聖愚問答鈔
43 聖愚問答鈔 上
夫生を受しより死を免れざる理りは、賢き御門より卑き民に至るまで人ごとに是を知といへども、実に是を大事とし是を歎く者、千万人に一人も有がたし。
無常の現起するを見ては、疎きをば恐れ親きをば歎くといへども、先立ははかなく、留るはかしこきやうに思て、昨日は彼のわざ今日は此事とて、徒らに世間の五欲にほだされて、
白駒のかげ過やすく、羊の歩み近づく事をしらずして、空く衣食の獄につながれ、徒らに名利の穴にをち、三途の旧里に帰り、六道のちまたに輪回せん事、有心人誰か不歎、誰か不悲。
鳴呼老少不定は娑婆の習ひ、会者定離は浮世のことはりなれば、始て驚くべきにあらねども、正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、或は幼き子をふりすて、或は老たる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ、行もかなしみ、留るもかなしむ。
彼楚王伴神女残情於一片之朝雲劉氏値仙客慰思於七世之後胤如予者縁底休愁。かゝる山左のいやしき心なれば身には思のなかれかしと云けん人の古事さへ思出られて、末の代のわすれがたみにもとて、難波のもしほ草をかきあつめ、水くきのあとを形の如くしるしをく也。
悲哉痛哉。我等無始より已来、無明の酒に酔て六道四生に輪回して、或時は焦熱大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮大紅蓮の冰にとぢられ、或時は餓鬼飢渇の悲みに値て、五百生の間飲食の名をも聞ず。
或時は畜生残害の苦をうけて、小きは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる、是を残害の苦と云。或時は修羅闘諍の苦をうけ、或時は人間に生れて八苦をうく。生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等也。或時は天上に生れて五衰をうく。
如此三界の間を車輪のごとく回り、父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず、夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等く、暗き事は狼眼に同じ。
我を生たる母の由来をもしらず、生を受たる我身も死の終りをしらず。鳴呼難受人界の生をうけ、難値如来の聖教に値奉れり。一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし。今度若生死のきづなをきらず、三界の篭樊を出ざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。
爰に或智人来示云、汝が所歎実に爾なり。如此無常のことはりを思知り、善心を発す者は麟角よりも希也。此ことはりを覚らずして、悪心を発す者は牛毛よりも多し。
汝早く生死を離れ菩提心を発さんと思はば、吾最第一の法を知れり、志あらば為汝説之聞しめん。其時愚人座より起て合掌云、我は日来外典を学し、風月に心をよせて、いまだ仏教と云事を委細にしらず。願くは上人為我是を説給へ。
其時上人の云、汝耳を伶倫が耳に寄せ、目を離朱が眼にかつて、心をしづめて我が教をきけ。為汝説之。夫仏教は八万の聖教多けれども、諸宗の父母たる事戒律にはしかず。
されば天竺には世親・馬鳴等の薩埵、唐土には慧曠・道宣と云し人是を重んず。我朝には人皇四十五代聖武天皇の御宇に、鑑真和尚此宗と天台宗と両宗を渡して、東大寺の戒壇立之。自爾已来至当世崇重年旧り尊貴日に新なり。
就中極楽寺良観上人は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。見彼行儀実以て爾也。飯嶋の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。
慈悲は斉如来徳行は越先達。汝早く生死を離れんと思はば、五戒・二百五十戒を持ち、慈悲をふかくして物の命を殺さずして、良観上人の如く作道渡橋。是第一の法也。汝持んや否や。愚人弥合掌云能能持ち奉んと思ふ。具に為我是を説給へ。抑五戒・二百五十戒と云事は我等未存知。委細に是を示し給へ。
智人云、汝は無下に愚也。五戒・二百五十戒と云事をば孩児も是をしる。然れども汝が為に説之。五戒者一には不殺生戒、二には不偸盜戒、三には不妄語戒、四には不邪淫戒、五には不飲酒戒是也。二百五十戒の事は多き間略之。其時に愚人礼拝恭敬して云、我自今日深く此法を持ち奉るべし。
爰に予が年来の知音或所に隠居せる居士一人あり。為訪予愁歎来れるが、始には往事渺茫として似夢事をかたり、終には行末の冥冥として難弁事を談ず。鬱を散し思をのべて後、問予云、抑人の有世誰か後生を思はざらん。貴辺何なる仏法をか持て出離をねがひ、又亡者後世をも訪給や。
