報恩抄
書下し
報恩抄
[1]日蓮之を撰す
[2]夫れ老狐は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。されば古への賢者豫
攘
(譲)といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう(弘)演と申せし臣下は腹をさひて、衛の懿公が肝を入れたり。いかにいわうや、仏教をならはん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや。
[3]此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ、智者とならで叶うべきか。譬へば衆盲をみちびかんには、生盲の身にては橋河をわたしがたし。方風を弁えざらん大舟は、諸商を導きて宝山にいたるべしや。
[4]仏法を習い極めんとをもわば、いとまあらずば叶うべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず。是非につけて、出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随うべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう。しかれども外典の孝経にも、父母・主君に随わずして忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云く、「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随わずして賢人のな(名)をとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。
[5]かくのごとく存じて、父母・師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂る倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。
[6]世間の学者等おもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと。小乗の三宗はしばらくこれををく、民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ、生死の大海をわたりて、浄土の岸につく大船なれば、此を習いほどひて、我がみ(身)も助け、人をもみちびかんとおもひて、習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等云云。
[7]所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり、仏意をきはめたりと云云。
[8]彼の人々云く、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗云く、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云く、一切経の中には楞伽経第一なり。乃至余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は、世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈をうやまひ、衆星の日月に随うがごとし。
[9]我等凡夫はいづれの師々なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰ぎてこそ信ずべけれども、日蓮が愚案はれ(晴)がたし。世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとく有るらん。何の経にてもをはせ、一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。
[10]而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ。いかんがせんと疑うところに、一の願を立つ。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く、「法に依つて人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此の経に又云く、「了義経に依つて不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。
[11]されば仏の遺言を信ずらならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。随つて法華経の文を開き奉れば、「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。此の経文のごとくば、須弥山の頂に帝釈の居がごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂上に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
[12]されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば、大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは、日輪の青天に出現せる時、眼あきらかなる者の天地を見るがごとく、高下宛然なり。又大日経・華厳経等の一切経をみるに、此の経文に相似の経文一字一点もなし。或は小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦に対して真諦をとき、或は諸の空仮に対して中道をほめたり。譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対して大王等と云云。
[13]但涅槃経計こそ法華経に相似の経文は候へ。されば天台已前の南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経に劣ると云云。されども専ら経文を開き見るには、無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経々をあげて、涅槃経に対して我がみ(身)勝るととひて、又法華経に対する時は、「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等と云云。我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし。此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし。而るを経文にこそ迷うとも、天台・妙楽・伝教大師の御れうけん(料簡)の後は、眼あらん人々はしりぬべき事ぞかし。然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし。いわうや余宗の人々をや。
[14]或る人疑つて云く、漢土日本にわたりたる経々にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも、月氏・竜宮・四王・日・月・忉利天・都率天なんどには恒河沙の経々ましますなれば、其の中に法華経に勝れさせ給う御経やましますらん。
[15]答て云く、一をもつて万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり。癡人が疑つて云く、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生盲にことならず。
[16]法華経の法師品に釈迦如来金口の誠言をもて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く、「我所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経は最も為難信難解なり」等云云。此の経文は但釈迦如来一仏の説なりとも、等覚已下は仰ぎて信ずべき上、多宝仏東方より来りて真実なりと証明し、十方の諸仏集りて釈迦仏と同じく広長舌を梵天に付け給て後各々国々へ還らせ給いぬ。已今当の三字は五十年並びに十方三世の諸仏の御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説かせ給いて候を、十方の諸仏此座にして御判形を加えさせ給い、各々又自国に還らせ給いて、我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説かせ給はば、其の所化の弟子等信用すべしや。
[17]又我は見ざれば月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に法華経に勝れさせ給いたる経やおはしますらんと疑いをなすは、されば梵釈・日月・四天・竜王は法華経の御座にはなかりけるか。若し日月等の諸天、法華経に勝れたる御経まします、汝はしらず、と仰せあるならば大誑惑の日月なるべし。
[18]日蓮せめて云く、日月は虚空に住し給へども、我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は、上品の不妄語戒の力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば、恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに大地の上にどうとおち候はんか、無間大城の最下の堅鉄にあらずばとどまりがたからんか。大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給うべからず、とせめたてまつるべし。
[19]而るを華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給わば、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理のをすところは豈に諸仏の大怨敵にあらずや。提婆・瞿伽梨もものならず、大天・大慢外にもとむべからず。かの人々を信ずる輩はをそろしをそろし。
[20]問うて云く、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏乃至弘法・慈覚・智証等を仏の敵との(宣)給うか。答えて云く、此大なる難也。仏法に入りて第一の大事也。愚眼をもて経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設いいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候。而るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵たらざるべき。若し又をそれをなして指申さずは一切経の勝劣空かるべし。又此の人々を恐れて、末の人々を仏敵といはんとすれば、彼の宗々の末の人々の云く、法華経に大日経をまさりたりと申すは我私の計にはあらず、祖師の御義也。戒行の持破、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたがふ事なし、と申せば彼人々にとがなし。
[21]又日蓮此れを知りながら人々を恐れて申さずば、「寧喪身命不匿教者」の仏陀の諫暁を用いぬ者となりぬ。いかんがせん。いは(言)んとすれば世間をそろし。止とすれば仏の諫暁のがれがたし。進退此に谷り。むべなるかなや、法華経の文に云く、「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」。又云く、「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。
[22]釈迦仏を摩耶夫人はらま(孕)せ給いたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとをし見て、我等が大怨敵法華経と申す利剣をはらみたり。事の成ぜぬ先にいかにしてか失うべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯王宮に入り、御産安穏の良薬を持候大医ありとののしりて、毒を后にまいらせつ。初生の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給いしには黒き毒蛇と変じて道にふさがり、乃至提婆・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて、或は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。此等の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたばかり(巧謀)し「如来現在猶多怨嫉」の大難ぞかし。此等は遠き難なり。近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等も四十余年が間は法華経の大怨敵の内ぞかし。
[23]「況滅度後」と申して未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か提婆が長三丈広一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象にはすぐべきとはおもへども、彼にもすぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々値う人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候わめ。
[24]付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使なり。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎られ、仏陀密多・竜樹菩薩等は赤幡を七年十二年さしとをす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はおもひじにに死す。此等は正法一千年の内なり。
[25]像法に入て五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始は智顗、後には智者大師とがうす。法華経の義をありのまゝに弘通せんと思ひ給しに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども詮じて十流となりぬ。所謂南三北七なり。十流ありしかども、一流をもて最とせり。所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり。
[26]此の人は一代の仏教を五にわかつ。其の五の中に三経をえらびいだ(選出)す。所謂華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白のごとし。第三法華経は公卿のごとし。此れより已下は万民のごとし。此の人は本より智慧かしこき上、慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より習ひ伝え給わるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわ(交)りて法華経・涅槃経・華厳経の功をつも(積)りし上、梁の武帝召し出して内裏の内に寺を立て、光宅寺となづけて此の法師をあがめ給う。法華経をかう(講)ぜしかば、天より花ふること在世のごとし。
[27]天監五年に大旱魃ありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品の「其雨普等四方倶下」と申す二句を講ぜさせ給いし時、天より甘雨下たりしかば、天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈につかえ、万民の国王ををそるゝがごとく、我とつかへ給いし上、或人夢く、此人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり。法華経の疏四巻あり。此の疏に云く、「此経未だ碩然ならず」。亦云く、「異の方便」等云云。正く法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候。此の人の御義、仏意に相ひ叶ひ給いければこそ、天より花も下り雨もふり候けらめ。
[28]かゝるいみじき事にて候しかば、漢土の人人さては法華経は華厳経・涅槃経には劣にてこそあるなれと思いし上、新羅・百済・高麗・日本まで此疏ひろまりて、大体一同の義にて候しに、法雲法師御死去ありていくばくならざるに、梁の末、陳の始に、智顗法師と申す小僧出来せり。南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども、師の義も不審にありけるかのゆへに、一切経蔵に入つて度々御らんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし、此の三経の中に殊に華厳経を講じ給いき。
[29]別して礼文を造りて日々に功をなし給いしかば、世間の人おもはく、此人も華厳経を第一とおぼすかと見えしほどに、法雲法師が一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるが、あまりに不審なりける故に、ことに華厳経を御らんありけるなり。かくて一切経の中に法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給いてなげき給うやうは、如来の聖教は漢土にわたれども、人を利益することなし。かへりて一切衆生を悪道に導びくこと、人師の悞によれり。例せば国の長とある人、東を西といゐ、天を地といゐだしぬれば、万民はかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なり、といわばもちうることなき上、我が長の心に叶わんがために、今の人をのりうち(罵打)なんどすべし。いかんがせんとはおぼせしかども、さてもだす(黙止)べきにあらねば、光宅寺の法雲法師は謗法によて地獄に堕ちぬとののしられ給う。
[30]其時南北の諸師はち(蜂)のごとく蜂起し、からす(烏)のごとく烏合せり。智顗法師をば頭をわる(破)べきか、国をを(逐)うべきか、なんど申せし程に、陳主此れをきこしめして、南北の数人に召し合せて、我と列座してきかせ給いき。法雲法師が弟子等慧栄・法歳・慧曠・慧暇なんど申せし僧正僧都已上の人々百余人なり。各々悪口を先とし、眉をあげ、眼をいからかし、手をあげ、拍子をたたく。而れども智顗法師は末座に坐して色を変ぜず、言を悞らず、威儀しづかにして、諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとにせめかへ(責返)す。をしかへ(押返)して難じて云く、抑も法雲法師の御義に第一華厳第二涅槃第三法華と立させ給いける証文は何れの経ぞ。慥かに明かなる証文を出ださせ給えとせめしかば、各々頭をうつぶせ、色を失いて一言の返事なし。
[31]重ねてせめて云く、無量義経に正しく「次説方等十二部経摩訶般若華厳海空」等云云。仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実と打ち消し給う。法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられて候ぬ。いかに心えさせ給いて、華厳経をば一代第一とは候けるぞ。各々御師の御かたうど(方人)せんとをぼさば、此の経文をやぶりて、此に勝れたる経文を取り出して、御師の御義を助け給えとせめたり。
[32]又涅槃経を法華経に勝るると候けるはいかなる経文ぞ。涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみへず。次上の第九の巻に、法華経と涅槃経との勝劣分明なり。所謂経文に云く、「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞記莂を受くることを得て大菓実を成ずるが如し。秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。経文明に諸経をば春夏と説かせ給い、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども、法華経をば秋収冬蔵大菓実の位、涅槃経をば秋の末冬の始捃拾の位と定め給いぬ。此の経文正く法華経には我身劣ると承伏し給いぬ。法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並との経々に勝れたるのみならず、後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う。すでに教主釈尊かく定め給いぬれば疑うべきにあらねども、我が滅後はいかんがと疑いおぼして、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立て給いしかば、多宝仏大地よりをどり出でて、妙法華経皆是真実と証し、十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給い、広長舌を大梵天に付け、又教主釈尊も付け給う。然して後、多宝仏は宝浄世界えかへり、十方の諸仏各々本土にかへらせ給いて後、多宝分身の仏もおはせざらんに、教主釈尊涅槃経をといて、法華経に勝と仰せあらば、御弟子等は信ぜさせ給うべしや、とせめしかば、日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく、漢王の剣の諸侯の頸にかかりしがごとく、両眼をとぢ一頭を低れたり。天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし、鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり。
[33]かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと、震旦一国に流布するのみならず、かへりて五天竺までも聞へ、月氏大小の諸論も智者大師の御義には勝れず。教主釈尊両度出現しましますか。仏教二度あらはれぬとほめられ給いしなり。
[34]其の後天台大師も御入滅なりぬ。陳隋の世も代りて唐の世となりぬ。章安大師も御入滅なりぬ。天台の仏法やうやく習い失せし程に、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人、貞観三年に始めて月氏に入り、同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ね尽して法相宗と申す宗をわたす。
[35]此の宗は天台宗と水火なり。而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして法華経は一切経には勝れたれども深密には劣るという。而るを天台は御覧なかりしかば、天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに、さもやとをもう。又太宗は賢王なり。玄奘の御帰依あさからず。いうべき事ありしかども、いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし。法華経を打ちかへして、三乗真実、一乗方便、五性各別と申せし事は心うかりし事なり。天竺よりはわたれども、月氏の外道が漢土にわたれるか。法華経は方便、深密経は真実といゐしかば、釈迦多宝十方の諸仏の誠言もかへりて虚くなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。
[36]其後則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられし華厳経に、又重て新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳の華厳をもつて、天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて、華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ。此宗は華厳経をば根本法輪、法華経をば枝末法輪と申すなり。南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳。今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。
[37]其の後玄宗皇帝の御宇に、天竺より善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をわたす。金剛智三蔵は金剛頂経をわたす。又金剛智三蔵に弟子あり。不空三蔵なり。此の三人は月氏の人、種姓も高貴なる上、人がらも漢土の僧ににず。法門もなにとはしらず、後漢より今にいたるまでなかりし印と真言という事をあひそい(相副)てゆゝしかりしかば、天子かうべ(頭)をかたぶけ、万民掌をあわす。
[38]此の人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分也。今の大日経等は大日法王の勅言なり。彼の経々は民の万言、此経は天子の一言也。華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てても及ばず。但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ。されども彼の経は釈迦如来の説、民の正言、此経は天子の正言なり。言は似れども人がら雲泥なり。譬へば濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども水に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕す人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ。善無畏・金剛智、死去の後、不空三蔵又月氏にかへりて菩提心論と申す論をわたし、いよいよ真言宗盛りなりけり。
[39]但し妙楽大師といふ人あり。天台大師よりは二百余年の後なれども、智慧かしこき人にて、天台の所釈を見明てをはせしかば、天台の釈の心は後にわたれる深密経法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経真言宗にも法華経は勝れさせ給いたりけるを、或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故にいはざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失なん。又陳・隋已前の南北が邪義にも勝れたりとおぼして、三十巻の末文を造り給う。所謂弘決・釈籤・疏記これなり。此三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわき(弱)をたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。
[40]又日本国には人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経釈迦仏の像をわたす。又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給いて持経と定め、其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。人王第四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。孝徳より人王第五十代の桓武天王にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。
[41]桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の御弟子なり。法相宗を始めとして六宗を習いきわめぬ。而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに、天台大師の釈を引きのせたり。此疏こそ子細ありげなれ。此国に渡りたるか、又いまだわたらざるか、と不審ありしほどに、有人にとひしかば其人の云く、大唐の揚州竜興寺の僧鑒真和尚は天台の末学、道暹律師の弟子、天宝の末に日本国にわたり給いて、小乗の戒を弘通せさせ給いしかども、天台の御釈持ち来りながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる。其書を見んと申されしかば、取り出して見せまいらせしかば、一返御らんありて、生死の酔をさましつ。此の書をもつて六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見なる事あらはれぬ。
