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持妙法華問答鈔

第一巻 定本番号 33 弘長3(1263) 分類: その他

祖寿: 42 著作地: 鎌倉 

    33  持妙法華問答鈔
抑希に人身をうけ、適仏法をきけり。然に法に浅深あり、人に高下ありと云へり。何なる法を修行してか速に仏になり候べき。願は其道を聞んと思ふ。
答云、家々に尊勝あり、国々に高貴あり。皆其君を貴み、其親を崇といへども、豈国王にまさるべきや。
爰に知ぬ。大小権実は家々の諍ひなれども、一代聖教の中には法華独り勝れたり。是頓証菩提の指南、直至道場の車輪也。
疑云、人師は経論の心を得て釈を作る者也。然則宗々の人師、面々各々に教門をしつらひ、釈を作り、義を立て証得菩提を志す。
何ぞ虚しかるべきや。然に法華独り勝と候はば、心せばくこそ覚え候へ。
答云、法華独りいみじと申が心せばく候はば、釈尊程心せばき人は世に候はじ。何ぞ誤りの甚しきや。且く一経一流の釈を引て其迷をさとらせん。
無量義経云種々説法種々説法以方便力四十余年未顕真実[云云]。此文を聞て大荘厳等の八万の菩薩一同に、過無量無辺不可思議阿僧祇劫終不得成無上菩提と領解し給へり。
此文の心は、華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付て、いかに念仏を申し、禅宗を持て仏道を願ひ、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過るとも、無上菩提を成事を得じと云へり。
しかのみならず、方便品には世尊法久後要当説真実ととき、又唯有一乗法無二亦無三と説て此経ばかりまこと也と云、
又二巻には唯我一人能為救護と教へ、但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈と説給へり。文の心は、たゞわれ一人してよくすくひまもる事をなす。
法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。又云若人不信毀謗此経則断一切世間仏種乃至其人命終入阿鼻獄と[云云]。
此文の心は、若人此経を信ぜずして此経にそむかば、則一切世間の仏のたねをたつもの也。その人は命をはらば無間地獄に入べしと説給へり。
此等の文をうけて天台は、将非魔作仏の詞正く此文によれりと判じ給へり。唯人師の釈計を憑て、仏説によらずば何ぞ仏法と云名を付べきや。言語道断の次第也。
依之智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云て、一切人によらば仏説無用也と釈し給へり。
天台は若深有所以復与修多羅合者録而用之。無文無義不可信受と判じ給へり。又云、無文証者悉是邪謂とも云へり。いかが心得べきや。
問云、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に、此経第一とも説、諸経の王とも宣たり。若爾者仏説なりとも用べからず候歟如何。
答云、設此経第一とも諸経の王とも申候へ、皆是権教也。其語によるべからず。
依之、仏は了義経によりて不了義経によらざれと説き、妙楽大師は縦有経云諸経之王不云已今当説最為第一兼但対帯其義可知と釈し給へり。
此釈の心は、設ひ経ありて諸経の王とは云とも、前に説つる経にも後に説んずる経にも此経はまされりと云はずば、方便の経としれと云釈也。
されば爾前の経の習として、今説く経より後に又経を説べき由を云はざる也。唯法華経計こそ最後の極説なるが故に、已今当の中に此経独り勝れたりと説れて候へ。
されば釈には、唯至法華説前教意顕今教意と申て、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定りたりと見えたり。依之、天台は如来成道四十余年未顕真実法華始顕真実と云へり。
此文の心は、如来世に出させ給て四十余年が間は真実の法をば顕はさず。法華経に始て仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。
問云、已今当の中に法華経勝れたりと云事はさも候べし。
但し有人師の云、四十余年未顕真実と云は法華経にて仏になる声聞の為也。爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云べからずと云義をばいかが心得候べきや。
答云、法華経は二乗の為也、菩薩の為にあらず。されば未顕真実と云事二乗に限るべしと云は徳一大師の義歟。此は法相宗の人也。
此事を伝教大師破し給に、現在麁食者偽章数巻作謗法謗人何不堕地獄と破し給ひしかば、徳一大師其語に責られて舌八にさけてうせ給き。
未顕真実者二乗の為也と云はば、最も理を得たり。其故は如来布教之元旨は元より二乗の為也。一代の化儀、三周の善巧、併ら二乗を正意とし給へり。
されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも、二乗は仏になるべからずと嫌ひ、方等には高峰に蓮の生ざるやうに、二乗は仏の種をいり(焦)たりと云はれ、
般若には五逆罪の者は仏になるべし、二乗は叶べからずと捨らる。かゝるあさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし、法華経の規模とす。
依之天台云華厳大品不能治之唯有法華能令無学還生善根得成仏道所以称妙。又闡提有心猶可作仏。二乗滅智心不可生。法華能治。復称為妙[云云]。此文の心は、委く申に及ばず。
