唱法華題目鈔
23 唱法華題目鈔
有人予に問云、世間之道俗させる法華経の文義を弁へずとも、一部・一巻・四要品・自我偈・一句等を受持し、或は自もよみかき、若は人をしてもよみかゝせ、
或は我とよみかゝざれども、経に奉向合掌礼拝をなし、香華を供養し、或は如上行ずる事なき人も、他の行ずるを見てわづかに随喜の心ををこし、国中に此経の弘れる事を悦ばん。
是体の僅の事によりて世間の罪にも引れず、彼功徳に引れて、小乗の初果の聖人の度度人天に生れて而も悪道に堕ざるがごとく、常に人天の生をうけ、
終に法華経を得心るものと成て、十方浄土にも往生し、又於此土即身成仏する事有べきや。委細に聞之。
答云、させる文義を弁たる身にはあらざれども、法華経・涅槃経並に天台・妙楽の釈の心をもて推し量るに、かりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人は、余の悪にひかれて悪道に堕べしとはおぼえず。
但し悪知識と申てわづかに権教を知れる人、智者の由をして、法華経を我等が機に難叶由を和げ申さんを誠と思て、法華経を随喜せし心を打捨て、余教へうつりはてゝ、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕べき事も有なん。
付仰疑はしき事侍り。実にてや侍るらん。法華経に説れて候とて智者の語せ給しは、昔三千塵点劫の当初、大通智勝仏と申仏います。其仏の凡夫にていましける時、十六人の王子をはします。
彼父の王仏にならせ給ひて、一代聖教を説給き。十六人の王子亦出家して其仏の御弟子とならせ給けり。大通智勝仏法華経を説畢せ給て定に入せ給しかば、十六人の王子の沙弥、其前にしてかはるがはる法華経を講じ給けり。
其所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず。当座に悟をえし人は不退の位に入にき。又法華経をおろか(疎略)に得心結縁の衆もあり。其人人当座中間に不退の位に入らずして、三千塵点劫をへたり。
其間又つぶさに六道四生に輪回し、今日釈迦如来の法華経を説給に不退位に入る。所謂舎利弗・目連・迦葉・阿難等是也。猶猶信心薄者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。
不知、我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。此結縁の衆をば天台・妙楽は名字・観行の位にかなひたる人なりと定給へり。
名字・観行の位は一念三千の義理を弁へ、十法成乗の観を凝し、能能義理を弁たる人也。一念随喜五十展転と申も天台・妙楽の釈のごときは、皆観行五品の初随喜の位と定め給へり。博地の凡夫の事にはあらず。
然に我等は末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知ざらんは、豈無量世界の塵点劫を経ざらんや。是偏に理深解微の故に、教は至て深く、機は実に浅きがいたす処也。
不如只唱弥陀名号順次生往生西方極楽世界永得不退無生忍阿弥陀如来・観音・勢至等法華経説給時聞得悟。
然るに弥陀の本願は有智無智・善人悪人・持戒破戒等をも択ばす、只一念唱れば臨終に必ず弥陀如来本願の故に来迎し給ふ。
是を以て思に、此土にして法華経の結縁を捨て、浄土に往生せんとをもふは、億千世界の塵点を経ずして、疾法華経を悟がため也。
法華経の根機にあたはざる人の、此穢土にて法華経にいとまをいれて、一向に念仏を申さざるは、法華経の証は難取、極楽の業は不定、中間になりて、中中法華経をおろそかにする人にてやおはしますらん、と申侍るは如何に。
其上只今承候へば、僅に法華経の結縁計ならば、三悪道に堕ざる計にてこそ候へ、六道の生死を出るにはあらず。
念仏の法門はなにと義理を知ざれども、弥陀名号を奉唱、浄土に往生する由を申は、遥に法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞え侍れ。
答云、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍なれば、さこそと存じ候へども、但し若し御物語のごとく侍らば、すこし不審なる事侍り。
大通結縁の者をあらあらうち(打)あてがい申には、名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しく名字即の位の者と定られ侍る上、退大取小の者とて法華経をすてゝ権教にうつり、後には悪道に堕たりと見たる上、正しく法華経を誹謗して捨之者也。