[42]忽に願を発て云く、日本国の人皆謗法の者の檀越たるが天下一定乱れなんずとをぼして、六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。
[43]而るを去る延暦二十一年正月十九日に、天王高雄寺に行幸あて、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす。華厳・三論・法相等の人々各々我宗の元祖が義にたがはず。最澄上人は六宗の人々の所立一々に牒を取りて、本経本論並に諸経諸論に指し合わせてせめしかば、一言も答えず、口をして鼻のごとくになりぬ。天皇をどろき給いて、委細に御たづねありて、重ねて勅宣を下して、十四人をせめ給いしかば、承伏の謝表を奉りたり。
[44]其書に云く「七箇の大寺六宗の学匠乃至初て至極を悟る」等云云。又云く「聖徳の弘化より以降今に二百余年の間講ずる所の経論其数多し。彼此理を争つて其疑未だ解けず。而に此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云。又云く「三論法相久年の諍渙焉として氷の如く解け照然として既に明かに猶雲霧を披いて三光を見るがごとし」云云。最澄和尚十四人が義を判じて云く「各一軸を講ずるに法鼓を深壑に振い賓主三乗の路に徘徊し義旗を高峰に飛す。長幼三有の結を摧破して猶未だ歴劫の轍を改めず白牛を門外に混ず。豈善く初発の位に昇り阿荼を宅内に悟らんや」等云云。弘世・真綱二人の臣下云く「霊山の妙法を南岳に聞き総持の妙悟を天台に闢く一乗の権滞を慨き三諦の未顕を悲しむ」等云云。又十四人の云く「善議等牽て休運に逢て乃ち奇詞を閲す。深期に非るよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云。
[45]此十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑒真等の、漢土日本の元祖等の法門、瓶はかはれども水は一也。而るに十四人彼の邪義をすてて、伝教の法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破れぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるがゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし。
[46]真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。又玄昉等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。
[47]此等を伝教大師御らんありてありしかども、大日経・法華経の勝劣いかんがとおぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去延暦二十三年七月御入唐。西明寺の道邃和尚・仏滝寺の行満等に値い奉りて、止観円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和尚に値い奉りて、真言を相伝し、同延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面。宣旨を下て、六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多く子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて、法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を我が国に立う立じの諍論がわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給わざりけるか。
[48]但依憑集と申す文に、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に値い奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ、邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ。月氏へ渡し給えと、ねんごろにあつら(誂)へし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然也。
[49]されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には法華経はすぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心もかくのごとし。大智度論を能能尋ぬるならば此事分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて此事に迷惑せるか。
[50]又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天皇は御ほうぎよ、平城天王に見参し、御用いありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給いしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は嵯峨の天王弘仁十三年六月四日御入滅。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師となり、真言宗を立てて東寺を給い、真言和尚とがうし、此より八宗始る。
[51]一代の勝劣を判じて云く、第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向うれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し。天台大師は盗人なり。真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかゝれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。例ば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし。伝教大師御存生ならば、一言は出されべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。
[52]慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をならう。法華・大日経の勝劣を習いしに、法全・元政等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝等云云。天台宗の志遠・広修・維蠲等に習いしには大日経は方等部の摂等云云。同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨下。法華・大日経等の勝劣は漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻、此疏の心は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と法華経の義は、其所詮の理は一同なれども、事相の印と真言とに真言の三部経すぐれたりと云云。此は偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。
[53]然れども我が心に猶不審やのこりけん。又心にはとけ(解)てんけれども、人の不審をはらさんとやをぼしけん。此十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて御祈請ありき。かくは造りて候へども仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされる、と御祈念有りしかば、五日と申す五更に忽に無想あり。青天に大日輪かゝり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛んで天にのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転して、すでに地に落んとす、とをもひてうちさめ(打覚)ぬ。悦んで云く、我吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみ(文)は仏意に叶いけり、と悦ばせ給いて宣旨を申し下して、日本国に弘通あり。而も宣旨の心に云く、「遂に知んぬ。天台の止観と真言の法義とは理冥に符えり」等と云云。祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるやうなり。宣旨を申し下すには、法華経と大日経とは同じ等云云。
[54]智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は大体此国にして学し給いけり。天台・真言二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡り給いけるか。去る仁寿二年に御入唐、漢土にしては真言宗は法全・元政等にならはせ給い、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良諝和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ばず等云云。七年が間漢土に経て、去る貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰に云く「法華尚及ばず況や自余の教をや」等云云。此釈は法華経は大日経には劣る等云云。又授決集に云く「真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり」等云云。普賢経の記・論の記に云く、「同じ」等云云。
[55]貞観八年丙戌四月二十九日壬申勅宣を申し下して云く「聞くならく真言止観両教の宗同じく醍醐と号し倶に深秘と称す」等云云。又六月三日の勅宣に云く「先師既に両業を開いて以て我が道と為す。代々の座主相承して兼ね伝えざること莫し。在後の輩豈旧迹に乖かんや。聞くならく山上の僧等専ら先師の義に違いて偏執の心を成ず。殆んど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり。凡そ厥師資の道一を闕くも不可なり。伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや。今より以後宜く両教に通達する人を以て延暦寺の座主と為し立てて恒例と為すべし」云云。
[56]されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値いて有りしかども、二宗の勝劣は思い定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり。此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用いじとみえて候。但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引き載せられたり。抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや。此事よくよく尋ぬべし。
[57]慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは、親に値うての年あらそひ、日天に値い奉りての目くらべにて候へども、慈覚・智証の御かたふどをせさせ給はん人々は、分明なる証文をかまへさせ給うべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし。天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき。法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、嘱累の先後をば漢土の人みねども、悞といひしぞかし。設い慈覚、伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも、智証、義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加えざらん。
[58]伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の秘書なり。彼書の序に云く「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し旧到の華厳家は則ち影響の軌範を隠し、沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れて称心の酔を覆う。著有の法相は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う等。乃至謹んで依憑集一巻を著わして同我の後哲に贈る。某の時興ること日本第五十二葉弘仁の七丙申の歳なり」云云。次ぎ下の正宗に云く「天竺の名僧、大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞いて渇仰して訪問す」云云。次ぎ下に云く「豈中国に法を失つて之を四維に求むるに非ずや。而も此の方に識ること有る者少し。魯人の如きのみ」等云云。
[59]此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文也。天台・真言の二宗同一味ならば、いかでかせめ候べき。而も不空三蔵等をば魯人のごとしなんどかかれて候。善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あるべき。又天竺の真言が天台宗に同じきも又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空にあつらへ、中国に正法なしとはいうべき。
[60]それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給えども、心は御弟子にあらず。其の故は此の書に云く「謹んで依憑集一巻を著わして同我の後哲に贈る」等云云。同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ、同我にてはあるべけれ。我と申し下さるる宣旨に云く「専ら先師の義に違い偏執の心を成ず」等云云。又云く「凡そ厥師資の道一を闕いても不可なり」等云云。此の宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ。かうせめ候もをそれにては候へども、此をせめずば、大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまと(的)にかけてせめ候なり。此の二人の人々の弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候いけるなり。されば粮米をつくし、人をわづらはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給うべかりけるにや。
[61]されば叡山の仏法は但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給う人なり。已今当の経文をやぶらせ給うは、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。其の故は水火天地なる事は僻事なれども、人用ふる事なければ其の僻事成ずる事なし。弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ふる事なし。事相計りは其の門家なれども、其の教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり。
[62]慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なり、なんど申せば皆人さもやとをもう。かうをもうゆへに、事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像・木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり。例せば法師と尼と黒と青とはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。僧と男と白と赤とは目くらき人も迷わず。いわうや眼あきらかなる者をや。慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とがごとくなるゆへに、智人も迷い愚人もあやまり候て、此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州皆謗法の者となりぬ。
[63]抑も法華経の第五に「文殊師利此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。此の経文のごとくならば、法華経は大日経等の衆経の頂上に住し給う正法なり。さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給うべき。法華経の第七に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云。此の経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。
[64]伝教大師の秀句と申す書に云く「此の経も亦復是くの如し乃至諸の経法の中に最も為第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為第一なり」。已上経文なりと引き入れさせ給いて次ぎ下に云く「天台法華玄に云く」等云云。已上玄文とかかせ給いて上の心を釈して云く「当に知るべし。他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る豈自歎ならん哉」等云云。次下に譲る釈に云く「委曲の依憑具さに別巻に有るなり」等云云。
[65]依憑集に云く「今吾が天台大師法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す。明に知んぬ如来の使なり。讃る者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」等云云。法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。
[66]月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせ給いて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にす(居)へ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給う。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日、金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う。此れ即ち法華経の行者なり。天竺かくのごとし。
[67]漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて現身に大師となる。「群に特秀し唐に独歩す」というこれなり。
[68]日本国には伝教大師六宗にせめかちて日本の始め第一の根本大師となり給う。
[69]月氏・漢土・日本に但三人計りこそ「於一切衆生中亦為第一」にては候へ。されば秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人。釈尊を加へ奉りて已上三人なり。
[70]外典に云く、聖人は一千年に一出で、賢人は五百年に一出づ。黄河は涇・渭ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年には共に清む、と申すは一定にて候けり。
[71]然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時、法華経の行者ましましけり。義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半は伝教の御弟子、半は弘法の弟子なり。第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子ににたり、御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其跡をばつがせ給えども、法門は全く御弟子にはあらず。而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず。梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法華経の父を食らい、持者の母をかめるなり。日をい(射)るとゆめ(夢)にみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。
[72]智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山の、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊の慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかん(感)ぜり。但中堂計りのこれり。
[73]弘法大師も又跡なし。弘法大師の云く、東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず等、御いましめの状あり。しかれども寛平法王は仁和寺を建立して、東寺の法師をうつして、我寺には叡山の円頓戒を持ざらん者をば住せしむべからずと、宣旨分明なり。されば今の東寺の法師は鑒真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず。戒は伝教の御弟子なり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。
[74]去る承和二年三月二十一日に死去ありしかば公家より遺体をはほ(葬)らせ給い、其後誑惑の弟子等集りて、御入定と云云。或はかみ(髪)をそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷をかんど(漢土)よりなげたりといゐ、或は日輪夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となり給うといひ、或は伝教大師に十八道ををしえまいらせたりといゐて、師の徳をあげて智慧にかへ、我師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり。又高野山に本寺・伝法院といいし二の寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。此本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二の禍の出現せるか。
[75]糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞の香なり。大妄語を集めて仏とがうすれども但無間大城なり。尼犍が塔は数年が間、利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽にくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばり(帷)は多年人をたぼらかせしかども、阿溼縛寠沙菩薩にせめられてやぶれぬ。狗留外道は石となつて八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ。道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。趙高が国をとりし、王漭が位をうばいしがごとく、法華経の位をと(奪)て大日経の所領とせり。法王すでに国に失ぬ。人王あに安穏ならんや。日本国は慈覚・智証・弘法の流なり。一人として謗法ならざる人はなし。
[76]但し事の心を案ずるに、大荘厳仏の末、一切明王仏の末法のごとし。威音王仏の末法には改悔ありしすら、猶千劫阿鼻地獄に堕つ。いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。「如是展転至無数劫」疑いなきものか。かゝる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつれば、ふるき守護の善神もほこらをやひ(焼)て寂光の都へかへり給いぬ。但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだみ、数百人の民に或は罵詈、或は悪口、或は杖木、或は刀杖、或は宅々ごとにせき、或は家々ごとにをう。それにかなはねば、我と手をくだして二度まで流罪あり。去ぬる文永八年九月の十二日には頸を切らんとす。
[77]最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云。大集経に云く「若しは復諸の刹利国王有つて諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し刀杖をもつて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い、若しは他の給施せんに留難を作さば我等彼れをして自然に他方の怨敵を卒起せしめん。及び自界の国土にも亦兵起り病疫飢饉し非時の風雨闘諍言訟せしめん。又其の王をして久しからざらしめ復当に己が国を亡失すべし」等云云。此等の経文のごときは日蓮この国になくば、仏は大妄語の人阿鼻地獄はいかで脱給うべき。
[78]去ぬる文永八年九月十二日に平左衛門並びに数百人に向て云く、日蓮は日本国のはしら(柱)なり。日蓮を失うほどならば日本国のはしらをたをす(倒)になりぬ等云云。此の経文に、智人を国主等若は悪僧等がざんげんにより、若は諸人の悪口によて、失にあつるならば、にはかにいくさ(軍)をこり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。去ぬる文永九年二月のどし(同士)いくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。誰の人か疑うべき。
[79]弘法・慈覚・智証の悞並びに禅宗と念仏宗とのわざわい(禍)あいをこりて、逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう。太政入道が国ををさ(押)へ、承久に王位つきはてゝ世東にうつりしかども、但国中のみだれにて他国のせめはなかりき。彼は謗法の者は国に充満せりといへどもさゝ(支)へ顕わす智人なし。かるがゆへに、なのめ(平)なりき。
[80]譬へば師子のねぶれるは手をつけざればほへず。迅流は櫓をさゝへざれば波たかからず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加えざればさかんならず。謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。例せば日本国に仏法わたりはじめて候いしに、始はなに事もなかりしかども、守屋仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさう(疱瘡)をこり、兵乱つづきしがごとし。此はそれにはにるべくもなし。謗法の人々も国に充満せり。日蓮が大義も強くせめかゝる。修羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にもをとるべからず。
