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富木殿御書

全集 第4巻 2段 定本: #20255(定本の該当ページへ)

書下し

富木殿御書ときどのごしよ


[1]妙法蓮華経第二に云く、「し人信ぜずして此経このきよう毀謗きぼうし、経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉きようせんぞうしつして結恨けつこんいだかん。其の人命終みようじゆうして阿鼻獄あびごくに入らん。乃至是ないしかくごと展転てんでんして無数劫むしゆこういたらん」。第七に云く、「千劫せんこう阿鼻獄に於てす」。第三に云く、「三千塵点じんでん」。第六に云く、「五百塵点劫じんでんごう等」云云。涅槃経に云く、「悪象あくぞうために殺されては三悪*さんなくに至らず。悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」等云云。
[2]賢慧菩*けんねぼさつの法性論に云く、「にして正法しようぼうを信ぜず、邪見じやけん及びきようまんなるは過去の謗法ほうぼうさわりなり。不了義ふりようぎ執着しゆうじやくし、供養供敬くようくきようじやくし、唯邪法ただじやほうを見て善知識ぜんちしきに遠離して謗法の者小乗しようじようの法に楽着ぎようじやくする。かくごとの衆生に親近しんごんし、大乗を信ぜざる。故に諸仏の法をぼうず。
[3]智者ちしや怨家おんけ蛇火毒じやかどく因陀羅いんだら霹靂へきれきとうじようもろもろの悪獣・ろう師子等ししとうおそるべからず。れは但能ただよく命をだんじて、人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず。畏るべきは深法じんぽうを謗じ及び法を謗ずる知識なり。決定けつじようして人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ。
[4]悪知識あくちしきに近づきて、悪心あくしんにして仏の血をいだし、及び父母を殺害さつがいし、諸の聖人しようにんの命を断じ、和合僧わごうそう破壊はえし、及び諸の善根を断ずるといえども、ねんを正法にかけるをもつて、ところ解脱げだつせん。復余人またよにんあって甚深じんじんの法を誹謗ひぼうせば、の人無量劫むりようこうにも解脱を得べからず。若し人衆生をして是の如き法を覚信かくしんせしめば、かれはこれ父母ふぼまたこれ善知識なり。彼の人はこれ智者なり。如来によらい滅後めつごに邪見てんどうめぐらして、正道しようどうに入らしむるを以ての故に、三宝清浄さんぼうしようじようの信、菩提功徳の業なり」等云云。
[5]竜樹*りゆうじゆの菩提資糧論に云く、「五無間むけんごうを説きたまう。乃至、未解みげの深法に於て執着を起せば、〇彼の前の五無間等の罪をあつめてこれするに、百ぶんにしても及ばず」云云。
[6]賢人けんじんは安きにあやうきをなげき、寧人ねいじんは危きに居て安きをく。大火は小水を畏怖いふし、大樹たいじゆ小鳥しようちようあつえだらる。智人は恐怖くふすべし、大乗を謗ずる故に。天親*てんじんしたを切らんと云ひ、馬鳴*めみようこうべねんと願ひ、吉蔵大師*きつぞうだいしは身を肉橋にくきようし、玄奘*げんじよう三蔵はここを霊地にせんし、不空三蔵*ふくうさんぞううたがいを天竺てんじくけつし、伝教大師*でんぎようだいしこれ異域いいきに求む。皆上みなかみぐる所は経論きようろん守護しゆごするがゆえか。
[7]今日本国いまにほんごく宗ならびに浄土じようど・禅宗等の四しゆ上主上上皇かみしゆじようじようこうより下臣下万民しもしんかばんみんに至るまで、みなにんも無く弘法こうぼう慈覚じかく智証*ちしようの三大師だいし末孫檀越まつそんだんのつなり。円仁慈覚えんにんじかく大師云く、「ゆえかれことなるなり」。円珍智証えんちんちしよう大師云く、「華厳・法華を大日経に望むれば戯論となす」と。空海弘法大師云く、「のちのぞむれば戯論けろんす」等云云。の三大師のこころは、「法華経はこんとうの諸経の中の第一なり。然りといえども大日経だいにちきように相対すれば戯論けろんの法なり」等云云。義心ぎこころあらん人しんを取るべきやいなや。今日本国の諸人悪象・悪馬あくめ悪牛あくぎゆう悪狗あつく毒蛇どくじや悪刺あくせき懸岸けんがん険崖けんがい暴水ぼうすい悪人あくにん悪国あつこく悪城あくじよう悪舎あくしや悪妻あくさい悪子あくし・悪所従しよじゆう等よりも、此等これら超過ちようかし恐怖すべきこと百千万億倍なるは持戒じかい邪見じやけん高僧等こうそうとうなり。
[8]うて云く、かみぐる所の三大師を謗法と疑うか。叡山えいざん第二の円澄寂光大師*えんちようじやつこうだいし別当光定*べつとうこうじよう大師・安慧大楽*あんねだいらく大師・慧亮和尚*えりようわじよう安然和上*あんねんわじよう浄観僧都*じようかんそうず檀那僧正*だんなそうじよう慧心先徳*えしんせんとく此等これらすう百人、弘法の御弟子実慧みでし*じつて真済*しんさい真雅*しんが等のすう百人、ならびに宗・十宗等の大師先徳だいしせんとくつきつきと、ほしほしとならびでたるがごとく、すでに四百余年を経歴きようりやくす。此等これらの人々一にんとしてうたがわず、汝何なんじいかなるをもってこれなんずるや云云。
[9]此等のこころもつて之をあんずるに、我門家わがもんけは夜はねむりをち、昼はいとまとどめて之を案ぜよ。一生むなしくすごして万歳悔ばんざいくゆる事なかれ。恐恐きようきよう謹言きんげん
[10]<日>八月二十三日
[11]<人>日 蓮 <花押>花押
[12]<先>富木殿
[13]鵞目一結給がもく*ひとゆいた候畢そうらいおわんぬ。
[14]こころざしあらん諸人しよにんは一しよ聚集じゆしゆうして御聴聞ごちようもんあるべきか。
現代語訳