設義理を知るやうなる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。
五十展転一念随喜の人人を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我等が随喜等は彼随喜の中には不可入仰せ候か。
是を天台・妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるゝほどにては、又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。所詮仰の御義を委く案ずれば、をそれにては候へども、謗法の一分にやあらんずらん。
其故は法華経を我等末代の機に難叶由を仰候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて無詮事也と仰らるゝにや。
若しさやうに侍らば、末代の一切衆生の中に此御詞を聞て、既に法華経を信ずる者も打捨て、未行者も行ぜんと思べからず。随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん。
若謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給とも、御往生は不定にこそ侍らんずらめ。又弥陀の名号を唱へ、極楽世界に往生をとぐべきよしを仰られ侍るは、何なる経論を証拠として此心はつき給けるやらん。
正くつよき証文候か。若なくば其義たのもしからず。前に申候つるがごとく、法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕べからず候。六道を出る事は一分のさとりなからん人は難有侍るか。
但し悪知識に値て法華経随喜の心を云やぶられて候はんは力不及歟。又付仰驚覚侍り、其故は法華経は末代の凡夫の機に難叶由を智者申されしかば、さか(左歟)と思侍る処に、
只今の仰の如ならば、弥陀の名号を唱とも、法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂ざる上、悪道に堕べきよし承るは、ゆゝしき大事にこそ侍れ。
抑大通結縁の者は謗法の故に回六道又名字即の浅位の者也。又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申釈は、何の処に候やらん。委く承り候はばや。
又義理をも不知者僅に法華経を信じ侍るが、悪知識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の、世間の悪業に引れては悪道に堕べからざる由、申さるゝは証拠あるか。
又無智の者の念仏申て往生すると何に見えてあるやらんと申給こそ、よ(世)に事あたらしく侍れ。双観経等の浄土の三部経・善導和尚等の経釈に明に見えて侍らん上は、なにとか疑給べき。
答曰大通結縁の者を退大取小の謗法、名字即の者と申は私の義にあらず。天台大師文句第三巻云聞法未度而世世相値于今有住声聞地者。即彼時結縁衆。と釈し給て侍るを、
妙楽大師疏記第三に重て此釈の心を述給て云、但未入品倶名結縁故文。文の心は大通結縁の者は名字即の者となり。
又天台大師玄義第六に大通結縁の者を釈して云若信若謗因倒因起。如喜根雖謗後要得度文。文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す。
五十展転の人は五品の初の初随喜の位と申釈もあり。又初随喜の位の先の名字即と申釈もあり。
疏記第十云初法会聞。容是初品。第五十人必在随喜位初人也文。文の心は初会聞法の人は必初随喜の位の内、第五十人は初随喜の位の先の名字即と申釈なり。
其上五種法師にも受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は無解者也。解説は化他後の五人は有解人と証し給へり。疏記第十に五種法師を釈するには、或全未入品。
又云一向未入凡位文。文の心は五種法師は観行五品と釈すれども、又五品已前の名字即の位とも釈する也。
此等の釈の如んば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の一偈一句一念随喜の者、五十展転等の内に入かと覚え候。何に況や此経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬諭品に委くとかれたり。
