聖密房御書
148 聖密房御書
大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義云、大日経の理と法華経の理とは同事なり。但印と真言とが法華経は劣なりと立たり。
良諝和尚・広修・維蠲なんど申人は大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばず、但方等部の経なるべし。
日本の弘法大師云、法華経は猶華厳経等に劣れり。まして大日経には及べからず等[云云]。又云、法華経は釈迦の説、大日経は大日如来の説、教主既にことなり。又釈迦如来は大日如来の御使として顕教をとき給。これは密教の初門なるべし。或云、法華経の肝心寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども、密教に対すれば具縛の凡夫なりと[云云]。
日蓮勘云、大日経は新訳の経、唐玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る。法華経は旧訳の経、後秦の御宇に羅什三蔵もて来る。其中間三百余年なり。法華経亘て後、百余年を経て天台智者大師、教門には五時四教を立てて、上五百余年の学者の教相をやぶり、観門には一念三千の法門をさとりて、始て法華経の理を得たり。
天台大師已前の三論宗、已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず。一念三千の法門をば立べきやうなし。
華厳宗は天台已前には南北の諸師、華厳経は法華経に勝たりとは申けれども、華厳宗の名は候はず。唐の代に高宗の后則天皇后と申人の御時、法蔵法師・澄観なんど申人、華厳宗の名を立たり。此宗は教相に五教を立、観門には十玄六相なんど申法門なり。をびただしきやうにみへたりしかども、澄観は天台をは(破)するやうにて、なを天台の一念三千の法門をかり(借)とりて、我経の心如工画師の文の心とす。これは華厳宗は天台に落たりというべきか。又一念三千の法門を盜とりたりというべきか。澄観は持戒の人、大小の戒を一塵をもやぶらざれども、一念三千の法門をばぬすみとれり。よくよく口伝あるべし。
真言宗の名は天竺にありやいな(否)や。大なる不審なるべし。但真言経にてありけるを、善無畏等の宗の名を漢土にして付たりけるか。よくよくしるべし。就中、善無畏等、法華経と大日経との勝劣をはん(判)ずるに、理同事勝の釈をばつくりて、一念三千の理は法華経大日経これ同じなんどいへども、印と真言とが法華経には無れば事法は大日経に劣れり。事相かけぬれば事理倶密もなしと存ぜり。
今日本国及諸宗の学者等、並にこと(殊)に用べからざる天台宗、共にこの義をゆるせり。例せば諸宗の人人をばそねめども、一同に弥陀の名をとなへて、自宗の本尊をすてたるがごとし。天台宗の人人は一同に真言宗に落たる者なり。
日蓮理のゆくところを不審して云、善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同く事は勝たりと立は、天台大師の始て立給へる一念三千の理を、今大日経にとり入て同と自由に判ずる條、ゆるさるべしや。例せば先に人丸がほのぼのとあかし(明石)のうらのあさぎりにしまかくれゆくふねをしぞをもうとよめるを、紀のしくばう(淑望)源のしたがう(順)なんどが判云、此歌はうたの父うたの母等[云云]。今の人我うたよめりと申て、ほのぼのと乃至船をしぞをもう、と一字をもたがへずよみて、我が才は人丸にをとらずと申をば、人これを用べしや。やまかつ(山賤)海人なんどは用事もありなん。天台大師の始て立給へる一念三千の法門は仏の父仏の母なるべし。百余年已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて、大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申は一念三千なり、とかけるをば智慧かしこき人は用べしや。
事勝と申は印真言なし、なんど申は天竺の大日経・法華経の勝劣か、漢土の法華経・大日経の勝劣か。不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印真言をそへて訳せり。仁王経にも羅什の訳には印真言なし。不空の訳の仁王経には印真言これあり。此等の天竺の経経には無量の事あれども、月支漢土国をへだててとをく、ことごとくもちて来がたければ、経を略するなるべし。
