妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

月水御書報大学三郎妻書

第一巻 定本番号 34 文永1(1264) 分類: その他

祖寿: 43 対告衆: 大学三郎妻 著作地: 鎌倉 

    34  月水御書
伝承はる御消息の状に云、法華経を日ごとに一品づつ、二十八日が間に一部をよみまいらせ候しが、当時は薬王品の一品を毎日の所作にし候。ただもとの様に一品づつをよみまいらせ候べきやらんと[云云]。
法華経は一日の所作に一部八巻二十八品、或は一巻、或は一品・一偈・一句・一字、或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ、或は又一期の間に只一度となへ、
或は又一期の間にただ一遍唱るを聞て随喜し、或は又随喜する声を聞て随喜し、是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり、随喜の心の弱き事、二三歳の幼穉の者のはかなきが如く、
牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智慧かしこく、舎利弗・目連・文殊・弥勒の如なる人の、諸経を胸の内にうかべて御坐まさん人々の御功徳よりも、勝たる事百千万億倍なるべきよし、経文並に天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り。
されば経文には以仏智慧籌量多少不得其辺と説れて、仏の御智慧すら此人の功徳をばしろしめさず。
仏の智慧のありがたさは、此三千大千世界に七日、若は二七日なんどふる雨の数をだにもしろしめして御坐候なるが、只、法華経の一字を唱たる人の功徳をのみ知しめさずと見えたり。何況や、我等逆罪の凡夫の此功徳をしり候なんや。
然と云ども如来滅後二千二百余年に及で、五濁さかりになりて年久し。事にふれて善なる事ありがたし。
設ひ善を作人も一の善に十の悪を造り重ねて、結句は小善につけて大悪を造り、心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり。
然に如来の世に出させ給て候し国よりしては、二十万里の山海をへだてゝ、東によれる日域辺土の小嶋にうまれ、五障の雲厚うして、三従のきづなにつながれ給へる女人なんどの御身として、法華経を御信用候は、ありがたしなんどとも申に限なく候。
凡一代聖教を被き見て、顕密二道を究め給へる様なる智者学匠だにも、近来は法華経を捨て念仏を申し候に、何なる御宿善ありてか、此法華経を一偈一句もあそばす御身と生れさせ給けん。
されば此御消息を拝し候へば、優曇華を見たる眼よりもめづらしく、一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏き事かなと、心ばかりは有がたき御事に思まいらせ候間、
一言一点も随喜の言を加て、善根の余慶にもやとはげみ候へども、只恐くは雲の月をかくし、塵の鏡をくもらすが如く、短く拙き言にて、殊勝にめでたき御功徳を申隠し、くもらす事にや候らんと、いたみ思ひ候ばかり也。
然と云ども、貴命もだす(黙止)べきにあらず。一滴を紅海に加へ、火を日月にそへて、水をまし光を添ふると思食すべし。
先法華経と申は八巻・一巻・一品・一偈・一句乃至題目を唱ふるも、功徳は同事と思食すべし。譬ば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納たり。
如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす。百千万億の滴珠も又これ同じ。法華経は一字も一の滴珠の如し。
乃至万億の字も又万億の滴珠の如し。諸経諸仏の一字一名号は、江河の一滴の水、山海の一石の如し。一滴に無量の水を不備、一石に無数の石の徳をそなへもたず。
若然ば、此法華経は何れの品にても御坐ませ、只御信用の御坐さん品こそめづらしくは候へ。
総じて如来の聖教は、何れも妄語の御坐すとは承り候はねども、再び仏教を勘たるに、如来の金言の中にも大小権実顕密なんど申事、経文より事起て候。随て論師人師の釈義にあらあら見えたり。
詮を取て申さば、釈尊の五十余年の諸教の中に、先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし。仏自無量義経に、四十余年未顕真実と申経文まのあたり説せ給へる故也。
法華経に於ては、仏自一句の文字を正直捨方便但説無上道と定させ給ぬ。
其上、多宝仏大地より涌出させ給て、妙法華経皆是真実と証明を加へ、十方の諸仏皆法華経の座にあつまりて、舌を出して法華経の文字は一字也とも妄語なるまじきよし助成をそへ給へり。
譬ば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し。若法華経の一字をも唱ん男女等、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引れて悪道におつるならば、
日月は東より出させ給はぬ事はありとも、大地は反覆する事はありとも、大海の潮はみちひぬ事はありとも、破たる石は合とも、
江河の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の、世間の罪に引れて悪道に堕る事はあるべからず。
若法華経を信じたる女人、物をねたむ故、腹のあしきゆへ、貪欲の深きゆへなんどに引れて悪道に堕るならば、釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏、