予答云、一日或上人来て為我五戒二百五十戒を授け給へり。実に以て心肝にそみて貴し。我深く良観上人の如く、及ばぬ身にもわろき道を作り、深き河には橋をわたさんと思へる也。
其時居士示して云、汝が道心貴きに似て愚か也。今談ずる処の法は浅ましき小乗の法也。されば仏は則八種の諭を設け、文殊は又十七種の差別を宣たり。或は蛍火日光の諭を取り、或は水精瑠璃の諭あり。爰を以て三国の人師も其破文非一。
次に行者の尊重の事。必ず人の敬ふに依て法の貴きにあらず。されば仏は依法不依人と定め給へり。我伝聞、上古の持律の聖者の振舞は言殺言収有知浄之語行雲廻雪作死屍之想。而に今の律僧の振舞を見るに、布絹財宝をたくはへ、利銭借請を業とす。教行既に相違せり、誰か是を信受せん。
次に道を作り橋を渡す事、還て人の歎き也。飯嶋の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらい只在此事眼前の事なり。汝不見否や。愚人作色云く、汝が智分をもて上人を謗し奉り、其法を誹る事無謂。知て云歟、愚にして云歟、おそろし、おそろし。
其時居士笑て云、鳴呼おろかなりおろかなり。彼宗の僻見をあらあら申すべし。抑教に有大小宗に分権実。鹿苑施小の昔は化城の戸ぼそに導くといへども、鷲峰開顕の筵には其得益更に無之。其時愚人茫然として居士に問て云く、文証現証実に以て然也。さて何なる法を持てか離生死速に成仏耶。
居士示して云く、我在俗の身なれども深く仏道を修行して、幼少より多くの人師の語を聞き、粗経教をも開見るに、末代我等が如くなる無悪不造のためには念仏往生の教にしくはなし。
されば慧心僧都は夫往生極楽之教行濁世末代之目足也と云ひ、法然上人は諸経の要文を集て一向専修の念仏を弘め給ふ。中にも弥陀の本願は諸仏超過の崇重也。始無三悪趣の願より終り得三法忍の願に至るまで、いづれも悲願目出けれども、第十八の願殊に我等が為に殊勝也。
又十悪五逆をもきらはず、一念多念をもえらはず。されば上一人より下万民に至まで、此宗をもてなし給事他に異なり。又往生の人それ幾ぞや。其時愚人云、実に小を恥て大を慕ひ、浅を去て深に就は、仏教の理のみに非ず、世間にも是れ法也。我早く彼宗にうつらんと思ふ。委細に彼旨を語り給へ。
彼仏の悲願の中に五逆十悪をも簡ばずと云へる、五逆とは何等ぞや、十悪とは如何。智人の云、五逆とは殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧是を五逆と云也。十悪とは身三・口四・意三也。身三とは殺・盜・婬、口四とは妄語・綺語・悪口・両舌、意三とは貪・瞋・癡、是を十悪と云也。愚人云、我今解ぬ。今日よりは他力往生に憑を懸べき也。
爰に愚人又云、以の外盛にいみじき密宗の行人あり。是も予が歎きを訪んが為に来臨して、始には狂言綺語のことはりを示し、終には顕密二宗の法門を談じて、問予云、抑汝は何なる仏法をか修行し、何なる経論をか読誦し奉るや。予答云、我一日或居士の教に依て、浄土の三部経を読奉り、西方極楽の教主に憑を深く懸る也。
行者云、仏教に有二種。一には顕教、二には密教也。顕教の極理は不及密教初門〔云云〕。汝が執心の法を聞けば釈迦の顕教也。我が所持の法は大日覚王の秘法也。実に三界の火宅を恐れ、寂光の宝台を願はば、須く顕教をすてゝ、密教につくべし。
愚人驚て云、我いまだ顕密二道と云事を聞ず。何なるを顕教と云ひ、何なるを密教と云へるや。行者云、予は是頑愚にして敢て賢を存ぜず。雖然今挙一二文挑汝朦昧。顕教者舎利弗等の請に依て、応身如来の説給諸教也。
密教者為自受法楽法身大日如来の金剛薩埵を所化として説給処の大日経等の三部也。愚人云、実に以て然なり。先非をひるがへして賢き教に付奉んと思也。
又爰に萍のごとく諸州を回り、蓬のごとく縣縣に転ずる非人の、それとも知ず来り門の柱に寄立て含笑語る事なし。あやしみをなして是を問に始には云事なし。後に強て問を立る時、彼が云、月蒼蒼として風忙忙たりと。
形質常に異に、言語又通ぜず。其至極を尋れば当世の禅法是也。予彼人の有様を見、其言語を聞て、仏道の良因を問時、非人云、修多羅の教は月をさす指、教網は是言語にとどこほる妄事なり。我心の本分におちつかんと出立法は其名を禅と云也。
愚人云、願くは我聞んと思ふ。非人云、実に其志深くば向壁坐禅して本心の月を澄しめよ。爰を以て西天には二十八祖系乱れず、東土には六祖の相伝明白也。汝是を悟らずして教網にかゝる。不便不便。是心即仏、即心是仏なれば此身の外に更に何にか仏あらんや。
愚人聞此語つくづくと観諸法閑に案義理云、仏教万差にして理非難明。宜哉、常啼は東に請ひ、善財は南に求め、薬王は臂を焼き、楽法は皮を剥。善知識実に難値。或は教内と談じ、或は教外と云。此ことはりを思に未究淵底臨法水者深淵の思を懐き、見人師族は薄氷の心を成せり。
爰を以て金言には依法不依人と定め、又爪上土の譬あり。若仏法の真偽をしる人あらば尋て師とすべし、求て崇べし。夫人界に生を受るを天上の絲にたとへ、仏法の視聴は浮木の穴に類せり。身を軽して法を重すべしと思に依て衆山に攀、歎きに引れて諸寺を回る。
