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南條兵衛七郎殿御書

第一巻 定本番号 38 文永1(1264) 分類: 真蹟断片現存

祖寿: 43 著作地: 安房 真蹟: 若狭 長源寺 外十ヶ所 写本: 日興筆 北山 本門寺藏

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    38  南條兵衛七郎殿御書
御所労之由承候はまことにてや候覧。世間の定なき事は病なき人も留がたき事に候へば、まして病あらん人は申におよばず。但心あらん人は後世をこそ思さだむべきにて候へ。
又後世を思定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。
而るに仏の教へ又まちまちなり。人の心の不定なるゆへ歟。しかれども釈尊の説教五十年にはすぎず。
さき四十余年の間の法門に、華厳経には心仏及衆生是三無差別、阿含経には苦空無常無我、大集経は染浄融通、大品経には混同無二、双観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽。此等の説教はみな正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそとかれはんべり候けめ。
而ども仏いかんがおぼしけん、無量義経に以方便力四十余年未顕真実ととかれて、先四十余年の往生極楽等の一切経は親の先判のごとくくひかえされて、
過無量無辺不可思議阿僧祇劫終不得成無上菩提といゐきらせ給て、法華経の方便品に重て正直捨方便但説無上道ととかせ給り。方便をすてよととかれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよととかれて候。
かうたしかにくいかえして実義をさだむるには、世尊法久後要当説真実久黙斯要不務速説等とさだめられしかば、多宝仏大地よりわきいでさせ給て、この事真実なりと証明をくわへ、十方の諸仏八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給き。
二処三会、二界八番の衆生一人もなくこれをみ候き。此等の文をみ候に、仏教を信ぜぬ悪人外道はさておき候ぬ。
仏教の中に入候ても爾前権教念仏等を厚く信て、十遍・百遍・千遍・一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人人は、先判に付て後判をもちゐぬ者にては候まじきか。
此等は仏説を信たりげには我身も人も思たりげに候へども、仏説の如くならば不孝の者也。故に法華経の第二云今此三界皆是我有。其中衆生悉是吾子。而今此処多諸患難。唯我一人能為救護。雖復教詔而不信受等〔云云〕。
此文の心は釈迦如来は我等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。
親も親にこそよれ、釈尊ほどの親。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰をそむかんもの、天神地祇にすてられたてまつらざらんや。不孝第一の者也。故に雖復教詔而不信受等と説れたり。
たとひ爾前の経につかせ給て、百千万億劫行ぜさせ給とも、法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずは、不孝の人たる故に三世十方の聖衆にもすてられ、天神地祇にもあだまれ給はん歟[是一]。
たとひ五逆十悪無量の悪をつくれる人も、根だにも利なれば得道なる事これあり。提婆達多・鴦崛摩羅等これなり。たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり。須利槃特等是也。
我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ、物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし。貪瞋癡きわめてあつく、十悪は日日にをかし、五逆をばおかさざれども五逆に似たる罪又日日におかす。又十悪五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり。
させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもちゐず。又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず。信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。
いかなる大善をつくり、法華経を千万部読書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。
たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏もせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還てとがに行はれんが如し。当世の人人は謗法の者としろしめすべし[是二]。
仏入滅の次日より千年をば正法と申。持戒の人多得道の人これあり。正法千年の後は像法千年也。破戒者は多得道すくなし。像法千年の後は末法万年。持戒もなし破戒もなし、無戒者のみ国に充満せん。而も濁世と申てみだれたる世也。
清世と申てすめる世には、直縄のまがれる木をけづらするやうに、非をすて是を用る也。正像より五濁やうやういできたりて、末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波ををこしてきしをうつのみならず、又波と波とをうつ也。
見濁と申は正像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一をつたへて無量の正法をやぶり、世間の罪にて悪道におつるものよりも、仏法を以て悪道に堕もの多とみへはんべり。
しかるに当世は正像二千年すぎて末法に入て二百余年、見濁さかりにして、悪よりも善根にて多悪道に堕べき時刻也。悪は愚癡の人も悪としればしたがわぬへんもあり。火を水を用てけすがごとし。善は但善と思ほどに、小善に付て大悪のをこる事をしらず。所以伝教慈覚等の聖跡あり。
すたれあばるれども念仏堂にあらずといゐてすてをきて、そのかたわらにあたらしく念仏堂をつくり、かの寄進の田畠をとりて念仏堂によす。此等は像法決疑経の文のごとくならば、功徳すくなしと見へはんべり。此等をもちてしるべし。
善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕なるべし。今の世は末法のはじめなり。小乗経の機・権大乗経の機みなうせはててたゝ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。
悪人愚者は大石のごとし。小乗経並権大乗経念仏等は小船也。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬田を作が如し。時があはざる也[是三]。
