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報恩抄

全集 第3巻 2段 定本: #20223(定本の該当ページへ)

書下し

報恩抄ほうおんじよう


[1]日蓮これせん
[2]老狐ろうこつかをあとにせず。白亀びやつき毛宝もうほうが恩をほうず。畜生ちくしようすらかくのごとし。いわうや人倫じんりんをや。さればいにしへの賢者豫

けんじやよじよう
(譲)といゐし者はつるぎをのみて智伯ちはくが恩にあて、こう(弘)演と申せし臣下は腹をさひて、えい懿公いこうきもを入れたり。いかにいわうや、仏教をならはん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや。
[3]の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ、智者とならで叶うべきか。譬へば衆盲をみちびかんには、生盲の身にては橋河きようがをわたしがたし。方風をわきまえざらん大舟は、諸商を導きて宝山にいたるべしや。
[4]仏法を習い極めんとをもわば、いとまあらずば叶うべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず。是非ぜひにつけて、出離しゆつりの道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随うべからず。この義は諸人をもわく、けんにもはづれみようにも叶うまじとをもう。しかれども外典げてん孝経こうきようにも、父母・主君に随わずして忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云く、「恩をすて無為むいに入るは真実報恩の者なり」等云云。比干ひかんが王に随わずして賢人けんじんのな(名)をとり、悉達太子しつたたいし浄飯大王じようぼんだいおうそむきて三界さんがい第一の孝となりしこれなり。
[5]かくのごとく存じて、父母・師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に、一代聖教いちだいしようぎようをさとるべき明鏡めいきよう十あり。所謂いわゆくしや成実じようじつ律宗りつしゆう法相ほつそう三論さんろん真言しんごん華厳けごん浄土じようど禅宗ぜんしゆう天台法華宗てんだいほつけしゆうなり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。
[6]世間の学者等おもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと。小乗の三宗はしばらくこれををく、たみ消息しようそく是非ぜひにつけて他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ、生死しようじの大海をわたりて、浄土の岸につく大船なれば、これを習いほどひて、我がみ(身)も助け、人をもみちびかんとおもひて、習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃じさんあり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等云云。
[7]所謂いわゆる華厳宗の杜順とじゆん智儼ちごん法蔵ほうぞう澄観ちようかん等、法相宗の玄奘げんじよう慈恩じおん智周ちしゆう智昭ちしよう等、三論宗の興皇こうこう嘉祥かじよう等、真言宗の善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくう弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしよう等、禅宗の達磨だるま慧可えか慧能えのう等、浄土宗の道綽どうしやく善導ぜんどう懐感えかん源空げんくう等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり、仏意ぶつちをきはめたりと云云。
[8]の人々云く、一切経いつさいきようの中には華厳経けごんきよう第一なり。法華経ほけきよう大日経だいにちきよう等は臣下しんかのごとし。真言宗云く、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云く、一切経の中には楞伽経りようがきよう第一なり。乃至余宗かくのごとし。しかかみに挙ぐる諸師は、世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈たいしやくをうやまひ、衆星の日月に随うがごとし。
[9]我等凡夫ぼんぷはいづれの師々なりとも信ずるならば不足ふそくあるべからず。あおぎてこそ信ずべけれども、日蓮が愚案ぐあんはれ(晴)がたし。世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あればの家必ずやぶる。一切経も又かくのごとく有るらん。いずれの経にてもをはせ、一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。
[10]しかるに十宗七宗まで各々諍論じようろんして随はず。国に七人十人の大王ありて、万民ばんみんをだやかならじ。いかんがせんと疑うところに、ひとつがんを立つ。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣しようれつをかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経ねはんぎようと申す経に云く、「つて人にらざれ」等云云。依法えほうと申すは一切経、不依人ふえにんと申すは仏を除き奉りてほか普賢菩ふげんぼさつ文殊師利菩もんじゆしりぼさつ乃至かみにあぐるところの諸の人師なり。此の経に又云く、「了義経りようぎきように依つて不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当*いこんとうの一切経なり。
[11]されば仏の遺言ゆいごんを信ずらならば、専ら法華経を明鏡めいきようとして一切経の心をばしるべきか。随つて法華経の文を開き奉れば、「此の法華経は諸経の中に於て最もかみり」等云云。此の経文のごとくば、須弥山しゆみせんいただき帝釈たいしやくおるがごとく、輪王りんのうの頂に如意宝珠によいほうじゆのあるがごとく、衆木しゆぼくの頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂上に肉髻につけいの住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠によいほうじゆなり。
[12]されば専ら論師人師ろんじにんしをすてて経文にるならば、大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは、日輪の青天に出現せる時、まなこあきらかなる者の天地を見るがごとく、高下宛然こうげおんねんなり。又大日経・華厳経等の一切経をみるに、此の経文に相似そうじの経文一字一点もなし。あるいは小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦ぞくたいに対して真諦しんたいをとき、或は諸の空仮くうけに対して中道ちゆうどうをほめたり。たとへば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対して大王等と云云。
[13]但涅槃経ばかりこそ法華経に相似そうじの経文は候へ。されば天台已前いぜんの南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経におとると云云。されどももつぱら経文を開き見るには、無量義経のごとく華厳けごん阿含あごん方等ほうどう般若はんにや等の四十余年の経々をあげて、涅槃経に対してがみ(身)勝るととひて、又法華経に対する時は、「の経の出世しゆつせは乃至法華のなかの八千の声聞しようもん記別きべつさずくることを大菓実だいかじつじようずるが如くごと秋収冬蔵しゆうしゆうとうぞうしてさら所作しよさ無きが如し」等と云云。れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明ふんみようなれども、南北の大智だいちの諸人の迷うて有りし経文なれば、末代まつだいの学者まなこをとどむべし。の経文はただ法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし。しかるを経文にこそ迷うとも、天台てんだい妙楽みようらく伝教でんぎよう大師のれうけん(料簡)の後は、まなこあらん人々はしりぬべき事ぞかし。しかれども天台宗の人たる慈覚じかく智証ちしようすらなお此の経文にくらし。いわうや余宗よしゆうの人々をや。
[14]或る人疑つて云く、漢土かんど日本にわたりたる経々にこそ法華経にすぐれたる経はをはせずとも、月氏がつし竜宮りゆうぐう四王しおうにちがつ利天とうりてん都率天とそつてんなんどには恒河沙ごうがしやの経々ましますなれば、其の中に法華経に勝れさせ給う御経おんきようやましますらん。
[15]答て云く、一をもつてばんを察せよ。庭戸ていこを出でずして天下てんかをしるとはこれなり。癡人ちじんが疑つて云く、我等は南天なんてんを見て東西北の三空を見ず。の三方のそらに此の日輪にちりんより別のやましますらん。山をへだて煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定いちじようなれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提いつせんだいの人としるべし。生盲にことならず。
[16]法華経の法師品ほつしほんに釈如来金口きんく誠言じようごんをもて五十余年の一切経の勝劣をさだめて云く、「我所説わがしよせつの経典は無量千万億にしてすでに説きいま説きまさに説かん。しかの中に於て此の法華経は最も為難信難解これなんしんなんげなり」等云云。此の経文はただ如来一仏いちぶつの説なりとも、等覚とうがく已下は仰ぎて信ずべきうえ多宝仏たほうぶつ東方よりきたりて真実なりと証明しようみようし、十方の諸仏集りて釈仏と同じく広長舌こうちようぜつ梵天ぼんてんに付け給てのち各々国々へかえらせ給いぬ。已今当*いこんとうの三字は五十年並びに十方三世の諸仏の御経おんきよう、一字一点ものこさず引きせて法華経に対して説かせ給いて候を、十方の諸仏此座このざにして御判形ごはんぎようを加えさせ給い、各々又自国じこくに還らせ給いて、我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説かせ給はば、其の所化しよけの弟子等信用すべしや。
[17]又我は見ざれば月氏がつし竜宮りゆうぐう四天してん日月にちがつ等の宮殿きゆうでんの中に法華経に勝れさせ給いたる経やおはしますらんと疑いをなすは、されば梵釈ぼんしやく・日月・四天・竜王は法華経の御座にはなかりけるか。し日月等の諸天、法華経に勝れたる御経まします、なんじはしらず、と仰せあるならば大誑惑だいおうわくの日月なるべし。
[18]日蓮せめて云く、日月は虚空こくうに住し給へども、我等が大地にしよするがごとくして堕落だらくし給はざる事は、上品じようぼん不妄語戒ふもうごかいの力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語だいもうごあるならば、おそらくはいまだ壊劫えこうにいたらざるに大地の上にどうとおち候はんか、無間大城むげんだいじよう最下さいか堅鉄けんてつにあらずばとどまりがたからんか。大妄語だいもうごの人は須臾しゆゆそらしよして四天下してんげめぐり給うべからず、とせめたてまつるべし。
[19]しかるを華厳宗の澄観ちようかん等、真言宗の善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくう弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしよう等の大智の三蔵大師さんぞうだいし等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給わば、我等が分斉ぶんざいには及ばぬ事なれども、大道理のをすところはに諸仏の大怨敵だいおんてきにあらずや。提婆だいば瞿伽梨くぎやりもものならず、大天だいてん大慢外だいまんほかにもとむべからず。かの人々を信ずるやからはをそろしをそろし。
[20]問うて云く、華厳の澄観ちようかん・三論の嘉祥かじよう・法相の慈恩じおん・真言の善無畏ぜんむい乃至弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしよう等を仏の敵との(宣)給うか。答えて云く、此大これおおいなる難なり。仏法に入りて第一の大事也。愚眼ぐげんをもて経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、たといいかなる人なりとも謗法ほうぼうまぬかれじと見えて候。しかるを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵ぶつてきたらざるべき。し又をそれをなしてさし申さずは一切経の勝劣むなしかるべし。又此の人々を恐れて、すえの人々を仏敵といはんとすれば、の宗々の末の人々の云く、法華経に大日経をまさりたりと申すは我私われわたくしはからいにはあらず、祖師の御義おんぎ也。戒行の持破じは、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学しよがくの法門はたがふ事なし、と申せばかの人々にとがなし。
[21]又日蓮れを知りながら人々を恐れて申さずば、「寧喪身命不匿教者にようそうしんみようふのくきようしや」の仏陀の諫暁かんぎようを用いぬ者となりぬ。いかんがせん。いは(言)んとすれば世間をそろし。やめんとすれば仏の諫暁のがれがたし。進退此しんたいここきわまれり。むべなるかなや、法華経の文に云く、「しかも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉なおおんしつ多し、いわんや滅度の後をや」。又云く、「一切世間怨せけんあだ多くして信じ難し」等云云。
[22]仏を摩耶夫人まやぶにんはらま(孕)せ給いたりければ、第六天の魔王まおう、摩耶夫人の御腹おんはらをとをし見て、我等が大怨敵だいおんてき法華経と申す利剣りけんをはらみたり。ことじようぜぬさきにいかにしてか失うべき。第六天の魔王、大医だいいと変じて浄飯王宮じようぼんのうぐうに入り、御産安穏あんのんの良薬をもち候大医ありとののしりて、毒をきさきにまいらせつ。初生しよしようの時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給いしには黒き毒蛇どくじやと変じて道にふさがり、乃至提婆だいば瞿伽梨くぎやり波瑠璃王はるりおう阿闍世王あじやせおう等の悪人の身に入りて、あるいは大石をなげて仏の御身おんみより血をいだし、或は釈子しやくしをころし、或は御弟子等を殺す。此等これら大難だいなんは皆遠くは法華経を仏世尊ぶつせそんに説かせまいらせじとたばかり(巧謀)し「如来現在猶多怨嫉によらいげんざいゆたおんしつ」の大難ぞかし。此等は遠き難なり。近き難には舎利弗しやりほつ目連もくれん・諸大菩等も四十余年が間は法華経の大怨敵の内ぞかし。
[23]況滅度後きようめつどご」と申して未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か提婆だいばながさ三丈ひろさ一丈六尺の大石、阿闍世王あじやせおう酔象すいぞうにはすぐべきとはおもへども、かれにもすぐるべく候なれば、小失しようしつなくとも大難に度々値たびたびあう人をこそ滅後めつごの法華経の行者とはしりそうらわめ。
[24]付法蔵ふほうぞうの人々は四依*しえぼさつ、仏の御使おんつかいなり。提婆菩だいばぼさつ外道げどうに殺され、師子尊者ししそんじや檀弥羅王だんみらおうこうべはねられ、仏陀密多ぶつだみつた竜樹菩りゆうじゆぼさつ等は赤幡あかはたを七年十二年さしとをす。馬鳴菩めみようぼさつは金銭三億がかわりとなり、如意論師によいろんじはおもひじにに死す。此等これら正法しようぼう一千年のうちなり。
[25]像法ぞうぼういりて五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土かんど一人いちにん智人ちじんあり。はじめちぎのちには智者大師ちしやだいしとがうす。法華経の義をありのまゝに弘通ぐづうせんと思ひ給しに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代をはんぜしかどもせんじて十流となりぬ。所謂南三北七いわゆる*なんさんほくしちなり。十流ありしかども、一流をもてさいとせり。所謂いわゆる南三の中の第三の光宅寺こうたくじ法雲法師ほううんほつしこれなり。
[26]の人は一代の仏教をいつつにわかつ。の五の中に三経をえらびいだ(選出)す。所謂いわゆる華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白せつしようかんぱくのごとし。第三法華経はくぎようのごとし。此れより已下いか万民ばんみんのごとし。此の人はもとより智慧かしこきうえ慧観えかん慧厳えごん僧柔そうにゆう慧次えじなんど申せし大智者より習ひ伝え給わるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわ(交)りて法華経・涅槃経・華厳経のこうをつも(積)りしうえりよう武帝召ぶていめいだして内裏だいりうちに寺を立て、光宅寺こうたくじとなづけて此の法師をあがめ給う。法華経をかう(講)ぜしかば、天より花ふること在世のごとし。
[27]天監てんかん五年に大旱魃かんばつありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品やくそうゆほんの「其雨普等四方倶下ごうふとうしほうくげ」と申す二句を講ぜさせ給いし時、天より甘雨下かんうふりたりしかば、天子御感てんしぎよかんのあまりにげん僧正そうじようになしまいらせて、諸天の帝釈たいしやくにつかえ、万民ばんみんの国王ををそるゝがごとく、我とつかへ給いし上、或人ゆめみらく、此人このひとは過去の灯明仏とうみようぶつの時より法華経をかうぜる人なり。法華経のしよ四巻あり。しよに云く、「此経未このきよういま碩然せきねんならず」。亦云く、「方便ほうべん」等云云。まさしく法華経はいまだ仏理ぶつりをきわめざる経と書かれて候。此の人の御義おんぎ仏意ぶついかなひ給いければこそ、天より花もり雨もふり候けらめ。
[28]かゝるいみじき事にて候しかば、漢土かんどの人人さては法華経は華厳経・涅槃経にはおとるにてこそあるなれと思いし上、新羅しらぎ百済くだら高麗こま・日本まで此疏このしよひろまりて、大体一同の義にて候しに、法雲法師御死去ごしきよありていくばくならざるに、りようすえちんはじめに、法師ちぎほつしと申す小僧出来しようそうしゆつたいせり。南岳大師なんがくだいしと申せし人の御弟子みでしなりしかども、師の義も不審ふしんにありけるかのゆへに、一切経蔵いつさいきようぞうに入つて度々御たびたびごらんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経にせんじいだし、の三経の中にことに華厳経を講じ給いき。
[29]別して礼文らいもんつくりて日々にこうをなし給いしかば、世間の人おもはく、此人このひとも華厳経を第一とおぼすかと見えしほどに、法雲法師が一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるが、あまりに不審ふしんなりける故に、ことに華厳経をらんありけるなり。かくて一切経の中に法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定みさだめさせ給いてなげき給うやうは、如来の聖教しようぎよう漢土かんどにわたれども、人を利益りやくすることなし。かへりて一切衆生を悪道あくどうに導びくこと、人師にんしあやまりによれり。例せば国のおさとある人、東を西といゐ、天を地といゐだしぬれば、万民ばんみんはかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来しゆつたいして、汝等が西は東、汝等が天は地なり、といわばもちうることなき上、おさの心にかなわんがために、今の人をのりうち(罵打)なんどすべし。いかんがせんとはおぼせしかども、さてもだす(黙止)べきにあらねば、光宅寺の法雲法師は謗法ほうぼうによて地獄じごくちぬとののしられ給う。
[30]其時そのとき南北の諸師はち(蜂)のごとく蜂起ほうきし、からす(烏)のごとく烏合うごうせり。法師ちぎほつしをばこうべをわる(破)べきか、国をを(逐)うべきか、なんど申せし程に、陳主ちんしゆ此れをきこしめして、南北の数人すうにんあわせて、われ列座れつざしてきかせ給いき。法雲法師が弟子等慧栄えよう法歳はつさい慧曠えこうえごうなんど申せし僧正僧都そうじようそうず已上の人々百余人なり。各々悪口あつくさきとし、眉をあげ、まなこをいからかし、手をあげ、拍子ひようしをたたく。しかれども法師ちぎほつし末座まつざして色をへんぜず、ことばあやまらず、威儀いぎしづかにして、諸僧のことばを一々にじようをとり、ことごとにせめかへ(責返)す。をしかへ(押返)して難じて云く、そもそも法雲法師の御義おんぎに第一華厳第二涅槃第三法華とたてさせ給いける証文はいずれの経ぞ。たしかにあきらかなる証文を出ださせ給えとせめしかば、各々こうべをうつぶせ、色をうしないて一言いちごんの返事なし。
[31]かさねてせめて云く、無量義経むりようぎきようまさしく「次説方等十二部経摩訶般若華厳海空じせつほうどうじゆうにぶきようまかはんにやけごんかいくう」等云云。ほとけわれと華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実みけんしんじつと打ち消し給う。法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられて候ぬ。いかに心えさせ給いて、華厳経をば一代第一とは候けるぞ。各々御師おんしおんかたうど(方人)せんとをぼさば、此の経文をやぶりて、これすぐれたる経文を取り出して、御師の御義を助け給えとせめたり。
[32]又涅槃経を法華経に勝るると候けるはいかなる経文ぞ。涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみへず。次上つぎかみの第九の巻に、法華経と涅槃経との勝劣分明ふんみようなり。所謂いわゆる経文に云く、「の経の出世しゆつせは乃至法華の中の八千の声聞きべつを受くることを得て大菓実だいかじつじようずるがごとし。秋収冬蔵しゆうしゆうとうぞうしてさら所作しよさ無きが如し」等云云。経文あきらかに諸経をば春夏しゆんかと説かせ給い、涅槃経と法華経とをば菓実かじつくらいとは説かれて候へども、法華経をば秋収冬蔵大菓実しゆうしゆうとうぞうだいかじつの位、涅槃経をば秋のすえ冬の始くんじゆうの位と定め給いぬ。此の経文まさしく法華経には我身わがみ劣ると承伏しようぶくし給いぬ。法華経の文には已説いせつ今説こんせつ当説とうせつと申して、此の法華経は前とならびとの経々に勝れたるのみならず、後に説かん経経にも勝るべしとほとけ定め給う。すでに教主釈尊かく定め給いぬれば疑うべきにあらねども、我が滅後はいかんがと疑いおぼして、東方宝浄世界ほうじようせかい多宝仏たほうぶつ証人しようにんに立て給いしかば、多宝仏大地よりをどり出でて、妙法華経皆是真実みようほけきようかいぜしんじつと証し、十方分身ふんじんの諸仏かさねてあつまらせ給い、広長舌こうちようぜつ大梵天だいぼんてんに付け、又教主釈尊きようしゆしやくそんも付け給う。しかしてのち、多宝仏は宝浄世界えかへり、十方の諸仏各々本土おのおのほんどにかへらせ給いてのち多宝分身たほうふんじんの仏もおはせざらんに、教主釈尊涅槃経をといて、法華経にすぐると仰せあらば、御弟子みでし等は信ぜさせ給うべしや、とせめしかば、日月にちがつ大光明だいこうみよう修羅しゆらまなこを照らすがごとく、漢王かんおうつるぎ諸侯しよこうくびにかかりしがごとく、両眼をとぢ一頭をうなだれたり。天台大師の御気色みけしき師子王ししおうきつねうさぎの前にえたるがごとし、鷹鷲たかわし鳩雉はときじをせめたるににたり。
[33]かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと、震旦しんたん一国に流布るふするのみならず、かへりて五天竺ごてんじくまでも聞へ、月氏がつし大小の諸論も智者大師の御義おんぎにはかたれず。教主釈尊両度りようど出現しましますか。仏教二度ふたたびあらはれぬとほめられ給いしなり。
[34]天台大師も御入滅ごにゆうめつなりぬ。ちんずいの世もかわりてとうの世となりぬ。章安大師しようあんだいしも御入滅なりぬ。天台の仏法やうやく習いせし程に、唐の太宗たいそう御宇ぎよう玄奘三蔵げんじようさんぞうといゐし人、貞観じようがん三年に始めて月氏がつしに入り、同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ねつくして法相宗ほつそうしゆうと申す宗をわたす。
[35]此の宗は天台宗と水火すいかなり。しかるに天台の御覧ごらんなかりし深密経じんみつきよう瑜伽論ゆがろん唯識論ゆいしきろん等をわたして法華経は一切経にはすぐれたれども深密には劣るという。しかるを天台は御覧なかりしかば、天台の末学まつがく等は智慧のうすきかのゆへに、さもやとをもう。又太宗たいそう賢王けんおうなり。玄奘げんじよう御帰依ごきえあさからず。いうべき事ありしかども、いつもの事なれば時のをおそれて申す人なし。法華経を打ちかへして、三乗真実さんじようしんじつ一乗方便いちじようほうべん五性各別*ごしようかくべつと申せし事は心うかりし事なり。天竺てんじくよりはわたれども、月氏がつし外道げどう漢土かんどにわたれるか。法華経は方便ほうべん深密経じんみつきようは真実といゐしかば、多宝十方しやかたほうじつぽう諸仏しよぶつ誠言じようごんもかへりてむなしくなり、玄奘げんじよう慈恩じおんこそ時の生身しようしんの仏にてはありしか。
[36]其後則天皇后そのごそくてんこうごう御宇ぎように、さきに天台大師にせめられし華厳経に、又かさね新訳しんやくの華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳しんやくの華厳をもつて、天台にせめられし旧訳くやくの華厳経をたすけて、華厳宗と申す宗を法蔵法師ほうぞうほつしと申す人立てぬ。此宗は華厳経をば根本法輪こんぽんほうりん、法華経をば枝末法輪しまつほうりんと申すなり。南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳。今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。
[37]後玄宗皇帝ごげんそうこうてい御宇ぎように、天竺てんじくより善無畏三蔵ぜんむいさんぞう大日経だいにちきよう蘇悉地経そしつじきようをわたす。金剛智三蔵こんごうちさんぞう金剛頂経こんごうちようきようをわたす。又金剛智三蔵に弟子あり。不空三蔵ふくうさんぞうなり。の三人は月氏がつしの人、種姓しゆしよう高貴こうきなるうえ、人がらも漢土かんどの僧ににず。法門もなにとはしらず、後漢ごかんより今にいたるまでなかりしいん真言しんごんという事をあひそい(相副)てゆゝしかりしかば、天子てんしかうべ(頭)をかたぶけ、万民たなごころをあわす。
[38]の人々の義にいわく、華厳けごん深密じんみつ般若はんにや涅槃ねはん法華経ほけきよう等の勝劣は顕教けんぎようの内、如来しやかによらいの説の分也。今の大日経だいにちきよう等は大日法王だいにちほうおう勅言ちよくげんなり。の経々はたみ万言ばんげん此経このきよう天子てんし一言いちごん也。華厳経・涅槃経等は大日経にははしごを立てても及ばず。ただ法華経ばかりこそ大日経には相似そうじの経なれ。されどもの経は釈如来の説、たみ正言しようごん此経このきよう天子てんし正言しようごんなり。ことばは似れども人がら雲泥うんでいなり。たとへば濁水じよくすいの月と清水せいすいの月のごとし。月の影は同じけれども水に清濁せいだくありなんど申しければ、よし尋ねあらわす人もなし。諸宗皆して真言宗にかたぶきぬ。善無畏ぜんむい金剛智こんごうち、死去の後、不空三蔵ふくうさんぞう月氏がつしにかへりて菩提心論ぼだいしんろんと申す論をわたし、いよいよ真言宗さかりなりけり。
[39]ただ妙楽大師みようらくだいしといふ人あり。天台大師よりは二百余年ののちなれども、智慧かしこき人にて、天台の所釈しよしやく見明みあきらめてをはせしかば、天台の釈の心は後にわたれる深密経法相宗じんみつきようほつそうしゆう、又始めて漢土かんどに立てたる華厳宗けごんしゆう大日経真言宗だいにちきようしんごんしゆうにも法華経は勝れさせ給いたりけるを、あるいは智慧の及ばざるか、或は人をおそるか、或は時の王威おういをおづるかの故にいはざりけるか。かうてあるならば天台の正義しようぎすでにうせなん。又ちんずい已前の南北が邪義じやぎにも勝れたりとおぼして、三十巻の末文を造り給う。所謂弘決いわゆるぐけつ釈籤しやくせん疏記しよきこれなり。この三十巻の文は本書のかさなれるをけづり、よわき(弱)をたすくるのみならず、天台大師の御時おんときなかりしかば、御責おんせめにものがれてあるやうなる法相宗ほつそうしゆう華厳宗けごんしゆう真言宗しんごんしゆうとを、一時にとりひしがれたる書なり。
[40]又日本国には人王にんのう第三十代欽明天皇きんめいてんのう御宇ぎよう十三年壬申みずのえさる十月十三日に、百済国くだらこくより一切経釈仏の像をわたす。又用明天皇ようめいてんのう御宇ぎよう聖徳太子しようとくたいし仏法をよみはじめ、和気わけ妹子いもこと申す臣下しんか漢土かんどにつかはして、先生せんしよう所持しよじの一巻の法華経をとりよせ給いて持経じきようさだめ、のち人王第三十七代に孝徳天王こうとくてんのう御宇ぎように、三論宗さんろんしゆう華厳宗けごんしゆう法相宗ほつそうしゆう舎宗くしやしゆう成実宗じようじつしゆうわたる。人王第四十五代に聖武天皇しようむてんのう御宇ぎよう律宗りつしゆうわたる。已上いじよう六宗なり。孝徳こうとくより人王第五十代の桓武天王かんむてんのうにいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。
[41]桓武かんむ御宇ぎよう最澄さいちようと申す小僧しようそうあり。山階寺やましなでら行表僧正ぎようひようそうじよう御弟子みでしなり。法相宗ほつそうしゆうを始めとして六宗を習いきわめぬ。しかれども仏法いまだきわめたりともをぼえざりしに、華厳宗けごんしゆう法蔵法師ほうぞうほつしが造りたる起信論きしんろんしよ給うに、天台大師の釈を引きのせたり。此疏このしよこそ子細しさいありげなれ。此国このくにに渡りたるか、又いまだわたらざるか、と不審ふしんありしほどに、有人あるひとにとひしかば其人そのひとの云く、大唐だいとう揚州竜興寺ようしゆうりゆうこうじの僧鑒真和尚がんじんわじようは天台の末学まつがく道暹律師どうせんりつしの弟子、天宝てんぽうすえに日本国にわたり給いて、小乗の戒を弘通ぐづうせさせ給いしかども、天台の御釈持おんしゃくもきたりながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王しようむてんのう御宇ぎようなりとかたる。其書そのしよんと申されしかば、取り出して見せまいらせしかば、一返らんありて、生死しようじよいをさましつ。の書をもつて六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見じやけんなる事あらはれぬ。
[42]たちまちがんおこして云く、日本国の人皆謗法ほうぼうの者の檀越だんのつたるが天下一定いちじよう乱れなんずとをぼして、六宗をなんぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起せきがくほうきして、京中烏合うごうし、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛あくしんごうじようなり。
[43]しかるをいぬ延暦えんりやく二十一年正月十九日に、天王高雄寺たかおでら行幸みゆきあて、七寺の碩徳せきとく十四人、善議ぜんぎしようゆう奉基ほうき寵忍ちようにん賢玉けんぎよく安福あんぷく勤操ごんそう修円しゆえん慈誥じこう耀げんよう歳光さいこう道証どうしよう光証こうしよう観敏かんびん等の十有余人をわす。華厳けごん三論さんろん法相ほつそう等の人々各々我宗わがしゆう元祖がんそにたがはず。最澄上人さいちようしようにんは六宗の人々の所立しよりゆう一々にじようを取りて、本経本論並ほんきようほんろんならび諸経諸論しよきようしよろんわせてせめしかば、一言も答えず、口をして鼻のごとくになりぬ。天皇をどろき給いて、委細いさいおんたづねありて、かさねて勅宣ちよくせんくだして、十四人をせめ給いしかば、承伏しようぶく謝表しやひようたてまつりたり。
[44]其書そのしよに云く「七箇しちか大寺だいじ六宗の学匠がくしよう乃至はじめ至極しごくさとる」等云云。又云く「聖徳しようとく弘化ぐけより以降このかた今に二百余年の間こうずる所の経論其数きようろんそのかず多し。彼此理かれこれりを争つてそのいまけず。しかる最妙さいみよう円宗猶未えんしゆうなおいま闡揚せんようせず」等云云。又云く「三論法相久年きゆうねん諍渙焉あらそいかんえんとして氷の如く照然しようぜんとしてすであきらかに猶雲霧なおうんむひらいて三光さんこうを見るがごとし」云云。最澄和尚さいちようわじよう十四人がはんじて云く「各一軸おのおのいちじくこうずるに法鼓ほつく深壑じんがくふる賓主ひんしゆ三乗のみち徘徊はいかい義旗ぎき高峰こうほうとばす。長幼三有ちようようさんうけつ摧破さいはして猶未なおいま歴劫りやつこうてつを改めず白牛びやくご門外もんげこんず。豈善あによ初発しよほつくらいに昇りあだ宅内たくないさとらんや」等云云。弘世ひろよ真綱まつな二人の臣下しんか云く「霊山りようぜんの妙法を南岳なんがくに聞き総持そうじ妙悟みようごを天台にひらく一乗の権滞ごんたいなげ三諦*さんたい未顕みけんを悲しむ」等云云。又十四人の云く「善議ぜんぎひかれ休運きゆううんおうすなわ奇詞きしけみす。深期じんごあらざるよりはなん聖世せいせたくせんや」等云云。
[45]此十四人は華厳宗の法蔵ほうぞう審祥しんじよう、三論宗の嘉祥かじよう観勒かんろく、法相宗の慈恩じおん道昭どうしよう、律宗の道宣どうせん鑒真がんじん等の、漢土かんど日本の元祖がんそ等の法門、かめはかはれども水はひとつ也。しかるに十四人邪義じやぎをすてて、伝教の法華経に帰伏きぶくしぬる上は、だれ末代まつだいの人か華厳けごん般若はんにや深密経じんみつきよう等は法華経に超過ちようかせりと申すべきや。小乗の三宗は又の人々の所学しよがくなり。大乗の三宗やぶれぬる上は、沙汰さたのかぎりにあらず。しかるを今に子細しさいを知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。たとへば盲目が天の日月にちがつを見ず、聾人がいかずちの音をきかざるがゆへに、天には日月なし、そらに声なしとをもうがごとし。
[46]真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇げんしようてんのう御宇ぎように、善無畏三蔵ぜんむいさんぞう大日経だいにちきようをわたして弘通ぐづうせずして漢土かんどへかへる。又げんぼう等、大日経の義釈ぎしやく十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳とくしようだいとくわたす。
[47]此等これらを伝教大師らんありてありしかども、大日経・法華経の勝劣いかんがとおぼしけるほどに、かたがた不審ふしんありし故に、去延暦いぬるえんりやく二十三年七月御入唐ごにつとう西明寺さいみようじ和尚どうずいわじよう仏滝寺ぶつろうじ行満ぎようまん等にい奉りて、止観円頓*しかんえんどん大戒だいかい伝受でんじゆし、霊感寺れいかんじ順暁和尚じゆんぎようわじようい奉りて、真言を相伝そうでんし、同延暦二十四年六月に帰朝きちようし、桓武天王かんむてんのう御対面ごたいめん宣旨せんじくだして、六宗の学匠がくしよう止観しかん真言しんごんを習はしめ、同七大寺にをかれぬ。真言・止観の二宗の勝劣は漢土かんどに多く子細しさいあれども、又大日経の義釈ぎしやくには理同事勝*りどうじしようとかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵ぜんむいさんぞうのあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりとしろしめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて、法華宗ほつけしゆうの内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経ぼうえきようとなして、華厳けごん大品般若たいぼんはんにや涅槃ねはん等の例とせり。しかれども大事の円頓えんどん大乗別受戒だいじようべつじゆかい大戒壇だいかいだんを我が国にたてたてじの諍論じようろんがわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明ふんみようにをしえ給わざりけるか。
[48]依憑集えびようしゆうと申すふみに、まさしく真言宗は法華天台宗の正義しようぎぬすみとりて、大日経に入れて理同りどうとせり。さればしゆうは天台宗にちたる宗なり。いわうや不空三蔵ふくうさんぞう善無畏ぜんむい金剛智こんごうち入滅の後、月氏がつしに入りてありしに、竜智菩りゆうちぼさつい奉りし時、月氏がつしには仏意ぶついをあきらめたる論釈ろんしやくなし。漢土かんどに天台という人の釈こそ、邪正じやしようをえらび、偏円へんえんをあきらめたるふみにては候なれ。あなかしこ、あなかしこ。月氏がつしわたし給えと、ねんごろにあつら(誂)へし事を、不空ふくうの弟子含光がんこうといゐし者が妙楽大師にかたれるを、の十のすえせられて候を、この依憑集えびようしゆうせて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然みこころけんねん也。
[49]されば釈如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心みこころは一同に大日経等の一切経の中には法華経はすぐれたりという事は分明ふんみようなり。又真言宗の元祖がんそという竜樹菩りゆうじゆぼさつ御心みこころもかくのごとし。大智度論だいちどろん能能尋よくよくたずぬるならば此事分明このことふんみようなるべきを、不空ふくうがあやまれる菩提心論ぼだいしんろんみな人ばかされて此事このこと迷惑めいわくせるか。