[81]金光明経に云く「時に鄰国の怨敵是くの如き念を興さん。まさに四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云。又云く「時に王見已つて即ち四兵を厳いて彼の国に発向し討罰を為んと欲す。我等爾の時にまさに眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云。最勝王経の文又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。
[82]此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等、鄰国の賢王の身に入りかわりて其国をせむべしとみゆ。例せば訖利多王を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失いしがごとし。訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし。漢土にも仏法をほろぼしゝ王、みな賢王にせめられぬ。
[83]これは彼にはにるべくもなし。仏法のかたうどなるやうにて、仏法を失う法師のかたうどをするゆへに、愚者はすべてしらず、智者なんども常の智人はしりがたし。天も下劣の天人は知らずもやあるらん。されば漢土月氏のいにしへ(古)のみだれよりも大きなるべし。
[84]法滅尽経に云く「吾般泥洹の後五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作つて吾が道を壊乱せん。乃至悪人転多く海中の沙の如く善者甚だ少して若しは一若しは二」云云。涅槃経に云く「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは抓上の土の如し乃至是の経を信ぜざるものは十方界の所有の地土の如し」等云云。此経文は予が肝に染みぬ。当世日本国には我も法華経を信じたり信じたり。諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし。此経文には、末法に謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。経文と世間とは水火なり。世間の人云く、日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。又経文には天地せり。法滅尽経には善者一・二人。涅槃経には信者爪上土等云云。経文のごとくならば、日本国は但日蓮一人こそ爪上土・一二人にては候へ。経文をか用うべき、世間をか用うべき。
[85]問うて云く、涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華経等云云如何。
[86]答えて云く、涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云。妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云。大経と申すは涅槃経也。涅槃経には法華経を極と指て候なり。而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ、下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり。譬へば、賢人は国主を重んずる者をば我をさぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下て我をほむる人をば、あながちに敵とにくませ給う。此の例をもつて知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣るとよむは彼々の経々の心にはそむくべし。此をもつて知るべし。法華経をよむ人の此経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なる(成)とおもうは、此経をよまぬ人なり。
[87]例せば嘉祥大師は法華玄と申す文十巻造りて、法華経をほめしかども、妙楽かれをせめて云く、「毀其の中に在り何ぞ弘讃と成さん」等云云。法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて、天台につかひ(仕)て法華経をよまず。我れ経をよむならば悪道まぬがれがたしとて、七年まで身を橋とし給いき。
[88]慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あり。伝教大師せめて云く「法華経を讃むるといえども還て法華の心を死す」等云云。
[89]此等をもつてをもうに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや。
[90]嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも猶や已前の法華経誹謗の罪やきへざるらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて千劫阿鼻に堕ちぬ。されば弘法・慈覚・智証等は設いひるがへす心ありとも尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失い、真言教を昼夜に行い、朝暮に伝法せしをや。
[91]世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。世親菩薩は仏説なれども阿含経をばたわふれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給いき。
[92]嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて、百余人の智者の前にして五体を地になげ、徧身にあせ(汗)をながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかう(講)ぜじ。弟子の面をまほり法華経をよみたてまつれば、我力の此経を知るにに(似)たりとて、天台よりも高僧老僧にておはせしが、わざと人のみるときをひ(負)まいらせて河をこへ、かうざ(高座)にちかづきてせなか(背)にのせまいらせ給いて高座にのぼせたてまつり、結句御臨終の後には、隋の皇帝にまい(参)らせて、小児が母にをくれたるがごとくに足をすりてなき給いしなり。嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ。此が謗法の根本にて候か。
[93]華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一とこそかゝれて候へ。嘉祥とが(科)あらば善無畏三蔵も脱がたし。
[94]されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてて他国にいたり、殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。
[95]しかれども大日経を習いしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。始はいたう其義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽に頓死して、二人の獄卒に鉄の縄七つけられて、閻魔王宮にいたりぬ。命いまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法とやをもひけん、真言の観念・印・真言等をばなげすてゝ、法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れ、かへされ給いぬ。
[96]又雨のいのりををほせつけられたりしに、忽に雨は下たりしかども、大風吹きて国をやぶる。結句死し給いてありしには、弟子等集りて臨終いみじきやうをほめしかども、無間大城に堕ちにき。
[97]問うて云く、何をもつてかこれをしる。答えて云く、彼伝を見るに云く、「今畏の遺形を観るに漸く加縮小し黒皮隠々として骨其露なり」等云云。彼の弟子等は死後に地獄の相の顕われたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらはせる筆は畏が失をかけり。死してありければ、身やふやくつづま(縮)りちひさ(小)く、皮はくろ(黒)し、骨あらわ(露)なり等云云。人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。幼少にして位をすてぬ。第一の道心なり。月氏五十余箇国を修行せり。慈悲の余りに漢土にわたれり。天竺・震旦・日本・一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふるこの人の功徳にあらずや。いかにして地獄には堕ちけると、後生ををもはん人々は御尋ねあるべし。
[98]又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり。金剛頂経を漢土にわたす。其徳善無畏のごとし。又互に師となれり。而るに金剛智三蔵勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る。天子大に悦ばせ給うほどに忽に大風吹き来る。王臣等けうさめ(興覚)給いて使をつけて追はせ給いしかども、とかうのべて留し也。結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて、身の代に殿上の二の女子七歳になりしを、薪につみこめて焼き殺せし事こそ、無慚にはをぼゆれ。而れども姫宮もいきかへり給はず。
[99]不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり。此等の事を不審とやおもひけん。畏と智と入滅の後、月氏に還りて竜智に値い奉り、真言を習いなを(直)し、天台宗に帰伏してありしが、心計りは帰れども身はかへる事なし。雨の御いのりうけ給わりたりしが、三日と申すに雨下る。天子悦ばせ給いて我と御布施ひかせ給う。須臾ありしかば、大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり、雲閣月卿の宿所一所もあるべしともみへざりしかば、天子大に驚きて宣旨なりて風をとどめよ。且らくありては又吹き、又吹きせしほどに、数日が間やむことなし。結句は使をつけて追うてこそ、風もやみてありしか。
[100]此三人の悪風は漢土日本の一切の真言師の大風なり。
[101]さにてあるやらん。去ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか。心にくし心にくし。
[102]弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏祈雨して七日が内に雨を下す。但し京中にふりて田舎にそゝがず。次に弘法承取て一七日に雨気なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば雨下事三日。此をば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり、我雨として今に四百余年、弘法の雨という。
[103]慈覚大師の夢に日輪をい(射)しと、弘法大師の大妄語に云く、弘仁九年の春大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云。成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし。
[104]慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に、日輪をいるとゆめにみるは吉夢という事有りやいなや。修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡す。日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云く、我はこれ日天の子孫なり。日に向い奉りて弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと云云。
[105]阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎよしん(御寝)なりしが、おどろいて諸臣に向て云く、日輪天より地に落つとゆめにみる。諸臣の云く、仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。我国は殊にいむ(忌)べきゆめなり。神をば天照という。国をば日本という。
[106]又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給える太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此夢出現せり。
[107]例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に値うて、法華経をよみたりしが、後には道綽に値うて法華経をすて、観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生百即百生と定めて、此義を成ぜんがために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶うやいなや、毎夜夢の中に常に一の僧有り、来て指授すと云云。乃至一経法の如くせよ乃至観念法門経等云云。法華経には「もし法を聞く者有れば一として成仏せざる無し」と。善導は「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火也。善導は観経をば十即十生百即百生と。無量義経に云く、観経は「未だ真実を顕さず」等云云。無量義経と楊柳房とは天地也。此を阿弥陀仏の僧と成りて来つて真なりと証せばあに真事ならんや。抑も阿弥陀は法華経の座に来りて、舌をば出だし給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。
[108]問うて云く、弘法大師の心経の秘鍵に云く「時に弘仁九年の春天下大疫す。爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握りて般若心経一巻を書写し奉りたもう。予講読の撰に範りて経旨の宗を綴る。いまだ結願の詞を吐かざるに蘇生の族途に彳ずむ。夜変じて日光赫々たり。是れ愚身の戒徳に非ず。金輪の御信力の所為なり。但し神舎に詣でん輩はこの秘鍵を誦し奉れ。昔予鷲峰説法の筵に陪して親くその深文を聞きたてまつる。豈その義に達せざらんや」等云云。
[109]又孔雀経の音義に云く「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲し諸宗を朝廷に群集す。即身成仏の義を疑う。大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成り即便本体に還帰す。入我我入の事即身頓証の疑いこの日釈然たり。しかるに真言瑜伽の宗秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」。又云く「この時に諸宗の学徒大師に帰して始めて真言を得て請益し習学す。三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等皆その類なり」。
[110]弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟の日発願して云く我が所学の教法もし感応の地有らばこの三鈷その処に到るべしと。よつて日本の方に向て三鈷を抛げ上ぐ遥かに飛んで雲に入る。十月に帰朝す」云云。又云く「高野山の下に入定の所を占む。乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云。大師の徳無量なり。其両三を示す。かくのごとくの大徳あり。いかんが此人を信ぜずして、かへりて阿鼻地獄に堕つるといはんや。
[111]答えて云く、予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。但し古の人々も不可思議の徳ありしかども、仏法の邪正は其にはよらず。外道が或は恒河を耳に十二年留め、或は大海をすひ(吸)ほし、或は日月を手ににぎり、或は釈子を牛羊となしなんどせしかども、いよいよ大慢をこして生死の業とこそなりしか。此をば天台云く、「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ。光宅が忽に雨を下し須臾に花を感ぜしをも、妙楽は「感応かくの如くなれどもなお理に称わず」とこそかかれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて須臾に甘雨を下せ、伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしてをはせしも、其をもつて仏意に叶うとはをほせられず。
[112]弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふで(筆)は、智慧かしこからん人は用うべからず。いかにいわうや、上にあげられて候徳どもは不審ある事なり。
[113]「弘仁九年の春天下大疫等云云。春は九十日、何の月何の日ぞ。是一。又弘仁九年には大疫ありけるか。是二。又「夜変じて日光赫赫たり」と云云。此事第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり。左史右史の記に載せたりや。是三。設い載せたるとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫、已上二十九劫が間にいまだ無き天変也。夜中に日輪の出現せる事如何。又如来一代の聖教にもみへず。未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳五典にも載せず。仏経のごときんば、減劫にこそ二の日三の日乃至七の日は出ずべしとは見えたれども、かれは昼のことぞかし、夜日出現せば東西北の三方は如何。設い内外の典に記せずとも、現に弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に日出ずるという。公家・諸家・叡山等の日記あるならば、すこし信ずるへんもや。
[114]次下に、「昔予鷲峰説法の筵に陪して親くその深文を聞く」等云云。此筆を人に信ぜさせしめんがために、かまへ出だす大妄語か。されば霊山にして法華は戯論、大日経は真実と仏の説き給いけるを、阿難・文殊が悞りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨す雨を、三七日まで下さざりし人はかゝる徳あるべしや。是四。
[115]孔雀経の音義に云く、「大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。此又何れの王、何れの年時ぞ。漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして、緇素の日記、大事には必ず年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。
[116]又次に云く、「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云。抑も円澄は寂光大師天台第二の座主なり。其時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教大師をば召さざりけるや。円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども、又弘法大師の弟子なり。弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか。而も此日記に云く、「真言瑜伽の宗秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」等云云。此筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛に真言をひろめし人なり。其時は此二人現にをはします。又義真は天長十年までおはせしかば、其時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。
[117]孔雀経の疏は弘法の弟子真済が自記なり。信じがたし。又邪見者か。公家・諸家・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。
[118]「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。面門とは口なり。口の開けたりけるか。眉間開くとかゝんとしけるが、悞りて面門とかけるか。ぼう(謀)書をつくるゆへにかかるあやまりあるか。
[119]「大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。涅槃経の五に云く「迦葉仏に白して言さく、世尊我今是の四種の人に依らず、何を以ての故に。瞿師羅経の中の如き、仏瞿師羅が為に説きたまわく、もし天魔梵破壊せんと欲するが為に変じて仏の像と為り、三十二相八十種好を具足し荘厳し円光一尋面部円満なること猶月の盛明なるがごとく、眉間の毫相白きこと珂雪に踰え、乃至左の脇より水を出し右の脇より火を出す」等云云。又六巻に云く「仏迦葉に告げたまわく、我般涅槃して乃至後是の魔波旬漸くまさに我の正法を沮壊すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り魔王この有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん」等云云。
[120]弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此涅槃経には魔有漏の形をもつて仏となつて我正法をやぶらんと記し給う。涅槃経の正法は法華経なり。故に経の次下の文に云く「久く已に成仏す」。又云く「法華の中の如し」等云云。釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。
[121]又三鈷の事、殊に不審なり。漢土の人の日本に来りてほり(掘)いだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみ(埋)けん。いわうや弘法は日本の人、かゝる誑乱其数多し。此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし。
[122]されば此真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来る程に、人王八十二代尊成隠岐の法王権太夫殿を失わんと年ごろはげませ給いけるゆへに、国主なればなにとなくとも、師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそあるべかりし上、叡山・東寺・園城・奈良七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、或は調伏、或は神に申させ給いしに、二日三日だにもさゝへかねて、佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失せて終にかくれさせ給いぬ。
[123]調伏の上首御室は但東寺をかへらるゝのみならず、眼のごとくあひ(愛)せさせ給いし第一の天童勢多伽が頸切られたりしかば、調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ。これはわづかの事なり。此後定んで日本の国臣万民一人もなく、乾草を積みて火を放つがごとく、大山のくづれて谷をうむるがごとく、我が国他国にせめらるる事出来すべし。
[124]此事日本国の中に但日蓮一人計りしれり。いゐいだすならば、殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の竜蓬が頸を切りしがごとく、檀弥羅王の師子尊者が頸を刎ねしがごとく、竺の道生が流されしがごとく、法道三蔵のかなやき(火印)をや(焼)かれしがごとくならんずらんとはかねて知りしかども、法華経には「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」ととかれ、涅槃経には「寧身命を喪うとも教を匿さざれ」といさめ給えり。
[125]今度命をおしむならば、いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず、或は所をおひ、或はのり、或はうたれ、或は疵をかうふるほどに、去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ。又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。
[126]其後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此には及ばじとをぼゆ。日本六十六箇国嶋二の中に一日片時も何れの所にすむべきやうもなし。古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も、日蓮に値いぬれば悪口をはく。正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も、日蓮を見ては理をまげて非とをこなう。いわうや世間の常の人々は犬のさる(猿)をみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににたり。
[127]日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし。道理なり。人ごとに念仏を申す、人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに。人ごとに真言を尊む、真言は国をほろぼす悪法という。国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為というゆへに。我と招けるわざわひなれば人ののるをもとがめず。とがむとても一人ならず。打つをもいたまず、本より存ぜしがゆへに。
[128]かういよいよ身もをしまずせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人(権家)につき、或はきり女房(権閨)につき、或は後家尼御前等につきて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事日本国を失わんと咒そ(咀)する法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし。但須臾に頸をせめ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給いしかば、そのまゝ行われけり。
[129]去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相摸国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其夜はのびて依智というところへつきぬ。又十三日の夜はゆり(許)たりととどめき(多口)しが、又いかにやありけん、さど(佐渡)の国までゆく。今日切る、あす切る、といひしほどに四箇年というに、結句は去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉に入り、同じき四月の八日、平左衛門尉に見参して、やうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ。同じき五月の十二日にかまくら(鎌倉)をいでて、此山に入れり。これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざればさてこそ候へ。又賢人の習い、三度国をいさむるに用いずば、山林にまじわれということは、定まるれい(例)なり。
[130]此功徳は定めて上三宝、下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん。
