色心二法鈔
2 色心二法鈔
先、止観・真言に付て此旨を能能可得意也。先此旨を得意者大慈悲心・菩提心を可得意。其故如何となれば、世間の事を案ずるも、猶心をしづめざれば難得意。何況や、仏教の道生死の二法を覚んことは、道心を発さずんば協ふべからず。
道心者、無始より不思議の妙法蓮華経の色心、五輪・五仏の身を持ながら迷ひける事の悲しき也。如何しても此旨を能能可尋也。三世の諸仏も世に出ましましては、先如何しても此理を説知せばやと思食す。又大日如来も是を一大事と思食して、五輪・五仏の旨を説き、即身成仏の理を顕はし給ふ。されば釈迦如来も大日如来も強に歎き思食ける事は、中中一切衆生の迷の凡夫、妙法蓮華経の色心をも離れ、五戒・五智・五仏の正体をも隔てずは、あながちに仏も歎き思食すまじきを、妙法蓮華経の色心を持ながら、五戒・五智・五仏の正体に無始より迷ける事を歎き思食ける也。されば如何しても、迷の時も悟の仏にてありけるぞと、此旨を能能可得意也。
諸法雖多不可過十界。十界者一地獄二餓鬼三畜生四阿修羅五人六天七声聞八縁覚九菩薩十仏也。此十界不可過東西南北中央五方天地。此中に十界の理が三世にしつらはれて有也。此十界は迷の十界悟の十界とて無有二法。故に此十界皆不悟時も妙法蓮華経の色心にて有ける也。所以者何、地獄の衆生も皆五根五臓を以て造る。其五根五臓者眼根は東方大円鏡智阿閦仏也。耳根は北方成所作智釈迦如来也。鼻根は西方妙観察智阿弥陀如来也。舌根は南方平等性智宝性仏也。身根は中央法界体性智大日如来也。是又東西南北中央の五方、是又五戒也。眼は不殺生戒、耳は不邪婬戒、鼻は不偸盗戒、舌は不飲酒戒、口は不妄語戒也。又此五根は五行也。眼は木耳は水鼻は金舌は火身は土也。又是五色也。眼は青色耳は黒色鼻は白色舌は赤色身は黄色也。又是五龍也。眼は青龍耳は黒龍鼻は白龍舌は赤龍身は黄龍也。又是五常也。眼は仁徳耳は礼徳鼻は義徳舌は智徳身は信徳。故に此仁義礼智信とて五の振舞也。又是五臓也。眼は肝臓耳は腎臓鼻は肺臓舌は心臓身は脾臓也。又是五臓に有五神。魂・志・魄・意・神是也。此五神は天の五星地の五岳束て五神五智如来也。迷へる凡夫の身中にしては五の神と云れ、此五を五智如来なりと悟れば五仏果徳の仏也。爰に知ぬ、地獄の依報正報が皆五智五仏の正体なりと云ことを。
地獄の大地は中央法界体性智大日如来の土也。地獄の薪は東方大円鏡智阿閦仏の木也。地獄の炎は南方平等性智宝性仏の火也。地獄の釜は西方妙観察智阿弥陀仏の金也。地獄の水は北方成所作智釈迦如来の水也。如此五行は五仏の正体なる故に、既に地獄も五仏の正体也。故に妙楽大師曰阿鼻之依正全処極聖之自身毘盧之身土不逾凡下之一念云云。是を以て思ふに、地獄は遠くもなかりけるなり。衆生の五智・五仏の正体を地獄とは名づくる也。故に釈曰迷則三道流転悟則果中勝用也。地獄の一道を以て余道をも可得意。仏は九界に遍す。九界は全く仏界の色心なり。此理をしらずして無始より迷ける事よ。但此身は何よりか生ぜる。東西南北中央の五方天地・陰陽・日月・五星より生ぜり。彼の天地・陰陽・日月・五星又何よりか生ぜる。彼の法は万法能生の体にして、過去にも不生、未来にも不生、故に三世常住也。東西南北中央の五方日月五星は始たる体にあらざれば又我身も不生の身也。法界も不生の体也。我母も天地・陰陽・日月・五星・法界の体なるが故に、我も亦法界の体也。故に生ぜる母もなく、又生ぜられたる我もなし。何を以の故に、我母も始て法界の体をば生ずべからず。倶に法界の体なるが故に。龍樹菩薩云諸法不自生亦不従他生又共しても生ぜず無因にして生ぜず。唯法界不生の体にして不可思議不可得也。
但生といひ死と云。諸法は天地陰陽に過べからず。天の陽気地の陰気且く相合する時を生と云。天地の二気本有に還る処を死と云。故に止観八云天地二気交合各有五行。故知ぬ。天地の二の気と云は我父母也。父は天也。母は地也。此天地父母和合して五色を生ぜり。其五色者則五方五星五仏五戒日月衆星の体也。夫が頭身手足等の六分の形を顕はす。骨は是を以てさゝへ、髄は是を以て長し、筋は是を以てぬひ、脈は是を以て通じ、血は是を以て湿し、肉は是を以て裹み、皮は是を以て覆ふ。