無量曠劫よりこのかた持来給へる不妄語戒忽に破れて、調達が虚誑罪にも勝れ、瞿伽利が大妄語にも超たらん。争かしかるべきや。
法華経を持つ人憑しく有がたし。但し一生が間一悪をも犯さず、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち、一切経をそらに浮べ、一切の諸仏菩薩を供養し、無量の善根をつませ給とも、
法華経計を御信用なく、又御信用はありとも諸経諸仏にも並べて思食し、又並て思食さずとも、他の善根をば隙なく行じて時々法華経を行じ、法華経を用ひざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、
法華経を末代の機に叶はずと申者を科とも思食さずば、一期の間行させ給処の無量の善根も忽にうせ、並に法華経の御功徳も且く隠れさせ給て、
阿鼻大城に堕させ給はん事、雨の空にとゞまらざるが如く、峰の石の谷へころぶが如しと思食すべし。十悪五逆を造れる者なれども、法華経に背事なければ、往生成仏は疑なき事に侍り。
一切経をたもち、諸仏菩薩を信じたる持戒の人なれども、法華経を用る事無れば、悪道に堕る事疑なしと見えたり。予が愚見をもて近来の世間を見るに、多は在家・出家・誹謗の者のみあり。
但し御不審の事、法華経は何の品も先に申つる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候也。
されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習読せ給候へ。又別に書出してもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財の備るが如し。
寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。
薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説れて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉。薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。
されば常には此方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。
又御消息の状に云、日ごとに三度づゝ七の文字を拝しまいらせ候事と、南無一乗妙典と一万遍申候事とをば、日ごとにし候が、例の事に成て候程は、御経をばよみまいらせ候はず。
拝しまいらせ候事も一乗妙典と申候事も、そらにし候は苦しかるまじくや候らん。それも例の事の日数の程は叶まじくや候らん。いく日ばかりにてよみまいらせ候はんずる等[云云]。
此段は一切の女人ごとの御不審に常に問せ給候御事にて侍り。又古へも女人の御不審に付て申たる人も多く候へども、一代聖教にさして説れたる処のなき歟の故に、証文分明に出したる人もおはせず。
日蓮粗聖教を見候にも、酒肉五辛婬事なんどの様に、不浄を分明に月日をさして禁めたる様に、月水をいみたる経論を未だ勘へず候也。
在世の時、多く盛の女人尼になり、仏法を行ぜしかども、月水の時と申て嫌はれたる事なし。是をもて推量り侍るに、月水と申物は外より来れる不浄にもあらず、只女人のくせ(癖)かたわ生死の種を継べき理にや。
又長病の様なる物也。例せば屎尿なんどは人の身より出れども能浄くなしぬれば別にいみもなし。是体に侍る事歟。されば印度・尸那なんどにもいたくいむ(忌)よしも聞えず。
但し日本国は神国也。此国の習として、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあひに(相似)ぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。
委細に経論を勘へ見るに、仏法の中に随方毘尼と申戒の法門は是に当れり。此戒の心は、いたう(甚)事かけ(欠)ざる事をば、少々仏教にたがふとも其国の風俗に違べからざるよし、仏一の戒を説給へり。
此由を知ざる智者共、神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申強義を申て、多の檀那を損ずる事ありと見えて候也。若然ば此国の明神、多分は此月水をいませ給へり。
生を此国にうけん人々は大に忌給べき歟。但し女人の日の所作は苦しかるべからずと覚え候歟。元より法華経を信ぜざる様なる人々が、経をいかにしても云うとめんと思が、さすがにただちに経を捨よとは云えずして、身の不浄なんどにつけて、
法華経を遠ざからしめんと思程に、又不浄の時、此を行ずれば経を愚かにしまいらするなんどをどして罪を得させ候也。
此事をば一切御心得候て、月水の御時は七日までも其気の有ん程は、御経をばよませ給はずして、暗に南無妙法蓮華経と唱させ給候へ。礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給べし。
又不慮に臨終なんどの近づき候はんには、魚鳥なんどを服せさせ給ても候へ。よみぬべくば経をもよみ、及び南無妙法蓮華経とも唱させ給候べし。又月水なんどは申に及候はず。
又南無一乗妙典と唱させ給事、是同じ事には侍れども、天親菩薩・天台大師等の唱させ給候しが如く、只南無妙法蓮華経と唱させ給べき歟。
是子細ありてかくの如は申候也。穴賢穴賢。  文永元年卯月十七日   日蓮  花押   大学三郎殿御内  御報