[50]石淵いわぶち勤操僧正ごんそうそうじよう御弟子みでし空海くうかいと云う人あり。のちには弘法大師こうぼうだいしとがうす。ぬる延暦えんりやく二十三年五月十二日に御入唐ごにつとう漢土かんどにわたりては金剛智こんごうち善無畏ぜんむいの両三蔵さんぞうの第三の御弟子慧果和尚みでしけいかわじようといゐし人に両界りようかい伝受でんじゆ大同だいどう二年十月二十二日に御帰朝ごきちよう平城天王へいぜいてんのう御宇ぎようなり。桓武天皇かんむてんのうほうぎよ、平城天王に見参けんざんし、御用おんもちいありて御帰依ごきえ他にことなりしかども、平城へいぜいほどもなく嵯峨さがをとられさせ給いしかば、弘法こうぼうひき入れてありしほどに、伝教大師は嵯峨さが天王弘仁てんのうこうにん十三年六月四日御入滅ごにゆうめつ。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師おんしとなり、真言宗を立てて東寺とうじたまい、真言和尚しんごんわじようとがうし、これより八宗はじまる。
[51]一代の勝劣をはんじて云く、第一真言大日経しんごんだいにちきよう・第二華厳けごん・第三は法華涅槃ほつけねはん等云云。法華経は阿含あごん方等ほうどう般若はんにや等に対すれば真実の経なれども、華厳経けごんきよう大日経だいにちきようのぞむれば戯論けろんの法なり。教主釈尊きようしゆしやくそんは仏なれども、大日如来だいにちによらいむかうれば無明むみよう辺域へんいきと申して皇帝こうてい俘囚えびすとの如し。天台大師は盗人ぬすびとなり。真言しんごん醍醐だいごを盗んで法華経を醍醐だいごというなんどかゝれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。天竺てんじく外道げどうはさてきぬ。漢土かんど南北なんぼくが法華経は涅槃経に対すれば邪見じやけんの経といゐしにもすぐれ、華厳宗けごんしゆうが法華経は華厳経に対すれば枝末教しまつきようと申せしにもこへたり。たとえ月氏がつし大慢婆羅門だいまんばらもん大自在天だいじざいてん羅延天ならえんてん婆籔天ばそてん教主釈尊きようしゆしやくそんの四人を高座こうざの足につくりて、うえにのぼつて邪法じやほうを弘めしがごとし。伝教大師御存生ごぞんしようならば、一言いちごんいだされべかりける事なり。又義真ぎしん円澄えんちよう慈覚じかく智証ちしよう等もいかに御不審ごふしんはなかりけるやらん。天下てんか第一の大凶だいきようなり。
[52]慈覚大師じかくだいしぬる承和じようわ五年に御入唐ごにつとう漢土かんどにして十年が間、天台・真言の二宗をならう。法華・大日経の勝劣を習いしに、法全はつせん元政げんじよう等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝*りどうじしよう等云云。天台宗の志遠しおん広修こうしゆうゆいけん等に習いしには大日経は方等部ほうどうぶしよう等云云。同じき承和じようわ十三年九月十日に御帰朝ごきちよう嘉祥かじよう元年六月十四日に宣旨下せんじくだる。法華・大日経等の勝劣は漢土かんどにしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経こんごうちようきようしよ七巻・蘇悉地経そしつちきようしよ七巻、已上十四巻、此疏このしよの心は大日経だいにちきよう金剛頂経こんごうちようきよう蘇悉地経そしつちきようの義と法華経の義は、其所そのしよせんの理は一同なれども、事相じそういん真言しんごんとに真言の三部経すぐれたりと云云。これひとえ善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくうの造りたる大日経のしよの心のごとし。
[53]しかれども我が心に猶不審なおふしんやのこりけん。又心にはとけ(解)てんけれども、人の不審ふしんをはらさんとやをぼしけん。この十四巻のしよ御本尊ごほんぞん御前おんまえにさしをきて御祈請ごきしようありき。かくは造りて候へども仏意計ぶつちはかりがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされる、と御祈念有ごきねんありしかば、五日いつかと申す五更ごこうたちまち無想むそうあり。青天せいてん大日輪だいにちりんかゝり給へり。矢をもてこれをければ、矢んでそらにのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転どうてんして、すでに地におちんとす、とをもひてうちさめ(打覚)ぬ。よろこんで云く、我吉夢われきちむあり。法華経に真言すぐれたりとつくりつるふみ(文)は仏意にかないけり、と悦ばせ給いて宣旨せんじもうくだして、日本国に弘通ぐづうあり。而も宣旨せんじの心に云く、「ついんぬ。天台の止観しかんと真言の法義ほうぎとは理みようえり」等と云云。祈請きしようのごときんば、大日経に法華経はれつなるやうなり。宣旨せんじを申しくだすには、法華経と大日経とは同じ等云云。
[54]智証大師ちしようだいし本朝ほんちようにしては、義真和尚ぎしんわじよう円澄大師えんちょうだいし別当べつとう慈覚じかく等の弟子なり。顕密けんみつの二道は大体此国だいたいこのくににしてがくし給いけり。天台・真言二宗の勝劣の御不審ごふしん漢土かんどへは渡り給いけるか。いぬ仁寿にんじゆ二年に御入唐ごにつとう漢土かんどにしては真言宗は法全はつせん元政げんじよう等にならはせ給い、大体大日経と法華経とは理同事勝*りどうじしよう慈覚じかくのごとし。天台宗は和尚りようしよわじようにならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳けごん・法華等には及ばず等云云。七年が間漢土かんどて、いぬ貞観じようがん元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰しきに云く「法華なお及ばずいわん自余じよの教をや」等云云。此釈このしやくは法華経は大日経には劣る等云云。又授決集じゆけつしゆうに云く「真言禅門しんごんぜんもん乃至華厳けごん法華ほつけ涅槃ねはん等の経にのぞむれば摂引門しよういんもんなり」等云云。普賢経ふげんきようろんに云く、「同じ」等云云。
[55]貞観じようがん八年丙戌ひのえいぬ四月二十九日壬申勅宣みずのえさるちよくせんを申しくだして云く「くならく真言止観しんごんしかん両教の宗同じく醍醐だいごごうとも深秘じんぴしようす」等云云。又六月三日の勅宣ちよくせんに云く「先師すで両業りようごうを開いて以てみちす。代々の座主相承ざすそうじようしてね伝えざることし。在後ざいご輩豈旧迹やからあにきゆうせきそむかんや。くならく山上さんじよう僧等専そうらもつぱら先師のたがいて偏執へんしゆうこころじようず。ほとんど余風よふう扇揚せんよう旧業くごう興隆こうりゆうするをかえりみざるにたり。およ厥師資そのししみち一をくも不可ふかなり。伝弘でんぐつとむし兼備けんびせざらんや。今より以後宜いごよろしく両教に通達つうだつする人を以て延暦寺えんりやくじ座主ざすし立てて恒例こうれいすべし」云云。
[56]されば慈覚じかく智証ちしようの二人は伝教でんぎよう義真ぎしん御弟子みでし漢土かんどにわたりては又天台・真言の明師めいしいてりしかども、二宗の勝劣は思い定めざりけるか。あるいは真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝*りどうじしよう等云云。宣旨せんじを申しくだすには、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅いちよくの者といましめられたり。此等これらは皆自語相違じごそういといゐぬべし。他宗の人はよも用いじとみえて候。ただし二宗斉等さいとうとは先師伝教大師の御義おんぎ宣旨せんじせられたり。そもそも伝教大師いづれのしよにかかれて候ぞや。此事このことよくよく尋ぬべし。
[57]慈覚じかく智証ちしようと日蓮とが伝教大師の御事おんこと不審ふしん申すは、親にうての年あらそひ、日天につてんい奉りての目くらべにて候へども、慈覚じかく智証ちしようおんかたふどをせさせ給はん人々は、分明ふんみようなる証文しようもんをかまへさせ給うべし。せんずるところは信をとらんがためなり。玄奘三蔵げんじようさんぞう月氏がつし婆沙論ばしやろんを見たりし人ぞかし。天竺てんじくにわたらざりし宝法師ほうほつしにせめられにき。法護三蔵ほうごさんぞう印度いんどの法華経をば見たれども、嘱累ぞくるい先後せんごをば漢土かんどの人みねども、あやまりといひしぞかし。たと慈覚じかく、伝教大師にい奉りて習い伝えたりとも、智証ちしよう義真和尚ぎしんわじよう口決くけつせりといふとも、伝教・義真の正文しようもん相違そういせば、あに不審ふしんくわえざらん。
[58]伝教大師の依憑集えびようしゆうと申すふみは大師第一の秘書ひしよなり。彼書かのしよじよに云く「新来しんらい真言家しんごんけすなわ筆授ひつじゆ相承そうじようほろぼ旧到くとう華厳家けごんけは則ち影響ようごう軌範きはんかくし、沈空ちんくう三論宗さんろんしゆう弾訶たんが屈恥くつちを忘れて称心しようしんよいおおう。著有じやくう法相ほつそう撲揚ぼくよう帰依きえなみ青竜せいりゆう判経はんぎようはらう等。乃至つつしんで依憑集えびようしゆう一巻をあらわして同我どうが後哲こうてつおくる。それの時おこること日本第五十二葉弘仁ようこうにんの七丙申ひのえさるとしなり」云云。しも正宗しようしゆうに云く「天竺てんじくの名僧、大唐だいとう天台の教迹きようしやく最も邪正じやしようえらぶにえたりと聞いて渇仰かつごうして訪問す」云云。次ぎ下に云く「豈中国あにちゆうごくに法を失つてこれ四維しいに求むるに非ずや。しかも此の方にること有る者少し。魯人ろじんごときのみ」等云云。
[59]此の書は法相ほつそう三論さんろん華厳けごん真言しんごんの四宗をせめて候ふみ也。天台・真言の二宗同一味どういちみならば、いかでかせめ候べき。しか不空三蔵ふくうさんぞう等をば魯人のごとしなんどかかれて候。善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくうの真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あつくあるべき。又天竺てんじくの真言が天台宗に同じきも又すぐれたるならば、天竺てんじく名僧めいそういかでか不空ふくうにあつらへ、中国に正法しようぼうなしとはいうべき。
[60]それはいかにもあれ、慈覚じかく智証ちしようの二人は言は伝教大師の御弟子みでしとはなのらせたまえども、心は御弟子みでしにあらず。ゆえの書に云く「つつしんで依憑集えびようしゆう一巻をあらわして同我どうが後哲こうてつおくる」等云云。同我どうがの二字は、真言宗は天台宗におとるとならひてこそ、同我どうがにてはあるべけれ。われと申しくださるる宣旨せんじに云く「もつぱ先師せんしたが偏執へんしゆうの心をじようず」等云云。又云く「およ厥師資そのししみち一をいても不可ふかなり」等云云。宣旨せんじのごとくならば、慈覚じかく智証ちしようこそもつぱら先師にそむく人にては候へ。かうせめ候もをそれにては候へども、これをせめずば、大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまと(的)にかけてせめ候なり。の二人の人々の弘法大師こうぼうだいし邪義じやぎをせめ候わざりけるはもつとも道理にて候いけるなり。されば粮米ろうまいをつくし、人をわづらはかして、漢土かんどへわたらせ給はんよりは、本師ほんし伝教大師の御義おんぎをよくよくつくさせ給うべかりけるにや。
[61]されば叡山えいざん仏法ぶつぽうただ伝教大師・義真和尚ぎしんわじよう円澄大師えんちようだいしの三代ばかりにてやありけん。天台の座主ざすすでに真言の座主にうつりぬ。名と所領しよりようとは天台山てんだいさんぬし真言師しんごんしなり。されば慈覚大師・智証大師は已今当*いこんとうの経文をやぶらせ給う人なり。已今当*いこんとうの経文をやぶらせ給うは、あにしやか多宝たほう十方じつぽう諸仏しよぶつ怨敵おんてきにあらずや。弘法大師こうぼうだいしこそ第一の謗法ほうぼうの人とおもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事ひがごとなり。ゆえ水火天地すいかてんちなる事は僻事ひがごとなれども、人もちふる事なければ僻事成ひがごとじようずることなし。弘法大師の御義おんぎはあまり僻事ひがごとなれば弟子等も用ふることなし。事相計じそうばかりは門家もんけなれども、教相きようそうの法門は弘法こうぼういゐにくきゆへに、善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくう慈覚じかく智証ちしようの義にてあるなり。
[62]慈覚じかく智証ちしようこそ真言と天台とは理同りどうなり、なんど申せばみな人さもやとをもう。かうをもうゆへに、事勝じしよういん真言しんごんとにつひて、天台宗の人々画像がぞう木像もくぞう開眼かいげん仏事ぶつじをねらはんがために、日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり。例せば法師ほつしあまくろきあおきとはまがひぬべければ、まなこくらき人はあやまつぞかし。僧と男と白と赤とは目くらき人も迷わず。いわうやまなこあきらかなる者をや。慈覚じかく智証ちしよう法師ほつしあまくろきあおきとがごとくなるゆへに、智人ちじんも迷い愚人ぐにんもあやまり候て、の四百余年が間は叡山えいざん園城おんじよう東寺とうじ奈良なら五畿ごき七道しちどう日本一州にほんいつしゆう謗法ほうぼうの者となりぬ。
[63]そもそも法華経の第五に「文殊師利此もんじゅしりこの法華経は諸仏如来しよぶつによらい秘密ひみつぞうなり。諸経しよきようなかおいもつとかみり」云云。経文きようもんのごとくならば、法華経は大日経等の衆経しゆきよう頂上ちようじようじゆうし給う正法しようぼうなり。さるにては善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくう弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしよう等はの経文をばいかんが会通えつうせさせ給うべき。法華経の第七に云く「経典きようでん受持じゆじすることらん者も亦復くのごとし。一切衆生いつさいしゆじようなかおいて亦これ第一なり」等云云。の経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河せんるごうがの中の大海だいかい衆山しゆせんの中の須弥山しゆみせん衆星しゆせいの中の月天がつてん衆明しゆみようの中の大日天だいにつてん転輪王てんりんおう帝釈たいしやく諸王しよおうの中の大梵王だいぼんのうなり。
[64]伝教大師の秀句しゆうくと申す書に云く「此の経も亦復くのごとし乃至もろもろ経法きようぼうの中に最もこれ第一なり。の経典を受持じゆじすること有らん者も亦復くの如し。一切衆生の中において亦これ第一なり」。已上経文きようもんなりと引き入れさせ給いてしもに云く「天台法華玄てんだいほつけげんに云く」等云云。已上玄文げんもんとかかせ給いてかみの心を釈して云く「まさに知るべし。他宗所依しよえの経はいまもつとれ第一ならず。其の能く経をたもつ者も亦いまだ第一ならず。天台法華宗所持てんだいほつけしゆうしよじの法華経はもつとれ第一なるゆえく法華をたもつ者もまた衆生の中の第一なり。すでに仏説に豈自あにじたんならん」等云云。次下つぎしもゆずしやくに云く「委曲いきよく依憑具えびようつぶさに別巻べつかんるなり」等云云。
[65]依憑集えびようしゆうに云く「今が天台大師法華経を説き法華経を釈することぐん特秀とくしゆうとう独歩どつぽす。あきらかんぬ如来によらい使つかいなり。ほむる者はふく安明あんみようそしる者はつみ無間むげんに開く」等云云。法華経・天台・妙楽・伝教の経釈きようしやくの心のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。
[66]月氏がつしには教主釈尊きようしゆしやくそん宝塔品ほうとうほんにして、一切の仏をあつめさせ給いて大地だいちうえせしめ、大日如来ばか宝塔ほうとううちの南の下座げざにす(居)へ奉りて、教主釈尊は北の上座じようざにつかせ給う。の大日如来は大日経の胎蔵界たいぞうかいの大日、金剛頂経の金剛界こんごうかいの大日の主君しゆくんなり。両部りようぶの大日如来を郎従ろうじゆう等とさだめたる多宝仏たほうぶつ上座じようざに教主釈尊せさせ給う。此れ即ち法華経の行者なり。天竺てんじくかくのごとし。
[67]漢土には陳帝ちんていの時、天台大師南北なんぼくにせめかちて現身げんしんに大師となる。「ぐん特秀とくしゆうとう独歩どつぽす」というこれなり。
[68]日本国には伝教大師六宗にせめかちて日本の始め第一の根本大師こんぽんだいしとなり給う。
[69]月氏がつし漢土かんど日本にほんただ三人ばかりこそ「於一切衆生中亦為第一おいつさいしゆじようちゆうやくいだいいち」にては候へ。されば秀句しゆうくに云く「あさきはやすふかきはかたしとはしやか所判しよはんなり。浅きをつて深きにくは丈夫じようぶの心なり。天台大師は釈信順しんじゆんして法華宗ほつけしゆうを助けて震旦しんたん敷揚ふよう叡山えいざん一家いつけは天台に相承そうじようして法華宗を助けて日本に弘通ぐづうす」等云云。仏滅後一千八百余年があいだに法華経の行者漢土かんどに一人、日本に一人、已上二人。釈尊を加へ奉りて已上三人なり。
[70]外典げてんに云く、聖人せいじんは一千年にひとたび出で、賢人けんじんは五百年にひとたび出づ。黄河こうがけいながれをわけて、五百年には半河はんがすみ、千年には共にむ、と申すは一定いちじようにて候けり。
[71]しかるに日本国は叡山計えいざんばかりに、伝教大師の御時おんとき、法華経の行者ましましけり。義真ぎしん円澄えんちようは第一第二の座主ざすなり。第一の義真ばかり伝教大師ににたり。第二の円澄はなかばは伝教の御弟子、なかば弘法こうぼうの弟子なり。第三の慈覚大師じかくだいしは始めは伝教大師の御弟子みでしににたり、御年おんとし四十にて漢土にわたりてより、は伝教の御弟子、其跡そのあとをばつがせ給えども、法門ほうもんまつたく御弟子にはあらず。しかれども円頓えんどん戒計かいばかりは又御弟子ににたり。蝠鳥へんぷくちようのごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず。梟鳥禽きようちようきん破鏡獣はけいじゆうのごとし。法華経の父をらい、持者じしやの母をかめるなり。をい(射)るとゆめ(夢)にみしこれなり。されば死去しきよのちはかなくてやみぬ。
[72]智証ちしよう門家園城寺もんけおんじようじ慈覚じかく門家叡山もんけえいざんの、修羅しゆら悪竜あくりゆう合戦かつせんひまなし。園城寺おんじようじをやき叡山えいざんをやく。智証大師ちしようだいし本尊ほんぞん慈氏菩じしぼさつもやけぬ。慈覚大師じかくだいし本尊大講堂ほんぞんだいこうどうもやけぬ。現身げんしん無間地獄むげんじごくをかん(感)ぜり。但中堂計ちゆうどうばかりのこれり。
[73]弘法大師こうぼうだいしも又あとなし。弘法大師の云く、東大寺の受戒じゆかいせざらん者をば東寺とうじ長者ちようじやとすべからず等、おんいましめの状あり。しかれども寛平法王かんぴようほうおう仁和寺にんなじ建立こんりゆうして、東寺とうじ法師ほつしをうつして、我寺わがてらには叡山えいざん円頓戒えんどんかいたもたざらん者をばじゆうせしむべからずと、宣旨分明せんじふんみようなり。されば今の東寺とうじ法師ほつし鑒真がんじんが弟子にもあらず、弘法こうぼうの弟子にもあらず。かい伝教でんぎよう御弟子みでしなり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失はしつす。
[74]いぬ承和じようわ二年三月二十一日に死去しきよありしかば公家くげより遺体いたいをはほ(葬)らせ給い、其後誑惑そののちおうわくの弟子等あつまりて、御入定ごにゆうじようと云云。あるいはかみ(髪)をそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷さんこをかんど(漢土)よりなげたりといゐ、或は日輪夜中にちりんやちゆうでたりといゐ、或は現身げんしんに大日如来となり給うといひ、或は伝教大師に十八道ををしえまいらせたりといゐて、師のとくをあげて智慧にかへ、我師わがし邪義じやぎたすけて王臣おうしん誑惑おうわくするなり。又高野山こうやさん本寺ほんじ伝法院でんぽういんといいしふたつの寺あり。本寺は弘法こうぼうのたてたる大塔大日如来だいとうだいにちによらいなり。伝法院でんぽういんと申すは正覚房しようかくぼうが立てし金剛界こんごうかい大日だいにちなり。此本末このほんまつの二寺昼夜ちゆうや合戦かつせんあり。例せば叡山えいざん園城おんじようのごとし。誑惑おうわくのつもりて日本にふたつわざわいの出現せるか。
[75]ふんを集めて栴檀せんだんとなせども、く時は但糞ただふんなり。大妄語だいもうごを集めて仏とがうすれども但無間大城ただむげんだいじようなり。にけんとうは数年が間、利生広大りしようこうだいなりしかども、馬鳴菩めみようぼさつらいをうけてたちまちにくづれぬ。鬼弁婆羅門きべんばらもんがとばり(帷)は多年たねん人をたぼらかせしかども、沙菩あすばくしやぼさつにせめられてやぶれぬ。留外道くるげどうは石となつて八百年、ちんなぼさつにせめられて水となりぬ。道士どうし漢土かんどをたぼらかすこと数百年、摩騰まとう竺蘭じくらんにせめられて仙経せんきようもやけぬ。趙高ちようこうが国をとりし、おうもうくらいをうばいしがごとく、法華経の位をと(奪)て大日経の所領しよりようとせり。法王ほうおうすでに国にうせぬ。人王にんのうあに安穏あんのんならんや。日本国は慈覚じかく智証ちしよう弘法こうぼうながれなり。一人いちにんとして謗法ほうぼうならざる人はなし。
[76]ただことの心をあんずるに、大荘厳仏だいしようごんぶつすえ一切明王仏いつさいみようおうぶつ末法まつぽうのごとし。威音王仏いおんのうぶつ末法まつぽうには改悔かいげありしすら、猶千劫阿鼻地獄なおせんごうあびじごくつ。いかにいわうや、日本国の真言師しんごんし禅宗ぜんしゆう念仏者ねんぶつしや等は一分いちぶんえしんなし。「如是展転至無数劫によぜてんでんしむしゆこううたがいなきものか。かゝる謗法ほうぼうの国なれば天もすてぬ。天すつれば、ふるき守護しゆご善神ぜんじんもほこらをやひ(焼)て寂光じやつこうみやこへかへり給いぬ。ただ日蓮ばかとどまりげ示せば、国主こくしゆこれをあだみ、数百人のたみあるい罵詈めり、或は悪口あつく、或はじようもく、或はとうじよう、或は宅々いえいえごとにせき、或は家々いえいえごとにをう。それにかなはねば、われと手をくだして二度まで流罪るざいあり。ぬる文永八年九月の十二日にはくびを切らんとす。
[77]最勝王経さいしようおうきように云く「悪人あくにん愛敬あいぎよう善人ぜんにん治罰ちばつするにるがゆえ他方たほう怨賊来おんぞくきたつて国人喪乱こくじんそうらんう」等云云。大集経だいしつきように云く「しは復諸またもろもろ刹利国王有せつりこくおうあつてもろもろ非法ひほうして世尊せそん声聞しようもんの弟子を悩乱のうらんし、しはもつ毀罵きめとうじようをもつて打斫ちようしやくし及び衣鉢種種えはつしゆじゆ資具しぐうばい、しは他の給施きゆうせせんに留難るなんさば我等彼われらかれをして自然じねん他方たほう怨敵おんてき卒起そつきせしめん。及び自界じかい国土こくどにもまたおこ病疫飢饉びようえきききん非時ひじ風雨闘諍言訟ふううとうじようごんじようせしめん。又の王をしてひさしからざらしめ復当またまさおのが国を亡失ぼうしつすべし」等云云。此等これら経文きようもんのごときは日蓮この国になくば、仏は大妄語だいもうごの人阿鼻地獄あびじごくはいかでのがれ給うべき。
[78]ぬる文永八年九月十二日に平左衛門へいのさえもん並びに数百人にむかつて云く、日蓮は日本国のはしら(柱)なり。日蓮を失うほどならば日本国のはしらをたをす(倒)になりぬ等云云。の経文に、智人ちじん国主こくしゆもし悪僧あくそう等がざんげんにより、もし諸人しよにん悪口あつくによて、とがにあつるならば、にはかにいくさ(軍)をこり、又大風たいふうふかせ、他国よりせむべし等云云。ぬる文永九年二月のどし(同士)いくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古だいもうこきたりしはひとえに日蓮がゆへにあらずや。いわうやさきよりこれをかんがへたり。たれの人か疑うべき。
[79]弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしようあやまり並びに禅宗ぜんしゆう念仏宗ねんぶつしゆうとのわざわい(禍)あいをこりて、逆風ぎやくふう大波たいはをこり、大地震だいじしんのかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう。太政入道だじようにゆうどうが国ををさ(押)へ、承久じようきゆう王位おういつきはてゝ世東よひがしにうつりしかども、ただ国中のみだれにて他国のせめはなかりき。かれ謗法ほうぼうの者は国に充満じゆうまんせりといへどもさゝ(支)へあらわす智人ちじんなし。かるがゆへに、なのめ(平)なりき。
[80]たとへば師子ししのねぶれるは手をつけざればほへず。迅流はやきながれをさゝへざれば波たかからず。盗人ぬすびとはとめざればいからず。火はたきぎを加えざればさかんならず。謗法ほうぼうはあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。例せば日本国に仏法ぶつぽうわたりはじめてそうらいしに、始はなに事もなかりしかども、守屋もりや仏をやき、僧をいましめ、堂塔どうとうをやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさう(疱瘡)をこり、兵乱へいらんつづきしがごとし。これはそれにはにるべくもなし。謗法ほうぼうの人々も国に充満じゆうまんせり。日蓮が大義たいぎも強くせめかゝる。修羅しゆら帝釈たいしやくと、仏と魔王まおうとの合戦かつせんにもをとるべからず。
[81]金光明経こんこうみようきように云く「とき鄰国りんごく怨敵是おんてきかくのごとねんおこさん。まさに四兵しへいして国土こくどやぶるべし」等云云。又云く「時におうおわつて即ち四兵しへいよそおいての国に発向はつこう討罰とうばつなさんとほつす。我等爾われらその時にまさに眷属無量無辺けんぞくむりようむへん諸神やしやしよじんおのおの形をかくしてため護助ごじよ怨敵おんてきをして自然じねん降伏ごうぶくせしむべし」等云云。最勝王経さいしようおうきようもん又かくのごとし。大集経だいしつきよう云云。仁王経にんのうきよう云云。
[82]此等これら経文きようもんのごときんば、正法しようぼうぎようずるものを国主こくしゆあだみ、邪法じやほうぎようずる者のかたうどせば、大梵天王だいぼんてんのう帝釈たいしやく日月にちがつ四天してん等、鄰国りんごく賢王けんのうりかわりて其国そのくにをせむべしとみゆ。れいせば訖利多王きりたおう雪山下王せつせんげおうのせめ、大族王だいぞくおう幻日王げんにちおううしないしがごとし。訖利多王きりたおう大族王だいぞくおうとは月氏がつし仏法ぶつぽううしないし王ぞかし。漢土かんどにも仏法をほろぼしゝ王、みな賢王けんおうにせめられぬ。
[83]これはかれにはにるべくもなし。仏法ぶつぽうのかたうどなるやうにて、仏法を失う法師ほつしのかたうどをするゆへに、愚者ぐしやはすべてしらず、智者ちしやなんどもつね智人ちじんはしりがたし。てん下劣げれつ天人てんにんは知らずもやあるらん。されば漢土月氏かんどがつしのいにしへ(古)のみだれよりも大きなるべし。
[84]法滅尽経ほうめつじんきように云く「吾般泥われはつないおん後五逆濁世のちごぎやくじよくせ魔道興盛まどうこうじよう魔沙門ましやもんつてみち壊乱えらんせん。乃至悪人転あくにんうたた多く海中かいちゆういさごごと善者甚ぜんしやはなはすくなくしてしは一しは二」云云。涅槃経ねはんぎように云く「くのごとの涅槃経典を信ずるものは抓上そうじようつちごとし乃至の経を信ぜざるものは十方界じつぽうかい所有しよゆう地土ちどごとし」等云云。此経文このきようもんきもみぬ。当世とうせ日本国にはわれも法華経を信じたり信じたり。諸人しよにんのごときんば一人も謗法ほうぼうの者なし。此経文このきようもんには、末法まつぽう謗法ほうぼうの者十方じつぽう地土ちど正法しようぼうの者爪上そうじようつち等云云。経文きようもん世間せけんとは水火すいかなり。世間の人云く、日本国には日蓮一人ばか謗法ほうぼうもの等云云。又経文きようもんには天地てんちせり。法滅尽経ほうめつじんきようには善者ぜんしや一・二人。涅槃経ねはんぎようには信者爪上土しんじやそうじようのつち等云云。経文きようもんのごとくならば、日本国はただ日蓮一人こそ爪上土そうじようのつち一二人いちににんにては候へ。経文きようもんをかもちうべき、世間せけんをか用うべき。
[85]問うて云く、涅槃経のもんには、涅槃経の行者は爪上そうじようつち等云云。なんじには法華経等云云如何いかん
[86]答えて云く、涅槃経に云く「法華のなかごとし」等云云。妙楽大師みようらくだいし云く「大経だいきよう自ら法華をしてごくす」等云云。大経だいきようと申すは涅槃経也。涅槃経には法華経をごくさして候なり。しかるを涅槃宗ねはんしゆうの人の涅槃経を法華経にすぐると申せしは、しゆ所従しよじゆうといゐ、下郎げろう上郎じようろうといゐし人なり。涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり。たとへば、賢人けんじん国主こくしゆを重んずる者をばわれをさぐれどもよろこぶなり。涅槃経は法華経をさげて我をほむる人をば、あながちにてきとにくませ給う。れいをもつて知るべし。華厳経けごんきよう観経かんぎよう大日経だいにちきよう等をよむ人も法華経をおとるとよむは彼々の経々きようぎようの心にはそむくべし。これをもつてるべし。法華経をよむ人の此経このきようをば信ずるやうなれども、諸経しよきようにても得道とくどうなる(成)とおもうは、此経このきようをよまぬ人なり。
[87]れいせば嘉祥大師かじようだいし法華玄ほつけげんと申すふみ十巻造りて、法華経をほめしかども、妙楽みようらくかれをせめて云く、「毀其そしりそなかなん弘讃ぐさんさん」等云云。法華経をやぶる人なり。されば嘉祥かじようちて、天台につかひ(仕)て法華経をよまず。れ経をよむならば悪道あくどうまぬがれがたしとて、七年まではしとし給いき。
[88]慈恩大師じおんだいし玄賛げんざんと申して法華経をほむるふみ十巻あり。伝教大師せめて云く「法華経をむるといえどもかえつ法華ほつけの心をころす」等云云。
[89]此等これらをもつてをもうに、法華経をよみさんたんする人々の中に無間地獄むげんじごくは多くるなり。嘉祥かじよう慈恩じおんすでに一乗誹謗いちじようひぼうの人ぞかし。弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしようあに法華経べつじよの人にあらずや。
[90]嘉祥大師かじようだいしのごとくこうはいしゆうさんじてはしとなせしもなお已前いぜんの法華経誹謗ひぼうつみやきへざるらん。不軽軽毀ふきようきようきの者は不軽菩ふきようぼさつ信伏随従しんぷくずいじゆうせしかども、重罪じゆうざいいまだのこりて千劫阿鼻せんごうあびちぬ。されば弘法こうぼう慈覚じかく智証ちしよう等はたといひるがへす心ありともなお法華経をよむならば重罪じゆうざいきへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経をうしない、真言教しんごんきよう昼夜ちゆうやおこない、朝暮ちようぼ伝法でんぽうせしをや。
[91]世親菩せしんぼさつ馬鳴菩めみようぼさつしようをもてだいせるつみをば、したを切らんとこそせしか。世親菩仏説ぶつせつなれども阿含経あごんきようをばたわふれにも舌のうえにをかじとちかひ、馬鳴菩懺悔さんげのために起信論きしんろんをつくりて小乗をやぶり給いき。
[92]嘉祥大師かじようだいしは天台大師をしようじ奉りて、百余人の智者ちしやの前にして五体ごたいを地になげ、へんしんにあせ(汗)をながし、くれないのなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかう(講)ぜじ。弟子のおもてをまほり法華経をよみたてまつれば、我力わがちから此経このきようを知るにに(似)たりとて、天台よりも高僧老僧こうそうろうそうにておはせしが、わざと人のみるときをひ(負)まいらせてかわをこへ、かうざ(高座)にちかづきてせなか(背)にのせまいらせたまいて高座こうざにのぼせたてまつり、結句御臨終けつくごりんじゆうのちには、ずい皇帝こうていにまい(参)らせて、小児しようにが母にをくれたるがごとくにあしをすりてなきたまいしなり。嘉祥大師かじようだいし法華玄ほつけげんを見るに、いたう法華経をほうじたるしよにはあらず。ただ法華経と諸大乗経とはもん浅深せんじんあれども心はひとつとかきてこそ候へ。これ謗法ほうぼう根本こんぽんにて候か。
[93]華厳けごん澄観ちようかん真言しんごん善無畏ぜんむいも大日経と法華経とはひとつとこそかゝれて候へ。嘉祥かじようとが(科)あらば善無畏三蔵ぜんむいさんぞうのがれがたし。
[94]されば善無畏三蔵は中天ちゆうてん国主こくしゆなり。くらいをすてて他国にいたり、殊勝しゆしよう招提しようだいの二人にあひて法華経をうけ、百千の石のとうを立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。
[95]しかれども大日経を習いしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。はじめはいたう其義そのぎもなかりけるが、漢土かんどにわたりて玄宗皇帝げんそうこうていとなりぬ。天台宗をそねみ思う心つきたまいけるかのゆへに、たちまち頓死とんしして、二人の獄卒ごくそつくろがね縄七なわななつつけられて、閻魔王宮えんまおうぐうにいたりぬ。いのちいまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法ほうぼうとやをもひけん、真言しんごん観念かんねんいん真言しんごん等をばなげすてゝ、法華経の今此三界こんしさんがいもんとなえてなわも切れ、かへされたまいぬ。
[96]又雨のいのりををほせつけられたりしに、たちまちに雨はふりたりしかども、大風たいふう吹きて国をやぶる。結句死けつくしたまいてありしには、弟子等集りて臨終りんじゆういみじきやうをほめしかども、無間大城むげんだいじようちにき。
[97]問うて云く、なにをもつてかこれをしる。答えて云く、彼伝かのでんを見るに云く、「今遺形いぎようるにようや加縮小ますますしゆくしよう黒皮隠々こくひいんいんとして骨其露それあらわなり」等云云。の弟子等は死後しご地獄じごくそうあらわれたるをしらずして、とくをあぐなどをもへども、かきあらはせる筆はとがをかけり。死してありければ、身やふやくつづま(縮)りちひさ(小)く、皮はくろ(黒)し、骨あらわ(露)なり等云云。人死してのち、色の黒きは地獄じごくごうさだむる事は仏陀ぶつだ金言きんげんぞかし。善無畏三蔵ぜんむいさんぞう地獄じごくごうはなにごとぞ。幼少ようしようにしてくらいをすてぬ。第一の道心どうしんなり。月氏がつし五十余箇国を修行せり。慈悲じひの余りに漢土かんどにわたれり。天竺てんじく震旦しんたん・日本・一閻浮提いちえんぶだいうちに真言を伝へれいをふるこの人の功徳くどくにあらずや。いかにして地獄じごくにはちけると、後生ごしようををもはん人々は御尋おんたずねあるべし。
[98]金剛智三蔵こんごうちさんぞう南天竺なんてんじく大王だいおう太子たいしなり。金剛頂経こんごうちようきよう漢土かんどにわたす。其徳そのとく善無畏のごとし。又たがいとなれり。しかるに金剛智三蔵勅宣ちよくせんによてあめいのりありしかば七日なのかうちに雨る。天子大てんしおおいよろこばせたもうほどにたちまち大風たいふう吹ききたる。王臣おうしん等けうさめ(興覚)たまいて使つかいをつけてはせ給いしかども、とかうのべてとどまりし也。結句けつく姫宮ひめみや御死去ごしきよありしに、いのりをなすべしとて、しろ殿上でんじようふたりの女子七歳になりしを、たきぎにつみこめてころせしことこそ、無慚むざんにはをぼゆれ。しかれども姫宮ひめみやもいきかへり給はず。
[99]不空三蔵ふくうさんぞう金剛智こんごうち月支がつしよりおんともせり。此等これらこと不審ふしんとやおもひけん。入滅にゆうめつのち月氏がつしかえりて竜智りゆうちい奉り、真言しんごんを習いなを(直)し、天台宗に帰伏きぶくしてありしが、心ばかりはかえれどもはかへる事なし。雨のおんいのりうけたまわりたりしが、三日みつかと申すに雨る。天子てんし悦ばせ給いてわれ御布施おんふせひかせ給う。須臾しゆゆありしかば、大風くだりて内裏だいりをもきやぶり、雲閣月うんかくげつけいの宿所一所ひとところもあるべしともみへざりしかば、天子大てんしおおいに驚きて宣旨せんじなりて風をとどめよ。しばらくありては又吹き、又吹きせしほどに、数日が間やむことなし。結句けつく使つかいをつけてうてこそ、風もやみてありしか。
[100]この三人の悪風あくふう漢土かんど日本の一切の真言師の大風たいふうなり。
[101]さにてあるやらん。ぬる文永十一年四月十二日の大風たいふうは、阿弥陀堂加賀法印あみだどうかがのほういん東寺第一の智者ちしやの雨のいのりにきたりし逆風ぎやくふうなり。善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくう悪法あくほうをすこしもたがへずつたえたりけるか。心にくし心にくし。
[102]弘法大師こうぼうだいしぬる天長てんちよう元年の二月大旱魃だいかんばつのありしに、さきには守敏祈雨しゆびんあまごいして七日がうちに雨をふらす。ただ京中きようちゆうにふりて田舎いなかにそゝがず。つぎ弘法承取こうぼううけとり一七日いちしちにち雨気あまけなし、二七日にしちにちに雲なし。三七日さんしちにちと申せしに、天子てんしより和気わけ真綱まつな使者ししやとして御幣ぬさ神泉苑しんせんえんにまいらせたりしかば雨下事ふること三日。これをば弘法大師並に弟子等の雨をうばひとり、わが雨としていまに四百余年、弘法こうぼうあめという。
[103]慈覚大師じかくだいしゆめ日輪にちりんをい(射)しと、弘法大師の大妄語だいもうごに云く、弘仁こうにん九年の春大疫だいえきをいのりしかば夜中やちゆう大日輪出現だいにちりんしゆつげんせりと云云。成劫じようこうより已来住劫このかたじゆうこうの第九のげん、已上二十九こうあいだ日輪夜中にちりんやちゆうでしという事なし。
[104]慈覚大師じかくだいしゆめ日輪にちりんをいるという。内典ないてん五千七千、外典げてん三千余巻に、日輪にちりんをいるとゆめにみるは吉夢きちむという事有ことありやいなや。修羅しゆら帝釈たいしやくをあだみて日天につてんをいたてまつる。其矢そのやかへりて我がまなこにたつ。いん紂王ちゆうおう日天につてんまとにいてほろぼす。日本の神武天皇じんむてんのう御時おんとき度美長とみのおさ五瀬命いつせのみこと合戦かつせんありしに、みことの手に矢たつ。みことの云く、われはこれ日天ひのかみ子孫うみのこなり。むかい奉りてゆみをひくゆへに、日天につてんのせめをかをほれりと云云。