足に任せて一の巌窟に至るに、後には青山峨峨として松風常楽我浄を奏し、前には碧水湯湯として岸うつ波四徳波羅蜜を響かす。深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し、広野に綻ぶる梅も界如三千の薫を添ふ。言語道断心行所滅せり。可謂商山の四晧の所居とも、又不知古仏経行の迹歟。
景雲朝に立、霊光夕に現ず。鳴呼心を以て計るべからず、詞を以て宣べからず。予此砌に沈吟とさまよひ、彷徨とたちもとをり、徙倚とたゝずむ。此処に忽然として一の聖人坐す。其行儀を拝すれば法華読誦の声深く心肝に染て、閑窓の戸ほそを伺へば玄義の牀に臂をくたす。
爰に聖人予が求法の志を酌知て、詞を和げ予に問て云、汝なにゝ依て此深山の窟に至れるや。予答云、生をかろくして法をおもくする者也。
聖人問云、其行法如何。予答云、本より我は交俗塵未弁出離。適値善知識始には律、次には念仏・真言・並に禅、此等を聞といへども未弁真偽。聖人云、汝が詞を聞に実に以て然也。身をかろくして法をおもくするは先聖の教へ、予が存ずるところ也。
抑上は非想の雲の上、下は那落の底までも、生をうけて死をまぬかるゝ者やはある。然れば外典のいやしきをしえにも、朝有紅顔誇世路夕為白骨朽郊原と云へり。雲上に交て雲のびんづらあざやかに、雪たもとをひるがへすとも、其楽みをおもへば夢の中の夢也。
山のふもと蓬がもとはつゐの栖也。玉の台・錦の帳も後世の道にはなにかせん。小野小町・衣通姫が花の姿も無常の風にちり、攀噲・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。されば心ありし古人の云、あはれなり鳥べの山の夕煙をくる人とてとまるべきかは。
末のつゆ本のしづくや世の中のをくれさきだつためしなるらん。先亡後滅の理り始て驚くべきにあらず。願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教也。抑汝が云ところの法門をきけば、或は小乗、或は大乗、位の高下は且く置之、還て悪道の業たるべし。
爰に愚人驚て云、如来一代の聖教はいづれも衆生を利せんが為也。始め七処八会の筵より終り跋提河の儀式まで、何れか釈尊の所説ならざる。設ひ一分の勝劣をば判ずとも、何ぞ悪道の因と云べきや。
聖人云、如来一代の聖教に有権有実有大有小。又顕密二道相分其品非一。須く其大途を示して汝が迷を悟らしめん。夫三界の教主釈尊十九歳にして伽耶城を出て、檀特山に篭て難行苦行し、三十成道の刻に三惑頓に破し無明の大夜爰に明しかば、須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣べしといへども、
機縁万差にして其機不堪仏乗然れば四十余年に所被の機縁を調へて、後八箇年に至て出世の本懐たる妙法蓮華経を説給へり。然れば仏の御年七十二歳にして、
序分無量義経に説定て云、我先道場菩提樹下端坐六年得成阿耨多羅三藐三菩提。以仏眼観一切諸法不可宣説。所以者何。知諸衆生性欲不同。性欲不同種種説法。種種説法以方便力。四十余年未顕真実〔文〕。
此文の意は仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹下に坐して、仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに、衆生成仏の直道たる法華経をば説べからず。是を以て空拳を挙て嬰児をすかすが如く、様様のたばかりを以て四十余年が間は、いまだ真実を顕さずと年紀をさして、青天に日輪の出、暗夜に満月のかゝるが如く、説定させ給へり。
此文を見て、何ぞ同じ信心を以て仏の虚事と説るゝ法華已前の権教に執著して、めづらしからぬ三界の故宅に帰るべきや。されば法華経の一巻方便品云正直捨方便但説無上道〔文〕。此文の意は前四十二年の経経、汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨よと也。
此文明白なる上、重ていましめて第二巻譬諭品云但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈〔文〕。此文の意は、年紀かれこれ煩はし、所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり。然るに八宗の異義蘭菊に、道俗形ちを異にすれども、一同に法華経をば崇る由を云。
されば此等の文をばいかが弁へたる。正直に捨よと云て余経の一偈をも禁るに、或は念仏、或は真言、或は禅、或は律、是余経にあらずや。今此妙法蓮華経者諸仏出世の本意、衆生成仏の直道也。
されば釈尊は付属を宣べ、多宝は証明を遂げ、諸仏は舌相を梵天に付て皆是真実と宣給へり。此経は一字も諸仏の本懐、一点も多生の助也。一言一語も虚妄あるべからず。此経の禁を用ざる者は諸仏の舌をきり、賢聖をあざむく人に非ずや。其罪実に怖るべし。