[131]但疑い念うことあり。目連尊者は扶けんとおもいしかども母の青提女は餓鬼道に堕ちぬ。大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちぬ。これは力のまやすく(救)はんとをぼせども自業自得果のへん(辺)はすくひがたし。
[132]故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば後生はいかんがと疑う。但一の冥加には景信と円智・実城とがさきにゆきしこそ、一のたすかりとはをもへども、彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失ぬ。後にすこし信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりきなり。ひるのともしび(灯)なにかせん。其上いかなる事あれども子・弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし。力なき人にもあらざりしが、さど(佐渡)の国までゆきしに、一度もとぶら(訪)はれざりし事は信じたるにはあらぬぞかし。
[133]それにつけてもあさましければ、彼人の御死去ときくには、火にも入り、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて、御はか(墓)をもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそおもへども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出ずるならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。
[134]但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給いしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、おひ(追)てしのび出でられたりしは、天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑いおぼすべからず。
[135]問うて云く、法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。
[136]答えて云く、華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経。かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其経の肝心なり。
[137]大は大につけ、小は小につけて、題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等、亦復かくのごとし、仏も又かくのごとし。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通仏・雲雷音王仏、是等の仏も又名の内に其仏の種々の徳をそなへたり。今の法華経も亦もつてかくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心。亦復一切経の肝心。一切諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり。
[138]問うて云く、南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱うると、南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱うると斉等なりや。浅深の功徳差別せりや。答えて云く、浅深等あり。
[139]疑て云く、其心如何。答えて云く、小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども、大河ををさめず。大河は露乃至小河を摂むれども、大海ををさめず。阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河ををさむる大河なり。法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一渧ももらさぬ大海なり。
[140]譬へば身の熱者の大寒水の辺にいねつればすずしく、小水の辺に臥ぬれば苦がごとし。五逆謗法の大一闡提人。阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さん(散)じがたし。法華経の大雪山の上に臥ぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散ずべし。
[141]されば愚者は必ず法華経を信ずべし。各々経々の題目は易き事同じといへども、愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥なり。譬へば大綱は大力も切りがたし。小力なれども小刀をもてたやすくこれをきる。譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破がたし。利剣をもてば小力も破ぬべし。譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服せども病やまず。譬へば仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども、命をのべず。
[142]疑つて云く、二十八品の中に何か肝心ぞや。答えて云く、或は云く、品々皆事に随いて肝心なり。或は云く、方便品・寿量品肝心なり。或は云く、方便品肝心なり。或は云く、寿量品肝心なり。或は云く、開・示・悟・入肝心なり。或は云く、実相肝心なり。
[143]問うて云く、汝が心如何。答う、南無妙法蓮華経肝心なり。其証如何。答えて云く、阿難・文殊等、如是我聞等云云。問うて云く、心如何。答えて云く、阿難と文殊とは八年が間、此法華経の無量の義を一句一偈一字も残さず聴聞してありしが、仏の滅後に結集の時、九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、妙法蓮華経とかゝせて如是我聞と唱えさせ給いしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。
[144]されば過去の灯明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は、「如是とは将に所聞を伝えんとして前題に一部を挙ぐるなり」等云云。霊山にまのあたりきこしめしてありし天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云。章安大師の云く、「記者釈して曰く、蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文心を述ぶ」等云云。此釈に文心とは題目は法華経の心也。妙楽大師云く、「一代の教法を収むること法華の文心より出ず」等云云。
[145]天竺は七十箇国なり。総名は月氏国。日本は六十箇国、総名は日本国。月氏の名の内に七十箇国乃至人畜珍宝みなあり。日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽も奥州の金も、乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂れり。天眼をもつては、日本と申す二字を見て、六十六国乃至人畜等をみるべし。法眼をもつては、人畜等の此に死し彼に生るをもみるべし。譬へば、人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、雨をみて竜の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。
[146]阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏のみありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし。例せば華さいて菓ならず。雷なつて雨ふらず。鼓あて音なし。眼あて物をみず。女人あて子をうまず。人あて命なし、又神なし。大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし。彼の経経にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども、法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず、皆各々当体の自用を失ふ。
[147]例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ、諸の鉄の一の磁石に値うて利精のつ(尽)き、大剣の小火に値て用を失い、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり、衆狐が術一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがごとし。南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏諸経諸菩薩の用、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。彼の経々は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのもの(徒物)なるべし。当時眼前のことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひる(干)がごとく、秋冬の草のかるゝがごとく、冰の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
[148]問うて云く、此法実にいみじくばなど迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすゝめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとくすゝめ給はざりけるやらん。
[149]答えて云く、此難は古の難なり。今はじめたるにはあらず。馬鳴・竜樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此人々世にいでゝ大乗経を弘通せしかば、諸々の小乗の者疑つて云く、迦葉・阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給いて、正法をひろめ給いしは如来一代の肝心をこそ弘通し給いしか。而るに此人々は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給いしに、今馬鳴・竜樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず〈是一〉。迦葉は仏にあひ(値)まいらせて解をえたる人なり。此人々は仏にあひたてまつらず〈是二〉。外道は常楽我浄と立てしを、仏世に出でさせ給いて苦・空・無常・無我と説かせ給いき。此のものどもは常楽我浄といへり〈是三〉。されば仏も御入滅なりぬ。又迦葉等もかくれさせ給いぬれば、第六天の魔王が此ものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり、外道の法となさんとするなり。されば仏法のあだをば頭をわれ、頸をきれ、命をた(断)て、食を止めよ、国を追へと、諸の小乗の人々申せしかども、馬鳴竜樹等は但一二人なり。昼夜に悪口の声をきき、朝暮に杖木をかうふ(被)りしなり。而れども此二人は仏の御使ぞかし。正く摩耶経には六百年に馬鳴出で、七百年に竜樹出でんと説かれて候。其上、楞伽経等にも記せられたり。又付法蔵経には申すにをよばず。されども諸の小乗のものどもは用いず。但理不尽にせめしなり。「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文は此時にあたりて少しつみしられけり。提婆菩薩の外道にころされ、師子尊者の頸をきられし、此事をもつておもひやらせ給へ。
[150]又仏滅後一千五百余年にあたりて、月氏よりは東に漢土といふ国あり。陳・隋の代に天台大師出世す。此人の云く、如来の聖教に大あり小あり。顕あり密あり。権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて、実大乗の法華経をば或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず。或は迹門をのべて本門をあらはさず。或は本迹あつて観心なしといひしかば、南三北七の十流が末、数千万人時をつくりどつとわらふ。世の末になるまゝに不思議の法師も出現せり。時にあたりて我等を偏執する者はありとも、後漢の永平十年丁卯の歳より今陳・隋にいたるまでの三蔵人師二百六十余人を、ものもしらずと申す上、謗法の者なり、悪道に堕つといふ者出来せり。あまりのものくるはしさに、法華経を持て来り給へる羅什三蔵をも、ものしらぬ者と申す也。漢土はさてもをけ、月氏の大論師竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり。此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり。鬼をころすにもすぐべしとのゝしりき。
[151]又妙楽大師の時、月氏より法相・真言わたり、漢土に華厳宗の始まりたりしを、とかくせめしかば、これも又さはぎしなり。
[152]日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給い、天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給いしかば、在世の外道・漢土の道士、日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は、同く小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其を持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生れたり。後周の宇文・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし。国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師出現せば、修羅と帝釈と、項羽と高祖と、一国に並べるなるべし。諸人手をたゝき、舌をふるふ。在世には仏と提婆が二の戒壇ありてそこばくの人々死ににき。されば他宗にはそむくべし。我師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。あらおそろしおそろしとのゝし(罵)りあえりき。されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ。
[153]されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給いたり。世末になれば、人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱人には強きかたうど(方人)有りて扶くるこれなり。
[154]問うて云く、天台伝教の弘通し給わざる正法ありや。答えて云く、有り。求めて云く、何物ぞや。答えて云く、三あり。末法のために仏留め置き給う。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。
[155]求めて云く、其形貌如何。答えて云く、一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。
[156]此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず、日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり。
[157]例せば風に随つて波の大小あり。薪によて火の高下あり。池に随つて蓮の大小あり。雨の大小は竜による。根ふかければ枝しげし。源遠ければ流ながしというこれなり。周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道なり。
[158]日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳。春は花さき、秋は菓なる、夏はあたたかに、冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。
[159]「我滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提において断絶して悪魔魔民諸の天竜夜叉鳩槃荼等にその便りを得せしむること無けん」等云云。此経文若しむなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならじ。迦葉尊者は光明如来とならじ。目犍は多摩羅跋栴檀香仏とならじ。阿難は山海慧自在通王仏とならじ。摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ。耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし。いかでかその義あるべき。其義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。
[160]されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
[161]建治二年〈太歳丙子〉<日>七月二十一日日><改行> 之を記す
[162]<先>甲州波木井郷蓑歩嶽より安房国東条郡清澄山浄顕房義城房の本へ奉送す先>
現代語訳
報恩抄
建治二年(一二七六)七月二一日、五五歳、於身延、浄顕房・義城房他宛、和文、定一一九二—一二五〇頁。
[1]日蓮、これを撰述す
報恩の大切さ
[2]老狐は故里を忘れず、死ぬ時はかならず首をもとに住んでいた丘に向け、昔、毛宝に助けられた白亀はその恩を忘れず毛宝が戦いに負けた時に水の上を渡して窮地を救った、と言われている。このように、動物でさえ恩を知り恩に報ずるということがある。まして人間が恩を知り恩に報いることをわきまえないでよいはずがない。そこで、昔、豫譲という賢者は主君智伯の恩に報ずるために、身に漆を塗ったり炭を呑んだりして身を変え主君の仇を討とうとした。衛の弘演という人は主君懿公の命で他国に行っている間に主君が殺されたため、自分の腹を割いて主君の肝を入れて死んだ。世間の人でさえそうなのであるから、まして仏教を習学し実践しようとする者は父母・師匠・国の恩を忘れてはならない。
真実の報恩
[3]この大恩に報いるためには、かならず仏法を習い究めて智者とならなければならない。たとえば大勢の眼の不自由な人たちを導くためには、自分の眼が見えなければ橋や河を渡すことができない。風の方向をわきまえない船がどうして大勢の商人を乗せて宝の山に行くことができよう。
[4]仏法を習い究めようと思えば、時間のゆとりがなければできない。時間のゆとりを得ようと思えば、父母・師匠・国主などに随ったりして世俗のことがらにかかわっていてはならない。どのようなことがあっても、出離の道(生死を解脱する道、悟りの道、仏道)を体得するまでは、父母や師匠などの心に随っていてはならない。このような考えかたは、世間のいろいろな人たちは、世間の道理にも仏教の教えにもかなうものではない、と思うであろう。しかしながら、外典(仏教以外の書籍)の孝経にも、父母や主君に随わないで忠臣・孝人となる、と書かれている。内典(仏教の書籍)の経文には「父母の恩を棄てて仏道に入ることは真実の報恩の道である」(清信士度人経)と説かれている。比干は悪逆の君主(紂王)に随わないでかえって賢人と称讃され、悉達太子は父の浄飯王に背いて出家し、かえって三界第一の孝子となられたことなどはその例である。
真実の明鏡
[5]このように思い定め、父母や師匠などの意思に従わないで仏法を学んだところ、釈尊ご一代の聖教を究めるには十の明鏡がある。すなわち、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗である。この十宗を明鏡として一切経(仏のすべての教え)の心(仏の御本意、仏教の本旨)を知るべきである。
[6]世間の学者などは、この十の鏡はどれもみな正直に仏の道を照らしていると思っている。この十宗のうち倶舎宗・成実宗・律宗の小乗の三宗は、民の消息(一般の人の個人的な手紙)が他国へ渡る時に何の用も足さないことと同じようなものであるから、今はしばらく置いておく。大乗の七つの鏡(七宗)こそ生死の大海(迷苦の大海)を渡って浄土の岸(解脱の世界。仏の浄土)に到達することのできる大船であるので、これを習い究めて自身も助かり人をも導こうと思い習学したところ、大乗の七宗はいずれも自讃ばかりして、「私たちの宗こそ仏の一代の心を得たものである」などと主張している。
[7]すなわち、華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観など、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭など、三論宗の興皇・嘉祥など、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証など、禅宗の達磨・慧可・慧能など、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空などの人びとは、それぞれの宗の依りどころとする経典や論釈を根拠として、だれもかれもが「一切経を悟った。仏の本意を究めた」と言っている。
[8]これらの人びとはそれぞれ次のように言っている。華厳宗の人は「一切経の中では華厳経が第一である。法華経や大日経などは臣下のようなものである」と言い、真言宗の人は「一切経の中では大日経が第一である。ほかの経は多くの星のようなものである」と言い、禅宗の人は「一切経の中では楞伽経が第一である」と言う。他の宗もまた同じである。しかも、前にあげた諸師は世間の人びとから、諸天が帝釈を敬うように尊敬され、多くの星が日月につき随うように仰がれている。
[9]私たち凡夫はどの師であっても信ずる限り不足はなく、仰いで信じていればよいのであろうが、日蓮にとっては、愚かな考えであっても疑問が晴れない。世間を見ると、それぞれ「私こそ」「私こそ」と主張していても国主はただ一人である。一つの国に国主が二人になればその国は穏やかではない。一つの家庭に二人の主人がいるとその家はかならず潰れる。一切経もまた同じであろう。どの経であろうとただ一つの経こそが一切経の大王でいらっしゃるであろう。
[10]ところが、十宗、七宗などがあってそれぞれ自宗を第一と立て、互いに論争して譲らない。一つの国に七人、十人の国王がいて互いに争えば万民は穏やかではない。そこで、それらの諸宗に従っていたのでは仏の御本意を知ることができないので、どのようにしたらよいかと思い悩み、一つの願を立てた。私は八宗、十宗には従わない。天台大師がもっぱら経文を師として一代聖教の勝劣を考えられたように、仏の教えに立脚して仏道を求めていこう。このように決意し一切経を開き見ると、涅槃経という経典に、「法に依り、人に依ってはならない」(如来性品)と説かれている。「法に依れ」とは仏の説かれた一切経に依れ、「人に依ってはならない」とは仏以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩などの菩薩や前にあげた諸の人に依ってはならない、ということである。また、同じく涅槃経に「了義経(真理を説き明かした経)に依り、不了義経(方便の教えを説いた経)に依ってはならない」(如来性品)と説かれている。この涅槃経が説いている了義経とは法華経、不了義経とは華厳経・大日経・涅槃経などの已今当(法華経の前後に説かれた経)の諸経である。
[11]したがって、仏の遺言(涅槃経)を信ずるならば、もっぱら法華経を明鏡として一切経の心を知るべきであろう。そこで法華経の文を開き見ると、「この法華経は諸経の中でもっとも上位にある」(薬王菩薩本事品)と説かれている。この経文のとおりであれば、あたかも須弥山の頂上に帝釈天がいるように、転輪聖王の頭の上に如意宝珠があるように、多くの木の上に月が宿るように、諸仏の頂上に肉髻があるように、法華経は華厳経・大日経・涅槃経などの一切経の頂上の如意宝珠である。
[12]そこで、論師や人師には従わないでもっぱら経文に依るならば、法華経が大日経や華厳経などより勝れていることは、あたかも太陽が青空に輝き出た時、眼の見える者ならだれでも天地がよく見えるように、高いと低いは一目瞭然である。また、大日経や法華経などの一切経を見ても、この法華経に似た経文は一字もない。それらの経典は小乗経に対して勝劣を説いたり、俗諦(世間の法)に対して真諦(仏教の真理)を説いたり、あらゆる空仮(空諦と仮諦。空諦とは諸法は空とみること、仮諦とは諸法は因縁による存在とみること)に対して中道(空仮にとらわれない中道の理)が勝れていると説いたりしているにすぎない。たとえば、小国の王が自分の臣下に対して自ら「大王」と称しているようなものである。法華経はそれとは異なり、「諸王に対して大王である」と説かれているのである。
[13]ただ、涅槃経だけは法華経に似た経文がある。したがって、天台大師以前に出た南北の諸師(中国南北朝時代の南北十流の学説。南三北七)は迷って、「法華経は涅槃経より劣っている」と言った。しかしながら、よく経文を開き見ると、法華経の開経である無量義経に華厳経・阿含経・方等経・般若経などの四十余年の諸経(仏の四十余年にわたる説法で、法華経以前の諸経)をあげて「いまだ真実を顕わしていない」と説かれているように、法華経は涅槃経に対して「自分のほうが勝れている」と説かれているうえ、法華経の後に説かれた涅槃経そのものが法華経に対しては、「この経が世の人びとに説き示される理由は(略)、法華経の中で八千の声聞が記別(未来成仏の保証)を授かり大果実を成就したように、今、この涅槃経は秋の収穫が終わった後にすることがないようなものである」(如来性品)と説かれている。涅槃経自らが法華経より劣る、と説かれている経文である。このように経文は明瞭であるにもかかわらず、智恵の勝れた南北の諸師でさえ迷ったほどであるから、末代の学者はじゅうぶん留意しなければならない。この経文はただ法華経と涅槃経との勝劣を説き示しただけでなく、十方世界の一切経の勝劣をも知ることができる。その経文に迷うことはやむをえないこととしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師が明確に説き明かされた後は、眼で見ることのできる人びとは弁えておかねばならない。ところが、天台宗の人である慈覚大師(円仁)や智証大師(円珍)でさえこの経文に迷ったのであるから、まして他の宗の人びとが迷うのはなおさらのことである。
法華最勝の疑難
[14]ある人は疑って「中国や日本に渡った経典の中には法華経より勝れた経典はなくとも、インド・竜宮(竜王の住む宮殿)・四天王天(欲界に属し須弥山の中腹にある。東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は毘沙門天が護っている)・日月天・忉利天(欲界に属し須弥山の頂上にある。帝釈天の住所)・都率天(欲界に属し内院と外院がある。内院は一生補処の菩薩の住所で弥勒菩薩はここに住する。外院は天衆の欲楽処)などにはおびただしい数の経典があるのであるから、その中には法華経より勝れた経典があるにちがいない」と言うであろう。
[15]答えて言う。一つのことでよろずのことを推察しなさい。「庭口から外に出なくとも天下の有様を知る」とはこのことである。愚かな人が「私たちは南の空ばかり見ていて東西北の三方面の空は見たことがないが、その三方面の空にはこの太陽とは別の太陽がお出になるだろう」と言ったり、山の向こうに煙が立つのを見て、「煙は確かに立ち登っているが火は見えないので火ではないだろう」と言ったりする。このようなことを言う人は一闡提(仏の教えを信じない者、善根を断った人)の人であると思いなさい。目があってもものが見えていないことと同じである。
