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一谷入道御書

第二巻 定本番号 20178 建治1(1275) 分類: 真蹟断片現存

祖寿: 54 著作地: 身延 真蹟: 上総 鷲山寺外五ヶ所 

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    178   一谷入道御書
去弘長元年[太歳辛酉]五月十三日に御勘気をかをほりて、伊豆国伊東の郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかどもほどもなく同き三年[太歳癸亥]二月に召し返されぬ。又文永八年[太歳辛未]九月十二日重て御勘気を蒙りしが、忽に頸を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の嶋を知行する武蔵前司預て、其内の者どもの沙汰として彼嶋に行付てありしが、彼島の者ども因果の理をもへぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申計なし。然ども一分も恨る心なし。其故は日本国の主として少も道理を知ぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云者を子細も聞ほどかず、理不尽に死罪にあてがう事なれば、いわうやそのすへ(末)の人々のことはよきもたのまれず、あしきもにくからず。
此法門を申始しより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思儲けし也。弘演といゐし者は主、衛の懿公の肝を取て我腹を割て納めて死にき。予譲といゐし者は主の智伯がはぢをすゝがんがために剣をのみて死せしぞかし。此はたゞわづかの世間の恩をほうぜんがためぞかし。いわうや無量劫より已来六道に沈淪して仏にならざることは、法華経の御ために身ををしみ命をすてざるゆへぞかし。されば喜見菩薩と申せし菩薩は、千二百歳が間身をやきて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳が間ひぢをやきて法華経を供養し奉る。其人は今の薬王菩薩ぞかし。不軽菩薩は法華経の御ために多劫が間、罵詈毀辱杖木瓦礫にせめられき。今の釈迦仏に有ずや。されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや。今の世には法華経はさる事にてをはすれども、時によて事ことなるならひなれば、山林にまじわりて読誦すとも、将又里に住して演説すとも、持戒にて行とも、臂をやひてくやうすとも、仏にはなるべからず。
日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり。人是を不知。譬ば虫の火に入鳥の蛇の口に入が如し。真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人々は我も法をえたり、我も生死をはなれなんとはをもへども、立はじめし本師等依経の心をわきまへず、但我心のをもひつきてありしまゝに、その経をとりたてんとをもうはかなき心ばかりにて、法華経にそむけば仏意に叶はざる事をばしらずしてひろめゆくほどに、国主万民これを信ぬ。又他国へわたりぬ。又年もひさしくなりぬ。末々の学者等は本師のあやまりをばしらずして、師のごとくひろめならう人ゝを智者とはをもへり。源とにごりぬればながれきよからず、身まがればかげなをからず。真言の元祖善無畏等はすでに地獄に墮ぬべかりしが、或は改悔して地獄を脱たる者もあり、或は只依経計をひろめて法華経の讃歎をもせざれば、生死は離れねども不墮悪道人もあり。而を末々の者此事を知ずして諸人一同に信をなしぬ。譬ば破たる船に乗て大海に浮び、酒に酔る者の火の中に臥せるが如し。日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此事を申始し也。世間の人々いかに申とも信ことはあるべからず。かへりて死罪流罪となるべしとはかねて知てありしかども、今の日本国は法華経をそむき釈迦仏をすつるゆへに、後生に阿鼻大城に墮ことはさてをきぬ。今生に必大難に値べし。所謂他国よりせめきたりて上一人より下万民に至まで一同の歎きあるべし。譬ば千人の兄弟が一人の親を殺したらんに、此罪を千に分ては受べからず。一々に皆無間大城に墮て同く一劫を経べし。此国も又々如是。
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領也。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子也。譬ば成劫の始一人の梵王下て六道の衆生をば生て候ぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親也。又此国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知も師の恩也。黒白を弁も釈尊の恩也。而を天魔の身に入て候善導・法然なんどが申に付て、国土に阿弥陀堂を造り、或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り、或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り、或は宅々人々ごとに阿弥陀堂を書造り、或は人ごとに口々に或は高声に唱へ、或は一万遍或は六万遍なんど唱るに、少も智慧ある者は、いよいよこれをすゝむ。譬へば火にかれたる草をくわへ、水に風を合たるに似たり。此国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし。而に阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず、かかず、念仏も申さずある者は悪人なれども、釈迦仏を奉捨色は未顕。一向に阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨奉る色顕然也。彼人々の無墓念仏を申す者は悪人にてあるぞかし。
