法華初心成仏鈔
270 法華初心成仏鈔
問云、八宗九宗十宗の中に何か釈迦仏の立給へる宗なる耶。答云、法華宗は釈迦所立宗也。其故は已説今説当説の中には法華経第一也と説給。是釈迦仏立給処と御語也。故法華経をば仏立宗と云、又は法華宗と云。又天台宗とも云なり。故に伝教大師釈云、天台所釈法華之宗釈迦世尊所立之宗と云へり。法華より外の経には全已今当の文なきなり。已説者法華より已前四十余年の諸経を云。今説者無量義経を云。当説者涅槃経を云ふ。此三説の外に法華経計成仏する宗也と仏定給へり。余宗は仏涅槃し給て後、或は菩薩、或は人師達の建立する宗也。
仏の御定を背て、菩薩人師の立たる宗を用べき歟。菩薩人師の語を背て、仏の立給へる宗を用べき歟。又何れをも思思に我心に任て志あらん経法を持べき歟と思処に、仏是を兼て知召て、末法濁悪世に真実の道心あらん人人持べき経を定給へり。経云依法不依人依義不依語依知不依識依了義経不依不了義経文。此文の心は菩薩人師の言には依べからず。仏の御定を用よ。華厳・阿含・方等・般若経等、真言・禅宗・念仏等の法には依ざれ。了義経を持べし。了義経と云は法華経を持べしと云文也。
問云、今日本国を見るに、当時五濁の障重く、闘諍堅固にして瞋恚の心猛く、嫉妬の思甚し。かゝる国かゝる時には、何の経を弘むべき耶。答云、法華経を弘むべき国也。其故は法華経云閻浮提内広令流布使不断絶等[云云]。瑜伽論には、丑寅の隅に大乗妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり。安然和尚云我日本国等[云云]。天竺よりは丑寅の角に此日本国は当る也。又慧心僧都一乗要決云日本一州円機純一朝野遠近同帰一乗緇素貴賎悉期成仏[云云]。此文の心は日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西みちをく(陸奥)、遠も近も法華一乗の機のみ有て、上も下も、貴も賎も、持戒も破戒も、男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国也と云文也。譬ば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如く、日本国は純に法華経の国也。
而に法華経は自元めでたき御経なれば、誰か信ぜざると語には云て、而も昼夜朝暮に弥陀念仏を申人は、薬はめでたしとほめて朝夕毒を服する者の如し。或は念仏も法華経も一也と云はん人は、石も玉も上臈も下臈も毒も薬も一也と云ん者の如し。其上法華経を怨み嫉み悪み毀り軽め賎む族のみ多し。経云、一切世間多怨難信。又云如来現在猶多怨嫉況滅度後の経文少も違はず当れり。されば伝教大師釈云語代則像終末初尋地唐東羯西原人則五濁之生闘諍之時経云猶多怨嫉況滅度後此言良有以也と。此等の文釈をもつて知べし。日本国に法華経より外の真言・禅・律宗・念仏宗等の経教、山々寺々朝野遠近に弘るといへども、正く国に相応して、仏の御本意に相叶ひ、生死を離るべき法にはあらざる也。
問云、華厳宗には五教を立て、余の一切の経は劣れり、華厳経は勝と云ひ、真言宗には十住心を立て、余の一切経は顕教なれば劣也、真言宗は密教なれば勝たりと云。禅宗には余の一切経をば教内と簡て、教外別伝不立文字と立て、壁に向て悟れば禅宗独り勝たりと云。浄土宗には正雑二行を立て、法華経等の一切経をば捨閉閣抛し雑行と簡ひ、浄土の三部経を機に叶ひめでたき正行也と云。各々我慢を立、互に偏執を作す。何れか釈迦仏の御本意なる耶。答云、宗宗各別に我が経こそすぐれたれ、余経は劣れりと云て、我宗吉と云事は唯是人師の言にて仏説にあらず。但し法華経計こそ、仏五味の譬を説て五時の教に当て、此経の勝たる由を説き、或は又巳今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なし、と云事は正き仏の金言也。然に我経は法華経に勝たり、我宗は法華宗に勝たり、と云はん人は、下臘が上臘を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人也と云が如し。何ぞ大罪に行なはれざらんや。法華経より余経を下す事は人師の言にあらず。経文分明也。譬ば国王の万人に勝たりと名乗り、侍の凡下を下臘と云んに、何の禍かあるべきや。此経は是仏の御本意也。天台妙楽之正意也。
問云、釈迦一期の説法は皆衆生のため也。衆生の根性万差なれば説法も種種也。何も皆得道なるを本意とす。然れば我有縁の経は人の為には無縁也。人の有縁の経は我為には無縁也。故に余経念仏によりて得道なるべき者の為には、観経等はめでたし。法華経等は無用也。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経無用也、法華経はめでたし。四十余年未顕真実と説も、雖示種種道其実為仏乗と云も、正直捨方便但説無上道と云も、法華得道の機の前の事也と云事、世こぞつて、あはれ然るべき道理哉、なんど思へり。如何心うべきや。若爾者大乗小乗差別もなく、権経実経の不同もなき也。何をか仏の本意と説き、何をか成仏の法と説給へる耶。甚いぶかし、いぶかし。
