災難対治鈔
書下し
災難対治鈔
[1]国土に起る大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等の種種の災難の根源を知りて、対治を加うべき勘文。
[2]金光明経に云く、「もし人ありてその国土において、この経ありといえども、いまだかつて流布せず。捨離の心を生じて聴聞せんことを楽わず、また供養し、尊重し、讃歎せず。四部の衆、持経の人を見て、また尊重し、乃至、供養すること能ず。遂に我等及び余の眷属、無量の諸天をして、この甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味に背き、正法の流を失い、威光及び勢力あることなからしむ。悪趣を増長し、人天を損減し、生死の河に堕ちて、涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並に諸の眷属及び薬叉等、かくのごとき事を見て、その国土を捨てて擁護の心なけん。ただ我等のみこの王を捨棄するにあらず。必ず無量の国土を守護する諸大善神あらんも、皆悉く捨去せん。すでに捨離し已りなば、その国まさに種種の災禍あつて国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心なく、ただ繋縛、殺害、瞋諍のみあり、互いに相讒諂し、枉げて辜なきに及ばん。疫病流行し、彗星数出で、両日並び現じ、薄蝕恒なく、黒白の二虹不祥の相を表わし、星流れ、地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭いて、苗実成らず、多く他方の怨賊あつて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地として所楽の処あることなけん」と〈文〉。
[3]大集経に云く、「もし国王ありて、我法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、無量世において施・戒・慧を修すとも悉く皆滅失して、その国の内に三種の不祥の事を出さん。乃至、命終して大地獄に生ぜん」と。
[4]仁王経に云く、「大王、国土乱れん時は、先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に、万民乱る」と〈文〉。また云く、「大王、我今五眼をもて明かに三世を見るに、一切の国王は、皆過去の世に五百の仏に侍しに由りて、帝王主となることを得たり。これをもつて、一切の聖人・羅漢、しかもために彼の国土の中に来生して、大利益をなさん。もし王の福尽きん時は、一切の聖人皆これ捨去せん。もし一切の聖人去らん時は、七難必ず起らん」と。
[5]仁王経に云く、「大王、吾今化するところの百億の須弥、百億の日月あり。一一の須弥に四天下あり。その南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国あり。その国土の中に七の畏るべき難あり。一切の国王これを難となすが故に。○云何なるを難となす。日月度を失い、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光なく、或は日輪一重二三四五重輪現ずるを○一の難となすなり。二十八宿度を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、かくのごとき諸星、各各変現するを○二の難となすなり。大火国を焼き、万姓焼き尽し、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。かくのごとく変怪するを○三の難となすなり。大水百姓を漂没し、時節返逆して、冬雨ふり、夏雪ふり、冬の時に雷電霹靂し、六月に氷霜雹を雨し、赤水・黒水・青水を雨し、土山・石山を雨し、沙・礫・石を雨し、江河逆まに流れ、山を浮べ石を流す。かくのごとく変ずる時を○四の難となすなり。大風万姓を吹殺し、国土の山河樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん、かくのごとく変ずる時を○五の難となすなり。天地国土亢陽し、炎火洞然して百草亢旱し、五穀登らず、土地赫然して万姓滅尽せん。かくのごとく変ずる時を○六の難となすなり。四方の賊来りて国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。かくのごとく怪する時を○七の難となすなり」と。
[6]法華経に云く、「百由旬の内に諸の衰患なからしむ」と。
[7]涅槃経に云く、「この大涅槃微妙の経典の流布するところの処は、まさに知るべし、その地すなわちこれ金剛なり。この中の諸人もまた金剛のごとし」と。
[8]仁王経に云く、「この経は常に千の光明を放ちて、千里の内をして七難起らざらしむ」と。また云く、「諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。これを破仏・破国の因縁となす」と。
[9]今これを勘うるに、法華経に云く、「令百由旬内無諸衰患」と。仁王経に云く、「令千里内七難不起」と。涅槃経に云く、「当知其地即是金剛、是中諸人亦如金剛」と〈文〉。
[10]疑つて云く、今この国土を見聞するに、種種の災難起る。いわゆる建長八年八月より正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等、種種の災難連連として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。これによつて種種の祈請を致す人これ多しといえども、その験なきか。正直捨方便・多宝証明・諸仏出舌の法華経の文の「令百由旬内」、双林最後の遺言たる涅槃経の「其地金剛」の文、仁王経の「令千里内七難不起」の文、皆虚妄に似たり、如何。