国をしるべし。国に随て人の心不定也。たとへば江南の橘の淮北にうつされてからたちとなる。心なき草木すらところによる。まして心あらんもの何ぞ所によらざらん。
されば玄奘三蔵の西域と申文に天竺の国々を多記したるに、国の習として不孝なる国もあり、孝の心ある国もあり。瞋恚のさかんなる国もあり、愚癡の多き国もあり。
一向に小乗を用る国もあり、一向大乗を用る国もあり。大小兼学する国もありと見へ侍り。又一向に殺生の国、一向に偸盜の国、又穀の多き国、又粟等の多き国不定也。
抑日本国はいかなる教を習てか生死を離べき国ぞと勘たるに、法華経云於如来滅後閻浮提内広令流布使不断絶等〔云云〕。此文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経也。
弥勒菩薩云東方有小国唯有大機等〔云云〕。此論の文如きは、閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機ある歟。肇公記云茲典有縁東北小国等〔云云〕。法華経は東北の国に縁ありとかゝれたり。
安然和尚云我日本国皆信大乗等〔云云〕。慧心一乗要決云日本一州円機純一等〔云云〕。釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心先徳等の心ならば、日本国は純に法華経の機也。一句一偈なりとも行ぜば必得道なるべし。有縁の法なるが故也。
たとへばくろかねを磁石のすうが如し、方諸の水をまねくににたり。念仏等の余善は無縁の国也。磁石のかねをすわず、方諸の水をまねかざるが如し。故に安然釈云如非実乗者恐欺自他等〔云云〕。
此釈の心は、日本国の人に法華経にてなき法をさづくるもの、我身をもあざむき人をもあざむく者と見たり。されば法は必国をかんがみて弘べし。彼国によかりし法なれば必此国にもよかるべしとは思べからす[是四]。
又仏法流布国においても前後を勘べし。仏法を弘る習、必さきに弘ける法の様を知べき也。例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したる薬の様を知べし。薬と薬とがゆき合てあらそひをなし、人をそんずる事あり。仏法と仏法とがゆき合てあらそひをなして、人を損ずる事のある也。
さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもつてこれをやぶるべし。仏の印度にいでて外道をやぶり、まとうか・ぢくほうらんの震旦に来て道士をせめ、上宮太子和国に生て守屋をきりしが如し。仏教においても、小乗の弘まれる国をば大乗経をもつてやぶるべし。
無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し。権大乗の弘まれる国をば実大乗をもつてこれをやぶるべし。天台智者大師の南三北七をやぶりしが如し。
而に日本国は天台真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆皆法華経の機と定りぬ。善人悪人・有智無智、皆五十展転の功徳をそなふ。たとへば崑崙山に石なく、蓬莱山に毒なきが如し。
而を此五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似石をもつて珠を投させ石をとらせたる也。止観五云、瓦礫を貴て明珠なりと申は是也。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。
念仏を申て法華経をすてたる是也。此事ば申せば還てはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をます也[是五]。
但とのは、このぎをきこしめして、念仏をすて法華経にならせ給てはべりしが、定てかへりて念仏者にぞならせ給てはべるらん。法華経をすてゝ念仏者とならせ給はんは、峰の石の谷へころび、空の雨の地におつるとおぼせ。大阿鼻地獄疑なし。
大通結縁の者の三千塵点劫を、久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあいて法華経をすてて念仏等の権教にうつりし故也。一家の人々念仏者にてましましげに候しかば、さだめて念仏をぞすゝめまいらせ給候らん。
我信たる事なればそれも道理にては候へども、悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々也とおぼして、大信心を起御用あるべからす。大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後世をばさうるなり。
いかに申とも、法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用あるべからす。まづ御きやうさく(景迹)あるべし。念仏実に往生すべき証文つよくば、此十二年が間念仏者無間地獄と申をば、いかなるところへ申いだしてもつめずして候べき歟。よくよくゆはき事也。
法然善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候き。このごろの人の申もこれにすぎず。結句は法門はかなわずして、よせてたゝかいにし候也。
念仏者は数千万、かたうど多候也。日蓮は唯一人、かたうどは一人もこれなし。今までもいきて候はふかしぎ也。今年も十一月十一日、安房国東條松原と申大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものはわづかに三四人也。
いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打れ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ。
第四巻云而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後。第五巻云一切世間多怨難信等〔云云〕。日本国に法華経よみ学する人これ多。人のめ(妻)をねらひ、ぬすみ等にて打はらるゝ人は多けれども、法華経の故にあやまたるゝ人は一人なし。
されば日本国の持経者はいまだ此経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。我不愛身命但惜無上道是也。
されば日蓮は日本第一の法華経の行者也。もしさきにたゝせ給はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給べし、日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子也、となのらせ給へ。よもはうしん(芳心)なき事は候はじ。
但一度は念仏一度は法華経となへつ、二心ましまし、人の聞にはばかりなんどだにも候はば、よも日蓮が弟子と申とも御用ゐ候はじ。後にうらみさせ給な。但又法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給候はば、あはれとくとく見参して、みづから申ひらかばや。
語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候ぬ。恐恐謹言。  文永元年十二月十三日   日蓮  [花押]  なんでうの七郎殿