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万法一如鈔

第三巻 定本番号 3 分類: その他

   51   万法一如鈔
万法一如に付て反問云抑万法一如者、万法即一一如也と云事歟。将又万法一に帰して如也と云事歟と可尋之。次に万法一如者、法華の万法一如歟。余教の万法一如歟と可問之。付問若万法即一一に如也と云はゞ、さては万法と云法体の教は候など可問。若有と云はゞ、さては如と云者一味不異の義也。何の万法の教有と候哉。全如の義不成と云べし。若又法体教無しと云はば、さては何を以て万法即一一に如也と云はるる哉。又善法も悪法も共に如也と云はゞ、世間の事法も、出世間の理法も皆以て可如。悪法を好行する者を見て何ぞ強に是を禁じ、善法を修する者を見て何ぞ強に是を賞せん耶。何となれば悪も即如也、善も即如なるが故也。如何。縦夜打・殺盗等并に身三・口四・意三等の悪不善の業体を願行ずとも、全制限あるべからず。いかんとなれば、皆万法一如一味不異の法にして、同心性真如の一理ならん上は、随て念仏・戒・真言・坐禅等を無得道無間の業也とも不可斥之。又皆権教是未顕真実の法也不可成仏、法華は即身成仏の道也と教化せんをも不可加疑難。いかんとなれば善しと云も悪しと云も、即皆是一一に万法は一如の法なるが故也と可返詰也。
次に万法は一如に帰して心性真如の法也と云はゞ、付之又可尋様は、夫心性真如と云者、万法の色心共に一の如に帰すれば寂静湛然として無分別無覚了の心也。こゝもとに本付ざる程は有分別有覚了の心也。此有分別有覚了の心を随縁真如と名け、無分別無覚了の心寂静湛然なる所をば不変真如と名る也。譬へば人のねいりたるが然も夢も不見、さればとておどろきたる者にてもなし。さすがにいきたれば其身あたたかにして死せる者には非るが如し。人一生の間ねぶりて為他人何の利益か有ん。又自身ねぶりても一生夢みざらんに何の徳かあらん。自他に付て一分も無利益。万法一如と云て、万法皆無念寂静の不変真如の一理に帰しなば、十界の名言も無らん。仏界の名言も無らん。無分別無覚了にして自他因果共に如になりなば、所期何事の所詮ぞや。偏に是有情の一生のねぶりたらんか。自夢みず眠たれば他人の為にも無用にして所詮もなきが如くならん。無益者一切の万法に於て思量分別せざる也。無分別者仏とも悟とも不云処を云也。諸教の所談の万法一如の法同皆如是。権教の習は随縁真如のあらき浪を静めて、不変真如の静なる水となして、寂静湛然ならんと願し又求也。是を仏とも悟とも云はんと談ずる也。されば随縁真如の穢土をいとひ、不変真如の浄土を願ひ、或は随縁真如の父母果縛の有待の依身を捨てて、不変真如の心性真如の一理にもとづかんと願候也。或は禅宗の者は此不変真如の処にもとづかんと面壁工夫する也。此一理を本来面目とも云ひ、心性の月とも云ひ、未生已前の本法とも云也。されば非有非無。青・黄・赤・白・黒の色にも非ず。長・短・方・円の形にも非ず。不可以言語宣説。不可以心行思度。