持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。此経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申は違背の義也。随喜と申は随順の義也。
させる義理を不知、一念も貴き由申は違背・随順の中には何れにか取られ候べき。又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は経文には載られざるか如何。
其上天台・妙楽の釈の心は、他の人師ありて法華経の乃至童子戯、一偈一句・五十展転の者を、爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば定謗法者給へり。
然るに我釈を作る時、機を高く取て、末代造悪の凡夫を迷はし給はんは、自語相違にあらずや。
故に妙楽大師、五十展転の人を釈して云恐人謬解者不測初心功徳之大而推功上位蔑此初心故今示彼行浅功深以顕経力文。文の心は謬法華経を説ん人の、此経は利智精進上根上智の人のためといはん事を、
仏をそれて、下根下智末代の無智の者の、わづかに浅き随喜の功徳を、四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕さんとして、五十展転の随喜は説れたり。
故に天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくらべ来て、法華経の最下の功徳が勝たる由を釈せり。所以に阿竭多仙人は十二年が間、恒河の水を耳に留め、耆兎仙人は一日の中に、大海の水をすいほす。
如此得通の仙人は、小乗阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗目連等は、華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき一偈一句の凡夫には百千万倍劣れり。
華厳・方等・般若経を習極たる等覚の大菩薩は、法華経を僅に結縁をなせる未断三惑無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由、釈の文顕然也。
而を当世の念仏宗等の人、我身の権教の機にて実経を信ぜざる者は、方等・般若の時の二乗のごとく、自身をはぢ(恥)しめてあるべき処に敢て其義なし。
あまさへ世間の道俗の中に、僅に観音品・自我偈なんどを読み、適父母孝養なんどのために一日経等を書事あれば、いゐさまたげて云、善導和尚は念仏に法華経をまじうるを雑行と申、百の時は希に一二を得、千の時は希に三五を得ん。
乃至千中無一と仰られたり。何況や智恵第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば、祖父の履、或は群賊等にたとへられたりなんどいゐうとめ侍るは、如是申師も弟子も阿鼻の焔をや招かんずらんと申。
問云、何なるすがた並に語を以てか法華経を世間にいゐうとむる者には侍るや。よにおそろしくこそおぼえ候へ。
答云、始に智者の申され候と御物語候つるこそ、法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ。末代に法華経を失べき者は、心には一代聖教を知たりと思て而も心には権実二経を弁へず。
身には三衣一鉢を帯し、或は阿練若に身をかくし、或は世間の人にいみじき智者と思はれて、而も法華経をよくよく知由を人に知られなんどして、世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴れて、法華経を失べしと見えて候。
問云其証拠如何。答云法華経勧持品云有諸無智人悪口罵詈等及加刀杖者我等皆当忍文。妙楽大師此文の心を釈して云初一行通明邪人。即俗衆也文。
文の心は此一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり。経云悪世中比丘邪智心諂曲未得謂為得我慢心充満文。妙楽大師此文の心を釈して云次一行明道門増上慢文。
文の心は悪世末法の権教の諸の比丘、我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものゝ敵となるべしといふ事也。
経云或有阿練若納衣在空閑自謂行真道軽賤人間者。貪著利養故与白衣説法為世所恭敬如六通羅漢。是人懐悪心常念世俗事仮名阿練若好出我等過。而作如是言此諸比丘等為貪利養故説外道論議
自作此経典誑惑世間人為求名聞故分別説是経。常在大衆中欲毀我等故向国王・大臣・婆羅門・居士及余比丘衆誹謗説我悪謂是邪見人説外道論議〔已上〕。大師此文を釈して云三七行明僣聖増上慢者文。
