上野殿後家尼御返事
39 上野殿後家尼御返事
御供養物種種給畢。抑上野殿死去の後はをとづれ冥途より候やらん。きかまほしくをぼへ候。ただし、あるべしともをぼへず。
もし夢にあらずんばすがたをみる事よもあらじ。まぼろしにあらずんばみゝえ給事いかが候はん。さだめて霊山浄土にてさば(娑婆)の事をばちうや(昼夜)にきき、御覧じ候らむ。妻子等は肉眼なればみ(見)させ、きか(聞)せ給事なし。ついには一所とをぼしめせ。
生生世世の間、ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりもをゝくこそをはしまし候けん。今度のちぎりこそ、まことのちぎりのをとこ(夫)よ。そのゆへは、をとこのすゝめによりて法華経の行者とならせ給へば、仏とをがませ給べし。
いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏。生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり。法華経第四云若有能持即持仏身〔云云〕。
夫浄土と云も地獄と云も外には候はず。ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ。
たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば、ただいつも地獄なるべし。此事日蓮が申にはあらず。釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏定をき給也。
されば権教を修行する人は、火にやくるもの又火の中へいり、水にしづむものなをふち(淵)のそこへ入るがごとし。法華経をたもたざる人は、火と水との中にいたるがごとし。
法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経・大日経等を信じ給は、なを火火の中、水水のそこへ入がごとし。いかでか苦患をまぬかるべきや。
等活・黒縄・無間地獄の火坑、紅蓮大紅蓮の氷の底に入、しづみ給はん事疑なかるべし。法華経第二云其人命終入阿鼻獄如是展転至無数劫〔云云〕。故聖霊は此苦をまぬかれ給。すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。
経云設入大火火不能焼。若為大水所漂称其名号即得浅処。又云火不能焼水不能漂〔云云〕あらたのもしやたのもしや。詮するところ、地獄を外にもとめ、獄卒の鉄杖、阿防羅刹のかしやく(呵責)のこゑ、別にこれなし。
此法門ゆゆしき大事なれども、尼にたいしまいらせて、おしへまいらせん。例せば龍女にたいして文殊菩薩即身成仏の秘法をとき給しがごとし。これをきかせ給て後は、いよいよ信心をいたさせ給へ。
法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげむをまことの道心者とは申也。天台云従藍而青〔云云〕。此釈の心はあいは葉のときよりもなを、そむ(染)ればいよいよあをし。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし。
地獄と云二字をば、つち(土)をほる(穿)とよめり。人の死する時、つちをほらぬもの候べきか。これを地獄と云。死人をやく火は無間の火炎なり。妻子眷属の死人の前後にあらそひゆくは獄卒阿防羅刹なり。妻子等のかなしみなくは獄卒のこゑなり。二尺五寸の杖は鉄杖也。馬は馬頭、牛は牛頭なり。
穴は無間大城、八万四千のかまは八万四千の塵労門。家をきりいづるは死出の山。孝子の河のほとりにたゝずむは三途の愛河なり。別に求むる事はかなしはかなし。
此法華経をたもちたてまつる人は此をうちかへし、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲為室応身如来、又つえ(杖)は妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山なり。かく御心得させ給へ。
即身成仏とも開仏知見とも、これをさとり、これをひらくを申也。提婆達多阿鼻獄を寂光極楽とひらき、龍女が即身成仏もこれより外は候はず。逆即是順の法華経なればなり。これ妙の一字の功徳也。
龍樹菩薩云譬如大薬師能変毒為薬〔云云〕。妙楽大師云豈離伽耶別求常寂。非寂光外別有娑婆〔云云〕。又云実相必諸法諸法必十如十如必十界十界必身土〔云云〕。法華経云諸法実相乃至本末究竟等〔云云〕。寿量品云我実成仏已来無量無辺等〔云云〕。
此経文に我と申は十界なり。十界本有の仏なれば浄土に住するなり。方便品云是法住法位世間相常住〔云云〕。世間のならひとして三世常恒の相なれば、なげくべきにあらず、をどろくべきにあらず。相の一字は八相なり。八相も生死の二字をいでず。かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申也。
故聖霊は此経の行者なれば即身成仏疑なし。さのみなげき給べからず。又なげき給べきが凡夫のことわりなり。ただし聖人の上にもこれあるなり。
釈迦仏御入滅のとき、諸大弟子等のさとり(悟)のなげき、凡夫のふるまひ(振舞)を示し給か。いかにもいかにも、追善供養を心のをよぶほどはげみ給べし。古徳のことばにも、心地を九識にもち、修行をば六識にせよとをしへ給。ことわりにもや候らん。
此文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ。秘しさせ給へ、秘しさせ給へ。あなかしこ、あなかしこ。 七月十一日 日蓮 〔花押〕 上野殿後家尼御前 御返事