されば二巻に云若人不信毀謗此経則断一切世間仏種〔文〕。此文の意は若人此経の一偈一句をも背ん人は過去現在未来三世十方の仏を殺さん罪と定む。経教の鏡をもて当世にあてみるに、法華経をそむかぬ人は実に以て有がたし。
事の心を案ずるに不信の人尚無間を免れず。況や念仏の祖師法然上人は法華経をもて念仏に対して抛よと〔云云〕。五千七千の経教に何れの処にか法華経を抛よと云文ありや。
三昧発得の行者生身の弥陀仏とあがむる善導和尚、五種の雑行を立てゝ、法華経をば千中無一とて千人持つとも一人も仏になるべからずと立たり。経文には若有聞法者無一不成仏と談じて、此経を聞けば十界の依正皆仏道を成ずと見たり。
爰を以て五逆の調達は天王如来の記別に豫り、非器五障の龍女も南方に頓覚成道を唱ふ。況や復蛣蜣の六即を立てゝ機を漏す事なし。善導の言と法華経の文と実に以て天地雲泥せり。何れに付べきや。就中其道理を思に、諸仏衆経の怨敵、聖僧衆人の讎敵也。経文の如くならば、争か無間を免るべきや。爰に愚人作色云、
汝以賤身恣吐莠言。悟而言歟迷而言歟理非難弁。忝も善導和尚は弥陀善逝の応化、
或は勢至菩薩の化身と云へり。法然上人も亦然也。善導の後身といへり。上古の
先達たる上、行徳秀発し、解了底を極めたり。何ぞ悪道に堕給と云や。聖人云、汝が
言然也。予も仰て信を取こと如此。但仏法は強に人の貴賤には依べからず。只経文
を先とすべし。身の賤をもて其法を軽ずる事なかれ。有人楽生悪死有人楽死悪生
の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ、諸行無常等の十六字を談せ
し鬼神は雪山童子に貴まる。是必ず狐と鬼神との貴きに非ず。只法を重ずる故也。
されば我等が慈父教主釈尊、双林最後の御遺言・涅槃経の第六には、依法不依人とて、
普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵法門を説給ふとも、経文を手に把らずは用ゐざれと
なり。天台大師云与修多羅合者録而用之。無文無義不可信受〔文〕。釈の意は経文
に明ならんを用よ。文証無らんをば捨よと也。伝教大師云依憑仏説莫信口伝〔文〕。
前の釈と同意也。龍樹菩薩云依修多羅白論不依修多羅黒論〔文〕。意は経の中にも
法華已前の権教をすてゝ此経につけよと也。経文にも論文にも、法華に対して諸余
の経典を捨よと云事分明也。然るに開元の録に所挙五千七千の経巻に、法華経を捨
よ乃至抛よと嫌ふことも、又摂雑行捨之と云経文も全く無し。されば慥の経文を勘
へ出して、善導・法然の無間の苦を救はるべし。今世の念仏の行者・俗男・俗女、経文に
違するのみならず、又師の教にも背けり。五種雑行とて、念仏申さん人のすつべき日記、
善導の釈有之。其雑行者選択云第一読誦雑行者除上観経等往生浄土経已外
於大小乗顕密諸経受持読誦悉名読誦雑行。乃至第三礼拝雑行者除上礼拝弥陀
已外於一切諸余仏・菩薩等及諸世天礼拝恭敬悉名礼拝雑行。第四称名雑行者除
上称弥陀名号已外称自余一切仏・菩薩等及諸世天等名号悉名称名雑行。第五讃歎
供養雑行者除上弥陀仏已外於一切諸余仏・菩薩等及諸世天等讃歎供養悉名讃歎
供養雑行〔文〕。此釈の意は第一の読誦雑行者、念仏申さん道俗男女、読べき経あり、読
まじき経ありと定たり。読まじき経は法華経・仁王経・薬師経・大集経・般若心経・転女成仏経・
北斗寿命経、ことさらうち任せて諸人読るゝ八巻の中の観音経、此等の諸経を一句
一偈も読ならば、たとひ念仏を志す行者なりとも、雑行に被摂不可往生〔云云〕。予
以愚眼世を見るに、設ひ念仏申す人なれども、此経経を読人は多く師弟敵対して七逆罪と成りぬ。
又第三の礼拝雑行者念仏の行者は弥陀三尊より外は上に所挙諸仏・菩薩・諸天・善神を礼するをば礼拝雑行と名け又禁之。
然るを日本は神国として伊奘諾・伊奘册尊此国を作り、天照大神垂迹御坐して、御裳濯河の流れ久して今にたえず。
豈此国に生を受て此邪義を用ゆべきや。
又普天の下に生れて三光の恩を蒙りながら、誠に日月星宿を破する事尤有恐。
又第四の称名雑行者、念仏申さん人は、唱べき仏菩薩の名あり、唱まじき仏菩薩の名あり。
唱べき仏菩薩の名者、弥陀三尊の名号、唱まじき仏菩薩の名号者、釈迦・薬師・大日等の諸仏、地蔵・普賢・文殊・日月星、二所三嶋熊野羽黒天照大神八幡大菩薩
此等の名を一遍も唱ん人は念仏を十万遍百万遍申したりとも、此仏菩薩日月神等の名を唱る過に依て無間にはおつとも、往生すべからずと〔云云〕。
我見世間念仏を申す人も此等の諸仏・菩薩・諸天・善神の名を唱る故に、是又師の教に背けり。
第五の讃歎供養雑行者、念仏申ん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養せん外は、上に所挙仏菩薩諸天善神に香華のすこしをも供養せん人は念仏の功は貴とけれども、此過に依て雑行に摂すと是をきらふ。
然るに世をみるに、社壇に詣でては幣帛を捧げ、堂舎に臨ては礼拝を致す。是又師の教に背けり。汝若不審ならば選択を見よ。其文明白也。
