妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

断片50

第三巻 定本番号 3 文永 分類: その他

     断50
[四] 者の中に臨終のあてがたなくものせうせういできたる。こゝに人すいしをもう。信施をもいて念仏を申が臨終のわろきやらんなんどをもう程に、一向信施をたち 童男女等をすてゝ 山林にこもりゐて 名利名聞等をたちて 一向に念仏を申人の中に ことに臨終わろき人々又これをほし。この時、信施をもいて臨終のわろきやらんの疑又やぶれぬ。進退きわまりてあれども、いかなる故という事をしらず。例ば提婆・善星・瞿伽利・苦得・尼等の人々、或は仏弟子なるもあり、或は外道なるもあり、或は二百五十戒を持、四禅定をえ、欲界の貪瞋痴等を断、或十二部経をそらにし、或は六万八万法蔵をうかべたりし人々、或は生身大地われて無間地獄に堕、或は死して食吐鬼となりなんどせしかども、彼の所化の弟子どもはすべて我師、地獄に堕とわしらず、但得道の人なんめりとわをもいしなり。又心に疑臨終のさだめなきはいかにとをもう。此に仏ののたまわく、此等は皆無間地獄に堕たりと。彼等が所化の弟子等(此次1紙欠?)
としごろの法華読誦の功徳を浄土に廻向して観経の上品上生に往生せん。上品中生は解第一義をもちて往生すべしととかれたり。華厳経の唯心法界、法華経の一念三千・十法成乗、真言の入我々入・五相成身等を廻向して西方の浄土の上品中生に往生すべし。わづかにすこし一戒を持ものは中三品を志ざす。悪人は名号を唱て下三品を心ざす。法然等が料簡には経の面は読誦・解第一義・戒等の往生したるやうにはみへたれども、遠くは浄土の三部経の先後、近は観経の始中終を勘たるに、実には九品に亙て必念仏をもちて往生すべし。経文に読誦等の諸行を往生の業にいたせるは且末代の凡夫が観経等にあはざりし先に法華経等の諸経をよみつみ戒等を持て、なを但一度に往生の業にはあらず、すてゝ念仏にうつれ、といわば本意なくをもい信をなさずして観経にうつるべからざる故に、且人の心をとらんがために諸行往生とわ申。(此間1紙欠?)
法華経を入事をば、伝教大師あながちに謗法の者とこそ定給へ。而華厳・深密・般若経等だにも及ざる観経の読誦大乗の内に法華経ををさむべしや。此の義をわきまえざる故、天台真言の人々も行は諸行にわたれども心は一向の念仏者なり。かるがゆへに謗法の者となりて臨終はをもうさまならず。在家の無智下賤のもの并悪人が臨終のあてがたなるは、又下賤なる故にいたう謗法の念仏者をも供養せず。悪人なる故謗法の念仏者にも近かず。但あるほどに先の世に五戒を持て人間生たり。自然に堂寺なんどをもめにみ、一年十年等の内にも如法経なんどの縁をもむすび、父母なんどのけうやうの心もあるかの故生死をはなるゝまでこそなけれども、人天の果報をうるかの故に臨終あてがたなるなり。譬へば将門・貞任なんどは謀反のものなりしかども、我等が領内の百姓はいたうとがもなければことごとく打事もなし。郎従なんども大将軍亡後はいたうたづねられず。謗法も又かくのごとし。これをもちて一切心うべし。