経並に釈の心は、悪世の中に多の比丘有て、身には三衣一鉢を帯し、阿練若に居して行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく、在家の諸人にあふがれて、一言を吐ば如来の金言のごとくをもはれて、
法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために、国王大臣等に向ひ奉て、此人は邪見の者也、法門は邪法也、なんどいゐうとむるなり。上の三人の中に、第一の俗衆の毀よりも、第二の邪智の比丘の毀は猶しのびがたし。
又第二の比丘よりも、第三の大衣の阿練若の僧は甚し。此三人は、当世の権教を手本とする文字の法師、並に諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師、並に彼等を信ずる在俗等
四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁へざる故に、華厳・方等・般若等の心仏衆生、即心是仏、即往十方西方等の文と、法華経の諸法実相、即往十方西方の文と語の同を以て義理のかはれるを不知、
或は諸経の言語道断、心行所滅の文を見て一代聖教には如来の実事をば宣られざりけりなんどの邪念をおこす。故に悪鬼、此三人に入て末代の諸人を損じ国土をも破也。
故に経文に云濁劫悪世中多有諸恐怖悪鬼入其身罵詈毀辱我乃至不知仏方便随宜所説法文。文の心は濁悪世の時、比丘、我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして、権実を弁へたる人出来すれば、罵り破しなんどすべし。
是偏に悪鬼の身に入たるをしらずと云なり。されば末代の愚人の恐るべき事は、刀杖・虎狼・十悪・五逆等よりも、三衣一鉢を帯せる暗禅の比丘と並に権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等也。
故に涅槃経二十二云於悪象等心無恐怖。於悪知識生怖畏心。何以故。是悪象等唯能壊身不能壊心。悪知識者二倶壊故。乃至為悪象殺不至三趣。為悪友殺必至三趣文。
此文の心を章安大師宣云諸悪象等但是悪縁不能生人悪心。悪知識者甘談詐媚巧言令色牽人作悪。以作悪故破人善心。名之為殺。即堕地獄文。
文の心は、悪知識と申は甘くかたらひ詐り媚言巧にして愚癡の人の心を取て善心を破るといふ事也。
総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提のものをおそるべしと誡めたり。闡提の人と申は法華経・涅槃経を云うとむる者と見えたり。
当世の念仏者等、法華経を知極めたる由をいふに、因縁譬喩をもて釈し、よくよく知由を人にしられて、然後には此経のいみじき故に末代の機のおろかなる者不及由をのべ、強き弓重き鎧、
かひなき人の用にたゝざる由を申せば、無智の道俗さもと思て実には叶まじき権教に心を移して、僅に法華経に結縁しぬるをも翻し、又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に、師弟倶に謗法者となる。
依之謗法の衆生、国中に充満して適仏事をいとなみ法華経を供養し追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来て、法華経は末代の機に難叶由を示す。
故に施主も其説を実と信じてある間、被訪過去の父母・夫婦・兄弟等は弥増地獄苦孝子は不孝・謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる。日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て不行仏法。
適知仏法智者は、国の人に捨られ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ、利生を止、此国をすて他方に去給、悪鬼は得便国中に入替、大地を動し悪風を与し、一天を悩し五穀を損ず。
故に飢渇出来し、人の五根には鬼神入て精気を奪ふ。是名疫病。一切の諸人無善心多分は堕悪道ひとへに悪知識の教を信ずる故なり。
仁王経云諸悪比丘多求名利於国王・太子・王子前自説破仏法因縁・破国因縁。其王不別信聴此語横作法制不依仏戒是為破仏・破国因縁文。
文の心は末法の諸の悪比丘、国王・大臣の御前にして、国を安穏ならしむる様にして終に国を損じ、仏法を弘むる様にして還て仏法を失べし。
国王・大臣、此由を深く知食さずして、此言を信受する故に、破国失仏教云文也。此時日月失度、時節もたがひて、夏はさむく、冬はあたゝかに、秋は悪風吹き、赤き日月出で、望朔にあらずして日月蝕し、或は二三等の日出来せん。