又善導和尚観念法門経云酒肉五辛誓発願手不捉口不喫。若違此語即願身口倶著悪瘡〔文〕。
此文意は念仏申さん男女尼法師は酒を不飲魚鳥を不食。其外にら(韮)ひる(薤)等の五つのからくくさき物を不食。是を不持念仏者は今生には悪瘡身に出て、後生には無間に堕べしと〔云云〕。
然るに念仏申す男女尼法師此誡をかへりみず、恣に酒をのみ魚鳥を食ふ事、剣を飲む譬にあらずや。
爰に愚人云、誠是聞此法門念仏法門実雖往生其行儀難修行。況彼所憑経論皆以権説也。不可往生之條分明也。
但破真言事無其謂。夫大日経者大日覚王秘法也。大日如来より系不乱善無畏不空伝之、弘法大師は日本に弘両界曼陀羅尊高三十七尊秘奥者也。
然に顕教極理尚不及密教初門。爰を以て後唐院は法華尚不及況自余教乎と釈し給へり。此事如何が心うべきや。
聖人示云、予も始は大日に懸憑、密宗に寄志。然れども見彼宗最底其立義も亦謗法也。
汝所云高野の大師は嵯峨天皇の御宇の人師也。然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由宣旨を給て、十住心論十巻造之。此書広博なる間、取要三巻縮之其名を号秘蔵宝鑰。
始自異生羝羊心終至秘密荘厳心十に分別し、第八法華・第九華厳・第十真言と立てゝ、法華は華厳にも劣れば大日経には三重の劣と判じて、如此乗乗自乗得仏名望後作戯論書て、法華経を狂言綺語と云、釈尊をば無明に迷へる仏と下せり。
仍て伝法院建立せし弘法の弟子正覚房は、法華経は大日経のはきものとりに及ばず、釈迦仏は大日如来の牛飼にも足らずと書り。
汝静心聞け。一代五千七千の経教、外典三千余巻にも、法華経は戯論三重の劣、華厳経にも劣り、釈尊は無明に迷へる仏にて、大日如来の牛飼にも足らずと云慥なる文ありや。設ひさる文有と云とも能能思案あるべき歟。
経教は自西天洎東土時、訳者の意楽に随て経論の文不定也。さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり。
我所訳経若誤りなくば、我死して後身は不浄なれば焼ると云とも、舌計は焼ざらんと常に説法し給に、奉焼時御身は皆骨となるといへども、御舌計は青蓮華の上に光明を放て、日輪を映奪し給き。
難有事也。さてこそ殊更彼三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給しか。
然れば延暦寺の根本大師、諸宗を責給しには、訳法華三蔵は舌の不焼験あり、汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是也。
涅槃経にも我仏法は他国へ移ん時誤り多かるべしと説給へば、経文に設ひ法華経はいたずら事、釈尊をば無明に迷へる仏也とありとも、権教実教・大乗小乗・説時前後、訳者能能尋ぬべし。
所謂老子孔子は九思一言三思一言、周公旦は食するに三度吐き、沐するに三度にぎる。
外典のあさましき猶如是。況や内典の深義を習はん人をや。
其上此義経論に迹形もなし。人を毀り法を謗じては悪道に堕べしとは弘法大師の釈也。必堕地獄無疑者也。
爰に愚人茫然とほれ、忽然となげひて良久して云、此大師は内外の明鏡、衆人の導師たり。徳行世に勝れ、名誉普く聞えて、或は唐土より三鈷を八万余里の海上をなぐるに即日本に至り、或は心経の旨をつづるに蘇生の族途に彳む。然ば此人ただ人にあらず。大聖権化の垂迹也。仰て信を取んにはしかじ。
聖人云、予も始めは然なり。但仏道に入て理非を勘へ見るに、仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず。是を以て仏は依法不依人と定め給へり。前に示すが如し。
彼阿伽陀仙は恒河を片耳にただへて十二年、
耆兎仙は一日の中に大海をすひほす。
張階は霧を吐き、
欒巴は雲を吐く。然れども未知仏法是非因果の道理をも弁へず。
異朝の法雲法師は講経勤修の砌に須臾に天華をふらせしかども、妙楽大師は感応若斯猶不称理とて、いまだ仏法をばしらずと破し給。
夫此法華経と申は已今当の三説を嫌て、已前の経をば未顕真実と打破り、肩を並ぶる経をば今説の文を以てせめ、已後の経をば当説の文を以て破る。実に三説第一の経也。
第四巻云薬王今告汝我所説経典而於此経中法華最第一〔文〕。
此文の意は霊山会上に薬王菩薩と申せし菩薩に仏告て云く、始華厳より終涅槃経に至まで無量無辺の経恒河沙等数多し。其中には今の法華経最第一と説れたり。
然るを弘法大師は一の字を三と読れたり。同巻云我為仏道於無量土従始至今広説諸経而於其中此経第一。
此文の意は又釈尊無量の国土にして或は名字を替、或は年紀を不同になし、種種の形を現じて、所説諸経の中には此法華経を第一と定められたり。
同第五巻には、最在其上と宣て大日経・金剛頂経等の無量の経の頂に此経は有べしと説れたるを、弘法大師は最在其下と謂へり。
釈尊と弘法と、法華経と宝鑰とは実に以て相違せり。釈尊を捨奉て弘法に付べき歟。又弘法を捨てゝ釈尊に付奉るべき歟。又経文に背て人師の言に随ふべき歟。人師の言を捨てゝ金言を仰ぐべき歟。用捨心に有べし。
