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四恩鈔伊豆御勘氣鈔

第一巻 定本番号 28 弘長2(1262) 分類: その他

祖寿: 41 対告衆: 工藤 著作地: 伊豆 伊東 

    28  四恩鈔
抑此流罪の身になりて候につけて二の大事あり。一には大なる悦あり。其故は、此世界をば娑婆と名く、娑婆と申は忍と申事也。故に仏をば能忍と名けたてまつる。
此娑婆世界の内に百億の須弥山、百億の日月、百億の四州あり。其中の中央の須弥山日月四州に仏は世に出てまします。
此日本国は其仏の世に出てまします国よりは丑寅の角にあたりたる小島也。此娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば、人の心もやはらかに、賢聖をのり悪む事も候はず。
此国土は、十方の浄土にすてはて(果)られて候十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が、三悪道に堕て無量劫を経て、還て此世界に生て候が、
先生の悪業の習気失せずして、やゝもすれば十悪五逆を作り、賢聖をのり、父母に孝せず、沙門をも敬はず候也。
故に釈迦如来世に出てましませしかば、或は毒薬を食に雑て奉り、或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉んとし、或は女人を犯すと云、或は卑賤の者、
或は殺生の者と云、或は行合奉る時は面を覆て眼に見奉らじとし、或は戸を閉窓を塞ぎ、或は国王大臣の諸人に向ては邪見の者也、高人を罵者なんど申せし也。大集経・涅槃経等に見えたり。
させる失も仏にはおはしまさざりしかども、只此国のくせかたわとして、悪業の衆生が生れ集て候上、第六天の魔王が此国の衆生を他の浄土へ出さじと、たばかりを成て、かく事にふれてひがめる事をなす也。
此たばかりも詮する所は、仏に法華経を説せまいらせじ料と見えて候。其故は魔王の習として、三悪道の業を作る者をば悦び、三善道の業を作る者をばなげく。
又、三善道の業を作る者をばいたう(甚)なげかず、三乗とならんとする者をばいたうなげく。又、三乗となる者をばいたうなげかず、仏となる業をなす者をば強になげき、事にふれて障をなす。
法華経は一文一句なれども、耳にふるゝ者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思故に、方便をまはして留難をなし、経を信ずる心をすてしめんとたばかる。
而に仏の在世の時は濁世也といへども、五濁の始たりし上、仏の御力をも恐れ、人の貪瞋痴邪見も強盛ならざりし時だにも、竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、
阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立き。
何況世漸く五濁の盛になりて候をや。況世末代に入て法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそねみねたまれん事はおびただしかるべきか。
故に法華経云如来現在猶多怨嫉況滅度後[云云]。始に此文を見候し時はさしもやと思候しに、今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと、殊に身に当て思ひ知れて候へ。
日蓮は身に戒行なく心に三毒を離ざれども、此御経を若や我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思て、随分世間の事おだやかならんと思き。
世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧もさてこそ候か。
日蓮はさせる(爾)妻子をも帯せず魚鳥をも服せず。只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満、螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり。
恐は在世に釈尊を諸の外道が毀り奉しに似たり。是偏に法華経を信ずる事の、余人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、
悪鬼其身に入てそねみをなすかとをぼえ候へば、是程の卑賤無智無戒の者の、二千余年已前に説れて候法華経の文にのせられて、留難に値べしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ申尽難く候。
此身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなる也。法華経を殊に信じまいらせ候し事はわづかに此六七年よりこのかた也。
又信じて候しかども懈怠の身たる上、或は学文と云ひ、或は世間の事にさえ(障)られて、一日にわづかに一巻一品題目計也。
去年の五月十二日より今年正月十六日に至まで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉と存候。其故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読行ずるにてこそ候へ。
人間に生を受て是程の悦は何事か候べき。凡夫の習我とはげみて菩提心を発して、後生を願といへども、自思ひ出し十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。
是は思ひ出さぬにも御経をよみ、読ざるにも法華経を行ずるにて候か。無量劫の間、六道四生を輪回し候けるには或は謀叛をおこし強盗夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪死罪にも行はれ候らめ。