[11]答えて曰く、今愚案をもつてこれを勘うるに、上に挙ぐるところの諸大乗経国土にあり。しかるに祈請と成らずして災難起ることは少しその故あるか。いわゆる金光明経に云く、「その国土において、この経ありといえども、いまだかつて流布せず。捨離の心を生じて聴聞せんことを楽わず○我等四王○皆悉く捨去せん○その国当に種種の災禍あるべし」と。
[12]大集経に云く、「もし国王あつて我法の滅せんを見て、捨てて擁護せざれば○その国の内に三種の不祥を出さん」と。
[13]仁王経に云く、「仏戒に依らず、これを破仏・破国の因縁となす○もし一切の聖人去る時は七難必ず起らん」と〈已上〉。
[14]これらの文をもつてこれを勘うるに、法華経等の諸大乗経国中にありといえども、一切の四衆、捨離の心を生じて、聴聞し、供養するの志を起さず。故に国中の守護の善神・一切の聖人この国を捨て去り、守護の善神・聖人等なきが故に出来するところの災難なり。
[15]問うて曰く、国中の諸人、諸大乗経において捨離の心を生じて、供養するの志を生ぜざる事は何の故よりこれ起るや。
[16]答えて曰く、仁王経に云く、「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず」と。
[17]法華経に云く、「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるをこれ得たりと謂い、我慢の心充満せん○この人悪心を懐き○国王・大臣・婆羅門・居士及び余の諸の比丘に向つて、誹謗して我悪を説きて、これ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん○悪鬼その身に入つて」等と云云。
[18]これらの文をもつてこれを思うに、諸の悪比丘国中に充満して、破国・破仏法の因縁を説くに、国王並に国中の四衆、弁えずして信聴を加うるが故に、諸大乗経において捨離の心を生ずるなり。
[19]問うて曰く、諸の悪比丘等、国中に充満して破国・破仏戒等の因縁を説くこと、仏弟子の中に出来すべきか、外道の中に出来すべきか。
[20]答えて曰く、仁王経に云く、「三宝を護る者にして、うたたさらに三宝を滅破せんこと、師子の身中の虫の自ら師子を食うがごとし。外道にはあらず」と〈文〉。この文のごとくんば、仏弟子の中において破国・破仏法の者出来すべきか。
[21]問うて曰く、諸の悪比丘、正法を壊るに相似の法をもつてこれを破らんか、まさにまた悪法をもつてこれを破るべしとせんか。
[22]答えて曰く、小乗をもつて権大乗を破し、権大乗をもつて実大乗を破し、師弟共に謗法破国の因縁を知らず。故に破仏戒・破国の因縁を成して三悪道に堕するなり。
[23]問うて曰く、その証拠如何。
[24]答えて曰く、法華経に云く、「仏の方便随宜所説の法を知らずして、悪口して顰蹙し、数数擯出せられん」と。
[25]涅槃経に云く、「我涅槃の後、まさに百千無量の衆生ありて、誹謗してこの大涅槃を信ぜざるべし○三乗の人もまたかくのごとく無上の大涅槃経を憎悪せん」と〈已上〉。
[26]勝意比丘の喜根菩薩を謗じて三悪道に堕し、尼思仏等の不軽菩薩を打ちて阿鼻の炎を招くも、皆、大小・権実を弁えざるよりこれ起れり。十悪・五逆は愚者皆罪たることを知る。故に輙く破国・破仏法の因縁を成ぜず。故に仁王経に云く、「その王別えずしてこの語を信聴す」と。
[27]涅槃経に云く、「もし四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定めてかくのごとき重事を犯すと知れども、しかも心に初めより怖畏、懺悔なく、あえて発露せず」と〈已上〉。
[28]かくのごとき等の文は、謗法の者は自他共に子細を知らず、故に重罪を成して国を破し仏法を破するなり。
[29]問うて曰く、もししからば、この国土において、権教をもつて人の意を取り、実教を失う者これあるか、如何。
[30]答えて曰く、しかなり。
[31]問うて曰く、その証拠如何。
[32]答えて曰く、法然上人所造等の選択集これなり。今その文を出して、上の経文に合せ、その失を露顕せしめん。もし対治を加えば、国土を安穏ならしむべきか。選択集に云く、「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文○初に聖道門とは、これについて二あり。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中について、顕密・権実等の不同ありといえども、今この集の意はただ顕大および権大を存す。故に歴劫迂廻の行に当る。これに准じてこれを思うに、密大および実大を存すべし。しかればすなわち、今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、これら八家の意、正しくここにあるなり○曇鸞法師の往生論の註に云く、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり○この中に難行道とは、すなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり○浄土宗の学者、まずすべからくこの旨を知るべし。たとい先より聖道門を学ぶ人なりといえども、もし浄土門においてその志あらん者は、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし」と〈文〉。また云く「善導和尚、正・雑二行を立てて、雑行を捨て正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除きて已外、大小乗、顕密の諸経において、受持・読誦するを悉く読誦雑行と名く○第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除きて已外、一切の諸余の仏・菩薩等および諸の世天等において、礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名く○私に云く、この文を見るに、すべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ」と。