又第七巻薬王品に挙十諭歎教第一は水譬也。江河を諸経に譬へ大海を法華に譬へたり。
然るを大日経は勝れたり、法華は劣れりと云人は、即大海は小河よりもすくなしと云ん人也。然るに今の世の人は海の諸河に勝る事をば知といへども、法華経の第一なる事をば弁へず。
第二は山の譬なり。衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へたり。須弥山は上下十六万八千由旬の山也。何れの山か肩を並ぶべき。法華経を大日経に劣ると云人は富士山は須弥山より大也と云ん人也。
第三は星月の譬也。諸経を星に譬へ法華経を月に譬ふ。月と星とは何れ勝りたりと思へるや。
乃至次下には此経亦復如是一切如来所説若菩薩所説若声聞所説諸経法中最為第一とて此法華経は只釈尊一代の第一と説給のみにあらず、大日及薬師・阿弥陀等の諸仏、普賢・文殊等の菩薩の一切の所説諸経の中に此法華経第一と説けり。
されば若此経に勝たりと云経有ば外道天魔の説と知べき也。
其上大日如来と云は久遠実成の教主釈尊、四十二年和光同塵応其機時三身即一如来暫く毘盧遮那と示せり。
是故に開顕実相の前には釈迦の応化と見えたり。爰を以て普賢経には釈迦牟尼仏名毘盧遮那遍一切処其仏住処名常寂光と説けり。
今法華経は十界互具・一念三千・三諦即是・四土不二と談ず。其上に一代聖教の骨髄たる二乗作仏・久遠実成は今経に限れり。
汝所語大日経・金剛頂経等の三部の秘経に此等の大事ありや。善無畏・不空等此等の大事の法門を盗取て、己が経の眼目とせり。
本経本論には迹形もなき誑惑なり。急急是を改むべし。抑大日経者四教含蔵して尽形寿戒等を明せり。
唐土の人師は天台所立の第三時方等部の経なりと定めたる権教也。あさましあさまし。汝実に道心あらば急て先非を悔べし。夫以此妙法蓮華経者一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。
43 聖愚問答鈔 下
爰に愚人聊和て云、経文明鏡也。疑慮をいたすに及ばず。但し法華経は三説に秀で、一代に超るといへども、言説に拘はらず経文に留まらざる、我等が心の本分の禅の一法にはしくべからず。
凡万法を払遣して言語の及ばざる処を禅法とは名けたり。されば跋提河の辺り沙羅林の下にして、釈尊金棺より御足を出し拈華微笑して、此法門を迦葉に付属ありしより已来、天竺二十八祖系不乱。唐土には六祖次第に弘通せり。
達磨は西天にしては二十八祖の終り、東土にしては六祖の始也。相伝をうしなはず、教網に滞るべからず。
爰を以て大梵天王問仏決疑経云吾有正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙法門。教外別伝。不立文字。付属摩訶迦葉とて、迦葉に此禅の一法をば教外に伝ふと見えたり。
都て修多羅の経教は月をさす指、月を見て後は指何かはせん。心の本分禅の一理を知て後は、仏教に心を留むべしや。
されば古人云、十二部経総是閑文字と〔云云〕。仍て此宗の六祖慧能の壇経を披見するに実に以て然也。言下に契会して後は教何かせん。此理如何が弁んや。
聖人示して云、汝先置法門道理を案ぜよ。抑我不伺一代大途不究十宗淵底国を諫め人を教ふべき歟。汝所談禅は我最前に習極て其至極を見るに甚以僻事也。
禅に三種あり。所謂如来禅と教禅と祖師禅と也。汝所言祖師禅等一端示之。聞知其旨。
若離教伝之いはば、離教無理離理無教。理全教教全理と云道理、汝不知之乎。拈華微笑して迦葉に付属し給と云も是教也。不立文字と云四字も即教也、文字也。此事和漢両国に事旧ぬ。
今いへば事新きに似たれども、一両の文を勘て汝が迷を払はしめん。
補註十一云又復若謂滞於言説者且娑婆世界将何以為仏事乎。禅徒豈不言説示人乎。無離文字談解脱義。豈不聞乎。
乃至次下云豈達磨西来直指人心見性成仏。而華厳等諸大乗経無此事耶。鳴呼世人何其愚也。汝等当信仏之所説。諸仏如来言無虚妄。
此文の意は若経文にとどこほり、言説にかゝはるとて、教の外に修行すといはば、此娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作べき。さやうに云ところの禅人も、人に教る時は言を以て云はざるべしや。其上仏道の解了を云時、離文字義なし。
又達磨西より来て直指人心仏也と云。是程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在在処処に談之。是をいみじき事とせんは無下に云がひなき事也。鳴呼今世の人何ぞ甚ひがめるや。只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来の誠諦の言を信ずべき也。
又妙楽大師弘決一に釈此理云世人蔑教尚理観者誤哉誤哉。此文の意は今の世の人人は観心観法を先として経教を尋学ばず。還て教をあなづり、経をかろしむる、是誤と云文也。
其上当世の禅人自宗に迷へり。披見続高僧伝習禅初祖達磨大師伝云籍教悟宗。如来一代の聖教の道理を習学し、法門の旨・宗宗の沙汰を知べき也。
