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題目弥陀名号勝劣事

第一巻 定本番号 35 文永1(1264) 分類: その他

祖寿: 43 

    35 題目弥陀名号勝劣事
南無妙法蓮華経と申事は唱がたく、南無阿弥陀仏、南無薬師如来なんど申事は唱やすく、又文字の数の程も大旨は同けれども、功徳の勝劣は遥に替りて候也。
天竺の習ひ、仏出世の前には二天三仙の名号を唱て天を願ひけるに、仏世に出させ給ては仏の御名を唱ふ。
然に仏の名号を二天三仙の名号に対すれば、天の名は瓦礫のごとし、仏の名号は金銀如意宝珠等のごとし。又諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に対すれば、瓦礫と如意宝珠の如に侍也。
然るを仏教の中の大小権実をも弁へざる人師なんどが、仏教を知がほにして、仏の名号を外道等に対して如意宝珠に譬へたる経文を見、又法華経の題目を如意宝珠に譬へたる経文と喩の同をもて、念仏と法華経とは同事と思へる也。
同事と思故に、又世間に貴と思人の只弥陀の名号計を唱に随て、皆人一期の間一日に六万遍十万遍なんど申せども、法華経の題目をば一期に一遍も唱へず。
或は世間に智者と思はれたる人人、外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に、念仏と法華経とは只一也。南無阿弥陀仏と唱れば法華経を一部よむにて侍るなんど申あへり。
是は一代の諸経の中に一句一字もなき事也。設ひ大師先徳の釈の中より出たりとも、且は観心の釈歟、且はあて事歟、なんど心得べし。
法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値ひ奉て、功徳を成就する人、初て妙法蓮華経の五字の名を聞き、始て信を致す也。
諸仏の名号は外道・諸天・二乗・菩薩の名号にあはすれば、瓦礫と如意宝珠の如なれども、法華経の題目に対すれば、又瓦礫と如意宝珠との如し。
当世の学者は法華経の題目と諸仏の名号とを功徳ひとしと思ひ、又同事と思へるは、瓦礫と如意宝珠とを同と思ひ、一と思が如し。
止観五云設厭世者翫下劣乗攀附枝葉狗狎作務敬猴為帝釈崇瓦礫是明珠此黒闇人豈可論道等[云云]。文の心は設ひ世をいとひて出家遁世して山林に身をかくし、
名利名聞をたちて一向後世を祈る人人も、法華経の大乗をば修行せずして、権教下劣の乗につきたる名号等を唱るを、瓦礫を明珠なんどと思たる僻人に譬へ、闇き悪道に行べき者と書れて侍也。
弘決の一には妙楽大師善住天子経をからせ給て、法華経の心を顕はして云聞法生謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者等[云云]。法華経の名を聞てそしる罪は、阿弥陀仏・釈迦仏・薬師仏等の恒河沙の仏を供養し名号を唱るにも過たり。
されば当世の念仏者の念仏を六万遍乃至十万遍申なんど云へども、彼にては終に生死をはなるべからず。法華経を聞をば千中無一雑行未有一人得者なんど名て、或は抛よ、或は門を閉よ、なんど申謗法こそ設ひ無間大城に堕るとも、後に必生死は離れ侍らんずれ。
同は今生に信をなしたらばいかによく候なん。
問、世間の念仏者なんどの申様は、此身にて法華経なんどを破する事は争か候べき。念仏を申も、とくとく極楽世界に参りて法華経をさとらんが為也。又或云、法華経は不浄の身にては叶がたし、恐もあり。念仏は不浄をも嫌はねばこそ申候へ、なんど申はいかん。
答云、此四五年の程は、世間の有智無智を嫌はず此義をばさなんめりと思て過る程に、日蓮一代聖教をあらあら引見に、いまだ此二義の文を勘へ出さず。
詮するところ、近来の念仏者並に有智の明匠とおぼしき人人の、臨終の思やうにならざるは是大謗法の故也。
人ごとに念仏申て、浄土に生て、法華経をさとらんと思故に、穢土にして法華経を行ずる者をあざむき、又行ずる者もすてゝ念仏を申心は出来る也と覚ゆ。謗法の根本此義より出たり。法華経こそ此穢土より浄土に生ずる正因にては侍れ。
