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八宗違目鈔

全集 第2巻 2段 定本: #96(定本の該当ページへ)

書下し

八宗違目鈔はつしゆういもくしよう


[1]の九に云く、もしそれいまだ開せざれば法・報は迹にあらず。もし本しおわれば本迹各三なり。の九に云く、仏世において等しく身あり、諸教の中においてこれを秘して伝えず。
[2]<図版ID>k0200230<図版タイトル><キャプション>
<kw>仏 法身如来 報身如来 応身如来
<kw>衆生仏性 小乗経には性の有無を論ぜず 日経等には衆生本より正因仏性あり、了因縁因なし 法華経には本より三因仏性あり
<kw>衆生 正因仏性 了因仏性 縁因仏性
[3]句の十に云く、正因仏性〈法身の性なり〉は本当に通亘つうかんす。縁了仏性は種子本有しゆうじほんぬ、今に適うにあらざるなり。
[4]法華経第二に云く、今この三界はみなこれわがなり〈主 国王 世尊なり〉その中の衆生はことごとくこれわが子なり〈親父なり〉しかも今このところは諸の患難げんなん多し、ただわれ一人のみ〈導師〉よく救護くごをなす。寿量品に云く、我もまたこれ世の父文。
[5]<図版ID>k0200250<図版タイトル><キャプション>
<kw>主 国王 報身如来 師 応身如来 親 法身如来
[6]五百問論に云く、もし父の寿の遠を知らずして、また父統ふとうの邦に迷わば、いたずらに才能というとも全く人の子にあらず。また云く、ただ恐らくは才 一国に当るとも、父母の年をらず。古今仏道論衡ろんこう〈道宣作〉に云く、三皇已前はいまだ文字あらず○ただその母を識りて、その父を識らず、きん〈鳥等なり〉獣に同じ等云云。〈慧遠法師の周の武帝を詰る語なり〉
[7]<図版ID>k0200251<図版タイトル><キャプション>
<kw>舎宗 実宗 宗 一向に釈尊を以て本尊となす。しかりといえども、ただ応身に限る。
<kw>厳宗 論宗 相宗 釈尊を以て本尊となすといえども、法身は無始無終、報身は有始無終、応身は有始有終なり。
<kw>言宗——一向日如来を以て尊となす。
[8]二義あり。一義に云く、大日如来はの法身。一義に云く、大日如来は釈の法身にはあらず。ただし大日経には大日如来は釈牟尼仏なりと見えたり。人師よりの僻見なり。
[9]土宗——一向に弥陀如来を以て本尊となす。
[10]法華宗より外の真言等の七宗、ならびに浄土宗等は釈如来を以て父となすことを知らず。例せば皇已前の人、禽獣きんじゆうに同ずるがごとし。鳥の中に鷦鷯鳥しようりようちよう鳳凰鳥ほうおうちようも父を知らず。獣の中にはも師子も父を知らず。三皇已前は大王も小民も共にその父を知らず。台宗よりの外、真言等の諸宗は大乗宗は師子鳳凰のごとく、小乗宗は鷦鷯・等のごとく、共に父を知らざるなり。
[11]華厳宗に界互具念三千を立ること観の疏にこれあり。真言宗に十界互具一念三千を立ること日経の疏にこれを出す。天台宗と同異いかん。天台宗已前にも十界互具一念三千を立つるや。
[12]の三に云く、しかるに衆釈をあつむるに既に三乗および一乗、三一倶に性相等の十ありと許す。なんすれぞ六道の十を語らざらんや。〈この釈のごとくんば天台已前五百余年人師三蔵等法華経に依つては一念三千の名目を立てざるか。〉
[13]問て云く、華厳宗は一念三千の義を用るや。〈華厳宗は唐の則天皇后の御宇これを立つ。〉
[14]答て云く、澄観の疏三十三に云く〈清涼国師〉観の第五に十法成乗を明かす中、第二に真正発菩提心○釈して曰く、しかもこの経の上下発心の義、文理淵博なれどもその撮略さつりやくを見る。故に取てこれを用い引てこれを証す。二十九に云く、華経に云く、唯仏与仏等。天台云く○すなわち三千世間を成ずと。かの宗にこれを以て実となす○一家の意理として通ぜざるなし文。厳経に云く〈旧訳は功徳林菩これを説く、新訳は覚林菩これを説く。弘決に如来林菩と引く。〉心は工画師のごとく種種の陰を画く。一切世間の中に法として造らざることなし。心のごとく仏もまたしかなり。仏のごとく衆生もしかなり。心・仏および衆生、この三、差別なし。もし人、三世一切の仏を了知せんと欲せば、まさにかくのごとく観ずべし。心は諸の如来を造ると。法華経に云く〈これ略開三の文なり仏の自説なり。〉