又達磨の弟子六祖第二祖慧可伝云達磨禅師以四巻楞伽授可云我観漢地唯有此経。仁者依行自得度世。此文の意は達磨大師天竺より唐土に来て四巻の楞伽経をもて授慧可云我見此国是経殊に勝れたり。汝持修行して成仏也。此等の祖師既に経文を前とす。
若依之依経云はば大乗歟、小乗歟、権教歟、実教歟、能能弁ふべし。或用経禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛般若経等による。是皆法華已前の権教覆蔵の説也。
只諸経に是心即仏即心是仏等の理の方を説る一両の文と句とに迷て、大小権実顕露覆蔵をも尋ねず。只立不二不知而二謂己均仏の大慢を成せり。
彼月氏の大慢が迹をつぎ、此尸那の三階禅師が古風を追。雖然大慢は生ながら入無間三階は死して成大蛇。をそろしをそろし。
釈尊は三世了達の解了朗かに、妙覚果満の智月潔くして、鑑未来像法決疑経に記して云、諸悪比丘或有修禅不依経論自逐己見以非為是不能分別是邪是正。徧向道俗作如是言我能知是我能見是。当知此人速滅我法。
此文の意は諸悪比丘あて禅を信仰して経論をも尋ねず、邪見を本として法門の是非をば弁へずして、而も男女尼法師等に向て、我よく法門を知れり人はしらずと云て、此禅を弘むべし。
当知。此人は我正法を滅すべしと也。此文をもて当世を見に宛も如符契。汝慎むべし、汝畏るべし。
先に所談天竺に有二十八祖此法門を口伝すと云事其証拠何に出たるや。相伝仏法人二十四人、或は二十三人と見えたり。然るを二十八祖と立る事所出の翻訳何にかある。全く見えざるところ也。
此付法蔵の人の事、私に書べきにあらず。如来記文分明也。
其付法蔵伝云復有比丘名曰師子於罽賓国大作仏事。時彼国王名弥羅掘邪見熾盛心無敬信於罽賓国毀壊塔寺殺害衆僧。即以利剣用斬師子。頸中無血唯乳流出。相付法人於是便絶。
此文の意は仏我入涅槃の後に我法を相伝する人、二十四人あるべし。其中に最後弘通の人に当るをば師子比丘と云ん。罽賓国と云国にて我法を弘むべし。彼国の王をば檀弥羅王と云べし。
邪見放逸にして仏法を信ぜず、衆僧を敬はず、堂塔を破り失ひ、剣をもて諸僧の頸を切べし。即師子比丘の頸をきらん時に、頸中に無血、只乳のみ出べし。是時に仏法を相伝せん人絶べしと定められたり。
如案仏の御言不違師子尊者頸をきられ給事、実に以て爾也。王のかいな共につれて落畢ぬ。二十八祖を立る事、甚以僻見也。禅の僻事是より興るなるべし。
今慧能が壇経に二十八祖を立る事は達磨を高祖と定る時、師子と達磨との年紀遥なる間、三人の禅師を私に作り入て、天竺より来れる付法蔵系乱れずと云て、人に重んぜさせん為の僻事也。此事異朝にして事旧ぬ。
補註十一云今家承用二十三祖。豈有悞哉。若立二十八祖者未見所出翻訳也。近来更有刻石鏤版図状七仏二十八祖各以一偈伝授相付。鳴呼仮託何其甚歟。識者有力宜革斯弊。
是も二十八祖を立、石にきざみ版にちりばめて伝る事、甚以誤れり。此事を知る人あらば此の誤をあらためなをせと也。祖師禅甚僻事なる事、是にあり。
先に所引大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝引之、既に自語相違せり。其上此経は説相権教也。
又開元貞元の両度の目録にも全不載。是録外の経なる上権教と見えたり。然れば世間の学者用ゐざるところ也。証拠とするにたらず。
抑今の法華経を説るゝ時、益をうる輩迹門界如三千の時、敗種の二乗萠仏種。
四十二年の間は永不成仏と嫌はれて、在在処処の集会にして罵詈誹謗の音をのみ聞き、人天大会に思うとまれて、既に飢死べかりし人人も、今の経に来て舎利弗は華光如来、目連は多摩羅跋栴檀香如来、阿難は山海慧自在通王仏、羅睺羅は蹋七宝華如来、五百羅漢は普明如来、二千声聞は宝相如来の記別に豫る。
顕本遠寿の日は微塵数菩薩、増道損生位鄰大覚。
されば天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云て、二乗の得道は永く無之。善人は仏になると云て、悪人の成仏を明さず。男子は仏になると説て、女人は地獄の使と定む。人天は仏になると云て、畜類は仏になるといはず。然るを今経は是等が皆仏になると説くたのもしきかな。
末代濁世に生を受といへども、提婆が如くに五逆をも造らず三逆をも犯さず、而るに提婆猶天王如来の記別を得たり。況や犯さざる我等が身をや。
八歳の龍女既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す。況や人界に生を受たる女人をや。只難得人身難値正法也。汝早飜邪付正転凡証聖と思はば、念仏・真言・禅・律を捨てゝ此一乗妙典を受持すべし。若爾らば妄染の塵穢を払て、清浄の覚体を証せん事、疑なかるべし。
爰に愚人云、今聖人の教誡を聴聞するに日来の矇眛忽に開けぬ。天真発明とも云つべし。
理非顕然なれば誰か信仰せざらんや。但し世上を見るに上一人より下万民に至るまで、念仏・真言・禅・律を深く信受し御坐す。
