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さじき女房御返事

全集 第7巻 2段 定本: #20179(定本の該当ページへ)

書下し

さじき女房御返事にようぼうごへんじ


[1](前欠)女人は水のごとし、うつは物にしたがう。女人は矢のごとし、弓につがはさる。女人はふねのごとし、かぢ(楫)のまかするによるべし。しかるに女人はをとこ(夫)ぬす人なれば、女人ぬす人となる。をとこ王なれば、女人きさきとなる。をとこ善人なれば、女人仏になる。今生のみならず、後生もをとこによるなり。
[2]しかるに兵衛のさゑもんどの(左衛門殿)は法華経の行者なり。たとひいかなる事ありとも、をとこのめ(妻)なれば、法華経の女人とこそ、仏はしろしめされて候ふらんに、また我とこころををこ(発)して、法華経の御ために御かたびらをくりたびて候ふ。
[3]法華経の行者に二人あり。聖人は皮をはいで文字をうつす。凡夫はただひとつきて候ふかたびらなどを、法華経の行者に供養すれば、皮をはぐうちに仏をさめさせ給うなり。この人のかたびらは法華経の六万九千三百八十四の文字の仏にまいらせさせ給ひぬれば、六万九千三百八十四のかたびらなり。また六万九千三百八十四の仏、一々六万九千三百八十四の文字なれば、このかたびらもまたかくのごとし。たとへばはるの野の千里ばかりにくさのみちて候はんに、すこしきの豆ばかりの火をくさひとつにはなちたれば、一時に無量無辺の火となる。このかたびらもまたかくのごとし。一のかたびらなれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。この功徳は父母・祖父母ないし無辺の衆生にもをよぼしてん。まして我いとをしとをもふをとこごは申すに及ばずと、おぼしめすべし。恐恐謹言。
[4]<日>五月二十五日
[5]<人>日 蓮<花押>花押
[6]<先>さじき女房御返事
現代語訳

さじき女房御返事


建治元年(一二七五)五月二五日、五四歳、於身延、和文、定九九七—九九八頁。

[1](前略)女性は水のようなもので、器物の形にしたがって形を変えます。女性は矢のようなもので、弓につがわれてどこへでも飛んでいきます。女性は船のようなもので、楫にまかせて方向を変えます。だから、女性は夫が盗人だとその協力者として盗人扱いされます。夫が王であるならば、女性は后となります。夫が善人であるならば、女性は仏になります。女性が夫しだいで立場を変えるというのは、この世だけのことでなく、来世でも同じことなのです。
[2]ところで、ご夫君の兵衛左衛門殿は法華経の行者です。だから、たとえどんなことがあっても、仏は、あなたを、兵衛左衛門殿の妻だということによって、法華経信仰の女性であるとお認めになるでしょうが、そのような受け身のことで満足することなく、自発的な信仰心を起こして、法華経の御ために御かたびらをお送りくださいました。ありがたいことです。
[3]法華経の行者に聖人と凡人との二類があります。聖人は、身の皮をいで法華経を書写します。凡人は、ただ一着しかない帷を法華経の行者に供養すれば、それで聖人が皮をいだのと同じことになると仏はお認めになるのです。この凡夫の帷は、法華経に記載されている文字の数、六万九千三百八十四の一字一字の仏にご供養なさったのですから、六万九千三百八十四着の帷にほかなりません。つまり、法華経には、六万九千三百八十四の仏が、いちいち六万九千三百八十四の文字として出現なさっているのですから、帷の数もそのようになるのです。たとえば、千里四方もある春の野の草が茂りわたっているところで、小さな豆粒ほどの火を一本の草につけると、たちまちに一面の火の海となるでしょう。あなたから送られた帷もまた同じです。一着の帷ではあっても、法華経の六万九千三百八十四体すべての文字の仏、お一人お一人に献上するものとなるのです。この功徳は、あなただけではなくて、父母、祖父母らのご先祖から、さらに一切の衆生にも及ぶことでしょう。ましてあなたが愛していらっしゃるご夫君に及ぶことはいうまでもないとお思いください。恐恐謹言。
[4]<日>五月二十五日
[5]<人>日 蓮 <花押>花押
[6]<先>桟敷女房御返事