いわゆる諸法とは是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等。又云く、ただ大事因縁を以ての故に世に出現したもう。諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめんと欲す。蓮華三昧経に云く、帰命本覚心法身、常住妙法心蓮台。本来三身の徳を具足し、三十七尊〈金剛界の三十七尊なり〉心城に住す。心王大日遍照尊、心数恒沙しんじゆごうじや諸の如来、普門塵数ふもんじんじゆ諸の三昧、因果を遠離おんりして法然として具す。無辺の徳海本より円満、還てわれ心の諸仏を頂礼す。仏蔵経に云く、仏、一切衆生をみそなわせば、心中に皆、如来いまして結跏趺坐けつかふざすと文。
[15]問て云く、言宗一念三千を用るや。
[16]答て云く、日経の義釈〈善無畏・金剛智・不空・一行〉に云く〈この文に五本あり、十巻本は伝教弘法これを見ず。智証これを渡す。〉この経はこれ法王の秘宝、妄りに卑賤の人に示さず。釈出世して四十余年、利弗の慇懃三請に因て、まさにために略して妙法蓮華の義を説きたまいしがごとく、今この本地の身、又これ妙法蓮華経最深秘処なるが故に。寿量品に云く、常在鷲山 及余諸住処 乃至 我浄土不毀 而衆見焼尽、すなわちこの宗、瑜伽の意ならくのみ。又補処ふしよ慇懃三請おんごんさんしように因て、まさにためにこれを説く。又云く、又この経の宗は横に一切の仏教をすぶ。ただ蘊無我出世間心住於蘊中と説くがごときは、即ち諸部の小乗三蔵を摂す。蘊阿頼耶うんあらやを観じて自心の本不生を覚ると説くがごときは、即ち諸経の八識三性無性の義を摂す。極無自性心十縁生の句を説くがごときは、即ち華厳般若種種の不思議の境界を摂して、皆その中に入る。如実知自心と説くがごときは一切種智と名く、則ち仏性〈涅槃経なり〉一乗〈法華経なり〉如来秘蔵〈大日経なり〉皆その中に入る。種種の聖言において、その精要をべざることなし。盧遮びるしやなきようの疏〈教・法これを見ず〉第七の下に云く、天台の誦経はこれ円頓の数息なりと謂う。これこの意なり。
[17]大宋の高僧伝巻の第二十七含光の伝に云く、代宗だいそう〈玄宗代宗の御宇に真言わたる〉光を重ずること〈含光は空三蔵の弟子なり〉不空を見るがごとし。勅委して五台山に往て功徳を修せしむ。時に天台の宗学然〈楽、天台第六の師なり〉禅観を解了して深く智者〈天台なり〉の膏腴こうゆを得たり。かつて江淮こうわいの僧四十余人と清涼の境界に入る。湛然、光と相見あいみて西域伝法の事を問う。光の云く、一国の僧空宗を体解するあり。問て智者の教法に及ぶ。梵僧の云く、曾て聞く、この教邪正を定め偏円をさとり、止観を明して功第一と推す。再三光にぞくす。或は因縁あて重て至らば、ために唐を翻じて梵となして附し来れ。某し願くは受持せんと。しばしば手を握て叮嘱ていしよくす。つまびらかにするに、それ南印土には多く樹の宗見を行ずる故に、この流布を願うことあるなり。菩提心義の三に云く、行和上はもとこれ天台一行三昧の禅師なり。よく天台円満の宗趣を得たり。故におよそ説くところの文言義理ややもすれば天台に合す。不空三蔵の門人含光天竺に帰るの日、天竺の僧問わく、伝え聞く、かの国天台の教ありと。理致もちゆべきは翻訳してこの方に将来せんか云云。この三蔵の旨もまた天台に合す。今る阿闍梨の云く、真言を学せんと欲せばまず共に天台を学せよと。しかして門人皆いかる云云。
[18]問て云く、厳経に一念三千を明すや。
[19]答て云く、心仏及衆生等云云。観一に云く、この一念の心は縦ならず横ならず不可思議なり。ただ己のみしかるにあらず、仏および衆生もまたまたかくのごとし。華厳に云く、心と仏と及び衆生とこの三差別なしと。まさに知るべし、己心に一切の法を具するを文。弘の一に云く、華厳より下は引て理のひとしきことを証す。故に華厳に初住の心をじて云く、心のごとく仏もまたしかなり。仏のごとく衆生もしかなり。心と仏と及び衆生とこの三差別なし。諸仏はことごとく一切心に従て転ずと了知したまえり。もしよくかくのごとく解すればかの人真に仏を見たてまつる。身またこの心にあらず。心もまたこの身にあらず。一切仏事を作すこと自在にして未曾有なり。もし人三世一切の仏を知んと欲求せば、かくのごとき観をすべし。心諸の如来を造すと。もし今家の諸の円文の意なくんば、かの経の偈の旨理実に消しがたからん。
