富木殿御書
書下し
富木殿御書
[1]妙法蓮華経第二に云く、「若し人信ぜずして此経を毀謗し、経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。其の人命終して阿鼻獄に入らん。乃至是の如く展転して無数劫に至らん」。第七に云く、「千劫阿鼻獄に於てす」。第三に云く、「三千塵点」。第六に云く、「五百塵点劫等」云云。涅槃経に云く、「悪象の為に殺されては三悪に至らず。悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」等云云。
[2]賢慧菩薩の法性論に云く、「愚にして正法を信ぜず、邪見及び憍慢なるは過去の謗法の障なり。不了義に執着し、供養供敬に着し、唯邪法を見て善知識に遠離して謗法の者小乗の法に楽着する。是の如き等の衆生に親近し、大乗を信ぜざる。故に諸仏の法を謗ず。
[3]智者は怨家・蛇火毒・因陀羅・霹靂・刀杖・諸の悪獣・虎・狼・師子等を畏るべからず。彼れは但能く命を断じて、人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず。畏るべきは深法を謗じ及び法を謗ずる知識なり。決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ。
[4]悪知識に近づきて、悪心にして仏の血を出し、及び父母を殺害し、諸の聖人の命を断じ、和合僧を破壊し、及び諸の善根を断ずるといえども、念を正法に繋るを以て、能く彼の処を解脱せん。若し復余人あって甚深の法を誹謗せば、彼の人無量劫にも解脱を得べからず。若し人衆生をして是の如き法を覚信せしめば、彼はこれ我が父母、亦これ善知識なり。彼の人はこれ智者なり。如来の滅後に邪見顛倒を廻らして、正道に入らしむるを以ての故に、三宝清浄の信、菩提功徳の業なり」等云云。
[5]竜樹菩薩の菩提資糧論に云く、「五無間の業を説きたまう。乃至、若し未解の深法に於て執着を起せば、〇彼の前の五無間等の罪を聚めて之に比するに、百分にしても及ばず」云云。
[6]夫れ賢人は安きに居て危きを歎き、寧人は危きに居て安きを歎く。大火は小水を畏怖し、大樹は小鳥に値て枝を折らる。智人は恐怖すべし、大乗を謗ずる故に。天親菩薩は舌を切らんと云ひ、馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願ひ、吉蔵大師は身を肉橋と為し、玄奘三蔵は此を霊地に占し、不空三蔵は疑いを天竺に決し、伝教大師は此を異域に求む。皆上に挙ぐる所は経論を守護するが故か。
[7]今日本国の八宗ならびに浄土・禅宗等の四衆、上主上上皇より下臣下万民に至るまで、皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫檀越なり。円仁慈覚大師云く、「故に彼と異るなり」。円珍智証大師云く、「華厳・法華を大日経に望むれば戯論となす」と。空海弘法大師云く、「後に望むれば戯論と作す」等云云。此の三大師の意は、「法華経は已・今・当の諸経の中の第一なり。然りといえども大日経に相対すれば戯論の法なり」等云云。此の義心あらん人信を取るべきや不や。今日本国の諸人悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも、此等に超過し恐怖すべきこと百千万億倍なるは持戒邪見の高僧等なり。
[8]問うて云く、上に挙ぐる所の三大師を謗法と疑うか。叡山第二の円澄寂光大師・別当光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳、此等の数百人、弘法の御弟子実慧・真済・真雅等の数百人、ならびに八宗・十宗等の大師先徳、日と日、月と月と、星と星とならび出でたるがごとく、すでに四百余年を経歴す。此等の人々一人として此の義を疑わず、汝何なる智をもって之を難ずるや云云。
[9]此等の意を以て之を案ずるに、我門家は夜は眠りを断ち、昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過して万歳悔ゆる事勿れ。恐恐謹言。
[10]<日>八月二十三日日>
[11]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[12]<先>富木殿先>
[13]鵞目一結給び候畢んぬ。
[14]志あらん諸人は一処に聚集して御聴聞あるべきか。
現代語訳
富木殿御書
建治三年(一二七七)八月二三日、五六歳、富木常忍宛、原漢文、定一三七二—一三七四頁。
一 正法を誹謗した罪について
[1]妙法蓮華経の第二巻にある譬喩品の文に、「もしも人が法華経を信ぜずに、誹謗したり、あるいはこの経を読誦したり書き写して受持する人を見つけて、その人を軽蔑したり憎しみ恨みを持つようなことをしたら、その人は命が終わったあともっとも恐ろしい地獄に入って永く苦しみの世界を展転とさまよい続けるであろう」とあり、また第七巻の常不軽菩薩品には「千劫の永きにわたってもっとも恐ろしい地獄に落ち入る」とあり、第三巻の化城喩品には「三千塵点劫」ともあり、さらに第六巻の寿量品には「五百千万億那由他阿僧祇」という途方もない長い間と書かれている。また涅槃経によると高貴徳王菩薩品に、「悪象のために殺された場合は三悪道に落ちることはないが、悪友のために殺されたときは必ず三悪道に落ちることになる」とある。