只教外別伝不立文字、直指人心見性成仏と云て、我と心性を見あきらめんと云也。修多羅の教は月をさす指の如しと云て諸教の文字を不立。諸経論の文字は皆迷の文字也。今此迷の文字を集て法華等の修多羅の教と云。此迷の修多羅の経論釈を以て迷をさらんや。されば此心根をもて禅の悟の法門の不審をなし大疑を致すとも、豈可得大悟耶と打拂也。然れども断無の見を出ざれば外道の見に同ず。依之当家の法には禅は天魔の法と責る也。一、余教の万法一如と云者上に云が如し。如者一味不異の義也。されば於諸法不立各別名言。依之無十界。十界無れば一界も有んや。一界もなければ汝等が所立当体衆生界豈存せんや。若衆生の我が当体は有と云者さては余の九界も闕る所あるべからず。十界共に候歟。十界共にありと云はば、捨六道何ぞ四道を願はざらん。若捨劣得勝の義あらば、何ぞ四道の中の三道をすてて仏道を願ざらんや。仏道と云は上に所云心性真如の理体也。
次に法華の万法一如を云はば、上に挙る所の万法一如にくらからん者、豈法華真実の万法一如を覚知せんや。さらば是を云べきにあらざれども、予が所存の所及あらあら註之。後見の人不可為嘲哢者也。夫法華の万法一如と云は十界の惣名也。十界の界界に余の九界を具足する也。さらば百界と成る也。此百界ごとに各各十如是を具足する也。さらば百界には千如是也。此千如是を国土世間に一千。五陰世間に一千。衆生世間に一千具足する也。合三千也。されば此百界千如は只我等衆生の一念より起れり。百界千如一念三千の法門是也。依之当知身土一念三千故成道時称此本理一身一念遍於法界とも釈せられたり。[又止観五一念三千作例アリ]此等の万法は一如にして人界の一念においても三千の法を具足し、天界の一念においても三千を具足し、乃至余の地獄界等の界界の一念においても、ことごとく一念三千を具足して無闕減。やがて此界界の一念三千即万法の本法にして、過去の一念三千も、現在の一念三千も、乃至未来の一念三千も全く一味平等にして、異なることなければ如と云也。
如と云者一味不異と釈する是也。此時不変真如とて別に無し。随縁真如の当体即是也。随縁真如とて不変真如の外になし。浪即水、水即浪也。されば昨日の波も今日の波も全異なる浪なし。又明日のなみも以て同波なるべし。此本法随縁のなみは必五塵六欲の風にも不動転。只おのれおのれとして鎮へに三世常住に闕減もなく立波也。されば三世常恒の浪ををさへて不変真如の水とも云ひ、不変真如の水の当体を随縁真如の波とも云也。三世に十界が替る事なくして、常住なれば不変真如と云ひ、三世に動転すれば随縁真如とも名る也。若随縁の波を留て不変真如に帰すと云はば、豈九界本法の当体を捨るにあらずや。若捨ると云はば、是万法一如の謂れ更に闕減して、法華の大旨破壊しなん。何ぞ一如の義成ぜんや。是皆十界は法華本法の当体也。此当体即善悪の根源也。依此本法、九界は本法の悪体也。仏界は本法の善体也。されば我等人界当体において鎮へに九界の心を起すなり。凡仏界の外の本法九界の心をおこすをば、即本法の仏界の心をもて是を教訓する也。教訓せらるれば随之仏界所具九界とも云也。経に断諸法中悪と説れたり。心は如来は九界の中の修悪をば皆断じておかし給はざる也。修と云は面に顕はして九界の悪業を作たるを云也。而れども又一心に具足し給たれば、九界の色身を示現して可得道者には即九界を現して可令得度也。観音菩薩等の種々の示現是也。若如来の身心にをいて一向九界の色心を断じてなしと云はば、何を以か普現色身とて、九界の形状を示現して九界の衆生をば可令済度耶。依之釈云仏本不断性悪法故、若断性悪普現色身従何而立と。心は仏は本より性悪を断じ給ざるが故に、性悪若断ぜば、普現色身とて九界の心と身とをば、何によてか立てんと云文也。若如来の性にも無き九界の色身を示現すと云はば、本無今有の法とて外道の邪見に同ずる也。