[20]<図版ID>k0200330<図版タイトル><キャプション>
<kw>小乗四阿含経
<kw>三蔵教 心生の六界 心具の六界を明さず 大乗 通教 心生の六界 また心具を明さず 別教 心生の十界 心具の十界を明さず 思議十界 爾前華厳等の円 円教 不思議十界互具 法華の円
[21]止五に云く、華厳に云く、心はたくみなる画師えしのごとく種種の陰を造る。一切世間の中に心より造らざることなし。種種の五陰とは前の十法界の五陰のごときなり。又云く、又十種の五陰一一各十法を具す。いわく是相性体力作因縁果報本末究竟等文。又云く、それ一心に十法界を具す。一法界又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す。この三千一念の心に在り文。の五に云く、故に大師覚意三昧・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文にただ自他等の観を以て三仮を推せり。ならびにいまだ一念三千具足を云わず。乃至観心論の中にまたただ三十六の問を以て四心を責れども、また一念三千にわたらず。ただ四念処の中に略して観心の十界を云うのみ。故に止観に正く観法を明すに至てならびに三千を以て指南となせり。すなわちこれ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云う。まことに以てあるなり。請う尋ね読ん者、心に異縁なかれ。
[22]の五に云く、この十重の観法は横竪おうじゆに収束し微妙精巧みみようせいこうなり。初は則ち境の真偽を簡び、中は則ち正助相添しようじよあいそい、後は則ち安忍無著あんにんむじやくなり。意円かに法巧に該括周備がいかつしゆうびして初心に規矩きくし、行者を将送してかのさつうんに到らん〈初住なり〉。闇証あんしよう禅師ぜんじ誦文の法師のよく知るところにあらず。けだし如来積劫の懃求ごんぐしたまえるところ道場の妙悟したまえるところ、身子の三請するところ、法譬の三説するところ、正くここに在るによるか。の五に云く、教の一十六門乃至八教の一期の始終に遍せり。今皆開顕してつかねて一乗に入れ遍く諸教をくくりて一実に備えり。もし当分をいわば、なお偏教の教主の知るところにあらず。いわんやまた世間闇証の者をや○けだし如来より下は称なり。十法すでにこれ法華の所乗なり。この故に還て法華の文を用てず。迹の説は即ち大通智勝仏の時を指て以て積劫となし、滅道場を以て妙悟となす。もし本門に約せば我本行菩道の時を指して以て積劫となし、本成仏の時を以て妙悟となす。本迹二門ただこれこの十法を求悟せるなり。身子しんじ等とは寂場にして説んと欲するに物の機いまだ宜からず、その苦に堕せんことを恐れてさらに方便を施し四十余年種種に調熟じようじゆくし法華の会に至て初て略してを開するに動執生疑どうしようしようぎして慇懃おんごんに三請す。五千たち去てまさに枝葉しようなし。四一を点示して五仏の章を演べ上根の人にこうむるを名て法説となす。中根いまだ解せざれば、なお譬喩をねがい、下根は器劣にしてまた因縁を持つ。仏意聯綿れんめんとしてこの十法に在り。故に十法の文の末に皆大車に譬えたり。今の文のるところ意ここに在り。惑者いまだ見ず、なお華厳を指し、ただ華厳円頓の名を知て、しかしてかの部の兼帯の説にくらし。全く法華絶待の意を失て、妙教独顕の能を貶挫へんざす。迹本の二本をけんして五時の説をけんすれば、円極まらず。なんぞすべからく疑を致すべけん。この故に結して正在茲乎しようざいじこと曰う。又云く、初に華厳を引くをいわば、重て初に引て境相を示す文を牒す。前に心造と云うは、即ちこれ心具なり。故に造の文を引て以て心具を証す。かの経第十八の中に功徳林菩の偈を説て云うがごとく、心は工画師のごとし種種の五陰を造る、一切世間界の中に法として造らざることなし。心のごとく仏もまたしかなり。仏のごとく衆生もしかなり。心と仏と及び衆生とこの三差別なし。もし人三世の一切の仏を知んと欲求せば、まさにかくのごとく観ずべし、心は諸の如来を造ると。今の文を解せずんば、いかんぞ偈の心造一切三無差別の消せん文。恐恐謹言。
[23]
[24]諸宗の是非これを以て、これを糺明すべきなり。
[25]<日>二月十八日
[26]<人>日 蓮 <花押>花押
現代語訳