また云く「貞元入蔵録の中、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経、総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり。皆すべからく読誦大乗の一句に摂すべし○まさに知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くといえども、随自の後には還つて定散の門を閉ず。一たび開いて以後、永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり」と〈文〉。また最後結句の結文に云く「それ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中にしばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正・雑二行の中にしばらく諸の雑行を抛ちて、選んでまさに正行に帰すべし」と。已上選択集の文なり。
[33]今これを勘うるに、日本国中の上下万人、深く法然上人を信じてこの書をもてあそぶ。故に無智の道俗、この書の中の捨閉閣抛等の字を見て、浄土の三部経・阿弥陀仏より外の、諸経・諸仏・菩薩・諸天善神等において、捨閉閣抛等の思をなし、彼の仏・経等において供養・受持等の志を起さず、還つて捨離の心を生ず。故に古の諸大師等の建立するところの鎮護国家の道場、零落せしむといえども、護惜建立の心なし。護惜建立の心なきが故にまた読誦供養の音絶え、守護の善神も法味を嘗めざる故に、国を捨てて去り、四依の聖人も来らざるなり。偏に金光明・仁王等の「一切の聖人去る時は七難必ず起らん」「我等四王皆悉く捨去せん。すでに捨離し已りなば、その国まさに種種の災禍あるべし」の文に当れり。あに「諸の悪比丘多く名利を求め」「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」の人にあらずや。
[34]疑つて云く、国土において選択集流布せしむるに依つて災難起ると云わば、この書なき已前には国中において災難なかりしや。
[35]答えて曰く、彼の時もまた災難あり。云く、五常を破り、仏法を失いし者これあるが故なり。いわゆる周の宇文・元嵩等これなり。難じて曰く、今の世の災難も五常を破りしが故にこれ起るといわば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答えて曰く、仁王経に云く、「大王、未来世の中に諸の小国の王・四部の弟子○諸の悪比丘○横に法制を作りて仏戒に依らず○またまた仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さざれば○七難必ず起らん」と。金光明経に云く、「また供養し尊重し讃歎せず○その国にまさに種種の災禍あるべし」と。涅槃経に云く、「無上の大涅槃経を憎悪す」等と云云。あに弥陀より外の諸仏・諸経等を供養し礼拝し讃歎するを、悉く雑行と名くるに当らざらんや。難じて云く、仏法已前も国において災難あり。何ぞ謗法の者の故ならんや。答えて曰く、仏法已前に五常をもつて国を治むるは、遠く仏誓をもつて国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり。問うて曰く、その証拠如何。答えて曰く、金光明経に云く、「一切世間のあらゆる善論は皆この経に因る」と。法華経に云く、「もし俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」と。普賢経に云く、「正法をもて国を治め人民を邪枉せず、これを第三の懺悔を修すと名く」と。涅槃経に云く、「一切世間の外道の経書は皆これ仏説にして外道の説にあらず」と。止観に云く、「もし深く世法を識ればすなわちこれ仏法なり」と。弘決に云く、「礼楽前に駈せ、真道後に啓く」と。広釈に云く、「仏は三人を遣して、しばらく真旦を化す。五常をもつて五戒の方を開く。昔、太宰、孔子に問うて云く、三皇五帝はこれ聖人なるか。孔子答えて云く、聖人にあらず。また問う、夫子はこれ聖人なるか。また答う、非なり。また問う、もししからば誰かこれ聖人なるや。答えて云く、吾聞く、西方に聖あり釈迦と号く」と〈文〉。これらの文をもつてこれを勘うるに、仏法已前の三皇五帝は五常をもつて国を治む。夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼儀を破りて国を喪すは、遠く仏誓の持破に当れるなり。
[36]疑つて云く、もししからば、法華・真言等の諸大乗経を信ずる者、何ぞこの難に値えるや。
[37]答えて曰く、金光明経に云く、「枉て辜なきに及ばん」と。法華経に云く、「横にその殃に罹る」等と云云。これらの文をもつてこれを推するに、法華・真言等を行ずる者も、いまだ位深からず、信心薄く、口に誦すれどもその義を知らず、一向名利のためにこれを誦す。先生の謗法の失いまだ尽きず、外に法華等を行じて内に選択の心を存し、この災難の根源等を知らざる者は、この難を免れ難きか。
[38]疑つて云く、もししからば、何ぞ選択集を信ずる謗法者の中に、この難に値わざる者これあるや。答えて曰く、業力不定なり。順現業は、法華経に云く、「この人現世に白癩の病を得ん、乃至、諸の悪重病あらん」と。仁王経に云く、「人仏教を壊らばまた孝子なく、六親不和にして天神も祐けず、疾疫・悪鬼日に来りて侵害し、災怪首尾し、連禍せん」と。涅槃経に云く、「もしこの経典を信ぜざる者あらば○もしは臨終の時、荒乱し、刀兵競い起り、帝王の暴虐、怨家の讎隙に侵逼せられん」と〈已上〉。順次生業は、法華経に云く、「もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば○その人命終して阿鼻獄に入らん」と。仁王経に云く、「人仏教を壊らば○死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」と〈已上〉。順後業等はこれを略す。
