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乗明聖人御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20243(定本の該当ページへ)

書下し

乗明聖人御返事じようみようしようにんごへんじ


[1]相州鎌倉より青鳧二結せいふふたゆい、甲州身延のみねに送りつかわされ候い了んぬ。
[2]昔、金珠女こんじゆによは金銭一文を木像のはくとなし、九十一劫金色こんじきの身となりき。その夫の金師こんしは今の*かしよう、未来の光明こうみよう如来これなり。今、乗明法師妙日*じようみようほつしみようにち、並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す。彼は仏なり、これは経なり。経は師なり、仏は弟子なり。涅槃経に云く、「諸仏の師とする所は、いわゆる法なり。乃至、この故に諸仏恭敬くぎよう供養す」と。法華経第七に云く、「もしまた人あつて七宝しつぽうをもつて三千大千世界に満てて、仏及び大菩辟支仏ひやくしぶつ阿羅漢あらかんを供養せん。この人のる所の功徳は、この法華経の乃至一四句偈ないしいつしくげを受持する、その福の最も多きにはしかず」と。
[3]それ劣れる仏を供養するも、なお九十一劫に金色の身となりぬ。勝れたる経を供養する施主、一生に仏位ぶついに入らざらんや。ただ真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし。譬えば、修羅しゆらを崇重しながら、帝釈たいしやく帰敬ききようするがごときのみ。恐々謹言。
[4]<日>卯月十二日
[5]<人>日 蓮<花押>花押
[6]<先>乗明聖人御返事
現代語訳

乗明聖人御返事


建治三年(一二七七)四月一二日、五六歳、於身延、大田乗明宛、原漢文、定一三〇〇頁。

[1]相模の国鎌倉から、甲州身延の嶺まで、使者を遣わされて銭二結をお届け下さり、たしかに拝受いたしました。
[2]昔、金珠女というしい一人の女性が、黄金の銭一枚を仏像修補のための金箔のたすけとして奉納した功徳によって、九十一劫という永い間、金色の身に生まれた。その夫の鍛冶師は、いまの釈尊の弟子葉であり、法華経において未来は光明如来になるという予言を授けられている。今、乗明法師妙日とその妻女は、銅銭二千枚を法華経に供養された。かの金珠女は仏に供養し、貴殿は法華経に供養したのである。経は仏の師であり、仏はその弟子である。このことについて涅槃経では、「諸仏が師匠と仰ぐのは法である。それ故に諸仏が法を尊敬し供養するのである」と説かれている。また法華経第七巻の薬王品には、「もしある人が、金・銀・瑠璃・真珠などの七宝を、三千大千世界に充満するほど積み重ねて、仏や大菩・辟支仏・阿羅漢等の聖者に供養したとしても、その人が獲得する功徳は、この法華経のわずか一句や四句(一偈)を信受する人が得る大果報にはとても及ぶものではない」と説かれている。
[3]以上のように、法よりも劣った仏を供養してさえも、なお九十一劫の永い間、金色の身をもって生まれたのであるから、ましてや仏の師である勝れた法華経に対して供養された施主である貴殿方は、一生の間に成仏されないことがあろうか、いや必ず仏位に至ることができる。ただし真言宗や禅宗や念仏者等の、法華経を純粋に信受しない謗法の人々が法華経に供養したとしても、成仏することは不可能で、それから除かれるのである。それはたとえば、いつもは鬼神の修羅を崇めていながら、気まぐれに善神の帝釈天を敬うようなもので、帝釈天はそのような不純な帰依を受けるはずがない。以上、つつしんで申し上げる。
[4]<日>四月十二日
[5]<人>日 蓮 <花押>花押
[6]<先>乗明聖人御返事