大火・大風・彗星等をこり、飢饉・疫病等あらんと見えたり。国を損じ人を悪道におとす者は悪知識に過たる事なきか。
問云始に智者の御物語とて申つるは、所詮後世の事の疑しき故に善悪を申て承らんため也。彼義等は恐しき事にあるにこそ侍るなれ。
一文不通の我等が如なる者はいかにしてか法華経に信をとり候べき。又心ねをば何様に思定め侍らん。
答云、此身の申事をも一定とおぼしめさるまじきにや。其故はかやうに申も天魔破旬悪鬼等の身に入て人の善法門を破りやすらんとおぼしめされ候はん。一切は賢きが智者にて侍るにや。
問云、若かやうに疑候はば我身は愚者にて侍り、万の智者の御語をば疑、さて信ずる方も無して空く一期過し侍るべきにや。
答云、仏の遺言に依法不依人と説せ給て候へば、経の如に説ざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か。
又依了義経不依不了義経と説れて候へば、愚癡の身にして一代聖教の前後浅深を不弁程は了義経に付せ給候へ。了義経・不了義経も多く候。
阿含小乗経は不了義経、華厳方等般若浄土の観経等は了義経。又四十余年の諸経を対法華経不了義経、法華経は了義経。涅槃経を対法華経、法華経は了義経、涅槃経は不了義経。
大日経を対法華経、大日経は不了義経、法華経は了義経也。故に四十余年の諸経並に涅槃経を打捨させ給て、法華経を師匠と御憑候へ。法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ。
諸経をば関白・大臣・公卿・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし。我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人、
父母は他人よりも子をあはれむ者、日月は衆星より照暗者、法華経は機に不叶況や余経は助け難しとおぼしめせ。又釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母。
此仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみ、とどまれりとおぼしめせ。諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未説顕おぼしめせ。法華経の一切経に勝候故は但此事に侍り。
而を当世の学者、法華経をば一切経に勝たりと讃て、而も末代の機に不叶申を、皆信ずる事、豈謗法の人に侍らずや。只一口におぼしめし切せ給候へ。
所詮、法華経の文字を破りさきなんどせんには法華経の心やぶるべからず。又世間の悪業に対して云うとむるとも、人人用べからず。只相似たる権経の義理を以て云うとむるにこそ、人はたぼらかさるれとおぼしめすべし。
問云或智者の申され候しは、四十余年の諸経と八箇年の法華経とは、成仏の方こそ爾前は難行道、法華経は易行道にて候へ。往生の方にては同事にして易行道に侍り。
法華経を書読ても十方の浄土阿弥陀仏の国へも生るべし。観行等の諸経に付て弥陀の名号を唱ん人も往生を遂べし。只機縁の有無に随て何をも諍ふべからず。
但し弥陀の名号は人ごとに行し易しと思て、日本国中に行じつけたる事なれば、法華経等の余行よりも易きにこそと申されしは如何。
答云、仰の法門はさも侍るらん。又世間の人も多くは道理と思たりげに侍り。但身には此義に不審あり。其故は前に申せしが如く、末代の凡夫は智者と云ともたのみなし、世こぞりて上代の智者には及べからざるが故に。
愚者と申ともいやしむべからず、経論の証文顕然ならんには。抑無量義経は法華経を説が為の序分也。然に始め寂滅道場より今の常在霊山の無量義経に至まで、其年月日数を委く計へ挙れば四十余年也。
其間の所説の経を挙るに華厳・阿含・方等・般若也。所談の法門は三乗五乗所習の法門也。
定修行時節宣説菩薩歴劫修行と云ひ、分随自意・随他意是を随他意と宣べ、四十余年の諸経と八箇年の所説との語同く義替れる事を定には、文辞雖一而義各異ととけり。成仏の方は別にして、往生の方は一なるべしともおぼえず。
華厳・方等・般若・究竟最上の大乗経、頓悟・漸悟の法門、皆未顕真実と説たり。此大部の諸経すら未顕真実なり。何況や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや。
其上経経ばかりを出すのみにあらず、既に年月日数を出すをや。然者、華厳・方等・般若等の弥陀往生已に未顕真実なる事無疑。観行の弥陀往生に限て豈多留難故の内に入ざらんや。