[39]問うて曰く、如何にして速かにこの災難を留むべきや。
[40]答えて曰く、還りて謗法の者を治すべし。もししからずんば、無尽の祈請ありといえども、災難を留むべからざるなり。
[41]問うて曰く、如何が対治すべき。答えて曰く、治方また経にこれあり。涅槃経に云く、「仏言く、ただ一人を除きて余の一切に施せ○正法を誹謗してこの重業を造る○ただかくのごとき一闡提の輩を除きて、その余の者に施さば、一切讃歎すべし」と〈已上〉。この文のごとくんば、施を留めて対治すべしと見えたり。この外にもまた治方これ多し。具に出すに暇あらず。問うて曰く、謗法の者において供養を留め、苦治を加うるに罪ありやいなや。答えて曰く、涅槃経に云く、「今無上の正法をもつて、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属す○正法を毀る者をば、王者・大臣・四部の衆、まさに苦治すべし○なお罪あることなけん」と〈已上〉。
[42]問うて曰く、汝僧形をもつて比丘の失を顕すは罪業にあらずや。
[43]答えて曰く、涅槃経に云く、「もし善比丘ありて法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駈遣し呵責し挙処せば、これ我弟子真の声聞なり」と〈已上〉。予、この文を見るが故に、仏法中怨の責を免れんがために、見聞を憚からず、法然上人並に所化の衆等の阿鼻大城に堕つべき由を称す。この道理を聞き解く道俗の中に、少少は回心の者もあり。もし一度高覧を経ん人は、上に挙ぐるところのごとくこれを行ぜずんば、大集経の文に「もし国王ありて、我法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、無量世において施・戒・慧を修すとも、悉く皆滅失して、その国の内に三種の不祥を出さん。乃至、命終して大地獄に生ぜん」との記文を免れ難きか。仁王経に云く、「もし王の福尽きん時は○七難必ず起る」と。この文に云く「無量世において施・戒・慧を修すとも悉く皆滅失す」等と云云。この文を見るに、しばらく万事を閣いて、まずこの災難の起る由を勘うべきか。もししからざれば、いよいよまた重ねて災難これ起らんか。愚勘かくのごとし。取捨は人の意に任す。
現代語訳
災難対治鈔
正元二年(一二六〇)二月、三九歳、於鎌倉、原漢文、定一六三—一七一頁。
[1]わが国土に起こる大地震・時ならぬ大風・大飢饉・大疫病・大戦争などの、種々の災難の根本原因を知って、これを根絶する方法を考えた文。
[2]金光明経四天王護国品に、持国・増長・広目・毘沙門の四天王が仏に申しあげていうのに、「ある国王があって、その国にはこの経が伝わっているのに弘まっていない。その国王も人民もこの経を捨てて顧みようともせず、聞こうともしない。またこれに供養したり、尊重したり、讃歎しようともしない。また出家・在家の男女のこの経を持ち伝え弘めようとする者を見ても、尊んだり供養しようとはしない。そこで遂にわれら四天王とその従者や多くの天の神々は、この尊くありがたい妙法の教えを聞くことができないので、われらの身を養う正法の甘露の法味を受けることができず、正法の流れに浴することもできなくなり、そのためわれらの権威や勢力もなくなってしまう。そうするとその国は地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の悪い精神のみが増し、人間界・天上界の善心は減り衰え、人びとはみな生死の迷いの河に落ち、涅槃の悟りの路に背くことになる。世尊よ、われら四天王やその従者や夜叉などは、このような国王や人民の不信の状態を見ては、この国土を捨て去って、守護しようとする心を起こさなくなる。ただわれらだけがこの不信の国王を見捨てるだけではなく、この国を守護する多くの諸天善神がいても、みな、すべて捨て去ってしまうであろう。すでにわれら護国の諸天や善神が、みな、この国を捨て去ってしまえば、この国にはいろいろの災難が起こり、国王はその位を失うであろう。そして、すべての人民は道徳心や宗教心などの善心を失い、縛ったり、殺しあったり、争ったり、互いにそしったり、上にへつらい、罪のない者を罪に陥れるようなことをするであろう。疫病は流行し、彗星がしばしば出て、太陽が同時に二つ現われたり、日蝕や月蝕も一定せず、黒白二つの虹が出て不吉の相を表わし、星が流れたり、地が揺れ動いて井戸の中から異様な声が聞こえたり、季節はずれの暴風雨が襲い、五穀は実らず、常に飢饉が続くなど、天地に不吉な現象が現われるであろう。また外国から多くの賊が攻めてきて国内を侵略し、人民は多くの苦しみを受けて、国じゅうどこにも安心して住む所はなくなるであろう」とある。
[3]大集経護法品には、「もし国王がいて、仏法の滅びようとするのを見て、これを見捨てて護ろうとしないならば、限りない過去の世に布施や持戒や智恵を修行して積んだ無量の功徳もことごとくみな消滅して、その国には三つの不吉なことが起こるであろう。(中略)その王は死んで後、地獄に堕ちるであろう」と説かれている。
[4]仁王経護国品には、「波斯匿王よ、国に正法が行なわれなくなって国土の乱れる時には、すべての善神が去って、悪魔が力を得て、万民を悩ますのである」と説かれている。また同経の受持品には、「波斯匿王よ、われ今、仏の眼をもって三世を見るのに、すべての国王は、みな過去の世に五百の仏に仕えた功徳によって、現世に帝王国主となることができたのである。さらにこの功徳によって、すべての聖者がその王の国土に生まれてきて、その国のために大きな利益を与えてくれるであろう。しかし、王の積んだ功徳が尽きる時には、すべての聖者はことごとく国を捨て去るであろう。もしすべての聖者が去ってしまうならば、その時その国には必ず七つの難が起こるであろう」と説かれている。
