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一念三千法門

第三巻 定本番号 3 正嘉2(1258) 分類: その他

祖寿: 37 著作地: 遊学中 

   14   一念三千法門
法華経の余経に勝たる事何事ぞ。此経に一心三観・一念三千と云事あり。薬王菩薩漢土に出世して天台大師と云れ、此法門を覚り給しかども、先玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多の法門を説しかども、此一念三千の法門をば談じ給はず、百界千如の法門計也。御年五十七の夏四月の比、荊州玉泉寺と申処にて、御弟子章安大師に教給ふ止観と申文十巻あり。上四帖に猶秘し給て、但六即四種三昧等計也。五巻に至て立十境・十乗・一念三千法門夫一心具等云云。是より二百年後に妙楽大師釈云当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界云云。此一念三千・一心三観の法門は、法華経の一巻の十如是より起れり。文の心は百界千如三千世間云云。
さて一心三観と申は余宗は如是とあそばす。是僻事にて二義かけたり。不知天台・南岳御義故也。されば当宗には如天台所釈三遍読に功徳まさる。第一に是相如と相・性・体・力以下の十を如と云ふ。如と云は空の義なるが故に十法界皆空諦也。是を読観ずる時は我身即報身如来也。八万四千又般若とも申。第二に如是相是我身の色形顕れたる相也、是皆仮なり。相・性・体・力以下の十なれば、十法界皆仮諦と申て仮の義也。是を読観ずる時は我身即応身如来也、又解脱とも申。第三に相如是と云は中道と申て仏の法身の形也。是を読観ずる時は我身即法身如来也、又中道とも、法性とも、涅槃とも、寂滅とも申。此三を法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申。此三身如来全く外になし。我身即三徳究竟の体にて、三身即一の本覚の仏也。是をしるを如来とも聖人とも悟とも云。不知凡夫とも衆生とも迷とも申。
十界の衆生各互に十界を具足す、合すれば百界也。百界に各各十如を具すれば千如也。此千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千也。百界と顕たる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一也。千如は総て空の義なれば空諦の一也。三千世間は総じて法身の義なれば中道の一也。法門雖多但三諦也。此三諦を三身如来とも三徳究竟とも申なり。始の三如是は本覚の如来也。終の七如是と一体にして無二無別なれば、本末究竟等とは申なり。本と申は仏性、末と申は未顕の仏、九界の名也。究竟等と申は妙覚究竟の如来と、理即の凡夫なる我等と無差別究竟等とも、平等大慧の法華経とも申なり。
始の三如是は本覚の如来也。本覚の如来を悟出し給へる妙覚の仏なれば、我等は妙覚の父母也、仏は我等が能生の子也。止一云、止則仏母、観即仏父云云。譬ば人十人あらんずるが、面面に蔵蔵に宝をつみ、我蔵に宝のある事を不知、かつへ(飢)死しこごへ(凍)死す。或は一人此中にかしこき人ありて悟出すが如し。九人は終に不知。然るに或は被教食し、或くゝめ(含)られて食するが如し。弘一止観二字正示聞体不聞者本末究竟等も徒ら歟。子なれども親にまさる事多し。重華はかたくなはしき父を敬て賢人の名を得たり。沛公は帝王と成て後も拝其父。其被敬父をば全く王といはず、敬し子をば王と仰ぐが如し。其仏は子なれども賢くましまして悟出し給へり。凡夫は親なれども愚癡にして未悟。委しき義を不知人、毘盧の頂上をふむなんど悪口す。大なる僻事也。
一心三観に付て次第三観・不次第三観と云事あり。委く申に及ばず候。此三観を心得すまし成就したる処を、華厳経に三界唯一心云云。天台は諸水入海とのぶ。仏と我等と総て一切衆生理性一にてへだてなきを平等大慧と云也。平等と書てはおしなべてと読む。此一心三観一念三千の法門諸経にたえて無之。不遇法華経争可成仏乎。余経には六界八界より十界を明せども、さらに具を不明。法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば、我身本覚の如来なること悟出され、無明の雲晴て法性の月明かに、妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即本有常住の如来となるべし。此を即身成仏とも、煩悩即菩提とも、生死即涅槃とも申。此時法界を照し見れば、悉く中道の一理にて仏も衆生も一也。されば天台の所釈に一色一香無非中道と釈し給へり。此時は十方世界皆寂光浄土にて、何の処をか弥陀・薬師等の浄土とは云ん。是を以て法華経に是法住法位世間相常住と説給ふ。
