妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

事理供養御書

第二巻 定本番号 20230 建治2(1276) 分類: 真蹟現存(完存orほぼ完存)

祖寿: 55 著作地: 身延 真蹟: 富士 大石寺 

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    230   事理供養御書
白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご、御つかいをもつてわざわざをくられて候。
人にも二の財あり。一には衣、二には食なり。経云、有情依食住と[云云]。文の心は、生ある者は衣と食とによつて世にすむと申心也。魚は水にすむ、水を宝とす。木は地の上にをい(生)て候、地を財とす。人は食によて生あり、食を財とす。
いのちと申物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてゝ候財をいのちにはかへぬ事に候なり。さればいのちはともしび(燈)のごとし。食はあぶら(油)のごとし。あぶらつくればともしびきへぬ。食なければいのちたへぬ。一切のかみ仏をうやまいたてまつる始の句には、南無と申文字ををき候なり。南無と申はいかなる事ぞと申に、南無と申は天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申。帰命と申は我が命を仏に奉と申事なり。我が身には分に随て妻子・眷属・所領・金銀等もてる人々もあり、又財なき人々もあり。財あるも財なきも、命と申財にすぎて候財は候はず。さればいにしへの聖人賢人と申は、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。いわゆる雪山童子と申せし人は、身を鬼にまかせて八字をならへり。薬王菩薩と申せし人は、臂をやいて法華経に奉る。我朝にも聖徳太子と申せし人は、手のかわをはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は、無名指と申ゆびをたいて釈迦仏に奉る。此等は賢人聖人の事なれば我等は叶がたき事にて候。
たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申はなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申はなに事ぞとたづね候へば、たゞ一きて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うへ(飢)たるよ(世)に、これはなしては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫のためには理くやう。止観の第七の観心の壇ばら密と申法門なり。
まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には、若深識世法即是仏法ととかれ、涅槃経には一切世間外道経書皆是仏説 非外道説と仰られて候を、妙楽大師法華経の第六の巻の一切世間治生産業皆与実相不相違背の経文に、引合て心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則草木なり。爾前経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申法門なり。此をもつてしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなはち命なり。
美食ををさめぬ人なれば力をよばず山林にまじわり候ぬ。されども凡夫なればかん(寒)も忍がたく、熱をもふせぎがたし。食ともし。表○目が万里の一□忍がたく、思子孔が十旬九飯堪べきにあらず。読経の音も絶ぬべし。観心の心をろそかなり。しかるにたまたまの御とぶらいたゞ事にはあらず。教主釈尊の御すゝめか、将又過去宿習の御催か、方々紙上難尽。恐々。