[16]法華経の法師品には、釈迦如来がまぎれもなく自らの尊いお口で真実のお言葉を述べられ、五十余年間に説き示されたすべての教えの勝劣を定めて、「私が説いた経典は限りなく多いが、已に説いた爾前の諸経(法華経以前に説いた四十余年の諸経)、今説いた無量義経、まさに説こうとしている涅槃経の中で、この法華経は最勝の教えであるためにもっとも信じ難く理解し難い」と説かれている。この経文は、ただ釈迦如来一仏の説かれたものであっても、等覚(菩薩の五十二位のうち第五十一位で、最上位である妙覚の仏とほぼ等しい位)の菩薩以下は仰いで信じるべきであるばかりでなく、多宝仏が東方から来て「法華経は真実の教えである」と証明し、十方世界から集まって来た諸仏も釈迦仏と同じように広長舌を梵天にまでつけて法華経の真実を証明し、その後、それぞれの国土にお帰りになった。法華経法師品に説かれた「已今当」(已に説いた経、今説いた経、まさに説く経の中で法華経は最勝の教えであるために、もっとも信じ難く理解し難い)の三字は、釈尊御一代の五十年の説法はもとより、十方三世の諸仏の御経を一字一点も残すことなくふくめて、法華経に対比して説かれたものである。十方の諸仏はこの法華経の会座におられて釈尊の説法を真実であると証明をされたのであるから、それぞれ自分の国土にお帰りになってから弟子などに向かって、「ほかに法華経より勝れた御経がある」とお説きになっても、その弟子たちは信用するであろうか。
[17]また、「自分は見ていないが、インド・竜宮・四天・日天などの宮殿の中には法華経より勝れた経典があるのではないか」と疑問を持つことがあるとしたら、それでは梵天・帝釈・日月・四天・竜王は法華経の説法の会座にはおられなかったのか。もし日月などの諸天が「法華経より勝れた御経がある。貴方は知らない」とおっしゃるならば、それこそ大誑惑(大嘘つき)の日月である。
[18]このような日月に対し、日蓮は責めて「日月は空に住しておられるが、まるで私たち人間が大地に住しているようにしていることができ、空から落ちることがないのは、もっとも強い不妄語戒を持っている功徳によるものである。もし、『法華経より勝れたお経がある』という大妄語を吐かれるのなら、おそらく世界が壊劫(世界が破壊する時代)にもならないのに大地の上にどっと落ちてしまうであろう。無間地獄の底の堅い鉄の所まで落ちないと止まらないであろう。大妄語の人はしばらくの間でも空にいて四天下(須弥山の四方にある四州。東方は弗婆提、南方は閻浮提、西方は瞿耶尼、北方は欝単越)を回ることはできない」と追及するであろう。
諸宗諸師の誤り
[19]ところが、華厳宗の澄観など、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの深い智恵のある三蔵とか大師と呼ばれている人たちは、華厳経や大日経などは法華経より勝れている、と法門を立てられている。私たちのような分際ではこれらの人たちには及ばないけれども、本当の道理からして、これらの人たちは諸仏の大怨敵ではないか。極悪人と言われる提婆達多や瞿伽梨もものの数ではなく、大天(両親や阿羅漢を殺害、後に出家したが慢心を起こし、仏教教団分裂のもとを作った)や大慢(婆羅門の僧で慢心を起こし諸尊の像を刻んで椅子の脚とした)にも似ている。このような人たちを信ずる者は恐ろしい。本当に恐ろしいことである。
[20]問うて言う。貴方は華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏や弘法・慈覚・智証などを仏の敵である、と言うのか。答えて言う。これは大変むずかしい問題である。仏法における第一の大問題である。私の拙い考えで経文を調べてみると、法華経より勝れた経典がある、と言う人は、たとえどのような人であっても謗法の罪は免れることはできない、と説かれている。したがって、経文のとおりに言うならば、どうしてこれらの人たちが仏敵であることを免れることができようか。また、もしこれらの人たちのことを恐れて指摘しないでいれば、一切経の勝劣は空しいものとなり、釈尊の御本意がわからなくなってしまう。また、これらの人たちを恐れて、その末流の人たちを仏敵であると言うと、それら各宗の末流の人たちは「法華経より大日経が勝れていると言うのは私の個人的な見解ではなく、わが宗の祖師が立てられた法義である。祖師と自分とは、戒律や行法の持つ持たないの違い、智恵のあるなしの差、身分のへだたりなどはあっても、学んだ法門においては違いがない」と言うので、末流の人たちに咎はない。
謗法の指摘と受難
[21]また、日蓮がこのことを知りながら人びとを恐れて言わなければ、「たとえ身命を失っても教えを匿してはならない」(涅槃経如来性品)という仏陀の諫暁(いさめ)を無視した者となってしまう。どのようにすればよいのか。思い切って言おうとすれば世間の人びとからの迫害が恐ろしい。もし言わないでいようとすると仏の諫暁を免れることはできない。どうしたらよいのか、進退がきわまった。なんと、実にもっともなことではないか。法華経の法師品に「しかもこの経は如来の在世でさえも怨嫉が多い。まして滅後はなおさらである」、安楽行品に「あらゆる世間の人たちはさかんに怨念をいだき信じようとしない」とあるのは、まさにこのことを説かれたものである。
釈尊在世の受難
[22]釈迦仏を摩耶夫人が懐妊された時、欲界第六天の魔王(悪魔の王で波旬ともいう)が神通力で夫人の御腹を透し見て、「われらの大怨敵となる法華経という利剣を懐妊した。産まれないうちに何とかしてなきものにしてしまわねばならない」と考えた。そこで、第六天の魔王はりっぱな医者に姿を変えて浄飯王の宮殿に入りこみ、「安穏にお産ができる良い薬を持って参った医者です」と大声で宣伝し、毒薬を后に服ませたのである。釈迦仏がお産まれになった時は石の雨を降らし、乳には毒を混ぜ、城をお出になる時は黒い毒蛇に化けて道を塞ぎ、あるいは提婆達多・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王などの悪人の身に入りこんで、ある時は大石を投げて仏の御身から血を出させ、ある時は釈迦族の人たちを殺し、ある時は釈尊のお弟子を殺したりした。これらの大難はすべて、つまるところは法華経を釈尊に説かせまいとたくらんだもので、法華経法師品に「如来の在世でさえなお怨嫉が多い」と説かれているとおりの大難である。これらは釈尊にとっては遠い難である。近い難としては、仏弟子の舎利弗や目連、それに諸大菩薩なども四十余年の間は法華経を信じることができなかったのであるから、法華経の大怨敵の内に入る。
[23]「まして仏の滅後においてはなおさらである」と、未来の世にはこのような大難よりももっと恐ろしい大難がある、と説かれている。仏でさえ忍び難い大難を凡夫がどうして忍ぶことができようか。まして仏の在世より大きな難であると言われている。どのような大難であろうか、提婆達多が長さ三丈(約九メートル)広さ一丈六尺(約五メートル)もある大石を投げて仏を殺害しようとした難や阿闍世王が酔象をけしかけて仏を殺害しようとした難よりも恐ろしいものであると思うけれども、それらよりもまさった難であると説かれているので、小さな過失もないのにたびたび大難に値う人こそ、仏滅後の法華経の行者であると知るべきであろう。
付法者の受難
[24]仏から滅後の弘経を付属された人びとは四依の菩薩(仏滅後の仏法を付託され、人びとの心の依りどころとなる四種の人格者)であり、仏の御使いである。第十四番目の付法者(仏滅後の弘経を付属された者)である提婆菩薩は外道と論議して殺され、第二十四番目の付法者である師子尊者は邪見の檀弥羅王に頸を刎ねられ、第八番目の付法者である仏陀密多と仏滅後にインドに出現した竜樹菩薩などは、それぞれ国王を改心させるために赤幡を七年も十二年も指して苦難を重ねた。第十一番目の付法者である馬鳴菩薩は国王によって金銭三億の代償として身を他国に移された。如意論師は外道の人たちとの論議で謀略におちいり口惜しさのあまり思い悩んで死んでしまった。これらの人びとは仏滅後一千年間のことである。
天台大師の弘法
[25]像法に入って五百年、すなわち仏の入滅後一千五百年という時に、中国に一人の智人が出現した。その名を智顗といい、後に智者大師と号ばれた。法華経の実義をありのままに弘めようと思われたが、天台大師智顗以前の多くの智者学匠たちが仏の一代聖教をいろいろと判じ釈して、けっきょく十流の学派になっていた。すなわち南三北七(中国南北朝時代の学派。江南に三派、江北に七派があった)と呼ばれる人たちである。十流の学派があったがその中の一派がもっとも秀でていた。その一派とは江南三派の中の第三番目に数えられる光宅寺の法雲法師の立義である。
[26]法雲法師は一代仏教を五つに分類し、その五つの中からもっとも勝れている三つの経を選び出した。その三つの経とは華厳経・涅槃経・法華経である。法雲法師は「一切経の中では華厳経が第一で大王のようなもの、涅槃経が第二で摂政関白のようなもの、第三は法華経で公卿などのようなもの、これより以下の経は万民のようなものである」としたのである。この人は生まれながらにして智恵が賢いうえに、慧観・慧厳・僧柔・慧次などという大智者から法門を習い伝えただけでなく、南北の諸師の法義を破斥し、山林に交わって法華経・涅槃経・華厳経の研鑽を積んだ人である。そこで梁の武帝は法雲法師を召し出し内裏に光宅寺という寺を建てて崇められた。法雲法師が法華経を講じられた時天から花が降り注ぎ、そのありさまはまるで仏の御在世の時のようであった、と言われている。
[27]天監五年に大旱魃があった時、天子はこの法雲法師を請待して法華経を講じさせたところ、薬草喩品の「その雨あまねく一様に四方に降り」と言う二句を講じられると、天から甘雨(めぐみの雨)が降ったので、天子は感激のあまりにただちに僧正に任じられ、諸天が帝釈天に仕え、万民が国王を畏れるように、自分から仕え尊崇された。そのうえ、ある人が夢をみたことには、「この法雲法師ははるか過去の灯明仏が世にましました時から法華経を講じた人である」とのことである。法雲法師には法華経の解説をした著書四巻(法華経義疏)がある。この書物に「この経はまだ真理を明確に説き明かしていない」とか、「異なった方便を説いたものである」などと言い、確かに、「法華経はいまだ仏教の道理を究めていない経典である」と書かれている。この人のこのような考えが仏の御意にかなっていたからこそ、天から花が降ったり雨が降ったりしたのであろう。
[28]このような不思議なことがあったので、中国の人びとは、「それでは法華経は華厳経や涅槃経より劣る経なのだ」と思ったばかりでなく、新羅・百済・高麗・日本までこの書(法華経義疏)が弘まったので、およそ世間の人びとは一同にこの考えかたになってしまった。ところが、法雲法師が亡くなられてから間もないころ、梁の末から陳の始めに、智顗法師という小僧が現われた。南岳大師という方のお弟子であったが、師匠の考えにも不審があったようで、たびたび経蔵に入って一切経をご覧になり、なかでも華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出し、とくに華厳経を講じられた。
[29]そればかりでなく、華厳経によって礼文(仏を礼拝する時の讃歎文)を作り毎日功徳を積まれたので、世間の人びとは「この人もやはり華厳経を第一と考えられたか」と思っていた。ところがそうではなく、智顗法師は、法雲法師が一切経の中で華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立てたことがあまりに不審であったので、ことさら華厳経をご覧になったのである。こうして一切経の中では法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三と見定めて歎かれ、「如来の聖教が中国に渡ってきたけれども、人びとを利益していない。かえって一切衆生を悪道に導いており、これはひとえに人師(人びとを導く師)の誤りによる。たとえば国を治めている長たる人が、東を西と言い天を地と言い出せば、万民はそのように思ってしまうであろう。後に名もない者が出てきて、貴方たちが言っている西は東であり、天と思っているのは地である、と言うと、信用しないばかりか、自分たちの長の考えにおもねって、その人を罵しったり打ったりなどするであろう。どのようにしたらよいものであろうか」と思われたけれども、とうてい黙っているべきことではないので、「光宅寺の法雲法師は地獄に堕ちた」と非難された。
[30]その時、南北の諸師は蜂のように立ち起こり、烏のように騒ぎ集まった。「智顗法師の頭を破ってしまうか、国から追放するか」などと騒ぎ立てたので、陳主(陳の国王)はこれを聞かれて、南北の師数人と智顗とを召し合わせ、自分もその対論の席に列して双方の主張をお聞きになった。法雲法師の弟子など慧栄・法歳・慧曠・慧暇などと言う僧正や僧都以上の人びとが百余人も集まった。各々がさかんに悪口を吐き、眉をつりあげ、眼をいからし、手を振りあげ、拍子をたたいて騒いだ。しかしながら、智顗法師は末座に坐して顔色も変えず、言葉も誤ることなく、威儀を正して静かに諸僧の言葉をいちいち書きつけ、言葉ごとに責め返した。かえって押し返して質問し、「そもそも、法雲法師の法義で第一華厳経、第二涅槃経、第三法華経とお立てになる証拠となる経文はどこにあるのか。明確な証文を出してください」と責めたので、諸僧はそれぞれ頭を垂れ顔色を失って一言も返答ができなかった。
[31]そこで重ねて、智顗法師は「無量義経にはまさしく『次に方等部経・摩訶般若・華厳海空を説く』と説かれている。仏はみずから華厳経の名をあげて、無量義経に対して未顕真実(いまだ真実を顕わしていない)と打ち消しておられる。法華経より劣っている無量義経に華厳経は責められている。どのように考えて華厳経を一代聖教の中で第一の経典であると言うのか。貴方たちが御師法雲法師の味方をしようと思うのなら、この無量義経の文を破り、これよりも勝れた経文を取り出して御師の法義を助けなさい」と責められた。
[32]また、「涅槃経が法華経よりも勝れている、というのはどのような経文に説かれているのか。涅槃経の第十四巻聖行品には華厳経・阿含経・方等経・般若経をあげて涅槃経との勝劣は説かれているが、法華経と涅槃経との勝劣はまったく見られない。その上の第九巻の如来性品には法華経と涅槃経との勝劣が明確に説かれている。すなわち経文には『この経がこの世に説かれた理由は(略)、法華経の中で八千の声聞が記別(未来に成仏するとの仏の保証)を受けて大菓実を成就したとおり、秋の収穫が終わった後ではすることがないようなものである』と説かれている。経文には明らかに諸経を春夏に譬え、涅槃経と法華経とを菓実の位と説かれているけれども、なかでも法華経は秋収冬蔵大菓実の位(秋に収穫し冬には蔵に収まっているように、仏の救いが成就した教え)とし、涅槃経は秋の末冬の始めの捃拾の位(晩秋初冬にはすでに収穫は終わっており、田畑に残された落穂を拾い集めるように、救いから漏れたごく少数の衆生を救いとる補助的な役割をもった教え)と定められている。この経文によれば、涅槃経みずからが法華経よりも劣っていると承服されている。法華経の文には已説(すでに説いた経)・今説(今、説いた経)・当説(まさにこれから説くであろう経)と言って、この法華経は前に説いた経(爾前経)と今説いた並びの経(開経である無量義経)よりも勝れているだけでなく、後に説くであろう経(涅槃経)にも勝れている、と仏は定められている。すでに教主釈尊がこのように定められているのであるから、疑う余地などないのであるが、仏は自分の入滅後はどうであろうかと案じられて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人に立てられたので、多宝仏は大地から躍り出て『妙法蓮華経はすべて真実である』と証明し、そのうえ十方世界から分身諸仏もお集まりになり広長舌を大梵天につけ、また教主釈尊もつけられて真実を証明された。こうしてやがて、多宝仏は宝浄世界に帰り、十方世界から来た分身諸仏もそれぞれ本土に帰られた後に、多宝仏も分身諸仏もおられないのに教主釈尊が涅槃経を説いて、法華経よりも勝れている、とおおせられたのならば、仏のお弟子がたが信用されるだろうか」と論難されたので、まるで太陽や月の強い光が修羅の眼を照らすように、漢の王(高祖)の剣が諸侯の頸にあたったように、南北の諸師は一同に両眼を閉じ頭を垂れてしまった。天台大師のご様子は、獅子王が狐や兎の前で吼えたような、鷹や鷲が鳩や雉をせめたような状態に似ていた。
[33]このような有様であったので、さては法華経は華厳経や涅槃経よりも勝れていると、中国の国中に弘まっただけでなく、かえってインド全土までも伝わり、「インドの大小の諸論も智者大師の教義には勝てない。教主釈尊が二度出現されたのであろうか。仏教が再び現われた」と称讃されたのである。
法相宗の誤り
[34]その後、天台大師もご入滅になり、陳・隋の世も変わって唐の世となった。章安大師もご入滅になり、天台の仏法はしだいに衰えていった。そのころ、唐の太宗皇帝の時代に玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年に初めてインドに渡り同十九年に帰国したが、インドの仏法を尋ねつくして身に修め、法相宗という宗を伝えた。
[35]この宗は天台宗とは水と火のように相容れない。玄奘三蔵は天台大師のご覧にならなかった解深密経・瑜伽師地論・成唯識論などの経論を将来し、「法華経は一切経の中では勝れているけれども解深密経よりも劣っている」と言い出した。それを天台宗の末学(末流の学僧)たちは、天台大師のご覧にならなかった経論でもあり、しかも智恵も浅かったのか、「なるほどそうか」と思ってしまった。そのうえ太宗は賢王であり、玄奘三蔵へのご帰依も深かった。言わねばならないことはあっても、いつの時代でも同じであるが、時の権威(国王の権勢)を恐れて言い出す人はいなかった。法華経が最勝であるとの立場を覆して「三乗真実(三乗の教えこそ真実である)、一乗方便(一乗の教えは方便である)・五性各別(一切衆生に本来五つの性分があり、それぞれによって救われかたも異なる)」と申されたことは情けないことである。仏教発祥の地インドから伝来されたものであるけれども、インドの外道の教えが中国に渡ってきたのであろうか。法華経は方便で解深密経こそ真実の教えである、と言うのであるから、釈迦仏・多宝仏・十方の分身諸仏の真実のお言葉もかえって虚妄となり、玄奘や慈恩こそ当時では生身の仏として仰がれていたのであろう。
華厳宗の誤り
[36]その後、則天武后の時代に、以前に天台大師によって法華経より下に位置づけられた華厳経(旧訳)に加えて、新訳の華厳経が伝来したので、昔の憤りをはたすために、新訳の華厳経をもって天台大師に下された旧訳の華厳経を助けて、華厳宗という宗を法蔵法師という人が立てた。この宗では華厳経を根本法輪(根本の教え)、法華経を枝末法輪(枝末の教え)と言うのである。南北の諸師は第一華厳経、第二涅槃経、第三法華経と立て、天台大師は第一法華経、第二涅槃経、第三華厳経とし、今の華厳経は第一華厳経、第二法華経、第三涅槃経とするのである。
真言宗の誤り
[37]その後、玄宗皇帝の時代に、インドから善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をもたらし、金剛智三蔵は金剛頂経をもたらした。また、金剛智三蔵に弟子があった。不空三蔵である。この三人はインドの人で家柄も高貴であるうえ、人柄も中国の僧とは異なっていた。説くところの法門も何となく目新しく、後漢から今日にいたるまでなかった印と真言というものを新しく副えており、りっぱに見えたので、天子は頭を下げて尊崇し万民は掌を合わせて敬った。
[38]この人たちの教えは「華厳経・解深密経・般若経・涅槃経・法華経などの勝劣は顕教(大日如来の説いた密教に対し、釈迦如来の説いた教え)の枠内でのことであり、たかが釈迦如来の説法にすぎない。今、この大日経などの密教経典は大日法王(大日如来)の勅言(権威のある教え)である。かの諸経典は民の万言(多くの言葉)、この密教経典は天子の一言のようなものである。華厳経や涅槃経などは大日経には梯を立てても及ばない。ただ法華経だけは大日経によく似た経典である。しかしながら、法華経は釈迦如来の説法で、いわば民の正しい言葉ていどのものであり、大日経などの密教経典は天子の正しい言葉である。言葉は似ているけれども人の格式に雲泥の相違がある。譬えれば濁った水に映った月と清らかな水に映った月のようなものである。月の影は同じであるけれども映す水に清濁の違いがある」などと言い出したのであるが、だれもこの言葉の由来を尋ね真偽をただす人もいなかった。諸宗はすべて屈伏して真言宗に傾いてしまった。善無畏三蔵・金剛智三蔵が死去した後、不空三蔵がまたインドに帰り菩提心論という書物をもたらしたので、ますます真言宗は盛んになっていった。
妙楽大師の天台宗復興
[39]ただし、妙楽大師という人があった。天台大師より二百余年後に出た人であるけれども、智恵の勝れた人で、天台大師の論釈(著書)をよく見究めておられたので、「天台大師が注釈書に示されているお考えは、天台大師入滅後に中国にもたらされた解深密経を依りどころとする法相宗、また中国ではじめて一宗として立てられた華厳宗、大日経などの密教経典を依りどころとする真言宗よりも法華経は勝れた経典である、ということであるにもかかわらず、智恵が浅いためか、人を畏れてか、あるいは時の国王の威勢を恐れてかのためにだれも言い出さないようだ。このようなことでは天台大師の正しい教えは失われてしまうであろう。そして、かつて陳や隋の時代以前に南北の諸師が説いた邪義(よこしまな教え)よりもひどい状態になってしまうであろう」とお思いになって三十巻におよぶ注釈書をお著わしになった。すなわち摩訶止観輔行伝弘決十巻・法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻がこれである。この三十巻の書は天台大師の三大部(摩訶止観・法華玄義・法華文句)の中で重複しているものを削り、論述の不足しているところを加筆するだけでなく、天台大師の時代にはなかったために批判を免れたように見える法相宗と華厳宗と真言宗の三宗を一時に攻め砕かれたものである。
仏教の日本伝来と南都の六宗
[40]また、日本国には人王第三十代欽明天皇の時代の十三年壬申十月十三日に、百済国から一切経と釈迦仏の尊像とがもたらされた。また、用明天皇の時代に聖徳太子が仏教を研鑽しはじめ、和気の妹子という臣下を中国に遣わして、聖徳太子ご自身が前世で所持しておられたという一巻の法華経をお取り寄せになり、持経と定められた。その後、人王第三十七代孝徳天皇の時代に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗が日本に渡された。人王第四十五代の聖武天皇の時代に律宗が渡され、以上で六宗となった。孝徳天皇から人王第五十代の桓武天皇の時代にいたるまでの十四代一百二十余年の間は、天台・真言の二宗はなかった。
伝教大師の弘法
[41]桓武天皇の時代に最澄という小僧がいた。山階寺(奈良の興福寺)の行表僧正のお弟子である。法相宗を始めとして六宗(三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗・律宗)を習い究めた。しかしながら、それでも仏教を修めきったとは思えなかったので、華厳宗の法蔵法師が書いた起信論の注釈書(起信論義記)をご覧になったところ、その中に天台大師の注釈書が引用されていた。そこで、この天台大師の注釈書こそ意義深いものがあるように思われるが、日本国にもたらされているのかどうか不明であったので、ある人に問うたところ、その人は「大唐の揚州にある竜興寺の僧鑑真和尚は天台宗の末学で道暹律師の弟子であるが、天宝の末に日本国に渡ってこられ、小乗の戒を弘められたが、天台大師の注釈書は持参していながらお弘めにならなかった。それは人王第四十五代聖武天皇の時代のことであった」と語った。最澄法師が「その書物を見たいものである」と言うと、その人は取り出してお見せした。最澄法師はその書物を一度ご覧になっただけで、生死の迷苦をたちまちに醒まされた。そこで、この天台大師の論釈をもって六宗の教えを研究したところ、六宗の立義がいちいちに邪見(誤った考え)であることが明らかになった。
[42]そこで最澄法師はたちまちに願を発し、「日本国の人びとは、皆、謗法者の檀越となってしまっているのでかならず天下は混乱におちいるであろう」とお思いになり、南都の六宗を非難されたので、南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)の六宗の学者たちは蜂起して京に集まり騒ぎ立て、天下一同に大騒ぎとなった。七大寺六宗の人たちは悪心がたいへん強かったのである。
[43]しかしながら、去る延暦二十一年正月十九日に、桓武天皇は高雄寺に行幸になり、七大寺の学者である善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏の十四人と最澄法師とを召し合わせ対論させられた。華厳宗・三論宗・法相宗などの人たちは、それぞれ自宗の元祖の教義を主張した。最澄上人は六宗の人たちの立義をいちいち書き記し、宗旨の根本となる経論をはじめ種々の経論と照らし合わせて論難されたので、六宗の人たちは一言も答えることができず、口が鼻のようになってしまった。天皇は驚かれて委しくお尋ねになり、重ねて勅宣(天皇の命令)を下して十四人の学者をお責めになったので、南都の学者は最澄上人に承伏したという文書(帰伏状)を奉ったのである。
[44]その謝表には「七大寺六宗の学者(略)、初めて仏教の究極の法門を悟った」、「聖徳太子が仏教を弘められてよりこのかた今にいたるまでの二百余年の間、講ぜられた経論釈は数多いけれども、それぞれ理を争っていまだ解決していない。しかもこの最妙(もっともすばらしい)の円宗(すべてを円満に具足した教えの宗。天台法華宗)はいまだ弘まっていなかった」、「三論宗と法相宗との長年にわたる論争もさらりと氷のように解け、晴れやかに輝き、その明らかであることは雲や霧が切れて太陽・月・星の三光を仰ぎ見るようである」などと述べられている。最澄和尚は南都の学者十四人の立義を解説して、「それぞれ一つの経典を講ずるために法の鼓を深い谷にまでとどろかし、客と主人は三乗の路(三乗の教え)をさまよいながら法門の旗を高い峰に飛ばしている。長老の者も初心の者も三界(欲界・色界・無色界)の煩悩を打ち破ったものの、なおいまだ歴劫修行(かぎりなく長い期間修行してから成仏する)の教えに執着することを改めず、大白牛車に譬えられる法華円教(一仏乗の教え)と混同している。どうして初発心の者(初めて菩提心を発した者)がただちに初住位から妙覚位までの四十二位を悟ってしまう(ただちに成仏する)ことができようか」と言われた。最澄和尚に帰依している和気の弘世と真綱の兄弟は「釈尊が霊山で説かれた法華経を南岳大師は前世に聴衆の一人に加わっていてうけたまわり、天台大師は総持(善を持ち悪を起こさない)の経である法華経の妙悟を大蘇山で開かれた。それにもかかわらず法華一乗の妙旨が権教(方便の教え)に遮られて滞っていることをなげき、三諦円融(空仮中の三諦が円融しているのが真実相であるとする天台法華教学の法門)の理がいまだ顕わされていないことを悲しむ」と言った。また、南都の十四人は「善議らは宿縁(宿世の縁。過去世の因縁)に引かれて幸せな世に生まれ合わせ、すばらしい法華経の妙旨を拝見することができた。深い因縁がなければどうしてこのような尊い世に生まれることができよう」と感激の言葉を述べた。
[45]この十四人の立義は、華厳宗の法蔵や審祥、三論宗の嘉祥や観勒、法相宗の慈恩や道昭、律宗の道宣や鑑真などの中国や日本の元祖たちの法門と、瓶は変わっても水は変わらないことと同じように、時代や国は変わっても同じである。しかも、すでにこの十四人がそれぞれの邪義を捨てて伝教大師の法華経の妙旨に帰伏したうえは、末代の人間のだれが「華厳経・般若経・解深密経などは法華経より勝れている」と言うことができようか。小乗の三宗(倶舎宗・成実宗・律宗)は南都の人たちの学んでいる教えの中に入っている。大乗の三宗(華厳宗・三論宗・法相宗)が論破されたうえは、小乗の宗旨はもはや問題にはならない。ところが、いまだにことの子細を知らない者は、南都の六宗はまだ法華経には論破されていない、と思っている。譬えば、目の不自由な人が空の太陽や月を見ることができないために、空には太陽や月はないと思ったり、耳の不自由な人が雷の音を聞くことができないために、空には音がしない、と思うようなものである。
日本真言宗と伝教大師
[46]真言宗という宗が日本にもたらされたのは、人王第四十四代の元正天皇の時代に、善無畏三蔵が大日経を渡したが弘めることなく中国へ帰ったと伝えられており、また、玄昉などが大日経義釈十四巻を渡し、加えて東大寺の得清大徳も渡した、と伝えられている。
