妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

盂蘭盆御書

全集 第4巻 2段 定本: #20374(定本の該当ページへ)

書下し

盂蘭盆御書うらぼんごしよ


[1]御返事 ぢぶどの(治部殿)のうばごぜんのかへり事
[2]<人>日 蓮
[3]こめ一俵・やいごめ(焼米)・うり・なすび等、仏前にささげて申し上候おわんぬ。
[4]盂蘭盆うらぼんと申し候事は、仏の御弟子の中に目連尊者もくれんそんじやと申して、舎利弗しやりほつにならびて知恵第一・神通第一と申して、須弥山*しゆみせんに日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。
[5]この人の父をば吉懺師子きつせんししと申し、母をば青提女しようだいによと申す。その母の慳貪*けんどんとがによて餓鬼道がきどうに堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。
[6]その因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀*しいだ八大経と申す道の一切経をならいつくせども、いまだその母の生処をしらず。その後十三のとし、舎利弗とともに釈仏にまいりて御弟子となり、見惑をだん(断)じて初果の聖人となり、修惑を断じて羅漢となりて明をそなへ通をへ(得)給へり。
[7]天眼をひらいて千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとを(見透)し悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとをしみるがごとし。その中に餓鬼道と申すところに我が母あり。
[8]のむ事なし、くらうことなし。皮はきんてう(金鳥)をむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。こうべはまり(毬)のごとく、首はいと(糸)のごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへ(乞)る形は、うへたるひる(餓蛭)の人のか(香)をかげるがごとし。先生せんじようの子をみてなか(泣)んとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。
[9]法勝寺のしゆ(執)行舜観ぎよう*しゆんかん(俊寛)がいわう(硫黄)の嶋にながされて、はだかにて、かみ(髪)くびつき(首付)にうちをい、やせをとろへて海へんにやすらいて、もくづ(藻)をとりてこし(腰)にまき、魚をひとつみつけて右の手にとり、口にかみける時、もとつかい(仕)しわらわ(僮)のたづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しと、いづれかをろかなるべき。かれはいますこしかなしさわまさりけん。
[10]目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給い、はん(飯)をまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははんをにぎり、左の手にてははんをかくして口にをし入れ給ひしかば、いかんがしたりけん、はん変じて火となり、やがてもへあがり、とうしび(燈心)をあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、母の身のこことやけ候しを目連見給ひて、あまりあわてさわぎ、大神通を現じて大なる水をかけ候しかば、その水たきぎとなりていよ母の身のやけ候し事こそあわれには候しか。
[11]その時目連みづからの神通かなわざりしかば、はしりかへり、須臾に仏にまいりて、なげき申せしやうは、我が身は外道の家に生れて候しが、仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへ(得)て、三界の生をはなれ、明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候に、かへりて大苦にあわせて候は心うしとなげき候しかば、仏説て云く、汝が母はつみふかし。汝一人が力及ぶべからず。また多人なりとも天神・地神・邪魔・道・士・天王・帝釈・王の力も及ぶべからず。七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味をんじき(飲食)とゝのへて、母のく(苦)はすくうべしと云云。目連仏の仰せのごとく行ひしかば、その母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給ひきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。
[12]それによて滅後末代の人々は七月十五日にこの法を行ひ候なり。これは常のごとし。