総じて爾前権教の習は、十界互具を不云也。此義理を不知也。若覚知せりと云て九界の性相を断ずと云はば、豈有法華所談乎。九界の相性を断ぜずして十界常存と談ずるが故に、是法住法位世間相常住とも説れたり。心は法は法位に住して世間の相も常住にして滅せずと云文也。法の位に住すと説けるは、今の十界互具して闕減なしと覚知する処を住すとは説ける也。此理を不知時は、全く世間相常住の法華受持の人とは云べからざる也。されば草木国土の四季の転変と、一切衆生の生死とは自自の本法の才能也。全く私の生死転変に非ず。さればいとふとも厭はれじ。願とも願はるべからず。自己本法の芸能なれば也。此理を知る時草木国土悉皆成仏とも、一切衆生即身成仏とも云也。此道理に叶ふ時、妙法蓮華経と名る也。即色心の二法是也。色と云は九界の依報也。心と云は仏界正報也。此依正の二法無闕減只我等衆生の一念に具足したりと云処を、万法一如とは云也。努努権教・権門・権宗等の所談の万法一如の法門に同ずべからざる也。穴賢穴賢。
縦爾前権教に真如の理を説と云へども、全法華真実の真如にあらず、其故は教が権にてあれば也。法華真実の真如よりかりそめに所垂影也。而も此たるる所の影を、権機は一眼亀の如くして、眼ひがみて左に有る法華真如の影を右とさとり、右にある法華真如の影を左と知れる也。されば影を影の如く正直に見るならば、其影即本体に帰せん時は、真実真如の理をたやすくさとるべきに、左にも右にも迷たる間、今の大乗真実を聞といへども、本の情量に執着して法華以前の白き物と、法華の白き物と一物也と計する也。一毛を隔、尚大山を隔つと云世間の道理あり。何況右を左と執し、左を右と著せん者をや。以之思之、妙法真実の心性と、余教仮立の心性と是何一理也と云んや。依之天台大師止観五云設厭世者翫下劣乗攀附枝葉。狗狎作務敬為帝釈崇瓦礫是明珠。此黒闇人。豈可論道と釈し給へり。
夫下劣の乗と云は権教・権論・権釈等是也。枝葉也。と云は権教の教主也。瓦礫と云は権教の心性真如一理也。黒闇と云は三悪道異名也[云云]。権教の教主のを敬て実仏と思ひ、権教下劣の乗を信受して道心をおこし、権教所談の心性を瓦礫を崇て是明珠也と思定て、大乗真如の南無妙法蓮華経を機に叶はずと云て、我も不受持、他人にも不持与者、何に大道心をおこして髪を剃り、出家して樹下石上に勤行すと云とも、三悪道無間の黒闇の中に堕落せんずる罪人也と見たり。又本朝大師の釈、守護章下云存法華為権。三世仏怨非汝謂誰哉。又云 会実経文令順権義。如縣額打州牛跡入大海。文の心は、三世諸仏の一大事、出世の本懐、一切衆生皆成仏道の真実の南無妙法蓮華経を権教と下し、下劣の権教三乗の法を真実ぞと得意たらん者は、是皆三世の諸仏の怨敵也。汝より外には諸仏の怨を尋んに誰か別に有んと云へり。乃至縣額牛跡の喩は譲本書。経云 若人不信毀謗此経即断一切世間仏種。乃至其人命終入阿鼻獄。又云 若有於此経生疑不信者即当堕悪道。大聖金言の戒しめ給ける所如斯。汝等何ぞ誠戒を違背して、権教受持の凡夫の浅言を信受して堅固の思をなさんや。つたなしつたなし。