[105]阿闍世王あじやせおうは仏にしまいらせて、内裏だいりかえりてぎよしん(御寝)なりしが、おどろいて諸臣しよしんむかつて云く、日輪天にちりんそらよりつとゆめにみる。諸臣しよしんの云く、仏の御入滅ごにゆうめつか云云。須跋陀羅しゆばつだらがゆめ又かくのごとし。我国わがくにことにいむ(忌)べきゆめなり。かみをば天照あまてらすという。国をば日本という。
[106]教主釈尊きようしゆしやくそんをば日種につしゆと申す。摩耶夫人日まやぶにんひをはらむとゆめにみてまうけたまえる太子たいしなり。慈覚大師じかくだいしは大日如来を叡山えいざんに立てしやかぶつをすて、真言しんごんの三部経をあがめて法華経の三部のてきとなりしゆへに、此夢出現このゆめしゆつげんせり。
[107]れいせば漢土かんど善導ぜんどうはじめ密州みつしゆう明勝みようしようといゐし者に値うて、法華経をよみたりしが、のちには道綽どうしやくに値うて法華経をすて、観経かんぎようりてしよをつくり、法華経をば千中無一せんちゆうむいつ念仏ねんぶつをば十即十生百即百生じつそくじつしようひやくそくひやくしようと定めて、此義このぎじようぜんがために阿弥陀仏あみだぶつ御前おんまえにして祈誓きせいをなす。仏意ぶつちかなうやいなや、毎夜まいよ夢のなかに常にひとりそう有り、きたり指授しじゆすと云云。乃至一経法もつぱらきようぼうごとくせよ乃至観念法門経かんねんほうもんぎよう等云云。法華経には「もし法を聞く者有れば一として成仏じようぶつせざる無し」と。善導ぜんどうは「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火すいか也。善導は観経かんぎようをば十即十生百即百生じつそくじつしようひやくそくひやくしようと。無量義経むりようぎきように云く、観経かんぎようは「未だ真実をあらわさず」等云云。無量義経と楊柳房ようりゆうぼうとは天地てんち也。これ阿弥陀仏あみだぶつの僧と成りて来つてまことなりとしようせばあに真事ならんや。そもそも阿弥陀は法華経のに来りて、したをばだしたまはざりけるか。観音かんのん勢至せいしは法華経のにはなかりけるか。これをもてをもへ、慈覚大師じかくだいしの御夢はわざわひなり。
[108]問うて云く、弘法大師こうぼうだいし心経しんぎよう秘鍵ひけんに云く「とき弘仁こうにん九年の春天下大疫てんかたいえきす。ここ皇帝自こうていみずか黄金おうごん筆端ひつたん紺紙こんし爪掌そうしようにぎりて般若心経はんにやしんぎよう一巻を書写しよしやし奉りたもう。予講読よこうどくせんのつとりて経旨きようしむねつづる。いまだ結願けちがんことばかざるに蘇生そせい族途やからみちたたずむ。夜変よへんじて日光赫々につこうかくかくたり。愚身ぐしん戒徳かいとくあらず。金輪こんりん御信力ごしんりき所為しよいなり。ただ神舎じんしやもうでんともがらはこの秘鍵ひけんじゆたてまつれ。昔予鷲峰説法よじゆほうせつぽうむしろばいしてしたしくその深文じんもんを聞きたてまつる。あにそのたつせざらんや」等云云。
[109]孔雀経くじやくきよう音義おんぎに云く「弘法大師帰朝こうぼうだいしきちよう後真言宗のちしんごんしゆうを立てんとほつ諸宗しよしゆう朝廷ちようてい群集ぐんじゆうす。即身成仏そくしんじようぶつの義を疑う。大師智だいしちけんいんむすびて南方なんぽうむかうに面門俄めんもんにわかひらいて金色こんじき毘盧びるしやな即便本体すなわちほんたい還帰げんきす。入我我入にゆうががにゆう事即身頓証ことそくしんとんしよううたがいこの日釈然しやくねんたり。しかるに真言瑜伽しんごんゆが宗秘密曼荼羅しゆうひみつまんだら道彼みちかときより建立こんりゆうしぬ」。又云く「この時に諸宗の学徒がくと大師にして始めて真言を請益しようやく習学しゆうがくす。三論さんろん道昌どうしよう法相ほつそう源仁げんにん華厳けごん道雄どうゆう天台てんだい円澄えんちよう等皆そのたぐいなり」。
[110]弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟きちようはんしゆう日発願ひほつがんして云く所学しよがく教法きようぼうもし感応かんのう地有ちあらばこの三鈷さんこそのところいたるべしと。よつて日本のかたむけ三鈷さんこはるかにんでくもる。十月に帰朝きちようす」云云。又云く「高野山こうやさんした入定にゆうじようところむ。乃至海上かいじよう三鈷さんこあらたにここり」等云云。大師の徳無量とくむりようなり。その両三を示す。かくのごとくの大徳だいとくあり。いかんがこの人を信ぜずして、かへりて阿鼻地獄あびじごくつるといはんや。
[111]答えて云く、あおいで信じ奉ることかくのごとし。ただいにしえの人々も不可思議ふかしぎとくありしかども、仏法の邪正じやしようそれにはよらず。外道げどうあるい恒河ごうがみみに十二年とどめ、あるい大海だいかいをすひ(吸)ほし、あるい日月にちがつを手ににぎり、あるい釈子しやくし牛羊ごようとなしなんどせしかども、いよいよ大慢だいまんをこして生死しようじごうとこそなりしか。これをば天台云く、「名利みようりもと見愛けんあいす」とこそしやくせられて候へ。光宅こうたくたちまちに雨をふら須臾しゆゆに花を感ぜしをも、妙楽みようらくは「感応かんのうかくのごとくなれどもなおかなわず」とこそかかれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて須臾しゆゆ甘雨かんうふらせ、伝教大師の三日がうち甘露かんろの雨をふらしてをはせしも、それをもつて仏意ぶつちかなうとはをほせられず。
[112]弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論けろんほうと定め、しやかぶつ無明むみよう辺域へんいきとかかせ給へるおんふで(筆)は、智慧ちえかしこからん人はもちうべからず。いかにいわうや、かみにあげられて候とくどもは不審ふしんあることなり。
[113]弘仁こうにん九年の春天下大疫てんかたいえき等云云。春は九十日、いずれの月いずれの日ぞ。これ一。又弘仁九年には大疫たいえきありけるか。これ二。又「変じて日光赫赫につこうかくかくたり」と云云。此事このこと第一の大事だいじなり。弘仁九年は嵯峨天皇さがてんのう御宇ぎようなり。左史右史さしうしせたりや。これ三。たとせたるとも信じがたき事なり。成劫じようこう二十劫・住劫じゆうこう九劫、已上二十九劫が間にいまだ無き天変てんぺん也。夜中やちゆう日輪にちりん出現しゆつげんせる事如何いかん。又如来によらい一代の聖教しようぎようにもみへず。未来みらい夜中やちゆう日輪出にちりんいずべしとは三皇五帝さんこうごてい三墳五典さんぷんごてんにもせず。仏経ぶつきようのごときんば、減劫げんこうにこそふたつ日三ひみつ乃至ななつずべしとは見えたれども、かれはひるのことぞかし、よる出現しゆつげんせば東西北の三方は如何いかんたと内外ないげてんせずとも、げんに弘仁九年の春、いずれの月、いずれの日、いずれの夜の、いずれのときに日ずるという。公家くげ諸家しよけ叡山えいざん等の日記につきあるならば、すこし信ずるへんもや。
[114]次下つぎしもに、「昔予鷲峰説法むかしよじゆほうせつぽうむしろばいしてしたしくその深文じんもんを聞く」等云云。此筆このふでを人に信ぜさせしめんがために、かまへだす大妄語だいもうごか。されば霊山りようぜんにして法華は戯論けろん、大日経は真実と仏の説き給いけるを、阿難あなん文殊もんじゆあやまりて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき婬女いんによ破戒はかい法師ほつし等がうたをよみてふらす雨を、三七日さんしちにちまでふらさざりし人はかゝるとくあるべしや。これ四。
[115]孔雀経くじやくきよう音義おんぎに云く、「大師ちけんいんを結びて南方なんぽうむかうに面門俄めんもんにわかにひらいて金色こんじき毘盧びるしやなる」等云云。これいずれの王、いずれの年時ねんじぞ。漢土かんどには建元けんげんを初めとし、日本には大宝たいほうを初めとして、緇素しそ日記につき大事だいじには必ず年号ねんごうのあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。
[116]つぎに云く、「三論さんろん道昌どうしよう法相ほつそう源仁げんにん華厳けごん道雄どうゆう天台てんだい円澄えんちよう」等云云。そもそ円澄えんちよう寂光大師じやつこうだいし天台第二の座主ざすなり。其時何そのときなんぞ第一の座主義真ざすぎしん根本こんぽん伝教大師でんぎようだいしをばさざりけるや。円澄えんちようは天台第二の座主ざす、伝教大師の御弟子みでしなれども、又弘法大師こうぼうだいしの弟子なり。弟子をさんよりは、三論さんろん法相ほつそう華厳けごんよりは、天台の伝教でんぎよう義真ぎしんの二人をすべかりけるか。しか此日記このにつきに云く、「真言瑜伽しんごんゆが宗秘密曼荼羅しゆうひみつまんだら道彼みちかときより建立こんりゆうしぬ」等云云。此筆このふで伝教でんぎよう義真ぎしん御存生ごぞんしようかとみゆ。弘法こうぼう平城天皇大同へいぜいてんのうだいどう二年より弘仁こうにん十三年まではさかん真言しんごんをひろめし人なり。其時そのときこの二人げんにをはします。又義真ぎしん天長てんちよう十年までおはせしかば、其時そのときまで弘法こうぼう真言しんごんはひろまらざりけるか。かたがた不審ふしんあり。
[117]孔雀経くじやくきようしよ弘法こうぼうの弟子真済しんぜい自記じきなり。信じがたし。又邪見者じやけんしやか。公家くげ諸家しよけ円澄えんちようをひかるべきか。又道昌どうしよう源仁げんにん道雄どうゆうたずぬべし。
[118]面門俄めんもんにわかに開いて金色こんじき毘盧びるしやなる」等云云。面門めんもんとはくちなり。口の開けたりけるか。眉間みけん開くとかゝんとしけるが、あやまりて面門とかけるか。ぼう(謀)書をつくるゆへにかかるあやまりあるか。
[119]大師智だいしちけんいんむすびて南方なんぽうむかうに面門俄めんもんにわかにひらいて金色こんじき毘盧びるしやなる」等云云。涅槃経ねはんぎようの五に云く「かしよう仏にもうしてもうさく、世尊我せそんわれ四種ししゆひとらず、なにもつてのゆえに。瞿師羅経くしらきようなかごとき、仏瞿師羅くしらために説きたまわく、もし天魔梵破壊てんまぼんはえせんとほつするがために変じて仏のかたちり、三十二相八十種好しゆごう具足ぐそく荘厳しようごん円光一尋面部円満えんこういちじんめんぶえんまんなることなお月の盛明じようみようなるがごとく、眉間みけん毫相ごうそう白きこと珂雪かせつえ、乃至左のわきより水を出し右のわきより火を出す」等云云。又六巻に云く「仏かしようげたまわく、我般涅槃われはつねはんして乃至後是のちこ魔波旬漸まはじゆんようやくまさにわれ正法しようぼう沮壊そえすべし。乃至して阿羅漢あらかん及び仏の色身しきしん魔王まおうこの有漏うろかたちもつ無漏むろ正法しようぼうやぶらん」等云云。
[120]弘法大師こうぼうだいしは法華経を華厳経けごんきよう大日経だいにちきように対して戯論けろん等云云。しか仏身ぶつしんげんず。これ涅槃経には魔有漏まうろかたちをもつて仏となつて我正法わがしようぼうをやぶらんと記し給う。涅槃経ねはんぎよう正法しようぼうは法華経なり。ゆえに経の次下つぎしももんに云く「ひさしすで成仏じようぶつす」。又云く「法華ほつけなかごとし」等云云。しやか多宝たほう十方じつぽう諸仏しよぶつは一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。弘法大師は仏身ぶつしんげんじて華厳経・大日経に対して法華経は戯論けろん等云云。仏説ぶつせつまことならば弘法こうぼう天魔てんまにあらずや。
[121]三鈷さんこことこと不審ふしんなり。漢土かんどの人の日本にきたりてほり(掘)いだすとも信じがたし。已前いぜんに人をやつかわしてうづみ(埋)けん。いわうや弘法こうぼうは日本の人、かゝる誑乱其数おうらんそのかず多し。此等これらをもつて仏意ぶつちかなう人の証拠しようことはしりがたし。
[122]されば此真言このしんごん禅宗ぜんしゆう念仏ねんぶつ等やうやくかうなりきたほどに、人王にんのう八十二代尊成隠岐たかなりおき法王権太夫殿ほうおうごんのたいふどのうしなわんと年ごろはげませ給いけるゆへに、国主こくしゆなればなにとなくとも、師子王ししおううさぎふくするがごとく、たかきじるやうにこそあるべかりしうえ叡山えいざん東寺とうじ園城おんじよう奈良七大寺ならしちだいじ天照太神てんしようだいじん正八幡しようはちまん山王さんのう加茂かも春日かすが等に数年すうねんが間、あるい調伏ちようぶくあるいかみに申させ給いしに、二日三日だにもさゝへかねて、佐渡国さどのくに阿波国あわのくに隠岐国おきのくに等にながしせてついにかくれさせ給いぬ。
[123]調伏ちようぶく上首御室じようしゆおむろ但東寺ただとうじをかへらるゝのみならず、まなこのごとくあひ(愛)せさせ給いし第一の天童勢多伽てんどうせいたかくび切られたりしかば、調伏ちようぶくのしるし還著於本人げんぢやくおほんにんのゆへとこそ見へて候へ。これはわづかのことなり。此後定こののちさだんで日本の国臣万民一人こくしんばんみんいちにんもなく、乾草かれくさみて火をはなつがごとく、大山たいせんのくづれてたにをうむるがごとく、が国他国たこくにせめらるる事出来しゆつたいすべし。
[124]此事このこと日本国の中にただ日蓮一人ばかりしれり。いゐいだすならば、いん紂王ちゆうおう比干ひかんむねをさきしがごとく、桀王けつおうりゆうほうくびりしがごとく、檀弥羅王だんみらおう師子尊者ししそんじやくびねしがごとく、じく道生どうしようながされしがごとく、法道三蔵ほうどうさんぞうのかなやき(火印)をや(焼)かれしがごとくならんずらんとはかねて知りしかども、法華経には「我身命われしんみようあいせず但無上道ただむじようどうしむ」ととかれ、涅槃経には「寧身命むしろしんみよううしなうともおしえかくさざれ」といさめ給えり。
[125]今度命こたびいのちをおしむならば、いつの世にか仏になるべき、又いかなる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、あんにたがはず、あるいは所をおひ、あるいはのり、あるいはうたれ、あるいきずをかうふるほどに、ぬる弘長こうちよう元年辛酉かのととり五月十二日に御勘気ごかんきをかうふりて、伊豆国伊東いずのくにいとうにながされぬ。又同じき弘長こうちよう三年癸亥みずのとい二月二十二日にゆりぬ。
[126]其後弥菩提心強盛そののちいよいよぼだいしんごうじようにして申せば、いよいよ大難だいなんかさなること大風たいふう大波たいはおこるがごとし。昔の不軽菩ふきようぼさつじようもくのせめも我身わがみにつみしられたり。覚徳比丘かくとくびく歓喜仏かんぎぶつすえ大難だいなんこれにはおよばじとをぼゆ。日本六十六箇国嶋二しまふたつなかに一日片時かたときいずれの所にすむべきやうもなし。いにしえは二百五十戒をたもちて忍辱にんにくなる事羅云らうんのごとくなる持戒じかい聖人しようにんも、富楼ふるなのごとくなる智者も、日蓮にいぬれば悪口あつくをはく。正直しようじきにして魏徴ぎちよう忠仁公ちゆうじんこうのごとくなる賢者けんじや等も、日蓮を見てはをまげてとをこなう。いわうや世間せけんつねの人々は犬のさる(猿)をみたるがごとく、猟師りようし鹿しかをこめたるににたり。
[127]日本国のなかに一人としてゆえこそあるらめという人なし。道理どうりなり。人ごとに念仏ねんぶつを申す、人にむかうごとに念仏ねんぶつ無間むげんつるというゆへに。人ごとに真言しんごんとうとむ、真言は国をほろぼす悪法あくほうという。国主こくしゆ禅宗ぜんしゆうとうとむ、日蓮は天魔てんま所為しよいというゆへに。われまねけるわざわひなれば人ののるをもとがめず。とがむとても一人ひとりならず。つをもいたまず、もとよりぞんぜしがゆへに。
[128]かういよいよもをしまずせめしかば、禅僧ぜんそう数百人、念仏者ねんぶつしや数千人、真言師しんごんし百千人、あるい奉行ぶぎようにつき、あるいはきり人(権家)につき、あるいはきり女房にようぼう(権閨)につき、あるい後家尼御前ごけあまごぜん等につきて無尽むじんのざんげんをなせしほどに、最後さいごには天下てんか第一の大事だいじ日本国をうしなわんとじゆそ(咀)する法師ほつしなり。故最明寺殿こさいみようじどの極楽寺殿ごくらくじどの無間地獄むげんじごくちたりと申す法師なり。御尋おんたずねあるまでもなし。但須臾ただしゆゆくびをせめ。弟子等をば又あるいくびり、あるい遠国おんごくにつかはし、あるいろうに入れよと、あまごぜんたちいからせ給いしかば、そのまゝおこなわれけり。
[129]ぬる文永八年辛未かのとひつじ九月十二日の夜はさがみのくにたつのくちにてらるべかりしが、いかにしてやありけん、其夜そのよはのびて依智えちというところへつきぬ。又十三日の夜はゆり(許)たりととどめき(多口)しが、又いかにやありけん、さど(佐渡)の国までゆく。今日きよう切る、あす切る、といひしほどに四箇年というに、結句けつくぬる文永十一年太歳甲戌たいさいきのえいぬ二月十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉かまくらに入り、同じき四月の八日、平左衛門尉へいのさえもんのじよう見参けんざんして、やうやうのこと申したりし中に、今年は蒙古もうこ一定いちじようよすべしと申しぬ。同じき五月の十二日にかまくら(鎌倉)をいでて、此山このやまに入れり。これはひとへに父母ふぼおん師匠ししようおん三宝さんぼうの恩・国恩をほう(報)ぜんがために、をやぶり、いのちをすつれども、やぶれざればさてこそ候へ。又賢人けんじんの習い、三度みたび国をいさむるに用いずば、山林さんりんにまじわれということは、さだまるれい(例)なり。
[130]此功徳このくどくさだめて上三宝かみさんぼう下梵天しもぼんてん帝釈たいしやく日月にちがつまでもしろしめしぬらん。父母ふぼ故道善房こどうぜんぼう聖霊しようりようたすかり給うらん。
[131]但疑ただうたがおもうことあり。目連尊者もくれんそんじやたすけんとおもいしかども母の青提女しようだいによ餓鬼道がきどうちぬ。大覚世尊だいがくせそん御子みこなれども善星比丘ぜんしようびく阿鼻地獄あびじごくちぬ。これは力のまやすく(救)はんとをぼせども自業自得果じごうじとくかのへん(辺)はすくひがたし。
[132]故道善房こどうぜんぼうはいたう弟子でしなれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病おくびようなりしうえ清澄きよすみをはなれじとしゆうせし人なり。地頭景信じとうかげのぶがをそろしといゐ、提婆だいば瞿伽利くぎやりにことならぬ円智えんち実城じつじよううえしたとにてをどせしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば後生ごしようはいかんがと疑う。但一ただひとつ冥加みようがには景信かげのぶ円智えんち実城じつじようとがさきにゆきしこそ、ひとつのたすかりとはをもへども、彼等かれらは法華経の十羅刹じゆうらせつのせめをかほりてはやくうせぬ。のちにすこし信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりきなり。ひるのともしび(灯)なにかせん。其上そのうえいかなることあれども弟子でしなんどいう者は不便ふびんなる者ぞかし。力なき人にもあらざりしが、さど(佐渡)の国までゆきしに、一度もとぶら(訪)はれざりし事は信じたるにはあらぬぞかし。
[133]それにつけてもあさましければ、彼人かのひと御死去ごしきよときくには、火にもり、水にもしずみ、はしり(走)たちてもゆひて、御はか(墓)をもたゝいて経をも一巻読誦どくじゆせんとこそおもへども、賢人けんじんのならひ、心にはとんせとはをもはねども、人はとんせとこそをもうらんに、ゆへもなくはしりずるならば、すへへもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。
[134]ただ各々おのおの二人は日蓮が幼少ようしよう師匠ししようにてをはします。勤操僧正ごんそうそうじよう行表僧正ぎようひようそうじようの伝教大師の御師おんしたりしが、かへりて御弟子みでしとならせ給いしがごとし。日蓮が景信かげのぶにあだまれて清澄山きよすみやまでしに、おひ(追)てしのびでられたりしは、天下てんか第一の法華経の奉公ほうこうなり。後生ごしよううたがいおぼすべからず。
[135]問うて云く、法華経一部八巻二十八品の中に何物なにもの肝心かんじんなる。
[136]答えて云く、華厳経けごんきよう肝心かんじん大方広仏華厳経だいほうこうぶつけごんきよう阿含経あごんきよう肝心かんじん仏説中阿含経ぶつせつちゆうあごんきよう大集経だいしつきよう肝心かんじん大方等大集経だいほうどうだいしつきよう般若経はんにやぎよう肝心かんじん摩訶般若波羅蜜経まかはんにやはらみつきよう双観経そうかんぎよう肝心かんじん仏説無量寿経ぶつせつむりようじゆきよう観経かんぎよう肝心かんじん仏説観無量寿経ぶつせつかんむりようじゆきよう阿弥陀経あみだきよう肝心かんじん仏説阿弥陀経ぶつせつあみだきよう涅槃経ねはんぎよう肝心かんじん大般涅槃経だいはつねはんぎよう。かくのごとくの一切経は皆如是我聞によぜがもんかみ題目だいもく其経そのきよう肝心かんじんなり。
[137]大は大につけ、小は小につけて、題目だいもくをもて肝心かんじんとす。大日経だいにちきよう金剛頂経こんごうちようきよう蘇悉地経そしつちきよう等、亦復またまたかくのごとし、仏も又かくのごとし。大日如来だいにちによらい日月灯明仏にちがつとうみようぶつ燃灯仏ねんとうぶつ大通仏だいつうぶつ雲雷音王仏うんらいおんのうぶつ是等これらの仏も又名のうちその仏の種々のとくをそなへたり。今の法華経もまたもつてかくのごとし。如是我聞によぜがもんうえの妙法蓮華経の五字はそく一部八巻の肝心かんじん。亦復一切経いつさいきよう肝心かんじん一切諸仏いつさいしよぶつぼさつ二乗にじよう天人てんにん修羅しゆら竜神りゆうじん等の頂上ちようじよう正法しようぼうなり。
[138]問うて云く、南無妙法蓮華経なむみようほうれんげきようと心もしらぬ者のとなうると、南無大方広仏華厳経なむだいほうこうぶつけごんきようと心もしらぬ者のとなうると斉等さいとうなりや。浅深せんじん功徳差別くどくしやべつせりや。答えて云く、浅深せんじん等あり。
[139]疑て云く、其心如何そのこころいかん。答えて云く、小河しようがつゆしたたりみぞとをばおさむれども、大河たいがををさめず。大河たいがつゆ乃至小河しようがおさむれども、大海だいかいををさめず。阿含経あごんきよう井江せいこう露涓ろけんををさめたる小河しようがのごとし。方等経ほうどうきよう阿弥陀経あみだきよう大日経だいにちきよう華厳経けごんきよう等は小河しようがををさむる大河たいがなり。法華経はつゆしたたりこう小河しようが大河たいが天雨てんう等の一切の水をいつたいももらさぬ大海だいかいなり。
[140]たとへば熱者あつきもの大寒水だいかんすいほとりにいねつればすずしく、小水しようすいほとりふしぬればくるしきがごとし。五逆謗法ごぎやくほうぼう大一闡提人だいいつせんだいにん阿含あごん華厳けごん観経かんぎよう大日経だいにちきよう等の小水しようすいほとりにては大罪だいざい大熱だいねつさん(散)じがたし。法華経の大雪山だいせつせんうえふしぬれば五逆ごぎやく誹謗ひぼう一闡提いつせんだい等の大熱忽だいねつたちまちに散ずべし。
[141]されば愚者ぐしやは必ず法華経を信ずべし。各々おのおの経々の題目だいもくやすこと同じといへども、愚者ぐしや智者ちしやとのとなうる功徳くどく天地雲泥てんちうんでいなり。たとへば大綱おおつな大力だいりきも切りがたし。小力しようりきなれども小刀こがたなをもてたやすくこれをきる。たとへば堅石かたきいしをば鈍刀にぶきかたなをもてば大力だいりきわりがたし。利剣ときつるぎをもてば小力しようりきわりぬべし。たとへばくすりはしらねどもふくすればやまいやみぬ。しよくふくせどもやまいやまず。たとへば仙薬せんやくいのちをのべ、凡薬ぼんやくやまいをいやせども、いのちをのべず。
[142]疑つて云く、二十八品のなかいずれ肝心かんじんぞや。答えて云く、あるいは云く、品々ほんぼんことしたがいて肝心かんじんなり。あるいは云く、方便品ほうべんぽん寿量品じゆりようほん肝心なり。あるいは云く、方便品ほうべんぽん肝心なり。あるいは云く、寿量品じゆりようほん肝心なり。あるいは云く、*かいにゆう肝心なり。あるいは云く、実相じつそう肝心なり。
[143]問うて云く、なんじが心如何いかん。答う、南無妙法蓮華経肝心なり。其証如何そのしよういかん。答えて云く、阿難あなん文殊もんじゆ等、如是我聞によぜがもん等云云。問うて云く、心如何いかん。答えて云く、阿難あなん文殊もんじゆとは八年があいだこの法華経の無量むりよう一句一偈いつくいちげも残さず聴聞ちようもんしてありしが、仏の滅後に結集けつじゆうの時、九百九十九人の阿羅漢あらかんが筆をめてありしに、妙法蓮華経とかゝせて如是我聞によぜがもんとなえさせ給いしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。
[144]されば過去の灯明仏とうみようぶつの時より法華経をこうぜし光宅寺こうたくじ法雲法師ほううんほつしは、「如是によぜとはまさ所聞しよもんつたえんとして前題ぜんだいに一部をぐるなり」等云云。霊山りようぜんにまのあたりきこしめしてありし天台大師は「如是によぜとは所聞しよもん法体ほつたいなり」等云云。章安大師しようあんだいしの云く、「記者釈きしやしやくしていわく、けだ序王じよおうとは経の玄意げんいじよし玄意は文心もんしんぶ」等云云。此釈このしやく文心もんしんとは題目だいもくは法華経の心也。妙楽大師みようらくだいし云く、「一代いちだい教法きようぼうおさむること法華の文心もんしんよりず」等云云。
[145]天竺てんじくは七十箇国なり。総名そうみよう月氏国がつしこく。日本は六十箇国、総名は日本国。月氏がつしの名の内に七十箇国乃至人畜珍宝にんちくちんぽうみなあり。日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽でわ奥州おうしゆうこがねも、乃至国の珍宝人畜ちんぽうにんちく乃至寺塔じとう神社じんじやも、みな日本と申す二字の名のうちおさまれり。天眼てんげんをもつては、日本と申す二字を見て、六十六国乃至人畜にんちく等をみるべし。法眼ほうげんをもつては、人畜にんちく等のここかしこうまるをもみるべし。たとへば、人の声をきいてたいをしり、あとをみて大小をしる。はちすをみて池の大小をはかり、雨をみて竜の分斉ぶんざいをかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。
[146]阿含経あごんきよう題目だいもくには大旨おおむね一切はあるやうなれども、但小釈ただしようしやか一仏のみありて他仏たぶつなし。華厳経けごんきよう観経かんぎよう大日経だいにちきよう等には又一切るやうなれども、二乗にじようを仏になすやうと久遠実成*くおんじつじようしやかぶつなし。れいせばはなさいてこのみならず。いかずちなつて雨ふらず。つづみあておとなし。まなこあてものをみず。女人によにんあて子をうまず。人あていのちなし、又たましいなし。大日だいにち真言しんごん薬師やくし真言しんごん阿弥陀あみだ真言しんごん観音かんのん真言しんごん等又かくのごとし。経経きようぎようにしては大王だいおう須弥山しゆみせん日月にちがつ良薬ろうやく如意珠によいじゆ利剣りけん等のやうなれども、法華経の題目だいもくに対すれば雲泥うんでいの勝劣なるのみならず、皆各々当体おのおのとうたい自用じゆううしなふ。
[147]れいせば衆星しゆせいの光のひとつ日輪にちりんにうばはれ、もろもろくろがねひとつ磁石じしやくに値うて利精りせいのつ(尽)き、大剣だいけん小火しようかに値てゆううしない、牛乳ごにゆう驢乳ろにゆう等の師子王ししおうの乳に値うて水となり、衆狐しゆうこ術一犬じゆついつけんに値うて失い、狗犬くけん小虎しようこに値うていろを変ずるがごとし。南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏のゆうも南無大日真言のゆう観世音菩かんぜおんぼさつゆうも一切の諸仏諸経諸菩ゆう、皆ことごとく妙法蓮華経のゆうに失はる。の経々は妙法蓮華経のゆうからずば皆いたづらのもの(徒物)なるべし。当時眼前とうじがんぜんのことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏のゆうは月のかくるがごとく、しおのひる(干)がごとく、秋冬の草のかるゝがごとく、こおり日天につてんにとくるがごとくなりゆくをみよ。
[148]問うて云く、此法このほう実にいみじくばなどかしよう阿難あなん馬鳴めみよう竜樹りゆうじゆ無著むじやく天親てんじん南岳なんがく天台てんだい妙楽みようらく伝教でんぎよう等は、善導ぜんどうが南無阿弥陀仏とすゝめて漢土かんど弘通ぐづうせしがごとく、慧心えしん永観ようかん法然ほうねんが日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとくすゝめ給はざりけるやらん。
[149]答えて云く、此難このなんいにしえなんなり。今はじめたるにはあらず。馬鳴めみよう竜樹菩りゆうじゆぼさつ等は仏滅後ぶつめつご六百年七百年等の大論師だいろんじなり。この人々にいでゝ大乗経を弘通ぐづうせしかば、諸々の小乗の者疑つて云く、かしよう阿難あなん等は仏の滅後二十年四十年住寿じゆうじゆし給いて、正法しようぼうをひろめ給いしは如来一代の肝心かんじんをこそ弘通ぐづうし給いしか。しかるにこの人々は但苦ただくくう無常むじよう無我むがの法門をこそせんとし給いしに、今馬鳴いまめみよう竜樹りゆうじゆ等はかしこしといふともかしよう阿難あなん等にはすぐべからず〈これ一〉。かしようは仏にあひ(値)まいらせてさとりをえたる人なり。この人々は仏にあひたてまつらず〈是二〉。外道げどう常楽我浄じようらくがじようと立てしを、仏でさせ給いてくう無常むじよう無我むがと説かせ給いき。のものどもは常楽我浄といへり〈是三〉。されば仏も御入滅ごにゆうめつなりぬ。又かしよう等もかくれさせ給いぬれば、第六天の魔王まおうこのものどもがに入りかはりて仏法ぶつぽうをやぶり、外道げどうほうとなさんとするなり。されば仏法ぶつぽうのあだをばこうべをわれ、くびをきれ、いのちをた(断)て、じきとどめよ、国を追へと、もろもろの小乗の人々申せしかども、馬鳴竜樹めみようりゆうじゆ等は但一二人ただいちににんなり。昼夜ちゆうや悪口あつくの声をきき、朝暮ちようぼじようもくをかうふ(被)りしなり。しかれどもこの二人は仏の御使おんつかいぞかし。まさし摩耶経まやきようには六百年に馬鳴出めみよういで、七百年に竜樹出りゆうじゆいでんと説かれて候。其上そのうえ楞伽経りようがきよう等にもせられたり。又付法蔵経ふほうぞうきようには申すにをよばず。されどももろもろの小乗のものどもは用いず。但理不尽ただりふじんにせめしなり。「如来現在猶多怨嫉況滅度後によらいげんざいゆたおんしつきようめつどご」の経文は此時このときにあたりて少しつみしられけり。提婆菩だいばぼさつ外道げどうにころされ、師子尊者ししそんじやくびをきられし、此事このことをもつておもひやらせたまへ。
[150]仏滅後ぶつめつご一千五百余年にあたりて、月氏がつしよりは東に漢土かんどといふ国あり。ちんずいに天台大師出世しゆつせす。この人の云く、如来によらい聖教しようぎように大あり小あり。けんありみつあり。ごんありじつあり。かしよう阿難あなん等は一向いつこうに小を弘め、馬鳴めみよう竜樹りゆうじゆ無著むじやく天親てんじん等は権大乗ごんだいじようを弘めて、実大乗じつだいじようの法華経をばあるい但指ただゆびをさしてをかくし、あるいは経のおもてをのべて始中終しちゆうじゆうをのべず。或は迹門*しやくもんをのべて本門*ほんもんをあらはさず。或は本迹ほんじやくあつて観心*かんじんなしといひしかば、南三北七*なんさんほくしちの十流がすえ、数千万人ときをつくりどつとわらふ。世のすえになるまゝに不思議ふしぎ法師ほつしも出現せり。時にあたりて我等われら偏執へんしゆうする者はありとも、後漢ごかん永平えいへい十年丁卯ひのとうとしより今陳いまちんずいにいたるまでの三蔵人師さんぞうにんし二百六十余人を、ものもしらずと申すうえ謗法ほうぼうの者なり、悪道あくどうつといふ者出来しゆつたいせり。あまりのものくるはしさに、法華経をきたたまへる羅什三蔵らじゆうさんぞうをも、ものしらぬ者と申す也。漢土かんどはさてもをけ、月氏がつし大論師竜樹だいろんじりゆうじゆ天親てんじん等の数百人の四依*しえぼさつもいまだ実義じつぎをのべたまはずといふなり。これをころしたらん人はたかをころしたるものなり。おにをころすにもすぐべしとのゝしりき。
[151]妙楽大師みようらくだいしの時、月氏がつしより法相ほつそう真言しんごんわたり、漢土かんど華厳宗けごんしゆうの始まりたりしを、とかくせめしかば、これも又さはぎしなり。
[152]日本国には伝教大師が仏滅後ぶつめつご一千八百年にあたりていでさせ給い、天台の御釈おんしやくを見て欽明きんめいより已来このかた二百六十余年が間の六宗をせめ給いしかば、在世ざいせ外道げどう漢土かんど道士どうし、日本に出現せりとほうぜしうえ仏滅後ぶつめつご一千八百年が間、月氏がつし漢土かんど・日本になかりし円頓えんどん大戒だいかいてんというのみならず、西国さいごく観音寺かんのんじ戒壇かいだん東国下野とうごくしもつけ小野寺おのでら戒壇かいだん中国大和国東大寺ちゆうごくやまとのくにとうだいじ戒壇かいだんは、おなじ小乗臭糞しようじようしゆうふんかいなり、瓦石がしやくのごとし。それたも法師ほつし等は野干猿猴やかんえんこう等のごとしとありしかば、あら不思議ふしぎや、法師ほつしににたる大蝗虫おおいなむし、国に出現せり。仏教のなえ一時にうせなん。いんちゆうけつ法師ほつしとなりて日本にうまれたり。後周こうしゆう宇文うぶんとう武宗ぶそうふたたび世に出現せり。仏法も但今失ただいまうせぬべし。国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師ほつし出現せば、修羅しゆら帝釈たいしやくと、項羽こうう高祖こうそと、一国に並べるなるべし。諸人しよにん手をたゝき、舌をふるふ。在世ざいせには仏と提婆だいばふたつ戒壇かいだんありてそこばくの人々ににき。されば他宗にはそむくべし。我師わがし天台大師の立て給はざる円頓えんどん戒壇かいだんを立つべしという不思議ふしぎさよ。あらおそろしおそろしとのゝし(罵)りあえりき。されども経文分明きようもんふんみようにありしかば、叡山えいざん大乗戒壇だいじようかいだんすでに立てさせ給いぬ。
[153]されば内証ないしようは同じけれども、法の流布るふかしよう阿難あなんよりも馬鳴めみよう竜樹りゆうじゆ等はすぐれ、馬鳴めみよう等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教はえさせ給いたり。世末よすえになれば、人のはあさく仏教はふかくなることなり。れいせば軽病けいびよう凡薬ぼんやく重病じゆうびようには仙薬せんやく弱人よわきひとにはつよきかたうど(方人)有りてたすくるこれなり。
[154]問うて云く、天台伝教の弘通ぐづうし給わざる正法しようぼうありや。答えて云く、有り。求めて云く、何物なにものぞや。答えて云く、みつあり。末法まつぽうのために仏とどめ置き給う。かしよう阿難あなん等、馬鳴めみよう竜樹りゆうじゆ等、天台てんだい伝教でんぎよう等の弘通ぐづうせさせ給はざる正法しようぼうなり。
[155]求めて云く、其形貌如何そのぎようみよういかん。答えて云く、ひとつには日本乃至一閻浮提いちえんぶだい一同に本門*ほんもん教主釈尊きようしゆしやくそんを本尊とすべし。所謂宝塔いわゆるほうとううち多宝しやかたほうそと諸仏しよぶつならび上行*じようぎよう等の四菩脇士しぼさつきようじとなるべし。ふたつには本門ほんもん戒壇かいだんみつには日本乃至漢土月氏一閻浮提かんどがつしいちえんぶだいに人ごとに有智無智うちむちをきらはず、一同に他事たじをすてて南無妙法蓮華経ととなうべし。
[156]此事このこといまだひろまらず。一閻浮提いちえんぶだいうち仏滅後ぶつめつご二千二百二十五年が間、一人もとなえず、日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまずとなうるなり。
[157]れいせば風に随つてなみの大小あり。たきぎによて火の高下こうげあり。いけに随つてはちすの大小あり。雨の大小は竜による。根ふかければ枝しげし。みなもと遠ければながれながしというこれなり。しゆうの七百年は文王ぶんのう礼孝れいこうによる。しんほどもなし、始皇しこう左道さどうなり。
[158]日蓮が慈悲曠大じひこうだいならば、南無妙法蓮華経は万年まんねんほか未来までもながるべし。日本国の一切衆生いつさいしゆじよう盲目もうもくをひらける功徳くどくあり。無間地獄むげんじごくみちをふさぎぬ。此功徳このくどくは伝教天台にもへ、竜樹りゆうじゆかしようにもすぐれたり。極楽ごくらく百年の修行しゆぎよう穢土えどの一日のこうおよばず。正像しようぞう二千年の弘通ぐづう末法まつぽう一時いちじに劣るか。これはひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむるのみ。春は花さき、秋はこのみなる、夏はあたたかに、冬はつめたし。時のしからしむるにらずや。
[159]我滅度わがめつど後後のちのち五百歳ごひやくさいの中に広宣流布こうせんるふして閻浮提えんぶだいにおいて断絶だんぜつして悪魔魔民諸あくままみんもろもろ天竜夜鳩槃荼てんりゆうやしやくはんだ等にその便たよりを得せしむること無けん」等云云。此経文若このきようもんもしむなしくなるならば、舎利弗しやりほつ華光如来けこうによらいとならじ。葉尊者かしようそんじや光明如来こうみようによらいとならじ。もくけん多摩羅跋栴檀香仏たまらばせんだんこうぶつとならじ。阿難あなん山海慧自在通王仏せんかいえじざいつうおうぶつとならじ。摩訶波闍波提比丘尼まかはじやはだいびくに一切衆生喜見仏いつさいしゆじようきけんぶつとならじ。耶輸陀羅やしゆだら具足千万光相仏ぐそくせんまんこうそうぶつとならじ。三千塵点さんぜんじんでん戯論けろん五百塵点ごひやくじんでん妄語もうごとなりて、おそらくは教主釈尊きようしゆしやくそん無間地獄むげんじごくち、多宝仏たほうぶつ阿鼻あびほのおにむせび、十方じつぽう諸仏しよぶつ八大地獄はちだいじごくすみかとし、一切いつさいぼさつは一百三十六のくるしみをうくべし。いかでかそのあるべき。其義そのぎなくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。
[160]されば花は根にかへり、真味しんみつちにとどまる。此功徳このくどく故道善房こどうぜんぼう聖霊しようりよう御身おんみにあつまるべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
[161]建治けんじ二年〈太歳丙子たいさいひのえね〉<日>七月二十一日<改行>     これしる
[162]<先>甲州波木井郷蓑歩嶽こうしゆうはぎいのごうみのぶのたけより安房国東条郡清澄山浄顕房義城房あわのくにとうじようのごおりきよすみさんじようけんぼうぎじようぼうもと奉送ぶそう
現代語訳