[13]日蓮案して云く、目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人、百五十戒をかたくたもつ事石のごとし。三千の威儀を備へてかけざる事は十五夜の月のごとし。知恵は日ににたり。神通は須弥山を十四さう()まき、大山をうごかせし人ぞかし。かゝる聖人だにも重報の乳母の恩ほうじがたし。あまさへ(剰)ほうぜんとせしかば大苦をまし給ひき。いまの僧等の二百五十戒は名計りにて、事をかい(戒)によせて人をたぼらかし、一分の神通もなし。大石の天にのぼらんとせんがごとし。知恵は牛にるいし、羊にことならず。とひ千万人をあつめたりとも父母の一苦すくうべしや。
[14]せんずるところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆへぞかし。されば名経と申す経には浄名居士と申す男、目連房をせめて云く〔「汝を供養する者は悪道に堕つ」〕云云。文の心は二百五十戒のたうとき目連尊者をくやうせん人は三悪道に堕つべしと云云。これまたただ目連一人がきく(聞)みゝ(耳)にはあらず。一切の声聞ないし末代の持斎等がきくみゝなり。
[15]この浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末への郎従にて候。詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや。
[16]しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏たまらばつせんだんこうぶつと申す。この時こそ父母も仏になり給へ。ゆえに法華経に云く〔「我が願既に満ち衆の望もまた足りぬ」〕云云。目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心仏になりしかば父母の身もまた仏になりぬ。
[17]例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に、平氏の大将安芸の守盛と申せし人をはしき。たびたびの合戦に国敵をほろぼして上太政大臣かみだじようだいじんまで臣位をきわめ、当今とうきんはまご(孫)となり、一門は雲客月につらなり、日本六十六国島ふたつを掌の内にかいにぎりて候しが、人をしたがふこと大風の草木をなびかしたるやうにて候しほどに、心をごり身あがり、結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手ににぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句はいぬる治承四年十二月二十二日に七寺の内の東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば、その大重罪入道の身にかゝりて、かへるとし養和元年うるう二月四日、身はすみ(炭)のごとく血は火のごとく、すみのをこれるがやうにて、結句は炎身より出ててあつちじに(熱死)に死ににき。
[18]その大重罪をば二男宗盛むねもりにゆづりしかば、西海に沈むとみへしかども東天に浮ひ出でて、大将頼朝の御前に縄をつけてひきすへて候ひき。三男知盛とももりは海に入りて魚の糞となりぬ。四男重衡しげひらはその身に縄をつけて京かまくらを引かへし、結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等、我等が仏のかたきなりとて一刀ひとたちづつきざみぬ。
[19]悪の中の大悪は我が身にその苦をうくるのみならず、子と孫と末へ七代までもかゝり候ひけるなり。善の中の大善もまたまたかくのごとし。
[20]目連尊者が法華経を信しまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。かみ七代しも七代、かみ無量生しも無量生の父母等存外に仏となり給ふ。ないし子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。ゆへに法華経の第三に云く〔「願くはこの功徳をもつあまねく一切におよぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」〕云云。
[21]さればこれ等をもつて思ふに、貴女おんみは治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。この僧は無戒なり無智なり。百五十戒一戒も持つことなし。三千の威儀一つも持たず。知恵は牛馬にるいし、威儀は猿猴ましらににて候へども、あをぐところは釈仏、信ずる法は法華経なり。例せばじやの珠をにぎり、竜の舎利をいただけるがごとし。
[22]藤は松にかゝりて千尋ちひろをよぢ、鶴は羽をて万里をかける。これは自身の力にはあらず。治部房もまたかくのごとし。我が身は藤のごとくなれども、法華経の松にかゝりて妙覚の山にものぼりなん。一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし。この羽をもて父母・祖父・祖母ないし七代の末までもとぶらうべき僧なり。あわれいみじき御たからはもたせ給ひてをはします女人かな。
[23]彼の女は珠をさゝげて仏となり給ふ。この女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給ふべし。事々そうそう(怱々)にて候へばくはしくは申さず、またまた申すべく候。恐々謹言。
[24]<日>七月十三日
[25]<人>日 蓮 <花押>花押
[26]<先>治部殿うばごぜん御返事
現代語訳