富木殿御書


建治三年(一二七七)八月二三日、五六歳、富木常忍宛、原漢文、定一三七二—一三七四頁。

一 正法を誹謗した罪について


[1]妙法蓮華経の第二巻にあるひゆほんの文に、「もしも人が法華経を信ぜずに、誹謗したり、あるいはこの経を読誦したり書き写して受持する人を見つけて、その人を軽蔑したり憎しみ恨みを持つようなことをしたら、その人は命が終わったあともっとも恐ろしい地獄に入って永く苦しみの世界を展転とさまよい続けるであろう」とあり、また第七巻の常不軽菩じようふきようぼさつぽんには「千劫の永きにわたってもっとも恐ろしい地獄に落ち入る」とあり、第三巻の化城けじようゆほんには「三千塵点劫じんてんごう」ともあり、さらに第六巻の寿量品じゆりようほんには「五百千万億那由他阿僧」という途方もない長い間と書かれている。また涅槃経ねはんぎようによると高貴徳王菩こうきとくおうぼさつほんに、「悪象のために殺された場合は三悪道さんあくどうに落ちることはないが、悪友のために殺されたときは必ず三悪道に落ちることになる」とある。
[2]インドの堅慧菩という人は、その著作である宝性論ほうしようろんの中で、「衆生が愚かであって正法を知らずに信じなかったり、間違った考え方をもち自慢ばかりする者は、過去において犯した謗法の障によるものである。また真実を説いていない不了義に執着している者ばかりを供養し尊敬して、もっぱら邪法のみを見て善い指導者から遠ざかり、謗法の者と親しく付き合って小乗の法にばかりこだわる者は、大乗を信じようとしない者たちである。このゆえに諸仏の法を誹謗してしまうことになるのである。
[3]しかし大乗を信ずる智者は、怨敵おんてき・猛毒蛇・雷火かみなり・刀その他さまざまな悪獣・虎・狼・獅子などを恐ろしいとは思わない。なぜならばこれらのものによって、万一殺されることがあっても、もっとも恐ろしい地獄へ落ち入ることはないからである。むしろ恐ろしいのは正法を誹謗することであり、謗法の人々と親しくすることである。これらは間違いなく人々を地獄に落としてしまうからである。
[4]したがって正法を信じない悪友と親しくすると、その悪心に染まってしまい、仏の身体から血を流させたり、父母を殺害してみたり、諸聖人の命を断ってしまったり、僧団の和合を乱してしまったりして、すべての善根を捨て去ってしまうことになる。だがいつも正法を信じ念じていれば、こうした悪友のところから離れて悪道に落ちなくてすむことができる。もしも人が甚だ深い正法を誹謗した場合は、無限の間にわたって解脱することはできない。またもしも衆生にこの正法を信じさせ覚らせるようにしむけた者がいたとしたら、この人は衆生にとって父母であり善い指導者であって、智者というべきである。如来の滅後に間違った見解に落ち入った人や正邪をさかさまに考えてしまっている人々を改心させて正道に入らしめるからである。仏法僧の三宝に清浄の信心を起こし、もって仏に成るための功徳を積むことになるのである」とある。
[5]竜樹菩の書いた菩提資糧論には、「父母、師匠を殺すといった五逆罪を犯すことよりも、正法を誹謗した罪のほうが、はるかに重いものである。五逆罪を数多く犯しても正法を誹謗した罪に比較すると百分の一にも及ばないものである」とある。

