妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日妙聖人御書楽法梵志書

第一巻 定本番号 107 文永9(1272) 分類: 真蹟断片現存

祖寿: 51 著作地: 佐渡 一谷 真蹟: 内房 本成寺 外五ヶ所 

→ 全集(書下し・現代語訳)を見る

    107   日妙聖人御書
過去に楽法梵志と申者ありき。十二年の間、多の国をめぐりて如来の教法を求む。時に総て仏法僧の三宝一もなし。此梵志の意は渇して水をもとめ、飢て食をもとむるがごとく、仏法を尋ね給き。時に婆羅門あり、求て云、我れ聖教を一偈持てり。若実に仏法を願はば当にあたふべし。梵志答云しかなり。婆羅門の云、実に志あらば皮をはいで紙とし、骨をくだいて筆とし、髄をくだいて墨とし、血をいだして水として書ん、と云はゞ仏の偈を説ん。時に此梵志悦をなして彼が申ごとくして、皮をはいでほして紙とし、乃至一言をもたがへず。時に婆羅門忽然として失ぬ。此梵志天にあふぎ、地にふす。仏陀此を感じて下方より涌出て説て云 如法応修行 非法不応行 今世若後世 行法者安穏等[云云]。此梵志須臾に仏になる。此は二十字なり。
昔、釈迦菩薩転輪王たりし時、夫生輙死 此滅為楽の八字を尊給故に、身をかへて千燈にともして、此八字を供養し給、人をすゝめて石壁要路にかきつけて、見る人をして菩提心をおこさしむ。此光明利天に至る。天の帝釈並諸天の燈となり給き。昔、釈迦菩薩仏法を求め給き。癩人あり。此人にむかつて我れ正法を持てり。其字二十なり。我癩病をさすり、いだき、ねぶり、日に両三斤の肉をあたへば説べしと云。彼が申ごとくして、二十字を得て仏になり給。所謂如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴当得無量楽等[云云]。
昔雪山童子と申人ありき。雪山と申山にして、外道の法を通達せしかども、いまだ仏法をきかず。時に大鬼神ありき。説て云 諸行無常是生滅法等[云云]。只八字計を説て後をとかず。時雪山童子此八字をえて悦きわまりなけれども、半如意珠をえたるがごとく、花さきて菓ならざるににたり。残の八字をきかんと申時、大鬼神云 我数日が間飢饉して正念を乱。ゆへに後八字をときがたし。食をあたえよと[云云]。時童子問云、なにをか食とする。鬼答云 我は人のあたゝかなる血肉なり。我飛行自在にして、須臾の間四天下を回たづぬれども、あたゝかなる血肉得がたし。人をば天まほり給ゆへにとがなければ殺害する事かたし等[云云]。童子云我身を布施として彼の八字を習伝んと[云云]。鬼神云 智慧甚だ賢し。我をやすかさんずらん。童子答云瓦礫に金銀をかへんに是をかえざるべしや。我徒に此山にして死しなば、鴟梟虎狼に食はれて、一分の功徳なかるべし。後の八字にかえなば糞を飯にかふるがごとし。鬼云 我いまだ信ぜず。童子云、証人あり。過去の仏もたて給し大梵天王・釈提桓因・日・月・四天も証人にたち給べし。此鬼神後の偈をとかんと申。童子身にきたる鹿の皮をぬいで座にしき、踞跪合掌して此座につき給へと請す。大鬼神此座について説云生滅滅已寂滅為楽等[云云]。此偈を習ひ学して、若は木若は石等に書付て、身を大鬼神の口になげいれ給。彼の童子は今の釈尊、彼の鬼神は今の帝釈なり。
薬王菩薩は法華経の御前に臂を七万二千歳が間ともし給、不軽菩薩は多年が間二十四字のゆへに無量無辺の四衆罵詈毀辱杖木瓦礫而打擲之せられ給き。所謂二十四字と申我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏等[云云]。かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり。昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に、千歳が間阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせ給て、今の釈尊となり給。
然に妙法蓮華経は八巻なり。八巻を読ば十六巻を読なるべし、釈迦多宝の二仏の経なる故へ。十六巻は無量無辺の巻軸なり。十方の諸仏証明ある故に。一字は二字なり。釈迦多宝の二仏の字なる故へ。一字は無量の字、十方の諸仏の証明の御経なる故に。譬ば如意宝珠の玉は一珠なれども二珠乃至無量珠の財をふらすことこれをなじ。法華経の文字は一字は一宝、無量字は無量宝珠なり。妙の一字には二の舌まします。釈迦多宝の御舌なり。此二仏の御舌は八葉の蓮華なり。此重る蓮華の上に宝珠あり。妙の一字なり。此妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜と申て、身をうえたる虎にかひ(飼)し功徳、鳩にかひ(貿)し功徳、尸羅波羅蜜と申て須陀摩王としてそらごとせざりし功徳等、忍辱仙人として歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子・尚闍梨仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給て、末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給。