若随自意の法華経の往生極楽を随他意の観行の往生極楽に同じて易行道と定て、而も易行の中に取ても猶観行の念仏往生は易行也と被立之、
権実雑乱の失大謗法たる上、一滴の水漸漸に流て大海となり、一塵積て須弥山となるが如く、漸く権経の人も実経にすゝまず、実経の人も権経におち、権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留り、
国中に王なきが如く、人の神を失るが如く、法華真言の諸の山寺荒て、諸天善神龍神等一切の聖人国を捨てゝ去ば、悪鬼便を得て乱入り、悪風吹て五穀も成しめず、疫病流行して人民をや亡さんずらん。
此七八年が前までは諸行は永く往生すべからず、善導和尚の千中無一と定させ給たる上、選択には諸行を抛よ、行ずる者は群賊と見えたり、なんど放語を申立しが、
又此四五年の後は選択集の如く人を勧ん者は、謗法の罪によて師檀共に無間地獄に堕べしと経に見えたりと申法門出来したりげに有しを、始めは念仏者こぞりて不思議の思をなす上、念仏を申者無間地獄に堕べしと申悪人外道あり、
なんどのゝしり候しが、念仏者無間地獄に堕べしと申語に智慧つきて各選択集を委く披見する程にげにも謗法の書とや見なしけん。
千中無一の悪義を留て、諸行往生の由を毎念仏者立之。雖然唯口にのみゆるして、心の中は猶本の千中無一の思也。
在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして、諸行往生の口にばかされて、念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを、法華経を謗ずる由を聖道門の人の申されしは僻事也と思へるにや。
一向諸行は千中無一と申人よりも謗法の心はまさりて候也。失なき由を人に知せて而も念仏計を亦弘めんとたばかるなり。偏に天魔の計ごと也。
問云、天台宗の中の人の立る事あり、天台大師、爾前と法華と相対して爾前を嫌に二義あり。一には約部。四十余年の部と法華経の部と相対して爾前は麁なり、法華は妙なりと立之。
二には約教。教に立麁妙、華厳・方等・般若等の円頓速疾の法門をば妙と歎じ、華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門をば前三教と名て麁也と嫌へり。円頓速疾の方をば不嫌、法華経に同じて一味の法門とせりと申は如何。
答云、此事は不審にもする事侍るらん。可然をぼゆ。天台・妙楽より已来今に有論事に侍り。
天台の三大部六十巻、総じて五大部の章疏の中にも、約教の時は爾前の円を嫌ふ文無し。只約部の時ばかり爾前の円を押ふさね(聚束)て嫌へり。
日本に二義あり。園城寺には智証大師の釈より起て、爾前の円を嫌ふと云、山門には嫌はずと云。互に文釈あり。倶に料簡あり。然ども于今事ゆかず。但し予が流の義には不審晴ておぼえ候。
其故は天台大師、四教を立給に四の筋目あり。一には爾前の経に立四教。二には法華経と爾前と相対して、爾前の円を法華の円に同じて前三教を嫌事あり。
三には爾前の円をば別教に摂して、前三教と嫌ひ、法華の円をば純円と立つ。四には爾前の円をば法華に同ずれども、但法華経の二妙の中の相待妙に同じて絶待妙には不同。此四の道理を相対して六十巻をかんがうれば狐疑の氷解たり。
一一の証文は且は秘し、且は繁き故に不載之。又法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌事不審なき者也。爾前の円をば別教に摂して、約教の時は前三為麁、後一為妙と云也。
此時は爾前の円は無量義経の歴劫修行の内に入ぬ。又伝教大師の註釈の中に、爾前の八教を挙て四十余年未顕真実の内に入れ、或は前三教をば迂回と立、爾前の円をば直道と云、無量義経をば大直道と云。委細に可見。
問云、法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき。答云、第一に本尊は法華経八巻・一巻一品・或は題目を書て本尊と可定法師品並に神力品に見えたり。
又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書ても造ても法華経の左右に可奉立之。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。
行儀は本尊の御前にして必坐立行なるべし。出道場行住坐臥をゑらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱べし。たへたらん人は一偈一句をも可奉読。
