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安国論奥書

全集 第1巻 2段 定本: #69(定本の該当ページへ)

書下し

安国論奥書あんこくろんおくがき


[1] <補記>文応ぶんのう元年〈太歳庚申たいさいかのえさる〉これをかんがう。正嘉しようかにこれを始めてより文応元年に勘えおわる。
[2]ぬる正嘉元年〈太歳丁巳ひのとみ〉八月廿三日、戍亥いぬいこくの大地震を見てこれを勘う。その後、文応元年〈太歳庚申〉七月十六日をもつて、宿谷禅門*やどやぜんもんして、故最明寺入道こさいみようじにゆうどう殿に奉れり。その後、文永ぶんえい元年〈太歳甲子きのえね〉七月五日大明星だいみようじようの時、いよいよこのわざわいの根源を知る。文応元年〈太歳庚申〉より文永五年〈太歳戊辰つちのえたつのちの正月十八日に至るまで九ケ年を経て、西方大蒙古国さいほうだいもうここくより我朝わがちようおそうべきのよし牒状ちようじようこれを渡す。また同じき六年、重ねて牒状これを渡す。すでに勘文*かんもんこれにかなう。これに准じてこれを思うに、未来もまたしかるべきか。この書はしるしあるふみなり。これひとえに日蓮の力にあらず。法華経の真文しんもん感応かんのうの至す所か。
[3] <補記>文永六年〈太歳己巳つちのとみ〉十二月八日、これを写す。
現代語訳

安国論奥書


文永六年(一二六九)一二月八日、四八歳、於鎌倉、原漢文、定四四二—四四三頁。

[1] <補記>この立正安国論は文応元年(<暦>一二六〇)に著述、公表したのである。ただし、同書に主張したことを考え始めたのは正嘉元年(<暦>一二五七)で、文応元年に完成したのである。
[2]去る正嘉元年八月二十三日午後九時ごろの大地震を見て、これを契機として立正安国論を考え出したのである。その後、文応元年七月十六日、宿屋入道光則の手を経て、故最明寺入道時頼殿に献じたてまつったのである。文永元年(<暦>一二六四)七月五日に大彗星が現われた時、いよいよこの災難の根本的原因を確認することができた。文応元年に立正安国論を献上してから九箇年を過ぎて、文永五年(<暦>一二六八)閏正月十八日に、西方の大蒙古国からわが日本国を攻め襲うという牒状が来た。さらに翌六年にふたたび同じ牒状がきた。九年前に考えた立正安国論の予言がここに正しく的中したのである。予言の的中したことによって考えるに、未来もまた国難の起こることは必然である。この立正安国論は実に予言の書である。この予言が的中したのは日蓮の力ではなく、法華経の真実の経文の実現であって、釈・多宝・十方の諸仏が日蓮の憂国の至誠に応じて我が身に入られ、その仏の大慈悲を感じた結果が立正安国論の二難の予言となり、この不思議の予言的中となったのである。
[3] 文永六年〈太歳己巳〉十二月八日、この立正安国論を写した。