[5]また仁王経の受持品には、「波斯匿王よ、私(釈尊)が今教化する範囲には百億の世界がある。各世界にはそれぞれ太陽があり、月があり、須弥山があり、その四方には四つの洲がある。そのうち南方の閻浮提洲には十六の大国があり、五百の中国、一万の小国があるが、これらの無数の国には七つの恐ろしい難がある。すべての国王はこの難を恐れている。その恐るべき難とは、日月の運行が狂って寒暑の時節が逆になり、赤い太陽が出たり、黒い太陽が出たり、二つ三つ四つ五つと太陽が並んで出たり、あるいは蝕けて太陽に光がなくなったり、あるいは一重、二重、三重、四重、五重と太陽が重なって現われたりするのが第一の難である。二十八の星座の運行が狂ったり、金星や彗星、輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星など、さまざまな星がいろいろ変わった現われ方をするのが第二の難である。大火災が国じゅうを焼き尽くし、万民がことごとく焼死したり、あるいは鬼の起こす火、竜の降らす火、落雷のために起こる火、神仙の起こす火、人災による火、樹から生ずる火、賊の放つ火などが数々起こるのが第三の難である。大水が出て万民を溺れさせたり、気候が狂って冬に雨が降り、夏に雪が降り、冬に雷が落ちたり、六月の暑中に氷や霜や雹が降ったり、赤い水、黒い水、青い水が降ったり、土の山や石の山が降ってきたり、砂や礫や石が降ったり、河が逆流したり、山を浮かべ、石が流れたりするような水の異変が生ずるのが第四の難である。大風が吹いて万民を殺し、国じゅうの山河草木が一時に滅びたり、時ならぬ大風や、黒い風、赤い風、青い風、暴風、つむじ風、火のように熱い風、雨の冷たい風などが吹き荒れるのが第五の難である。国に大旱魃が続いて、熱気が地下にまで浸透して、あらゆる草は枯れ、五穀も実らず、土地は焼けて、そのために万民は死に絶えてしまうのが第六の難である。四方から賊が攻めてきて国土を侵略し、国内にも戦乱が起こり、大火や大水、暴風に乗ずる賊や、鬼のような賊が横行して、人心は極度に荒れすさんで、ついに世界中に大戦乱が起こるのが第七の難である」と説かれている。
[6]法華経の陀羅尼品には、「この法華経の広まっている百由旬の範囲内には災難を起こさせない」と説かれている。
[7]涅槃経の如来性品には、「このすぐれた大涅槃経の広まっているところは、そこがすべて金剛のように壊れることのない浄土である。そこに住む人びともまた金剛不壊の仏身である」と説かれている。
[8]仁王経の受持品には、「この経は常に一千の光明を放って一千里を照らしているから、その範囲内には七難が起こらない」と説かれている。また同経の嘱累品には、「多くの悪僧たちがいて、自分の名誉や利益を得ようとして、国王や太子や王子などの権力者に近づいて、正法を破り、国を滅ぼすような、自分勝手な間違った教えを説くであろう。その王たちは正邪を見分けることができず、その言葉を信じ、正法を護れという仏の戒めに背いて、勝手な法律や制度を作るであろう。これが仏法を破り、国を滅ぼす原因となる」と説かれている。
[9]今これらの経文をよく考えてみると、法華経には「百由旬の範囲内には災難を起こさせない」とあり、仁王経には「一千里の内には七難が起こらない」とあり、涅槃経には「その国土は何ものにも壊されない金剛の地で、人もまた金剛のようである」と説かれている。
[10]疑っていう、今この国土のありさまをみると、いろいろの災難が起こっている。すなわち建長八年(<暦>一二五六暦>)の八月から正元二年(<暦>一二六〇暦>)の二月にいたるまで、大地震や時ならぬ大風や大飢饉や疫病の大流行などのいろいろな災難が次から次へと連続して起こって、今日まで絶えることがない。そのためおおよその国じゅうの人びとが死に絶えてしまったかのようである。そこで災難を払うためのさまざまな祈禱を多くの人が行なったのであるけれども、少しも効験がない。教主釈尊が「正直に方便を捨てた真実の経である」と言われ、多宝如来も「釈迦牟尼仏の説法はみな真実である」と証明され、十方世界より来たり集まった分身の諸仏たちも舌を梵天に付けて真実と証明された法華経の「百由旬の範囲内には災難を起こさせない」とか、教主釈尊の御遺言である涅槃経の「その国土は何ものにも壊されない金剛の土である」とか、仁王経の「一千里の範囲内には七難は起こらない」とかの経文は、いずれもみな偽りであるように思われるが、どうであろうか。
[11]答えていう、いま自分の考えるところでは、上にあげられたもろもろの大乗経がこの日本国に伝わっていながら、その祈りが成就せずに、かえって災難が起こることには少し理由があるのである。その理由は次の経文に示されている。金光明経の四天王護国品に「その国にはこの経が伝わっているのに少しも弘まっていない。その国王もこの経を捨てて顧みようとせず、聞こうともしない。われら四天王は、みな、この国土を捨て去って、この国にはいろいろの災難が起こるであろう」という文。
[12]大集経の護法品に「もし国王がいて、仏法の滅びようとするのを見て、これを見捨てて護らなければ、その国には三つの不吉なことが起こるであろう」という文。
[13]仁王経の嘱累品や受持品に「仏の戒めに背く。これが仏法を破り国を滅ぼす原因となる。もしすべての聖者たちがこの国を捨て去ってしまうならば、必ず七つの大難が起こるであろう」という文。
[14]これらの経文によって考えてみると、法華経などのもろもろの大乗経はこの国にあるけれども、出家・在家の男女のすべての人びとがこれを見捨てて顧みようともせず、聴聞したり、供養しようとする心を起こさないから、この日本国を守護する善神や、すべての聖者たちがこの国を捨て去ってしまい、守護すべき善神や聖者がいないから、そのすきに悪魔や悪鬼が入ってきて、いろいろの災難が起こるのである。
[15]問うていう、国中の人びとがもろもろの大乗経を見捨てて顧みようともせず、また供養しようとする心を起こさなくなったのは、どのような理由によるのであろうか。