助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・龍神・八部等心に随べし。愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず。其志あらん人は必ず習学して可観之。
問云、只題目計を唱る功徳如何。答云、釈迦如来、法華経をとかんとおぼしめして世に出でましましゝかども、四十余年の程は法華経の程は法華経の御名を秘しおぼしめして、御年三十の比より七十余に至まで法華経の方便をまうけ、
七十二にして始て題目を呼出させ給へば、諸経の題目に是を比ぶべからず。其上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。
天台大師玄義十巻を造り給。第一巻には略して妙法蓮華経の五字の意を宣給。第二巻より七巻に至までは又広く妙の一字を宣べ、八巻より九巻に至までは法蓮華の三字を釈し、第十巻には経の一字を宣給へり。
経の一字に華厳阿含方等般若涅槃経を収たり。妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。
止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生三無差別と立給。一切の諸仏・菩薩・十界の因果・十方の草木瓦礫等妙法の二字にあらずと云事なし。
華厳阿含等の四十余年の経経、小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず。又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳をおさめず。又王にては有ども王中の王にて無き経も有り。仏も又経に随て他仏の功徳をおさめず。
平等意趣をもつて他仏自仏とをなじといひ、或は法身平等をもて自仏他仏同じといふ。実には一仏に一切仏の功徳をおさめず。
今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収れり。
故に妙法蓮華経の五字を唱る功徳莫大也。諸仏諸経の題目は法華経の所開也妙法は能開也、としりて法華経の題目を唱べし。
問云此法門を承て又智者に尋申候えば、法華経のいみじき事は左右に及はず候。但し器量ならん人は唯我身計は可然。
末代の凡夫に向て、ただちに機をも不知、爾前の教を云うとめ、法華経を行ぜよと申は、としごろの念仏なんどをば打捨、又法華経には未入功、有にも無にもつかぬやうにてあらんずらん。
又機も不知、法華経を説せ給はば、信ずる者は左右に及ばず。若謗ずる者あらば定て地獄に堕候はんずらん。其上、仏も四十余年の間、法華経を説給はざる事は若但讃仏乗衆生没在苦の故なりと。
在世の機すら猶然なり。何況や末代の凡夫をや。されば譬諭品には仏告舎利弗言無智人中莫説此経[云云]。此等の道理を申すは如何が候べき。
答云、智者の御物語と仰承り候へば、所詮末代の凡夫には機をかがみて説け。左右なく説て人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ。彼人さやうに申され候はば御返事候べきやうは、
抑若但讃仏乗乃至無智人中等の文を出し給はば、又一経の内に凡有所見、我深経汝等等と説て、不軽菩薩の杖木瓦石をもつてうちはられさせ給しをば顧みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。
問云、一経の内に相違の候なる事こそ、よに得心がたく侍れば、くはしく承り候はん。答云、方便品等には機をかがみて此経を説べしと見え、不軽品には謗ずとも唯強て可説之見え侍り。一経の前後水火の如し。
然るを天台大師会云本已有善釈迦以小而将護之本未有善不軽以大而強毒之文文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説べし。
然に其中に猶聞て謗ずべき機あらば、暫く権経をもてこしらへて後に法華経を説べし。
本と大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、なにとなくとも悪道に堕ぬべき故に、但押て説法華経令謗之逆縁ともなせと会する文也。如此釈者、末代には無善者は多く、有善者は少し。
故に堕悪道事無疑。同くは法華経を強て説聞せて毒鼓の縁と可成歟。然れば説法華経可結謗縁時節なる事無諍者をや。又法華経の方便品に五千の上慢あり。
略開三顕一を聞て広開三顕一の時、仏の御力をもて座をたゝしめ給ふ。後に涅槃経並に四依の辺にして今生に悟を得せしめ給と、諸法無行経に喜根菩薩、勝意比丘に向て大乗の法門を強て説ききかせて謗ぜさせしと、