然るに我身をさゝへたる骨は北方釈迦如来也。我身をぬへる筋は東方阿閦如来也。我身を湿せる血は南方宝性如来也。我身を裹める肉は中央大日如来也。我身を覆へる皮は西方阿弥陀如来也。然るに骨のあまりは歯となり、肉の余りは舌となり、筋の余りは爪となり、血の余りは髪となる。総じて一期の果報、四大・五陰・十二入・十八界具足して成就せり。乃至此身天地一切の諸法を備へて、万事にかたどれり。故に弘決六云頭円天也。足方地也。身中空種則是虚空也。腹中熱春夏也。背剛秋冬也。四体四季也。大骨十二十二月、小骨三百六十一年三百六十日也。鼻気出入山谷風也。口気出入虚空中風也。目二日月也。開目昼也。閉目夜也。髪空星也。眉北斗也。血脈江河也。骨石瓦也。肉地也。毛大地上生たる草木也。五臓在天五星と云はれ、在地五岳と云はれ、在陰陽五行と云はれ、在世五常と云はれ、在内五神と云はる。爰に知ぬ。既に一年十二月三百六十日、東西南北中央の五方、天地陰陽を以て此身を造作せりと云ことを。
但生と云けるは来る日月を云、死と云けるは過行く日月を以てす。雖然天も不改、地も不改。東西南北中央の五方日月五星も無替。然るに天地冥合して有情非情の五色とあらはるる処を生と云、五色の色還て本有無相の理に帰する処を死とは云なり。都て一代聖教顕密の旨殊なりといへども、生死の二法色心の二法是大事にてあるなり。此生死、六道・四生・二十五有に廻りて輪廻今に不絶。然るに仏は此生死を離るゝを以て仏と云。此生死に遷り迷ふを以て凡夫と云也。此生死を能能可得意也。
止観五云無明癡惑本是法性。以癡迷故法性変作無明起諸顛倒善不善等。如寒来結水変作堅冰。又如眠来変心有種種夢。今当体諸顛倒即是法性不一不異。雖顛倒起滅如旋火輪。不信顛倒起滅唯信此心但是法性。起是法性起滅是法性滅。体其実不起滅妄謂起滅。只指妄想悉是法性。以法性繋法性以法性念法性。常是法性無不法性時。体達既成不得妄想亦不得法性。還源反本法界倶寂。是名為止云云・明知。此釈の意は無始輪廻の生死の法は悟りの境界也と釈せり。法性の故に生死ありける也。故に弘決一云以有理性故故有生死。生死用理。不知生死即是理。故名日用不知云云。此釈意は我等がいとひ悲める生死は法身常住妙理にて有ける也。此旨を能能可悟。
譬ば我等が生死と云へるは過行日月に付て生死は有也。されば此日月は生死の本体にて有也。此日月に付て、東西をも弁へ、昨日今日をも分別し、又十二時をも分ち、三十日を一月とし、十二月を一年とする事も、世間事に於て前後をも不乱、理をも不失。月日の過去るに付て、残命不幾云事をも知也。明知ぬ。十界の衆生依正二報の生死は唯此日月よりをこるなり。又是金胎両部全体本迹二門の実理也。此実理故に生死は有ける也。此日月の本体の故に有ける生死なるが故に、弘決一に仏なる故に生死ありと釈給也。止観云起是法性起滅是法性滅と釈し給も唯此意なるへし。故に一年十二月は十二因縁の生死也。正月生位より十二月老死滅位に至る。又此滅位より生の種をついで十界の因果三世不改、十界の生死は過行日月にて有也。
又我等衆生の身のみならず、草木も皆此日月の明暮生死にうつされて我等と倶に生生死死する也。譬ば生ずるは心法也。滅するは色法也。色心の二法が不二也と云は、譬ばもみを種におろすに、もみは去年の菓なれば心法也。此心法を今年種に下すに此種子成苗。心成色故心法の形不見、但色法のみなり。雖然此色法の全体は心法なる故に、日月の過行に随て生長するなり。故に色心不二なり。色心不二なりといへども又而二也。此色法の苗の中より秋に至て又本の心法を生ずるなり。故に不二にして而二也。
如是十界の依正色心の二法、一法二義の理にして、生死常住の故に三世に改まることなし。哀哉生死の無常を厭ひ悲しみ、身の常住の生死をしらずして厭ひ居る事よ。此理をしらずして、或は此生死を厭て生死なき浄土をもとめ、或は又此理をしらずして、生死は虚妄の物なりと観ずる人も有之。可悲可悲。唯生者心法也。滅者色法也。故に生死の二法は色心の二法にて有ける也。是即真言・止観の観法、出離生死の頓証也。道場所得の妙悟、妙覚朗然の知見なり。最後臨終の時は此理を思食定むべし。 寛元二年[甲辰]九月十七日