念仏等は未顕真実の故に、浄土の直因にはあらず。然に浄土の正因をば極楽にして、後に修行すべき物と思ひ、極楽の直因にあらざる念仏をば浄土の正因と思事僻案也。
浄土門は春沙を田に蒔て秋米を求め、天月をすてゝ水に月を求るに似たり。人の心に叶て法華経を失ふ大術此義にはすぎず。
次に不浄念仏の事。一切念仏者の師とする善導和尚・法然上人は、他事にはいわれなき事多けれども、此事にをいてはよくよく禁められたり。善導観念法門経云、酒肉五辛を手に取ざれ、口にかまざれ。
手にとり口にもかみて念仏を申さば、手と口に悪瘡付べしと禁め、法然上人起請を書て云、酒肉五辛を服して念仏申さば予が門弟にあらずと[云云]。不浄にして念仏を申べしとは当世の念仏者の大妄語也。
問云、善導和尚・法然上人の釈を引は彼釈を用るや否や。答云、しからず。念仏者の師たる故に、彼がことば己が祖師に相違するが故に、彼祖師の禁めをもて彼を禁る也。例せば世間の沙汰の彼が語の彼文書に相違するを責るが如し。
問云、善導和尚・法然上人には何事の失あれば用ざるや。答云、仏の御遺言には、我滅度の後には四依の論師たりといへども、法華経にたがはば用べからずと、涅槃経に返返禁め置せ給て侍に、法華経には我滅度の後末法に諸経失て後、殊に法華経流布すべき由一所二所ならず、あまた所に説れて侍り。随て天台・妙楽・伝教・安然等の義に此事分明也。
然に善導・法然、法華経の方便の一分たる四十余年の内の未顕真実の観経等に依て、仏も説せ給はぬ我依経の読誦大乗の内に法華経をまげ入れて、還て我経の名号に対して読誦大乗の一句をすつる時、法華経を抛よ、門を閉よ、千中無一なんど書て侍る僻人をば、眼あらん人是をば用べしやいなや。
疑云、善導和尚は三昧発得の人師、本地阿弥陀仏の化身、口より化仏を出せり。法然上人は本地大勢至菩薩の化身、既に日本国に生ては念仏を弘めて、頭より光を現ぜり。争か此等を僻人と申さんや。又善導和尚・法然上人は汝が見る程の法華経並に一切経をば見給はざらんや。定て其故是あらん歟。
答云、汝が難ずる処をば世間の人人定て道理と思はん歟。是偏に法華経並に天台妙楽等の実経実義を述給へる文義を捨て、善導法然等の謗法の者にたぼらかされて、年久くなりぬるが故に思はする処也。
先通力ある者を信ぜば、外道・天魔を信ずべき歟。或外道は大海を吸干し、或外道は恒河を十二年まで耳に湛たり。第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず。
阿難尊者、猶魔と仏とを弁へず。善導・法然が通力いみじしというとも、天魔外道には勝れず。其上仏の最後の禁めに、通を本とすべからずと見えたり。
次に善導・法然は一切経、並に法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑、是又謗法の人のためには、さもと思ひぬべし。然といへども、如来の滅後には先の人は多分賢きに似て、後の人は大旨ははかなきに似たれども、又先の世の人の世に賢き名を取てはかなきも是あり。
外典にも、三皇・五帝・老子・孔子の五経等を学びて賢き名を取れる人も、後の人にくつがへされたる例是多き歟。内典にも又かくの如し。仏法漢土に渡て五百年の間は明匠国に充満せしかども、光宅の法雲・道場の慧観等には過ざりき。
此等の人人は名を天下に流し、智水を国中にそゝぎしかども、天台智者大師と申せし末の人、彼義どもの僻事なる由を立申せしかば、初には用ひず。後には信用を加し時、始て五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えし也。
日本国にも仏法渡て二百余年の間は、異義まちまちにして、何れを正義とも知ざりし程に、伝教大師と申人に破られて、前二百年の間の私義は破られし也。