報恩抄


建治二年(一二七六)七月二一日、五五歳、於身延、浄顕房・義城房他宛、和文、定一一九二—一二五〇頁。

[1]日蓮、これをせんじゆつ

報恩の大切さ


[2]老狐は故里ふるさとを忘れず、死ぬ時はかならず首をもとに住んでいた丘に向け、昔、毛宝に助けられた白亀はその恩を忘れず毛宝が戦いに負けた時に水の上を渡して窮地を救った、と言われている。このように、動物でさえ恩を知り恩に報ずるということがある。まして人間が恩を知り恩に報いることをわきまえないでよいはずがない。そこで、昔、豫譲という賢者は主君智伯の恩に報ずるために、身に漆を塗ったり炭を呑んだりして身を変え主君のあだを討とうとした。衛の弘演という人は主君懿公のめいで他国に行っている間に主君が殺されたため、自分の腹をいて主君の肝を入れて死んだ。世間の人でさえそうなのであるから、まして仏教を習学し実践しようとする者は父母・師匠・国の恩を忘れてはならない。

真実の報恩


[3]この大恩に報いるためには、かならず仏法を習いきわめて智者とならなければならない。たとえば大勢の眼の不自由な人たちを導くためには、自分の眼が見えなければ橋や河を渡すことができない。風の方向をわきまえない船がどうして大勢の商人を乗せて宝の山に行くことができよう。
[4]仏法を習い究めようと思えば、時間のゆとりがなければできない。時間のゆとりを得ようと思えば、父母・師匠・国主などに随ったりして世俗のことがらにかかわっていてはならない。どのようなことがあっても、出離の道(生死しようじ解脱げだつする道、悟りの道、仏道)を体得するまでは、父母や師匠などの心に随っていてはならない。このような考えかたは、世間のいろいろな人たちは、世間の道理にも仏教の教えにもかなうものではない、と思うであろう。しかしながら、外典(仏教以外の書籍)の孝経にも、父母や主君に随わないで忠臣ちゆうしん孝人こうじんとなる、と書かれている。内典ないでん(仏教の書籍)の経文きようもんには「父母の恩を棄てて仏道に入ることは真実の報恩の道である」(清信士度人経しようしんじどにんきよう)と説かれている。比干は悪逆あくぎやくの君主(紂王ちゆうおう)に随わないでかえって賢人と称讃され、悉達太子は父の浄飯王に背いて出家し、かえって三界第一の孝子となられたことなどはその例である。

真実の明鏡


[5]このように思い定め、父母や師匠などの意思に従わないで仏法を学んだところ、釈尊ご一代の聖教を究めるには十の明鏡がある。すなわち、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗である。この十宗を明鏡として一切経(仏のすべての教え)の心(仏の御本意、仏教の本旨)を知るべきである。
[6]世間の学者などは、この十の鏡はどれもみな正直に仏の道を照らしていると思っている。この十宗のうち舎宗・成実宗・律宗の小乗の三宗は、民の消息(一般の人の個人的な手紙)が他国へ渡る時に何の用も足さないことと同じようなものであるから、今はしばらく置いておく。大乗の七つの鏡(七宗)こそ生死の大海(迷苦めいくの大海)を渡って浄土の岸(解脱の世界。仏の浄土)に到達することのできる大船であるので、これを習い究めて自身も助かり人をも導こうと思い習学したところ、大乗の七宗はいずれも自讃ばかりして、「私たちの宗こそ仏の一代の心を得たものである」などと主張している。
[7]すなわち、華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観など、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭など、三論宗の興皇・嘉祥など、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証など、禅宗の達磨・慧可・慧能など、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空などの人びとは、それぞれの宗の依りどころとする経典や論釈を根拠として、だれもかれもが「一切経を悟った。仏の本意を究めた」と言っている。
[8]これらの人びとはそれぞれ次のように言っている。華厳宗の人は「一切経の中では華厳経が第一である。法華経や大日経などは臣下のようなものである」と言い、真言宗の人は「一切経の中では大日経が第一である。ほかの経は多くの星のようなものである」と言い、禅宗の人は「一切経の中では楞伽経が第一である」と言う。他の宗もまた同じである。しかも、前にあげた諸師は世間の人びとから、諸天が帝釈を敬うように尊敬され、多くの星が日月にちがつにつき随うように仰がれている。
[9]私たち凡夫はどの師であっても信ずる限り不足はなく、仰いで信じていればよいのであろうが、日蓮にとっては、愚かな考えであっても疑問が晴れない。世間を見ると、それぞれ「私こそ」「私こそ」と主張していても国主はただ一人である。一つの国に国主が二人になればその国は穏やかではない。一つの家庭に二人の主人がいるとその家はかならずつぶれる。一切経もまた同じであろう。どの経であろうとただ一つの経こそが一切経の大王でいらっしゃるであろう。
[10]ところが、十宗、七宗などがあってそれぞれ自宗じしゆうを第一と立て、互いに論争して譲らない。一つの国に七人、十人の国王がいて互いに争えば万民は穏やかではない。そこで、それらの諸宗に従っていたのでは仏の御本意を知ることができないので、どのようにしたらよいかと思い悩み、一つの願を立てた。私は八宗、十宗には従わない。天台大師がもっぱら経文を師として一代聖教いちだいしようぎようの勝劣を考えられたように、仏の教えに立脚して仏道を求めていこう。このように決意し一切経を開き見ると、涅槃経という経典に、「法に依り、にんに依ってはならない」(如来性品)と説かれている。「法に依れ」とは仏の説かれた一切経に依れ、「人に依ってはならない」とは仏以外の普賢菩・文殊師利菩などの菩や前にあげた諸の人に依ってはならない、ということである。また、同じく涅槃経に「了義経(真理を説き明かした経)に依り、不了義経(方便の教えを説いた経)に依ってはならない」(如来性品)と説かれている。この涅槃経が説いている了義経とは法華経、不了義経とは華厳経・大日経・涅槃経などの已今当(法華経の前後に説かれた経)の諸経である。
[11]したがって、仏の遺言(涅槃経)を信ずるならば、もっぱら法華経を明鏡として一切経の心を知るべきであろう。そこで法華経のもんを開き見ると、「この法華経は諸経の中でもっとも上位にある」(薬王菩本事品やくおうぼさつほんじほん)と説かれている。この経文のとおりであれば、あたかも須弥山の頂上に帝釈天がいるように、転輪聖王てんりんじようおうこうべの上に如意宝珠があるように、多くの木の上に月が宿るように、諸仏の頂上に肉髻があるように、法華経は華厳経・大日経・涅槃経などの一切経の頂上の如意宝珠である。
[12]そこで、論師や人師には従わないでもっぱら経文に依るならば、法華経が大日経や華厳経などより勝れていることは、あたかも太陽が青空に輝き出た時、眼の見える者ならだれでも天地がよく見えるように、高いと低いは一目瞭然である。また、大日経や法華経などの一切経を見ても、この法華経に似た経文は一字もない。それらの経典は小乗経に対して勝劣を説いたり、俗諦(世間の法)に対して真諦(仏教の真理)を説いたり、あらゆる空仮(空諦と仮諦。空諦とは諸法はくうとみること、仮諦とは諸法は因縁による存在とみること)に対して中道(空仮にとらわれない中道の理)が勝れていると説いたりしているにすぎない。たとえば、小国の王が自分の臣下に対して自ら「大王」と称しているようなものである。法華経はそれとは異なり、「諸王に対して大王である」と説かれているのである。
[13]ただ、涅槃経だけは法華経に似た経文がある。したがって、天台大師以前に出た南北の諸師(中国南北朝時代の南北十流の学説。南三北七なんさんほくしち)は迷って、「法華経は涅槃経より劣っている」と言った。しかしながら、よく経文を開き見ると、法華経の開経かいきようである無量義経に華厳経・阿含経・方等経・般若経などの四十余年の諸経(仏の四十余年にわたる説法で、法華経以前の諸経)をあげて「いまだ真実を顕わしていない」と説かれているように、法華経は涅槃経に対して「自分のほうが勝れている」と説かれているうえ、法華経の後に説かれた涅槃経そのものが法華経に対しては、「この経が世の人びとに説き示される理由は(略)、法華経の中で八千の声聞が記別(未来成仏の保証)を授かり大果実を成就したように、今、この涅槃経は秋の収穫が終わった後にすることがないようなものである」(如来性品)と説かれている。涅槃経自らが法華経より劣る、と説かれている経文である。このように経文は明瞭であるにもかかわらず、智恵の勝れた南北の諸師でさえ迷ったほどであるから、末代の学者はじゅうぶん留意しなければならない。この経文はただ法華経と涅槃経との勝劣を説き示しただけでなく、十方世界の一切経の勝劣をも知ることができる。その経文に迷うことはやむをえないこととしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師が明確に説き明かされた後は、眼で見ることのできる人びとはわきまえておかねばならない。ところが、天台宗の人である慈覚大師(円仁えんにん)や智証大師(円珍えんちん)でさえこの経文に迷ったのであるから、まして他の宗の人びとが迷うのはなおさらのことである。

