四條金吾殿御返事(告誡書)
257 四條金吾殿御返事
御文あらあらうけ給て、長き夜のあけ、とをき道をかへりたるがごとし。夫仏法と申は勝負をさきとし、王法と申は賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我国をば日本と申。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本也。名のめでたきは印度第二、扶桑第一也。仏法は月の国より始て日の国にとどまるべし。月は西より出で東に向ひ、日は東より西へ行事天然のことはり。磁石と鉄と、雷と象華とのごとし。誰か此ことはりをやぶらん。
此国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて、第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。位につかせ給て三十二年治世給しに、第十三年壬申十月十三日辛酉に、此国より西に百済国と申国あり。日本国の大王の御知行の国也。其国の大王聖明王と申せし国王あり。年貢を日本国にまいらせしついでに、金銅の釈迦仏並に一切経法師尼等をわたしたりしかば、天皇大に喜て群臣に仰て、西蕃の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿祢と申せし人云、西蕃の諸国みな此を礼す、とよあきやまと(豊秋日本)あに独背哉と申。物部の大むらじ(連)をこし(尾輿)・中臣のかまこ(鎌子)等奏曰、我国家天下に君たる人は、つねに天地・しやそく(社禝)・百八十神を春夏秋冬にさいはい(祭拝)するを事とす。しかるを今更あらためて西蕃神を拝せば、をそらくは我国の神いかりをなさんと[云云]。爾時天皇わかちがたくして勅宣す。此事只心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし。他人用事なかれ。蘇我の大臣うけ取て大に悦給て、此釈迦仏を我が居住のをはだ(小墾田)と申ところに入まいらせて安置せり。
物部大連不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽ぬべかりしかば、物部大連隙を得て、此仏を失べきよし申せしかば勅宣なる。早他国の仏法を可棄[云云]。物部大連御使として、仏をば取て炭をもてをこし、つち(槌)をもて打くだき、仏殿をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち(笞)をくわう。其時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏天火にやけあがて、大王並に物部大連・蘇我臣三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶ぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。而ども仏法を用ることなくして十九年すぎぬ。
第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は、一は物部の大連が子にて、弓削の守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿祢の子は蘇我馬子と[云云]。此王の御代に聖徳太子生給へり。用明の御子敏達のをい(甥)なり。御年二歳の二月、東に向て無名の指を開て南無仏と唱へ給へば御舎利掌にあり。是日本国の釈迦念仏の始也。太子八歳なりしに八歳太子云、西国聖人釈迦牟尼仏遺像末世尊之則銷禍蒙福蔑之則招災縮寿等云云。大連物部弓削宿祢守屋等いかりて云、蘇我は勅宣を背て他国の神を礼す等[云云]。又疫病未息人民すでにたえぬべし。弓削守屋又此間奏[云云]。勅宣云蘇我馬子興行仏法宜却仏法等[云云]。此与守屋中臣臣勝海大連等両臣寺に向て堂塔を切たうし、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、笞をもつてせむ。又天皇並に守屋・馬子等疫病す。其言云、焼がごとし、きるがごとし。又瘡をこる。はうさう(疱瘡)といふ。馬子歎て云尚仰三宝。勅宣云汝独行但断余人等[云云]。馬子欣悦し精舎を造て三宝を崇ぬ。天皇は終に八月十五日崩御[云云]。此年は太子は十四なり。第三十二代用明天皇治二年欽明の太子聖徳太子の父也。治二年丁未四月に天皇疫病あり。皇勅云欲帰三宝[云云]。蘇我大臣可随詔遂引法師入於内裏。豊国法師是也。物部守屋大連等大に瞋り、横に睨云天皇厭魅と終に皇隠させ給。
五月に物部守屋が一族、渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押寄てたゝかう。五月六月七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度め(目)に太子願を立て云、釈迦如来の御舎利塔を立て四天王寺を建立せんと。馬子願云、百済より所渡釈迦仏を寺を立てて崇重すべしと[云云]。弓削なの(名乗)て云、此は我放つ矢にはあらず。我先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なりと。此矢はるかに飛で太子の鎧に中る。太子なのる。此は我が放つ矢にはあらず、四天王の放給矢なりとて、迹見赤梼と申舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛で守屋が胸に中りぬ。はたのかはかつ(秦川勝)をちあひて頸をとる。此合戦は用明崩御崇峻未即位給其中間也。