さては経をよまずとも、心地の観念計にて可成仏歟と思たれば、一念三千の観念も、一心三観の観法も、妙法蓮華経の五字に納れり。妙法蓮華経の五字は、又我等が一心に納て候けり。天台の所釈に此妙法蓮華経者本地甚深之奥蔵、三世如来之所証得也と釈したり。さて此妙法蓮華経を唱る時、心中の本覚の仏顕る。我等が身と心をば蔵に譬へ、妙の一字を印に譬へたり。天台の御釈に発秘密之奥蔵称之為妙。示権実之正軌故号為法。指久遠之本果喩之以蓮。会不二之円道譬之以華。声為仏事称之為経釈し給、又妙者褒美不可思議之法也。又妙者十界十如権実之法妙云云。
経の題目を唱ると観念と一なる事得心がたしと、愚癡の人は思給ふべし。されども天台止二而於説黙と云へり。説者経、黙は観念也。又四教義一云非但功不唐捐亦能契理之要哉云云。天台大師と申は薬王菩薩也。此大師説而観而と釈し給ふ。自元天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり。四種の重を知ずして、一しな(種)を見たる人、一向本迹をむね(旨)とし、一向観心を面とす。法華経に法・譬・因縁と云事あり。法説之段に至て諸仏出世の本懐、一切衆生成仏の直道と定む。我のみならず、一切衆生直至道場因縁也と定給は題目也。されば天台玄一会衆善之小行帰広大之一乗。広大と申は不残引導し給を申也。仮使釈尊一人本懐と宣給とも、等覚以下は仰で可信此経。況や諸仏出世の本懐也。
禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども、其は四種の一面也。一念三千・一心三観等の観心計法華経の観心なるべくば、題目に十如是を置くべき処に、題目に妙法蓮華経と置れたる上は不及子細。又当世の禅宗は教外別伝と云給かと思へば、又捨られたる円覚経等の文を引るゝ上は、於実経文御綺に及ぶべからず候。智者は読誦に観念をも並ぶべし。愚者は題目計を唱ふとも可会此理。此妙法蓮華経者我等が心性、総じては一切衆生の心性八葉之白蓮華の名也。是を教給ふ仏の御詞也。無始より以来、我が身中の心性に迷て生死を流転せし身、今此経に値ひ奉て、三身即一の本覚の如来を唱るに顕れて、現世に其内証成仏するを即身成仏と申す。死すれば光を放つ、是外用の成仏と申す。来世得作仏とは是也。
略挙経題玄収一部とて一遍は一部[云云]。妙法蓮華経と唱る時、心性の如来顕る。耳にふれし類は、無量阿僧祇劫の罪を滅す。一念も随喜する時即身成仏す。縦ひ不信種と成り熟と成り必ず依之成仏す。妙楽大師云、若取若捨経耳成縁或順或違終因斯脱[云云]。日蓮云、若取若捨或順或違之文銘肝詞。法華経に若有聞法者等と説れたるは是歟。既に聞者と説れたり、観念計にて成仏すべくは若有観法者と説るべし。只天台の御料簡に十如是と云は十界なり。此十界は一念より事起り、十界の衆生は出来たりけり。此十如是と云は妙法蓮華経にて有けり。此娑婆世界は耳根得道の国也。以前に申す如く当知身土[云云]。一切衆生の身に百界千如三千世間を納むる謂を明が故に、是触耳一切衆生は得功徳衆生也。一切衆生と申は、草木瓦礫も一切衆生之内歟有情非情。抑草木は何ぞ。金論云一草一木一礫一塵各一仏性各一因果具足縁了等[云云]。法師品始云無量諸天・龍王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩羅伽・人与非人及比丘・比丘尼。聞妙法蓮華経一偈一句乃至一念随喜者我皆与授阿耨多羅三藐三菩提記[云云]。非人者総じて人界の外、一切有情界とて心あるもの也。況や人界をや。
法華経の行者は如説修行せば、必一生の中に一人も不残可成仏。譬ば春夏田を作るに早晩あれども、一年の中には必ず納之。法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す。玄一云上中下根皆与記云云。観心計にて成仏せんと思ふ人は、一方かけたる人也。況や教外別伝の坐禅をや。法師品云薬王多有人在家出家行菩薩道若不能得見聞読誦書持供養是法華経者当知是人未善行菩薩道。若有得聞是経典者乃能善行菩薩之道[云云]。観心計にて成仏すべくんば、争か見聞読誦と云んや。此経は専以聞為本。
凡此経不簡悪人・女人・二乗・闡提。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云。善悪不二・邪正一如と聞処にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。不知義人なれども、唱ふれば唯仏与仏悦給ふ。我則歓喜諸仏亦然云云。百千合せたる薬も、口にのまざれば病不愈。蔵に宝を持ども聞く事をしらずしてかつへ、懐に薬を持ても飲ん事をしらずして死るが如し。如意宝珠と云玉は、五百弟子品の此経の徳も又如此、観心を並て読は不及申。雖不観念始に申つるごとく、所謂諸法如是相如云云。と読時は、如は空の義なれば、我身の先業にうくる所の相性体力、其所具八十八使の見惑、八十一品の思惑、其空報身如来也。所謂諸法如是相云云とよめば、是仮の義なれば、我が此身依先業受たる相性体力云云。其具したる塵沙の惑、悉く即身応身如来也。所謂諸法如是と読時は、是中道の義に順じて、依業所受相性等云云。其に随たる無明皆退て即身法身の如来と開心。此十如是三転によまるゝ事、三身即一身・一心即三身の義也。三に分るれども一也、一に定れども三也。