八宗違目鈔


文永九年(一二七二)、五一歳、於佐渡塚原、原漢文、定五二五—五三二頁。

[1]妙楽大師の法華文句記の九に「寿量品で釈尊の永遠性が説かれる以前においては法身・報身・応身の三身が常住であることが示されないが、寿量品で久遠実成が説かれたならば本門・迹門の一体化した常住の三身も明確となる」とあり、天台大師の法華文句には「仏は過去・現在・未来の三世にわたって、いつでも三身が互いに融合しているが、法華経が説かれる以前の諸経には、このことが秘められてはいたが説かれなかった」とある。
[2]<図版ID>g0200230<図版タイトル><キャプション>
<kw>仏 法身如来 報身如来 応身如来
<kw>衆生仏性 小乗経では衆生に仏性があるかないかについて論究しない。 大乗経の華厳・方等・般若・大日経等には、衆生は本来仏となるべき先天的素質である正因仏性が具わっていることを明らかにするが、正因仏性を目覚めさせる智慧の役割を果たす了因仏性は具わっていないとする。 法華経には衆生には本来、正因仏性・了因仏性および縁因仏性(智慧を起こす縁となる種々の善行)の三因仏性が具わっていると説く。
<kw>衆生 正因仏性 了因仏性 縁因仏性
[3]法華文句の十に「正因仏性は法身の仏の具えている性であるが、過去・現在・未来の三世に通じて衆生に本来具わっている。縁因仏性・了因仏性を生みだす種ももともと具わっているもので、修行の結果として今はじめて生じたものではない」とある。
[4]法華経第二巻の譬喩品第三には「いまこの世界はすべて私が所有しているのである」とは、釈尊が我々の主人の徳・国王の徳・世の中で最も尊いものである世尊の徳のあることを説いたものであり、「その中に生きる衆生はすべて私の中である」とは、親の徳のことであり、「しかもここには多くのさしさわりがあるが、私こそがそれを救い守る」とは師の徳を説いたものである。また寿量品第十六には「我もまた世の人の父である」とある。
[5]<図版ID>g0200250<図版タイトル><キャプション>
<kw>主 国王 報身如来 師 応身如来 親 法身如来
[6]妙楽大師の五百問論には「もし父の寿命がはるかに長いことを知らぬ者は、その父が統治する国にも迷う者である。そのようなことであっては、いかに才能があったとしても全く人の子ではない」「その才能が一国全体の人に匹敵する程であっても、自分の父母の年を知らない者は、おろかである」とある。また中国唐代の終南山の道宣律師は古今仏道論衡の中で「中国上古の伏羲ふくき・神農・黄帝の三皇已前はいまだ文字がなく、人々は母親がだれかは知ってはいたが、父親については知らず、あたかも獣のようであった」と述べている。(これは隋代の慧遠が、北周の武帝の廃仏毀釈の暴挙につめよったことばである)
[7]<図版ID>g0200251<図版タイトル><キャプション>
<kw>倶舎宗 成実宗 律宗 この三宗はもっぱら釈尊を本尊とするとはいっても、三身の中でもただ応身の釈尊に限るものである。
<kw>華厳宗 三論宗 法相宗 この三宗も釈尊を本尊とするが、三身を分けて考えるので、法身は無始無終だが、報身は有始無終、応身は有始有終であるとみる。
<kw>真言宗 ひたすら大日如来を本尊とする。
[8]これに二義あって、第一には大日如来は釈尊の法身であるとみるもので、第二には、大日如来は釈尊の法身ではなく別の法身仏であるとみるものである。ただし大日経には大日如来は釈尊のことであると記してあるので、これらをとやかく言うのは学者の偏見によるものである。
[9]浄土宗——ひたすら阿弥陀如来を本尊とする。
[10]法華宗以外の真言宗等の七宗ならびに浄土宗等は釈尊を父とすることを知らないので、あたかも三皇が世を平定させるまで人が獣とかわりがなかったのと同じである。鳥は<傍>みそさざいから鳳凰鳥までみなその父を知らず、獣は<傍>うさぎも獅子もその父を知らない。三皇が出現する以前は大王も一般市民もみな父を知らなかった。天台宗以外の真言宗等の諸宗の中でも、大乗仏教を旨とする宗は獅子や鳳凰、小乗仏教を旨とする宗は<傍>みそさざいや<傍>うさぎのように、どちらも釈尊が衆生を導く本当の父であることを知らないのである。
