四條金吾釈迦仏供養事
220 四條金吾釈迦仏供養事
御日記中釈迦仏の木像一体等[云云]。 開眼事。普賢経云 此大乗経典諸仏宝蔵 十方三世諸仏眼目等[云云]。又云 此方等経是諸仏眼 諸仏因是得 具 五眼[云云]。此経の中に得具五眼者 一肉眼・二天眼・三慧眼・四法眼・五仏眼也。此五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候。譬へば王位につく人は自然に国のしたがうごとし。大海の主となる者の自然に魚を得るに似たり。華厳・阿含・方等・般若・大日経等には五眼の名はありといへども其義なし。今の法華経には名もあり義も備て候。設ひ名はなけれども必其義あり。
三身事。普賢経云 仏三種身従方等生 是大法印印涅槃海 如此海中能生三種仏清浄身 此三種身人天福田 応供中最[云云]。三身者 一法身如来・二報身如来・三応身如来。此三身如来をば一切の諸仏必あひぐ(相具)す。譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。
この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず。故に天台大師云 仏於三世等有三身 於諸教中秘之不伝[云云]。此釈の中に於諸教中とかかれて候は、華厳・方等・般若のみならず、法華経より外の一切経なり。秘之不伝とかかれて候は、法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘て説給はずとなり。されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。
其上一念三千の法門と申は三種の世間よりをこれり。三種の世間と申は一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり。前の二は且く置之、第三の国土世間と申は草木世間なり。草木世間と申は五色のゑ(絵)のぐ(具)は草木なり、画像これより起る。木と申は木像是より出来す。此画木に魂魄と申神を入るる事は法華経の力なり。天台大師のさとり也。此法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申なり。止観明静なる前代いまだきかずとかかれて候と、無情仏性惑耳驚心等とのべられて候は是也。此法門は前代になき上、後代にも又あるべからず。設ひ出来せば此法門を偸盗せるなるべし。
然に天台以後二百余年の後、善無畏・金剛智・不空等、大日経に真言宗と申す宗をかまへて、仏説の大日経等にはなかりしを、法華経・天台の釈を盗入て真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば、皆人此事を知らず。一同に信伏して今に五百余年なり。然間真言宗已前の木画の像は霊験殊勝なり。真言已後の寺塔は利生うすし。事多き故に委く不注。此仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優填大王の木像と影顕王の木像と一分もたがうべからす。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随が如く貴辺をばまほらせ給べし[是一]。
御日記云、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕させ給ふ事。大日天子と申は宮殿七宝なり。其大は八百十六里五十一由旬也。其中に大日天子居し給ふ。勝・無勝と申て二人の后あり。左右には七曜・九曜つらなり、前には摩利支天女まします。七宝の車を八匹の駿馬にかけて、四天下を一日一夜にめぐり、四州の衆の眼目と成給。他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事、耳にこれをきくとも愚眼に未見。是は疑べきにあらず、眼前の利生なり。教主釈尊にましまさずば争か如是あらたなる事候べき。一乗の妙経の力にあらずんば、争か眼前の奇異をば可現。不思議に思ひ候。争か此天の御恩をば報ずべきともとめ候に、仏法以前の人人も心ある人は、皆或は礼拝をまいらせ、或は供養を申、皆しるしあり。又逆をなす人は皆ばつあり。
