寿量品得意鈔
22 寿量品得意鈔
教主釈尊寿量品を説給に、爾前迹門のきゝ(所聞)をあげて云、一切世間天人及阿修羅皆謂今釈迦牟尼仏出釈氏宮去伽耶城不遠坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提云云。此文の意は、初華厳経より終法華経安楽行品に至まで、一切の仏の御弟子大菩薩等の知る処の思の心中をあげたり。爾前の経に二の失あり。一には存行布故仍未開権と申て、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を不説過也。二には言始成故尚未発迹と申て、久遠実成の寿量品を不説過也。此二の大法は一代聖教の綱骨、一切経の心髄也。迹門には二乗作仏を説て、四十余年の二の失一を脱したり。雖然未説寿量品、実の一念三千もあらはれず、二乗作仏も不定。水にやどる月の如く、無根草の浪の上に浮べるに異ならず。
又云、然善男子我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫等云云。此文の心は、華厳経の始成正覚と申て、始て仏になると説給ふ。阿含経の初成道、浄名経の始坐仏樹、大集経の始十六年、大日経の我昔坐道場、仁王経の二十九年、無量義経の我先道場、法華経方便品の我始坐道場等を一言に大虚妄也と打破る文也。本門寿量品に至て始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ、四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ。因とは修行弟子位也。爾前迹門の因果を打破て、本門の十界因果をときあらはす。是則本因本果の法門也。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界にそなへて、実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
かうしてかへ(返)てみるときは、華厳経の台上盧舎那、阿含経の丈六の小釈迦、方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は、此寿量品の仏の天月の、しばらくかげ(影)を大小のうつはもの(器物)に浮べ給を、諸宗の智者学匠等は近は自宗にまどひ、遠は法華経の寿量品を不知。水中の月に実月のおもひをなして、或は入て取んとおもひ、或は縄をつけてつなぎとどめんとす。此を天台大師釈云、不識天月但観池月と。心は爾前迹門に執著する者は、そら(天)の月をしらずして、但池の月をのぞみ見が如くなりと釈せられたり。又僧祇律の文に、五百の猨山より出でて、水にやどれる月をみて入てとらんとしけるが、実には無き水月なれば、月とられずして水に落入て猨は死にけり。猨者今提婆達多六群比丘等也とあかし給へり。
一切経の中に此寿量品ましまさずは、天に無日月、国に大王なく、山海に玉なく、人にたましゐ無らんがごとし。されば寿量品なくしては、一切経いたづらごとなるべし。無根草ひさしからず、みなもとなき河遠からず、無親子人にいやしまる。所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ、十方三世の諸仏の母にて御坐候へ。恐恐謹言。
四月十七日 日蓮[花押]
四月十七日 日蓮[花押]