[11]華厳宗で十界互具・一念三千を述べることについては澄観の著した華厳経の注釈書の中に言及されており、また真言宗でも十界互具・一念三千を述べることは善無畏が一行いちぎよう禅師に口授したといわれる大日経の注釈書に出ている。これらと天台宗の主張とはどう異なるのか。天台宗より前に十界互具・一念三千を打ち立てた人があったのだろうか。
[12]法華文句記の三には、「色々な見解をみてみると、三乗を立てる宗旨も、一乗を立てる宗旨も、すべての衆生にそれぞれ法華経方便品で言うところの性相等の十如が具わっていると述べているからには、迷いの六道界にも十如が具わっていることを述べないはずはない」とあることから、天台大師より前の五百年余りの間にでた学者が、法華経を論拠とせずに一念三千の名目を立てたと考えられるのである。
[13]問う、華厳宗は一念三千の義を用いているのだろうか。華厳宗は唐の則天皇后の御代に成立した宗である。
[14]答う、華厳宗の第四祖の清涼国師澄観の華厳経疏第三十三に「天台大師の摩訶止観の第五の巻に十法成乗の観法を明しているが、その第二は真正発菩提心である。華厳経の上下の発心の意味合いは、その経文に示される理論は深いが、円観の肝要な点を説いているので、天台もその証拠として引用したのである」とあり、また第二十九には「法華経方便品には、ただ仏と仏とのみがよくすべての存在のありのままの姿を知見するとある。天台宗では、十界互具・一念三千をその根本とするが、華厳宗の意趣もすべてそれで通じる」と述べている。華厳経は旧訳では功徳林菩が説いたことになっており、新訳では覚林菩が説くとなっており、また妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決には、如来林菩の説だとして引いている。この華厳経には「我々の心というものは、絵師が一本の筆によってすべてのものを描くように、心はすべての物事を生み出す。心も仏も衆生も同様なのであって、心と仏と衆生の三つは融合しており区別すべき点を見出すことができないのである。もし人が三世のすべての仏をよく知ろうと思うならば、それらの仏は心の造るところであって、心の外に仏はないと観ずべきである」と説かれている。法華経方便品第二の略開三顕一の文とされる仏の言葉の中に「いわゆる諸法とは、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の十如是が融合し合って等しい、これが物事のありのままの姿である」と説かれ、また「諸仏はただ一大事因縁といわれる最も重要な目的のために出現されたのである。その一大事因縁とは、仏のなにごとでも見通す知慧の眼を、衆生にも等しく開かせるためである」と説かれている。蓮華三昧経には「帰命し奉る我等の心に具わっている本覚常住妙法蓮華仏、その心の蓮華台には、本来三身の徳を具えた金剛界の三十七尊が住んでおられる。心の本体である心王は大日遍照如来であり、心の作用である心所心数は数限りなく多い諸仏である。この心には修行功用の因果にかかわらず、あまねく衆生を救う三昧の功徳を本来具えており、限りない徳海は満足して円満なのであるから、その心の諸仏を頂礼する」と説かれ、仏蔵経には「仏はすべての衆生の心の中に、皆それぞれが結跏趺坐しておられる様子を照し見る」とある。
[15]問う、真言宗では一念三千を用いているだろうか。
[16]答う、善無畏が解釈して、金剛智・不空および唐の一行等がこれを聴聞し、さらに一行が執筆した大日経義釈(この書は五種類あるが、その中で十巻本のものは伝教大師・弘法大師の二人とも見ずに終わり、後に智証大師が日本へ渡したものである)に「この大日経は、大日法王の秘宝であり、みだりに卑賤の人に示されないことは、ちょうど釈尊が四十余年の説法を経た後に、舎利弗たちから、ていねいに三たび請い願われたので、略して妙法蓮華の義を説かれたようなものである。今この大日如来の本地身は、妙法蓮華の最も奥深い秘密処であるから、寿量品第十六に仏は、つねに霊鷲山およびその他のあらゆる住処にあまねく在する(中略)我が浄土はやぶれることはないが衆生は焼き尽きた所とみるとあるのは、すなわち真言の<傍>さとりと同じ意味であろう。また、法華の最も奥深い秘処が大日本地身だいにちほんじしんであるから、釈尊は補処の菩である弥勒菩がていねいに三たび請い願うのにこたえて、はじめて仏の久遠の寿を説いたのである」と述べ、また「この大日経の意趣は、横に一切の仏教を統括している。