法華最勝の疑難


[14]ある人は疑って「中国や日本に渡った経典の中には法華経より勝れた経典はなくとも、インド・竜宮(竜王の住む宮殿)・四天王天(欲界に属し須弥山の中腹にある。東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は毘沙門天が護っている)・日月天・利天(欲界に属し須弥山の頂上にある。帝釈天の住所)・都率天(欲界に属し内院と外院がある。内院は一生補処の菩の住所で弥勒菩はここに住する。外院は天衆の欲楽じよ)などにはおびただしい数の経典があるのであるから、その中には法華経より勝れた経典があるにちがいない」と言うであろう。
[15]答えて言う。一つのことでよろずのことを推察しなさい。「庭口から外に出なくとも天下の有様を知る」とはこのことである。愚かな人が「私たちは南の空ばかり見ていて東西北の三方面の空は見たことがないが、その三方面の空にはこの太陽とは別の太陽がお出になるだろう」と言ったり、山の向こうに煙が立つのを見て、「煙は確かに立ち登っているが火は見えないので火ではないだろう」と言ったりする。このようなことを言う人は一闡提(仏の教えを信じない者、善根を断った人)の人であると思いなさい。目があってもものが見えていないことと同じである。
[16]法華経の法師品には、釈如来がまぎれもなく自らの尊いお口で真実のお言葉を述べられ、五十余年間に説き示されたすべての教えの勝劣を定めて、「私が説いた経典は限りなく多いが、已に説いた爾前にぜんの諸経(法華経以前に説いた四十余年の諸経)、今説いた無量義経、まさに説こうとしている涅槃経の中で、この法華経は最勝さいしようの教えであるためにもっとも信じ難く理解し難い」と説かれている。この経文は、ただ釈如来一仏の説かれたものであっても、等覚とうがく(菩の五十二位のうち第五十一位で、最上位である妙覚の仏とほぼ等しい位)の菩以下は仰いで信じるべきであるばかりでなく、多宝仏が東方から来て「法華経は真実の教えである」と証明し、十方世界から集まって来た諸仏も釈仏と同じように広長舌を梵天にまでつけて法華経の真実を証明し、その後、それぞれの国土にお帰りになった。法華経法師品に説かれた「已今当」(すでに説いた経、いま説いた経、まさに説く経の中で法華経は最勝の教えであるために、もっとも信じ難く理解し難い)の三字は、釈尊御一代の五十年の説法はもとより、十方三世の諸仏の御経を一字一点も残すことなくふくめて、法華経に対比して説かれたものである。十方の諸仏はこの法華経の会座えざにおられて釈尊の説法を真実であると証明をされたのであるから、それぞれ自分の国土にお帰りになってから弟子などに向かって、「ほかに法華経より勝れた御経がある」とお説きになっても、その弟子たちは信用するであろうか。
[17]また、「自分は見ていないが、インド・竜宮・四天・日天につてんなどの宮殿の中には法華経より勝れた経典があるのではないか」と疑問を持つことがあるとしたら、それでは梵天・帝釈・日月・四天・竜王は法華経の説法の会座にはおられなかったのか。もし日月などの諸天が「法華経より勝れた御経がある。貴方あなたは知らない」とおっしゃるならば、それこそ大誑惑(大うそつき)の日月である。
[18]このような日月に対し、日蓮は責めて「日月は空に住しておられるが、まるで私たち人間が大地に住しているようにしていることができ、空から落ちることがないのは、もっとも強い不妄語戒をたもっている功徳によるものである。もし、『法華経より勝れたお経がある』という大妄語を吐かれるのなら、おそらく世界が壊劫(世界が破壊する時代)にもならないのに大地の上にどっと落ちてしまうであろう。無間地獄の底の堅い鉄の所まで落ちないと止まらないであろう。大妄語の人はしばらくの間でも空にいて四天下(須弥山の四方にある四州ししゆう。東方は弗婆提ほつばだい、南方は閻浮提えんぶだい、西方は瞿耶尼くやに、北方は欝単越うつたんのつ)をめぐることはできない」と追及するであろう。

諸宗諸師の誤り


[19]ところが、華厳宗の澄観など、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの深い智恵のある三蔵とか大師と呼ばれている人たちは、華厳経や大日経などは法華経より勝れている、と法門を立てられている。私たちのような分際ぶんざいではこれらの人たちには及ばないけれども、本当の道理からして、これらの人たちは諸仏の大怨敵ではないか。極悪人ごくあくにんと言われる提婆達多や瞿伽梨もものの数ではなく、大天(両親や阿羅漢を殺害、後に出家したが慢心を起こし、仏教教団分裂のもとを作った)や大慢(婆羅門の僧で慢心を起こし諸尊の像を刻んで椅子の脚とした)にも似ている。このような人たちを信ずる者は恐ろしい。本当に恐ろしいことである。
[20]問うて言う。貴方は華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏や弘法・慈覚・智証などを仏の敵である、と言うのか。答えて言う。これは大変むずかしい問題である。仏法における第一の大問題である。私のつたない考えで経文を調べてみると、法華経より勝れた経典がある、と言う人は、たとえどのような人であっても謗法の罪は免れることはできない、と説かれている。したがって、経文のとおりに言うならば、どうしてこれらの人たちが仏敵であることを免れることができようか。また、もしこれらの人たちのことを恐れて指摘しないでいれば、一切経の勝劣は空しいものとなり、釈尊の御本意がわからなくなってしまう。また、これらの人たちを恐れて、その末流まつりゆうの人たちを仏敵であると言うと、それら各宗の末流の人たちは「法華経より大日経が勝れていると言うのは私の個人的な見解ではなく、わが宗の祖師が立てられた法義である。祖師と自分とは、戒律や行法ぎようぼうたもたもたないの違い、智恵のあるなしの差、身分のへだたりなどはあっても、学んだ法門においては違いがない」と言うので、末流の人たちにとがはない。

謗法の指摘と受難


[21]また、日蓮がこのことを知りながら人びとを恐れて言わなければ、「たとえ身命を失っても教えをかくしてはならない」(涅槃経如来性品)という仏陀の諫暁(いさめ)を無視した者となってしまう。どのようにすればよいのか。思い切って言おうとすれば世間の人びとからの迫害が恐ろしい。もし言わないでいようとすると仏の諫暁を免れることはできない。どうしたらよいのか、進退がきわまった。なんと、実にもっともなことではないか。法華経の法師品ほつしほんに「しかもこの経は如来の在世ざいせでさえも怨嫉が多い。まして滅後はなおさらである」、安楽行品あんらくぎようほんに「あらゆる世間の人たちはさかんに怨念をいだき信じようとしない」とあるのは、まさにこのことを説かれたものである。

釈尊在世の受難


[22]仏を摩耶夫人が懐妊かいにんされた時、欲界よくかい第六天の魔王(悪魔の王で波旬はじゆんともいう)が神通力じんずうりきで夫人の御腹をとおし見て、「われらの大怨敵となる法華経という利剣を懐妊した。まれないうちに何とかしてなきものにしてしまわねばならない」と考えた。そこで、第六天の魔王はりっぱな医者に姿を変えて浄飯王の宮殿に入りこみ、「安穏にお産ができる良い薬を持って参った医者です」と大声で宣伝し、毒薬を后にませたのである。釈仏がお産まれになった時は石の雨を降らし、乳には毒を混ぜ、城をお出になる時は黒い毒蛇にけて道をふさぎ、あるいは提婆達多・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王などの悪人の身に入りこんで、ある時は大石を投げて仏の御身から血を出させ、ある時は釈族の人たちを殺し、ある時は釈尊のお弟子を殺したりした。これらの大難はすべて、つまるところは法華経を釈尊に説かせまいとたくらんだもので、法華経法師品に「如来の在世でさえなお怨嫉が多い」と説かれているとおりの大難である。これらは釈尊にとっては遠い難である。近い難としては、仏弟子の舎利弗や目連、それに諸大菩なども四十余年の間は法華経を信じることができなかったのであるから、法華経の大怨敵の内に入る。
[23]「まして仏の滅後においてはなおさらである」と、未来の世にはこのような大難よりももっと恐ろしい大難がある、と説かれている。仏でさえ忍び難い大難を凡夫ぼんぷがどうして忍ぶことができようか。まして仏の在世より大きな難であると言われている。どのような大難であろうか、提婆達多が長さ三丈(約九メートル)広さ一丈六尺(約五メートル)もある大石を投げて仏を殺害しようとした難や阿闍世王が酔象をけしかけて仏を殺害しようとした難よりも恐ろしいものであると思うけれども、それらよりもまさった難であると説かれているので、小さな過失もないのにたびたび大難に値う人こそ、仏滅後の法華経の行者であると知るべきであろう。

付法者の受難


[24]仏から滅後の弘経ぐきよう付属ふぞくされた人びとは四依の菩(仏滅後の仏法を付託され、人びとの心の依りどころとなる四種の人格者)であり、仏の御使いである。第十四番目の付法者(仏滅後の弘経を付属された者)である提婆菩は外道と論議して殺され、第二十四番目の付法者である師子尊者は邪見じやけんの檀弥羅王にくびを刎ねられ、第八番目の付法者である仏陀密多と仏滅後にインドに出現した竜樹菩などは、それぞれ国王を改心させるために赤幡を七年も十二年も指して苦難を重ねた。第十一番目の付法者である馬鳴菩は国王によって金銭三億の代償として身を他国に移された。如意論師は外道の人たちとの論議で謀略におちいり口惜しさのあまり思い悩んで死んでしまった。これらの人びとは仏滅後一千年間のことである。

天台大師の弘法


[25]像法に入って五百年、すなわち仏の入滅後一千五百年という時に、中国に一人の智人が出現した。その名を智といい、後に智者大師とばれた。法華経の実義じつぎをありのままに弘めようと思われたが、天台大師智以前の多くの智者学匠たちが仏の一代聖教しようぎようをいろいろと判じ釈して、けっきょく十流の学派になっていた。すなわち南三北七(中国南北朝時代の学派。江南に三派、江北に七派があった)と呼ばれる人たちである。十流の学派があったがその中の一派がもっともひいでていた。その一派とは江南こうなん三派の中の第三番目に数えられる光宅寺の法雲法師の立義りゆうぎである。
[26]法雲法師は一代仏教を五つに分類し、その五つの中からもっとも勝れている三つの経を選び出した。その三つの経とは華厳経・涅槃経・法華経である。法雲法師は「一切経の中では華厳経が第一で大王のようなもの、涅槃経が第二で摂政関白のようなもの、第三は法華経で公などのようなもの、これより以下の経は万民のようなものである」としたのである。この人は生まれながらにして智恵が賢いうえに、慧観・慧厳・僧柔・慧次などという大智者から法門を習い伝えただけでなく、南北の諸師の法義を破斥はしやくし、山林に交わって法華経・涅槃経・華厳経の研鑽を積んだ人である。そこで梁の武帝は法雲法師を召し出し内裏に光宅寺という寺を建ててあがめられた。法雲法師が法華経を講じられた時天から花が降り注ぎ、そのありさまはまるで仏の御在世の時のようであった、と言われている。
[27]天監五年に大旱魃があった時、天子はこの法雲法師を請待しようたいして法華経を講じさせたところ、薬草喩品の「その雨あまねく一様に四方に降り」と言う二句を講じられると、そらから甘雨(めぐみの雨)が降ったので、天子は感激のあまりにただちに僧正に任じられ、諸天が帝釈天につかえ、万民が国王を畏れるように、自分から仕え尊崇された。そのうえ、ある人が夢をみたことには、「この法雲法師ははるか過去の灯明仏が世にましました時から法華経を講じた人である」とのことである。法雲法師には法華経の解説をした著書四巻(法華経義疏ほけきようぎしよ)がある。この書物に「この経はまだ真理を明確に説き明かしていない」とか、「異なった方便を説いたものである」などと言い、確かに、「法華経はいまだ仏教の道理を究めていない経典である」と書かれている。この人のこのような考えが仏の御意みこころにかなっていたからこそ、そらから花が降ったり雨が降ったりしたのであろう。
[28]このような不思議なことがあったので、中国の人びとは、「それでは法華経は華厳経や涅槃経より劣る経なのだ」と思ったばかりでなく、新羅・百済・高麗・日本までこの書(法華経義疏)が弘まったので、およそ世間の人びとは一同にこの考えかたになってしまった。ところが、法雲法師が亡くなられてから間もないころ、梁の末から陳の始めに、智法師という小僧が現われた。南岳大師という方のお弟子であったが、師匠の考えにも不審があったようで、たびたび経蔵に入って一切経をご覧になり、なかでも華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出し、とくに華厳経を講じられた。
[29]そればかりでなく、華厳経によって礼文(仏を礼拝する時のさんたんぶん)を作り毎日功徳を積まれたので、世間の人びとは「この人もやはり華厳経を第一と考えられたか」と思っていた。ところがそうではなく、智法師は、法雲法師が一切経の中で華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立てたことがあまりに不審であったので、ことさら華厳経をご覧になったのである。こうして一切経の中では法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三と見定めてなげかれ、「如来の聖教が中国に渡ってきたけれども、人びとを利益していない。かえって一切衆生を悪道に導いており、これはひとえに人師(人びとを導く師)の誤りによる。たとえば国を治めている長たる人が、東を西と言い天を地と言い出せば、万民はそのように思ってしまうであろう。後に名もない者が出てきて、貴方たちが言っている西は東であり、天と思っているのは地である、と言うと、信用しないばかりか、自分たちの長の考えにおもねって、その人をののしったり打ったりなどするであろう。どのようにしたらよいものであろうか」と思われたけれども、とうてい黙っているべきことではないので、「光宅寺の法雲法師は地獄に堕ちた」と非難された。
[30]その時、南北の諸師は蜂のように立ち起こり、烏のように騒ぎ集まった。「智法師の頭をってしまうか、国から追放するか」などと騒ぎ立てたので、陳主(陳の国王)はこれを聞かれて、南北の師数人と智とを召し合わせ、自分もその対論の席に列して双方の主張をお聞きになった。法雲法師の弟子など慧栄・法歳・慧曠・慧などと言う僧正や僧都以上の人びとが百余人も集まった。各々がさかんに悪口を吐き、眉をつりあげ、眼をいからし、手を振りあげ、拍子をたたいて騒いだ。しかしながら、智法師は末座に坐して顔色も変えず、言葉も誤ることなく、威儀を正して静かに諸僧の言葉をいちいち書きつけ、言葉ごとに責め返した。かえって押し返して質問し、「そもそも、法雲法師の法義で第一華厳経、第二涅槃経、第三法華経とお立てになる証拠となる経文はどこにあるのか。明確な証文を出してください」と責めたので、諸僧はそれぞれ頭を垂れ顔色を失って一言も返答ができなかった。
[31]そこで重ねて、智法師は「無量義経にはまさしく『次に方等部経・摩訶般若・華厳海空を説く』と説かれている。仏はみずから華厳経の名をあげて、無量義経に対して未顕真実(いまだ真実を顕わしていない)と打ち消しておられる。法華経より劣っている無量義経に華厳経は責められている。どのように考えて華厳経を一代聖教の中で第一の経典であると言うのか。貴方たちが御師法雲法師の味方をしようと思うのなら、この無量義経の文を破り、これよりも勝れた経文を取り出して御師の法義を助けなさい」と責められた。
[32]また、「涅槃経が法華経よりも勝れている、というのはどのような経文に説かれているのか。涅槃経の第十四巻聖行品しようぎようぼんには華厳経・阿含経・方等経・般若経をあげて涅槃経との勝劣は説かれているが、法華経と涅槃経との勝劣はまったく見られない。その上の第九巻の如来性品によらいしようぼんには法華経と涅槃経との勝劣が明確に説かれている。すなわち経文には『この経がこの世に説かれた理由は(略)、法華経の中で八千の声聞が記別(未来に成仏するとの仏の保証)を受けて大菓実を成就したとおり、秋の収穫が終わった後ではすることがないようなものである』と説かれている。経文には明らかに諸経を春夏に譬え、涅槃経と法華経とを菓実の位と説かれているけれども、なかでも法華経は秋収冬蔵大菓実の位(秋に収穫し冬には蔵に収まっているように、仏の救いが成就した教え)とし、涅槃経は秋の末冬の始めの拾の位(晩秋初冬にはすでに収穫は終わっており、田畑に残された落穂を拾い集めるように、救いかられたごく少数の衆生を救いとる補助的な役割をもった教え)と定められている。この経文によれば、涅槃経みずからが法華経よりも劣っていると承服されている。法華経の文には已説(すでに説いた経)・今説(今、説いた経)・当説(まさにこれから説くであろう経)と言って、この法華経は前に説いた経(爾前経)と今説いた並びの経(開経である無量義経)よりも勝れているだけでなく、後に説くであろう経(涅槃経)にも勝れている、と仏は定められている。すでに教主釈尊がこのように定められているのであるから、疑う余地などないのであるが、仏は自分の入滅後はどうであろうかと案じられて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人に立てられたので、多宝仏は大地から躍り出て『妙法蓮華経はすべて真実である』と証明し、そのうえ十方世界から分身諸仏もお集まりになり広長舌を大梵天につけ、また教主釈尊もつけられて真実を証明された。こうしてやがて、多宝仏は宝浄世界に帰り、十方世界から来た分身諸仏もそれぞれ本土に帰られた後に、多宝仏も分身諸仏もおられないのに教主釈尊が涅槃経を説いて、法華経よりも勝れている、とおおせられたのならば、仏のお弟子がたが信用されるだろうか」と論難されたので、まるで太陽や月の強い光が修羅の眼を照らすように、漢の王(高祖こうそ)の剣が諸侯の頸にあたったように、南北の諸師は一同に両眼を閉じこうべを垂れてしまった。天台大師のご様子は、獅子王が狐やの前で吼えたような、鷹や鷲が鳩や雉をせめたような状態に似ていた。
[33]このような有様ありさまであったので、さては法華経は華厳経や涅槃経よりも勝れていると、中国の国中に弘まっただけでなく、かえってインド全土までも伝わり、「インドの大小の諸論も智者大師の教義には勝てない。教主釈尊が二度出現されたのであろうか。仏教が再び現われた」と称讃されたのである。

法相宗の誤り


[34]その後、天台大師もご入滅になり、陳・の世も変わって唐の世となった。章安大師もご入滅になり、天台の仏法はしだいに衰えていった。そのころ、唐の太宗皇帝の時代に玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年に初めてインドに渡り同十九年に帰国したが、インドの仏法を尋ねつくして身に修め、法相宗という宗を伝えた。
[35]この宗は天台宗とは水と火のように相れない。玄奘三蔵は天台大師のご覧にならなかった解深密経げじんみつきよう瑜伽師地論ゆがしじろん成唯識論じようゆいしきろんなどの経論を将来しようらいし、「法華経は一切経の中では勝れているけれども解深密経よりも劣っている」と言い出した。それを天台宗の末学(末流の学僧)たちは、天台大師のご覧にならなかった経論でもあり、しかも智恵も浅かったのか、「なるほどそうか」と思ってしまった。そのうえ太宗は賢王であり、玄奘三蔵へのご帰依も深かった。言わねばならないことはあっても、いつの時代でも同じであるが、時の権威(国王の権勢)を恐れて言い出す人はいなかった。法華経が最勝であるとの立場をくつがえして「三乗真実(三乗の教えこそ真実である)、一乗方便(一乗の教えは方便である)・五性各別(一切衆生に本来五つの性分しようぶんがあり、それぞれによって救われかたも異なる)」と申されたことは情けないことである。仏教発祥の地インドから伝来されたものであるけれども、インドの外道の教えが中国に渡ってきたのであろうか。法華経は方便で解深密経こそ真実の教えである、と言うのであるから、釈仏・多宝仏・十方の分身ふんじん諸仏の真実のお言葉もかえって虚妄こもうとなり、玄奘や慈恩こそ当時では生身の仏として仰がれていたのであろう。

華厳宗の誤り


[36]その後、則天武后ぶこうの時代に、以前に天台大師によって法華経より下に位置づけられた華厳経(旧訳くやく)に加えて、新訳の華厳経が伝来したので、昔の憤りをはたすために、新訳の華厳経をもって天台大師にくだされた旧訳の華厳経を助けて、華厳宗という宗を法蔵法師という人が立てた。この宗では華厳経を根本法輪(根本の教え)、法華経を枝末法輪(枝末の教え)と言うのである。南北の諸師は第一華厳経、第二涅槃経、第三法華経と立て、天台大師は第一法華経、第二涅槃経、第三華厳経とし、今の華厳経は第一華厳経、第二法華経、第三涅槃経とするのである。

真言宗の誤り


[37]その後、玄宗皇帝の時代に、インドから善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をもたらし、金剛智三蔵は金剛頂経をもたらした。また、金剛智三蔵に弟子があった。不空三蔵である。この三人はインドの人で家柄も高貴であるうえ、人柄も中国の僧とは異なっていた。説くところの法門も何となく目新しく、後漢から今日にいたるまでなかった印と真言というものを新しくえており、りっぱに見えたので、天子は頭を下げて尊崇し万民は掌を合わせて敬った。
[38]この人たちの教えは「華厳経・解深密経・般若経・涅槃経・法華経などの勝劣は顕教(大日如来の説いた密教に対し、釈如来の説いた教え)の枠内でのことであり、たかが釈如来の説法にすぎない。今、この大日経などの密教経典は大日法王(大日如来)の勅言(権威のある教え)である。かの諸経典は民の万言(多くの言葉)、この密教経典は天子の一言のようなものである。華厳経や涅槃経などは大日経には梯を立てても及ばない。ただ法華経だけは大日経によく似た経典である。しかしながら、法華経は釈如来の説法で、いわば民の正しい言葉ていどのものであり、大日経などの密教経典は天子の正しい言葉である。言葉は似ているけれども人の格式に雲泥の相違がある。譬えれば濁った水に映った月と清らかな水に映った月のようなものである。月の影は同じであるけれども映す水に清濁の違いがある」などと言い出したのであるが、だれもこの言葉の由来を尋ね真偽をただす人もいなかった。諸宗はすべて屈伏して真言宗に傾いてしまった。善無畏三蔵・金剛智三蔵が死去した後、不空三蔵がまたインドに帰り菩提心論という書物をもたらしたので、ますます真言宗は盛んになっていった。

妙楽大師の天台宗復興


[39]ただし、妙楽大師という人があった。天台大師より二百余年後に出た人であるけれども、智恵の勝れた人で、天台大師の論釈(著書)をよく見究めておられたので、「天台大師が注釈書に示されているお考えは、天台大師入滅後に中国にもたらされた解深密経を依りどころとする法相宗、また中国ではじめて一宗として立てられた華厳宗、大日経などの密教経典を依りどころとする真言宗よりも法華経は勝れた経典である、ということであるにもかかわらず、智恵が浅いためか、人を畏れてか、あるいは時の国王の威勢を恐れてかのためにだれも言い出さないようだ。このようなことでは天台大師の正しい教えは失われてしまうであろう。そして、かつて陳やの時代以前に南北の諸師が説いた邪義(よこしまな教え)よりもひどい状態になってしまうであろう」とお思いになって三十巻におよぶ注釈書をお著わしになった。すなわち摩訶止観輔行伝弘決まかしかんぶぎようでんぐけつ十巻・法華玄義釈籤十巻・法華文句記ほつけもんぐき十巻がこれである。この三十巻の書は天台大師の三大部(摩訶止観・法華玄義・法華文句)の中で重複ちようふくしているものを削り、論述の不足しているところを加筆するだけでなく、天台大師の時代にはなかったために批判を免れたように見える法相宗と華厳宗と真言宗の三宗を一時に攻め砕かれたものである。

仏教の日本伝来と南都の六宗


[40]また、日本国には人王第三十代欽明天皇の時代の十三年壬申十月十三日に、百済国から一切経と釈仏の尊像とがもたらされた。また、用明天皇の時代に聖徳太子が仏教を研鑽しはじめ、和気の妹子という臣下を中国につかわして、聖徳太子ご自身が前世ぜんせで所持しておられたという一巻の法華経をお取り寄せになり、持経と定められた。その後、人王第三十七代孝徳天皇の時代に三論宗・華厳宗・法相宗・舎宗・成実宗が日本に渡された。人王第四十五代の聖武天皇の時代に律宗が渡され、以上で六宗となった。孝徳天皇から人王第五十代の桓武天皇の時代にいたるまでの十四代一百二十余年の間は、天台・真言の二宗はなかった。

伝教大師の弘法


[41]桓武天皇の時代に最澄という小僧がいた。山階寺(奈良の興福寺)の行表僧正のお弟子である。法相宗を始めとして六宗(三論宗・華厳宗・法相宗・舎宗・成実宗・律宗)を習い究めた。しかしながら、それでも仏教を修めきったとは思えなかったので、華厳宗の法蔵法師が書いた起信論の注釈書(起信論義記)をご覧になったところ、その中に天台大師の注釈書が引用されていた。そこで、この天台大師の注釈書こそ意義深いものがあるように思われるが、日本国にもたらされているのかどうか不明であったので、ある人に問うたところ、その人は「大唐の揚州にある竜興寺の僧鑑真和尚は天台宗の末学で道暹律師の弟子であるが、天宝の末に日本国に渡ってこられ、小乗の戒を弘められたが、天台大師の注釈書は持参していながらお弘めにならなかった。それは人王第四十五代聖武天皇の時代のことであった」と語った。最澄法師が「その書物を見たいものである」と言うと、その人は取り出してお見せした。最澄法師はその書物を一度ご覧になっただけで、生死の迷苦めいくをたちまちにまされた。そこで、この天台大師の論釈をもって六宗の教えを研究したところ、六宗の立義がいちいちに邪見(誤った考え)であることが明らかになった。
[42]そこで最澄法師はたちまちに願を発し、「日本国の人びとは、皆、謗法者の檀越となってしまっているのでかならず天下は混乱におちいるであろう」とお思いになり、南都の六宗を非難されたので、南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺がんこうじ大安寺だいあんじ・薬師寺・西大寺さいだいじ・法隆寺)の六宗の学者たちは蜂起して京に集まり騒ぎ立て、天下一同に大騒ぎとなった。七大寺六宗の人たちは悪心がたいへん強かったのである。
[43]しかしながら、去る延暦二十一年正月十九日に、桓武天皇は高雄寺に行幸になり、七大寺の学者である善議・勝・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏の十四人と最澄法師とを召し合わせ対論させられた。華厳宗・三論宗・法相宗などの人たちは、それぞれ自宗の元祖の教義を主張した。最澄上人は六宗の人たちの立義をいちいち書き記し、宗旨しゆうしの根本となる経論をはじめ種々の経論と照らし合わせて論難されたので、六宗の人たちは一言も答えることができず、口が鼻のようになってしまった。天皇は驚かれてくわしくお尋ねになり、重ねて勅宣(天皇の命令)を下して十四人の学者をお責めになったので、南都の学者は最澄上人に承伏したという文書(帰伏状きぶくじよう)を奉ったのである。
[44]その謝表には「七大寺六宗の学者(略)、初めて仏教の究極の法門を悟った」、「聖徳太子が仏教を弘められてよりこのかた今にいたるまでの二百余年の間、講ぜられた経論釈は数多いけれども、それぞれ理を争っていまだ解決していない。しかもこの最妙(もっともすばらしい)の円宗(すべてを円満に具足した教えの宗。天台法華宗)はいまだ弘まっていなかった」、「三論宗と法相宗との長年にわたる論争もさらりと氷のように解け、晴れやかに輝き、その明らかであることは雲や霧が切れて太陽・月・星の三光を仰ぎ見るようである」などと述べられている。最澄和尚は南都の学者十四人の立義りゆうぎを解説して、「それぞれ一つの経典を講ずるために法のつづみを深い谷にまでとどろかし、客と主人は三乗の路(三乗の教え)をさまよいながら法門の旗を高い峰に飛ばしている。長老の者も初心の者も三界さんがい欲界よくかい色界しきかい無色界むしきかい)の煩悩ぼんのうを打ち破ったものの、なおいまだ歴劫修行しゆぎよう(かぎりなく長い期間修行してから成仏する)の教えに執着することを改めず、大白牛車だいびやくごしやに譬えられる法華円教えんぎよう(一仏乗の教え)と混同している。どうして初発心の者(初めて菩提心をおこした者)がただちに初住位しよじゆういから妙覚位みようかくいまでの四十二位を悟ってしまう(ただちに成仏する)ことができようか」と言われた。最澄和尚に帰依きえしている和気わけの弘世と真綱の兄弟は「釈尊が霊山で説かれた法華経を南岳大師は前世に聴衆の一人に加わっていてうけたまわり、天台大師は総持(善をたもち悪を起こさない)の経である法華経の妙悟を大蘇山だいそざんで開かれた。それにもかかわらず法華一乗の妙旨が権教ごんきよう(方便の教え)にさえぎられてとどこおっていることをなげき、三諦円融さんたいえんゆう空仮中くうけちゆうの三諦が円融しているのが真実相であるとする天台法華教学の法門)の理がいまだ顕わされていないことを悲しむ」と言った。また、南都の十四人は「善議らは宿縁しゆくえん宿世しゆくせの縁。過去世の因縁)に引かれて幸せな世に生まれ合わせ、すばらしい法華経の妙旨を拝見することができた。深い因縁がなければどうしてこのような尊い世に生まれることができよう」と感激の言葉を述べた。
[45]この十四人の立義は、華厳宗の法蔵や審祥、三論宗の嘉祥や観勒、法相宗の慈恩や道昭、律宗の道宣や鑑真などの中国や日本の元祖たちの法門と、瓶は変わっても水は変わらないことと同じように、時代や国は変わっても同じである。しかも、すでにこの十四人がそれぞれの邪義を捨てて伝教大師の法華経の妙旨に帰伏したうえは、末代の人間のだれが「華厳経・般若経・解深密経などは法華経より勝れている」と言うことができようか。小乗の三宗(舎宗・成実宗・律宗)は南都の人たちの学んでいる教えの中に入っている。大乗の三宗(華厳宗・三論宗・法相宗)が論破されたうえは、小乗の宗旨はもはや問題にはならない。ところが、いまだにことの子細を知らない者は、南都の六宗はまだ法華経には論破されていない、と思っている。譬えば、目の不自由な人が空の太陽や月を見ることができないために、空には太陽や月はないと思ったり、耳の不自由な人が雷の音を聞くことができないために、空には音がしない、と思うようなものである。