答云、凡仏の出世は始より妙法を説んと思食しかども、衆生の機縁万差にしてとゝのをらざり(不調)しかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおゝせて、最後に此妙法を説給。故若但讃仏乗衆生没在苦不能信是法破法不信故墜於三悪道と説き、世尊法久後要当説真実とも云へり。此文の意は始より此仏乗を説んと思食しかども、仏法の気分もなき衆生は、信ぜずして定て謗を至さん。故に機をひとしなに誘へ給ほどに、初に華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき、最後に法華経をとき給時、四十余年の座席にありし身子・目連等の万二千の声聞、文殊・弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵王・帝釈等の無量の天人、各爾前に聞し処の法をば失於如来無量知見と[云云]。法華経を聞ては無上宝珠不求自得と悦び給ふ。されば我等従昔来数聞世尊説未曽聞如是深妙之上法とも、仏説希有法昔所未曽聞とも説給。此等の文の心は四十余年之程、若干の説法を聴聞せしかども、法華経の様なる法をば_てきかず、又仏も終に説せ給はず、と法華経を讃たる文也。四十二年の聴と今経の聴とをば、わけ(分)たくらぶ(比)べからず。
然るにそれ今経を法華経得道の人の為にして、爾前得道の者の為には無用也と云事、大なる誤也。をのづから四十二年の経の内には、一機一縁の為にしつらう処の方便なれば、設有縁無縁の沙汰はありとも、法華経は爾前の経々の座にして得益しつる機どもを、押ふさね(聚束)て一純に調て説給し間、有縁無縁の沙汰あるべからざる也。悲哉、大小権実みだりがはしく、仏の本懐を失て、爾前得道の者のためには法華経無用也と云へる事を、能能慎べし恐べし。古の徳一大師と云し人、此義を人にも教へ、我心にも存じて、さて法華経を読給しを、伝教大師此人を破し給ふ言に、雖讃法華経還死法華心と責給しかば、徳一大師は舌八にさけて失給ひき。
問云、天台釈の中に菩薩処処得入と云文は、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならず、菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり。若爾者未顕真実も正直捨方便等も、総じて法華経八巻の内、皆以て二乗の為にして、菩薩は一人も有まじきと意うべき歟如何。
答云、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならずと云事は、天台より已前唐土に南三北七と申て十人の学匠の義也。天台は其義を破し失て今は弘まらず。若菩薩なしと云はば、菩薩聞是法疑網皆巳除と云る。豈是菩薩の得益なしと云はんや。それに尚鈍根の菩薩は二乗とつれ(連)て得益あれども、利根の菩薩は爾前の経にて得益すと云はば、利根鈍根等雨法雨と説き、一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提皆属此経と説くは何に。此等の文の心は、利根にてもあれ鈍根にてもあれ、持戒にてもあれ破戒にてもあれ、貴もあれ賎もあれ、一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道なるべしと云文なるをや。又法華得益の菩薩は皆鈍根也と云はば普賢・文殊・弥勒・薬王等の八万の菩薩をば鈍根也と云べき歟。其外に爾前の経にて得道する利根の菩薩と云は何様なる菩薩ぞや。抑爾前に菩薩の得道と云は法華経の如得道にて候歟。其ならば法華経の得道にて、爾前の得分にあらず。又法華経より外の得道ならば、巳今当の中には何れぞや。いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず。故に無量義経には是故衆生得道差別と云ひ、又終不得成無上菩提と云へり。文の心は爾前の経々には得道の差別を説と云へども、終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説給て候へ。
問云、当時は釈尊入滅の後今に二千二百三十余年也。一切経の中に何の経が時に相応して弘まり利生も有べき耶。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり。其第五の五百歳をば闘諍堅固・白法隠没と云て、人の心たけく腹あしく、貪欲瞋恚強盛なれば軍合戦のみ盛にして、仏法の中に先々弘りし所の真言・禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説給へり。第一の五百歳・第二の五百歳・第三の五百歳・第四の五百歳を見に、成仏の道こそ未顕真実なれ、世間の事法は仏の御言一分も違はず。以是思之当時の闘諍堅固白法隠没の金言も違事あらじ。若爾者末法には何の法も得益あるべからず、何の仏菩薩も利生あるべからず、と見えたり如何。さてもだし(黙止)て、何の仏菩薩にもつかへ奉らず、何の法をも行ぜず、憑方なくして候べき歟。後世をば如何が思定め候べきや。