是は法華経を弘るかと思心の強盛なりしに依て、悪業の衆生に讒言せられて、かゝる身になりて候へば、定て後生の勤にはなりなんと覚候。
是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有がたくこそ候らめ。
又止事なくめでたき事侍り。無量劫の間六道に回り候けるには、多の国主に生れ値ひ奉て、或は寵愛の大臣関白等ともなり候けん。若爾者国を給り、財宝官禄の恩を蒙けるか。
法華経流布の国主に値ひ奉り、其国にて法華経の御名を聞て修行し、是を行じて讒言を蒙り、流罪に行れまいらせて候国主には未だ値まいらせ候はぬ歟。
法華経云是法華経於無量国中乃至名字不可得聞。何況得見受持読誦[云云]。されば此讒言の人、国主こそ我身には恩深き人にはをわしまし候らめ。仏法を習身には必四恩を報ずべきに候か。
四恩者、心地観経云、一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し。又悪人無して菩薩に留難をなさずば、いかでか功徳をば増長せしめ候べき。
二には父母の恩、六道に生を受るに必父母あり。其中に或は殺盜・悪律儀・謗法の家に生れぬれば、我と其科を犯さざれども其業を成就す。
然に今生の父母は我を生て法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生て、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母歟。
三には国王の恩、天の三光に身をあたゝめ、地の五穀に神を養ふこと皆是国王の恩也。其上、今度法華経を信じ、今度生死を離るべき国主に値奉れり。争か少分の怨に依ておろかに思ひ奉るべきや。
四には三宝の恩、釈迦如来無量劫の間、菩薩の行を立給し時、一切の福徳を集て六十四分と成て功徳を身に得給へり。其一分をば我身に用ひ給ふ。
今六十三分をば此世界に留置て、五濁雑乱の時、非法盛ならん時、謗法の者国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光勢力減ぜん時、
日月光を失ひ天龍雨をくださず地神地味を減ぜん時、草木根茎枝葉華菓薬等の七味も失ん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母六親に孝せずしたしからざらん時、
我弟子、無智無戒にして髪ばかりを剃て守護神にも捨られて、活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のさゝへとせんと誓ひ給へり。
又果地の三分の功徳二分をば我身に用ひ給ひ、仏の寿命百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留置て我等に与へ給ふ恩をば、
四大海の水を硯の水とし、一切の草木を焼て墨となして、一切のけだものゝ毛を筆とし、十方世界の大地を紙と定て註し置とも、争か仏の恩を報じ奉べき。
法の恩を申さば法は諸仏の師也。諸仏の貴き事は法に依る。されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし。
次に僧の恩をいはゞ仏宝法宝は必僧によて住す。譬ば薪なければ火無く、大地無れば草木生ずべからず。仏法有といへども僧有て習伝へずんば、正法像法二千年過て末法へも伝はるべからず。
故に大集経云、五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云て、是を悩すは、此人仏法の大燈明を滅せんと思と説れたり。然ば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報し給べし。
古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我身を鬼のうちかひ(打飼)となし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨給き。然に末代の凡夫、三宝の恩を蒙て三宝の恩を報ぜず。
いかにしてか仏道を成ぜん。然に心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受ん人は必四恩を報ずべしと見えたり。某は愚癡の凡夫血肉の身也。三惑一分も断ぜず。
只法華経の故に罵詈毀謗せられて、刀杖を加られ、流罪せられたるを以て、大聖の臂を焼き、髄をくだき、頭をはねられたるになぞら(擬)へんと思ふ。是一の悦也。
第二に大なる歎と申は、法華経第四云若有悪人以不善心於一劫中現於仏前常毀罵仏其罪尚軽。若人以一悪言毀呰在家出家読誦法華経者其罪甚重等[云云]。
此等の経文を見に、信心を起し、身より汗を流し、両眼より涙を流す事雨の如し。我一人此国に生れて多の人をして一生の業を造らしむる事を歎く。
彼不軽菩薩を打擲せし人、現身に改悔の心を起せしだにも、猶罪消難くして千劫阿鼻地獄に堕ぬ。今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず。
是体の人の受る業報を大集経に説て云、若人あて千万億の仏の所にして仏身より血を出さん。意に於て如何。此人の罪をうる事寧多しとせんや否。
大梵王言さく、若人只一仏の身より血を出さん、無間の罪尚多し。無量にして算をおきても数をしらず、阿鼻大地獄の中に堕ん。何況万億の仏身より血を出さん者を見んをや。
終によく広く彼人の罪業果報を説事ある事なからん。但し如来をば除き奉る。仏の言はく、大梵王若し我が為に髪をそり、袈裟をかけ、片時も禁戒をうけず、
欠犯をうけん者を、なやまし、のり、杖をもて打なんどする事有ば、罪をうる事彼よりは多し。  弘長二年〔壬戍〕正月十六日  日蓮 花押  工藤左近尉殿