[47]これらの経釈を伝教大師はご覧になったけれども、大日経と法華経との勝劣についてはいろいろと不審があったので、去る延暦二十三年七月に入唐され、西明寺の道邃和尚や仏滝寺の行満和尚などにお会いになり、止観(一心に三諦円融の理を観じる一心三観の法門)・円頓の大戒(法華円教の菩薩戒である円頓戒)を伝受され、霊感寺の順暁和尚にお会いして真言(密教)を相伝し、延暦二十四年六月に帰朝して桓武天皇に対面された。天皇は宣旨を下して南都六宗の学者にも止観(止観業、法華円教の修行)と真言(遮那業、密教の修行)とを習わせ、南都の七大寺におかれた。真言(密教、真言宗)と止観(法華円教、天台宗)との二宗の勝劣については中国にも多くの議論があり、善無畏三蔵の大日経義釈には「理同事勝」(理においては同じであるが事〔印・真言などの事相〕においては大日密教が勝れる)と書いてある。しかし、これについて伝教大師は、「善無畏三蔵の誤りである。大日経は法華経より劣っている」とお考えになって、日本の宗を八宗とは数えられなかった。真言宗の名を削って法華宗の内に入れ七宗とし、大日経を天台法華宗の傍依経(補助的な経典)と位置づけ、華厳経・大品般若経・涅槃経などと同列にされた。しかしながら、大切な大乗円頓戒を別受戒(従来の小乗戒とは異なる特別な受戒)として授ける大戒壇を日本国に建立するについての是非の論争が激しくて容易に収拾がつかなかったためか、真言(密教)と天台(法華経)の二宗についての勝劣は弟子たちにも明確にはお教えにならなかったようである。
[48]しかし、伝教大師は依憑天台集という著書に、「まさしく真言宗は天台法華宗の正義(正しい教え)を盗み取って大日経に入れ、理同(理は同じであるが事においては大日経が勝れている)と言って誇っているにすぎない。したがって真言宗は天台宗より劣る宗である」と述べられている。まして、不空三蔵は善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅した後、インドに帰り竜智菩薩に会った時、竜智菩薩から「インドには仏のご本意を明らかにした論釈がない。中国の天台大師という人の論釈こそ仏法の邪正を定め、偏円(偏教と円教。偏教はかたよった教え、すなわち方便権教。円教はすべてを円満に具えた教え、すなわち真実教)を明らかにした書物である。どうか天台大師の書物をインドの言葉に翻訳して渡してほしい、とねんごろに請われた」ということを、不空の弟子の含光という者が妙楽大師に語った、と妙楽大師は法華文句記の第十巻の末に記載しているのを、伝教大師はこの依憑天台集に転載されている。したがって、法華経より大日経のほうが劣る、とされた伝教大師のお心は明瞭である。
[49]したがって、釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師のお心は、等しく、大日経などの一切経の中で法華経がもっとも勝れている、ということであるのは明確である。また、真言宗の元祖と言われる竜樹菩薩のお心も同じである。竜樹菩薩の大智度論を詳しく検討すればこのことは明らかであるにもかかわらず、不空三蔵が誤って書いた菩提心論に人びとはみな騙 されこのことに迷ってしまったようである。
弘法大師の誤り
[50]また、石淵の勤操僧正のお弟子に空海という人がいた。後に弘法大師と号ばれた。去る延暦二十三年五月十二日に唐に渡り、金剛智三蔵や善無畏三蔵から数えて第三代目のお弟子にあたる慧果和尚という人に密教の両界(金剛界と胎蔵界)を伝受され、大同二年十月二十二日に帰朝された。平城天皇の時代のことである。桓武天皇は空海が在唐中に崩御されていたので、平城天皇にお目にかかった。天皇は空海を信頼し深く帰依されたけれども、まもなく退位され、嵯峨天皇の時代となった。弘法大師は引き続き嵯峨天皇にも帰依を受けていたところ、伝教大師が嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日にご入滅になってしまった。そこで、翌弘仁十四年から、弘法大師は天皇の師となり、真言宗を立てて東寺を賜った。空海は真言和尚と号ばれ、これより日本では八宗となったのである。
[51]弘法大師は釈尊御一代の聖教に勝劣を立て、「第一は真言大日経・第二は華厳経・第三は法華経・涅槃経である。法華経は阿含経・方等経・般若経などに比べれば真言の経であるけれども、華厳経や大日経に対すると戯論の法(真実をつくしていない方便の教え)である。教主釈尊は仏ではあるけれども大日如来に比べればまだ迷いの位にいるのであって、あたかも皇帝と俘囚(とらわれた者、支配される者)とのように異なる。天台大師は盗人である。真言の醍醐(最上の教えを醍醐味に譬える)を盗んで法華経のことを醍醐と言っている」(顕密二教論)などと書かれたので、法華経は尊い教えである、と思っていても、弘法大師にあえばものの数ではない。インドの外道のことはさておいても、中国の南北の諸師(南三北七)が、法華経は涅槃経に比べれば邪見の経である、と言ったことよりも勝り、華厳宗が、法華経は華厳経に比較すれば枝末教(枝末法輪)である、と言ったことよりも越えている。例えば、かのインドの大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足に造り、その上に昇って邪法を弘めたようなものである。もし、伝教大師が御存命であったなら、かならずや一言でも申されたであろう。また、伝教大師のお弟子の義真・円澄・慈覚・智証などもどうしてご不審にならなかったのであろう。まことに、天下第一の凶事である。
慈覚大師の誤り
[52]慈覚大師は去る承和五年に唐に渡り、十年の間、天台・真言の二宗を研鑽された。法華経と大日経との勝劣について習ったところ、法全や元政などの八人の真言師は、理同事勝(理においては同じであるが、事においては大日経が勝れる)と言い、天台宗の志遠・広修・維蠲などに学んだところ、大日経は方等部に属する経にすぎない、と言う。慈覚大師は承和十三年九月十日に帰朝され、嘉祥元年六月十四日に天皇から帰朝復命と灌頂を修すようにとの宣旨が下った。法華経と大日経等との勝劣については中国での研鑽でははっきりと知ることができなかったようで、金剛頂経の注釈書(金剛頂経疏)七巻と蘇悉地経の注釈書(蘇悉地経疏)七巻の合計十四巻を著わされたが、この注釈書の内容は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の教えと法華経の教えとは、究極の理は同じであるけれども事相の印と真言とについては真言の三部経のほうが勝れている、というものであった。これはまったく善無畏・金剛智・不空の書いた大日経の注釈書(大日経疏)の内容と同じである。
[53]しかしながら、自分の心になお不審があったのか、あるいは自分の心では納得しているけれども他人の不審を晴らそうとお考えになったのか、この十四巻の注釈書を御本尊の前に置いて御祈念された。「このように書いたけれども、仏の御本意にかなっているかどうか判断がつきかねます。真言の三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)のほうが勝れているのでしょうか、それとも法華の三部経(無量義経・法華経・観普賢経)のほうが勝れているのでしょうか」と御祈念されたところ、五日目の明け方頃にたちまた夢想(夢による神仏の示現やお告げ)があった。「青空に大きな日輪(太陽)がかかり、それを弓矢で射ったところ、矢は空高く飛んで日輪に当った。日輪は転がりながらもうすこしで地面に落ちる」と思ったところで夢から醒めた。そこで慈覚大師は悦んで「私は吉夢(めでたい夢)をみた。法華経より真言経典のほうが勝れていると書物に書いたことは、仏のお心に叶っている」と言い、歓喜し、願って宣旨を下していただき、日本国に弘めた。ところが、その宣旨の内容は「ついに知ることができた。天台の止観(法華円教)と真言の法義とは理において微妙に符合している」というものである。祈念の時は、大日経より法華経は劣る、と言われているようなのに、宣旨を申し下した時は、法華経と大日経とは同じである、と言われている。
智証大師の誤り
[54]智証大師はわが国においては義真和尚・円澄大師・別当光定(光定は延暦寺の別当に補されたことから別当大師と称する)・慈覚大師などの弟子である。顕教と密教の二道についてはおよそ日本で学ばれたので、天台宗と真言宗との二宗の勝劣に不審をいだかれ中国へ渡られたのであろうか。去る仁寿二年に唐に渡り、中国では真言宗を法全や元政などに習い、およそ大日経と法華経とは理同事勝であるとし、慈覚大師の考えと同じである。天台宗については良諝和尚に習い、真言と天台との勝劣は、大日経は華厳経や法華経などには及ばない、という判断である。七年間中国におられ、去る貞観元年五月十七日に帰国された。帰国後著わされた大日経旨帰には「大日経には法華経は及ばない。ましてそのほかの教えはなおさらである」と書かれた。この書では法華経は大日経より劣る、という解釈である。また、智証大師は授決集に「真言や禅宗などは華厳経・法華経・涅槃経などの経典に比べれば、真実の教えに誘引するための方便の教えである」と述べられ、仏説観普賢菩薩行法経記や法華論記には「大日経と法華経とは同じ」と示されている。
[55]貞観八年丙戌四月二十九日壬申に申し下した勅宣には「聞くところでは、真言と止観(法華円教)両教の宗(真言宗と天台宗)は同じく醍醐(最上の教え)と言い、深秘(はかり知ることができないような深い教え)と称している」とあり、また六月三日の勅宣には「先師伝教大師はすでに止観業と遮那業の二つを開いて自分の歩むべき道とされた。したがって代々の座主(比叡山延暦寺の住職)はこれを承け継いで両業を兼ね伝えない者はいない。後に続く者たちがどうして先師のたどられた道に背くことがあってよいであろうか。ところが、聞くところによると、比叡山の僧たちはもっぱら先師の教えに背いて偏った考えに執着し、他宗の教えを宣伝するばかりで伝統的な先師の道を興隆しようとしていないようである。およそ先師の伝えられた教えの道というものは一つでも欠けるようなことがあってはならない。法を伝え弘める者の勤めとして両業を兼ね備えることは当然であろう。したがって、今より後は真言密教と法華円教の両教に通達した者をもって延暦寺の座主とし、これを恒例としなければならない」とある。
慈覚・智証両大師への批判
[56]したがって、慈覚・智証の両大師は伝教大師や義真のお弟子であり、中国に渡って天台や真言の明師に会いながら、天台宗と真言宗との勝劣については判断できなかったのであろうか。ある時は真言が勝れている、ある時は法華経が勝れている、ある時は理同事勝などと言っている。また、宣旨を申し下した時は、真言宗と天台宗との勝劣を論じる人は天皇の命に背く者である、と戒められている。このような発言はすべて自語相違(言っていることが矛盾している)と言うべきで、おそらく他宗の人は用いないであろう。ただし、「真言宗と天台宗の二宗は同じである、とは伝教大師のお考えである」と宣旨に引用されているが、いったい伝教大師のどの書物に書かれているのか。このことはよくよく尋ねるべきことである。
[57]慈覚大師・智証大師と日蓮とが伝教大師の御事をあれこれと言うのは、親に向かって年齢を争ったり、日天に向かってどちらがよく見えるかと比較するようなものであるけれども、慈覚大師や智証大師の味方をされる人びとは、明瞭な証文を用意してもらいたい。結局は信用できるものでなければならないからである。玄奘三蔵はインドに渡って婆沙論を見たほどの人であるが、インドに渡らなかった法宝法師に婆沙論の翻訳について論難された。法護三蔵はインドの法華経梵本を見た人であるけれども、見ていない中国の人に嘱累品の位置について、誤り、と言われたではないか。たとえ慈覚大師が伝教大師にお会いして習い伝えたとしても、智証大師が義真和尚から直接口決相承(口伝相承。師から弟子へ口伝えで法門を伝授すること)されたと言っても、伝教大師や義真和尚の正しい文献と相違していれば、どうしても不審をいだかざるをえない。
[58]伝教大師の依憑天台集という書物は、大師の第一の秘書(大切な書)である。その書の序文に「新しくもたらされた真言宗は一行阿闍梨(天台宗の教えに立脚して大日経疏を著わした人)が善無畏三蔵から相承した真実を亡失し、古くからもたらされている華厳宗は法蔵が天台宗の影響を受けて教義を立てていることを隠し、空理に執着している三論宗は嘉祥大師が天台大師に論難されて屈伏し恥じたことを忘れたり、嘉祥大師が称心に居住していた章安大師の法門に心酔したことを覆い隠しており、有に執着している法相宗は撲揚の智周が天台大師に帰伏したことを否定したり、青竜寺の良賁が天台大師の判経(経典の分類や解釈)に依ったことを廃除している。そこで謹んで依憑天台集一巻を著わして後に続く私と同心の学者に贈る。時に、日本第五十二代の弘仁七年丙申の年である」と書かれている。次の正宗(本文)には「インドの名僧が、大唐の天台の教えこそ仏法の邪正をもっとも正しく弁えている、と聞いて、ぜひとも承りたいので訪問したい」と言っているとか、続いて「これは本国のインドに仏の正法がなくなって、四方の国に求めている証拠ではないか。しかもこの国にはこのことを認識している者は少ない。あたかも魯の国の人たちが、孔子が聖人であることを知らずに疎略に扱ったようなものである」と記されている。
[59]この依憑天台集は法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗の四宗を責めている書物である。もし天台宗と真言宗とが同一の味(同一の教え)であるなら、どうして真言宗を責められたのか。しかも不空三蔵などを「魯の国の人のようだ」などと書かれている。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の真言宗が勝れたものであれば、どうして「魯の国の人」などと悪口を言われるであろう。またインドの真言宗が天台宗と同じかあるいは勝れているのならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に頼んで、「本国には正法がない」などと言うのであろうか。
[60]それはそうとしても、慈覚大師と智証大師の二人は言葉では伝教大師のお弟子とは名乗っておられるけれども、心の中はお弟子ではない。なぜなら、この書には「謹んで依憑天台集一巻を著わして後に続く私と同心の学者に贈る」と言われている。「私と同心」とは真言宗は天台宗よりも劣ると習い受けとめてこそ「私と同心」と言えるのではないだろうか。自分から願い出て申し下された宣旨に「比叡山の僧たちはもっぱら先師の教えに背いて偏った考えに執着している」とか、「およそ先師の伝えられた教えの道というものは一つでも欠けるようなことがあってはならない」と書かれている。この宣旨のとおりであれば、慈覚大師や智証大師こそもっぱら先師に背く人びとであろう。このように責めることは恐れ多いことであるけれども、これを追及しなければ大日経と法華経との勝劣が不明のものとなってしまう、と思い、命をかけて責めるのである。この二人が弘法大師の邪義を責めなかったのも道理である。それなら、食糧や費用を多く用い、大勢の人びとを労わして中国へ渡られるよりも、本師伝教大師のお教えをよくよく研鑽しつくされたほうがよかったのではないだろうか。
[61]それゆえ、比叡山の仏法はただ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代だけであったのではないだろうか。天台宗の座主は名ばかりで、その実は真言宗の座主に変わっている。名前と所領とは天台宗の山であるが、そこにいる主は真言師である。したがって、慈覚大師と智証大師は法華経法師品の「已今当」(已に説いた経、今説いた経、当に説くであろう経の中で法華経はもっとも勝れている)の文を破られた人たちである。「已今当」の経文を破られるからには、釈迦仏・多宝仏・十方の分身諸仏の怨敵ではないのか。弘法大師こそ第一の謗法の人とは思うけれども、これはそれにも比較できないほどの悪事である。なぜなら、悪事でも水と火・天と地とのように明確に分けるものは、世間の人にも悪事と分かるので用いることもないし、悪事が成就することもない。弘法大師の法義はあまりに悪いことであるので弟子たちも用いることがない。印と真言の事相だけはその宗の特色であるけれども、教相(教え。教義。仏の教えの秩序立て)の法門は弘法大師の教義をそのまま用いることができないために、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚大師・智証大師の教義を用いている。
[62]慈覚大師と智証大師の考えは、真言と天台とは理同(理においては同じ)である、と言うので、人びとも、なるほどそうであろう、と思う。このように思うから、事勝(事において大日経が勝れる)の印と真言に心が傾き、天台宗の人びとさえも画像や木像の開眼の仏事を行うために真言の事相(印と真言)を習うようになり、日本の国は一同に真言宗になってしまい、天台宗の人は一人もいなくなったのである。例えば、法師と尼僧、黒色と青色とはまぎらわしいので、目の不自由な人は見違えることがある。僧と在家の男性、白色と赤色とは区別がはっきりしているので、目の不自由な人でも見違えない。まして目の良い人はなおさら見違えることはない。慈覚大師と智証大師の教義は、法師と尼僧、黒色と青色とのようにまぎらわしいので、智恵のある人も迷い、まして愚かな人も誤り、この四百余年の間は比叡山・園城寺・東寺・奈良・五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)・七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)・日本一州、みな謗法の者となってしまった。
法華正法と法華経の行者
[63]そもそも、法華経の第五巻安楽行品には「文殊師利よ、この法華経は諸仏如来の秘密の教えであり、諸経の中でもっとも上にある」と説かれている。この経文のとおりであるならば、法華経は大日経などのもろもろの経の中で頂上に位置づけられる正法である。そうであれば、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師などはこの経文をどのように解釈されるのであろうか。法華経の第七巻薬王菩薩本事品には「よくこの経典を受持する者もまたこれと同じで、一切衆生の中において第一の者である」と説かれている。この経文のとおりであるならば、法華経の行者は大小多くの川の中の大海、多くの山の中の須弥山、多くの星の中の月天、多くの明りの中の大日天、転輪聖王・帝釈天・諸王の中の大梵天王である。
[64]伝教大師の法華秀句という書に、法華経薬王菩薩本事品の「この経もまたこのとおりである。乃至、諸の経典の中でもっとも第一である。よくこの経典を受持する者もまたこれと同じで、一切衆生の中において第一の者である」の文を引き、「以上は経文である」とお書きになり、続いて「天台大師の法華玄義に言うには」と文を引用し、「以上は法華玄義の文である」とお書きになり、以上の引用文の意味を解釈して「まさに知るべきである。他宗が依りどころとしている経は第一ではない。したがって、その経を持つ者もまた第一ではない。天台法華宗が依りどころとしている法華経は最第一であるから、この法華経をよく持つ者も衆生の中で第一である。このことはすでに説かれた仏の経説によるのであり、けっして自慢ではない」と述べられている。続いて、別の解釈文に譲ることを「依りどころとすべき詳細の説明については別の書に述べてある」と説明されている。
[65]その別の解釈文である依憑天台集には「今、わが天台大師の法華経を説き法華経を注釈することにおいては、他の多くの人びとよりも特に秀でており唐代でも一人抽ん出ている。如来の使いであることは明らかである。したがって、この法華経を讃歎する者は福徳を須弥山のように高く積み、誹謗する者は無間地獄へ堕落する罪をつくる」と記されている。これらの法華経・天台大師・妙楽大師・伝教大師のお心のとおりであれば、今の日本国には法華経の行者は一人もいないことになる。
[66]インドでは、教主釈尊は法華経説法の見宝塔品の時、すべての仏をお集めになって大地の上に居かれ、大日如来だけを宝塔の中の南の下座にお据えし、みずからは北の上座にお着きになった。この大日如来は大日経の胎蔵界の大日如来(胎蔵界曼荼羅の八葉九尊の中台にまします大日如来)、金剛頂経の金剛界の大日如来(金剛界曼荼羅の三尊九会の中央にまします大日如来)の主君である。胎蔵部と金剛部の両部の大日如来を従者とした多宝仏の上座に教主釈尊は座を占められた。これがすなわち法華経の行者である。インドにおいては以上のとおりである。
[67]中国では、陳帝の時、天台大師が出られ南三北七の諸師を論服させて現身に大師となられた。伝教大師が「他の多くの人びとよりも特に秀でており唐代でも一人抽ん出ている」と言われたのはこのことである。
[68]日本国では、伝教大師が南都六宗を論破して日本で最初の第一の大師である根本大師となられた。
[69]インド・中国・日本において、ただこの三人だけが法華経に説かれている「一切衆生の中で第一の者」と言えるであろう。したがって、伝教大師は法華秀句に「浅い教え(法華経以外の教え)は持ち易く、深い教え(法華経)は持ち難い、とは釈尊の教えである。浅い教えをやめて深い教えにつくのがりっぱな人の心のもちかたである。天台大師は釈尊に順って法華宗を中国に弘め、比叡山の一門(日本天台宗)は天台大師の教えを承け継いで法華経を日本に弘めた」と述べられている。仏が入滅されてから後一千八百余年の間に、法華経の行者は中国に一人、日本に一人の以上二人、これに釈尊をお加えして以上三人である。
[70]外典(仏教以外の書物)にも、「聖人は一千年に一度出、賢人は五百年に一度出る。黄河は涇(濁った水)と渭(澄んだ水)とに分かれて流れ、五百年には半分が澄み、千年には両方が澄む」(文選)と言われているが、まさにそのとおりである。
伝教大師滅後の仏教界
[71]ところが、日本国には伝教大師のおられた頃の比叡山だけに法華経の行者がおられた。義真・円澄は比叡山第一・第二の座主である。第一の座主であった義真だけは法門の立義が伝教大師に似ていた。第二の座主であった円澄は半分は伝教大師のお弟子であるが、半分は弘法大師の弟子である。第三の座主である慈覚大師は最初は伝教大師のお弟子に似ていたが、御年四十歳の時中国に渡ってからは、名前は伝教大師のお弟子で師の跡をお継ぎになったけれども、法門の内容はまったく伝教大師のお弟子ではない。ただし、円頓戒(円教の修行により速やかに成仏する戒法)だけはお弟子のようである。蝙蝠のようで、鳥でもなければ鼠でもない。母を食べるという梟鳥か父を食べるという破鏡のようである。法華経という父を食べ、法華経の受持者である母を嚙む者である。日(太陽)を射るという夢をみたのはその証拠である。それゆえ、死去の後は墓がないという痛ましいことになったのである。
[72]智証大師の一門である園城寺と慈覚大師の一門である比叡山とは、修羅と悪竜とのようにいつも争っている。園城寺を焼き比叡山を焼いた。智証大師が本尊としていた弥勒菩薩も焼けてしまったし、慈覚大師が本尊として大日如来を祀っていた大講堂も焼けた。生きながらにして無間地獄の苦を受けている。ただ根本中堂だけは焼けずに残った。
[73]弘法大師もまた足跡がなくなっている。弘法大師には「東大寺で受戒しない者を東寺の長者(天皇に任命される主職)にしてはならない」という戒めの文書(遺告)がある。ところが、寛平法皇(宇多天皇)は仁和寺を建立して東寺の法師を移し、「わたしの寺には比叡山の円頓戒を持たない者を住持としてはならない」という宣旨をはっきりと下されている。したがって、今の東寺の法師は鑑真の弟子(東大寺で受戒した者)でもないし、弘法大師の弟子でもない。比叡山で受戒すれば、戒においては伝教大師のお弟子である。また、正しくは伝教大師のお弟子でもない。伝教大師の法華経の教えを破り捨ててしまっているのであるから。
[74]弘法大師は去る承和二年三月二十一日に死去されたので、宮中から使者が遣わされ遺体を葬られた。その後、迷った弟子たちが集まり、死んだのではなく禅定に入られたのだ、と言い、髪を剃って差し上げるとか、かつて弘法大師が唐から日本に帰る時に三鈷(三鈷杵。三股の形をした金剛杵)を中国の地から投げたら日本の高野山に留まっていたとか、あるいは夜中に日輪(太陽)が出たとか、あるいは現身に大日如来になられたとか、あるいは伝教大師に十八道(十八の契印をもって行う密教の修法)をお教えしたとか言って、師の徳を飾り立てて智恵のある人のように見せかけ、自分の師の邪義を支援して国王臣民を迷わしている。また、高野山に本寺と伝法院という二つの寺がある。本寺は弘法大師の建てた大塔で、本尊は胎蔵界の大日如来である。伝法院は正覚房(覚鑁)が建てた寺で、本尊は金剛界の大日如来である。この本寺の金剛峯寺と末寺の伝法院の二寺は、いつも合戦をしている。まるで比叡山と園城寺のようである。弘法大師や慈覚大師・智証大師などが世間を誑らかした罪が積もり積もって、日本にこの二つの禍が起きたのであろう。
[75]糞を集めて栴檀としても、焼けばただ糞の臭いしかしない。大妄語を集めて仏のお言葉であると言っても、ただ無間地獄に堕ちるだけである。インドの尼犍外道(仏在世の六師外道の一つ)の塔は数年の間は利生(利益)も広大であったが、馬鳴菩薩の礼拝によってたちまちのうちに崩れ落ちてしまった。鬼弁婆羅門の隠れていた帷は長年人を誑らかしていたけれども、阿溼縛寠沙菩薩(馬鳴菩薩)に論難されて妖術を破られた。狗留外道は八百年の間石になっていたが、陳那菩薩に責められて水になってしまった。道士は数百年間中国の人びとを誑らかしていたが、摩騰と竺蘭に論破されて道教の経典を焼いてしまった。秦の皇帝に仕えていた趙高が国を奪い取ったように、漢の皇帝に仕えていた王漭が王位を奪い取ったように、伝教大師滅後の天台宗の人びとや真言宗の人びとは、法華経の位を奪って大日経のものとしてしまった。法華経の法王はすでにこの国にはいない。そうであれば人王がどうして安穏でいられようか。日本国の人びとはみな慈覚大師・智証大師・弘法大師の流れを汲む者ばかりであり、一人として謗法を犯してはいない者はいない。
謗法の日本国と日蓮
[76]ただし、このようなことになった問題の本質を考えてみると、今の世の情況は、あたかも仏蔵経に説かれている大荘厳仏の世の末で一切明王仏の末法の時代のようである。法華経に説かれている威音王仏の末法の時代には、不軽菩薩を誹謗した罪を人びとは改悔(悔い改める)したけれども、なお千劫もの長い間無間地獄に堕ちた。いわんや日本国の真言師・禅宗の徒・念仏者たちは少しも改心していない。法華経譬喩品に説かれているとおり「このようにめぐりめぐって限りなく長い間無間地獄に堕ちる」ことは疑いのないことであろう。このような謗法の国であるから天からも捨てられた。天が捨てれば、古くから日本を守護してきた善神も叢祠を焼き払って仏の浄土に帰ってしまわれた。ただ日蓮一人だけがこの国に踏みとどまって人びとに告げ示すと、国主は日蓮を怨み、数百人の民衆に詈しらせたり、悪口を言わせたり、杖木で打たせたり、刀杖で切りかからせたり、避難して住居を変えるたびに家を閉鎖したり追い出したりする。それでも効果がなければ、自ら手を下して二度にわたって日蓮を流罪にした。去る文永八年九月十二日にはついに頸を切ろうとまでしたのである。
[77]金光明最勝王経には「悪人を敬い善人を罰することにより、他国から怨賊が侵略し国の人民は争乱に遭遇し殺害される」と説かれている。大集経には「もしまた、多くの刹帝利(武士)や国王がいろいろな非法を行い、世尊の弟子を悩ましたり、毀ったり詈しったり、刀杖で打ったり、あるいは衣鉢など種々の持物を奪ったり、布施をしようとしている人を妨害したりすれば、わたしたち梵天帝釈はすぐに彼等に対し他方の怨敵を蜂起させる。そして、国内にも内乱が起こり、疫病・飢饉・時ならぬ風雨・闘争・訴訟などを起こさせるであろう。また、その王も久しいことはなく、国も滅亡するであろう」と説かれている。これらの経文のとおりであれば、日蓮がこの国にいなければ、仏は大妄語の人となり無間地獄への堕落をお免れになることはできないであろう。
謗法の指摘
[78]去る文永八年九月十二日に、松葉谷で捕縛された時、平左衛門尉頼綱など数百人の兵に向かって「日蓮は日本国の柱である。日蓮を失うことになれば日本国の柱を倒すことになる」と言った。今あげた経文には、智恵ある人を国主などが悪僧たちの讒言や諸人の悪口によって罪科に処すならば、急に戦いが起きたり、大風が吹いたり、他国から攻めてきたりするであろう、とある。去る文永九年二月の北条一門の内乱(二月騒動)、同じく十一年四月の大風、同じく十月の蒙古来襲は、ひとえに日蓮の言葉の正しさを示すためのものではないか。まして、日蓮はこれらの事件を事前に考え予言していたのである。だれがこのことを疑うことができようか。
[79]弘法大師・慈覚大師・智証大師の誤り、ならびに禅宗と念仏宗との禍が相次いで起こり、まさに逆風に大波が起こり、そこに大地震が重なったようなものである。したがって日本国もしだいに衰えてきた。太政入道(平清盛)が国の実権を握り、やがて承久の政変によって三上皇が配流され、政権は関東に移ったけれども、ただ国内の乱れだけで他国から侵略してくることはなかった。その頃も謗法の者は国中に充満していたけれども、謗法のことについて言い顕わす智恵ある人がいなかった。そのゆえに世の中は表面的には平穏であったのである。