[16]答えていう、仁王経の嘱累品には、「多くの悪僧たちがいて、自分の名誉や利益を得ようとして、国王や太子や王子などの権力者に近づいて、正法を破り、国を滅ぼすような、自分勝手な間違った教えを説くであろう。その王たちは正邪を見分けることができず、その言葉を信じ、正法を護れという仏の戒めに背いて、勝手な法律や制度を作るであろう」とある。
[17]法華経の勧持品には、「悪世の僧たちは、邪な智恵とこびへつらいの心を持ち、まだ覚りを得ていないのに覚ったと思い、高ぶりの心で満ちているであろう。この人たちは悪心を懐いて、国王や大臣や婆羅門や長者や他の僧たちに向かって、私たち正法を弘める者の悪行を言い立て、邪見の人だ、異端の教えを説く者だ、と非難するであろう。これらの悪僧は悪魔がその身に入った者たちである」と説かれている。
[18]これらの経文から考えてみると、悪僧たちが国じゅうに充ち満ちて、国を滅ぼし、仏法を破る原因となる悪法を説いているのに、国王も出家・在家の男女すべての人びとも、その正邪を見分けることができずに信用するから、もろもろの大乗経を捨てて顧みようとしなくなってしまうのである。
[19]問うていう、多くの悪僧たちが国じゅうに充ち満ちて、国を滅ぼし、仏法を破るような悪法を説くというが、それは仏弟子の中から出るのか、それとも仏教以外の教えを説く者の中から出るのか、どうか。
[20]答えていう、仁王経の嘱累品に「仏法僧の三宝を信じ護らなければならない者が、かえって三宝を破滅することは、たとえば獅子の身中の虫がみずから獅子を食うのに似ている。仏法を破壊する者は仏教以外の教えを説く者からは出ない」と説かれている。この文によれば、仏弟子の中から国を滅ぼし、仏法を破る者が出ると思われる。
[21]問うていう、その悪僧たちが正法を破るのに、仏法に似た法をもって破るのか、それとも邪悪の法をもって破るのか、どうか。
[22]答えていう、小乗の教えをもって方便の大乗の教えを破り、方便の大乗をもって真実の大乗を破り、しかも師匠も弟子もともに、これが正法を謗り国を滅ぼす原因となっていることに気がつかない。そのために仏の戒めを破り国を滅ぼす原因を作って、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるのである。
[23]問うていう、その証拠はどこにあるのか。
[24]答えていう、法華経の勧持品に、「悪僧たちは、仏が四十余年の間、時に応じ機にしたがって方便として説かれた教えであることを知らないで、方便の教えに執着して、法華経や法華経の行者の悪口をいったり、軽蔑したりして、しばしばその住処から追放するのである」と説かれている。
[25]また涅槃経の如来性品に「わが入滅の後に、無数の人びとがこの大涅槃経を信じないで誹謗するであろう。声聞・縁覚・菩薩の聖者たちもまた同じようにこのすぐれた大涅槃経を憎むであろう」と説かれている。
[26]かの勝意比丘が喜根菩薩を謗って生きながら無間地獄に堕ち、尼思仏などが不軽菩薩を打った罪によって無間地獄に堕ちたのも、みな仏教に大乗と小乗、方便教と真実教との区別があることを知らなかったことから起こった報いである。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の十悪や、父を殺し・母を殺し・僧を殺し・仏を傷つけ・僧団の和合を破る五逆罪が、大きな罪であることは、愚かな者でも心得ているから、それが国を滅ぼし、仏法を破る原因となることはめったにないのである。そこで仁王経の嘱累品には「その王が正邪を見分けることができず、悪僧たちの言葉を信ずる」といい、涅槃経の大衆所問品には、「もし殺生・盗み・不義の交わり・妄語の四つの重罪を犯し、父を殺し・母を殺し・僧を殺し・仏を傷つけ・僧団の和合を破る五つの逆罪を作って、みずから重罪を犯したと知りながら、はじめからこれを怖れる心もなく、懺悔の心もなく、みずから罪を告白しようともしない」とある。
[27]
[28]これらの経文は、謗法の者は自分も他人もともに謗法の子細を知らないために、重罪を作って国を滅ぼし、仏法を破ることになるのであると示されたものである。
[29]問うていう、もしそうであるならば、この日本国において、方便教をもって人の心に取り入って、真実教を滅ぼすような者があるのかどうか。
[30]答えていう、確かにある。
[31]問うていう、その証拠は何か。
[32]答えていう、法然上人の著わした選択集がそれである。今その文をあげて、前に引用した経文と照らし合わせ、その過失をはっきりとあばいてみせよう。もしこれを根絶することができれば、国土を安穏にすることができるであろう。選択集には次のように書いている。「道綽禅師の安楽集には、仏教を聖道門と浄土門との二門に分け、聖道門を捨てて浄土門に入るべきだと説いている。はじめに聖道門には大乗と小乗の二つがあり、大乗の中にも顕教・密教、方便教・真実教の区別があるが、道綽は小乗教と大乗教の中でも顕教大乗と方便大乗とを聖道門とし、いずれも長い時間の修行を経て成仏にいたる教えであるとしている。しかし、私(法然)が考えるに、この文から推測すれば当然、密教も真実大乗教も聖道門の中に含まれるべきである。そう考えれば、いま人びとに信仰されている真言・禅・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論の八宗は、みな聖道門の中に入り、捨てられるべきものである。曇鸞法師の往生論註には、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論を読むと、菩薩が覚りを求めるのに難行道と易行道の二つの道があるとある。この中の難行道とは聖道門のことであり、易行道とは浄土門のことである。浄土宗を学ぶ者は、何よりも先に、聖道と浄土、難行と易行の区別を知らなければならない。たとえ以前から聖道門を学んでいる人でも、もし浄土往生を志すならば、きっぱりと聖道門を捨てて、浄土門に入るべきである」と。