大日経住心品に、諸法はただ五蘊の因縁和合で無我であるという出世間心に住して、進んで大乗空の義を求めることを知らないと説いてあるのは、すべて諸部の小乗の経律論を統括したものであり、あらゆる万法の本体である阿頼耶識を観て、心の本来不生であることを悟ると説いてあるのは、諸経の八識・三性・無性等の義を収めている。また、諸法に自性なく、十縁生を示して縁に従って生起することを述べ、法界は円融無礙であるとするのは、すなわち華厳般若等の種々の不思議の境界をみなその中に入れたのである。実のごとく自心を知るとあるのは、仏の智慧のことで、これは涅槃経のすべての衆生に仏となる可能性が具わっているという悉有仏性の思想、法華経の仏の教えはすべて一仏乗へ包括されるという思想、大日経の如来秘密蔵をみな一句に統べたものである。このようにあらゆる聖言・諸経の精要をすべてこの大日経に収めているのである」と述べている。また伝教大師・弘法大師ともに見ている盧遮経の疏の第七の下巻に「天台で一心に御経を誦することは、とりもなおさず円頓の数息観すそくかんである」とみえるのは、真言宗にも天台の一念三千が取り入れられていることを言ったのである。
[17]大宋の高僧伝二十七巻の含光の伝に「真言は玄宗代宗の時代に中国へ伝来したものであるが、代宗は不空三蔵の弟子含光を重んずること師の不空に対しているようで、勅により五台山に往き修行しその功徳を修した。その時天台宗の第六祖妙楽大師湛然が、止観禅法を解了して、深く天台大師の意を得ていたが、揚子江や淮水わいすい周辺の僧四十人余りとともに静寂な聖界である五台山に入り、含光と対面して西域の仏法弘伝について質問した。その時含光は、大乗空の旨を体得したある国の僧が、天台大師の学説について質問したり、インドの僧が、天台大師の学説はよく正・邪を分別して偏・円を明らかにしており、止観の法を示してその功績第一であると聞いているが、どうか縁あって再び来る時には、その著作を梵語に訳して持って来て欲しいと言って、再三それを懇願し、何度も手を握ってたのんだことを湛然に話した」ということが掲載されている。このようなことがあった理由としては、南インドには多く竜樹の学説を尊重する者が多いので、中でも竜樹の思想を正しく受け継いでいる天台の学説を弘めたいと願ったからである。菩提心義の三に「一行和上は、もと天台の一行三昧を修行していた禅師である。よく天台の円満の意趣を得ていたから、その説くところは文言や意味合いが、ややもすれば天台と同じ部分があるのである。また不空三蔵の門人含光がインドへ帰った時、インドの僧が質問して言うのには、聞くところによれば、中国には天台大師の学説があって、その理論をぜひ取り入れるべきだということであるが、それを翻訳してインドへも伝えたらどうか、と言ったそうであるが、不空三蔵の主張も、天台大師の考えと一致している部分があるのである。今ある阿闍梨が言うことには、真言を学ぼうと思うならば、まずあわせて天台教学を学ぶべきだと言ったので、門人たちがみな怒った」とのことである。真言にも天台の教学が混入していることがわかる。
[18]問う、華厳経は一念三千について述べているだろうか。
[19]答う、華厳経に「心と仏と衆生との三は一体無差別である」等と説かれており、摩訶止観の一には「この一念の心は空仮中の三諦が互いに関わり合って相即しており、縦・横にも分離することができず同時同一処に三諦を備え、実に不可思議なものである。そしてただ心ばかりがそうなのではなく、仏も衆生もまたそうなのである。そのため華厳経には心と仏と衆生との三は一体無差別であると説かれている。これによっても心にすべての仏法を具えていることがわかる」とあり、摩訶止観輔行伝弘決の一に「天台大師が華厳経の経文を引用したのは、心と仏と衆生との三が一体で無差別であることが法華・華厳ともに等しいことを証明するためである。このため華厳経では、まだ修行の浅い初住の菩の心をほめて、心と仏と衆生との三は一体であり無差別である。諸仏は一切のものが心から生じることを知りつくしている。もしこのことが良く理解できれば、その人は真に仏を見奉ることができるのである。身は心ではなく、心は身ではなく、別体であっても自在にすべての仏事を作すこといまだかつて身と心のようなものはない。もし三世のすべての諸仏を知りたいと思うならば、その如来は、心が造り出したものであると観ずるがよいとあるが、もし天台の考え方に円文の意趣、すなわち一念三千がなかったら、華厳経の経文の意味を解明することはできないであろう」とある。