日本真言宗と伝教大師


[46]真言宗という宗が日本にもたらされたのは、人王第四十四代の元正天皇の時代に、善無畏三蔵が大日経を渡したが弘めることなく中国へ帰ったと伝えられており、また、玄などが大日経義釈十四巻を渡し、加えて東大寺の得清大徳も渡した、と伝えられている。
[47]これらの経釈を伝教大師はご覧になったけれども、大日経と法華経との勝劣についてはいろいろと不審があったので、去る延暦二十三年七月に入唐され、西明寺の道和尚や仏滝寺の行満和尚などにお会いになり、止観(一心に三諦円融さんたいえんゆうの理を観じる一心三観いつしんさんがんの法門)・円頓の大戒(法華円教えんぎようの菩戒である円頓戒)を伝受され、霊感寺の順暁和尚にお会いして真言(密教)を相伝し、延暦二十四年六月に帰朝して桓武天皇に対面された。天皇は宣旨を下して南都六宗の学者にも止観(止観ごう、法華円教の修行)と真言(しやなごう、密教の修行)とを習わせ、南都の七大寺におかれた。真言(密教、真言宗)と止観(法華円教、天台宗)との二宗の勝劣については中国にも多くの議論があり、善無畏三蔵の大日経義釈には「理同事勝」(理においては同じであるが事〔印・真言などの事相じそう〕においては大日密教が勝れる)と書いてある。しかし、これについて伝教大師は、「善無畏三蔵の誤りである。大日経は法華経より劣っている」とお考えになって、日本の宗を八宗とは数えられなかった。真言宗の名を削って法華宗の内に入れ七宗とし、大日経を天台法華宗の傍依経(補助的な経典)と位置づけ、華厳経・大品般若経・涅槃経などと同列にされた。しかしながら、大切な大乗円頓戒を別受戒(従来の小乗戒とは異なる特別な受戒)として授ける大戒壇を日本国に建立こんりゆうするについての是非の論争が激しくて容易に収拾がつかなかったためか、真言(密教)と天台(法華経)の二宗についての勝劣は弟子たちにも明確にはお教えにならなかったようである。
[48]しかし、伝教大師は依憑天台集という著書に、「まさしく真言宗は天台法華宗の正義(正しい教え)を盗み取って大日経に入れ、理同(理は同じであるが事においては大日経が勝れている)と言って誇っているにすぎない。したがって真言宗は天台宗より劣る宗である」と述べられている。まして、不空三蔵は善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅した後、インドに帰り竜智菩に会った時、竜智菩から「インドには仏のご本意を明らかにした論釈がない。中国の天台大師という人の論釈こそ仏法の邪正を定め、偏円(偏教へんぎよう円教えんぎよう。偏教はかたよった教え、すなわち方便権教ごんきよう。円教はすべてを円満に具えた教え、すなわち真実教)を明らかにした書物である。どうか天台大師の書物をインドの言葉に翻訳して渡してほしい、とねんごろに請われた」ということを、不空の弟子の含光という者が妙楽大師に語った、と妙楽大師は法華文句記の第十巻の末に記載しているのを、伝教大師はこの依憑天台集に転載されている。したがって、法華経より大日経のほうが劣る、とされた伝教大師のお心は明瞭である。
[49]したがって、釈如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師のお心は、等しく、大日経などの一切経の中で法華経がもっとも勝れている、ということであるのは明確である。また、真言宗の元祖と言われる竜樹菩のお心も同じである。竜樹菩の大智度論を詳しく検討すればこのことは明らかであるにもかかわらず、不空三蔵が誤って書いた菩提心論に人びとはみなだまされこのことに迷ってしまったようである。

弘法大師の誤り


[50]また、石淵の勤操僧正のお弟子に空海という人がいた。後に弘法大師とばれた。去る延暦二十三年五月十二日に唐に渡り、金剛智三蔵や善無畏三蔵から数えて第三代目のお弟子にあたる慧果和尚という人に密教の両界(金剛界こんごうかい胎蔵界たいぞうかい)を伝受され、大同二年十月二十二日に帰朝された。平城天皇の時代のことである。桓武天皇は空海が在唐中に崩御されていたので、平城天皇にお目にかかった。天皇は空海を信頼し深く帰依されたけれども、まもなく退位され、嵯峨天皇の時代となった。弘法大師は引き続き嵯峨天皇にも帰依を受けていたところ、伝教大師が嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日にご入滅になってしまった。そこで、翌弘仁十四年から、弘法大師は天皇の師となり、真言宗を立てて東寺を賜った。空海は真言和尚とばれ、これより日本では八宗となったのである。
[51]弘法大師は釈尊御一代の聖教しようぎように勝劣を立て、「第一は真言大日経・第二は華厳経・第三は法華経・涅槃経である。法華経は阿含経・方等経・般若経などに比べれば真言の経であるけれども、華厳経や大日経に対すると戯論の法(真実をつくしていない方便の教え)である。教主釈尊は仏ではあるけれども大日如来に比べればまだ迷いの位にいるのであって、あたかも皇帝と俘囚ふしゆう(とらわれた者、支配される者)とのように異なる。天台大師は盗人である。真言の醍醐(最上の教えを醍醐味に譬える)を盗んで法華経のことを醍醐と言っている」(顕密二教論)などと書かれたので、法華経は尊い教えである、と思っていても、弘法大師にあえばものの数ではない。インドの外道のことはさておいても、中国の南北の諸師(南三北七)が、法華経は涅槃経に比べれば邪見の経である、と言ったことよりもまさり、華厳宗が、法華経は華厳経に比較すれば枝末教(枝末法輪)である、と言ったことよりも越えている。例えば、かのインドの大慢婆羅門が、大自在天・羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足に造り、その上に昇って邪法を弘めたようなものである。もし、伝教大師が御存命ごぞんめいであったなら、かならずや一言でも申されたであろう。また、伝教大師のお弟子の義真・円澄・慈覚・智証などもどうしてご不審にならなかったのであろう。まことに、天下第一の凶事きようじである。

慈覚大師の誤り


[52]慈覚大師は去る承和五年に唐に渡り、十年の間、天台・真言の二宗を研鑽された。法華経と大日経との勝劣について習ったところ、法全や元政などの八人の真言師は、理同事勝(理においては同じであるが、事においては大日経が勝れる)と言い、天台宗の志遠・広修・維などに学んだところ、大日経は方等部に属する経にすぎない、と言う。慈覚大師は承和十三年九月十日に帰朝され、嘉祥元年六月十四日に天皇から帰朝復命ふくめい灌頂かんじようを修すようにとの宣旨が下った。法華経と大日経等との勝劣については中国での研鑽でははっきりと知ることができなかったようで、金剛頂経の注釈書(金剛頂経疏)七巻と蘇悉地経の注釈書(蘇悉地経疏)七巻の合計十四巻を著わされたが、この注釈書の内容は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の教えと法華経の教えとは、究極の理は同じであるけれども事相の印と真言とについては真言の三部経のほうが勝れている、というものであった。これはまったく善無畏・金剛智・不空の書いた大日経の注釈書(大日経疏)の内容と同じである。
[53]しかしながら、自分の心になお不審があったのか、あるいは自分の心では納得しているけれども他人の不審を晴らそうとお考えになったのか、この十四巻の注釈書を御本尊の前に置いて御祈念された。「このように書いたけれども、仏の御本意ごほんいにかなっているかどうか判断がつきかねます。真言の三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)のほうが勝れているのでしょうか、それとも法華の三部経(無量義経・法華経・観普賢経)のほうが勝れているのでしょうか」と御祈念されたところ、五日目の明け方頃にたちまた夢想(夢による神仏の示現やお告げ)があった。「青空に大きな日輪(太陽)がかかり、それを弓矢でったところ、矢は空高く飛んで日輪に当った。日輪はころがりながらもうすこしで地面に落ちる」と思ったところで夢からめた。そこで慈覚大師は悦んで「私は吉夢(めでたい夢)をみた。法華経より真言経典のほうが勝れていると書物に書いたことは、仏のお心に叶っている」と言い、歓喜かんぎし、願って宣旨を下していただき、日本国に弘めた。ところが、その宣旨の内容は「ついに知ることができた。天台の止観(法華円教)と真言の法義とは理において微妙に符合している」というものである。祈念の時は、大日経より法華経は劣る、と言われているようなのに、宣旨を申し下した時は、法華経と大日経とは同じである、と言われている。

智証大師の誤り


[54]智証大師はわが国においては義真和尚・円澄大師・別当光定こうじよう(光定は延暦寺の別当に補されたことから別当大師と称する)・慈覚大師などの弟子である。顕教けんぎよう密教みつきようの二道についてはおよそ日本で学ばれたので、天台宗と真言宗との二宗の勝劣に不審をいだかれ中国へ渡られたのであろうか。去る仁寿二年に唐に渡り、中国では真言宗を法全や元政などに習い、およそ大日経と法華経とは理同事勝であるとし、慈覚大師の考えと同じである。天台宗については良和尚に習い、真言と天台との勝劣は、大日経は華厳経や法華経などには及ばない、という判断である。七年間中国におられ、去る貞観元年五月十七日に帰国された。帰国後著わされた大日経旨帰には「大日経には法華経は及ばない。ましてそのほかの教えはなおさらである」と書かれた。この書では法華経は大日経より劣る、という解釈である。また、智証大師は授決集に「真言や禅宗などは華厳経・法華経・涅槃経などの経典に比べれば、真実の教えに誘引ゆういんするための方便の教えである」と述べられ、仏説観普賢菩行法経記ぶつせつかんふげんぼさつぎようぼうきようきや法華論記には「大日経と法華経とは同じ」と示されている。
[55]貞観八年丙戌四月二十九日壬申に申し下した勅宣には「聞くところでは、真言と止観(法華円教)両教の宗(真言宗と天台宗)は同じく醍醐(最上の教え)と言い、深秘(はかり知ることができないような深い教え)と称している」とあり、また六月三日の勅宣には「先師伝教大師はすでに止観業しかんごうしやなごうの二つを開いて自分の歩むべき道とされた。したがって代々の座主(比叡山延暦寺の住職)はこれをいで両業りようごうを兼ね伝えない者はいない。あとに続く者たちがどうして先師のたどられた道にそむくことがあってよいであろうか。ところが、聞くところによると、比叡山の僧たちはもっぱら先師の教えに背いてかたよった考えに執着し、他宗の教えを宣伝するばかりで伝統的な先師の道を興隆しようとしていないようである。およそ先師の伝えられた教えの道というものは一つでも欠けるようなことがあってはならない。法を伝え弘める者の勤めとして両業りようごうを兼ね備えることは当然であろう。したがって、今より後は真言密教と法華円教の両教に通達した者をもって延暦寺の座主とし、これを恒例としなければならない」とある。

慈覚・智証両大師への批判


[56]したがって、慈覚・智証の両大師は伝教大師や義真のお弟子であり、中国に渡って天台や真言の明師に会いながら、天台宗と真言宗との勝劣については判断できなかったのであろうか。ある時は真言が勝れている、ある時は法華経が勝れている、ある時は理同事勝などと言っている。また、宣旨を申し下した時は、真言宗と天台宗との勝劣を論じる人は天皇のめいに背く者である、といましめられている。このような発言はすべて自語相違(言っていることが矛盾している)と言うべきで、おそらく他宗の人は用いないであろう。ただし、「真言宗と天台宗の二宗は同じである、とは伝教大師のお考えである」と宣旨に引用されているが、いったい伝教大師のどの書物に書かれているのか。このことはよくよく尋ねるべきことである。
[57]慈覚大師・智証大師と日蓮とが伝教大師の御事をあれこれと言うのは、親に向かって年齢を争ったり、日天に向かってどちらがよく見えるかと比較するようなものであるけれども、慈覚大師や智証大師の味方みかたをされる人びとは、明瞭な証文を用意してもらいたい。結局は信用できるものでなければならないからである。玄奘三蔵はインドに渡って婆沙論を見たほどの人であるが、インドに渡らなかった法宝ほうほう法師に婆沙論の翻訳について論難された。法護三蔵はインドの法華経梵本ぼんぽんを見た人であるけれども、見ていない中国の人に嘱累ほんの位置について、誤り、と言われたではないか。たとえ慈覚大師が伝教大師にお会いして習い伝えたとしても、智証大師が義真和尚から直接口決相承そうじよう口伝くでん相承。師から弟子へ口伝えで法門を伝授すること)されたと言っても、伝教大師や義真和尚の正しい文献と相違していれば、どうしても不審をいだかざるをえない。
[58]伝教大師の依憑天台集という書物は、大師の第一の秘書(大切な書)である。その書の序文に「新しくもたらされた真言宗は一行阿闍梨いちぎようあじやり(天台宗の教えに立脚して大日経疏を著わした人)が善無畏三蔵から相承した真実を亡失ぼうしつし、古くからもたらされている華厳宗は法蔵が天台宗の影響を受けて教義を立てていることを隠し、空理に執着している三論宗は嘉祥大師が天台大師に論難されて屈伏し恥じたことを忘れたり、嘉祥大師が称心に居住していた章安大師の法門に心酔したことを覆い隠しており、に執着している法相宗は撲揚の智周ちしゆうが天台大師に帰伏きぶくしたことを否定したり、青竜寺の良賁りようふんが天台大師の判経(経典の分類や解釈)に依ったことを廃除はいじよしている。そこで謹んで依憑天台集一巻を著わして後に続く私と同心の学者に贈る。時に、日本第五十二代の弘仁七年丙申の年である」と書かれている。次の正宗(本文)には「インドの名僧が、大唐の天台の教えこそ仏法の邪正をもっとも正しくわきまえている、と聞いて、ぜひとも承りたいので訪問したい」と言っているとか、続いて「これは本国のインドに仏の正法しようぼうがなくなって、四方の国に求めている証拠ではないか。しかもこの国にはこのことを認識している者は少ない。あたかも魯の国の人たちが、孔子が聖人せいじんであることを知らずに疎略に扱ったようなものである」としるされている。
[59]この依憑天台集は法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗の四宗を責めている書物である。もし天台宗と真言宗とが同一のあじ(同一の教え)であるなら、どうして真言宗を責められたのか。しかも不空三蔵などを「魯の国の人のようだ」などと書かれている。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の真言宗が勝れたものであれば、どうして「魯の国の人」などと悪口を言われるであろう。またインドの真言宗が天台宗と同じかあるいは勝れているのならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に頼んで、「本国には正法がない」などと言うのであろうか。
[60]それはそうとしても、慈覚大師と智証大師の二人は言葉では伝教大師のお弟子とは名乗っておられるけれども、心の中はお弟子ではない。なぜなら、この書には「謹んで依憑天台集一巻を著わして後に続く私と同心の学者に贈る」と言われている。「私と同心」とは真言宗は天台宗よりも劣ると習い受けとめてこそ「私と同心」と言えるのではないだろうか。自分から願い出て申し下された宣旨に「比叡山の僧たちはもっぱら先師の教えに背いて偏った考えに執着している」とか、「およそ先師の伝えられた教えの道というものは一つでも欠けるようなことがあってはならない」と書かれている。この宣旨のとおりであれば、慈覚大師や智証大師こそもっぱら先師に背く人びとであろう。このように責めることは恐れ多いことであるけれども、これを追及しなければ大日経と法華経との勝劣が不明のものとなってしまう、と思い、命をかけて責めるのである。この二人が弘法大師の邪義を責めなかったのも道理である。それなら、食糧や費用を多く用い、大勢の人びとをわずらわして中国へ渡られるよりも、本師伝教大師のお教えをよくよく研鑽しつくされたほうがよかったのではないだろうか。
[61]それゆえ、比叡山の仏法はただ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代だけであったのではないだろうか。天台宗の座主は名ばかりで、その実は真言宗の座主に変わっている。名前と所領とは天台宗の山であるが、そこにいるあるじは真言師である。したがって、慈覚大師と智証大師は法華経法師品ほつしほんの「已今当」(すでに説いた経、いま説いた経、まさに説くであろう経の中で法華経はもっとも勝れている)の文を破られた人たちである。「已今当」の経文を破られるからには、釈仏・多宝仏・十方の分身ふんじん諸仏の怨敵ではないのか。弘法大師こそ第一の謗法の人とは思うけれども、これはそれにも比較できないほどの悪事あくじである。なぜなら、悪事でも水と火・天と地とのように明確に分けるものは、世間の人にも悪事と分かるので用いることもないし、悪事が成就することもない。弘法大師の法義はあまりに悪いことであるので弟子たちも用いることがない。いん真言しんごんの事相だけはその宗の特色であるけれども、教相(教え。教義。仏の教えの秩序立て)の法門は弘法大師の教義をそのまま用いることができないために、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚大師・智証大師の教義を用いている。
[62]慈覚大師と智証大師の考えは、真言と天台とは理同(理においては同じ)である、と言うので、人びとも、なるほどそうであろう、と思う。このように思うから、事勝(事において大日経が勝れる)の印と真言に心が傾き、天台宗の人びとさえも画像や木像の開眼の仏事を行うために真言の事相(印と真言)を習うようになり、日本の国は一同に真言宗になってしまい、天台宗の人は一人もいなくなったのである。例えば、法師と尼僧、黒色と青色とはまぎらわしいので、目の不自由な人は見違えることがある。僧と在家の男性、白色と赤色とは区別がはっきりしているので、目の不自由な人でも見違えない。まして目の良い人はなおさら見違えることはない。慈覚大師と智証大師の教義は、法師と尼僧、黒色と青色とのようにまぎらわしいので、智恵のある人も迷い、まして愚かな人も誤り、この四百余年の間は比叡山・園城寺・東寺・奈良・五畿(山城やましろ大和やまと河内かわち和泉いずみ摂津せつつ)・七道(東海とうかい東山とうさん北陸ほくりく山陰さんいん山陽さんよう南海なんかい西海さいかい)・日本一州、みな謗法の者となってしまった。

法華正法と法華経の行者


[63]そもそも、法華経の第五巻安楽行品あんらくぎようほんには「文殊師利よ、この法華経は諸仏如来の秘密の教えであり、諸経の中でもっとも上にある」と説かれている。この経文のとおりであるならば、法華経は大日経などのもろもろの経の中で頂上に位置づけられる正法である。そうであれば、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師などはこの経文をどのように解釈されるのであろうか。法華経の第七巻薬王菩本事品やくおうぼさつほんじほんには「よくこの経典を受持する者もまたこれと同じで、一切衆生の中において第一の者である」と説かれている。この経文のとおりであるならば、法華経の行者は大小多くの川の中の大海、多くの山の中の須弥山、多くの星の中の月天、多くの明りの中の大日天、転輪聖王てんりんじようおう・帝釈天・諸王の中の大梵天王である。
[64]伝教大師の法華秀句という書に、法華経薬王菩本事品の「この経もまたこのとおりである。乃至、諸の経典の中でもっとも第一である。よくこの経典を受持する者もまたこれと同じで、一切衆生の中において第一の者である」の文を引き、「以上は経文である」とお書きになり、続いて「天台大師の法華玄義に言うには」と文を引用し、「以上は法華玄義の文である」とお書きになり、以上の引用文の意味を解釈して「まさに知るべきである。他宗が依りどころとしている経は第一ではない。したがって、その経をたもつ者もまた第一ではない。天台法華宗が依りどころとしている法華経は最第一であるから、この法華経をよく持つ者も衆生の中で第一である。このことはすでに説かれた仏の経説によるのであり、けっして自慢ではない」と述べられている。続いて、別の解釈文に譲ることを「依りどころとすべき詳細の説明については別の書に述べてある」と説明されている。
[65]その別の解釈文である依憑天台集には「今、わが天台大師の法華経を説き法華経を注釈することにおいては、他の多くの人びとよりも特にひいでており唐代でも一人ぬきん出ている。如来の使いであることは明らかである。したがって、この法華経をさんたんする者は福徳を須弥山のように高く積み、誹謗する者は無間地獄へ堕落する罪をつくる」と記されている。これらの法華経・天台大師・妙楽大師・伝教大師のお心のとおりであれば、今の日本国には法華経の行者は一人もいないことになる。
[66]インドでは、教主釈尊は法華経説法のけん宝塔品の時、すべての仏をお集めになって大地の上にかれ、大日如来だけを宝塔の中の南の下座におえし、みずからは北の上座にお着きになった。この大日如来は大日経の胎蔵界の大日如来(胎蔵界曼荼羅の八葉九尊の中台ちゆうだいにまします大日如来)、金剛頂経の金剛界の大日如来(金剛界曼荼羅の三尊九の中央にまします大日如来)の主君である。胎蔵部と金剛部の両部の大日如来を従者とした多宝仏の上座に教主釈尊は座を占められた。これがすなわち法華経の行者である。インドにおいては以上のとおりである。
[67]中国では、陳帝の時、天台大師が出られ南三北七の諸師を論服ろんぷくさせて現身に大師となられた。伝教大師が「他の多くの人びとよりも特に秀でており唐代でも一人ぬきん出ている」と言われたのはこのことである。
[68]日本国では、伝教大師が南都六宗を論破して日本で最初の第一の大師である根本大師となられた。
[69]インド・中国・日本において、ただこの三人だけが法華経に説かれている「一切衆生の中で第一の者」と言えるであろう。したがって、伝教大師は法華秀句に「浅い教え(法華経以外の教え)はたもち易く、深い教え(法華経)は持ち難い、とは釈尊の教えである。浅い教えをやめて深い教えにつくのがりっぱな人の心のもちかたである。天台大師は釈尊にしたがって法華宗を中国に弘め、比叡山の一門(日本天台宗)は天台大師の教えをいで法華経を日本に弘めた」と述べられている。仏が入滅されてからのち一千八百余年の間に、法華経の行者は中国に一人、日本に一人の以上二人、これに釈尊をお加えして以上三人である。
[70]外典(仏教以外の書物)にも、「聖人は一千年に一度出、賢人は五百年に一度出る。黄河は(濁った水)と渭(澄んだ水)とに分かれて流れ、五百年には半分が澄み、千年には両方が澄む」(文選もんぜん)と言われているが、まさにそのとおりである。

伝教大師滅後の仏教界


[71]ところが、日本国には伝教大師のおられた頃の比叡山だけに法華経の行者がおられた。義真・円澄は比叡山第一・第二の座主である。第一の座主であった義真だけは法門の立義が伝教大師に似ていた。第二の座主であった円澄は半分は伝教大師のお弟子であるが、半分は弘法大師の弟子である。第三の座主である慈覚大師は最初は伝教大師のお弟子に似ていたが、御年四十歳の時中国に渡ってからは、名前は伝教大師のお弟子で師の跡をおぎになったけれども、法門の内容はまったく伝教大師のお弟子ではない。ただし、円頓戒(円教の修行によりすみやかに成仏する戒法)だけはお弟子のようである。こうもりのようで、鳥でもなければ鼠でもない。母を食べるという梟鳥ふくろうか父を食べるという破鏡のようである。法華経という父を食べ、法華経の受持者である母をむ者である。日(太陽)を射るという夢をみたのはその証拠である。それゆえ、死去の後は墓がないという痛ましいことになったのである。
[72]智証大師の一門である園城寺と慈覚大師の一門である比叡山とは、修羅と悪竜とのようにいつも争っている。園城寺を焼き比叡山を焼いた。智証大師が本尊としていた弥勒菩も焼けてしまったし、慈覚大師が本尊として大日如来をまつっていた大講堂も焼けた。生きながらにして無間地獄の苦を受けている。ただ根本こんぽん中堂だけは焼けずに残った。
[73]弘法大師もまた足跡そくせきがなくなっている。弘法大師には「東大寺で受戒しない者を東寺の長者(天皇に任命される主職)にしてはならない」という戒めの文書(遺告ゆいごう)がある。ところが、寛平法皇(宇多うだ天皇)は仁和寺を建立して東寺の法師を移し、「わたしの寺には比叡山の円頓戒を持たない者を住持じゆうじとしてはならない」という宣旨をはっきりと下されている。したがって、今の東寺の法師は鑑真の弟子(東大寺で受戒した者)でもないし、弘法大師の弟子でもない。比叡山で受戒すれば、戒においては伝教大師のお弟子である。また、正しくは伝教大師のお弟子でもない。伝教大師の法華経の教えを破り捨ててしまっているのであるから。
[74]弘法大師は去る承和二年三月二十一日に死去されたので、宮中から使者が遣わされ遺体を葬られた。その後、迷った弟子たちが集まり、死んだのではなく禅定ぜんじように入られたのだ、と言い、髪をって差し上げるとか、かつて弘法大師が唐から日本に帰る時に三鈷(三鈷しよ。三股の形をした金剛杵)を中国の地から投げたら日本の高野山こうやさんに留まっていたとか、あるいは夜中に日輪(太陽)が出たとか、あるいは現身に大日如来になられたとか、あるいは伝教大師に十八道(十八の契印けいいんをもって行う密教の修法)をお教えしたとか言って、師の徳を飾り立てて智恵のある人のように見せかけ、自分の師の邪義を支援して国王臣民を迷わしている。また、高野山に本寺と伝法院という二つの寺がある。本寺は弘法大師の建てた大塔で、本尊は胎蔵界の大日如来である。伝法院は正覚房(覚鑁かくばん)が建てた寺で、本尊は金剛界の大日如来である。この本寺の金剛峯寺こんごうぶじと末寺の伝法院の二寺は、いつも合戦をしている。まるで比叡山と園城寺のようである。弘法大師や慈覚大師・智証大師などが世間をたぶらかした罪が積もり積もって、日本にこの二つの禍が起きたのであろう。
[75]糞を集めて栴檀としても、焼けばただ糞の臭いしかしない。大妄語を集めて仏のお言葉であると言っても、ただ無間地獄に堕ちるだけである。インドの尼外道(仏在世の六師外道の一つ)の塔は数年の間は利生(利益りやく)も広大であったが、馬鳴菩礼拝らいはいによってたちまちのうちに崩れ落ちてしまった。鬼弁婆羅門の隠れていた帷は長年人をたぶらかしていたけれども、阿沙菩(馬鳴菩)に論難されて妖術ようじゆつを破られた。留外道は八百年の間石になっていたが、陳に責められて水になってしまった。道士は数百年間中国の人びとを誑らかしていたが、摩騰と竺蘭に論破されて道教どうきようの経典を焼いてしまった。しんの皇帝につかえていた趙高が国を奪い取ったように、漢の皇帝に仕えていた王が王位を奪い取ったように、伝教大師滅後の天台宗の人びとや真言宗の人びとは、法華経の位を奪って大日経のものとしてしまった。法華経の法王はすでにこの国にはいない。そうであれば人王がどうして安穏でいられようか。日本国の人びとはみな慈覚大師・智証大師・弘法大師の流れをむ者ばかりであり、一人として謗法を犯してはいない者はいない。

謗法の日本国と日蓮


[76]ただし、このようなことになった問題の本質を考えてみると、今の世の情況は、あたかも仏蔵経に説かれている大荘厳仏の世の末で一切明王仏の末法の時代のようである。法華経に説かれている威音王仏の末法の時代には、不軽ふきよう誹謗ひぼうした罪を人びとは改悔(あらためる)したけれども、なお千劫もの長い間無間地獄に堕ちた。いわんや日本国の真言師・禅宗の・念仏者たちは少しも改心していない。法華経譬喩品ひゆほんに説かれているとおり「このようにめぐりめぐって限りなく長い間無間地獄に堕ちる」ことは疑いのないことであろう。このような謗法の国であるから天からも捨てられた。天が捨てれば、古くから日本を守護してきた善神も叢祠ほこらを焼き払って仏の浄土に帰ってしまわれた。ただ日蓮一人だけがこの国に踏みとどまって人びとに告げ示すと、国主は日蓮をあだみ、数百人の民衆にののしらせたり、悪口を言わせたり、じようもくで打たせたり、刀で切りかからせたり、避難ひなんして住居を変えるたびに家を閉鎖したり追い出したりする。それでも効果がなければ、自ら手を下して二度にわたって日蓮を流罪にした。去る文永八年九月十二日にはついに頸を切ろうとまでしたのである。
[77]金光明こんこうみよう最勝王経には「悪人をうやまい善人をばつすることにより、他国から怨賊が侵略し国の人民は争乱に遭遇そうぐうし殺害される」と説かれている。大集経には「もしまた、多くの刹帝利せつていり(武士)や国王がいろいろな非法を行い、世尊の弟子を悩ましたり、そしったりののしったり、刀で打ったり、あるいは衣鉢など種々の持物もちものを奪ったり、布施をしようとしている人を妨害したりすれば、わたしたち梵天帝釈はすぐに彼等に対し他方の怨敵を蜂起させる。そして、国内にも内乱が起こり、疫病・飢饉・時ならぬ風雨・闘争・訴訟そしようなどを起こさせるであろう。また、その王も久しいことはなく、国も滅亡するであろう」と説かれている。これらの経文のとおりであれば、日蓮がこの国にいなければ、仏は大妄語の人となり無間地獄への堕落をお免れになることはできないであろう。