今内典を以てかんがへて候に、金光明経云 日天子及以月天子聞是経故精気充実等[云云]。最勝王経云 由此経王力流暉遶四天下等[云云]。当知 日月天の四天下をめぐり給は仏法の力なり。彼金光明経・最勝王経は法華経の方便なり。勝劣を論ずれば乳と醍醐と、金と宝珠との如し。劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給。何況法華経の醍醐の甘味を嘗させ給はんをや。故に法華経の序品には普香天子とつらなりまします。法師品には阿耨多羅三藐三菩提と記せられさせ給、火持如来是也。其上慈父よりあひつたはりて二代、我身となりてとしひさし。争かすてさせたまひ候べき。其上日蓮又此天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地す。利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず。
是より外に御日記たうとさ申計なけれども紙上に難尽。なによりも日蓮が心にたつとき事候。父母御孝養の事。度度の御文に候上に、今日の御文なんだ(涙)更にとどまらず。我が父母地獄にやをはすらんとなげかせ給事のあわれさよ。仏の弟子の御中に目犍尊者と申けるは、父をばきつせん(吉占)師子と申、母をば青提女と申けるが、餓鬼道にをちさせ給けるを、凡夫にてをはしける時はしらせ給ざりければ、なげきもなかりける程に、仏の御弟子とならせ給て後、阿羅漢となりて天眼をもて御らんありければ、餓鬼道におはしけり。是を御らんありて飲食をまいらせしかば、炎となりていよいよ苦をましさせまいらせ給しかば、いそぎはしりかへり、仏に此由を申させ給しぞかし。爾時の御心をおもひやらせ給へ。今貴辺は凡夫なり。肉眼なれば御らんなけれども、もしもさもあらばとなげかせ給。こは孝養の一分なり。梵天・帝釈・日月・四天も定てあはれとをぼさんか。華厳経云 不知恩者多遭横死等[云云]。観仏相海経云 是阿鼻因等[云云]。今既に孝養の志あつし。定て天も能受あらん歟[是一]。
御消息の中に申あはさせ給事。くはしく事の心を案ずるに、あるべからぬ事なり。日蓮をば日本国の人あだむ。是はひとへにさがみどの(相模殿)のあだませ給にて候。ゆへなき御政りごとなれども、いまだ此事にあはざりし時より、かゝる事あるべしと知しかば、今更いかなる事ありとも、人をあだむ心あるべからずとをもひ候へば、此心のいのり(祈)となりて候やらん、そこばくのなん(難)をのがれて候。いまは事なきやうになりて候。日蓮がさどの国にてもかつえしなず、又これまで山中にして法華経をよみまいらせ候は、たれがたすけぞ、ひとへにとのの御たすけなり。又殿の御たすけはなにゆへぞとたづぬれば、入道殿の御故ぞかし。あらわにはしろしめさねども、定て御いのりともなるらん。かうあるならばかへりて又とのの御いのりとなるべし。父母の孝養も又彼人の御恩ぞかし。かゝる人の御内を如何なる事有ればとて、すてさせ給べきや。かれより度度すてられんずらんはいかがすべき。又いかなる命になる事なりとも、すてまいらせ給べからず。
上にひきぬる経文不知恩の者は横死有と見えぬ。孝養の者は又横死不可有。鵜と申鳥の食する鉄はとくれども、腹の中の子はとけず。石を食する魚あり、又腹の中の子はしなず。栴檀の木は火に焼ず、浄居の火は水に消へず。仏の御身をば三十二人の力士火をつけしかどもやけず。仏の御身よりいでし火は、三界の龍神雨をふらして消しかどもきえず。殿は日蓮が功徳をたすけたる人なり。悪人にやぶらるる事かたし。もしやの事あらば、先生に法華経の行者をあだみたりけるが今生にむくふなるべし。此事は如何なる山中海上にてものがれがたし。不軽菩薩の杖木の責も、目犍尊者の竹杖に殺れしも是也。なにしにか歎かせ給べき。
但し横難をば忍にはしかじと見へて候。此文御覧ありて後は、けつして百日が間をぼろげならでは、どうれひ(同隷)ならびに他人と我宅ならで夜中の御さかもりあるべからず。主のめさん時はひるならばいそぎまいらせ給べし。夜ならば三度までは頓病の由申せ給て、三度にすぎば下人又他人をかたらひて、つじをみせなんどして御出仕あるべし。かうつゝませ給はんほどに、むこ(蒙古)人もよせなんどし候わば、人の心又さきにひきかへ候べし。かたきを打心とどまるべし。申せ給事は御あやまちありとも、左右なく御内を出させ給べからず。ましてなからんにはなにとも人申せ、くるしからず。をもひのまゝに入道にもなりてをはせば、さきさきならばくるしからず。又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば、なかなか悪縁度度来べし。このごろは女は尼になりて人をはかり、男は入道になりて大悪をつくるなり。ゆめゆめあるべからぬ事なり。身に病なくとも、やいと(灸)を一二箇所やいて病の由あるべし。さわぐ事ありとも、しばらく人をもつて見せをほせさせ給へ。事事くはしくはかきつくしがたし。此故に法門もかき候はず。御経の事は、すずしくなり候て、かいてまいらせ候はん。恐恐謹言。 建治二年[丙子]七月十五日 日蓮 [花押] 四條金吾殿 [御返事]