答云、末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘させ給べき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計此国に弘て利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時也。其故は経文明白也。道心堅固にして志あらん人は委く是を尋聞べき也。浄土宗の人々末法万年余経悉滅、弥陀一教と云ひ、又、当今末法是五濁悪世唯有浄土一門可通入路と云て、虚言して大集経に云くと引ども、彼経に都て此文なし。其上あるべき様もなし。仏の在世の御言に、当今末法五濁悪世には但浄土の一門のみ入べき道也とは説給べからざる道理顕然也。本経には当来之世経道滅尽特留此経止住百歳と説けり。末法一万年の百歳とは全く見えず。然に平等覚経・大阿弥陀経を見に、仏滅後一千年後の百歳とこそ意えられたれ。然に善導が惑へる釈をば尤も道理と人皆思へり。是は諸僻案の者也。但し心あらん人は世間のことはりをもつて推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひるべき歟、小河が先にひるべき歟。仏是を説給には法華経は大海也、観経・阿弥陀経等は小河也。されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説給て候ひぬれ。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳白法隠没と云と、双観経に経道滅尽と云とは但一つ心也。されば末法には自始双観経等経道滅尽すと聞えたり。経道滅尽と云は経の利生の滅すと云事也。色の経巻有にはよるべからず。されば当時は経道滅尽の時に至て二百歳に余れり。此時は但法華経のみ利生得益あるべし。されば此経を受持して南無妙法蓮華経と唱奉るべしと見えたり。
薬王品には後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶と説給ひ、天台大師は後五百歳遠沾妙道と釈し、妙楽大師は且拠大教可流行時と釈して、後五百歳の間に法華経弘て、其後は閻浮提の内に絶失る事有べからずと見えたり。安楽行品云於後末世法欲滅時受持読誦斯経典者文。神力品云爾時仏告上行等菩薩大衆為属累故説此経功徳猶不能尽。以要言之如来一切所有之法如来一切自在神力如来一切秘要之蔵如来一切甚深之事皆於此経宣示顕説[云云]。此等の文の心は、釈尊入滅の後第五の五百歳と説も、末世と云も、濁悪世と説も、正像二千年過て末法の始二百余歳の今時は唯法華経計弘るべしと云文也。
其故は人既にひが(僻)み、法も実にしるしなく、仏神の威験もましまさず、今生後生の祈も叶はず、かゝらん時はたよりを得て天魔波旬乱れ入り、国土常に飢渇して天下も疫癘し、他国侵逼難・自界叛逆難とて我国に軍合戦常に有て、後には他国より兵どもをそひ来て此国を責べしと見えたり。如此闘諍堅固の時は余経の白法は験し失せて、法華経の大良薬を以て此大難をば治すべしと見えたり。法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至まで悉く悦び栄へ給べき鎮護国家の大白法也。
但し阿闍世王・阿育大王は始は悪王也しかども、耆婆大臣の語を用ひ、夜叉尊者を信じ給て後にこそ賢王の名をば留給しか。南三北七を捨て智_法師を用ひ給し陳主、六宗の碩徳を捨て最澄法師を用ひ給し桓武天皇は今に賢王の名を留め給へり。智_法師と云は後には天台大師と号し奉る。最澄法師は後には伝教大師と云是也。今の国主も又如是。現世安穏後生善処なるべき此大白法を信じて国土に弘め給はば、万国に其身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給べし。不知、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賎くとも上行菩薩の化身歟、又釈迦如来の御使歟と思べし。又薬王菩薩・薬上菩薩・観音・勢至等の菩薩は正像二千年の御使也。此等の菩薩達の御番は早過たれば、上古の様に利生有まじき也。されば当世の祈を御覧ぜよ、一切叶はざる者也。末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはします也。此等を能々明め信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。