盂蘭盆御書


弘安三年(一二八〇)七月一三日、五九歳、治部殿祖母宛、和文、定一七七〇—一七七六頁。

[1]治部房日位殿の祖母御前からきたお手紙のご返事
[2]<人>日 蓮

一 目連尊者とその母


[3]白米一俵・焼米・瓜・茄子等をお送りいただき、たしかに仏前へお供えして、あなたのお志を言上いたした。
[4]ちょうどお盆を迎えたので、盂蘭盆について申し上げよう。その昔、仏の弟子に目連尊者という人がおられた。この人は智慧第一といわれた舎利弗と並んで、神通第一といわれ、あたかも須弥山に日と月が並んでいるように、また大王の左右にいつも付き従っている大臣のような存在であった。
[5]この人の父は吉懺師子といい、母は青提女といった。その母は大変に物惜しみをして自分の持っている物を他人に与えようとしなかったために、その罪で死後に餓鬼道へ落ちてしまっていたのを、目連尊者が救い出したことから始まっているのである。
[6]その因縁についてお話しすると、母が餓鬼道に落ちて苦しみ嘆いていたのであるが、目連は凡夫であったので少しもそのことを知らなかったのである。幼少の頃にバラモンの教えを受けて四種類の聖典や十八大経というバラモンのすべての経典を学び尽くしたのであるが、一向に自分の母が死後どこへ生まれ変わっているのかを知らなかった。その後十三歳のとき、舎利弗と一緒に釈仏のもとへ参り御弟子となって、最初の煩悩である見惑を断破して最初の位の聖人となり、さらにその上の煩悩である修惑を断破して阿羅漢の位に昇り、三種類の神通(超能力)を得て、六種類の自由自在な能力を備えることができるようになった。
[7]そこで早速、天眼を開いて三千大千世界を鏡に映し出すようにご覧になったところ、大地を見透して三悪道(地獄・餓鬼・畜生)をくまなく見わたすことができた。ちょうど氷の下にいる魚を朝日の光に照らし出してわれらが見透すようなものであった。ところがその餓鬼道の中に、なんと自分の母がいたのである。
[8]飲むものも食べる物もなく、せ細って皮はきじの羽根をむしり取ったような状態で、骨はすっかり磨り減って丸い石を並べたようになっていた。また頭は髪が全部抜けてしまってまりのようになり、くびは細くなって糸のようであり、お腹は水ぶくれで大海のようにふくらみ、口を大きく開けて声を張り上げ、手を合わせて物を欲しがっている形は、ちょうど餓えた蛭が人の臭いをかぎつけて寄って来るようであった。先の世で産んだわが子を見て泣こうとする姿、餓えた状態を目の前にして、例えることもできないほどに悲しくつらい気持になりどうすることもできなかった。
[9]その昔、京都の法勝寺で執行しゆぎようをつとめた舜観(俊寛)という僧が硫黄島に流罪となり、裸で髪が頸にまきつき、せ細って海岸に出てきては藻をとって腰に巻きつけ、魚を一尾取って右の手につかみ、口へもっていってかみついたときに、もと自分に仕えていた童子が急に尋ねてきた時と、今の目連尊者が母を見たときと、どちらが悲嘆にくれた度合いが大きかったであろうか。目連尊者のほうがきっと悲しさは勝っていたことであろう。
[10]目連尊者はあまりの悲しさに、大神通を現わしてご飯をさしあげたところ、母は喜んで右の手でご飯を握り、左の手でご飯をかくしながら口へ入れたところ、どうしたことかご飯はたちまち変じて火となり燃え上がって、燈心を集めて火をつけたようにぱあっと火が広がり、母の身体のあちらこちらが火傷をしてしまった。目連はこの様子を見てびっくりし、大騒ぎをしながら再び大神力をもって、たっぷりと水をかけたところ、その水がどうしたことか逆に薪となって、ますます母の身を焼いてしまうことになり、あわれなことは口では言えないほどであった。
[11]そこで目連は自分の神通力ではとても母を救うことができないことを知り、大急ぎで帰り仏にお会いして、悲嘆にくれつつ「私はバラモンの家に生れたが、仏の御弟子となり阿羅漢の位にまでなり、三界の人生を離れて三明六通の神力を得て羅漢にまでなったのだが、母の大苦を救うため、一生懸命に力を尽くしたが、かえって大苦を増してしまう結果となってしまった。なんとも悲しいことである」と泣きながら告げたところ、仏は「お前の母は罪が深いので、お前一人の力ではとても救うことはできない。また人数が多くても天神・地神・悪魔・バラモン・中国の道教の修行者・四天王・帝釈・梵王といったものの力でも救い出すことは不可能である。どうしても救い出したければ、七月十五日に十方の聖僧を集めて、百味の飲食物を供養し、布施を行ない、法会を修して母の苦しみを救うべきである」と教えられた。そこで目連は仏の教えに従って、その通りに実行したので、その母はついに餓鬼道の永い苦しみからのがれることができたと盂蘭盆経というお経に書かれている。
[12]このことから仏滅後の末世の人々は毎年七月十五日に盂蘭盆の法会を修しているのであり、今日ではこの行事は年中の一つの催しとして常識となっているのである。

