断片52
断52
釈するなり。されば華厳宗人多といえども澄観等の心をいでず。彼の宗の人々諸経をよめども、たゞ澄観の心をよむなり。全諸経をばよまず。余宗又かくのごとし。澄観等仏意にあいかなわば我止。彼等又仏意に相叶べし。澄観もし仏意に相叶ずば彼の宗の諸人又仏意に相叶べからず。一人妄をさえづれば諸人妄をつたう。一人まつり事をだやかならざれば万民苦をなすがごとし。当世の念仏者たとい諸経諸仏を念し行ずとをもえども、導綽・善導・法然等の心をすぎず。若爾者道綽禅師が未有一人得者の釈、善導が千中無一の釈、法然が捨閉閣抛の四字謬ならば、たとえ一代聖教をそらにせる念仏者なりとも阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の其人命終入阿鼻獄の者とならん事疑なし。これ偏に依法不依人の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失のいたすところなり。問云人に依失ならばなんぞなんぢは天台・妙楽・伝教大師に依や。答云あえて天台・妙楽・伝教大師を用ず。但天台・妙楽・伝教大師の引給る証文によるなり。例せば国ををさむる人国の中のまつり事、三皇・五帝等の三墳・五典にて賞罰ををこなえば、聖人賢人とはいわるれども、人を罰する罪よりて悪道にをちず、而を重罪の者愛するによりて軽罪にをこなひ、奉公あるものを悪によりて賞せずなんどあれば、現世には侫人のなをとり、国やぶれ、未来にはあしき名をながすなり。これ偏に文書に依て人によらず、人によりて文書によらざるによりて、賢愚はいで来るなり。当世の僧俗多は人を本として経文を本とせず。或者云日蓮は善導和尚にはすぐべからず。或云日蓮見るほどの(此間中断)
と難ぜらるゝか。若爾者いかにまけたる問註の義と恐かへされたる先判をは公家武家にはをさめをかれたるべし。先判は後判のためのかたうどとなり、まけたる問註の記はかつものゝ証文となる。故にをさめをかれたるなり。爾前の諸経は爾前の行者のためには用事なけれども、法華経の行者のためには□□なるなり。故に阿難尊者此を結集し、智者たち震旦日本までもわたし来るなり。問云阿弥陀の三字一代聖教・一切諸仏をさまり給わずばいかに、止観云与称十方仏名字功徳正等、の釈如何。答云反詰云此の釈は何の経文により処有や。答云止観の常坐常行の両三昧の処なり。問云其の両三昧は何経文に依ぞや。答云常坐三昧は文殊問等常行三昧は般舟経等。問云文殊問経・般舟経は何の部の経ぞ。法華経爾前か、已後か並か如何。答云しらす。難云経を定釈をば料簡すべし。汝ほゞこれをきけ、天台妙楽の心は玄義十巻諸経の