譬ばよき火打とよき石のかどとよきほくそと此三寄合て火を用る也。祈も又如是。よき師とよき檀那とよき法と、此三寄合て祈を成就し、国土の大難をも払ふべき者也。よき師者指たる世間の失無して、聊のへつら(諂)ふことなく、少欲知足にして慈悲有ん僧の、経文に任せて法華経を読持て人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉第一の法師也と讃られたり。吉檀那者貴人にもよらず賎人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ずして、一切経の中に法華経を持ん人をば、一切の人の中に吉人也と仏は説給へり。吉法者此法華経を最為第一の法と説れたり。巳説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも、此経第一と見えて候へば吉法也。
禅宗・真言宗等の経法は第二第三也。殊に取分て申せば真言の法は第七重の劣也。然に日本国には第二第三乃至第七重の劣の法をもつて御祈祷あれども、未だ其証拠をみず。最上第一の妙法をもつて御祈祷あるべき歟。是を正直捨方便但説無上道唯此一事実と云へり。誰か疑をなすべきや。
問云、無智の人来て生死を離るべき道を問ん時は何の経の意をか説べき、仏如何が教へ給へるや。答云、法華経を説べき也。所以に法師品云若有人問何等衆生於未来世当得作仏応示是諸人等於未来世必得作仏[云云]。安楽行品云有所難問不以小乗法答但以大乗而為解説[云云]。此等の文の心は、何なる衆生か仏になるべきと問はば、法華経を受持し奉ん人必ず仏になるべしと答べき也。是仏の御本意也。
付之不審あり。衆生の根性区にして、念仏を聞んと願ふ人もあり、法華経を聞んと願ふ人もあり。念仏を聞んと願ふ人に、法華経を説て聞せんは何の得益かあるべき。又念仏を聞んが為に請じたらん時にも、強て法華経を説べき歟。仏の説法も機に随て得益有をこそ本意とし給らんと、不審する人あらば云べし。自元末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧ず、但強て法華経の五字の名号を説て持たすべき也。其故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給しには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざりき。或は罵られ毀られ、或は打れ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給しかども、少もこり(懲)もなくして強て法華経を説給し故に、今釈迦仏となり給也。不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず、打奉しかいな(肘)もすくまず。付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給しぞかし。まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんには、かゝる難あるべしと経文に正く見えたり。されば人是を用ひず、機に叶はずと云へども、強て法華経の五字の題名を聞すべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故也。
又或人不審して云、機に叶はざる法華経を強て説て謗ぜさせて悪道に人を堕さんよりは、機に叶へる念仏を説て発心せしむべし。利益もなく謗ぜさせて返て地獄に堕さんは、法華経の行者にもあらず、邪見の人にてこそ有らめ、と不審せば云べし。経文には何体にもあれ末法には強て法華経を説べしと仏の説給へるをば、さていかが心うべく候耶。釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等は、さて邪見の人外道にておはしまし候べき歟。又悪道にも堕ず三界の生を離たる二乗と云者をば仏のの給はく、設ひ犬野干の心をば発すとも二乗の心をもつべからず、五逆十悪を作て地獄には堕とも二乗の心をばもつべからず、なんどと禁められしぞかし。悪道におちざる程の利益は争有べきなれども、其をば仏の御本意とも思食さず。地獄には堕とも仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になる也。されば天台・妙楽も此心を以て、強て法華経を説べしとは釈し給へり。譬ば人の地に依て倒たる者の返て地をおさへて起が如し。地獄には堕れども疾浮で仏になる也。当世の人何となくとも法華経に背く失に依て、地獄に堕ん事疑なき故に、とてもかくても法華経を強て説聞すべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべき也。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。権教をもて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強て法華経を説て、謗ずるも信ずるも利益あるべしと説、我不愛身命とは仰せらるべきや。よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべき也。