二 法華経と目連尊者


[13]日蓮が考えるのに、目連尊者という人は、十界の中では声聞道の人であって、二百五十もの戒律をかたく石のようにたもち、三千もの威儀を備えて欠けたところが少しもなく、十五夜の満月のようであった。智慧は太陽のごとくにあまねく、神通力は須弥山を十四回もめぐるほどであり大山を動かすこともできる人であった。このような聖人であったが、重い恩のある母親に報いることができなかった。なんとかして報いようとしたのだが、かえって大苦を増す結果となった。今の世における日本の僧たちが、二百五十戒を持つというのは名ばかりであり、戒律にことよせて人をだまし、一分の神通力もない。ちょうど大石が天に昇ろうとするようなものであって、とても不可能である。智慧は牛のようであり羊と同じような考えしかない。このような人々がたとえ千万人集まったとしても、父母の苦しみを救うことができようか。とても無理である。
[14]結局のところ目連尊者が母の苦を救うことができなかったのは、小乗の教法を信じて、二百五十戒という戒律のみをたもっていたからである。したがって浄名経というお経には、浄名居士という男が目連を非難して「お前を供養する者がいたら、その人は三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に落ちる」といっている。この経文の意味は、二百五十戒をたもって尊者としてふるまっている目連を供養した人は三悪道に落ちてしまう、というのである。これはただ目連一人が聞くべきことではなく、すべての声聞および末の代の戒律をたもつことのみに専念している人々がひとしく聞いて反省すべきことである。
[15]この浄名経というのは、法華経と比較すると数十番も末の家来にひとしい教えである。結局のところ目連尊者は、自分自身がいまだ仏になっていないからである。自分自身が仏にならないでいては、どうして父母を救うことができようか。それは全く不可能なことである。ましてや他人を救うことはそれ以上にできないことである。
[16]ところが目連尊者という人は、法華経というお経で「正直に方便を捨てよ」とあるごとく、小乗の二百五十戒をたちどころに捨て、「南無妙法蓮華経」と唱えたので、仏に成り多摩羅跋栴檀香仏と名のったのである。この時に初めて目連の父母も仏に成られたのである。ゆえに法華経には、「我が願もすでに満たされ、衆人の望みもまたかなえられた」とある。目連の肉体と精神は、父母が遺してくれたものである。したがって目連の肉体と精神が仏に成ったのならば、父母の身もまた同時に仏に成るのである。