また選択集の第二章には次のようにある。「善導和尚は観無量寿経疏に、正行と雑行の二種の修行法を立て、雑行を捨てて正行に入らなければならないと説いている。第一に読誦雑行とは、往生浄土を説いた大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三部経以外の大乗・小乗、顕教・密教の諸経を信じたり読んだりすることである。(略)第三に礼拝雑行とは、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸天などを拝んだり敬ったりすることである。私(法然)はこう考える。善導和尚のいわれたことは、すべての雑行を捨てて、もっぱら念仏の正行を修行すべきであると勧められたものである。百人が百人ともに往生できるという専修念仏の正行を捨てて、千人に一人も成仏できないという雑修雑行にどうして執着する必要があろうか。仏道を修行しようとする者は、よくこのことを考えなさい」と。また同書の第十二章には次のようにある。「貞元入蔵録という唐の貞元年間(<暦>七八五—八〇五暦>)に編集された経典の目録に記載されている最初の大般若経六百巻から最後の法常住経にいたるまでの六百三十七部、二千八百八十三巻のすべての大乗経典は、みな観無量寿経にいう読誦大乗の一句におさめられてしまう。したがって、仏が方便として教えを説かれる場合には、やむをえず当分の間、定散二善のさまざまな修行の門が開かれているが、仏がみずからの本懐にしたがって真実を述べられる場合には、定散の二門は閉じられ廃止される。末法の衆生の前に一度開いて永遠に閉じられることのないのは、ただ念仏の一門だけである」と。また最後の結びの文には次のように書いてある。「速く生死の苦しみから離れようと思うならば、聖道・浄土二門のすぐれた教えのうち、聖道門は覚りがたいからしばらくこれを閣いて、浄土門を選びなさい。浄土門に入ろうと思うならば、正行と雑行の二種の修行法のうち、すべての雑行をなげうって念仏の正行に帰依しなさい」と。以上が選択集の文である。
[33]今これについてよく考えてみると、日本国じゅうの上下万民すべて深く法然上人を信じて選択集を尊んでいる。それゆえに愚かな出家や在家の者は、選択集に説かれる「捨てよ、閉じよ、閣けよ、抛てよ」などの文字をみて、浄土三部経と阿弥陀仏以外の諸経や諸仏・諸菩薩・諸天善神などに対し、捨閉閣抛の心を生じ、これらの諸仏や諸経に供養したり信じたりする心を起こさず、かえってこれらを捨て去る心を生ずるのである。したがって、昔の高僧たちが建立された国家を護るための道場としての大寺院が落ちぶれはてても、少しも惜しいとも思わず、また再建しようとする者もない。それゆえに法味を供える読誦の声も絶えてしまい、ために守護の善神は法味を食することができずに威力を失い、この国を見捨てて去ってしまう。また人びとの頼みとする聖者たちもこの国を捨て去って帰ってこないのである。これはすべて仁王経に「すべての聖者が去ってしまうので、その時必ず七つの難が起こる」と説き、金光明経に「われら四天王はみなその国土を捨て去ってしまうから、その国にいろいろな災難が起こる」という経文に当たっている。まさに法然こそは仁王経に「もろもろの悪僧たちは自分の名誉や利益ばかりを求める」といわれ、法華経に「悪世の僧は邪な智恵とこびへつらいの心をもつ」と説かれた人ではないか。
[34]疑っていう、もしこの国土に選択集が広まったために災難が起こるというならば、選択集の存在しなかった以前においては、国内に災難は起こらなかったのであるか。
[35]答えていう、もちろんその当時にも災難はあった。それは仁・義・礼・智・信の五常を破り、仏の教えに背いた者があったからで、周の武帝や衛元嵩などがそれである。難じていう。その当時の災難が五常を破ったために起こったというならば、何も必ずしも選択集を広めた失によるとはいえないではないか。答えていう、仁王経の嘱累品に「大王よ、未来の世にもろもろの小国の王や出家・在家の男女、もろもろの悪僧たちが、勝手に法律や制度を作って仏の戒めに背き、また仏像や仏塔を作ることを許さないから、その国に必ず七つの難が起こる」と説かれている。また金光明経には「またこの経を供養したり尊んだり讃歎したりしようともしないから、その国に必ずいろいろの災難が起こるであろう」と説かれている。さらに涅槃経の如来性品には「このすぐれて尊い大涅槃経を憎む」と説かれている。これらの経文に照らし合わせてみると、阿弥陀仏以外の諸仏と浄土三部経以外の諸経を供養したり、礼拝したり、讃歎したりするのはすべて難行である、とする法然の意見にぴったり当たっているではないか。難じていう、では仏法の広まる以前にこの国に災難があったのは、どうして謗法の者のために起こったといえるのか。答えていう、仏法が広まる以前に五常をもって国を治めたのは、遠く仏の教えによって国を治めたのである。したがって、礼儀などの五常の道を破れば、仏の定められた五戒を破ったことになるのである。問うていう、その証拠はどこにあるか。答えていう、金光明経には、「すべてこの世の中の善を勧める教えは、みなこの金光明経の教えにもとづいている」とあり、法華経の法師功徳品には「もし世の中の道徳や政治や実業などのことを説いても、みな正法にかなっている」とあり、観普賢経には「正法によって国を治めて人心を悪くしなければ、それがそのまま懺悔を修したことになる」といい、涅槃経の如来性品には「すべて世の中に広まっている仏教以外の教えは、みな仏の説かれたものであって、外道の説ではない」とある。また天台大師の摩訶止観には「もし本当に世間の道を覚れば、それがそのまま仏の道である」とあり、妙楽大師の摩訶止観弘決には「礼儀や音楽などの世間の教えが先に広まって、その後に仏の道が開ける」とあり、安然和尚の普通広釈には「仏は三人の賢者を中国に派遣して、まず五常の道によせて五戒を教えさせたのである。ある時、宋の国の太宰が孔子に向かって、三皇五帝は聖人であるかと質問した時、孔子は聖人ではないと答えた。そこで再び、それでは貴方は聖人であるかと質問すると、孔子はやはり聖人ではないと答えた。そこでさらに重ねて、それならば誰を聖人というのかと質問すると、自分が聞いたのではこれより西の方に聖人があって釈迦という名である、と答えた」とある。これらの経文や論釈によって考えてみると、仏法の広まる以前に、三皇五帝が出て五常の道によって国を治めたのである。夏の国の桀王や殷の国の紂王や周の国の幽王などが、礼儀を破って五常の道に背き国を滅ぼしたのは、仏法でいう仏の立てられた戒律を守ったか破ったかに当たっているのである。