法華経には印・真言なけれども二乗作仏劫国名号・久遠実成と申きぼ(規模)の事あり。大日経等には印真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし。二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり。四十余年の経経には二乗は敗種の人と一字二字ならず無量無辺の経経に嫌はれ、法華経にはこれを破して二乗作仏を宣たり。いづれの経経にか印・真言を嫌ことばあるや。その言なければ又大日経にも其名を嫌はず但印・真言をとけり。印と申は手の用なり。手仏にならずば手の印、仏になるべしや。真言と申は口の用なり。口仏にならずば口の真言仏になるべしや。二乗の三業は法華経に値たてまつらずば、無量劫、千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず。勝たる二乗作仏の事法をばとかずと申て、劣る印・真言をとける事法をば勝たりと申は、理によれば盜人なり、事によれば劣謂勝見の外道なり。此失によりて閻魔の責をばかほりし人なり。後にくい(悔)かへして、天台大師を仰で法華にうつりて、悪道をば脱しなり。
久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず。久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし、夜の露の日輪の出ざる程なるべし。天台宗の人人この事を弁へずして、真言師にたぼらかされたり。真言師は又自宗の誤をしらず、いたづらに悪道の邪念をつみをく。
空海和尚は此理を弁へざる上華厳宗のすでにやぶられし邪義を借とりて、法華経は猶華厳経にをとれりと僻見せり。亀毛の長短、兎角の有無。亀の甲には毛なし、なんぞ長短をあらそい、兎の頭には角なし、なんの有無を論ぜん。理同と申人いまだ閻魔のせめを脱れず。大日経に劣る、華厳経に猶劣、と申人謗法を脱べしや。人はかはれども其謗法の義同かるべし。弘法第一の御弟子かきのもと(柿本)き(紀)の僧正紺青鬼となりし、これをもてしるべし。空海悔改なくば悪道疑べしともをぼへず。其流をうけたる人人又いかん。
問云、わ法師一人此悪言をはく如何。答云、日蓮は此人人を難ずるにはあらず。但不審する計なり。いかり(怒)おぼせば、さでをはしませ。外道の法門は一千年八百年、五天にはびこりて、輪王より万民かうべ(頭)をかたぶけたりしかども、九十五種共に仏にやぶられたりき。摂論師が邪義、百余年なりしもやぶれき。南北の三百余年の邪見もやぶれき。日本二百六十余年の六宗の義もやぶれき。其上此事は伝教大師の或書の中にやぶられて候を申なり。
日本国は大乗に五宗あり。法相・三論・華厳・真言・天台。小乗に三宗あり。倶舎・成実・律宗なり。真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども、くわしく論ずれば皆小乗なり。宗と申は戒定慧の三学を備たる物なり。其中に定慧はさてをきぬ。戒をもて大小のぼうじ(牓示)をうちわかつものなり。東寺真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに、東大寺に入て小乗律宗の驢乳臭糞の戒を持つ。戒を用て論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし。比叡山には天台宗・真言宗の二宗、伝教大師習つたへ給たりしかども、天台円頓円定・円慧・円戒の戒壇立べきよし申させ給しゆへに、天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして、天台法華宗の止観・真言とあそばして、公家へまいらせ給き。伝教より慈覚たまはらせ給し誓戒の文には、天台法華宗の止観・真言と正くのせられて、真言宗の名をけづられたり。天台法華宗は仏立宗と申て仏より立られて候。真言宗の真言は当分の宗、論師人師始て宗の名をたてたり。而を、事を大日如来・弥勒菩薩等によせたるなり。仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし。
小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども、但所詮の理は無常の一理なり。法相宗は唯心有境。大乗宗無量の宗ありとも、所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり。三論宗は唯心無境。無量の宗ありとも、所詮唯心無境ならば但一宗なり。此は大乗の空有の一分歟。華厳宗・真言宗あがらば但中、くだらば大乗の空有なるべし。経文の説相は猶華厳・般若にも及ばず。但しよき人とをぼしき人人の多信たるあいだ、下女を王のあい(愛)するににたり。大日経等は下女のごとし。理は但中にすぎず。論師・人師は王のごとし。人のあいするによていばう(威望)があるなるべし。
上の問答等は当時は世すえになりて、人の智浅慢心高ゆへに、用る事はなくとも、聖人・賢人なんども出たらん時は子細もやあらんずらん。不便にをもひまいらすれば目安に注せり。御ひまにはならはせ給べし。 これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉せ給べし。 日蓮[花押] 聖密房遣之