同心性一理の妙法と云ならば、何ぞ同一念をひるがへして諸仏道同の己証、真実の南無妙法蓮華経を信じ奉らざらんや。闇夜に盲目を導師として行者は一歩を去るに即悪道におつ。何況二歩乃至百千万億里を歩行せん事たやすからんや。縦目明なる人なりとも、めくらを導師として闇夜を行者如此。況や盲目の者を導師として、険径におもむかんにをいてをや。目くらを師とせんよりは目あきを師とすべし。又目あきたりとも道を不知目あきを師とせんよりは、能道をあきらかに覚知したらん者を導師とたのむべきをや。小乗二百五十戒等は盲目の如し、三界六道の二十五有の険途をこえざるが故に。方等・般若等の権大乗は目あきの道の善悪通塞をしらざるが如し。縦三界六道を越たりと云とも、真実の越離るる事を不知。まして九界を立越へず。されば大菩薩たりと云とも、権教の大菩薩をば不可願。釈云 故方便極位菩薩猶尚不及第五十人と。仏なりとも権教の極仏をばねがふべからず。大経云 如来非常以有智故と説けり。心は華厳・阿含・方等・般若の極位の大菩薩は、法華経を聴聞して展転したる最後五十人めの人の、あら貴とやと思て余念なく一期有ん者の功徳よりも遥に劣たる事、百分千分百千万億分にわけて其一分の功徳よりも、尚劣れりと説戒られたる文也。仏も有為無常の仏也。常住不滅無作の実仏にあらずと説たり。依之伝教大師の釈云 権教三身未免無常。実教三身倶体倶用。文の心は華厳・阿含・方等・般若の法・報・応の三身如来は未だ無常をまぬがれざる仏也。法華実教の三身こそ、三身即一の無作の如来にてあれ。天台文句に一身即三身名為秘三身即一身名為密とも釈せられ、又仏於三世等有三身於諸経中秘之不伝とも釈せられ畢。
一、華厳経を法華経に勝たりと云者には打返して可問。さては華厳宗にて御座候はば、華厳宗の祖師をば定めて皆御用候らんなど問て、若不及左右と云はば、さてはなど御辺は祖師をば違背せられ候ぞと可責。其故は華厳宗の祖師法蔵法師、天台の義によて華厳義等の二十三巻を造る。又恵苑法師、天台の義を影嚮す、又李通法師、天台の位を判じて華厳の会釈を造ること十四巻也。澄観法師、天台の義理を判じて円満を致す。元暁法師、天台の徳を讃て諸教の時時を証す。此等の祖師の所立の義理を今の華厳宗等の各各は、如形相承して法門を談ぜらるゝ也。此等の祖師、皆天台法華宗の義理の法門を渇仰し、心底に信伏し随従せる者也。何ぞ末流を受伝て今如斯令難乎。先汝師弟敵対の者也。逆路伽耶陀の悪人也。立所に無間地獄に可堕落人也と可責也。次に華厳宗の三界唯一心等の文に付て愚案を廻して云、凡権教は名目計は爾前経に出たりと云へども、其法体は跡をけづてなきものなり。縦一往与へて彼経の得分にて唯一心と談ずとも、既に三界と云は欲界・色界・無色界是也。知ぬ、界内下界の唯一心也と云事を。未越三界流転一心歟。されば界外唯一心の法の所談には及ばず。言語を以て思度すべからず。又界外の唯一心に付て権の唯一心、実の唯一心有べし。方等・般若は権の唯一心也。たとひ界外の唯一心なりとも、既に三界唯心と云名目に違す。其上仮立の唯一心なるべし。法華経は真実の一心也。界内界外共に皆事理の教を談ぜり。権教の事理あり、実教の事理あり、爾前権教の唯一心は法華真実の唯一心に開会せられてこそ、実の三界唯一心の体具微妙の体内の権の功徳とも云はるれ。
