新池御書
37 新池御書
うれしきかな末法流布に生れあへる我等、かなしきかな今度此経を信ぜざる人人。抑人界に生を受るもの、誰か無常を免れん。さあらんに取ては何ぞ後世のつとめをいたさざらんや。倩世間の体を観ずれば、人皆口には此経を信じ、手には経巻をにぎるといへども、経の心にそむく間、悪道を免れ難し。譬ば人に皆五臓あり、一臓も損ずれば其臓より病出来して、余臓を破り終に命を失が如し。爰を以て伝教大師は雖讃法華経還死法華心等[云云]。文心は法華経を持ち読み奉り讃れども、法華の心に背きぬれば、還て釈尊十方の諸仏を殺すに成ぬと申意也。
終に世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此経にあひ奉りぬれば、諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値奉て消べし。然れども此経の十四謗法の中に、一も二もをかしぬれば其罪消がたし。所以者何。一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争か一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪也。此のをきてに背くを謗法の者とは申也。地獄おそるべし。炎を以て家とす。餓鬼悲むべし、飢渇にうへて子を食ふ。修羅は闘諍也。畜生は残害とて互に殺しあふ。紅蓮地獄と申はくれなゐのはちすとよむ。其故は余りに寒につめられてこごむ間、せなかわれて肉の出たるが紅の蓮に似たる也。況や大紅蓮をや。かゝる悪所にゆけば、王位将軍も物ならず。獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず。此時は争か名聞名利・我慢偏執有べきや。
思食すべし。法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行べからず。何に況や、十度・二十度乃至五年・十年・一期生の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知がたし。此経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝たりと、仏は説せ給て候。此経にあひ奉りぬれば、悦身に余り左右の眼に涙浮びて、釈尊の御恩報じ尽しがたし。かやうに此山まで度度の御供養は、法華経並に釈迦尊の御恩を報じ給に成べく候。弥はげませ給べし。懈ることなかれ。皆人の此経を信じ始時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始より終りまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬ば鎌倉より京へは十二日の道也。それを十一日余り歩をはこびて、今一日に成て歩をさしをきては、何として都の月をば詠め候べき。何としても此経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。
噫、過し方の程なきを以て知ぬ、我等が命今幾程もなき事を。春の朝に花をながめし時、ともなひ遊し人は花と共に無常の嵐に散はてて、名のみ残りて其人はなし。花は散ぬといへども、又こん春も発くべし。されども消にし人は、亦いかならん世にか来るべき。秋の暮に月を詠めし時戯れむつびし人も、月と共に有為の雲に入て後、面影ばかり身にそひて物いふことなし。月は西山に入といへども、亦こん秋も詠むべし。然れどもかくれし人は、今いづくにか住ぬらん、おぼつかなし。無常の虎のなく音は、耳にちかづくといへども聞て驚くことなし。屠所の羊は今幾日か無常の道を歩ん。雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明なば栖つくらんと鳴といへども、日出ぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚く鳴ことをう。一切衆生も亦復如是。地獄に堕て炎にむせぶ時は、願くは今度人間に生れて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来る時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消やすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これただごとにあらず。地獄の使のきをふもの也。寸善尺魔と申は是也。
其上此国は謗法の土なれば、守護の善神法味にうへて社をすて天に上り給へば、悪鬼入かはりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は徒に魔縁の栖と成ぬ。国の費民の歎にて、いらかを並べたる計也。是私の言にあらず、経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請取り給はず。況や人間としてこれをうくべきや。春日大明神の御詫宣に云、飯に銅の炎をば食すとも、心穢れたる人の物をうけじ。座に銅の焔には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ、草の廊萓の軒にはいたるべしと云り。縦令千日のしめを引とも、不信の所には至らじ。重服深厚の家なりとも、有信の所には至るべし[云云]。如是善神は此謗法の国をばなげきて天に上らせ給て候。心けがれたると申は、法華経を持たざる人の事也。此経の五巻に見たり。謗法の供養をば銅、焔とこそおほせられたれ。神だにも如是。況や我等凡夫としてほむら(焔)をば食すべしや。人の子として我親を殺したらんものの、我に物をえさせんに是を取べきや。いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし。