三 平家の滅亡


[17]例えば日本の国で第八十一代の安徳天皇の御代に、平氏の大将であった安芸の守清盛という人がいた。たびたびの戦いで敵をほろぼし、その功績で太政大臣にまで上り、臣民として最高位を極めた。そのために今上天皇は清盛の孫となり、一門の人々はみな高位高官につらなって、日本中の六十六か国、島二つを自分たちの手の中に握りしめた。人々を従がえることはちょうど大風が草木をなびかせるようであった。その結果、心がおごり高ぶり、態度もいばりちらして、あげくには神仏をも軽視し、神官や諸僧をも思うままに操ろうとしたので、比叡山や七大寺の諸僧らとの間に揉め事が起こり、結局は去る治承四年(<暦>一一八〇)十二月二十二日に、七大寺のうち東大寺と興福寺の二か寺を焼いてしまったので、その大重罪が清盛入道の身にふりかかり、翌年の養和元年閏二月四日に、高熱病にかかり炭が赤熱するようになって、結局は炎が身体中から出るような病状となり、高熱に冒されて死んでしまった。
[18]その大重罪を二男の宗盛が譲り受けたので、源氏に攻められ西海壇の浦で海中に没してしまいそうになったが、いったんは海中から浮かび上がったものの、捕えられて右大将である頼朝の御前へ縄をつけられたまま引き出され、あえない最期をとげてしまった。三男の知盛は海中に没して魚の糞となり、四男の重衡は縄でしばられたまま京都から鎌倉へ連行され、さらに奈良へ引き返されて七大寺に引き渡されてしまった。七大寺では十万人もの信者たちが、「われらが信仰しているみ仏の仇である」と言って一刀ずつ切りつけ、きざんでしまった。
[19]悪の中の大悪は、我が身にその苦の報いを受けるだけではなく、子から孫へと七代も続いて受けることになる。この反対に善の中の大善もまた同様である。
[20]目連尊者が法華経を信じ奉った大善は、我が身が仏に成るのみならず父母もまた仏に成り給うのである。そればかりか上七代にわたり下七代に及び、さらには上に向かって無量の間、下に向かってもまた無量の間、この間の父母はすべて仏に成ることができるのである。ないし子息や夫妻、それに従うところの人々、檀信徒たちなど無量の衆生は三悪道を離れることができるだけではなく、すべて初住に入り妙覚の位について仏と成ることができるのである。このゆえに法華経の第三巻化城品の中に、「願わくばこの自分のために修してきた功徳をあまねくすべての人人に施し及ぼして、われらと衆生とがみなともに仏道が成じられますように」とある。

四 信ずる法は法華経なり


[21]さてそこで、こうした目連尊者が法華経によって成仏し、その母も成仏できたということから考えて、貴女あなたは治部殿という孫を僧侶にもっておられる。この僧は戒をたもっているわけでも智慧が特に優れているわけでもない。目連のように二百五十戒の一戒だにもたもっているわけではない。また三千の威儀の中の一つでもたもっているわけではない。智慧は牛馬のようであり、威儀は猿猴のように備えていないが、信仰するところは釈仏であり、信じている法は法華経である。例えると蛇が珠を握っているようであり、竜が法身の舎利を戴いているようなものである。
[22]藤のつるは松にかかって千尋せんじんの谷をよじ登り、鶴は羽をたよりに万里もの遠くを飛ぶことができる。これは自分だけの力によるものではない。治部房もまたこれと同じである。我が身は藤のようであるけれども、法華経の松に寄りかかって、妙覚の山に登り仏に成ることもできるであろう。法華一乗の羽を頼りに寂光の空を飛ぶこともできるであろう。この羽をもって父母・祖父・祖母ないし七代の末までも菩提をとむらうことのできる僧侶の身である。あなたは、その大変に尊い御宝を持っておられる女性である。
[23]彼の竜女は宝珠をみ仏に捧げて仏となられた。あなたは孫である治部房を法華経の行者僧侶として育てあげ、その孫の行者に導かれて仏の道を進んでおられる。いろいろとあわただしいので、詳しくはお話しできないが、また次の機会に申し上げることにしよう。恐れながら謹んで申し上げる。
[24]<日>七月十三日
[25]<人>日 蓮 <花押>花押
[26]<先>治部房日位殿祖母御前御返事