其時の人人も当時の人の申様に、争か前前の人は一切経並に法華経をば見ざるべき。定て様こそあるらめ、なんど申あひたりしかども叶はず。経文に違ひたりし義どもなれば終に破れて止にき。当時も又かくの如し。
此五十余年が間は善導の千中無一、法然が捨閉閣抛の四字等は、権者の釈なればゆへこそあらんと思て、ひら信じに信じたりし程に、日蓮が法華経の或は悪世末法時、或は於後末世、或は令法久住等の文を引むかへて相違をせむる時、我師の私義破れて疑あへる也。
詮するところ、後五百歳の経文の誠なるべきかの故に、念仏者の念仏をもて法華経を失ひつるが、還て法華経の弘まらせ給べき歟と覚ゆ。但し御用心の御為に申。世間の悪人は魚鳥鹿等を殺して世路を渡る。
此等は罪なれども仏法を失ふ縁とはならず。懺悔をなさざれば三悪道にいたる。又魚鳥鹿等を殺して売買をなして善根を修する事もあり。此等は世間には悪と思はれて遠く善となる事もあり。仏教をもて仏教を失ふこそ失ふ人も失とも思はず。
只善を修すると打思て、又そばの人も善と打思てある程に、思はざる外に悪道に堕る事の出来候也。当世には念仏者なんどの日蓮に責落されて、我身は謗法の者也けりと思者も是あり。
聖道の人人の御中にこそ実の謗法の人人は侍れ。彼人人の仰らるゝ事は、法華経を毀る念仏者も不思議也。念仏者を毀る日蓮も奇怪也。念仏と法華とは一体の物也。されば法華経を読こそ念仏を申すよ。
念仏申こそ法華経を読にては侍れと思事に候也と、かくの如く仰らるゝ人人、聖道の中にあまたをはしますと聞ゆ。随て檀那も此義を存じて、日蓮並に念仏者をおこがましげに思へる也。先日蓮が是程の事をしらぬと思へるははかなし。
仏法漢土に渡り初めし事は後漢の永平也。渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝開元十八年也。渡れるところの経律論五千四十八巻、訳者一百七十六人。其経経の中に、南無阿弥陀仏は即南無妙法蓮華経也と申経は、一巻一品もおはしまさざる事也。
其上、阿弥陀仏の名を仏説出し給事は、始華厳より終般若経に至まで、四十二年が間に所所に説れたり。但し阿含経をば除く。一代聴聞の者是を知れり。
妙法蓮華経と申事は仏の御年七十二、成道より已来四十二年と申せしに、霊山にましまして無量義処三昧に入給し時、文殊弥勒の問答に過去の日月燈明仏の例を引て、我見燈明仏乃至欲説法華経と先例を引たりし時こそ、南閻浮提の衆生は法華経の御名をば聞初たりしか。
三巻の心ならば、阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時、十六の王子として法華経を習て、後に正覚をならせ給へりと見えたり。弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習てこそ仏にはならせ給て侍れ。
全く南無阿弥陀仏と申て正覚をならせ給たりとは見えず。妙法蓮華経は能開也。南無阿弥陀仏は所開也。能開所開を弁へずして、南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知がほに申侍也。
日蓮幼少の時、習そこなひの天台宗真言宗に教へられて、此義を存じて数十年の間ありし也。是存外の僻案也。但し人師の釈の中に、一体と見えたる釈どもあまた侍る。彼は観心の釈歟。
或は仏の所証の法門につけて述たるを、今の人弁へずして、全体一也と思て、人を僻人に思也。御景迹あるべき也。念仏と法華経と一ならば、仏の念仏説せ給し観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ。
彼をば本懐ともをぼしめさずして、法華経を出世の本懐と説せ給は、念仏と一体ならざる事明白也。其上多の真言宗・天台宗の人人に値奉て候し時、此事を申ければ、されば僻案にて侍りけりと申人是多し。
敢て証文に経文を書て進ぜず候はん限りは御用ひ有べからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。あなかしこあなかしこ。   日蓮  花押