又権にをいて体内の権、体外の権とて二あり。体外の権とは、権教に説たる所の所詮理の如く得意、其ままにをきたるをば体外の権と云也。是は或は四十余年未顕真実とも、正直捨方便とも、乃至不受余経一偈とも斥ひ捨らるゝ也。喩へば蓮華さきさかへて荘厳いみじと云へども、蓮のみと成ぬれば其花皆落散るが如し。体内の権と云は、法華已前已後の権教の功徳を取聚て、法華の体内に収る也。是を開会と云也。諸の大小の水のながれ行て大海入ぬれば、只一言にうしほとよばれたるが如し。本の名言なき也。たとへば蓮花のさき荘厳して、其花の功徳を一菓に帰ぬれば、かざる所の花おちてなき也。雖然其成ずる所の菓の体の内に生出べき理のあるを、是を体具微妙の体内の権の功徳とは談ずるなり。而れども此時も只一の菓と呼て全花の名言を不呼。依之玄義三云 諸水入海同一鹹味。諸智入如実智失本名字。[文]此心を以て思へば、爾前権教の花の方便は法華の菓の為には殊勝也と云へども、此方便のなりくせにして果に成らんとすれば必落る習あり、花の功を菓に譲りぬるが故也。
夫華厳は根本法華と云も蓮の花のさかへたるが如し。未成菓。華厳根本の花つぼみたりとも、其花さかずして其ままならば無用也。又阿含・方等・般若の花さきさかへたりとも、其ままにして菓とならざらんには又無用也。菓の為の花はさきて後必落たるが其花の徳にて有也。されば経云雖示種種道其実為仏乗。正直捨方便但説無上道。釈云 花落蓮成廃権立実。花さきて不落程は菓成ぜざれば也。蓮成ぜば必花は可落道理必然也。当世華厳宗等の謗法の人人はおちすてし所の花を取あつめて、既に成じたる所の菓にならべそへたる者也。あはれ習たる法門哉。是をとにきこゆる習ひぞこなひの法門是也とも申べし。
次に華厳教主の事。本経の文を見るに千葉の蓮華を示現して実報土の相をしつらへり。是一機一縁の為の建立也。く一切衆生の為にあらず。法華は是本有の寂光土を顕す。あまねく一切衆生の為也。先土与土たくらぶるに、豈実報土は寂光土に勝るべしや。又華厳の教主は報身如来也。法華の教主は法身如来也。争か仏与仏たくらぶる時、報身如来は法身如来に勝るべきや。夫華厳の華台と云は千葉の中の中台也。華葉と云者千の華葉也。此蓮華の中、台に坐せる仏を台上の盧舎那仏と云也。華の一葉に坐せる仏を葉上の釈迦とも大釈迦とも云也。華の一葉の広さは三千大世界の広さ也。此広の一葉の華の中に又百億の国土あり。其土の一々に一の小釈迦あり。一華百億国一国一釈迦と釈する是也。彼経の説には台上の盧舎那仏より千の大釈迦を現す。此大釈迦より百億の小釈迦を示現すと見へたり。今云四土の中の三土は法華の寂光土より影現したる三土也。三身の中の二身は法華本有の法身如来より垂るる所の報身是也。何ぞ示現する所の影を本時にまされりと云はんや。甚愚なり。されば一機一縁の為にかりそめに一時の間化現したりと見へたり。台上の盧舎那も、葉上の千釈迦も、葉中の百億の小釈迦も、皆一時の化現の仮の作法なれば万機の為にあらず。
依之台上の盧舎那を天台釈云玄七に華台名報身葉上華葉名応身。報応但是相関已。不得相即。此即別仏果成相也[文]、是他受用報身と釈せられたり。他受用報身と云者別教の教主と同ずる也。例の有名無実の仏是也。されば其の相を云にも十二品断照用妙覚と云て、無明の惑を断ずるに纔に十二品の無明を断じて、未断三十品無明、仏の相好荘厳はゆゆしけれども、恐は法華六即の位を判ずる時、初住二住の新発意の菩薩にも尚劣と見たり。何況法華妙覚究竟の極果の実仏にならべて其高下を論ぜんや。