[2]インドの堅慧菩薩という人は、その著作である宝性論の中で、「衆生が愚かであって正法を知らずに信じなかったり、間違った考え方をもち自慢ばかりする者は、過去において犯した謗法の障によるものである。また真実を説いていない不了義に執着している者ばかりを供養し尊敬して、もっぱら邪法のみを見て善い指導者から遠ざかり、謗法の者と親しく付き合って小乗の法にばかりこだわる者は、大乗を信じようとしない者たちである。このゆえに諸仏の法を誹謗してしまうことになるのである。
[3]しかし大乗を信ずる智者は、怨敵・猛毒蛇・雷火・刀杖その他さまざまな悪獣・虎・狼・獅子などを恐ろしいとは思わない。なぜならばこれらのものによって、万一殺されることがあっても、もっとも恐ろしい地獄へ落ち入ることはないからである。むしろ恐ろしいのは正法を誹謗することであり、謗法の人々と親しくすることである。これらは間違いなく人々を地獄に落としてしまうからである。
[4]したがって正法を信じない悪友と親しくすると、その悪心に染まってしまい、仏の身体から血を流させたり、父母を殺害してみたり、諸聖人の命を断ってしまったり、僧団の和合を乱してしまったりして、すべての善根を捨て去ってしまうことになる。だがいつも正法を信じ念じていれば、こうした悪友のところから離れて悪道に落ちなくてすむことができる。もしも人が甚だ深い正法を誹謗した場合は、無限の間にわたって解脱することはできない。またもしも衆生にこの正法を信じさせ覚らせるようにしむけた者がいたとしたら、この人は衆生にとって父母であり善い指導者であって、智者というべきである。如来の滅後に間違った見解に落ち入った人や正邪をさかさまに考えてしまっている人々を改心させて正道に入らしめるからである。仏法僧の三宝に清浄の信心を起こし、もって仏に成るための功徳を積むことになるのである」とある。
[5]竜樹菩薩の書いた菩提資糧論には、「父母、師匠を殺すといった五逆罪を犯すことよりも、正法を誹謗した罪のほうが、はるかに重いものである。五逆罪を数多く犯しても正法を誹謗した罪に比較すると百分の一にも及ばないものである」とある。
二 インド・中国・日本における謗法
[6]一般世間の様子を見ても、賢人といわれるような人は、平安な時であっても常に危難を忘れずにいて注意を怠らないでいるものである。だが凡人は危険な状態におかれていても、安楽なことだけを願って、かえって身をほろぼしてしまうものである。たとえば大火であっても小水を恐れ、大樹であっても小鳥に枝を折られることを恐れるものである。智人は大乗を誹謗することを常に恐れるものである。したがって正法を謗った場合は、天親菩薩は舌を切ると言い、馬鳴菩薩は頭をはねると言い、吉蔵大師は身体をもって肉の橋として正法を護り、玄奘三蔵は中国からインドの霊地に仏法を求め、不空三蔵は疑問の点をインドへ渡って解決し、伝教大師は中国に渡って教義を究めた。これらはみな命がけの行動であり、みな仏教の正義を明らかにして、それを護持するためのものであったのである。
[7]いま日本国の八宗と浄土宗・禅宗等の人々は、上は主上や上皇から始まって、下は万民に至るまで、みな一人も漏れなく弘法・慈覚・智証の三大師の末孫であり信者となっている。慈覚大師円仁は「華厳・法華等の諸大乗経と真言密教とを比較すると、遥かに真言のほうが優れていて異なった教えである」と蘇悉地経疏に述べている。また智証大師円珍は、後唐院の記の中で、「華厳と法華との説はみな戯論である」と言い、弘法大師空海は、秘蔵宝鑰の下巻の中で、「諸経は大日経と比較するとみな戯論である」といっている。これら三大師の意見は、法華経はすでに説き今説きさらにこれから説こうとする釈尊の諸説の中では、第一の経典であるが、しかし大日如来の説かれた大日経と比較すると、戯論でしかない、ということである。心ある人ならばこの説を信用するであろうか。今の日本国の人々にとっては、悪象・悪馬・悪牛・悪狗・悪蛇といった恐ろしい生物や悪刺・懸岸・険崖・暴水といった危険なものや悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪使用人等よりも、はるかにこえて恐ろしいこと百千万億倍なのは、戒律をたもちながらも間違った教法に染まってしまっている高僧のように見える人々のことである。
三 三大師の謗法を究明せよ
[8]お尋ねするが、いまあげた三大師のことを謗法というのはなぜか。比叡山の第二祖円澄寂光大師・別当の光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳等これら数百人の伝教大師の御弟子たち、さらに弘法大師の御弟子である実慧・真済・真雅といった数百人、ならびに八宗・十宗等の大師や先徳は、日と日、月と月、星と星とが並び出て照らし合っているようでありながら、すでに四百余年を経ているのに、これらの人々は一人も三大師の謗法について疑いをもった者がいない。それなのにあなたはどのような知識をもってそのように謗法だというのであるのか。
[9]こうした質問の意図するところを考え合わせてみるのに、我が一門の人々は、夜は眠る時間を惜しみ、昼間は少しの暇間な時間であっても無駄にせず、この問題について充分に学び考えるべきである。そして一生を空しく考えることもせずにすごしてしまって、あとで悔いを万歳にまで残すようなことがあってはならない。恐れながら謹んで申し上げる。
[10]<日>八月二十三日日>
[11]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[12]<先>富木殿先>
[13]布施のお金一結はまさに受領いたした。
[14]同じ信仰の志をもった人々は一か所に集まって、この旨をお聞きになるべきであろう。