断片51
断51
止観十巻には内外典を打頽して法華経となしてつくれる文なり。教相を以定めば、法華已前の諸経の談にして、一仏の一切の仏の功徳をば備ざる事なり。法華経にをいても迹門にすら、なをしこれをゆるさず。何況爾前の経々をや。されば爾前の諸経に、一仏一切仏の義をとけるは、或は平等意趣と心へ、或は法身のかたをとけると心へ、或は爾前の円教の融通の心としるべきを、遠くは一代聖教の先後をもわきまへず、近は天台・妙楽の釈をもしらざる者ども但一文一句計をとりて先後もしらずいう事なり。阿弥陀の三字に一切の諸仏を摂事は源法華経の所説、一切の諸法を三諦ととかるれば法華経の行者のためには阿弥陀の三字一切の仏ををさむべし。法華経も信ぜぬ権経(2・3行欠損)をさまらず法華経の三字□□□□□□□をさまるというか。答云爾也。金ににたる石あり。又実の金あり。珠ににたる石あり。実の珠あり。愚者は金ににたる石を金とをもい、珠ににたる石を珠とをもう。この僻案の故に又金に似石と実の金と、珠に似石と実の珠と勝劣をあらそう。世間の人々は何をという事をしらざる故に、或は千人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言について少人の実義をすつ。或は威徳の者いうぎにつきて無威の者の実義をすつ。仏は依法不依人といましめ給ども末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は依了義経不依不了義経とはせいし給ども濁世の衆生は依不了義経不依了義経の者となりぬ。あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申宗は華厳経を本として一切経をすべたり。法相宗・三論宗等も皆我依経を本として諸経を