真言天台勝劣事
77 真言天台勝劣事
問依何経論立真言宗耶。答大日経・金剛頂経・蘇悉地経・並菩提心論依此三経一論立真言宗也。
問大日経与法華経何勝耶。答法華経或七重或八重勝也。大日経七八重劣也。
難云驚云自古至今自法華真言劣云義都無之。依之弘法大師立十住心法華自真言三重劣釈給へり。覚鑁は法華は真言の履取に不及釈せり。打任ては密教勝れ顕教劣也と世挙て此を許す。七重の劣と云義は甚珍者をや。
答真言は七重の劣と云事珍き義也と被驚理也。所以に法師品云已説今説当説而於其中此法華経最為難信難解[云云]。又云於諸経中最在其上[云云]。此文の心は、法華は一切経の中に勝たり[此其一]。
次に無量義経云次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空[云云]。又云真実甚深甚深甚深[云云]。此文の心は無量義経は諸経の中に勝て甚深の中にも猶甚深也。然ども法華の序分にして機もいまだなましき(不熟)故に正説の法華には劣也此其二。
次に涅槃経九云是経出世如彼果実多所利益安楽一切能令衆生見於仏性。如法華中八千声聞得授記_成大果実如秋収冬蔵更無所作[云云]。籤一云一家義意謂二部同味然涅槃尚劣[云云]。此文の心は涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味。同醍醐味なれども涅槃経は尚劣也、法華経は勝たりと云へり。涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝たり[此其三]。
次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり[此其四]。
次に蘇悉地経云猶不成者或復転読大般若経七遍[云云]。此文の心は大般若経は華厳経には劣り、蘇悉地経には勝と見えたり[此其五]。
次に蘇悉地経云於三部中此経為王[云云]。此文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経・金剛頂経には勝と見えたり[此其六]。
以此義大日経は法華経より七重の劣とは申也。法華本門に望れば八重の劣とも申也。
次に弘法大師の立十住心法華は三重劣と云事は、安然の教時義と云文に十住心の立様を破して云五の失有り。謂一者大日経の義釈に違する失。二者金剛頂経に違する失。三者守護経に違する失。四者菩提心論に違する失。五者衆師に違する失也。此五の失を陳ずる事無してつまり給へり。然間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが大なる僻事也。謗法に成ぬと覚ゆ。
次に覚鑁の法華は真言の履取に不及と舎利講の式に書たるは任舌言也。無証拠故専可謗法。
次に挙世密教勝れ顕教劣許此云事是偏信弘法不信法也。所以に弘法をば安然和尚有五失云て、不用時は世間の人は何様に密教勝と可思。抑密教勝れ顕教劣とは何の経に説たるや。是又無証拠事を挙世申也。
猶難云大日経等は是中央大日法身無始無終の如来、法界宮或は色究竟天、他化自在天にして、為菩薩説真言給へり。法華は釈迦応身、霊山にして為二乗説給へり。或は釈迦は大日の化身也とも云へり。
成道の時は、大日の印可を蒙て、唵字の観を被教、後夜に仏になる也。大日如来だにもましまさずば、争か釈迦仏も仏に成給べき。以此等道理案ずるに、法華より真言勝たる事は不及云也。
答云依法不依人の故に、いかやうにも経説のやうに可依也。大日経は釈迦の大日となて説給へる経也。故に金光明最勝王経第一には中央釈迦牟尼と云へり。又金剛頂経第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云べし、大日の説とも云べし。
又毘盧遮那と云は天竺の語、大日と云は此土の語也。釈迦牟尼名毘盧遮那と云時は大日は釈迦の異名也。加之、旧訳の経に盧舎那と云をば、新訳の経には毘盧遮那と云。然間、新訳の経の毘盧遮那法身と云は、旧訳の経の盧舎那他受用身也。故に大日法身と云は法華経の自受用報身にも不及。況法華経の法身如来にはまして不可及。法華経の自受用身と法身とは真言には絶分不知也。法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるゝ也。
随て華厳経の新訳には或称釈迦或称毘盧遮那と説り。故に大日は只是釈迦の異名也。なにしに別の仏とは可得意。
次に法身の説法と云事、何の経の説ぞや。弘法大師の二教論には依楞伽経立法身説法給へり。其楞伽経と云は釈迦の説にして、未顕真実の権経也。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。此上に法定不説報通二義の二身の有をば一向不知也。故に大日法身の説法と云は定て当法華他受用身也。