[80]譬えれば、眠っている獅子に手で触れなければ吼えない。急流でも櫓をささなければ波は高くならない。盗人もやめさせようとしなければ怒らない。火は薪を加えなければ燃えさからない。謗法の罪は犯していても、これを指摘し責める人がいなければだれにも解らないので表面的には平穏なように見えるのである。例えば日本国に仏教が始めて渡ってきた頃は何事もなかったが、物部守屋が仏像を焼いたり、僧を迫害し、寺塔を焼いたりしたので、天から火の雨が降り、国には疱瘡が流行し、兵乱が続いたようなものである。このたびはそれとはとても比較にならない。謗法の人びとは国中に充満している。日蓮がそれに対して法華経の教えをかざして強くせめかかる。修羅と帝釈との争いや仏と魔王との戦いにも劣るものではない。
[81]金光明最勝王経には「時に、隣国の怨敵が悪意を起こし四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)をもってその国を降伏させるであろう」、さらに「時に王が様子を確認し終わり四兵を率いてその国の討罰に出発しようとする時、私たち諸天は従属する多くの夜叉などの諸神とともに姿を隠して助勢し、その怨敵を自然に降伏させるであろう」と説かれている。金光明最勝王経の文は以上のとおりであるが、大集経や仁王経にも同様のことが説かれている。
[82]これらの経文のとおりであれば、正法を行ずる者を国主が怨み、邪法を行ずる者の味方をするならば、大梵天王・帝釈・日月・四天などが隣国の賢王の身に入り替ってその国を攻める、というのである。例えば僧を迫害し仏法に敵対した訖利多王を雪山下王が攻め、仏法を破壊した大族王を幻日王が滅ぼしたようなものである。訖利多王と大族王とはインドの仏法を破壊した王である。中国でも仏法を滅ぼした王はすべて賢王に攻められた。
[83]今の日本国はこれらとは比較にならないほどひどい状態である。国王は、仏法の味方のようでありながらほんとうはかえって仏法を滅ぼすような法師の味方をするのであるから、愚かな者にはまったく解らない。智恵のある者でも普通の智恵者では知ることができない。たとえ諸天でも、劣った天人は知ることができないであろう。したがって、中国やインドの昔の混乱よりも今の日本の乱れのほうが大きいであろう。
経文と世間
[84]法滅尽経には「私が入滅した後、五逆罪の盛んな濁世(濁った世。悪世)に悪魔の教えが盛んになり、悪魔が沙門の姿をとって現われ仏の道を破壊するであろう。また悪人は海中の砂のように多く、善人ははなはだ少なくて一人か二人しかいないであろう」と説かれている。涅槃経には「このような涅槃経を信ずる者は爪の上の土のように少なく、この経を信じない者は十方世界の土のように多い」(迦葉菩薩品)と説かれている。これらの経文は私の心にたいへん深く染みこんだ。今の世の日本国の人びとはだれもかれもが法華経を信じている、と言っているが、その人びとの言葉のとおりであれば、一人も謗法者はいないことになる。ところがこれらの経文には、末法の世には、謗法者は十方世界の土のように多く正法を信ずる者は爪の上の土のように少ない、と説かれている。経文と世間の人びとの認識とは水と火のように異なる。世間の人は「日本国には日蓮一人だけが謗法の者である」と言う。これもまた経文とは天と地のように違っている。法滅尽経には「善人は一人か二人」、涅槃経には「信ずる者は爪の上の土のように少ない」と説かれている。経文のとおりであるならば、日本国にはただ日蓮一人こそ「爪の上の土」であり、「一、二人」にあたっている。経文を信用すべきであろうか、それとも世間の人びとの言葉を信用すべきであろうか。
法華経を読む
[85]問うて言う。「涅槃経の文には『涅槃経の行者は爪の上の土のように少ない』と説かれている。ところが貴方の考えでは、法華経の行者は爪の上の土より少ない、ということである。その違いはどうなのか」。
[86]答えて言う。涅槃経には「(この経の意義は)法華経で八千の声聞が授記を得たように、秋の収穫が終わった後の落穂拾いである」と説かれている。妙楽大師は「大経(涅槃経)自らが法華経のことを至極の教えとしている」(法華文句記)と言われている。「大経」とは涅槃経である。涅槃経では法華経のことを「至極の教え」と言っているのである。ところが涅槃宗の人が「涅槃経は法華経より勝れる」と言えば、まるで主人を家来と言い、下の者を上の者と言っていることと同じである。涅槃経を読むということは法華経を読むことをいうのである。譬えれば、賢人は自分のことを見下されても、国主を重んずる者がいれば悦ぶことと同じである。涅槃経は法華経を見下して自分を褒める人を、かえって敵として憎まれる。この例によって知りなさい。華厳経・観無量寿経・大日経などを読む人も、法華経を劣ると思って読むことは、それらの経々の心に背くことになるであろう。これによって承知しなさい。法華経を読む人が、いかに法華経を信じているようであっても、他の諸経でも成仏することができる、と思うならば、この経を読んでいるとは言えないのである。
法華経讃歎者の法華経誹謗
[87]例えば、三論宗の嘉祥大師吉蔵は法華玄論という十巻の書を書いて法華経を讃歎したけれども、妙楽大師がそれを非難して「法華経を称讃しているようであるけれども、その言葉の中に毀りが含まれているので讃歎したことにはならない」(法華文句記)と言われたように、法華経を破壊した人である。したがって、嘉祥大師は心をひるがえして天台大師に仕え、法華経を読むことをしなかった。「私が法華経を読むと悪道に堕ちることを免れることができない」と言い、七年間も自分の身を投じて天台大師の踏台となられた。
[88]法相宗の慈恩大師(基法師)には法華玄賛という法華経を讃歎した十巻の書がある。ところが伝教大師はこれを非難して「文章のうえでは法華経を讃めているけれども、真意をつかんでいないのでかえって法華経の心を殺している」(法華秀句)と言われている。
[89]これらの例から考えてみると、法華経を読んだり讃歎したりする人びとの中に、かえって無間地獄に堕ちる人が多くいるのである。嘉祥大師や慈恩大師はすでに法華経一乗を誹謗した人である。ましてや弘法大師・慈覚大師・智証大師は法華経を蔑にした人ではないか。
[90]嘉祥大師のように、講会をやめて会下の人びとを解散し、自ら身を投じて天台大師の踏み台にまでなっても、なおも以前の法華経を誹謗した罪は消えないであろう。不軽菩薩を軽蔑し誹謗した者は、後に不軽菩薩に信伏し教えに従ったけれども、重罪が残っていて千劫もの長い間無間地獄に堕ちた。したがって、弘法大師・慈覚大師・智証大師などはたとえ心を翻しても、なおも続けて法華経を読むならば重罪は消えないであろう。ましてや改心する気持などはない。法華経を破失し、真言密教を昼夜に修し伝授弘法した人たちである。
[91]世親菩薩や馬鳴菩薩は小乗教をもって大乗教を破った罪を悔い、舌を切ろうとまでした。世親菩薩は「たとえ仏の説かれた教えではあっても、阿含経は戯れにも口にはしない」と誓い、馬鳴菩薩は懺悔のために大乗起信論を書いて小乗教を破折された。
[92]嘉祥大師は天台大師を招待して、百余人の智者の前で五体を地面に投げ出し、全身から汗を流し、血の涙を流して「今からは弟子を見ることはしないし、法華経を講じることもしない。弟子の顔を見て法華経を読めば、いかにも自分に力があり、この法華経のことをよく知っているかのように思われるから」と言って、天台大師よりも高僧でもあり老僧でもありながら、わざと人の見ている前で天台大師を背負って河を渡したり、高座の傍に近づいて身を踏み台にして天台大師を背に乗せ高座に昇らせたりした。最後、天台大師が御臨終の後には、隋の皇帝に見参して、子供が母に死におくれたように足ずりをして泣かれたのである。嘉祥大師の法華玄論を見ても、それほど強く法華経を誹謗した注釈書ではない。ただ、法華経と諸大乗経とは法門に浅い深いの相異はあるが心は一つである、と書かれているのである。これが謗法の根本であろうか。
[93]華厳宗の澄観も真言宗の善無畏も、大日経と法華経とは理においては一つである、と書かれている。嘉祥大師に法華経誹謗の罪があるのなら善無畏三蔵もその罪科を免れることはできない。
善無畏三蔵の法華経誹謗と祈雨
[94]善無畏三蔵は中インドの国主である。位を捨てて出家し、他国に赴いて殊勝と招提の二人に遇い法華経を伝授され、百千もの石の塔を立てたので法華経の行者のように見えた。
[95]ところが、大日経を習いはじめてからは、法華経は大日経より劣ると思ったのであろうか。始めのうちはたいしてそのような考えも主張しなかったが、中国に渡り玄宗皇帝の師となると、天台宗を嫉む心がおきたのであろうか、法華経を誹謗するようになった。ところが急死して、二人の獄卒に鉄の縄を七本ももって縛りつけられ閻魔王の宮殿に連れて行かれた。ところが、寿命はまだつきていないから帰れ、と言われたので、自分でも法華経誹謗の罪であると気づいたのか、真言の観念(阿字観・五輪観などの真言宗の修法)・印・真言などを投げ捨てて、法華経譬喩品の「今此三界」(今この三界はすべてわたし〔仏〕の所有である。その中の衆生はことごとくわたしの子である。しかもこの所はいろいろな災難が多い。ただわたし一人だけがよく救護することができる)の文を唱えると、縄も切れてこの世に帰された、ということである。
[96]また、玄宗皇帝から雨を降らす祈禱を命じられた時、たちまちのうちに雨が降ったけれども、同時に大風が吹いて国内を破壊してしまった。最後、死去された時には弟子たちが集まって臨終の様子が立派であったと褒めたたえたけれども、実際は無間地獄に堕ちてしまったのである。
[97]問うて言う。どうしてそのことがわかるのか。答えて言う。善無畏三蔵の伝記(宋高僧伝)を見ると「今、善無畏の遺骸を見ると、姿がしだいに小さくなり黒い皮膚がすごみを増して骨が露出している」と書かれている。善無畏の弟子たちは死後に地獄の相が現われたことを知らないで、師の徳をあげているように思っているけれども、書き表わしたことがらはかえって善無畏の罪科を記しているのである。「死去されると、身体はしだいに縮小し、皮膚は黒く、骨が露出している」という。人が死んだ後、色が黒いのは地獄の業因であると定められており、このことは仏陀の金言(お言葉)によるものである。善無畏三蔵が地獄に堕ちた業因とは何であろうか。幼少の時に王位を捨てて出家したことは第一の道心である。インド五十余箇国を修行して歩き、慈悲の心が深いあまりに中国にまで渡った。インド・中国・日本・一閻浮提(世界中)に真言密教を伝え、鈴を振って法を弘めたのはこの人の功徳ではないのか。どうして地獄に堕ちたのであろうと、後生(死後)を大事に思う人びとはお考えになるべきである。
金剛智三蔵の祈禱
[98]また、金剛智三蔵は南インドの大王の太子であった。金剛頂経を中国にもたらすなど、その徳は善無畏三蔵と等しいほどである。そして、互いに師となり密教を相伝した。ところで、金剛智三蔵は唐の玄宗皇帝の命によって雨の祈りをされたところ、七日のうちに雨が降った。天子はおおいに悦ばれたが、たちまちのうちに大風が吹いてきた。皇帝も臣下の者も興ざめしてしまい、使者を遣わして追放しようとしたが、なにのかのと言って留まってしまった。その後、皇帝の寵愛されていた姫宮が死去された時、祈禱をせよとの命を受けて、宮中の七歳になる少女二人を薪に積め込んで身の代として焼き殺したことは、まことに無慚なことであったと思われる。しかも姫宮も生きかえられることはなかった。
不空三蔵の祈雨
[99]不空三蔵はインドから金剛智三蔵のお供をしてきた人である。中国に来て善無畏三蔵や金剛智三蔵の行実を見聞きし不審に思われたのであろう。善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅された後、インドに帰って竜智菩薩に会い真言密教を習い直し、天台宗に帰伏したのであるが、それは心の中だけで、その身は真言宗から天台宗に移ることはなかった。不空三蔵も玄宗皇帝から祈雨の命を受けたが、三日のうちに雨を降らした。天子は悦ばれて自ら御布施を下された。ところが、しばらくすると大風が吹き荒れて、内裏も吹き破り、公家殿上人の宿所も一つ残らず壊してしまったので、天子はおおいに驚き、風を止めるように宣旨を下された。しかし、一時は止んでもしばらくするとまた吹くという有様で、数日の間は止むことがなかった。結局は使いをつけて不空三蔵を追放して、ようやく風も止んだのであった。
真言師の悪風
[100]この三人の、悪風を吹かせる密教が中国・日本のすべての真言師に伝えられたので、この両国でも真言師が祈雨をすれば大風が吹くのである。
[101]なるほどそうであろう。去る文永十一年四月十二日の大風は東寺第一の智者と言われた阿弥陀堂の加賀法印の祈雨によって吹いた逆風である。よくもこれほど善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の悪法を少しも違えず伝えたものである。心憎いことである。
弘法大師の祈禱
[102]弘法大師は去る天長元年二月に大旱魃があった時、祈雨をされたことがある。その前に守敏が祈雨を修して七日のうちに雨を降らせた。ただし、都のなかだけで田舎には降らなかった。つぎに弘法大師があとを承けて祈雨を行い、一七日たっても雨の気配はなく、二七日たっても雲も出なかった。三七日目に天皇が和気真綱を使者として御幣(神に捧げる幣)を神泉苑に捧げられたところ、雨が三日間降り続いた。この雨を弘法大師とその弟子たちは奪い取り、自分たちの祈雨による雨であるとしたので、今日にいたる四百余年の間、これを弘法の雨と言っている。
[103]慈覚大師は夢で日輪(太陽)を射落した、と言い、弘法大師は大妄語を吐いて弘仁九年の春に大疫病をとどめる祈禱をしたところ夜中に大日輪が出現した、と言っている。成劫(宇宙が形成されていく時代)からこのかた住劫(宇宙が平穏に推移する時代)の第九の減(百年を一減または一増として住劫は二十増減あり、そのうちの第九の減の時期)に至るまでの二十九劫(成劫の二十増減と住劫の九減)の間、日輪が夜中に出たということはない。
慈覚大師の夢想
[104]慈覚大師は夢で日輪(太陽)を射たという。五千七千巻の仏典や三千余巻の外典(仏教以外の書物)に、日輪を射る夢は吉夢である、という説があるのであろうか。修羅は帝釈を憎んで争い日天を射たが、その矢はかえって自分の眼につき刺さった。殷の紂王は日天を的にして矢を射たと言うがその悪虐無道のゆえに周の武王に滅ぼされた。日本の神武天皇の時代に、度美長(長髄彦)と五瀬命(神武天皇の兄)とが合戦をした時、五瀬命の手に矢が当たった。その時、命は「わたしは日天(天照太神)の子孫である。太陽の方向に向かって弓を引いたので日天の罰を受けた」と言われた。
[105]阿闍世王は仏に帰依し、内裏(宮殿)に帰ってお眠りになっていたが、とつぜん驚いて目を覚し、諸臣に向かって「日輪が天から地に落ちる夢を見た」と言われた。そこで、諸臣は「仏の御入滅のしらせであろうか」と言った。須跋陀羅の夢(太陽が落ちて破壊し、大海は竭れ、須弥山が大風で吹き散った夢を見て驚き、翌日、入滅に臨んでおられた釈尊のもとに赴き教化を受け、最後の弟子となった)もまたこれと同じである。日輪を射るとか日輪が落ちるという夢はわが国ではとくに忌むべき夢である。神を天照といい、国を日本という。
[106]また、教主釈尊を日種と申し上げる。摩耶夫人が日(太陽)を懐妊した夢をみてお産みになった太子である。慈覚大師は大日如来を比叡山に祀り釈迦仏を捨て、真言の三部経を崇めて法華の三部経の敵となったために、このような夢を見たのである。
[107]例えば、中国の善導は最初は密州の明勝という人について法華経を読んでいたが、後に道綽に会ってからは法華経を捨てて浄土の教えに移り、観無量寿経の注釈書を書いて、「法華経は千人の中一人も得道できない、念仏は十人が十人とも百人が百人とも往生できる」と考え定めて、この教義が万全であることを証明するために阿弥陀仏の前で祈誓をした。自分の考えが仏の御意に叶っているかどうか、と祈っていると、「毎夜、夢の中で一人の僧が現われて教えを垂れた」と言う。そして、「仏の御意を得たものであるからもっぱら経の教えのとおりにしなさい」との教示を受け、この教えを「観念法門経」などと言っている。法華経には「もし法を聞く者があれば一人として成仏しない者はない」(方便品)と説いてあるが、善導は「千人の中一人も得道できない」(往生礼讃)と言っている。法華経の教えと善導の言葉とは水と火のように違っている。善導は、観無量寿経の教えは「十人が十人とも百人が百人とも往生できる」と言うが、無量義経には、観無量寿経は「いまだ真実を顕わさない」経であると説かれている。無量義経の教えと楊柳房(善導。弥陀の浄土を願って柳の木から身を投げて死んだと伝えることから善導の別称とする)の言葉とは天と地ほどの相異がある。これを、阿弥陀仏が僧となって現われ、「善導の考えは真実である」と証明されたとしても、本当のこととして受けとることができるであろうか。そもそも、阿弥陀仏は法華経説法の会座に来て、他の諸仏とともに広長舌を梵天につけ、法華経の真実を証明されなかったのであろうか。阿弥陀仏の脇士となられている観世音菩薩や勢至菩薩も法華経の会座におられなかったのであろうか。この事実によって考えてみなさい。慈覚大師の夢は災をもたらす不吉な夢である。
弘法大師とその門下への不審
[108]問うて言う。弘法大師の般若心経秘鍵には「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。そこで嵯峨天皇自ら筆端を黄金に染めて紺紙を手に取り、般若心経一巻を書写された。わたしは般若心経講読の講師に選ばれ、経典の根幹について述べた。まだ結願の詞(仏事を結ぶにあたって捧げる言葉)を述べていないのに、疫病が治癒した人たちが道に出てたたずみ、夜中に太陽の光が輝いた。これは愚かな自分の戒行の功徳ではない。徳の高い天皇の御信心の力によるものである。ただし、神に詣でる人たちはこの般若心経秘鍵を誦み奉れ。昔、わたしは霊鷲山における仏の説法の座にいて、親しく深い教えを聞いたのであるから、この書は経典の心に達していないはずがない」と述べられている。
[109]また、孔雀経音義には「弘法大師が帰朝した後、真言宗を立てようとして諸宗の人びとを朝廷に集められた。諸宗の人びとは真言宗の即身成仏の法義について疑いをもった。すると弘法大師は智拳の印(金剛界の大日如来が結ぶ仏智に入ることのできる印)を結んで南方に向かわれると、口が急に開いて金色の毘盧遮那如来(大日如来、法身仏)となられ、また直ちにもとの姿に戻られた。そこで入我我入(仏が我が身に入り、我が身が仏に入って互いに相応じることにより、我が身が仏と成る)のことや、即身頓証(身に即してたちまちに仏の覚証を得る。即身成仏のこと)についての疑いは、その日のうちに釈然として解けた。そこで、真言瑜伽の宗(三密瑜伽を修す真言宗)とその宗旨である秘密曼荼羅の道(真言密教の道法)がその時から建立された」とある。また同書には「この時に諸宗の学徒は弘法大師に帰伏し、始めて真言密教に触れることができたので、請い願って習学した。三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄などは皆その仲間である」と述べられている。
[110]弘法大師伝には「帰朝のため船に乗られる日、願を発して、『わたしが学んだ教法に感応(心と心とが相通ずる)する場所がもしあれば、この三鈷はその所まで飛んでいくであろう』と言われ、日本の方に向けて三鈷を投げると、はるかに飛んで雲に入った。こうして、弘法大師は十月に帰朝された」とある。そしてさらに、「高野山の下に禅定に入る場所を定められた。すると、かの国で海上に投げた三鈷がそこに在った」と述べられている。このように弘法大師の徳は計り知れないほど深い。今はその二、三を示したにすぎない。このように偉大な徳をもっておられるにもかかわらずこの人を信じないばかりか、かえって無間地獄に堕ちるなどとどうして言えようか。
[111]答えて言う。私もその徳を仰いでそのように信じている。ただし、昔の人びとにも不思議な徳のある人がいたけれども、仏法の邪正はそのようなことで決めるものではない。インドの外道のうち、ある者(阿竭多仙)はガンジス河の水を十二年間も耳に留め、ある者(耆兎仙人)は大海の水を飲み干し、ある者(世智外道は太陽と月を手に握り、ある者(瞿曇仙人)は仏教徒を牛や羊に変えるなどのことをしたけれども、しだいに強い慢心を起こして生死に迷う原因となったのである。このことを天台大師は「名利を求めて煩悩を増す」(法華玄義)と説明されている。かつて、光宅寺の法雲がたちまちのうちに雨を降らせ花を咲かせたことについて、妙楽大師は「感応はこのように勝れていても、法の理に称っていない」(法華玄義釈籤)と書かれている。したがって、天台大師が法華経を読んで直ちに甘露の雨を降らせ、伝教大師が三日の内に甘露の雨を降らされたが、それをもって仏の御意に叶ったとは言われていない。
[112]弘法大師がどのような徳をおもちになっていたとしても、法華経を戯論の法(真実を説かない方便の教え)と決めつけ、釈迦仏を無明の辺域(根本的な煩悩にしばられた迷いの境地)とお書きになるような考えを、智恵のある人は信用してはならない。まして前にあげられた弘法大師の徳の数数には不審なことがある。
[113]「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した」と言う。春と言っても九十日間ある。何月何日のことか。これが第一の不審である。弘仁九年に本当に大疫病があったのか。これが第二の不審である。また、「夜中に日の光が輝いた」と言うが、このことは一番の大事である。弘仁九年は嵯峨天皇の時代である。太政官の公文書を司る左史・右史の記録にそのことが記載されているか。これが第三の不審である。また、たとえ記載されていたとしてもこれは信じがたいことである。成劫(宇宙が形成される時代)の二十劫(二十増減)と住劫の九劫(九減劫)で合計二十九劫もの長い間に、いまだない天変である。夜中に日輪が出現したということはいったいどういうことであろうか。このことは仏御一代の聖教にも書かれていない。未来の世に夜中に日輪が出現する、とは三皇(中国太古の統治者、伏羲・神農・黄帝)五帝(中国古代の聖君、小昊・顓頊・帝告・帝堯・帝舜)の三墳(三皇の事蹟を説いた書)五典(五帝の書)にも記載されていない。仏教の経典には、減劫の時代にだけ二つの太陽、三つの太陽、あるいは七つの太陽が出る、とは書かれているけれども、それは昼間のことである。夜に太陽が出現したら東西北の三方はどうなるのか。たとえ仏典や外典に記載されていなくとも、実際に、弘仁九年の春、何月の何日、いつの夜のいつの時刻に太陽が出た、と言うのか。公家・諸家・比叡山の記録などにあるのなら少しは信ずることもできるであろう。
[114]続いての文章に「昔、わたしは霊鷲山における仏の説法の座にいて、親しく深い教えを聞いた」という。これはこの文章を人に信じさせるためにつくり出した大妄語ではないのか。したがって、仏が霊鷲山で説法された時、法華経は戯論であり大日経は真実であると説かれたのを、阿難や文殊が誤って妙法華経を真実と書いてしまった、と言うのか。どうであろう。言うに足らない婬らな女性(和泉式部)や破戒の法師(能因)が歌を詠んで雨を降らせたにもかかわらず、三七日経っても降らすことのできなかった人にこのような徳があるのであろうか。これが第四の不審である。
[115]孔雀経音義に「弘法大師は智拳の印を結んで南方に向かわれると、口が急に開いて金色の毘盧遮那仏となられた」とある。これはまたいずれの天皇の時代で、いずれの年のことか。中国では建元から始まり、日本では大宝から始まり、在家者や出家者の日記、大切な記録にはかならず年号が記載されているが、これほどの大事でありながら、どうして王の名も臣の名も年号も日時も記されていないのか。
[116]また、次に「三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄」などが弘法大師に帰伏し真言密教を習学した、と言う。そもそも円澄は寂光大師と称し天台宗第二の座主である。そのことがあった時に、どうして第一の座主であった義真や根本の伝教大師を招かなかったのであろうか。円澄は天台宗第二の座主で伝教大師のお弟子であるけれども、弘法大師の弟子でもある。弟子を招くよりも、あるいは三論宗・法相宗・華厳宗の人びとを招くよりも、天台宗の伝教大師と義真の二人を招くべきではなかったのか。しかもこの記録には「真言瑜伽の宗とその宗旨である秘密曼荼羅の道がその時から建立された」とある。この記述は伝教大師や義真の存命中の時のように思われる。弘法大師は、平城天皇の時代の大同二年から弘仁十三年までは盛んに真言宗を弘めた人である。その時には伝教大師と義真の二人は現に存命中であった。また、義真は天長十年まで生きておられたけれども、その時まで弘法大師の真言宗は弘まらなかったのであろうか。いろいろと不審なことがある。
[117]孔雀経音義は弘法大師の弟子真済が自ら書いたものであるが、その内容は信じがたい。真済は邪見の者ではないであろうか。このようなことを書く時は公家・諸家・円澄の記録などを引用すべきであろう。また、道昌・源仁・道雄の記録なども調べてみなければならない。
[118]また、「面門(口)が急に開いて金色の毘盧遮那となられた」とある。面門とは口のことである。口が開いたのであろうか。眉間が開いた、と書こうとして、誤って面門と書いたのであろうか。偽の書物を作るからこのような誤りがあるのではないだろうか。
[119]「弘法大師は智拳の印を結んで南方に向かわれると口が急に開いて金色の毘盧遮那仏となられた」と言う。涅槃経の第六巻(本文の「五」は誤記)には「迦葉が仏に申し上げるには『世尊、私は今この四種の人(仏の入滅後、心の依りどころとなるべき人。須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢)には頼りません。なぜなら、瞿師羅経の中に、仏が瞿師羅のために、天魔が仏法を破壊しようと思い、仏の姿をとり、三十二相八十種好(仏の相好)を具えて、光明に輝き、満月のように円満な顔をし、眉間の白毫相は雪よりも白く、そして左の脇から水を出し右の脇から火を出すようなことがある、と説かれているからです』と」(如来性品)。また、第七巻(本文の「六」は誤記)には「仏が迦葉に告げられるには、『わたしが入滅した後、この悪魔がしだいに仏の正法を破壊するであろう。あるいは姿を変えて阿羅漢や仏となり、有漏(煩悩を具えている)の身でありながら無漏(煩悩を離れている)の身とみせかけて、仏の正法を破壊するであろう』と」(如来性品)と説かれている。
[120]弘法大師は法華経を華厳経や大日経に対して戯論と言い、しかも仏身を現じられたと言う。このことを涅槃経には「悪魔が煩悩を具えた身でありながら仏とみせかけて仏の正法を破壊するであろう」と記されている。涅槃経で言う正法とは法華経のことである。したがって涅槃経の続いての文には「仏は久しい過去からすでに成仏している」(如来性品)とあり、また「法華経の中で八千の声聞が記別を授かったように、今は秋の収穫が終わり、することがないようなものである」(如来性品)と説かれている。釈迦仏・多宝仏・十方諸仏は、一切経の中で法華経は真実の教えであり、大日経などの諸経は真実の教えではない、と言われている。ところが弘法大師は、自ら仏の身を現じ、華厳経や大日経に対して法華経は戯論である、などと言う。仏の説法が真実であるならば弘法大師は天魔ではないだろうか。
[121]また、帰朝の時海上から三鈷を投げたら高野山にあった、ということもことのほか不審である。中国の人が日本に来て掘り出したということも信じがたい。前もって人を遣わして埋めておいたのではないだろうか。まして弘法大師は日本の人であるからできないこともないであろう。弘法大師にはこのような人を誑らかす話が多い。これらのことをもって弘法大師が仏の御意に叶った人であるとの証拠とすることはできない。
承久の乱と真言宗
[122]そこで、この真言宗をはじめ禅宗・念仏宗などがしだいに盛んになってきたころ、人王第八十二代後鳥羽法皇(諱は尊成。隠岐法皇とも称される)は、権太夫北条義時を亡ぼそうと年来企てておられたが、国主である以上、獅子が兎をねじ伏せ鷹が雉を取るようにかんたんなことであったはずであるうえに、比叡山・東寺・園城寺・奈良の七大寺・天照太神・正八幡・山王神社・賀茂神社・春日神社などに数年の間、調伏の祈禱をさせたり、神に祈願しておられたにもかかわらず、いざ戦いになると、二日、三日も支えることができないで、順徳上皇は佐渡の国へ、土御門上皇は阿波の国へ、後鳥羽上皇は隠岐国へそれぞれ流され、ついにその地で崩御されてしまった。
[123]北条義時を調伏するための祈禱を修した上首(頭目)である仁和寺御室の道助法親王(御鳥羽上皇の第二皇子)は、東寺から追い出されたばかりでなく、眼に入れても痛くないほど寵愛されていた童児勢多伽の首を切られてしまったのは、調伏が逆の結果を現わしたもので、法華経観世音菩薩普門品に説かれているように、邪法によって祈っても「禍がかえって本人に著く」という道理のとおりになったものと思われる。これは小さいことである。この後、かならず日本の国臣万民すべてが、乾草を積んで火をつけられたように、大山が崩れ落ちて谷が埋まるように、他国から攻められることが起こるにちがいない。
