妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

中興入道御消息

第二巻 定本番号 20354 弘安2(1279) 分類: その他

祖寿: 58 著作地: 身延 

    354   中興入道御消息
鵞目一貫文送給候了。妙法蓮華経の御宝前に申上候了。抑日本国と申国は須弥山よりは南、一閻浮提の内縦広七千由句なり。其内に八万四千の国あり。所謂、五天竺十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟散国、微塵の島々あり。此等の国々は皆大海の中にあり。たとへば池にこのは(木葉)のちれるが如し。此日本国は大海の中の小島なり。しほ(潮)みてば見へず、ひ(干)ればすこしみゆるかの程にて候しを、神のつき出させ給て後、人王のはじめ神武天皇と申せし大王をはしましき。それよりこのかた三十余代は仏と経と僧とはましまさず。ただ人と神とばかりなり。仏法をはしまさねば地獄もしらず、浄土もねがはず。父母兄弟のわかれ(別)ありしかども、いかんがなるらん。ただ露のきゆるやうに、日月のかくれさせ給やうに、うちをもいてありけるか。
然に人王第三十代欽明天皇と申大王の御宇に、此国より戌亥の角に当て百済国と申国あり。彼国よりせいめい(聖明)王と申せし王、金銅の釈迦仏と、此仏の説せ給へる一切経と申ふみ(文書)と、此をよむ僧をわたしてありしかば、仏と申物もいき(生)たる物にもあらず。経と申物も外典の文にもにず。僧と申物も物はいへども道理もきこへず、形も男女にもにざりしかば、かたがたあやしみをどろきて、左右の大臣、大王の御前にしてとかう僉議ありしかども、多分はもちうまじきにてありしかば、仏はすてられ、僧はいましめられて候しほどに、用明天王の御子聖徳太子と申せし人、びだつ(敏達)二年二月十五日、東に向て南無釈迦牟尼仏と唱て御舎利を御手より出し給て、同六年に法華経を読誦し給ふ。それよりこのかた七百余年、王は六十余代に及まで、やうやく仏法ひろまり候て、日本六十六箇国二の島にいたらぬ国もなし。国々郡々郷々里々村々に堂搭と申、寺々と申、仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり。日月の如くあきらかなる智者代々に仏法をひろめ、衆星のごとくかがやくけんじん(賢人)国々に充満せり。
かの人々は自行には或は真言を行じ、或は般若、或は仁王、或は阿弥陀仏の名号、或は観音、或は地蔵、或は三千仏、或は法華経読誦しをるとは申ども、無智の道俗をすゝむるには、ただ南無阿弥陀仏と申べし。譬ば女人の幼子をまうけたるに、或はほり(堀)、或はかわ(河)、或はひとり(独)なるには、母よ母よと申せば、ききつけぬれば、かならず他事をすてて、たすくる習なり。阿弥陀仏も又如是。我等は幼子なり。阿弥陀仏は母なり。地獄のあな、餓鬼のほりなんどにをち入ぬれば、南無阿弥陀仏と申せば音と響との如く、必来てすくひ給なりと、一切の智人ども教へ給しかば、我日本国かく申ならはして年ひさしくなり候。
然に日蓮は中国都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民が子にて候しかば、日本国七百余年に、一人もいまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱候のみならず、皆人の父母のごとく、日月の如く、主君の如く、わたり(渡)に船の如く、渇して水のごとく、うえて飯の如く思て候南無阿弥陀仏を、無間地獄の業なりと申候ゆへに、食に石をたひ(炊)たる様に、がんせき(巌石)に馬のはねたるやうに、渡に大風の吹来たるやうに、じゆらく(聚落)に大火のつきたるやうに、俄にかたきのよせたるやうに、とわりのきさき(后)になるやうに、をどろきそねみねたみ候ゆへに、去建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申つより候事、月のみつるがごとく、しほのさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見人・値人・聞人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんう(善友)もかたきとなる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万人をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ、或は悪口のためにとなへ、或は信ずるに似て唱へ、或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方、或はうたがひ、或は一向念仏者なる者は父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきのやうにのゝしる。村主・郷主・国主等は謀反の者のごとくあだまれたり。