次に大日無始無終と云事、既に我昔坐道場降伏於四魔とも宣べ、又降伏四魔解脱六趣満足一切智智之明等[云云]。此等の文は大日は始て四魔を降伏して、始て仏に成とこそ見えたれ。全く無始の仏とは不見。又仏に成て何程を経ると不説事は権経の故也。実経にこそ五百塵点等をも説たれ。
次に法界宮者色究竟天歟。又何の処ぞや。色究竟天或は他化自在天は法華天台宗には別教の仏の説処と云ていみじからぬ事に申也。
又為菩薩説とも高名もなし。例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚法華の方便とこそ云はるれ。只仏出世の本意は難成仏二乗の仏に成を一大事とし給へり。されば大論には二乗の仏に成を密教と云ひ、二乗作仏を不説顕教と云へり。此趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨無が故に還て顕教と云ひ、法華は二乗作仏を旨とする故に密教と可云也。
随て諸仏秘密之蔵と説ば無子細。世間の人密教勝と云はいかやうに得意耶。但し若於顕教修行者久経三大無数劫等云るは、既に三大無数劫と云故に、是指三蔵四阿含経顕教と云て、権大乗までは不云。況や法華実大乗までは都て不云也。
次に釈迦は大日の化身、唵字を被教こそ仏には成たれと云事。此は偏に六波羅蜜経の説也。彼経一部十巻は是釈迦の説也。非大日説。是未顕真実の権教也。随て成道の相も三蔵教の教主の相也。六年苦行の後の儀式なるをや。彼経説の五味を天台は盗取て立己宗云ふ無実を被云付弘法大師の大なる僻事也。
所以に天台は依涅槃経立給へり。全く六波羅蜜経には不依。況天台死去の後百九十年あて貞元四年に渡る経也。何として天台は見給べき。不実の過、弘法大師にあり。凡そ彼経説は皆未顕真実也。以之法華経を下さん事甚た荒量也。
猶難云、如何に云とも印・真言・三摩耶尊形を説事は大日経程法華経には無之。事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり。其上、真言三部経は釈迦一代五時の摂属に非ず。されば弘法大師の宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として法華は無明の辺域戯論の法と釈し給へり。爰を以て法華劣り真言勝と申也。
答、凡印相・尊形は是権経の説にして非実教談。設説之権実大小の差別浅深有べし。所以に阿含経等にも印相有が故に、必法華に印相・尊形を不得説非不説之。説まじければ是を説かぬにこそ有れ。法華は只三世十方の仏の本意を説て、其形がとある、かうあるとは不可云。例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣とは不可云如し。
次に事理倶密の事。法華は理秘密、真言は事理倶密なれば勝とは何の経に説るや。抑法華の理秘密者、何様の事ぞや。法華の理者、迹門開権顕実の理歟。其理は真言には絶分不知理也。法華の事者、又久遠実成の事也。此事又真言になし。真言に所云事理は未開会の権教の事理也。何ぞ法華に可勝乎。
次に一代五時の摂属に非と云事。是自往古諍也。唐決には四教有が故に方等部に摂すと云へり。教時義には、一切智智一味の開会を説が故に、法華の摂と云へり。二義の中に方等の摂と云は吉義也。所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云事、甚だいはれなし。彼は法開会の文にして、全く人開会なし。争か法華の摂と云るべき。
法開会の文は、方等般若にも盛に談ずれども、法華に等き事なし。彼大日経の始終を見に、四教の旨具にあり。尤方等の摂と可云。所以に開権顕実の旨不有法華と云まじ。一向小乗三蔵の義無れば阿含部とも不可云。般若畢竟空を説かねば般若部とも不可云。
大小四教の旨を説が故に方等部と不云者何れの部とか云ん。又一代五時を離て外に有仏法不可云。若有らば二仏並出の失あらん。又其法を釈迦統領の国土にきたして不可弘。
次に弘法大師、釈摩訶衍論を為証拠法華を無明の辺域、戯論の法と云事、是以の外の事也。釈摩訶衍論者、龍樹菩薩の造也。是釈迦如来の御弟子也。争か以弟子論師の一代第一と被仰法華経を押下して、戯論の法等と可云耶。而も論に無其明文。随て彼論の法門は別教の法門也。権教の法門也。是円教に不及。又非実教。何してか法華を可下。
其上彼論に幾の経をか引らん。されども法華経を引事は都て無之。権論の故也。地体、弘法大師の華厳より法華を下されたるは遥に仏意にはくひ違たる心地也。不可用不可用。 日蓮[花押]