父母にもあらず主君師匠にてもおはせぬ仏をばいとをしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如なる法華経をば口にも不奉誦是豈不孝の者にあらずや。此不孝の人々、一人二人百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり。されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいかりてをどりあがり、大彗星天にはびこり、大火国に充満すれども僻事ありともおもはず。我等は念仏にひまなし。其上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持奉るなんど自讃する也。是は賢き様にて無墓。譬ば若き夫妻等が夫は女を愛し、女は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへをしらず。父母は衣薄けれども我はねや熱し。父母は食せざれども我は腹に飽ぬ。是は第一の不孝なれども彼等は失ともしらず。況や母に背く妻、父にさかへる夫、逆重罪にあらずや。阿弥陀仏は十万億のあなたに有て、此娑婆世界には一分も縁なし。なにと云とも故もなき也。馬に牛を合せ犬にをかたらひたるが如し。
但日蓮一人計此事を知りぬ。命を惜て云はずば国恩を報ぜぬ上、教主釈尊の御敵となるべし。是を恐れずして有のまゝに申ならば死罪となるべし。設ひ死罪はまぬかるとも流罪は疑なかるべしとは兼て知てありしかども、仏恩重が故に人をはばからず申ぬ。案にたがはず両度まで流されて候し中に、文永九年の夏の比、佐渡国石田郷一谷と云し処に有しに、預たる名主等は公と云ひ、私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに、宿の入道といゐ、めといゐ、つかうものと云ひ、始はおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内ゝ不便と思ふ心付ぬ。預りよりあづかる食は少し。付る弟子は多くありしに、僅の飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入て食しに、宅主内々心あて、外にはをそるる様なれども内には不便げにありし事、何の世にかわすれん。我を生ておはせし父母よりも、当時は大事とこそ思しか。何なる恩をもはげむべし。まして約束せし事たがうべしや。
然れども入道の心は後世を深く思てある者なれば、久く念仏を申つもりぬ。其上阿弥陀堂を造り、田畠も其仏の物也。地頭も又をそろしなんど思て直に法華経にはならず。是は彼身には第一の道理ぞかし。然れども又無間大城は無疑。設ひ是より法華経を遣したりとも、世間もをそろしければ念仏すつべからずなんど思はば、火に水を合せたるが如し。謗法の大水、法華経を信ずる小火をけさん事疑なかるべし。入道地獄に墮るならば還て日蓮が失になるべし。如何んがせん、如何んがせんと思わづらひて、今まで法華経を渡し奉らず。渡し進せんが為にまうけまいらせて有つる法華経をば、鎌倉の焼亡に取失ひ参せて候由申。旁入道の法華経の縁はなかりけり。約束申ける我心も不思議也。又我とはすゝまざりしを、鎌倉の尼の還りの用途に歎きし故に、口入有し事なげかし。本銭に利分を添て返さんとすれば、又弟子が云、御約束違ひなんど申。旁進退極て候へども、人の思ん様は狂惑の様なるべし。力及ばずして法華経を一部十巻渡し奉る。入道よりもうば(祖母)にてありし者は内々心よせなりしかば、是を持ち給へ。
日蓮が申事は愚なる者の申事なれば用ひず。されども去文永十一年[太歳甲戍]十月に蒙古国より筑紫によせて有しに、対馬の者かためて有しに宗馬尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生取にし、女をば或は取集て手をとをして船に結付、或は生取にす。一人も助かる者なし。壹岐によせても又如是。船おしよせて有けるには、奉行入道豊前前司は逃て落ぬ。松浦党は数百人打れ、或は生取にせられしかば、寄たりける浦々の百姓ども壹岐・対馬の如し。又今度は如何が有らん。彼国の百千万億の兵、日本国を引回して寄て有ならば如何に成べきぞ。北の手は先佐渡の島に付て、地頭・守護をば須臾に打殺し、百姓等は北山へにげん程に、或は殺され、或は生取れ、或は山にして死ぬべし。抑是程の事は如何として起るべきぞと推すべし。前に申つるが如く、此国の者は一人もなく三逆罪の者也。是は梵王・帝釈・日月・四天の、彼蒙古国の大王の身に入せ給て責給也。
日蓮は愚なれども、釈迦仏の御使・法華経の行者也となのり候を、用ざらんだにも不思議なるべし。其失に依て国破れなんとす。況や或は国々を追ひ、或は引はり、或は打擲し、或は流罪し、或は弟子を殺し、或は所領を取る。現の父母の使をかくせん人々よかるべしや。日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背ん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に墮ん事決定なるべし。たのもしたのもし。
抑蒙古国より責ん時は如何がせさせ給べき。此法華経をいただき、頸にかけさせ給て北山へ登らせ給とも、年比念仏者を養ひ念仏を申て、釈迦仏・法華経の御敵とならせ給て有し事は久しし。又若し命ともなるならば法華経ばし恨させ給なよ。又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其時は日蓮が檀那也とこそ仰あらんずらめ。又是はさてをきぬ。此法華経をば学乗房に常に開かさせ給べし。人如何に云とも、念仏者・真言師・持斉なんどにばし開かさせ給べからず。又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず。恐恐謹言。  五月八日  日蓮  [花押]  一谷入道女房