誠に知ぬ、華厳・方等・大品等の法薬も、二乗の重病をばいやさず。又三悪道の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども、二乗をばゆるさず。
依之妙楽大師は余趣会実諸経或有二乗全無。故合菩薩対於二乗従難而説と釈し給へり。しかのみならず、二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕すと天台は判じ給へり。
修羅が大海を渡らんをば、是難しとやせん。嬰児の力士を投ん、何ぞたやすしとせん。然則仏性の種ある者は仏になるべしと爾前に説ども、未だ焦種の者作仏すべしとは不説。
かゝる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬也。只須く汝仏にならんと思はば、慢のはたほこ(幢)をたをし、忿りの杖をすてゝ、偏に一乗に帰すべし。
名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだし(紲)也。鳴乎、恥べし恥べし、恐べし恐べし。
問云、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいわれを聞に耳目始て明也。但し法華経をばいかやうに心得候てか、速に菩提の岸に到るべきや。
伝聞く、一念三千の大虚には慧日くもる事なく、一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ、其修行に堪たる機にて候なれ。然に南都の修学に臂をくたす事なかりしかば、瑜伽・唯識にもくらし。
北嶺の学文に眼をさらさざりしかば、止観・玄義にも迷へり。天台・法相の両宗はほとぎ(瓮)を蒙て壁に向へるが如し。されば法華の機には既にもれて候にこそ、何んがし候べき。
答云、利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云て、無智の人を妨るは当世の学者の所行也。是還て愚癡邪見の至也。
一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要也。されば経には浄心信敬不生疑惑者不堕地獄餓鬼畜生生十方仏前と説給へり。いかにも信じて次の生の仏前を期すべき也。
譬ば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして、此縄にとりつかば我れ岸の上に引登さんと云はんに、引人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納て是をとらざらんが如し。争か岸の上に登る事をうべき。
若其詞に随ひて、手をのべ是をとらへば即登る事をうべし。唯我一人能為救護の仏の御力を疑ひ、以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。
菩提の岸に登る事難かるべし。不信の者は堕在泥梨の根元也。されば経には生疑不信者則当堕悪道と説れたり。受がたき人身をうけ、値がたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ。
同く信を取ならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。持つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能持つ人も亦諸人にまされり。
爰を以て経云能持是経者於一切衆生中亦為第一と説給へり。大聖の金言疑ひなし。然に人此理をしらず見ずして、名聞狐疑偏執を致せるは堕獄の基也。
只願は経を持ち、名を十方の仏陀の願海に流し、誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。然ば法華経を持ち奉る人は、天龍八部諸大菩薩を以て我眷属とする者也。
しかのみならず、因身の肉団に果満の仏眼を備へ、有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば、三途に恐れなく、八難に憚りなし。七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ、無垢地の園に花開け、法性の空に月明ならん。
是人於仏道決定無有疑の文憑あり。唯我一人能為救護の説疑ひなし。一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり。
頓証菩提の教は遥に群典に秀で、顕本遠寿の説は永く諸乗に絶たり。爰を以て八歳の龍女は大海より来て経力を刹那に示し、本化の上行は大地より涌出して仏寿を久遠に顕す。言語道断の経王、心行所滅の妙法也。
然に此理をいるかせにして、余経にひとし(等)むるは、謗法の至り、大罪の至極也。譬を取に物なし。仏の神変にても何ぞ是を説尽さん。菩薩の智力にても争か是を量るべき。
されば譬諭品云若説其罪窮劫不尽と云へり。文の心は、法華経を一度もそむける人の罪をば、劫を窮むとも説尽し難しと見えたり。
然間、三世の諸仏の化導にももれ、恒沙の如来の法門にも捨られ、冥きより冥きに入て、阿鼻大城の苦患争か免れん。誰か心あらん人、長劫の悲みを恐れざらんや。
爰を以て経云見有読誦書持経者軽賤憎嫉而懐結恨其人命終入阿鼻獄[云云]。文の心は、法華経をよみたもたん者を見て、かろしめ、いやしみ、にくみ、そねみ、うらみをむすばん。
其人は命をはりて阿鼻大城に入んと云へり。大聖の金言誰か是を恐れざらんや。正直捨方便の明文、豈是を疑べきや。然に人皆経文に背き、世悉く法理に迷へり。汝何悪友の教へに随はんや。
されば邪師の法を信じ受る者を、名て毒を飲者也と天台は釈し給へり。汝能是を慎むべし、是を慎むべし。倩世間を見に法をば貴しと申せども、其人をば万人是を悪む。汝能々法の源に迷へり。