知教の自覚と受難
[124]このこと(釈尊の御本意である正しい法華経の教えとその御意に違背している現実の歴史社会)を日本国の中でただ日蓮一人だけが真に知った。それを言い出せば、殷の紂王が忠臣である比干の胸を裂いたように、夏の桀王が自分を諫めた竜蓬の頸を斬ったように、檀弥羅王が仏教徒を迫害し付法第二十四人目の師子尊者の頸を刎ねたように、竺の道生が闡提成仏(善根を断ったような悪人でも成仏できる)の教義を立てて蘇山に流されたように、法道三蔵が徽宗皇帝を諫めて顔に焼き印を押されて蘇山に流されたようになるであろうと、かねてより知っていたけれども、法華経には「わたし(諸菩薩)は身命に愛着せず、身命を投げ捨てて無上道(仏の真実の教え)に生きる」(勧持品)と説かれ、涅槃経には「たとえ身命を捨てても仏の教えを匿してはならない」(如来性品)と諫めておられる。
[125]今のこの世の生において命を惜しむならば、いったいいつの世に仏に成ることができるだろう、またいつの世に父母や師匠をお救いすることができるだろうかと、ついに思い切って言い始めたところ、予想していたとおり、住居を逐われ、詈られ、打たれ、傷を受けたりするうちに、去る弘長元年辛酉五月十二日に幕府の御勘気(お咎め)を受けて、伊豆国伊東に流された。そして同じ弘長三年癸亥二月二十二日に赦免された。
[126]その後もますます菩提心を発し強く法華経の教えを説いたので、さらにいっそう大難が重なり、あたかも大風によって大波が起こるようであった。昔、威音王仏の世に出た常不軽菩薩が杖木で責められたことも、自分の身の上のように思われた。また、昔、歓喜増益仏の末の世に出た覚徳比丘が破戒の悪比丘たちから受けた大難も、自分の受けた諸難には及ばないであろうと思われる。日本六十六箇国島二つの中に、日蓮は一日片時も安穏に住むことのできるような場所はない。昔二百五十戒を持ちすべてに耐え忍んだ羅睺羅のような持戒の聖人も、富楼那のような智者も、日蓮に会えば悪口を吐く。正直で唐の太宗皇帯に信頼された魏徴や忠仁公と称され清和天皇の摂政となった藤原良房のような賢者も、日蓮を見れば道理を曲げて非道を行う。まして世間の一般の人びとは、犬が猿を見た時のような、猟師が鹿を追い込めた時のような状態である。
[127]日本国の中でだれ一人として、日蓮の言うことには何か理由があるのではないか、と言う人もいない。それももっともである。人びとはすべて念仏を称えているにもかかわらず、その人たちに向かうたびに「念仏は無間地獄に堕ちる」と言うのであるから。人びとは真言密教を尊崇しているにもかかわらず、日蓮は「真言は国を亡ぼす悪法である」と言い、国主(鎌倉幕府の主権者)は禅宗を尊崇しているにもかかわらず、日蓮は「天魔の教えである」と言うのであるから。自分で承知したうえで招いている禍であるから、人びとが日蓮を詈っても咎めたりはしない。咎めたところで相手は一人や二人ではない。打たれても痛みはしない。このような受難はもとから覚悟していたことであるから。
[128]このように、ますます身命をも惜しまずに責めたので、禅宗の僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人が、奉行所に訴えたり、権勢のある人の所に行ったり、権力を持つ女房の所に行ったり、夫を失った有力な尼御前のもとに行ったりして、あらゆる讒言をした。そのために、最後には「天下第一の大事である国さえも亡ぼそうと咒咀している法師である。故最明寺殿(故北条時頼)や極楽寺殿(北条重時)を無間地獄に堕ちたと言う法師である。御尋問なさるまでもない。直ちに頸を斬るべきである。弟子たちは頸を斬ったり、遠い国に流したり、牢に入れたりせよ」と尼御前たちがお怒りになったので、そのとおりに執行された。
[129]去る文永八年辛未九月十二日の夜は、相模国の竜口で首を斬られるところであったが、どうしたわけか、その夜の難は免れて依智というところに連れて行かれた。また、十三日の夜は赦免になったと大勢の者が口ぐちに騒いだが、どのようなことになったのか、佐渡国まで流された。佐渡では、「今日、首を斬る」とか「明日、首を斬る」などと言われているうちに四箇年が経ち、結局、去る文永十一年太歳甲戌二月十四日に赦免され、同三月二十六日に鎌倉に帰った。同四月八日、侍所の所司である平左衛門尉頼綱と会見し、さまざまなことを申し述べたが、その中で「今年はかならず蒙古が襲撃してくる」と申しておいた。同五月十二日に鎌倉を出てこの身延山に入ったのである。このような日蓮の法華経信仰の実践は、ひとえに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩に報いんがために、身を捨て、命を捨てたのであるが、幸い死ぬこともなく今日にいたったのである。昔より賢人の習として、三度国を諫めても用いられなければ山林に交われ、という。これは古来よりの定まった例である。
恩師道善御房への追悼
[130]日蓮が身命を捧げた法華経への御奉公の功徳は、かならず上は三宝から下は梵天・帝釈・日月までもご存知のことであろう。したがって、亡き父母も恩師道善御房の聖霊もこの功徳によって助かることであろう。
[131]ただし、疑問に思われることがあるであろう。神通力第一と称された目連尊者は、母の青提女を助けようとしたけれども、母は餓鬼道に堕ちてしまった。また、偉大な覚者である釈尊の御子と伝えられている善星比丘は、悪友に親しみ邪見を起こしたために無間地獄に堕ちた。これらは力の限り救おうとされたのであるけれども、自業自得による結果であるから救いがたいのである。
[132]故道善御房は、かわいい弟子のことであるから日蓮を憎いなどとはお思いになっていなかったであろうが、きわめて臆病であったうえに、清澄を離れまいと固執していた人である。地頭の東条景信が恐ろしくもあり、提婆達多や瞿伽梨のような円智と実城とが上と下とにいて威すのを強く恐れて、かわいそうだと思うような幼い年齢の弟子たちさえも捨てられた人であるから、後生(死後)はどうなるであろうかと疑わしく思う。ただ一つ幸いなことに、東条景信と円智・実城とがともに先に死去したことは一つの救いであったとは思えるけれども、この人たちは法華経の十羅刹女の罰を受けて早くに亡くなってしまったのである。道善御房は後になって法華経を少しは信じられるようになったけれども、それは喧嘩の後の乳切木(身を護るための棒)と同じで、時を失い役に立たない。昼間に灯をつけても役に立たないことと同じである。そのうえ、どのようなことがあっても、子供とか弟子などというものに対しては、かわいそうにと思うものである。それだけの力のない人でもなかったにもかかわらず、佐渡国まで流されていた日蓮を一度もお訪ねくださらなかったことは、法華経を信じられたのではないのである。
[133]それにつけても歎かわしいことであるので、道善御房が死去されたと聞いた時には、たとえ火の中に飛び込み、水の中に沈んでも走って行って、御墓をたたいて御経を一巻読誦したいと思ったけれども、昔から伝えられている賢人の習いもあり、自分では遁世などとは思っていないけれども、世間の人は日蓮のことを遁世と思っているであろうから、わけもなく走り出ていくと、自分の意志を最後まで貫き通せない弱い人であると思うであろう。したがって、どのように思っても行くわけにはいかない。
[134]ただし、貴方がた二人(浄顕房・義城房)は日蓮が幼少の時の師匠である。勤操僧正と行表僧正は伝教大師の師匠であったが、後には逆にお弟子になられたようなものである。日蓮が東条景信に憎まれて清澄山を出た時に、日蓮を追って忍び出られたことは、天下第一の法華経への御奉公である。後生の成仏に疑いをもってはなりません。
法華経の肝心
[135]問うて言う。法華経一部八巻二十八品のなかで何が肝心であるのか。
[136]答えて言う。華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。このように一切経はすべて「如是我聞」(かくのごとくわたしは聞いた。経典に共通した冒頭の語句)の上にある経典の題目が、その経の肝心である。
[137]大は大なりに、小は小なりに、それぞれの経典はいずれもその題目をもって肝心とする。大日経・金剛頂経・蘇悉地経などもまた同じである。仏もまた同じである。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通智勝仏・雲雷音王仏など、これらの仏もまたお名前の内にその仏の種々の徳を具えておられる。今この法華経もまた同様である。「如是我聞」の上にある「妙法蓮華経」の五字はそのまま法華経一部八巻の肝心であり、また、一切経の肝心であり、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神などの頂上の正法である。
唱題の功徳
[138]問うて言う。「南無妙法蓮華経」と意味も知らない者が唱えることと、「南無大方広仏華厳経」と意味も知らない者が唱えることとは等しいであろうか。また、功徳に浅いと深いとの相違があるであろうか。答えて言う。功徳に浅いと深いとの相違がある。
[139]疑って言う。その意味はどのようなことであろうか。答えて言う。小さな河は露・雫・井戸水・溝水・入り江の水などは収めることができるけれども、大きな河の水を収めることはできない。大きな河は露および小さな河の水を収めることはできても、大海の水を収めることはできない。阿含経は井戸水や入り江の水などや露・雫を収めた小さな河のようなものである。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経などは小さな河を収めた大きな河である。法華経は露・雫・井戸水・入り江の水・小さな河・大きな河・天から降り注ぐ雨などのすべての水を一滴も漏らさず収めた大海である。
[140]譬えれば、体の熱い者が冷たい水がたくさんあるそばで寝れば涼しいけれども、少しばかりの水のあるそばで寝ても苦しいことと同じである。五逆罪を犯し正法を誹謗した極悪の一闡提の人(善根を断った人)は、阿含経・華厳経・観無量寿経・大日経などの小水(少しばかりの水)のほとりでは、大罪の大熱をさますことができない。法華経の大雪山の上に臥せば、五逆罪・謗法罪・一闡提などの大熱はたちまちにさめてしまうであろう。
[141]したがって、愚者はかならず法華経を信ずべきである。それぞれ経典の題目を唱えることがやさしいのは同じであるが、愚者と智者とが唱える功徳は天と地のように雲泥の違いがある。譬えば大綱は大力の者でも切ることが難しい。ところが、小力の者であっても小刀を用いればたやすく切ることができる。また、譬えれば、堅い石は、鈍刀では大力の者でも破ることが難しいけれども、利剣を用いれば小力の者でも破ることができる。さらに譬えれば、薬の内容は知らなくても、薬を飲めば病は治癒する。ただの食物では病気は治癒しない。譬えれば、仙薬(霊薬)は寿命を延ばし、凡薬は病を治癒することはできても寿命を延ばすことはできないのである。
肝心の大法「南無妙法蓮華経」
[142]疑って言う。法華経一部二十八品の中では何が一番肝心であろうか。答えて言う。ある人は「各品はすべてそれぞれの場合において肝心である」と言い、ある人は「方便品と寿量品が肝心である」と言う。ある人は「方便品が肝心である」と言い、ある人は「寿量品が肝心である」と言う。ある人は「方便品の開・示・悟・入(仏は、衆生に仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、仏知見の道に入らしめるために、この世に出現したという、仏がこの世に出現された一大事の因縁を説く経文)の文が肝心である」と言い、ある人は「実相(真実の相。方便品には十如是をもって仏の体得された諸法実相の法門が説かれている)が肝心である」と言う。
[143]問うて言う。貴方の考えはどうなのか。答える。南無妙法蓮華経が肝心である。問う。その証拠はなにか。答えて言う。阿難尊者や文殊師利菩薩などは「如是我聞」(このようにわたしはお聞きした)と言われている。問うて言う。それはどういうことなのか。答えて言う。阿難尊者と文殊師利菩薩とは、八年の間、この法華経の計り知れない法門を一句一偈一字も残さず聴聞されていたのであり、仏が入滅された後の結集(仏の入滅後、弟子たちが集会して仏の教えを述べあい集大成していったこと)のおり、九百九十九人の阿羅漢たちが筆に墨をつけて待ち構えていた時に、まず「妙法蓮華経」と書かせてから、「如是我聞」とお唱えになったのは、「妙法蓮華経」の五字が法華経一部八巻二十八品の肝心である証拠にほかならないのではなかろうか。
[144]したがって、過去の日月灯明仏の時代から法華経を講じていたと伝えられている光宅寺の法雲法師は、「如是とは、仏から聞いた法を伝えようとしたもので、その法とは前にあげた題目であり、この題目に経典全体の肝心をかかげたのである」と述べられている。霊鷲山でまのあたり法華経を聴聞されたと伝えられる天台大師は、「如是とは、仏から聞いた法の本体である」(法華文句)と言われ、章安大師は「記者(講義を聞いて記録した者、すなわち章安大師のこと)が解釈して言う。思うに序王(天台大師の序文)は経の玄意(奥深い教え)を述べたものであり、玄意は経文の心を述べたものである」(法華玄義釈籤)と言われている。この解釈文に「文心」というのは題目のことをいい、題目は法華経の心である。妙楽大師は「仏の一代の教法を収めることは法華経の文の心から出る」(法華玄義釈籤)とも言われている。
[145]天竺(インド)には七十箇国があり、その総名は月氏国と言う。日本は六十余箇国でその総名は日本国である。月氏という名前のなかに七十箇国とそこに住む人間や動物、珍しい財宝などがすべて入る。日本と言う名前のなかに六十六箇国がある。出羽国に産する鷲の羽も奥州で産する黄金も、そのほか国の珍しい財宝・人間・動物、および寺院も神社もすべて日本という二字の名前に摂まっている。天眼(天人の眼)で日本という二字を見れば、六十六国とそこに住む人間や動物などを見ることができる。法眼(法を照らす智恵の眼。菩薩の眼)で見れば、人間や動物があちこちで死んだり産まれたりするのが見えるであろう。譬えば、人の声を聞いて体の様子を知り、足跡を見てその大小を知る。蓮を見て池の大小を計ったり、雨を見て竜の大きさを考えることと同じである。これらはすべて、一つのことに一切が含まれているという道理である。
[146]阿含経の題目にはおよそ一切のものが収まっているようであるけれども、その内実は、ただ小乗の釈迦仏が一仏おられるだけで他の仏は説かれていない。華厳経・観無量寿経・大日経などには一切のものが具わっているようであるけれども、二乗(声聞と縁覚)が仏に成るという法門と久遠実成の釈迦仏が説かれていない。これは、例えば花が咲いても実がならず、雷が鳴っても雨が降らず、鼓をたたいても音がせず、眼があっても不自由で見ることができず、女性であっても子供を産むことができず、人間であっても命や神がないようなものである。大日如来の真言、薬師如来の真言、阿弥陀如来の真言、観世音菩薩の真言などもまたこれと同じである。それらの経典の中では、大王・須弥山・日月・良薬・如意宝珠・利剣などのようではあっても、法華経の題目に対すれば勝劣に雲泥の相違があるばかりでなく、それぞれの経典のもっている力用(力と用)も失ってしまうのである。
[147]例えば、多くの星の光が一つの太陽の光明に奪われ、もろもろの鉄が一つの磁石によって力が尽きたように引き寄せられ、大きな剣が小さな火に入れられれば用を失い、牛乳や驢乳(ろばの乳)などが獅子王(ライオン)の乳に対すれば水のようになり、多くの狐が術を使っても一匹の犬に会えば術の力を失い、狗犬(犬、または小犬)が小さな虎に会って顔色を変えるようなものである。南無妙法蓮華経と唱えれば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏諸経諸菩薩の用も、すべてが妙法蓮華経の力用に消されてしまう。それらの諸経典は、妙法蓮華経の力用を借りなければ、すべてむだなはたらきになるであろう。このことは、今、現に目前にある道理である。日蓮が南無妙法蓮華経と弘めていれば、南無阿弥陀仏の用は月の隠れるように、潮の干くように、秋冬に草が枯れていくように、氷が太陽に照らされて溶けるようになっていく様を見なさい。
インドにおける諸論師の弘法
[148]問うて言う。この妙法蓮華経が真実に尊いのならば、なぜ迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教などが、善導が南無阿弥陀仏を勧めて中国に弘めたように、慧心・永観・法然が日本国をすべて阿弥陀仏の信者にしたように、お勧めにならなかったのであろうか。
[149]答えて言う。この難問は古くからあった問題で、今はじめて起きた問題ではない。馬鳴菩薩や竜樹菩薩などは仏が入滅されてから六百年、七百年のころに出た大論師である。この人たちが世に出て大乗経を弘められたので、もろもろの小乗経の人たちが疑って言うには、「迦葉尊者や阿難尊者などは仏の入滅後二十年から四十年の間存命されており、仏御一代の肝心である正法を弘められたのであろう。ところが、この馬鳴菩薩や竜樹菩薩などは、ただ苦(三界は苦)・空(一切は空)・無常(心は無常)・無我(一切衆生は無我)の法門を中心に説かれた。今、馬鳴菩薩や竜樹菩薩などがいかに賢者であると言っても、仏の直弟子である迦葉尊者や阿難尊者などには及ばないであろう。〈これが第一の疑問である〉。迦葉尊者らは仏に直接お会いして教えを受け解脱を得た人である。ところが馬鳴菩薩や竜樹菩薩などは仏にお会いになっていない。〈これが第二の疑問である〉。インドの外道が常(心は常住)・楽(三界は楽)・我(一切衆生には我がある)・浄(身は清浄)と立てたのを、仏は世にお出になり苦(三界は苦)・空(一切は空)・無常(心は無常)・無我(一切衆生は無我)と説かれた。ところがこの馬鳴菩薩や竜樹菩薩などは、常(常徳。三世にわたって変わらない)・楽(楽徳。生死の苦を離れ、涅槃寂静の楽を証する)・我(我徳。仏の八大自在我)・浄(浄徳。煩悩を離れた湛然清浄の境地)と説いた。〈これが第三の疑問である〉。そこで仏も御入滅になり、迦葉尊者などもお亡くなりになったので、第六天の魔王がこの人たちの身に入りかわって仏法を破り、外道の法にしてしまおうとするのである。したがって、仏法の怨敵であるから「頭を破れ、頸を斬れ、命を断て、食物を施すな、国から追放せよ」と騒ぎ立てたが、馬鳴菩薩や竜樹菩薩はただ一人か二人である。昼夜に悪口の声を聞き、朝暮に杖木で打たれたのである。しかしながら、この二人は仏の使いである。まさしく、摩耶経には仏の入滅後六百年に馬鳴が出、七百年には竜樹が出るであろうと説かれている。そのうえ楞伽経などにも記されているし、付法蔵経に説かれていることは言うまでもない。けれども、もろもろの小乗教の者たちはこれを用いず、ただ道理を無視して責めたのである。法華経に説かれる「如来現在猶多怨嫉況滅度後」(仏の御在世ですらなお多くの怨嫉を受ける。まして仏が入滅された後においてはなおさらである)(法師品)の経文を、この時にあたって少しは体験的に実感されたのである。提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が頸を切られたことも、このことをもって推量しなさい。
中国における天台・妙楽両大師の弘法
[150]また、仏が入滅されて後一千五百余年に、インドから東の方面に漢土(中国)という国があり、その国の陳・隋の時代に天台大師が出られた。この人は「如来の聖教には大乗もあれば小乗もある、顕教もあれば密教もある、権教もあれば実教もある。迦葉や阿難などはもっぱら小乗教を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親などは権大乗教を弘めて、実大乗の法華経はただ指で指し示しただけでその教えの内容については説かなかった。あるいは法華経の表面だけを述べてその内容の始めの部分・中頃の部分・終わりの部分などについて深くは述べなかった。または迹門(法華経の前半十四品とその教え)については述べても本門(法華経の後半十四品とその教え)については説き顕わさなかった。もしくは本門と迹門について述べていても観心(実相を観察して真理を体得する修行)については説いていない」と言ったので、南三北七の十家の流れをくむ学者たち数千万人は、一時にどっと笑った。この人たちは「世も末になると不思議なことを言う法師も出現する。時によってはかたよった考えで私たちを執拗に非難する者はいるけれども、後漢の永平十年丁卯の年から今の陳・隋の時代にいたるまでの三蔵や人師二百六十余人を、もの知らずと言ううえに、謗法者とか悪道に堕ちたという者が出現した。あまりにも狂気じみてしまっていて、法華経を将来された鳩摩羅什三蔵さえももの知らずと言うのである。中国のことはさておいても、インドの大論師である竜樹・天親などの数百人の四依の菩薩(仏滅後、人びとが心の依りどころとすべき人で、仏法を弘めるように仏から付属されている)さえもいまだ実義を述べておられない、と言うのである。このようなことを言う者を殺しても有害な鷹を殺すことと同じであり、鬼を殺すことよりも有益である」などと罵り騒いだのである。
[151]また、妙楽大師の当時、インドから法相宗と真言宗とが渡ってきて、中国に華厳宗が開かれたので、妙楽大師がいろいろと論難されたために、これもまた騒ぎになってしまった。
日本における伝教大師の弘法
[152]日本国では仏の入滅後一千八百年にあたる頃、伝教大師がお出になり、天台大師の注釈書をご覧になり、欽明天皇の時代以来二百六十余年間の六宗の教えを論難されたので、六宗の人たちは「仏の御在世の時の外道や中国の道士が日本に出現した」と誹謗した。さらに、伝教大師は、仏の入滅後一千八百年の間、インド・中国・日本にはかつてなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立しようとされただけでなく、「西国筑紫の観世音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国の東大寺の戒壇はともに小乗の臭糞の戒であり、瓦や石のようなものである。このような戒を持つ法師は狐か猿のようなものである」と言われたので、六宗の人たちは「なんと不思議なことだ。法師に似た大きな蝗が日本国に現われた。仏教の苗はいちどに失われてしまうであろう。悪人として知られる殷の紂王や夏の桀王が法師となって日本に生まれたのである。仏教を破壊したことで著名な後周の宇文(武帝)や唐の武宗が再びこの世に出現した。仏法は今この時に滅亡してしまうであろう。国も亡びてしまうであろう」と騒ぎたてた。なにしろ大乗と小乗の二種類の法師が同時代に世間に出たのであるから、まるで修羅と帝釈、秦の項羽と漢の高祖とを一つの国に並べたようなものである。人びとは手をたたき、舌をふるわせて非難攻撃をした。そして「仏の御在世には、仏と提婆達多との二つの戒壇(制誡)があったので、その争いのために何人かの人たちが死んだ。そこで、他宗に背くことは解るけれども、自分の師である天台大師もお立てにならなかった円頓の戒壇を建立するなどということは不思議に思われる。なんと恐ろしいことであろうか」と詈り騒ぎ合った。しかしながら、経文には明確に説かれているために、比叡山の大乗戒壇はすでに建立されたのである。
[153]したがって、心中に体得された証果(悟りの境地)は同じであっても、弘められた法は、迦葉尊者・阿難尊者よりも馬鳴菩薩・竜樹菩薩などのほうが勝れ、馬鳴菩薩などよりも天台大師のほうが勝れ、天台大師よりも伝教大師のほうが超えられたのである。世が末になると、人の智恵は浅くなり、仏教は深くなるということである。たとえば、軽病には凡薬でよいけれども重病には仙薬でなければならないし、弱い人には強い味方があることによって助けることができるようなものである。
三大秘法の開示
[154]問うて言う。天台大師や伝教大師などのお弘めにならなかった正法があるか。答えて言う。有る。その答えを求めて言う。その正法とは何であるか。答えて言う。それには三つのものがある。末法の世のために、仏が留めおかれたもので、迦葉尊者・阿難尊者などの仏弟子、馬鳴菩薩・竜樹菩薩などの論師、天台大師・伝教大師などの法華経弘通の先師もいまだ弘められなかった正法である。
[155]求めて言う。その正法の具体的な形貌(姿形)はどのようなものであるのか。答えて言う。一つには日本をはじめ一閻浮提(宇宙全体)にいたるまで、一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきである。すなわち、宝塔の内の釈迦牟尼仏と多宝仏、外の諸仏、ならびに上行菩薩などの四菩薩は脇士となるのである。二つには本門の戒壇である。三つには日本をはじめ中国・インドはもとより一閻浮提にいたるまで、人ごとに、智恵のある者も智恵のない者も区別なく、すべての行業を捨てて南無妙法蓮華経と唱えるべきである。
末法未弘の題目
[156]このことはいまだ弘まっていない。一閻浮提の内で、仏のご入滅後二千二百二十五年の間、一人も唱えた者がいない。日蓮ただ一人が南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜しまずに唱えているのである。
[157]例えば、風の強さによって波に大小があり、薪の量によって火炎に高低がある。池によって蓮に大小があり、雨の多少は竜によって生ずる。根が深ければ枝は茂り、水源が遠ければ流れは長い、と言うのはこのことである。周の時代が七百年間も続いたのは、文王が礼を重んじ孝を尊び人倫の道にのっとった政治を行ったからである。秦の世が長く続かなかったのは、始皇の無道(誤った道)のためである。
日蓮の慈悲と題目の流布
[158]釈尊の御意のとおり、すべての人びとを救いたいと願う日蓮の慈悲の心が広大であれば、末法救済の大法である南無妙法蓮華経は万年どころか未来永劫までも弘まるであろう。日蓮の仏行は日本国のすべての人びとの盲目を開く功徳があり、無間地獄への道を塞ぐ。この功徳は伝教大師や天台大師を超え、竜樹菩薩や迦葉尊者よりも勝れている。極楽で積む百年間の修行の功徳も、この穢土(迷苦に満ちた凡夫の住む世界。娑婆世界)で積む一日の修行(題目受持、唱題)の功徳には及ばない。正法時と像法時にわたる二千年間もの仏教弘通の功徳は、末法における一時(ほんの少時間)の弘通(題目広布)の功徳には及ばない。これはけっして日蓮の智恵が賢いからではない。末法という時の必然的ありようである。春には花が咲き、秋には実を結び、夏は暖かく冬は冷たい。これは時節が自然にそうさせているのではないだろうか。
題目流布の経証
[159]法華経には「わたしが入滅した後、後の五百年の間、広く閻浮提に弘めて、悪魔魔民(悪魔と魔界の大衆)やもろもろの天・竜・夜叉・鳩槃荼(人の精気を食べる鬼神)などの鬼神に隙を与えてつけ込まれ、この法華経を断絶させるようなことがあってはならない」(薬王菩薩本事品)と仏の勅命が説き示されている。もし、この経文が空しいものになってしまうならば、たとえ法華経に明確に説かれていても、舎利弗尊者は華光如来となることはできない。迦葉尊者は光明如来となることはできない。目犍連尊者は多摩羅跋栴檀香仏となることはできない。阿難尊者は山海慧自在通王仏となることはできない。摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏となることはできない。耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏となることはできない。化城喩品の三千塵点劫(三千塵点劫で譬えられる久遠の過去に、大通智勝如来が世に出現され法華経を説かれた。そして、仏が禅定に入っておられる間に十六菩薩が法華経を覆講された。これを一切衆生に対する法華経の下種結縁とする)も戯論、如来寿量品の五百億塵点劫(五百億塵点劫で譬えられる久遠の過去に、釈迦牟尼仏はすでに成道されていたことを顕かす)も妄語となり、おそらく教主釈尊は妄語の罪で無間地獄に堕ち、法華経の真実を証明された多宝仏は偽証の罪で阿鼻地獄の炎にむせび、十方世界から来集して広長舌を梵天につけ法華経の真実を証明された諸仏は同じく偽証の罪で八大地獄を栖とするようになり、すべての菩薩は一百三十六の地獄の苦しみを受けるであろう。どうしてそのような考えが成り立つであろうか。そのようなことはありえないということであれば、日本国のすべての人びとは等しく南無妙法蓮華経と唱えるはずである。
恩師道善御房への報恩回向
[160]そうであれば、咲いた花は元の根にかえり、果実の真味(まことの味)は土にとどまるように、日蓮が法華経に身命を捧げてきたその功徳は、恩師道善御房の聖霊の御身に集まるであろう。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
[161]建治二年〈太歳丙子〉<日>七月二十一日日> これを著わす
[162]甲州波木井郷身延山から安房国東条郡清澄山の浄顕房と義城房のもとへお送りする。