問云、無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべき歟。又何の浄土に往生すべきぞや。答云、法華経を持においては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解を開く事も有べし。其外に法華経の心をもしらず、無智にしてひら(但)信心の人は、浄土に必生べしと見えたり。されば生十方仏前と説、或は即往安楽世界と説きき。是法華経を信ずる者の往生すと云明文也。付之不審あり。其故は我身は一にして、十方の仏前に生べしと云事心得られず。何れにてもあれ一方に限べし。正に何の方をか信じて往生すべきや。答云、一方にさだめずして十方と説は最もいはれある也。所以に法華経を信ずる人の一期終る時には、十方世界の中に法華経を説ん仏のみもとに生べき也。余の華厳・阿含・方等・般若経を説浄土へは生べからず。浄土十方に多して、声聞の法を説浄土もあり、辟支仏の法を説浄土もあり、或は菩薩の法を説浄土もあり。法華経を信ずる者は此等の浄土には一向生れずして、法華経を説給浄土へ直に往生して、座席に列て法華経を聴聞して、やがてに仏になるべき也。然に今世にして法華経は機に叶はずと云うとめて、西方浄土にて法華経をさとるべしと云はん者は、阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべからず、十方の浄土にも生べからず。法華経に背く咎重が故に、永く地獄に堕べしと見えたり。其人命終入阿鼻獄と云へる是也。
問云、即往安楽世界阿弥陀仏と[云云]。此文心は、法華経を受持し奉ん女人は阿弥陀仏の浄土に生べしと説給へり。念仏を申ても阿弥陀の浄土に生べしと云ふ。浄土既に同じ、念仏も法華経も等と心え候べき歟如何。答云、観経は権教也、法華経は実教也、全く等しかるべからず。
其故は仏世に出させ給て、四十余年の間多の法を説給しかども、二乗と悪人と女人とをば簡ひはてられて、成仏すべしとは一言も仰せられざりしに、此経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説給候つれ。其旨経文に見えたり。華厳経には女人地獄使能断仏種子外面似菩薩内心如夜叉云へり。銀色女経には三世の諸仏の眼は抜て大地に落とも、法界の女人は永く仏になるべからずと見えたり。又経云、女人は大鬼神也。能一切の人を喰と。龍樹菩薩の大論には一度女人を見れば永く地獄の業を結と見えたり。されば実にてや有けん、善導和尚は謗法なれども女人をみずして一期生と云はれたり。又業平が歌にも葎をいてあれたるやどのうれ(憂)たきはかりにも鬼のすだく(集)なりけりと云も、女人をば鬼とよめるにこそ侍れ。又女人には五障三従と云事有が故に、罪深しと見えたり。五障と者、一には梵天王・二には帝釈・三には魔王・四には転輪聖王・五には仏にならずと見えたり。又三従と者、女人は幼き時は親に従て心にまかせず、人となりては男に従て心にまかせず、年よりぬれば子に従て心にまかせず、加様に幼き時より老耄に至まで三人に従て心にまかせず。思事もいはず、見たき事をもみず、聴聞したき事もきかず、是を三従とは説也。されば栄啓期が三楽を立たるにも、女人の身と生れざるを一の楽といへり。加様に内典外典にも嫌はれたる女人の身なれども、此経を読まねどもかかねども身と口と意とにうけ持て、殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の龍女・憍曇弥・耶輪陀羅女の如にやすやすと仏になるべしと云経文也。
又安楽世界と云は一切の浄土をば皆安楽と説也。又阿弥陀と云も観経の阿弥陀にはあらず。所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀、四十八願の主じ、十劫成道の仏也。法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて、法華経大願の主の仏也。本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀也。随て釈にも不須更指観経等也と釈し給へり。
問云、経に難解難入と云へり。世間の人此文を引て法華経は機に叶はずと申候は道理と覚え候は如何。答云、謂れなき事也。其故は此経を能も心えぬ人の云事也。法華より已前の経は難解難入法華の座に来ては易解易入と云事也。されば妙楽大師の御釈云、法華已前不了義故故云難解即指今教咸皆入実故云易知文。此文心は、法華より已前の経にては機つたなくして難解難入、今の経に来ては機賢く成て易解易入と釈し給へり。其上難解難入と説たる経が機に叶はずば、先念仏を捨させ給べき也。其故は双観経に難中之難無過此難と説、阿弥陀経には難信之法と云へり。文の心は、此経を受持ん事は難が中の難也、此に過たる難はなし、難信の法也と見えたり。