謗法の指摘


[78]去る文永八年九月十二日に、松葉谷まつばがやつ捕縛ほばくされた時、平左衛門尉頼綱へいのさえもんのじようよりつななど数百人の兵に向かって「日蓮は日本国の柱である。日蓮を失うことになれば日本国の柱を倒すことになる」と言った。今あげた経文には、智恵ある人を国主などが悪僧たちの讒言ざんげんや諸人の悪口によって罪科ざいかに処すならば、急に戦いが起きたり、大風が吹いたり、他国から攻めてきたりするであろう、とある。去る文永九年二月の北条一門の内乱(二月騒動)、同じく十一年四月の大風、同じく十月の蒙古来襲は、ひとえに日蓮の言葉の正しさを示すためのものではないか。まして、日蓮はこれらの事件を事前に考え予言していたのである。だれがこのことを疑うことができようか。
[79]弘法大師・慈覚大師・智証大師の誤り、ならびに禅宗と念仏宗との禍が相次いで起こり、まさに逆風に大波おおなみが起こり、そこに大地震が重なったようなものである。したがって日本国もしだいに衰えてきた。太政入道(平清盛たいらのきよもり)が国の実権を握り、やがて承久の政変によって三上皇じようこう配流はいるされ、政権は関東に移ったけれども、ただ国内の乱れだけで他国から侵略してくることはなかった。その頃も謗法の者は国中に充満していたけれども、謗法のことについて言い顕わす智恵ある人がいなかった。そのゆえに世の中は表面的には平穏であったのである。
[80]譬えれば、眠っている獅子に手で触れなければえない。急流でも櫓をささなければ波は高くならない。盗人もやめさせようとしなければ怒らない。火は薪を加えなければ燃えさからない。謗法の罪は犯していても、これを指摘し責める人がいなければだれにも解らないので表面的には平穏なように見えるのである。例えば日本国に仏教が始めて渡ってきた頃は何事もなかったが、物部守屋もののべのもりやが仏像を焼いたり、僧を迫害し、寺塔じとうを焼いたりしたので、そらから火の雨が降り、国には疱瘡が流行し、兵乱が続いたようなものである。このたびはそれとはとても比較にならない。謗法の人びとは国中に充満している。日蓮がそれに対して法華経の教えをかざして強くせめかかる。修羅と帝釈との争いや仏と魔王との戦いにも劣るものではない。
[81]金光明最勝王経には「時に、隣国の怨敵が悪意を起こし四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)をもってその国を降伏こうふくさせるであろう」、さらに「時に王が様子を確認し終わり四兵を率いてその国の討罰に出発しようとする時、私たち諸天は従属する多くの夜などの諸神とともに姿を隠して助勢し、その怨敵を自然に降伏こうふくさせるであろう」と説かれている。金光明最勝王経の文は以上のとおりであるが、大集経や仁王経にも同様のことが説かれている。
[82]これらの経文のとおりであれば、正法を行ずる者を国主があだみ、邪法を行ずる者の味方をするならば、大梵天王・帝釈・日月・四天などが隣国の賢王の身に入り替ってその国を攻める、というのである。例えば僧を迫害し仏法に敵対した訖利多王を雪山下王が攻め、仏法を破壊した大族王を幻日王が滅ぼしたようなものである。訖利多王と大族王とはインドの仏法を破壊した王である。中国でも仏法を滅ぼした王はすべて賢王に攻められた。
[83]今の日本国はこれらとは比較にならないほどひどい状態である。国王は、仏法の味方のようでありながらほんとうはかえって仏法を滅ぼすような法師の味方をするのであるから、愚かな者にはまったく解らない。智恵のある者でも普通の智恵者では知ることができない。たとえ諸天でも、劣った天人は知ることができないであろう。したがって、中国やインドの昔の混乱よりも今の日本の乱れのほうが大きいであろう。

経文と世間


[84]法滅尽経には「私が入滅した後、五逆罪の盛んな濁世(濁った世。悪世)に悪魔の教えが盛んになり、悪魔が沙門の姿をとって現われ仏の道を破壊するであろう。また悪人は海中の砂のように多く、善人ははなはだ少なくて一人か二人しかいないであろう」と説かれている。涅槃経には「このような涅槃経を信ずる者はつめの上の土のように少なく、この経を信じない者は十方世界の土のように多い」(葉菩かしようぼさつぽん)と説かれている。これらの経文は私の心にたいへん深く染みこんだ。今の世の日本国の人びとはだれもかれもが法華経を信じている、と言っているが、その人びとの言葉のとおりであれば、一人も謗法者はいないことになる。ところがこれらの経文には、末法の世には、謗法者は十方世界の土のように多く正法を信ずる者は爪の上の土のように少ない、と説かれている。経文と世間の人びとの認識とは水と火のように異なる。世間の人は「日本国には日蓮一人だけが謗法の者である」と言う。これもまた経文とは天と地のように違っている。法滅尽経には「善人は一人か二人」、涅槃経には「信ずる者は爪の上の土のように少ない」と説かれている。経文のとおりであるならば、日本国にはただ日蓮一人こそ「爪の上の土」であり、「一、二人」にあたっている。経文を信用すべきであろうか、それとも世間の人びとの言葉を信用すべきであろうか。

法華経を読む


[85]問うて言う。「涅槃経の文には『涅槃経の行者は爪の上の土のように少ない』と説かれている。ところが貴方の考えでは、法華経の行者は爪の上の土より少ない、ということである。その違いはどうなのか」。
[86]答えて言う。涅槃経には「(この経の意義は)法華経で八千の声聞しようもんが授記を得たように、秋の収穫が終わった後の落穂拾おちぼひろいである」と説かれている。妙楽大師は「大経(涅槃経)自らが法華経のことを至極の教えとしている」(法華文句記)と言われている。「大経」とは涅槃経である。涅槃経では法華経のことを「至極の教え」と言っているのである。ところが涅槃宗の人が「涅槃経は法華経より勝れる」と言えば、まるで主人を家来けらいと言い、下の者を上の者と言っていることと同じである。涅槃経を読むということは法華経を読むことをいうのである。譬えれば、賢人は自分のことを見下されても、国主を重んずる者がいれば悦ぶことと同じである。涅槃経は法華経を見下して自分を褒める人を、かえって敵として憎まれる。この例によって知りなさい。華厳経・観無量寿経・大日経などを読む人も、法華経を劣ると思って読むことは、それらの経々の心に背くことになるであろう。これによって承知しなさい。法華経を読む人が、いかに法華経を信じているようであっても、他の諸経でも成仏することができる、と思うならば、この経を読んでいるとは言えないのである。

法華経讃者の法華経誹謗


[87]例えば、三論宗の嘉祥大師吉蔵きちぞうは法華玄論という十巻の書を書いて法華経をさんたんしたけれども、妙楽大師がそれを非難して「法華経を称讃しているようであるけれども、その言葉の中に毀りが含まれているので讃したことにはならない」(法華文句記)と言われたように、法華経を破壊した人である。したがって、嘉祥大師は心をひるがえして天台大師に仕え、法華経を読むことをしなかった。「私が法華経を読むと悪道に堕ちることを免れることができない」と言い、七年間も自分の身を投じて天台大師の踏台ふみだいとなられた。
[88]法相宗の慈恩大師(法師)には法華玄賛という法華経を讃した十巻の書がある。ところが伝教大師はこれを非難して「文章のうえでは法華経を讃めているけれども、真意をつかんでいないのでかえって法華経の心を殺している」(法華秀句)と言われている。
[89]これらの例から考えてみると、法華経を読んだり讃したりする人びとの中に、かえって無間地獄に堕ちる人が多くいるのである。嘉祥大師や慈恩大師はすでに法華経一乗を誹謗した人である。ましてや弘法大師・慈覚大師・智証大師は法華経をないがしろにした人ではないか。
[90]嘉祥大師のように、講会こうえをやめて会下えげの人びとを解散し、自ら身を投じて天台大師の踏み台にまでなっても、なおも以前の法華経を誹謗した罪は消えないであろう。不軽菩を軽蔑し誹謗した者は、後に不軽菩に信伏し教えに従ったけれども、重罪が残っていて千劫もの長い間無間地獄に堕ちた。したがって、弘法大師・慈覚大師・智証大師などはたとえ心をひるがえしても、なおも続けて法華経を読むならば重罪は消えないであろう。ましてや改心する気持などはない。法華経を破失はしつし、真言密教を昼夜に修し伝授弘法ぐほうした人たちである。
[91]世親菩や馬鳴菩は小乗教をもって大乗教を破った罪を悔い、舌を切ろうとまでした。世親菩は「たとえ仏の説かれた教えではあっても、阿含経はたわむれにも口にはしない」とちかい、馬鳴菩は懺悔のために大乗起信論を書いて小乗教を破折はしやくされた。
[92]嘉祥大師は天台大師を招待して、百余人の智者の前で五体を地面に投げ出し、全身から汗を流し、血の涙を流して「今からは弟子を見ることはしないし、法華経を講じることもしない。弟子の顔を見て法華経を読めば、いかにも自分に力があり、この法華経のことをよく知っているかのように思われるから」と言って、天台大師よりも高僧でもあり老僧でもありながら、わざと人の見ている前で天台大師を背負って河を渡したり、高座のかたわらに近づいて身を踏み台にして天台大師を背に乗せ高座に昇らせたりした。最後、天台大師が御臨終の後には、の皇帝に見参して、子供が母に死におくれたように足ずりをして泣かれたのである。嘉祥大師の法華玄論を見ても、それほど強く法華経を誹謗した注釈書ではない。ただ、法華経と諸大乗経とは法門に浅い深いの相異はあるが心は一つである、と書かれているのである。これが謗法の根本であろうか。
[93]華厳宗の澄観も真言宗の善無畏も、大日経と法華経とは理においては一つである、と書かれている。嘉祥大師に法華経誹謗の罪があるのなら善無畏三蔵もその罪科を免れることはできない。

善無畏三蔵の法華経誹謗と祈雨


[94]善無畏三蔵は中インドの国主である。位を捨てて出家し、他国におもむいて殊勝と招提の二人に遇い法華経を伝授され、百千もの石の塔を立てたので法華経の行者のように見えた。
[95]ところが、大日経を習いはじめてからは、法華経は大日経より劣ると思ったのであろうか。始めのうちはたいしてそのような考えも主張しなかったが、中国に渡り玄宗皇帝の師となると、天台宗をねたむ心がおきたのであろうか、法華経を誹謗するようになった。ところが急死して、二人の獄卒に鉄の縄を七本ももって縛りつけられ閻魔王の宮殿に連れて行かれた。ところが、寿命はまだつきていないから帰れ、と言われたので、自分でも法華経誹謗の罪であると気づいたのか、真言の観念(阿字観・五輪観などの真言宗の修法しゆほう)・印・真言などを投げ捨てて、法華経譬喩品の「今此三界」(今この三界はすべてわたし〔仏〕の所有である。その中の衆生はことごとくわたしの子である。しかもこの所はいろいろな災難が多い。ただわたし一人だけがよく救護くごすることができる)の文を唱えると、縄も切れてこの世に帰された、ということである。
[96]また、玄宗皇帝から雨を降らす祈を命じられた時、たちまちのうちに雨が降ったけれども、同時に大風が吹いて国内を破壊してしまった。最後、死去された時には弟子たちが集まって臨終の様子が立派であったと褒めたたえたけれども、実際は無間地獄に堕ちてしまったのである。
[97]問うて言う。どうしてそのことがわかるのか。答えて言う。善無畏三蔵の伝記(宋高僧伝)を見ると「今、善無畏の遺骸いがいを見ると、姿がしだいに小さくなり黒い皮膚がすごみを増して骨が露出している」と書かれている。善無畏の弟子たちは死後に地獄の相が現われたことを知らないで、師の徳をあげているように思っているけれども、書き表わしたことがらはかえって善無畏の罪科を記しているのである。「死去されると、身体はしだいに縮小し、皮膚は黒く、骨が露出している」という。人が死んだ後、色が黒いのは地獄の業因であると定められており、このことは仏陀の金言(お言葉)によるものである。善無畏三蔵が地獄に堕ちた業因とは何であろうか。幼少の時に王位を捨てて出家したことは第一の道心である。インド五十余箇国を修行して歩き、慈悲の心が深いあまりに中国にまで渡った。インド・中国・日本・一閻浮提(世界中)に真言密教を伝え、すずを振って法を弘めたのはこの人の功徳ではないのか。どうして地獄に堕ちたのであろうと、後生(死後)を大事に思う人びとはお考えになるべきである。

金剛智三蔵の祈


[98]また、金剛智三蔵は南インドの大王の太子であった。金剛頂経を中国にもたらすなど、その徳は善無畏三蔵と等しいほどである。そして、互いに師となり密教を相伝そうでんした。ところで、金剛智三蔵は唐の玄宗皇帝のめいによって雨の祈りをされたところ、七日のうちに雨が降った。天子はおおいに悦ばれたが、たちまちのうちに大風が吹いてきた。皇帝も臣下の者も興ざめしてしまい、使者を遣わして追放しようとしたが、なにのかのと言って留まってしまった。その後、皇帝の寵愛されていた姫宮が死去された時、祈をせよとの命を受けて、宮中の七歳になる少女二人を薪に積め込んで身のしろとして焼き殺したことは、まことに無慚なことであったと思われる。しかも姫宮も生きかえられることはなかった。

不空三蔵の祈雨


[99]不空三蔵はインドから金剛智三蔵のお供をしてきた人である。中国に来て善無畏三蔵や金剛智三蔵の行実ぎようじつを見聞きし不審に思われたのであろう。善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅された後、インドに帰って竜智菩に会い真言密教を習い直し、天台宗に帰伏したのであるが、それは心の中だけで、その身は真言宗から天台宗に移ることはなかった。不空三蔵も玄宗皇帝から祈雨の命を受けたが、三日のうちに雨を降らした。天子は悦ばれて自ら布施を下された。ところが、しばらくすると大風たいふうが吹き荒れて、内裏も吹き破り、公家殿上人てんじようびと宿所しゆくしよも一つ残らず壊してしまったので、天子はおおいに驚き、風を止めるように宣旨を下された。しかし、一時は止んでもしばらくするとまた吹くという有様で、数日の間は止むことがなかった。結局は使いをつけて不空三蔵を追放して、ようやく風も止んだのであった。

真言師の悪風


[100]この三人の、悪風を吹かせる密教が中国・日本のすべての真言師に伝えられたので、この両国でも真言師が祈雨をすれば大風が吹くのである。
[101]なるほどそうであろう。いぬる文永十一年四月十二日の大風は東寺とうじ第一の智者と言われた阿弥陀堂の加賀法印の祈雨によって吹いた逆風である。よくもこれほど善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の悪法を少しもたがえず伝えたものである。心憎いことである。

弘法大師の祈


[102]弘法大師は去る天長元年二月に大旱魃があった時、祈雨きうをされたことがある。その前に守敏が祈雨を修して七日のうちに雨を降らせた。ただし、みやこのなかだけで田舎には降らなかった。つぎに弘法大師があとをけて祈雨を行い、一七日たっても雨の気配はなく、二七日たっても雲も出なかった。三七日目に天皇が和気真綱を使者として御幣ぬさ(神に捧げるへい)を神泉苑に捧げられたところ、雨が三日間降り続いた。この雨を弘法大師とその弟子たちは奪い取り、自分たちの祈雨による雨であるとしたので、今日にいたる四百余年の間、これを弘法の雨と言っている。
[103]慈覚大師は夢で日輪(太陽)を射落いおとした、と言い、弘法大師は大妄語を吐いて弘仁九年の春に大疫病をとどめる祈をしたところ夜中に大日輪が出現した、と言っている。成劫(宇宙が形成されていく時代)からこのかた住劫(宇宙が平穏に推移する時代)の第九の減(百年を一減または一増として住劫は二十増減あり、そのうちの第九の減の時期)に至るまでの二十九劫(成劫の二十増減と住劫の九減)の間、日輪が夜中に出たということはない。

慈覚大師の夢想


[104]慈覚大師は夢で日輪(太陽)を射たという。五千七千巻の仏典や三千余巻の外典(仏教以外の書物)に、日輪を射る夢は吉夢である、という説があるのであろうか。修羅は帝釈を憎んで争い日天を射たが、その矢はかえって自分の眼につき刺さった。殷の紂王は日天を的にして矢を射たと言うがその悪虐無道のゆえに周の武王に滅ぼされた。日本の神武天皇の時代に、度美長(長髄彦ながすねひこ)と五瀬命(神武天皇の兄)とが合戦をした時、五瀬命の手に矢が当たった。その時、命は「わたしは日天(天照太神あまてらすおおみかみ)の子孫である。太陽の方向に向かって弓を引いたので日天の罰を受けた」と言われた。
[105]阿闍世王は仏に帰依し、内裏(宮殿)に帰ってお眠りになっていたが、とつぜん驚いて目を覚し、諸臣に向かって「日輪が天から地に落ちる夢を見た」と言われた。そこで、諸臣は「仏の御入滅のしらせであろうか」と言った。須跋陀羅の夢(太陽が落ちて破壊し、大海はれ、須弥山が大風で吹き散った夢を見て驚き、翌日、入滅に臨んでおられた釈尊のもとに赴き教化きようけを受け、最後の弟子となった)もまたこれと同じである。日輪を射るとか日輪が落ちるという夢はわが国ではとくに忌むべき夢である。神を天照といい、国を日本という。
[106]また、教主釈尊を日種と申し上げる。摩耶夫人が日(太陽)を懐妊した夢をみてお産みになった太子である。慈覚大師は大日如来を比叡山に祀り釈仏を捨て、真言の三部経をあがめて法華の三部経の敵となったために、このような夢を見たのである。
[107]例えば、中国の善導は最初は密州の明勝という人について法華経を読んでいたが、後に道綽に会ってからは法華経を捨てて浄土の教えに移り、観無量寿経の注釈書を書いて、「法華経は千人のうち一人も得道できない、念仏は十人が十人とも百人が百人とも往生できる」と考え定めて、この教義が万全であることを証明するために阿弥陀仏の前で祈誓をした。自分の考えが仏の御意みこころに叶っているかどうか、と祈っていると、「毎夜、夢の中で一人の僧が現われて教えを垂れた」と言う。そして、「仏の御意みこころを得たものであるからもっぱら経の教えのとおりにしなさい」との教示を受け、この教えを「観念法門経」などと言っている。法華経には「もし法を聞く者があれば一人として成仏しない者はない」(方便品)と説いてあるが、善導は「千人の中一人も得道できない」(往生礼讃らいさん)と言っている。法華経の教えと善導の言葉とは水と火のように違っている。善導は、観無量寿経の教えは「十人が十人とも百人が百人とも往生できる」と言うが、無量義経には、観無量寿経は「いまだ真実を顕わさない」経であると説かれている。無量義経の教えと楊柳房(善導。弥陀の浄土を願って柳の木から身を投げて死んだと伝えることから善導の別称とする)の言葉とは天と地ほどの相異がある。これを、阿弥陀仏が僧となって現われ、「善導の考えは真実である」と証明されたとしても、本当のこととして受けとることができるであろうか。そもそも、阿弥陀仏は法華経説法の会座えざに来て、他の諸仏とともに広長舌こうちようぜつを梵天につけ、法華経の真実を証明されなかったのであろうか。阿弥陀仏の脇士きようじとなられている観世音菩や勢至菩も法華経の会座におられなかったのであろうか。この事実によって考えてみなさい。慈覚大師の夢はわざわいをもたらす不吉な夢である。

弘法大師とその門下への不審


[108]問うて言う。弘法大師の般若心経秘鍵には「弘仁九年の春、天下に大疫病だいえきびようが流行した。そこで嵯峨天皇自ら筆端を黄金に染めて紺紙を手に取り、般若心経一巻を書写された。わたしは般若心経講読の講師に選ばれ、経典の根幹について述べた。まだ結願の詞(仏事ぶつじを結ぶにあたって捧げる言葉)を述べていないのに、疫病が治した人たちが道に出てたたずみ、夜中やちゆうに太陽の光が輝いた。これは愚かな自分の戒行の功徳ではない。徳の高い天皇の御信心の力によるものである。ただし、神に詣でる人たちはこの般若心経秘鍵をみ奉れ。昔、わたしは霊鷲山りようじゆせんにおける仏の説法の座にいて、親しく深い教えを聞いたのであるから、この書は経典の心に達していないはずがない」と述べられている。
[109]また、孔雀経音義には「弘法大師が帰朝した後、真言宗を立てようとして諸宗の人びとを朝廷に集められた。諸宗の人びとは真言宗の即身成仏の法義について疑いをもった。すると弘法大師は智の印(金剛界の大日如来が結ぶ仏智に入ることのできる印)を結んで南方に向かわれると、口が急に開いて金色の毘盧如来(大日如来、法身仏ほつしんぶつ)となられ、また直ちにもとの姿に戻られた。そこで入我我入(仏が我が身に入り、我が身が仏に入って互いに相応じることにより、我が身が仏と成る)のことや、即身頓証(身に即してたちまちに仏の覚証を得る。即身成仏のこと)についての疑いは、その日のうちに釈然として解けた。そこで、真言瑜伽の宗(三密瑜伽を修す真言宗)とその宗旨である秘密曼荼羅の道(真言密教の道法)がその時から建立された」とある。また同書には「この時に諸宗の学徒は弘法大師に帰伏きぶくし、始めて真言密教に触れることができたので、請い願って習学した。三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄などは皆その仲間である」と述べられている。
[110]弘法大師伝には「帰朝のため船に乗られる日、願をおこして、『わたしが学んだ教法に感応(心と心とが相通ずる)する場所がもしあれば、この三鈷はその所まで飛んでいくであろう』と言われ、日本の方に向けて三鈷を投げると、はるかに飛んで雲に入った。こうして、弘法大師は十月に帰朝された」とある。そしてさらに、「高野山のもとに禅定に入る場所を定められた。すると、かの国で海上に投げた三鈷がそこに在った」と述べられている。このように弘法大師の徳は計り知れないほど深い。今はその二、三を示したにすぎない。このように偉大な徳をもっておられるにもかかわらずこの人を信じないばかりか、かえって無間地獄に堕ちるなどとどうして言えようか。
[111]答えて言う。私もその徳を仰いでそのように信じている。ただし、昔の人びとにも不思議な徳のある人がいたけれども、仏法の邪正はそのようなことで決めるものではない。インドの外道のうち、ある者(阿竭多仙あかだせん)はガンジス河の水を十二年間も耳に留め、ある者(仙人きとせんにん)は大海の水を飲み干し、ある者(世智外道せちげどうは太陽と月を手に握り、ある者(瞿曇仙人くどんせんにん)は仏教徒を牛や羊に変えるなどのことをしたけれども、しだいに強い慢心を起こして生死に迷う原因となったのである。このことを天台大師は「名利を求めて煩悩を増す」(法華玄義)と説明されている。かつて、光宅寺の法雲がたちまちのうちに雨を降らせ花を咲かせたことについて、妙楽大師は「感応はこのように勝れていても、法の理に称っていない」(法華玄義釈籤)と書かれている。したがって、天台大師が法華経を読んで直ちに甘露の雨を降らせ、伝教大師が三日の内に甘露の雨を降らされたが、それをもって仏の御意みこころに叶ったとは言われていない。
[112]弘法大師がどのような徳をおもちになっていたとしても、法華経を戯論の法(真実を説かない方便の教え)と決めつけ、釈仏を無明の辺域(根本的な煩悩にしばられた迷いの境地)とお書きになるような考えを、智恵のある人は信用してはならない。まして前にあげられた弘法大師の徳の数数には不審なことがある。
[113]「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した」と言う。春と言っても九十日間ある。何月何日のことか。これが第一の不審である。弘仁九年に本当に大疫病があったのか。これが第二の不審である。また、「夜中に日の光が輝いた」と言うが、このことは一番の大事である。弘仁九年は嵯峨天皇の時代である。太政官だじようかん公文書こうぶんしよつかさどる左史・右史の記録にそのことが記載されているか。これが第三の不審である。また、たとえ記載されていたとしてもこれは信じがたいことである。成劫(宇宙が形成される時代)の二十劫(二十増減)と住劫の九劫(九減劫)で合計二十九劫もの長い間に、いまだない天変である。夜中に日輪が出現したということはいったいどういうことであろうか。このことは仏一代の聖教にも書かれていない。未来の世に夜中に日輪が出現する、とは三皇(中国太古の統治者、伏羲ふくぎ神農しんのう黄帝こうてい)五帝(中国古代の聖君せいくん小昊しようこうせんぎよくていこく帝堯ていぎよう帝舜ていしゆん)の三墳(三皇の事蹟を説いた書)五典(五帝の書)にも記載されていない。仏教の経典には、減劫の時代にだけ二つの太陽、三つの太陽、あるいは七つの太陽が出る、とは書かれているけれども、それは昼間のことである。夜に太陽が出現したら東西北の三方はどうなるのか。たとえ仏典や外典に記載されていなくとも、実際に、弘仁九年の春、何月の何日、いつの夜のいつの時刻に太陽が出た、と言うのか。公家・諸家・比叡山の記録などにあるのなら少しは信ずることもできるであろう。
[114]続いての文章に「昔、わたしは霊鷲山における仏の説法の座にいて、親しく深い教えを聞いた」という。これはこの文章を人に信じさせるためにつくり出した大妄語ではないのか。したがって、仏が霊鷲山で説法された時、法華経は戯論であり大日経は真実であると説かれたのを、阿難や文殊が誤って妙法華経を真実と書いてしまった、と言うのか。どうであろう。言うに足らないみだらな女性(和泉式部いずみしきぶ)や破戒の法師(能因のういん)が歌をんで雨を降らせたにもかかわらず、三七日経っても降らすことのできなかった人にこのような徳があるのであろうか。これが第四の不審である。
[115]孔雀経音義に「弘法大師は智の印を結んで南方に向かわれると、口が急に開いて金色の毘盧仏となられた」とある。これはまたいずれの天皇の時代で、いずれの年のことか。中国では建元から始まり、日本では大宝から始まり、在家者や出家者の日記、大切な記録にはかならず年号が記載されているが、これほどの大事でありながら、どうして王の名も臣の名も年号も日時も記されていないのか。
[116]また、次に「三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄」などが弘法大師に帰伏きぶくし真言密教を習学した、と言う。そもそも円澄は寂光大師と称し天台宗第二の座主である。そのことがあった時に、どうして第一の座主であった義真や根本の伝教大師を招かなかったのであろうか。円澄は天台宗第二の座主で伝教大師のお弟子であるけれども、弘法大師の弟子でもある。弟子を招くよりも、あるいは三論宗・法相宗・華厳宗の人びとを招くよりも、天台宗の伝教大師と義真の二人を招くべきではなかったのか。しかもこの記録には「真言瑜伽の宗とその宗旨である秘密曼荼羅の道がその時から建立された」とある。この記述は伝教大師や義真の存命中の時のように思われる。弘法大師は、平城天皇の時代の大同二年から弘仁十三年までは盛んに真言宗を弘めた人である。その時には伝教大師と義真の二人は現に存命中であった。また、義真は天長十年まで生きておられたけれども、その時まで弘法大師の真言宗は弘まらなかったのであろうか。いろいろと不審なことがある。
[117]孔雀経音義は弘法大師の弟子真済が自ら書いたものであるが、その内容は信じがたい。真済は邪見の者ではないであろうか。このようなことを書く時は公家・諸家・円澄の記録などを引用すべきであろう。また、道昌・源仁・道雄の記録なども調べてみなければならない。
[118]また、「面門(口)が急に開いて金色の毘盧となられた」とある。面門とは口のことである。口が開いたのであろうか。眉間が開いた、と書こうとして、誤って面門と書いたのであろうか。にせの書物を作るからこのような誤りがあるのではないだろうか。
[119]「弘法大師は智の印を結んで南方に向かわれると口が急に開いて金色の毘盧仏となられた」と言う。涅槃経の第六巻(本文の「五」は誤記)には「葉が仏に申し上げるには『世尊、私は今この四種の人(仏の入滅後、心の依りどころとなるべき人。須陀しゆだおん斯陀含しだごんあなごん阿羅漢あらかん)には頼りません。なぜなら、瞿師羅経の中に、仏が瞿師羅のために、天魔が仏法を破壊しようと思い、仏の姿をとり、三十二相八十種好(仏の相好そうごう)を具えて、光明こうみように輝き、満月のように円満な顔をし、眉間の白毫相びやくごうそうは雪よりも白く、そして左の脇から水を出し右の脇から火を出すようなことがある、と説かれているからです』と」(如来性品)。また、第七巻(本文の「六」は誤記)には「仏が葉に告げられるには、『わたしが入滅した後、この悪魔がしだいに仏の正法を破壊するであろう。あるいは姿を変えて阿羅漢や仏となり、有漏(煩悩を具えている)の身でありながら無漏(煩悩を離れている)の身とみせかけて、仏の正法を破壊するであろう』と」(如来性品)と説かれている。
[120]弘法大師は法華経を華厳経や大日経に対して戯論と言い、しかも仏身を現じられたと言う。このことを涅槃経には「悪魔が煩悩を具えた身でありながら仏とみせかけて仏の正法を破壊するであろう」と記されている。涅槃経で言う正法とは法華経のことである。したがって涅槃経の続いての文には「仏は久しい過去からすでに成仏している」(如来性品)とあり、また「法華経の中で八千の声聞が記別を授かったように、今は秋の収穫が終わり、することがないようなものである」(如来性品)と説かれている。釈仏・多宝仏・十方諸仏は、一切経の中で法華経は真実の教えであり、大日経などの諸経は真実の教えではない、と言われている。ところが弘法大師は、自ら仏の身を現じ、華厳経や大日経に対して法華経は戯論である、などと言う。仏の説法が真実であるならば弘法大師は天魔ではないだろうか。
[121]また、帰朝の時海上から三鈷を投げたら高野山にあった、ということもことのほか不審である。中国の人が日本に来て掘り出したということも信じがたい。前もって人を遣わして埋めておいたのではないだろうか。まして弘法大師は日本の人であるからできないこともないであろう。弘法大師にはこのような人をたぶらかす話が多い。これらのことをもって弘法大師が仏の御意みこころに叶った人であるとの証拠とすることはできない。