決三云初地不知二地菩薩挙足下足[文]。況や因位究竟の権仏は境界をへだてたる果分究竟の実仏に可及哉。教は是有教無人の教なれば、其教にとゞまつて得益する者一人もなし。仏を云へば果頭無人と云て教主もかりそめの化現の仏なれば、其教の実仏とて可尊敬教主もなし。たとひ報身報土の儀式を現ずと云とも、夢の中の仮のわざなればさめての後に実なし。依之伝教の釈云有為報仏夢裏権果。無作三身覚前実仏[文]。有為報仏と云者爾前権教の華厳等の他受用報身是也。無作三身と云者、法華教主自受用報身如来是也。此仏を三身相即の仏と云は三身一体の時は、劣応身は劣応身ながら三身即一也。自受用報身は自受用報身ながら三身即一也。法身は法身ながら三身即一如来也。依之釈にも三身相即無暫離時と云へり。文の心は三身相即してしばらくもはなるゝ時なしと云文也。
されば法華経を得たる時の眼前には小身丈六の応身と見るも正見也。雖然今は同居土の凡夫に応同したる劣応身を本体として、其体に相即したる所の法身をも感見し奉る者也。余教の教主は相即の仏にあらざる間、かりに現ずる所の一身をみて余身を感見せざる也。但し教主を天台判じ給時は、華厳の教主は報身。三蔵教の教主は劣応身。通教の教主は勝応身。別教の教主は報身。法華の教主は法身如来と云へり。自他諍なし。今仰られ候麁弊垢膩の衣きたる応身と云は、是三蔵教の劣応身也。法華経の信解品に委く説けり。いまだ教教の教主は御存知もなかりけるにや。法華已前の教主は、記の一に云三仏離明隔偏小故の如来にて、三体別別にして皆死せる如来にて生身の如来にはあらざる也。今法華の教主は三身即一の如来也。たとひ丈六の応身と感見するともそへいくに(麁弊垢膩)の衣をば著すべからず。三蔵の小乗の機が感見の衣也。何ぞ法華の教主を仰ざらんや。たとへば水に四見を存するが如し。是程の教主沙汰にてはいかにして他人を教化せられ候はんや。されば或釈に自行妙宗に闇ければ他を益するに不能と見たり。他を益するまでは且くをく。先自利せんは大切者歟。教主もいみじくして其法も高貴なりとも、一切衆生不成仏ならば無用也。
先初頓の華厳とて三七日の思惟の時二乗座になし。座になければ不可成仏。又女人地獄使能断仏種子外面似菩薩内心如夜叉と云て、一切の女人は地獄の使と斥はれて不成仏。後分華厳とて阿含十二年より後に方等・般若に座を並て説く。華厳より其時二乗当座にありと云とも、如聾如唖とて耳しゐ、おしの如して華厳の法門をききしらざりしかば、二乗の為に無用なり。凡夫も偏に頓大根性の者計是の法門をきき、菩薩も厚殖善根の菩薩のみききて、全く鈍根無智の凡夫の為にあらず。鈍根小智の為にあらず。されば三照の譬をとるにも先照高山と云て、日の初て出る時は先づ高山を照すが如し。華厳をば高山に喩たり。次照幽谷と云て、次にはひきき山、かすかなる谷を照すをば阿含・方等・般若経にたとへたり。又次照平地とて、第五時の法華経をば平地を照すにたとへたり。平地を照す時、もとの高山をも幽谷をも返て照し、残る所なく照すを以て平地とはたとへたり。本より善根あつくして成仏すべき者を仏になるべしと説は法の規模奇特にあらず。成仏すまじき者を仏になすをこそ、大乗不思議の法、甚深広大の真実殊勝なるにては候へ。されば法華是れ若有聞法者無一不成仏の実法也。余教は是能持の修行者永不成仏の権法也。依之華厳経云如来智慧大薬王樹唯除二処不得生長。所謂声聞縁覚涅槃地獄深坑等[云云]。文の心は如来の智慧の大薬王樹は、唯二所をのぞいて生長することを不得。所謂声聞・縁覚の二の涅槃地獄のふかき大坑是也。如此きらひすてられて成仏の期なし。