第三十三崇峻天皇位につき給。太子は四天王寺を建立す。此釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申寺を建立して、百済国よりわたりて候し教主釈尊を崇重す。今代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに、三代の天皇並に物部の一族むなしくなりしなり。又太子、教主釈尊の像一体つくらせ給て元興寺に居せしむ。今の橘寺の御本尊これなり。此こそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。
漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見博士蔡愔・王遵等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を、同永平十年丁卯の歳迎へ取て崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家・道家の人人数千人、此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙給。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳・五典・二聖三王の書を薪につみこめてやきしかば、古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らず。あまりのはづかしさに禇善信・費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ。
されば釈迦仏は賞罰ただしき仏也。上に拳る三代の帝並に二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く、後生は悪道に堕ぬ。今代又これにかはるべからず。漢土の道士信・費等、日本の守屋等は、漢土日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随奉り、行者は皆ほろびぬ。今代如此、上に拳る所の百済国の仏は教主釈尊也。名を阿弥陀仏と云て、日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はただ一なり。されば今の代の滅せん事又疑なかるべし。是は未申法門也。可秘々々。
又吾一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申事を背給はば蘇我が如くなるべし。其故は仏法日本に立し事は、蘇我の宿祢と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如にてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失し故に、只一門になりて位もあがり、国をも知行し、一門も繁昌せし故に、高拳をなして崇峻天皇を失たてまつり、王子を多殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇中臣鎌子が計として、教主釈尊を造奉てあながちに申せしかば、入鹿の臣並に父等の一族一時に滅ぬ。此をもて御推察あるべし。又我此一門の中にも申しとをらせ給はざらん人々は、かへりて失あるべし。日蓮をうらみさせ給な。少輔房・能登房等を御覧あるべし。
かまへてかまへて、此間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給べからず。火はをびただしき様なれども、暫くあればしめ(滅)る。水はのろき様なれども、無左右失がたし。御辺は腹あしき人なれば火の燃がごとし。一定人にすかされなん。又主のうらうら(遅々)と言和にすか(賺)させ給ならば、火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ。きた(鍛)はぬかね(金)は、さかんなる火に入ればとく(疾)とけ(蕩)候。氷をゆ(湯)に入がごとし。剣なんどは大火に入れども暫とけず。是きたへる故也。まへ(前)にかう申はきたうなるべし。仏法と申は道理也。道理と申は主に勝物也。
いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思め(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしゝとをぼすとも死ては他人の物、すでにさかへ(栄)て年久し、すこしも惜む事なかれ。又さきざき申がごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。日蓮は少より今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計也。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申也。其故は法華経の命を継ぐ人なればと思也。穴賢々々。あらかるべからず。吾家にあらずんば人に寄合事なかれ。又夜廻の殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人々なり。常はむつはせ給べし。又夜の用心の為と申、かたがた殿の守りとなるべし。吾方の人々をば少々の事をばみずきかずあるべし。さて又法門なんどを聞ばやと仰候はんに、悦で見え給べからず。いかんが候はんずらん。御弟子共に申てこそ見候はめと、やはやは(和々)とあるべし。いかにもうれしさにいろに顕れなんと覚え、聞んと思心だにも付せ給ならば、火をつけてもすがごとく、天より雨の下がごとく、万事をすてられんずるなり。
又今度いかなる便も出来せばしたゝめ候し陳状を上らるべし。大事の文なれば、ひとさはぎ(一騒)はかならずあるべし。穴賢々々。 日蓮 [花押] 四條金吾殿