二 インド・中国・日本における謗法ほうぼう


[6]一般世間の様子を見ても、賢人といわれるような人は、平安な時であっても常に危難を忘れずにいて注意を怠らないでいるものである。だが凡人は危険な状態におかれていても、安楽なことだけを願って、かえって身をほろぼしてしまうものである。たとえば大火であっても小水を恐れ、大樹であっても小鳥に枝を折られることを恐れるものである。智人は大乗を誹謗することを常に恐れるものである。したがって正法を謗った場合は、天親菩は舌を切ると言い、馬鳴菩は頭をはねると言い、吉蔵大師は身体をもって肉の橋として正法を護り、玄奘三蔵は中国からインドの霊地に仏法を求め、不空三蔵は疑問の点をインドへ渡って解決し、伝教大師は中国に渡って教義を究めた。これらはみな命がけの行動であり、みな仏教の正義を明らかにして、それを護持するためのものであったのである。
[7]いま日本国の八宗と浄土宗・禅宗等の人々は、上は主上や上皇から始まって、下は万民に至るまで、みな一人も漏れなく弘法・慈覚・智証の三大師の末孫であり信者となっている。慈覚大師円仁は「華厳・法華等の諸大乗経と真言密教とを比較すると、遥かに真言のほうが優れていて異なった教えである」と蘇悉地経疏そしつじきようじよに述べている。また智証大師円珍は、後唐院の記の中で、「華厳と法華との説はみな戯論である」と言い、弘法大師空海は、秘蔵宝鑰ひぞうほうやくの下巻の中で、「諸経は大日経と比較するとみな戯論である」といっている。これら三大師の意見は、法華経はすでに説き今説きさらにこれから説こうとする釈尊の諸説の中では、第一の経典であるが、しかし大日如来の説かれた大日経と比較すると、戯論でしかない、ということである。心ある人ならばこの説を信用するであろうか。今の日本国の人々にとっては、悪象・悪馬・悪牛・悪狗・悪蛇といった恐ろしい生物や悪刺・懸岸・険崖・暴水といった危険なものや悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪使用人等よりも、はるかにこえて恐ろしいこと百千万億倍なのは、戒律をたもちながらも間違った教法に染まってしまっている高僧のように見える人々のことである。

三 三大師の謗法を究明せよ


[8]お尋ねするが、いまあげた三大師のことを謗法というのはなぜか。比叡山の第二祖円澄寂光大師・別当の光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳等これら数百人の伝教大師の御弟子たち、さらに弘法大師の御弟子である実慧・真済・真雅といった数百人、ならびに八宗・十宗等の大師や先徳は、日と日、月と月、星と星とが並び出て照らし合っているようでありながら、すでに四百余年を経ているのに、これらの人々は一人も三大師の謗法について疑いをもった者がいない。それなのにあなたはどのような知識をもってそのように謗法だというのであるのか。
[9]こうした質問の意図するところを考え合わせてみるのに、我が一門の人々は、夜は眠る時間を惜しみ、昼間は少しの暇間ひまな時間であっても無駄にせず、この問題について充分に学び考えるべきである。そして一生を空しく考えることもせずにすごしてしまって、あとで悔いを万歳にまで残すようなことがあってはならない。恐れながら謹んで申し上げる。
[10]<日>八月二十三日
[11]<人>日 蓮 <花押>花押
[12]<先>富木殿
[13]布施のおかね一結はまさに受領いたした。
[14]同じ信仰のこころざしをもった人々は一か所に集まって、この旨をお聞きになるべきであろう。