されば余教を受持する者は、たとへば貧者の他人の財宝を一生が間かぞへたるが如く、我が身にをいて一分の得益もなし。何の用か有らん。台上の盧舎那と云とも、ただ一時の化現なれば是一機一縁の為也。而ども其の一機も真実の得益にあらず。ただ是因分の益にして、いまだ果分の益を不得。されば伝教秀句下云夫華厳経者但説住上地上因分未説如来内証果分。是故天親菩薩十地論云因分可説果分不可説者即其事也。当知果分勝於因分。玄六云故知華厳所不能治方便之説。法華能治是如実之説。能治難治此処則妙。止観六云華厳大品不能治之。唯有法華能令無学還生善根得成仏道。又闡提有心猶可成仏[文]。仏になしにくき者を仏になすをもて妙法と名け、諸仏の本懐とも云也。何ぞ為一機一時化現し給へるかりそめの台上の大仏を尊敬せんや。たとひ左様の大仏有とても、千葉の中の一葉は一つの三千大千世界の広さなれば、をのをの我等が上には打ちおほひて、其花のかたはしをだにも見るべからず。まして其上の大釈迦をば如何として見たてまつるべければ御辺たちは我が仏とは執せられ候ぞや。何況台上の盧舎那仏と云は此千葉中の中央の華中台に座し給たらん。大が中の大仏をば分量いか程の仏と取つめて、各各薄地底下一毫の煩悩をも不断卑賤醜陋の末代造悪の身としては感見し給べきや。依之止観六云前教所以高其位者方便之説。円教位下者真実之説。妙楽受之前教下正判権実。教弥実位弥下教弥権位弥高[文]。記九云判位者顕観境弥深実位弥下[文]。惣じて文の心は権教はそら事の教なるが故に、そぞろに位を高くとりあげて、其教主をも高貴なるよしを説けり。
実教は真実の教なるが故に、位も弥下くとりくだして、造悪無慚の卑賤の我等衆生の凡夫にかふむらしめたり。位弥下ければ、尤我等衆生の為には皆是真実の南無妙法蓮華経肝心たるべき者也。されば教主も我等衆生の凡夫に応身の実仏なれば、尤釈迦如来は我等がための真実の本尊也。法華の劣応身と云は、華厳の大仏におとりたれば劣応身と云也。三蔵のそへいくに(麁弊垢膩)の劣応身にはあらず。後五百歳中広宣流布の当時なれば、ことさら時節相応の即身成仏の大乗也。善悪不二の南無妙法蓮華経なれば悪人も必成仏す。邪正一如の南無妙法蓮華経なれば邪見弥たのみ有り。皆成仏道の南無妙法蓮華経なれば十界平等に利益す。速疾頓成の南無妙法蓮華経なれば二生三生をも不可期。ただこれ一生入妙覚の大法也。仰て可信受。
このたび幸に此の妙典にあひ奉て無窮の生死を一刹那につづめ無量の行願をば一念の間にはたして、妄想の夢即座に覚畢ぬ。生死も涅槃も昨日の夢の如し。依之或釈云智証我等輩去初停心[五停心なり]猶万万里只縁不学実相妙観。若常如此恒斯生死中人。何得為仏法中人乎。以我懈怠莫謂教失。龍女速疾具三十二相。即是一念聞経究竟三菩提也。挙一例諸有識自会。乃至煩修万行莫謂得無上仏果[已上] しかれば経文にも須臾聞之即得究竟阿耨多羅三藐三菩提と説けり。憑哉憑哉。此詞を信受せずんば、必無間地獄におちんこと不可有疑。不可有疑。思出るに随て註書す。定て枝葉多多、真実少少たる歟。但雖有枝葉又何無益哉。