妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

十如是事

第三巻 定本番号 3 正嘉2(1258) 分類: その他

祖寿: 37 著作地: 遊学中 

   13   十如是事
我身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説て云、如是相如是性如是体如是力如是作如是因如是縁如是果如是報如是本末究竟等文。
初に如是相者、我身の色形に顕れたる相を云也。是を応身如来とも、又解脱とも、又仮諦とも云也。次如是性者、我心性を云也。是を報身如来とも、又般若とも、又空諦とも云也。三如是体者、我此身体也。是を法身如来とも、又中道とも、法性とも、寂滅とも云也。されば此三如是を三身如来とは云也。此三如是が三身如来にておはしましけるを、よそに思ひへだてつるが、はや我身の上にてありける也。かく知ぬるを法華経をさとれる人とは申也。此三如是を本として、是よりのこりの七の如是はいでゝ十如是とは成たる也。此十如是が百界にも千如にも、三千世間にも成たる也。かくの如く多の法門と成て八万法蔵と云るれども、すべて只一の三諦の法にて、三諦より外には法門なき事也。其故は百界と云は仮諦也。千如と云は空諦也。三千と云は中諦也。空と仮と中とを三諦と云事なれば、百界千如三千世間まで多の法門と成たりと云へども、唯一の三諦にてある事也。されば始の三如是の三諦と、終の七如是の三諦とは、唯一の三諦にて、始と終と我一身の中の理にて、唯一物にて不可思議なりければ、本と末とは究竟して等しとは説給へる也。是を如是本末究竟等とは申たる也。始の三如是を本とし、終の七如是を末として、十の如是にてあるは、我身の中の三諦にてある也。此三諦を三身如来とも云へば、我心身より外には善悪に付て、かみ(髪)すぢ計の法もなき物を、されば我身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事也。
是をよそに思を衆生とも迷とも凡夫とも云也。是を我身の上と知ぬるを、如来とも覚とも聖人とも智者とも云也。かう解り明かに観ずれば、此身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして、即身成仏とはいはるゝ也。譬ば春夏田を作りうへつれば、秋冬は蔵に収て心のまゝに用るが如し。春より秋をまつ程は久き様なれども、一年の内に待得が如く、此覚に入て仏を顕す程は久きやうなれども、一生の内に顕はして我身が三身即一の仏となりぬる也。
此道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども、同一生の内に顕はす也。上根の人は聞所にて覚を極て顕はす。中根の人は若は一日、若は一月、若は一年に顕はす也。下根の人はのび(延)ゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限たる事なれば、臨終の時に至て、諸のみえつる夢も覚てうつゝになりぬるが如く、只今までみつる所の生死妄想の邪思、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつゝの覚にかへりて、法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賤と思ひし我此身が、三身即一の本覚の如来にてあるべき也。秋のいねには、早と中と晩との三のいね有れども、一年が内に収むるが如く、此も上中下の差別ある人なれども、同く一生の内に諸仏如来と、一体不二に思合せてあるべき事也。
妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは、何様なる体にておはしますぞと尋出してみれば、我心性の八葉の白蓮華にてありける事也。されば我身の体性を妙法蓮華経とは申ける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我身の体にてありけると知ぬれば、我身頓て法華経にて、法華経は我身の体をよび顕し給ける仏の御言にてこそありければ、やがて我身三身即一の本覚の如来にてあるもの也。かく覚ぬれば、無始より已来今まで思ならはしゝ、ひが思の妄想は昨日の夢を思やるが如く、あとかたもなく成ぬる事也。是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてある也。十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべき也。かく信ずるを如説修行の人とは申也。南無妙法蓮華経。   日蓮[花押]