今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子これなり。我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経云 如我等無異等[云云]。法華経を得心者は釈尊と斉等なりと申文なり。譬ば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍べき。牛王の子は牛王也。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王等ならず。今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申て教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず。但し不孝の者は父母の跡をつがず。堯王には丹朱と云太子あり。舜王には商均と申王子あり。二人共に不孝の者なれば、父の王にすてられて現身に民となる。重華と禹とは共に民の子なり。孝養の心ふかかりしかば、堯舜の二王召て位をゆづり給き。民の身忽に玉体にならせ給き。民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同事なるべし。一念三千の肝心と申はこれなり。
而をいかにとしてか此功徳をばうべきぞ。楽法梵士・雪山童子等のごとく皮をはぐべきか、身をなぐべきか、臂をやくべきか等[云云]。章安大師云 取捨得宜不可一向等これなり。正法を修して仏になる行は時によるべし。日本国に紙なくば皮をはぐべし。日本国に法華経なくて、知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし。日本国に油なくば臂をもともすべし。あつき紙国に充満せり。皮をはいでなにかせん。
然に玄奘は西天に法を求て十七年、十万里にいたれり。伝教御入唐但二年なり、波濤三千里をへだてたり。此等は男子なり。上古なり。賢人なり、聖人なり。いまだきかず、女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を。龍女が即身成仏も、摩訶波闍波提比丘尼の記_にあづかりしも、しらず権化にやありけん。又在世の事なり。男子女人其性本より別れたり。火はあたゝかに、水はつめたし。海人は魚をとるにたくみなり、山人は鹿をとるにかしこし。女人は婬事にかしこしとこそ経文にはあかされて候へ。いまだきかず、仏法にかしこしとは。女人の心を清風に譬たり。風はつなぐともとりがたきは女人の心なり。女人の心をば水にゑがくに譬たり。水面には文字とどまらざるゆへなり。女人をば誑人にたとえたり。或時は実也或時虚なり。女人をば河に譬たり。一切まがられるゆへなり。
而に法華経は正直捨方便等、皆是真実等、質直意柔軟等、柔和質直者等申て、正直なる事弓の絃のはれるごとく、墨のなは(縄)をうつがごとくなる者の信じまいらする御経なり。糞を栴檀と申とも栴檀の香なし。妄語の者不妄語と申とも不妄語にはあらず。一切経は皆仏の金口の説不妄語の御言なり。然とも法華経に対しまいらすれば妄語のごとし、綺語のごとし、悪口のごとし、両舌のごとし。此御経こそ実語の中の実語にて候へ。実語の御経をば正直の者得心候なり。今実語の女人にておはすか。当知 須弥山をいたゞきて大海をわたる人をば見るとも、此女人をば見るべからず。砂をむして飯となす人をば見るとも、此女人をば見るべからず。当知 釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、上行・無辺行等の大菩薩 大梵天王・帝釈・四王等 此女人をば影の見にそうがごとくまほり給らん。日本第一の法華経の行者女人なり。故名を一つけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等[云云]。
相州鎌倉より北国佐渡国、其中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて山は峨峨、海は濤濤。風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすく(宿々)とまりとまり(泊々)民の心虎ごとし犬ごとし。現身に三悪道の苦をふるか。其上当世の乱世去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦。其より今五月のすゑいまだ世間安穏ならず。而ども一の幼子あり。あづくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。かたがた筆も及ばず、心弁へがたければとどめ了。   文永九年[太歳壬申]五月二十五日   日蓮[花押]  日妙聖人