[36]疑っていう、もしそうであるとするならば、法華・真言などのもろもろの大乗経を信仰する者が、災難にあうのはどうしてなのか。
[37]答えていう、金光明経に「罪のない者までまきぞえにされる」といい、法華経の譬喩品には「無実の災難にあうであろう」と説かれている。これらの経文から推察してみると、法華経や真言経を修行する者でも、まだ修行も浅く信心も薄く、経を読んでもその意味が解らず、ただ自分の名誉や利益のために読むので、前の世に犯した謗法の罪がまだ消えないでいる。表面は法華経や真言経を修行しているが、内心には選択集の専修念仏を信じていて、謗法が災難の根源であることを知らずにいる者たちが、これらの災難にあうのである。
[38]疑っていう、もしそうであるならば、どうして選択集を信じている謗法者の中に、これらの災難にあわない者があるのか。答えていう、それは人びとの前世に行なった行為が結果をひきおこす力が異なるからである。現在の世に原因を作り、現在の世にその果報を受ける順現業については、法華経の勧発品に「法華経の信者を毀る人は現在の世でもろもろの悪い重い病にかかる」といい、仁王経の嘱累品には「仏教を破る人には、親孝行の子は生まれない。親類じゅうと仲たがいし、天の神々も助けてくれない。病魔におそわれない日はなく、いろいろな災難が次々と起こって絶え間がない」といい、涅槃経の如来性品には「もしこの経典を信じない者は、臨終の時に内乱などが起こって刀剣の難にあい、上は帝王にむごい仕打ちで苦しめられ、下は万民から怨まれ憎まれて、いろいろの災難にあう」と説かれている。この世において作った業の報いを次の世(来世)において受けるという順次生業については、法華経の譬喩品に「もし人がこの経を信じないで謗るならば、その人は死んで後に必ず無間地獄に堕ちるであろう」といい、仁王経の嘱累品に「仏教を破る人は、死んで後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるであろう」と説かれている。この世で業を作って次の次の生にその報いを受ける順後業については略しておく。
[39]問うていう、では一日も早くこの災難を止めるにはどうすればよいのか。
[40]答えていう、ただちに謗法の教えと謗法の人を根絶することである。そうでないと、どんなに神仏に祈りを捧げても災難はなくならない。
[41]問うていう、謗法を根絶するにはどうすればよいのか。答えていう、謗法を根絶する方法もまた経文に示されている。涅槃経の大衆所問品に「仏が言われるには、人に施すことはよいことだが、ただ一人だけ施してはならない者がある。正法をそしってこの重い罪を犯したのである。この一闡提だけを除いて、その他の者に施すことは善いことであり、すべてほめたたえられるであろう」と説かれている。この経文によれば、謗法の者に対する布施を止めて謗法を根絶せよとの教えである。この外にも謗法を根絶する方法は多くあるが、くわしく述べている余裕がないので省略する。問うていう、謗法の者に対し布施を止めて苦しめても罪にならないであろうかどうか。答えていう、涅槃経の寿命品には「今この最高の正法を、もろもろの国王や大臣や役人やその他、出家・在家の男女の弟子たちに委嘱する。もし正法をそしる者があれば、国王や大臣をはじめ、出家・在家の男女の弟子たちにいたるまで、みな力を合わせて謗法を根絶しなければならない。決して罪にはならない」と説かれている。
[42]問うていう、あなたは僧の身でありながら、同じ僧侶の過失を指摘するのは罪にならないのか。
[43]答えていう、仏は涅槃経の寿命品に「たとえ立派な僧があっても、正法を破る者を見て、これをとがめもせず、追い出そうともせず、その罪をただそうともしないならば、この人は仏法の中の怨敵である。もし謗法の者をきびしく責めただし、追い出すならば、これこそ真の仏弟子である」と誡められている。自分、日蓮はこの経文を見て、仏法の中の怨敵となる責めを免れるために、人びとの批判も遠慮することなく、法然上人やその弟子・信者たちが無間地獄に堕ちなければならない理由を明らかにするのである。この道理を聞きわける出家や在家の者の中には、少しは心をひるがえし改宗をする者もいる。もし国主の身として一度このことを耳にしながら、右に引用した経文の通りに謗法者に対する布施を停止しないならば、大集経の護法品に「もし国王があって、仏法の滅びようとするのを見て、これを見捨てて護ろうとしないならば、過去世に永い間にわたって布施や持戒や智恵を修行して積んだ無量の功徳もことごごとくみな消滅して、その国には三つの不吉なことが起こるであろう。(中略)その王は重病にかかり、死んで後は地獄に堕ちるであろう」とある仏の予言を免れることはできないであろう。仁王経の受持品には「もし王の積んだ功徳が尽きる時には、必ず七つの畏るべき難が必ず起こるであろう」とある。大集経の文に「過去に永い間にわたって布施・持戒・智恵の修行をして積んだ功徳もことごとくみな消滅して」といわれている。これらの経文を見ると、他のことはしばらくおいて、まず第一にこの災難の起こった原因をよく考えるべきである。もしその原因を究明することなく、祈禱などを行なっても、かえって災難を増すばかりであろう。自分(日蓮)の考えるところはおよそ右の通りである。この謗法を根絶する方法を用いるか用いないかは各人に任せる。