[20]<図版ID>g0200330<図版タイトル><キャプション>
<kw>小乗阿含経の三蔵教 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道界は心から生ずると説くが、それが本来心に具わっているとは説かない。 大乗の通教 三蔵教と同様、六道界は心より生ずると説くが、本来心に具わっていることは説かない。 別教 心から十界を生じるとは説くが、それが本来具わっているとは説かないから、思議の十界と言う。法華経以前の華厳等の円教も心に十界が具わること言わないので、やはり思議の十界である。 円教 法華経の円教では十界が互いに具わっており、それが本来心に具わっていることを説くから不思議の十界という。
[21]摩訶止観の五に「華厳経に、心というものは才能のある絵師が一本の筆によってすべての事象をありのままに描くように、この世の中のすべての存在・法はすべて心から造られるとあるが、種種の五陰とは十界の衆生の身と心とを五に分別した色受想行識のことである」と述べ、また「十界の十種の五陰はそれぞれ十法を具えている。その十法とはいわゆる如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十如是である」とあり、また「一心に十法界を具え、十界はそれぞれ十界を具えているので百法界となり、かつ十界それぞれに十如是を相乗した三十種の世間を具えているから百法界には三千種の世間を具えていることになり、この三千種の世間が我々の一念の心に具わっているのである」と説き、摩訶止観輔行伝弘決の五には「天台大師が覚意三昧・観心食法じきほう誦経じゆきよう法・小止観等のあらゆる観心の法門を述べた文の中には、ただ自他等の観心によって三仮(法仮・受仮・名仮)を推し考える方法を明してはいるが、そのいずれにも一念三千の名前も、観心の方法も明さないのである。観心論の中にも、三十六問によって自・他・共・無の四心を工夫させてあるが、一念三千までは明らかにしていない。ただ四念処の中に略して観心の十界と言うばかりである。このため摩訶止観の第五巻の第七正観章ではっきりと観法について述べるにあたって、はじめて十境・十乗さらに一念三千を観法の指南としたのである。このようにさまざまな著作の中でその名すら惜しんで明さなかったことによって、いかに一念三千の法門が、天台大師が最も大切にしていた最極の説であったかがわかる。従って、摩訶止観を筆記した章安も、序の中で、この止観の法門は天台大師が自己の心中で行ぜられる法門(仏法)であると述べたことが良く理解できるのである。摩訶止観を読み学ぼうとする者は、この他に天台大師が秘めている法門があるなどとは考えてはならない」とある。
[22]摩訶止観の五に「この十種の観法は、横とたてとの両面からあらゆる理知・功徳を収束した微妙で精巧なものである。はじめは観じる対象となる境の真偽を正しく判断し、中ごろには正行と助行とがともにほどよく関係し合い、後には、すっきりと執著から離れることができる。この十重の観法による時は、意趣まどかに法はたくみに、あらゆる理知・功徳・修行を兼ね備えているので、初心の行者には手本となり、これによって雲の初住の位に進むことができるので、教相教義に闇く、ただ禅定ぜんじようばかりしている法師や、また教相教義ばかりにこだわって観心修行をしない誦文の法師などの知るところではない。仏が永い間修行を積んで追究された所、寂滅道場で悟られた所、舎利弗尊者が方便品で三度請い願ってようやく仏が説いたところ、法説・譬説・因縁説と三周に説かれたところの法門など、その意趣は十乗の観法を成ずることによって仏の知見と同様なものを開かせることにあったのである」と述べ、弘決の五ではこの摩訶止観についての解釈を加えて「蔵通別円の四教それぞれに説き十六門となる有・空・双亦・双非の四門や、五時八教判による釈尊の生涯における化道、これらをすべて明らかにして束ねて法華一仏乗に入れ、諸経すべてを括って法華の一実に収めている。