何にと云に、一切の草木は地より出生せり。是を以て思に、一切の仏法も又人によりて弘まるべし。依之、天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす。末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんや、とこそ釈して御坐候へ。
されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随て第一なるべし。然則其人を毀は其法を毀る也。其子を賤むるは即其親を賤しむ也。爰に知ぬ、当世の人は詞と心と総てあはず、孝経を以て其親を打が如し。豈冥の照覧恥しからざらんや。
地獄の苦み恐べし恐べし。慎むべし慎むべし。上根に望めても卑下すべからず。下根を捨ざるは本懐也。下根に望めても慢ならざれ。上根ももるゝ事あり、心をいたさざるが故に。
凡其里ゆかしけれども道たえ縁なきには、通ふ心もをろそかに、其人恋しけれども憑めず契らぬには、待思もなをざりなるやうに、彼月卿雲客に勝れたる霊山浄土の行やすきにも未だゆかず。
我即是父の柔軟の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず。是誠に袂をくた(腐)し、胸をこがす歎ならざらんや。暮行空の雲の色、有明方の月の光までも心をもよほす思也。
事にふれ、をりに付ても後生を心にかけ、花の春、雪の朝も是を思ひ、風さはぎ、村雲まよふ夕にも忘るゝ隙なかれ。
出る息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、毎自作是念の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是期する処の余命にはあらざるをや。
総て過にし方をかぞへて、年の積るをば知といへども、今行末にをいて、一日片時も誰か命の数に入べき。臨終已に今にありとは知ながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。
さこそは皆成仏道の御法とは云ながら、此人争か仏道にものうからざるべき。色なき人の袖にはそぞろに月のやどる事かは。又命已に一念にすぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説給へり。
若是二念三念を期すと云はば、平等大慧の本誓、頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず。流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をも納たり。
故に頓証菩提の心におきてられて、狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ。生涯幾くならず。思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽み也。只先世の業因に任て営むべし。
世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。雲とやなり、雨とやなりけん、昔の人は只名をのみきく。露とや消え、煙とや登けん、今の友も又みえず。我れいつまでか三笠の雲と思ふべき。
春の花の風に随ひ、秋の紅葉の時雨に染る。是皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には世皆不牢固如水沫泡焔とすゝめたり。
以何令衆生得入無上道の御心のそこ、順縁逆縁の御ことのは、已に本懐なれば、暫も持つ者も又本意にかないぬ。又本意に叶はば仏の恩を報ずる也。
悲母深重の経文心安ければ、唯我一人の御苦みもかつかつ(僅僅)やすみ給らん。釈迦一仏の悦び給のみならず、諸仏出世の本懐なれば、十方三世の諸仏も悦び給べし。
我即歓喜諸仏亦然と説れたれば、仏悦び給のみならず、神も即随喜し給なるべし。伝教大師是を講じ給しかば、八幡大菩薩は紫の袈裟を布施し、空也上人是を読給しかば、松尾大明神寒風をふせがせ給。
されば七難即滅七福即生と祈んにも此御経第一也。現世安穏と見えたれば也。他国侵逼難・自界叛逆難の御祈祷にも、此妙典に過たるはなし。令百由旬内無諸衰患と説れたれば也。
然に当世の御祈祷はさかさま也。先代流布の権教也。末代流布の最上真実の秘法にあらざる也。譬ば去年の暦を用ゐ、烏を鵜につかはんが如し。是偏に権教の邪師を貴て、未だ実教の明師に値せ給はざる故也。
惜哉、文武の卞和があら玉、何くにか納めけん。嬉哉、釈尊出世の髻中の明珠、今度我身に得たる事よ。十方諸仏の証誠としているがせならず。
さこそは一切世間多怨難信と知りながら、争か一分の疑心を残して、決定無有疑の仏にならざらんや。過去遠々の苦みは、徒にのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。
未来永々の楽みはかつかつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。三界無安猶如火宅は如来の教へ、所以諸法如幻如化は菩薩の詞也。寂光の都ならずは、何くも皆苦なるべし。
本覚の栖を離て何事か楽みなるべき。願は現世安穏後生善処の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。
須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経   日蓮  花押