。答云、此二の天災地夭は外典三千余巻にも載られず。三墳・五典・史記等に記する処の大長星・大地震は或は一尺・二尺・一丈・二丈・五丈・六丈也。いまだ一天には見へず。地震も又如是。内典を以て勘之、仏御入滅已後はかゝる大瑞出来せず。月支には弗沙密多羅王の五天の仏法を亡し、十六大国の寺塔を焼払、僧尼の頭をはねし時もかゝる瑞はなし。漢土には会昌天子の寺院四千六百余所をとどめ、僧尼二十六万五百人を還俗せさせし時も出現せず。我朝には欽明の御宇に仏法渡て守屋仏法に敵せしにも、清盛法師七大寺を焼失、山僧等園城寺を焼亡せしにも、出現せざる大彗星也。当知、自是大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘て、立正安国論を造て最明寺入道殿に奉る。彼状云、[取詮]此大瑞は他国より此国をほろぼすべき先兆也。禅宗念仏宗等が法華経を失故也。彼法師原が頸をきりて鎌倉ゆゐ(由比)の浜にすてずば国当に亡ぶべし。其後文永の大彗星の時は又手ににぎりて知之。去文永八年九月十二日の御勘気の時、重て申て云、予は日本国の棟梁なり。我を失は国を失なるべしと。今は用まじけれども後のためにとて出にき。又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比かよせ候べきと問に、答云、経文は月日をささず、但天眼のいかり頻なり、今年をばすぐべからずと申たりき。是等は如何として可知人可疑。予不肖の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民怨之間、法華経の座にて守護せんと誓をなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出て此国をおどす。いかに諫むれども用ざれば、結句は人の身に入て自界叛逆せしめ、他国より責べし。
問云、此事何なる証拠あるや。答、経云 由愛敬悪人治罰善人故星宿及風雨皆不以時行等[云云]。夫天地は国の明鏡也。今此国に天災地夭あり。可知国主に失ありと云事を。鏡にうかべたれば不可諍之。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当知大禍ありと云事を。仁王経には小難は無量なり、中難は二十九、大難七とあり。此経をば一には仁王と名け、二には天地鏡と名く。此国土を天地鏡に移して見に明白也。又此経文云 聖人去時七難必起等[云云]。当知此国に有大聖人。又可知彼聖人を国主不信云事を。
問云、先代に仏寺を失ひし時何此瑞なきや。答云、瑞は失の軽重によりて大小あり。此度の瑞は怪むべし。一度二度にあらず。一返二返にあらず、年月をふるまゝに弥盛也。以之可察之、先代の失よりも過たる国主に失あり。国主の身にて万民を殺し、又万臣を殺し、又父母を殺す失よりも聖人を怨む事彼に過る事を。今日本国の王臣並に万民には、月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後二千二百二十余年之間、いまだなき大科、人ごとにあるなり。譬ば十方世界の五逆の者を一処に集たるが如し。此国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利が魂を移し、国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身也。一切の臣民は雨行大臣・月称大臣・刹陀耆利等の悪人をあつめて日本国の民となせり。古は二人三人逆罪不孝の者ありしかばこそ、其人の在所は大地も破て入ぬれ。今は此国に充満せる故に日本国の大地一時にわれ、無間に墮入ざらん外は一人二人の住所の墮べきやうなし。例せば老人の一二の白毛をば抜ども、老耄の時は皆白毛なれば何を分て抜捨べき。只一度に剃捨る如也。
問云、如汝義者我法華経の行者なるを用ざるが故に天変地夭等ありと。法華経第八云 頭破作七分。第五云 若人悪罵 口則閉塞等[云云]。如何ぞ数年が間罵とも怨とも其義なきや。答、反詰云 不軽菩薩を毀し罵詈し打擲せし人は口閉頭破ありけるか如何。問、然者経文に相違する事如何。答、法華経を怨む人に二人あり。一人は先生に善根ありて、今生に縁を求て菩提心を発して、仏になるべき者は或は口閉、或は頭破。一人は先生に謗人也。今生にも謗じ、生生に無間地獄の業を成就せる者あり。是はのれども口則閉塞せず。譬ば獄に入て死罪に定る者は、獄の中にて何なる僻事あれども、死罪を行までにて別の失なし。ゆり(免)ぬべき者は獄中にて僻事あればこれをいましむるが如し。問云、此事第一の大事也。委細に可承。答云 涅槃経云 法華経云[云云]。    日蓮[花押]