此二の相違をば天台大師会して云如来以悲故発遣喜根以慈故強説文。文の心は、仏は悲の故に、後のたのしみをは閣て、当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲み給て、座をたゝしめ給き。
譬ば母の子に病あると知れども、当時の苦を悲て左右なく灸を加へざるが如し。喜根菩薩は慈の故に、当時の苦をばかへりみず、後の楽を思て、強て令説聞之。
譬ば父は慈の故に子に病あるを見て、当時の苦をかへりみず、後を思ふ故に灸を加るが如し。又仏在世には仏法華経を秘し給しかば、四十余年の間等覚・不退の菩薩、名をしらず。
其上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給て、最後にきかしめ給き。末代の凡夫には左右なく如何きかしむべきとおぼゆる処を、妙楽大師釈云仏世当機故簡、末代結縁故聞と釈し給へり。
文の心は、仏在世には仏一期の間、多の人不退の位にのぼりぬべき故に、法華経の名義を出して謗ぜしめず、機をこしらへて説之。仏滅後には当機衆は少く結縁衆多きが故に、就多分左右なく法華経を説べしと云文也。是体の多の品あり。
又末代の師は多は機を知らず。機を知ざらんには強て但実教を説べき歟。されば天台大師釈云、等是不見但説大無咎文。文の心は機をも不知説大失なしと云文也。又見時機説法する方もあり。
皆国中の諸人権経を信じて実経を謗じ強に不用、弾呵の心をもて可説歟。時に依て用否あるべし。
問云、唐土の人師の中に、一分一向に権大乗に留て実経に入ざる者はいかなる故か候。答云、仏世に出でましまして先四十余年の権大乗小乗の経を説、
後には法華経を説て言く、若以小乗化乃至於一人我則堕慳貪此事為不可文。文の心は、仏但爾前の経許を説て法華経を説給はずば仏慳貪の失ありと説れたり。
後に属累品にいたりて、仏右の御手をのべて三たび諫をなして、三千大千世界の外八方四百万億那由佗の国土の諸菩薩の頂をなでて、未来には必法華経を説べし。
若機たへずば、余の深法の四十余年の経を説て機をこしらへて法華経を説べしと見えたり。後に涅槃経に重て此事を説て、仏滅後に四依の菩薩ありて説法又法の四依あり。実経をついに不弘、天魔としるべきよしを説れたり。
故に如来の滅後、後の五百年・九百年の間に出給し龍樹菩薩・天親菩薩等、徧く如来の聖教を弘め給に、天親菩薩は先小乗説一切有部の人、倶舎論を造て阿含十二年の経の心を宣て、一向に大乗の義理を明さず。
次に十地論・摂大乗論釈論等を造て四十余年の権大乗の心を宣べ、後に仏性論・法華論等を造りて粗実大乗の義を宣たり。龍樹菩薩亦然也。
天台大師、唐土の人師として一代を分つに大小権実顕然也。余の人師は僅に義理を説ども分明ならず。又証文たしかならず。
但し末の論師並に訳者・唐土の人師の中に大小をば分て、大にをいて権実を不分、或は語には分といへども心は権大乗のをもむきを不出。此等は不退諸菩薩其数如恒沙亦復不能知とおぼえて候也。
疑云、唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身、牙より放光。善導和尚は弥陀の化身、口より仏をいだす。この外の人師、通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多し。なんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや。
答云、阿竭多仙人、外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとゞむ。婆也仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも張階は霧をいだし、鸞巴は雲をはく。
第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説べしと見えたり。通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。
唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに不弘人師は、権経に宿習ありて実経に不入者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。
但法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。 文応元年〔太歳庚申〕五月二十八日 日蓮 花押 於鎌倉名越書畢