釈尊は一切の諸仏、一切の諸神、人天大会、一切衆生の父也、主也、師也。此釈尊を殺したらんに、争か諸天善神等うれしく思食べき。今此国の一切の諸人は皆釈尊の御敵也。在家の俗男俗女等よりも、邪智心の法師ばらは殊の外の御敵也。智慧に於ても正智あり邪智あり。智慧ありとも其邪義には随ふべからず。貴僧高僧には依べからず。賤き者なりとも、此経の謂れを知たらんものをば、生身の如来のごとくに礼拝供養すべし。是経文也。されば伝教大師は無智破戒の男女等も此経を信ぜん者は、小乗二百五十戒の僧の上の座席に居よ、末坐にすべからず。況や大乗此経の僧をやとあそばされたり。今生身の如来の如くみえたる極楽寺の良観房よりも、此経を信じたる男女は座席を高く居よとこそ候へ。彼二百五十戒の良観房も、日蓮に会ぬれば腹をたて、眼をいからす。是ただごとにはあらず。智者の身に魔の入かはればなり。譬ば本性よき人なれども、酒に酔ぬればあしき心出来し、人の為にあしきが如し。仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば是を供養せん者は三悪道に堕べし。彼等が心犬野干の心には劣れりと説給て候也。彼四大声聞等は、二百五十戒を持つことは金剛の如し、三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども、法華経を持たざる時は如是仰せられたり。何に況やそれに劣れる今時の者共をや。建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く、威儀の放埓なることは猿に似たり。是を供養して後世を助からんと思ふははかなしはかなし。
守護の善神此国を捨る事疑あることなし。昔釈尊の御前にして諸天・善神・菩薩・声聞、異口同音に誓をたてさせ給て、若法華経の御敵の国あらば、或は六月に霜霰と成て国を飢饉せさせんと申し、或は小虫と成て五穀をはみ失はんと申し、或は旱魃をなさん、或は大水と成て田園をながさんと申し、或は大風と成て人民を吹殺さんと申し、或は悪鬼と成てなやまさんと面面に申させ給き。今の八幡大菩薩も其座におはせし也。争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん。起請を破らせ給はば、無間地獄は疑なき者也。恐れ給べし恐れ給べし。今までは正く仏の御使出世して此経を弘めず、国主もあながちに御敵にはならせ給はず、但いづれも貴しとのみ思ふ計也。今某仏の御使として此経を弘むるに依て、上一人より下万民に至るまで皆謗法と成畢ぬ。今までは此国の者ども法華経の御敵にはなさじと、一子のあやにくの如く捨かねておはせども、霊山の起請のおそろしさに社を焼払て天に上らせ給ぬ。さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其頭には住べし。天照太神八幡大菩薩天に上らせ給はば、其余の諸神争か社に留るべき。縦ひ捨じと思食とも、霊山のやくそくのまゝに某呵責し奉らば一日もやはかおはすべき。譬ば盗人の候に知れぬ時はかしこやこゝに住候へども、能案内知たる者是こそ盗人よとのゝしりどめければ、おもはぬ外に栖を去るが如く、某にささへられて社をば捨給ふ。然るに此国思の外に悪鬼神の住家となれり。哀なり哀なり。
又一代聖教を弘る人は多くおはせども、是程大事の法門をば伝教・天台もいまだ仰せられず。其も道理也。末法の始の五百年に上行菩薩の出世あて弘め給ふべき法門なるが故也。相構へていかにしても此度此経を能信じて命終の時千仏の迎に預り、霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし。信心弱くして成仏のびん時、某をうらみさせ給ふな。譬ば病者に良薬を与ふるに、毒を好んでくひぬれば其病愈がたき時、我とが(失)とは思はず、還て医師を恨るが如くなるべし。此経の信心と申は少しも私なく経文の如くに、人の言を用ひず法華一部に背く事無れば仏に成候ぞ。仏に成候事は別の様は候はず。南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備る也。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成候也。譬ば鳥の卵は始は水也、其水の中より誰かなすともなけれども、觜目よと厳り出来て虚空にかけるが如し。我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱への母にあたゝめられまいらせて、三十二相の觜出て八十種好の鎧毛生そろひて実相真如の虚空にかけるべし。爰を以て経云、一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし。仏母の鳥は分段同居の古栖に返て、無明の卵をたゝき破て一切衆生の鳥をすだて(巣立)て、法性真如の大虚にとばしむと説けり[取意]。
有解無信とて法門をば解て信心なき者は、更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此経の意也、私の言にはあらず。されば二巻には以信得入非己智分とて、智慧第一の舎利弗も、但此経を受持ち信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説給へり。舎利弗だにも智慧にては仏にならず。況や我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくば仏にならんことおぼつかなし。末代の衆生は法門の少分こゝろえ僧をあなづり法をいるがせにして悪道におつべしと説給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず。外悟の智識を仏と敬ふべし、争か徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨て、何に賤しき者なりとも法華経を説ん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正く経文也。
今時の禅宗は大段仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老たるを敬ひ、幼を愛するは内外典の法也。然るを彼僧家の者を見れば、昨日今日まで田夫野人にして黒白を知ざる者も、かちんの直綴をだにも著つれば、うち慢じて天台真言の有智高徳の人をあなづり、礼をもせず其上に居んと思也。是傍若無人にして畜生に劣れり。爰を以て伝教大師の御釈に云、川獺祭魚のこゝろざし、林烏父祖の食を通ず、鳩鴿三枝の礼あり、行雁連を乱らず、羔羊踞て飲乳。賤き畜生すら礼を知こと如是。何ぞ人倫に於て其礼なからんやとあそばされたり[取意]。彼等が法門に迷へる事道理也。人倫にしてだにも知ず、是天魔破旬のふるまひにあらずや。
是等の法門を能能明めて、一部八巻廿八品を頭にいただき懈らず行ひ給へ。又某を恋しくおはせん時は日日に日を拝ませ給へ。某は日に一度天の日に影をうつす者にて候。此僧によませまひらせて聴聞あるべし。此僧を解悟の智識と憑み給てつねに法門御たづね候べし。聞ずんば争か迷闇の雲を払はん。足なくして争か千里の道を行んや。返返此書をつねによませて御聴聞あるべし。事事面の次を期し候間委細には申し述ず候。穴賢穴賢。
弘安三年二月 日 日蓮[花押]
新池殿
弘安三年二月 日 日蓮[花押]
新池殿