十章鈔
81 十章鈔
華厳宗と申宗華厳経の円と法華経円とは一なり。而法華経の円は華厳の円の枝末と[云云]。法相・三論又々かくのごとし。天台宗彼の義に同ぜば別宗と立つなにかせん。例せば法華・涅槃は一円也。先後に依て涅槃尚をとるとさだむ。爾前之円・法華円を一ならば、先後によりて法華豈劣ざらんや。
詮するところ、この邪義のをこり、此妙彼妙円実不異、円頓義斉、前三為麁等の釈にばかされて起る義なり。止観と申も円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。
又二巻の四種三昧は多分は念仏と見へて候なり。源濁れば流清からずと申て、爾前之円与法華経円一と申者が、止観を人によませ候ば、但念仏者のごとくにて候なり。
但止観は迹門より出たり、本門より出たり、本迹に亘と申三の義いにしえよりこれあり。これは且これををく。故知一部之文共成円乗開権妙観と申て、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。爾前の経々をひき乃至外典用て候も、爾前・外典の心にはあらず。文をばかれ(借)ども義をばけづりすてたるなり。
境雖寄昔智必依円と申て、文殊問・方等請観音等の諸経を引て四種を立れども、心は必法華経なり。散引諸文該乎一代文体正意唯帰二経と申これなり。
止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重依修多羅と申て、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今依妙解以立正行と申は第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる。
一念三千と申事は迹門にすらなを許されず。何況爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限べし。
されば円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみる、なを円の行なり。何況爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱をや。但これらは時々の行なるべし。
真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必体にいたる徳あり。
法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給しなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時必ず止観なりき。口ずさみは必南無妙法蓮華経なり。
此等をしらざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申あひだ、在家の者は一向に念やう、天台真言等は念仏にてありけり。又善導・法然が一門はすわすわ天台真言の人人も実に自宗が叶がたければ念仏を申なり。わづらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申て浄土にして法華経をもさとるべしと申。
此の義日本国に充満せし故に天台真言の学者、在家の人々にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり。日本国の謗法は爾前之円与法華円一という義の盛なりしよりこれはじまれり。あわれなるかなや。
外道は常楽我浄と立しかば、仏、世にいでまさせ給ては苦空無常無我ととかせ給き。二乗空観に著して大乗にすゝまざりしかば仏誡云、五逆は仏のたね、塵労の疇は如来の種、二乗の善法は永不成と嫌せ給き。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。
而ども仏、名をいみ給き。悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそをぼうれども、仏二乗に向ては悪をば許て善をばいましめ給き。当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ぜんたりとも、義分あたれりというとも、先名をいむべし。
其故仏法は国に随べし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あり、わかれたり。震旦亦復如是。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗猶相応せず。何況小乗の三宗をや。而当世にはやる念仏宗と禅宗とは源方等部より事をこれり。法相・三論・華厳の見を出べからず。
南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経にをいては往生の行にあらず。開会の後仏因となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、但法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず。法華経は能開、念仏は所開。法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申ずとも、南無阿弥陀仏並に十方の諸仏の功徳を備たり。
譬如如意宝珠。金銀等の財備たるか。念仏は一期申とも法華経の功徳をぐすべからず。譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし。譬へば三千大千世界に積たる金銀等の財も、一の如意宝珠をばかうべからず。
設開会をさとれる念仏なりとも、猶体内の権なり。体内の実に及ず。何況当世に開会を心えたる智者も少なくこそをはすらめ。設さる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかんがあるべかるらん。愚者智者の念仏を申給をみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。又南無妙法蓮華経と申人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申候はんずらん。
当世に父母を殺人よりも、謀反をこす人よりも、天台・真言の学者といわれて、善公が礼讃をうたい、然公が念仏をさいづる人々はをそろしく候なり。
この文を止観よみあげさせ給て後、ふみのざ(文座)の人にひろめてわたらせ給べし。止観よみあげさせ給はば、すみやかに御わたり候へ。
沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば、事切事かたしと存て候しか。人ごとに問注は法門にはにず、いみじうしたりと申候なるときに、事切べしともをぼへ候はず。少弼殿より平三郎左衛門のもとにわたりて候とぞうけ給候。
この事のび候わば問注はよきと御心え候へ。又いつにてもよも切ぬ事は候はじ。又切ずは日蓮道理とこそ人々はをもひ候はんずらめ。くるしく候はず候。当時はことに天台真言等の人々の多く来候なり。事多故留候了。