かくの如く申程に、大海の浮木の風に随て定なきが如く、軽毛の虚空にのぼりて上下するが如く、日本国ををはれあるく程に、或時はうたれ、或時はいましめられ、或時は疵をかほふり、或時は遠流、或時は弟子をころされ、或時はうちをはれなんどする程に、去文永八年九月十二日には御かんき(勘気)をかほりて、北国佐渡の島にうつされて候しなり。世間には一分のとがもなかりし身なれども、故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を地獄に墜たりと申法師なれば、謀叛の者にもすぎたりとて、相州鎌倉龍口と申処にて頸を切んとし候しが、科は大科なれども、法華経の行者なれば左右なくうしなひなば、いかんがとやをもはれけん。又遠国の島にすてをき(捨置)たるならば、いかにもなれかし。上ににくまれたる上、万民も父母のかたきのやうにおもひたれば、道にても又国にても、若はころすか、若はかつえしぬ(餓死)るかにならんずらん、とあてがはれて有しに、
法華経十羅刹の御めぐみにやありけん、或は天とが(失)なきよしを御らんずるにやありけん。島にてあだむ者は多かりしかども、中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼人は年ふりたる上、心かしこく身もたのし(楽)くて、国の人にも人とをもはれたりし人の、此御房はゆへある人にやと申けるかのゆへに、子息等もいたうもにく(甚憎)まず。其已下の者どもたいし(大旨)彼等の人々の下人にてありしかば、内々あやまつ事もなく、唯上の御計のまゝにてありし程に、水は濁れども又すみ、月は雲かくせども又はるゝことはりなれば、科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計ひばかりにて、ついにゆり候て、のぼ(登)りぬ。
ただし日蓮は日本国には第一の忠の者なり。肩をならぶる人は先代にもあるべからず、後代にもあるべしとも覚えず。其故は去正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其故をうらなひ(占考)しかども、なにのゆへいかなる事の出来すべしと申事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入て勘へたるに、真言・禅宗・念仏・律等の権小の人々をもつて法華経をかろしめたてまつる故に、梵天・帝釈の御とがめにて、西なる国に仰付て、日本国をせむべしとかんがへて、故最明寺入道殿にまいらせ候き。此事を諸道の者をこつきわらひ(嘲笑)し程に、九箇年すぎて去文永五年に、大蒙古国より日本国ををそう(襲)べきよし牒状わたりぬ。此事のあふ(合)故に、念仏者・真言師等あだみて失はんとせしなり。例せば、漢土に玄宗皇帝と申せし御門の御后に、上陽人と申せし美人あり。天下第一の美人にてありしかば、楊貴妃と申きさきの御らんじて、此人王へまいるならば我がをぼへ(寵)をとりなんとて、宣旨なりと申かすめて、父母兄弟をば或はながし、或は殺し、上陽人をばろう(牢)に入て四十年までせめたりしなり。此もそれににて候。
日蓮が勘文あらわれて、大蒙古国を調伏し、日本国かつならば、此法師は日本第一の僧となりなん。我等が威徳をとろうべしと思かのゆへに、讒言をなすをばしろしめさずして、彼等がことばを用て、国を亡さんとせらるゝなり。例せば、二世王は趙高が讒言によりて李斯を失ひ、かへりて趙高が為に身をほろぼされ、延喜の御門はしへい(時平)のをとど(大臣)の讒言によりて、管丞相を失て地獄におち給ぬ。此も又かくの如し。法華経のかたきたる真言師・禅宗・律僧・持斉・念仏者等が申事を御用ありて、日蓮をあだみ給ゆへに、日蓮はいやし(賎)けれども、所持の法華経を釈迦多宝十方の諸仏、梵天・帝釈・日月・四天・龍神、天照太神・八幡大菩薩、人の眼をおしむ(惜)がごとく、諸天の帝釈をうやまう(敬)がごとく、母の子を愛するがごとく、まほりおもん(守重)じ給ゆへに、法華経の行者をあだむ人を罰し給事、父母のかたきよりも、朝敵よりも重く大科に行ひ給なり。
然に貴辺は故次郎入道殿の御子にてをはするなり。御前は又よめ(嫁)なり。いみじく心かしこかりし人の子とよめとにをはすればや、故入道殿のあとをつぎ、国主も御用なき法華経を御用あるのみならず、法華経の行者をやしな(養)はせ給て、としどし(年々)に千里の道をおくりむか(迎)へ、去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとば(卒堵波)をたてゝ、其面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹ば南海のいろくづ(魚族)、其風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん。況やかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼そとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並に妻子は現世には寿を百二十年持て、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうてばひびきのあるがごとしとをぼしめし候へ等[云云]。此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ。   弘安二年[己卯]十一月卅日   日蓮  [花押]   中務入道殿女房