問云、経文に四十余年未顕真実と云、又過無量無辺不可思議阿僧祇劫終不得成無上菩提と云へり。此文は何体の事にて候哉。答云、此文の心は釈迦仏一期五十年の説法の中に始の華厳経にも真実をとかず、中の方等般若にも真実をとかず。此故に禅宗・念仏・戒等を行ずる人は無量無辺劫をば過とも仏にならじと云文也。仏四十二年の歳月を経て後、法華経を説給ふ文には、世尊法久後要当説真実と仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王・帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王、仏の御言を領解する文には、我等従昔来数聞世尊説未曽聞如是深妙之上法と云て、我等仏に不奉離四十二年若干の説法を聴聞しつれども、いまだ如是貴き法華経をばきかずと云へる。此等の明文をばいかゞ心えて、世間の人は法華経と余経と等く思ひ、剰へ機に叶はねば闇の夜の錦、こぞ(去年)の暦なんど云ひて、適持つ人を見ては賎み軽め悪み嫉み口をすくめなんどする、是併ら謗法也。争か往生成仏もあるべきや。必無間地獄に堕べき者と見えたり。
問云、凡仏法を能心得て仏意に叶へる人をば、世間に是を重んじ一切是を貴む。然に当世法華経を持つ人々をば、世こぞつて悪み嫉み軽め賎み、或は所を追ひ出し、或は流罪し、供養をなすまでは思もよらず、怨敵の様ににくまるゝは、いかさまにも心わろくして、仏意にもかなはず、ひが(僻)さまに法を心得たるなるべし。経文には如何が説たるや。答云、経文の如ならば、末法法華経の行者は人に悪まるゝ程に持を実の大乗の僧とす。又経を弘て人を利益する法師也。人に吉と思はれ、人の心に随て貴と思はれん僧をば、法華経のかたき世間の悪知識也と思べし。此人を経文には、猟師の目を細めにして鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして、在家の俗男俗女の檀那をへつらひ、いつわり、たぼらかすべしと説給へり。其上勧持品には法華経の敵人三類を拳られたるに、一には在家の俗男俗女也。此俗男俗女は法華経の行者を憎み罵り打はりきり殺し、所を追ひ出し、或は上へ讒奏して遠流し、なさけなくあだむ者也。二には出家の人也。此人は慢心高して内心には物も知らざれども智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて、法華経の行者を見ては怨み嫉み軽め賎み、犬野干よりもわろきやうを人に云うとめ、法華経をば我一人心得たりと思者也。三には阿練若の僧也。此僧は極めて貴き相を形に顕し、三衣一鉢を帯して山林の閑なる所に篭り居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ、仏の如く万人に仰がれて、法華経を如説読持奉ん僧を見ては憎み嫉で云、大愚癡の者大邪見の者也。総て慈悲なき者外道の法を説なんど云ん。上一人より仰で信を取せ給はゞ其巳下万人も如仏供養をなすべし。法華経を如説よみ持ん人は必此三類の敵人に怨まるべき也と仏説給へり。
問云、仏の名号を持つ様に、法華経の名号を取分て持べき証拠ありや如何。答云、経云仏告諸羅刹女善哉善哉汝等但能擁護受持法華名者福不可量と[云云]。此文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立給を、大覚世尊讃て言く、善哉善哉汝等南無妙法蓮華経と受持ん人を守らん功徳、いくら程とも計がたくめでたき功徳也。神妙也と仰せられたる文也。是我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云文也。
凡妙法蓮華経者我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解の妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名たる也。故に一度妙法蓮華経と唱れば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天一切衆生の心中の仏性を、唯一音に喚顕し奉る功徳無量無辺也。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉て、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給処を仏とは云也。譬ば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集るが如し。空とぶ鳥の集れば篭の中の鳥も出んとするが如し。口に妙法をよび奉れば我身の仏性もよばれて必顕れ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば若暫持者我則歓喜諸仏亦然と説給は此心也。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成給し也。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云は是也。是等の趣を能々心得て仏になる道には、我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者也。 日蓮 [花押]