そうなると、ここにみえる十法成観の意趣は、法華経以前の諸経それぞれの立場では、その教の教主すら知ることができないのだから、まして禅定ばかりで仏法の道理に闇い禅師ではわかるわけがない。摩訶止観に、仏が永い間修行を積んで追究されたところ、とある部分より以下は、十法成観の止観をほめているのである。すなわち十乗観法は法華経の悟りを得るための道すじであるから、法華経の経文によってほめたのである。永い間追究した所とは、迹門においては大通智勝仏の時以来を指し、寂滅道場で悟ったとは、伽耶城菩提樹下における成道をいう。本門においては、我れ<傍>もと道を行じ、とあるその時以来を積劫とし、五百億塵点劫の成道を道場の悟りというのである。本迹二門ともども、十法を求めることと、これによって悟られたことを説いたものである。身子舎利弗が三たび仏に請い願ったところとは、寂滅道場においてすぐさま直接的に仏が説こうとしたけれども、衆生の理解能力が低かったので、説法しても信じないばかりか、かえって反感を持ち非難の言動を起こし、それを原因として地獄に堕ちてしまうことを恐れて、四十余年の間方便の説法を施し、順々に衆生の理解能力を育成し成熟させて、法華経の説法の座に来て、はじめて方便の教えの門を開いて真実を示された時、それまで説いてきた三乗のかりの教えにこだわっている心をゆり動かして疑問を生じ、ていねいに三度にわたって大切な教えを説いて下さるよう請い願ったことをいうのである。その時、思い上っていた五千人の比丘はその座を立ち去ったので、不純未熟の者はなくなったから、教・行・人・理の四法についての面から、それぞれ、それまでの差別を取り払って等しく一仏乗に導き入れ、このような先に仮りの教えを説き後に真実を説くという化道方法が、五仏に共通していることを述べ、このようにして直接的に法の道理を示して上根の人を得悟せしめるのが法説周であり、なかなか理解できない中根の者のために譬えを設けて説いたのが譬説周であり、最も能力の低い下根の者のために色々な因縁について述べ、なんとか悟りにたどりつかせるのが因縁周である。仏の意はどこまでも連綿として、この十法成乗の観法を修行して悟りを開かせようとするものである。このため天台大師は十乗観法を明示した後に、その総結にこの十法を法華経の三車火宅の譬えにある大白牛車に譬えている。このようなことから考えると、天台大師が摩訶止観で述べようとしたところは、全く法華経が方便の門を開いて真実を説き示そうとしたことをよりどころとして、円頓の行を立て、法華円意に開示悟入せしめることにあったのである。しかしながら、華厳宗の澄観のように仏法の道理に惑う者は、華厳円頓の名を誤解して、しかも華厳は円に兼一別権方便を兼ねていることを知らず、法華経の絶待開会の意趣を失い、法華経だけが明らかにする奥深い妙なる教えをおとしめ、くじいている。もし本迹二門の経文を正しく理解し、一代五時の説法を詳しく検討して、そのいきつくところの結論を自分のものとしたならば、円満頓極の教えは法華経だけであり余経にはないことを、なんら疑う余地はない。このため天台大師は結論として、如来が永い間修行し(中略)三周に説かれたところの法門とあるのはまさに円頓に十乗の観法を成ずることにあると述べているのである」とあり、また「はじめに華厳経を引いたのは、重ねて観ずる境の相を示す文をあげたのである。前に華厳経に心造とあるとした点については、全くこれは摩訶止観にいうところの心具のことである。このため華厳経の心造の文を引いて、心具の意を示すことの証拠としたのである。華厳経の第十八に功徳林菩が偈を説いて『心は才能のある絵師があらゆる事象を自由に描くように、世の中のすべての事象、法を造る。そしてその心と仏と衆生との三は一体で無差別であるから、三世のすべての仏を知ろうと思う者は、まさに我が心がすべての仏を造るのであると観ずべきである』とあるが、摩訶止観に十界三千の諸法は、すべて我が一心一念に本来具わっているという文の意味がわからなければ、どうして『心・仏・衆生の三に差別がない』という経文の意味を理解することができようか」と述べている。
[23]敬 具
[24]諸宗と天台法華宗との是非について考える場合には、ここで述べた一念三千義などによって究明すべきである。
[25]<日>二月十八日
[26]<人>日 蓮 <花押>花押