承久の乱と真言宗


[122]そこで、この真言宗をはじめ禅宗・念仏宗などがしだいに盛んになってきたころ、人王第八十二代後鳥羽ごとば法皇(いみなは尊成。隠岐法皇とも称される)は、権太夫ごんのたゆう北条義時を亡ぼそうと年来くわだてておられたが、国主である以上、獅子がをねじ伏せ鷹が雉を取るようにかんたんなことであったはずであるうえに、比叡山・東寺・園城寺・奈良の七大寺・天照太神・正八幡・山王神社・賀茂神社・春日神社などに数年の間、調伏の祈をさせたり、神に祈願しておられたにもかかわらず、いざ戦いになると、二日、三日も支えることができないで、順徳上皇は佐渡の国へ、土御門つちみかど上皇は阿波の国へ、後鳥羽上皇は隠岐国へそれぞれ流され、ついにその地で崩御されてしまった。
[123]北条義時を調伏するための祈を修した上首(頭目とうもく)である仁和寺にんなじ御室の道助法どうじよほう親王(御鳥羽上皇の第二皇子)は、東寺から追い出されたばかりでなく、眼に入れても痛くないほど寵愛されていた童児勢多伽の首を切られてしまったのは、調伏が逆の結果を現わしたもので、法華経観世音菩普門品ふもんぼんに説かれているように、邪法によって祈っても「禍がかえって本人に著く」という道理のとおりになったものと思われる。これは小さいことである。この後、かならず日本の国臣万民すべてが、乾草を積んで火をつけられたように、大山が崩れ落ちて谷が埋まるように、他国から攻められることが起こるにちがいない。

知教の自覚と受難


[124]このこと(釈尊の御本意ごほんいである正しい法華経の教えとその御意みこころ違背いはいしている現実の歴史社会)を日本国の中でただ日蓮一人だけが真に知った。それを言い出せば、殷の紂王が忠臣である比干の胸を裂いたように、夏の桀王が自分を諫めた竜の頸を斬ったように、檀弥羅王が仏教徒を迫害し付法第二十四人目の師子尊者の頸を刎ねたように、竺の道生が闡提成仏せんだいじようぶつ(善根を断ったような悪人でも成仏できる)の教義を立てて蘇山そざんに流されたように、法道三蔵がきそう皇帝を諫めて顔に焼き印を押されて蘇山に流されたようになるであろうと、かねてより知っていたけれども、法華経には「わたし(諸菩)は身命に愛着せず、身命を投げ捨てて無上道(仏の真実の教え)に生きる」(勧持品かんじほん)と説かれ、涅槃経には「たとえ身命を捨てても仏の教えを匿してはならない」(如来性品)と諫めておられる。
[125]今のこの世の生において命を惜しむならば、いったいいつの世に仏に成ることができるだろう、またいつの世に父母や師匠をお救いすることができるだろうかと、ついに思い切って言い始めたところ、予想していたとおり、住居をわれ、ののしられ、打たれ、きずを受けたりするうちに、去る弘長元年辛酉五月十二日に幕府の御勘気(おとがめ)を受けて、伊豆国伊東に流された。そして同じ弘長三年癸亥二月二十二日に赦免しやめんされた。
[126]その後もますます菩提心をおこし強く法華経の教えを説いたので、さらにいっそう大難が重なり、あたかも大風によって大波おおなみが起こるようであった。昔、威音王仏いおんのうぶつの世に出たじよう不軽菩木で責められたことも、自分の身の上のように思われた。また、昔、歓喜増益ぞうやく仏の末の世に出た覚徳比丘が破戒の悪比丘たちから受けた大難も、自分の受けた諸難には及ばないであろうと思われる。日本六十六箇国島二つの中に、日蓮は一日片時も安穏あんのんに住むことのできるような場所はない。昔二百五十戒を持ちすべてに耐え忍んだらごらのような持戒の聖人も、富楼のような智者も、日蓮に会えば悪口を吐く。正直で唐の太宗皇帯に信頼された魏徴や忠仁公と称され清和天皇の摂政となった藤原良房ふじわらのよしふさのような賢者も、日蓮を見れば道理を曲げて非道を行う。まして世間の一般の人びとは、犬が猿を見た時のような、猟師が鹿を追い込めた時のような状態である。
[127]日本国の中でだれ一人として、日蓮の言うことには何か理由があるのではないか、と言う人もいない。それももっともである。人びとはすべて念仏をとなえているにもかかわらず、その人たちに向かうたびに「念仏は無間地獄に堕ちる」と言うのであるから。人びとは真言密教を尊崇そんすうしているにもかかわらず、日蓮は「真言は国を亡ぼす悪法である」と言い、国主(鎌倉幕府の主権者)は禅宗を尊崇しているにもかかわらず、日蓮は「天魔の教えである」と言うのであるから。自分で承知したうえで招いている禍であるから、人びとが日蓮を詈っても咎めたりはしない。咎めたところで相手は一人や二人ではない。打たれても痛みはしない。このような受難はもとから覚悟していたことであるから。
[128]このように、ますます身命をも惜しまずに責めたので、禅宗の僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人が、奉行所に訴えたり、権勢のある人の所に行ったり、権力を持つ女房の所に行ったり、夫を失った有力な尼御前のもとに行ったりして、あらゆる讒言ざんげんをした。そのために、最後には「天下第一の大事である国さえも亡ぼそうと咒咀している法師である。故最明寺殿(故北条時頼)や極楽寺殿(北条重時しげとき)を無間地獄に堕ちたと言う法師である。御尋問ごじんもんなさるまでもない。直ちに頸を斬るべきである。弟子たちは頸を斬ったり、遠い国に流したり、牢に入れたりせよ」と尼御前たちがお怒りになったので、そのとおりに執行された。
[129]去る文永八年辛未九月十二日の夜は、相模国の竜口たつのくちで首を斬られるところであったが、どうしたわけか、その夜の難は免れて依智というところに連れて行かれた。また、十三日の夜は赦免になったと大勢の者が口ぐちに騒いだが、どのようなことになったのか、佐渡国さどのくにまで流された。佐渡では、「今日、首を斬る」とか「明日、首を斬る」などと言われているうちに四箇年が経ち、結局、去る文永十一年太歳甲戌二月十四日に赦免され、同三月二十六日に鎌倉に帰った。同四月八日、侍所さむらいどころの所司である平左衛門尉頼綱と会見し、さまざまなことを申し述べたが、その中で「今年はかならず蒙古が襲撃してくる」と申しておいた。同五月十二日に鎌倉を出てこの身延山みのぶさんに入ったのである。このような日蓮の法華経信仰の実践は、ひとえに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩にむくいんがために、身を捨て、命を捨てたのであるが、幸い死ぬこともなく今日にいたったのである。昔より賢人のならいとして、三度国を諫めても用いられなければ山林にまじわれ、という。これは古来よりの定まった例である。

恩師道善御房への追悼


[130]日蓮が身命を捧げた法華経への御奉公の功徳は、かならず上は三宝から下は梵天・帝釈・日月までもご存知のことであろう。したがって、亡き父母も恩師道善御房ごぼうの聖霊もこの功徳によって助かることであろう。
[131]ただし、疑問に思われることがあるであろう。神通力じんずうりき第一と称された目連尊者は、母の青提女を助けようとしたけれども、母は餓鬼道に堕ちてしまった。また、偉大な覚者かくしやである釈尊の御子と伝えられている善星比丘は、悪友に親しみ邪見を起こしたために無間地獄に堕ちた。これらは力の限り救おうとされたのであるけれども、自業自得による結果であるから救いがたいのである。
[132]故道善御房は、かわいい弟子のことであるから日蓮を憎いなどとはお思いになっていなかったであろうが、きわめて臆病であったうえに、清澄を離れまいと固執していた人である。地頭の東条景信が恐ろしくもあり、提婆達多や瞿伽梨のような円智と実城とが上と下とにいておどすのを強く恐れて、かわいそうだと思うような幼い年齢の弟子たちさえも捨てられた人であるから、後生(死後)はどうなるであろうかと疑わしく思う。ただ一つ幸いなことに、東条景信と円智・実城とがともに先に死去したことは一つの救いであったとは思えるけれども、この人たちは法華経の十羅刹によの罰を受けて早くに亡くなってしまったのである。道善御房は後になって法華経を少しは信じられるようになったけれども、それは喧嘩の後の乳切木ちぎりき(身をまもるための棒)と同じで、時を失い役に立たない。昼間に灯をつけても役に立たないことと同じである。そのうえ、どのようなことがあっても、子供とか弟子などというものに対しては、かわいそうにと思うものである。それだけの力のない人でもなかったにもかかわらず、佐渡国まで流されていた日蓮を一度もお訪ねくださらなかったことは、法華経を信じられたのではないのである。
[133]それにつけてもなげかわしいことであるので、道善御房が死去されたと聞いた時には、たとえ火の中に飛び込み、水の中に沈んでも走って行って、御墓をたたいて御経おんきようを一巻読誦したいと思ったけれども、昔から伝えられている賢人の習いもあり、自分では世などとは思っていないけれども、世間の人は日蓮のことを世と思っているであろうから、わけもなく走り出ていくと、自分の意志を最後まで貫き通せない弱い人であると思うであろう。したがって、どのように思っても行くわけにはいかない。
[134]ただし、貴方がた二人(浄顕房じようけんぼう義城房ぎじようぼう)は日蓮が幼少の時の師匠である。勤操僧正と行表僧正は伝教大師の師匠であったが、後には逆にお弟子になられたようなものである。日蓮が東条景信に憎まれて清澄山を出た時に、日蓮を追って忍び出られたことは、天下第一の法華経への御奉公である。後生の成仏に疑いをもってはなりません。

法華経の肝心


[135]問うて言う。法華経一部八巻二十八品のなかで何が肝心であるのか。
[136]答えて言う。華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。このように一切経はすべて「如是我聞」(かくのごとくわたしは聞いた。経典に共通した冒頭の語句)の上にある経典の題目が、その経の肝心である。
[137]大は大なりに、小は小なりに、それぞれの経典はいずれもその題目をもって肝心とする。大日経・金剛頂経・蘇悉地経などもまた同じである。仏もまた同じである。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通智勝仏・雲雷音王仏など、これらの仏もまたお名前の内にその仏の種々の徳を具えておられる。今この法華経もまた同様である。「如是我聞」の上にある「妙法蓮華経」の五字はそのまま法華経一部八巻の肝心であり、また、一切経の肝心であり、一切の諸仏・菩・二乗・天人・修羅・竜神などの頂上の正法である。

唱題の功徳


[138]問うて言う。「南無妙法蓮華経」と意味も知らない者が唱えることと、「南無大方広仏華厳経」と意味も知らない者が唱えることとは等しいであろうか。また、功徳に浅いと深いとの相違があるであろうか。答えて言う。功徳に浅いと深いとの相違がある。
[139]疑って言う。その意味はどのようなことであろうか。答えて言う。小さな河は露・しずく井戸水いどみず溝水みぞみず・入り江の水などは収めることができるけれども、大きな河の水を収めることはできない。大きな河は露および小さな河の水を収めることはできても、大海の水を収めることはできない。阿含経は井戸水や入り江の水などや露・雫を収めた小さな河のようなものである。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経などは小さな河を収めた大きな河である。法華経は露・雫・井戸水・入り江の水・小さな河・大きな河・そらから降り注ぐ雨などのすべての水を一滴も漏らさず収めた大海である。
[140]譬えれば、からだの熱い者が冷たい水がたくさんあるそばで寝れば涼しいけれども、少しばかりの水のあるそばで寝ても苦しいことと同じである。五逆罪を犯し正法を誹謗した極悪の一闡提の人(善根を断った人)は、阿含経・華厳経・観無量寿経・大日経などの小水(少しばかりの水)のほとりでは、大罪の大熱をさますことができない。法華経の大雪山の上に臥せば、五逆罪・謗法罪・一闡提などの大熱はたちまちにさめてしまうであろう。
[141]したがって、愚者はかならず法華経を信ずべきである。それぞれ経典の題目を唱えることがやさしいのは同じであるが、愚者と智者とが唱える功徳は天と地のように雲泥の違いがある。譬えば大綱は大力の者でも切ることが難しい。ところが、小力の者であっても小刀を用いればたやすく切ることができる。また、譬えれば、堅い石は、鈍刀どんとうでは大力の者でもることが難しいけれども、利剣を用いれば小力の者でも破ることができる。さらに譬えれば、薬の内容は知らなくても、薬を飲めば病は治する。ただの食物しよくもつでは病気は治しない。譬えれば、仙薬(霊薬)は寿命を延ばし、凡薬は病を治することはできても寿命を延ばすことはできないのである。

肝心の大法「南無妙法蓮華経」


[142]疑って言う。法華経一部二十八品の中では何が一番肝心であろうか。答えて言う。ある人は「各品はすべてそれぞれの場合において肝心である」と言い、ある人は「方便品と寿量品が肝心である」と言う。ある人は「方便品が肝心である」と言い、ある人は「寿量品が肝心である」と言う。ある人は「方便品の開・示・悟・入(仏は、衆生に仏知見ぶつちけんを開かしめ、示し、悟らしめ、仏知見のどうに入らしめるために、この世に出現したという、仏がこの世に出現された一大事の因縁を説く経文)の文が肝心である」と言い、ある人は「実相(真実のすがた。方便品には十如是じゆうによぜをもって仏の体得された諸法実相の法門が説かれている)が肝心である」と言う。
[143]問うて言う。貴方の考えはどうなのか。答える。南無妙法蓮華経が肝心である。問う。その証拠はなにか。答えて言う。阿難尊者や文殊師利菩などは「如是我聞」(このようにわたしはお聞きした)と言われている。問うて言う。それはどういうことなのか。答えて言う。阿難尊者と文殊師利菩とは、八年の間、この法華経の計り知れない法門を一句一偈一字も残さず聴聞されていたのであり、仏が入滅された後の結集(仏の入滅後、弟子たちが集会しゆうえして仏の教えを述べあい集大成していったこと)のおり、九百九十九人の阿羅漢たちが筆に墨をつけて待ち構えていた時に、まず「妙法蓮華経」と書かせてから、「如是我聞」とお唱えになったのは、「妙法蓮華経」の五字が法華経一部八巻二十八品の肝心である証拠にほかならないのではなかろうか。
[144]したがって、過去の日月にちがつ灯明仏の時代から法華経を講じていたと伝えられている光宅寺の法雲法師は、「如是とは、仏から聞いた法を伝えようとしたもので、その法とは前にあげた題目であり、この題目に経典全体の肝心をかかげたのである」と述べられている。霊鷲山りようじゆせんでまのあたり法華経を聴聞されたと伝えられる天台大師は、「如是とは、仏から聞いた法の本体である」(法華文句)と言われ、章安大師は「記者(講義を聞いて記録した者、すなわち章安大師のこと)が解釈して言う。思うに序王(天台大師の序文)は経の玄意(奥深い教え)を述べたものであり、玄意は経文の心を述べたものである」(法華玄義釈籤)と言われている。この解釈文に「文心」というのは題目のことをいい、題目は法華経の心である。妙楽大師は「仏の一代の教法を収めることは法華経の文の心から出る」(法華玄義釈籤)とも言われている。
[145]天竺(インド)には七十箇国があり、その総名は月氏国と言う。日本は六十余箇国でその総名は日本国である。月氏という名前のなかに七十箇国とそこに住む人間や動物、珍しい財宝などがすべて入る。日本と言う名前のなかに六十六箇国がある。出羽国でわのくにに産するわしの羽も奥州で産する黄金こがねも、そのほか国の珍しい財宝・人間・動物、および寺院も神社もすべて日本という二字の名前に摂まっている。天眼(天人の眼)で日本という二字を見れば、六十六国とそこに住む人間や動物などを見ることができる。法眼(法を照らす智恵の眼。菩の眼)で見れば、人間や動物があちこちで死んだり産まれたりするのが見えるであろう。譬えば、人の声を聞いて体の様子を知り、足跡を見てその大小を知る。はすを見て池の大小を計ったり、雨を見て竜の大きさを考えることと同じである。これらはすべて、一つのことに一切が含まれているという道理である。
[146]阿含経の題目にはおよそ一切のものが収まっているようであるけれども、その内実は、ただ小乗の釈仏が一仏おられるだけで他の仏は説かれていない。華厳経・観無量寿経・大日経などには一切のものが具わっているようであるけれども、二乗(声聞と縁覚)が仏に成るという法門と久遠実成の釈仏が説かれていない。これは、例えば花が咲いてもがならず、雷が鳴っても雨が降らず、鼓をたたいても音がせず、眼があっても不自由で見ることができず、女性であっても子供を産むことができず、人間であっても命やたましいがないようなものである。大日如来の真言、薬師如来の真言、阿弥陀如来の真言、観世音菩の真言などもまたこれと同じである。それらの経典の中では、大王・須弥山・日月・良薬・如意宝珠・利剣などのようではあっても、法華経の題目に対すれば勝劣に雲泥の相違があるばかりでなく、それぞれの経典のもっている力用りきゆう(力とはたらき)も失ってしまうのである。
[147]例えば、多くの星の光が一つの太陽の光明こうみように奪われ、もろもろの鉄が一つの磁石によって力が尽きたように引き寄せられ、大きなつるぎが小さな火に入れられればはたらきを失い、牛乳や驢乳(ろばの乳)などが獅子王(ライオン)の乳に対すれば水のようになり、多くの狐が術を使っても一匹の犬に会えば術の力を失い、狗犬(犬、または小犬)が小さな虎に会って顔色を変えるようなものである。南無妙法蓮華経と唱えれば、南無阿弥陀仏のはたらきも、南無大日真言の用も、観世音菩の用も、一切の諸仏諸経諸菩の用も、すべてが妙法蓮華経の力用に消されてしまう。それらの諸経典は、妙法蓮華経の力用りきゆうを借りなければ、すべてむだなはたらきになるであろう。このことは、今、現に目前にある道理である。日蓮が南無妙法蓮華経と弘めていれば、南無阿弥陀仏の用は月の隠れるように、潮のくように、秋冬に草が枯れていくように、氷が太陽に照らされてけるようになっていくさまを見なさい。

インドにおける諸論師の弘法


[148]問うて言う。この妙法蓮華経が真実に尊いのならば、なぜ葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教などが、善導が南無阿弥陀仏を勧めて中国に弘めたように、慧心・永観・法然が日本国をすべて阿弥陀仏の信者にしたように、お勧めにならなかったのであろうか。
[149]答えて言う。この難問は古くからあった問題で、今はじめて起きた問題ではない。馬鳴菩や竜樹菩などは仏が入滅されてから六百年、七百年のころに出た大論師である。この人たちが世に出て大乗経を弘められたので、もろもろの小乗経の人たちが疑って言うには、「葉尊者や阿難尊者などは仏の入滅後二十年から四十年の間存命されており、仏御一代の肝心である正法を弘められたのであろう。ところが、この馬鳴菩や竜樹菩などは、ただ苦(三界は苦)・空(一切は空)・無常(心は無常)・無我(一切衆生は無我)の法門を中心に説かれた。今、馬鳴菩や竜樹菩などがいかに賢者であると言っても、仏のじき弟子である葉尊者や阿難尊者などには及ばないであろう。〈これが第一の疑問である〉。葉尊者らは仏に直接お会いして教えを受け解脱さとりを得た人である。ところが馬鳴菩や竜樹菩などは仏にお会いになっていない。〈これが第二の疑問である〉。インドの外道が常(心は常住)・楽(三界は楽)・我(一切衆生には我がある)・浄(身は清浄しようじよう)と立てたのを、仏は世にお出になり苦(三界は苦)・空(一切は空)・無常(心は無常)・無我(一切衆生は無我)と説かれた。ところがこの馬鳴菩や竜樹菩などは、常(常徳。三世にわたって変わらない)・楽(楽徳。生死の苦を離れ、涅槃寂静の楽を証する)・我(我徳。仏の八大自在我)・浄(浄徳。煩悩を離れた湛然たんねん清浄の境地)と説いた。〈これが第三の疑問である〉。そこで仏も御入滅になり、葉尊者などもお亡くなりになったので、第六天の魔王がこの人たちの身に入りかわって仏法を破り、外道の法にしてしまおうとするのである。したがって、仏法の怨敵であるから「頭をれ、頸を斬れ、命を断て、食物を施すな、国から追放せよ」と騒ぎ立てたが、馬鳴菩や竜樹菩はただ一人か二人である。昼夜に悪口の声を聞き、朝暮に木で打たれたのである。しかしながら、この二人は仏の使いである。まさしく、摩耶経には仏の入滅後六百年に馬鳴が出、七百年には竜樹が出るであろうと説かれている。そのうえ楞伽経などにもしるされているし、付法蔵経に説かれていることは言うまでもない。けれども、もろもろの小乗教の者たちはこれを用いず、ただ道理を無視して責めたのである。法華経に説かれる「如来現在猶多怨嫉況滅度後」(仏の御在世ですらなお多くの怨嫉を受ける。まして仏が入滅された後においてはなおさらである)(法師品ほつしほん)の経文を、この時にあたって少しは体験的に実感されたのである。提婆菩が外道に殺され、師子尊者が頸を切られたことも、このことをもって推量しなさい。

中国における天台・妙楽両大師の弘法


[150]また、仏が入滅されて後一千五百余年に、インドから東の方面に漢土(中国)という国があり、その国の陳・の時代に天台大師が出られた。この人は「如来の聖教には大乗もあれば小乗もある、顕教もあれば密教もある、権教もあれば実教もある。葉や阿難などはもっぱら小乗教を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親などは権大乗教を弘めて、実大乗の法華経はただ指で指し示しただけでその教えの内容については説かなかった。あるいは法華経の表面だけを述べてその内容の始めの部分・中頃の部分・終わりの部分などについて深くは述べなかった。または迹門(法華経の前半十四品とその教え)については述べても本門(法華経の後半十四品とその教え)については説き顕わさなかった。もしくは本門と迹門について述べていても観心(実相を観察して真理を体得する修行)については説いていない」と言ったので、南三北七の十家の流れをくむ学者たち数千万人は、一時にどっと笑った。この人たちは「世も末になると不思議なことを言う法師も出現する。時によってはかたよった考えで私たちを執拗に非難する者はいるけれども、後漢の永平十年丁卯の年から今の陳・の時代にいたるまでの三蔵や人師二百六十余人を、もの知らずと言ううえに、謗法者とか悪道に堕ちたという者が出現した。あまりにも狂気じみてしまっていて、法華経を将来しようらいされた鳩摩くま羅什三蔵さえももの知らずと言うのである。中国のことはさておいても、インドの大論師である竜樹・天親などの数百人の四依の菩(仏滅後、人びとが心の依りどころとすべき人で、仏法を弘めるように仏から付属されている)さえもいまだ実義を述べておられない、と言うのである。このようなことを言う者を殺しても有害な鷹を殺すことと同じであり、鬼を殺すことよりも有益ゆうえきである」などとののしり騒いだのである。
[151]また、妙楽大師の当時、インドから法相宗と真言宗とが渡ってきて、中国に華厳宗が開かれたので、妙楽大師がいろいろと論難されたために、これもまた騒ぎになってしまった。

日本における伝教大師の弘法


[152]日本国では仏の入滅後一千八百年にあたる頃、伝教大師がお出になり、天台大師の注釈書をご覧になり、欽明天皇の時代以来二百六十余年間の六宗の教えを論難されたので、六宗の人たちは「仏の御在世の時の外道や中国の道士が日本に出現した」と誹謗した。さらに、伝教大師は、仏の入滅後一千八百年の間、インド・中国・日本にはかつてなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立しようとされただけでなく、「西国筑紫つくしの観世音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国の東大寺の戒壇はともに小乗の臭糞の戒であり、瓦や石のようなものである。このような戒を持つ法師は狐か猿のようなものである」と言われたので、六宗の人たちは「なんと不思議なことだ。法師に似た大きないなごが日本国に現われた。仏教の苗はいちどに失われてしまうであろう。悪人として知られる殷の紂王や夏の桀王が法師となって日本に生まれたのである。仏教を破壊したことで著名ちよめいな後周の宇文(武帝)や唐の武宗が再びこの世に出現した。仏法は今この時に滅亡してしまうであろう。国も亡びてしまうであろう」と騒ぎたてた。なにしろ大乗と小乗の二種類の法師が同時代に世間に出たのであるから、まるで修羅と帝釈、秦の項羽と漢の高祖とを一つの国に並べたようなものである。人びとは手をたたき、舌をふるわせて非難攻撃をした。そして「仏の御在世には、仏と提婆達多との二つの戒壇(制誡)があったので、その争いのために何人かの人たちが死んだ。そこで、他宗に背くことは解るけれども、自分の師である天台大師もお立てにならなかった円頓の戒壇を建立するなどということは不思議に思われる。なんと恐ろしいことであろうか」と詈り騒ぎ合った。しかしながら、経文には明確に説かれているために、比叡山の大乗戒壇はすでに建立されたのである。
[153]したがって、心中に体得された証果(悟りの境地)は同じであっても、弘められた法は、葉尊者・阿難尊者よりも馬鳴菩・竜樹菩などのほうが勝れ、馬鳴菩などよりも天台大師のほうが勝れ、天台大師よりも伝教大師のほうが超えられたのである。世が末になると、人の智恵は浅くなり、仏教は深くなるということである。たとえば、軽病には凡薬でよいけれども重病には仙薬でなければならないし、弱い人には強い味方があることによって助けることができるようなものである。

三大秘法の開示


[154]問うて言う。天台大師や伝教大師などのお弘めにならなかった正法があるか。答えて言う。有る。その答えを求めて言う。その正法とは何であるか。答えて言う。それには三つのものがある。末法の世のために、仏が留めおかれたもので、葉尊者・阿難尊者などの仏弟子、馬鳴菩・竜樹菩などの論師ろんじ、天台大師・伝教大師などの法華経弘通の先師もいまだ弘められなかった正法である。
[155]求めて言う。その正法の具体的な形貌(姿形すがたかたち)はどのようなものであるのか。答えて言う。一つには日本をはじめ一閻浮提(宇宙全体)にいたるまで、一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきである。すなわち、宝塔の内の釈牟尼仏と多宝仏、外の諸仏、ならびに上行菩などの四菩は脇士となるのである。二つには本門の戒壇である。三つには日本をはじめ中国・インドはもとより一閻浮提にいたるまで、人ごとに、智恵のある者も智恵のない者も区別なく、すべての行業ぎようごうを捨てて南無妙法蓮華経と唱えるべきである。

末法未弘の題目


[156]このことはいまだ弘まっていない。一閻浮提の内で、仏のご入滅後二千二百二十五年の間、一人も唱えた者がいない。日蓮ただ一人が南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜しまずに唱えているのである。
[157]例えば、風の強さによって波に大小があり、薪の量によって火炎に高低がある。池によって蓮に大小があり、雨の多少は竜によって生ずる。根が深ければ枝は茂り、水源が遠ければ流れは長い、と言うのはこのことである。周の時代が七百年間も続いたのは、文王が礼を重んじ孝を尊び人倫の道にのっとった政治を行ったからである。秦の世が長く続かなかったのは、始皇の無道(誤った道)のためである。

日蓮の慈悲と題目の流布


[158]釈尊の御意みこころのとおり、すべての人びとを救いたいと願う日蓮の慈悲の心が広大であれば、末法救済の大法である南無妙法蓮華経は万年どころか未来永劫までも弘まるであろう。日蓮の仏行ぶつぎようは日本国のすべての人びとの盲目を開く功徳があり、無間地獄への道を塞ぐ。この功徳は伝教大師や天台大師を超え、竜樹菩葉尊者よりも勝れている。極楽で積む百年間の修行の功徳も、この穢土(迷苦に満ちた凡夫の住む世界。娑婆世界)で積む一日の修行(題目受持、唱題)の功徳には及ばない。正法時と像法時にわたる二千年間もの仏教弘通の功徳は、末法における一時いつとき(ほんの少時間)の弘通(題目広布)の功徳には及ばない。これはけっして日蓮の智恵が賢いからではない。末法という時の必然的ありようである。春には花が咲き、秋には実を結び、夏は暖かく冬は冷たい。これは時節が自然にそうさせているのではないだろうか。

題目流布の経証


[159]法華経には「わたしが入滅した後、後の五百年の間、広く閻浮提に弘めて、悪魔魔民(悪魔と魔界の大衆)やもろもろの天・竜・夜・鳩槃(人の精気を食べる鬼神)などの鬼神にを与えてつけ込まれ、この法華経を断絶させるようなことがあってはならない」(薬王菩本事品)と仏の勅命が説き示されている。もし、この経文がむなしいものになってしまうならば、たとえ法華経に明確に説かれていても、舎利弗尊者は華光如来となることはできない。葉尊者は光明如来となることはできない。目連尊者は多摩羅跋栴檀香仏となることはできない。阿難尊者は山海慧自在通王仏となることはできない。摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏となることはできない。耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏となることはできない。化城喩品けじようゆほんの三千塵点劫(三千塵点劫で譬えられる久遠の過去に、大通智勝如来が世に出現され法華経を説かれた。そして、仏が禅定に入っておられる間に十六菩が法華経を覆講ふこうされた。これを一切衆生に対する法華経の下種結縁げしゆけちえんとする)も戯論、如来寿量品の五百億塵点劫(五百億塵点劫で譬えられる久遠の過去に、釈牟尼仏はすでに成道じようどうされていたことをかす)も妄語となり、おそらく教主釈尊は妄語の罪で無間地獄に堕ち、法華経の真実を証明された多宝仏は偽証の罪で阿鼻地獄の炎にむせび、十方世界から来集らいしゆうして広長舌こうちようぜつを梵天につけ法華経の真実を証明された諸仏は同じく偽証の罪で八大地獄を栖とするようになり、すべての菩は一百三十六の地獄の苦しみを受けるであろう。どうしてそのような考えが成り立つであろうか。そのようなことはありえないということであれば、日本国のすべての人びとは等しく南無妙法蓮華経と唱えるはずである。

恩師道善御房への報恩回向


[160]そうであれば、咲いた花は元の根にかえり、果実の真味(まことの味)は土にとどまるように、日蓮が法華経に身命しんみようを捧げてきたその功徳は、恩師道善御房の聖霊の御身に集まるであろう。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
[161]建治二年〈太歳丙子〉<日>七月二十一日     これを著わす
[162]甲州波木井郷身延山みのぶさんから安房国東条郡清澄山の浄顕房と義城房のもとへお送りする。