さる前には国土に生を受ながら争か王命を背かんや。其上我が親と云、祖と云、旁念仏等の法理を信じて他界の雲に交り畢ぬ。又日本には上下の人数幾か有る。
雖然権教権宗の者は多く、此法門を信ずる人は未聞其名。仍善処悪処をいはず、邪法正法を簡ばず、内典五千七千の多きも、外典三千余巻の広きも、只主君の命に随ひ、父母の義に叶ふが肝心也。
されば教主釈尊は天竺にして孝養報恩の理を説き、孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す。師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ。
主の恩をしる人は弘演は腹をさき豫譲は剣をのむ。親の恩を思人は丁蘭は木をきざみ伯瑜は杖になく。儒・外・内、道異なりといへども報恩謝徳の教は替る事なし。
然ば主・師・親のいまだ信ぜざる法理を我始て信ぜん事、既に違背の過に沈みなん。法門の道理は経文明白なれば疑網都て尽ぬ。後生を願はずば来世苦に沈むべし。進退惟谷れり、我如何せんや。
聖人云、汝此理を知ながら猶是語をなす。理の不通歟、意の不及歟。我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入しより已来、知恩をもて最とし、報恩をもて前とす。
世に四恩あり。知之人倫となづけ、不知畜生とす。予父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思が故に、身命を捨る事敢て他事にあらず、唯知恩を旨とする計也。
先汝目をふさぎ、心を静めて道理を思へ。我は善道を知ながら、親と主との悪道にかゝらんを諫めざらんや。又愚人狂ひ酔て毒を服せんを我知ながら、是をいましめざらんや。
其如く法門の道理を存じて、火血刀の苦を知ながら、争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ命をも捨べし。諫めてもあきたらず、歎きても限りなし。
今生に眼を合する苦み、猶是を悲む。況や悠悠たる冥途の悲み、豈不痛哉。恐れても恐るべきは後生、慎ても慎むべきは来世也。
而るを是非を論ぜず親の命に随ひ、邪正を簡はず主の仰に順はんと云事、愚癡の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝是に過べからず。
されば教主釈尊は転輪聖王の末、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理をさとり、出離解脱の道を願て、世を厭ひ給しかば、浄飯大王是を歎き、四方に四季の色を顕して、太子の御意を留め奉らんと巧給ふ。
先東には霞たなびくたえまより、かりがねこしぢ(越路)に帰り、窓の梅の香玉簾の中にかよひ、でうでうたる花の色、もゝさへづり(百囀)の鴬、春の気色を顕はせり。
南には泉の色白たへにして、かの玉川の卯の華、信太の森のほとゝぎす、夏のすがたを顕はせり。
西には紅葉常葉に交ればさながら錦をおり交え、荻ふく風閑かにして松の嵐ものすごし。過にし夏のなごりには、沢辺にみゆる螢の光あまつ空なる星かと誤り、松虫・鈴虫の声声涙を催せり。
北には枯野の色いつしかものうく、池の汀につらゝゐて、谷の小川もをとさびぬ。
かゝるありさまを造て御意をなぐさめ給のみならず、四門に五百人づつの兵を置て守護し給しかども、終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比、車匿を召て金泥駒に鞍置せ、伽耶城を出て檀特山に入り十二年、高山に薪をとり深谷に水を結て難行苦行し給ひ、三十成道の妙果を感得して、三界の独尊一代の教主と成て、父母を救ひ群生を導き給しをば、さて不孝の人と申べき歟。
仏を不孝の人と云しは九十五種の外道也。父母の命に背て無為に入、還て父母を導くは孝の手本なる事、仏其証拠なるべし。
彼浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王外道の法に著して仏法に背き給しかども、二人の太子は父の命に背て雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導て沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは、不孝の人と云べき歟。
経文には棄恩入無為真実報恩者と説て、今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人也と見えたり。又主君の恩の深き事汝よりも能しれり。汝若知恩の望あらば深く諫め強て奏せよ。非道にも主命に随はんと云事、佞臣の至り不忠の極り也。
殷紂王は悪王、比干は忠臣也。政事理に違しを見て強て諫しかば、即比干は胸を割る。紂王は比干死して後、周の王に打れぬ。今の世までも、比干は忠臣といはれ、紂王は悪王といはる。
夏桀王を諫し龍蓬は頭をきられぬ。されども桀王は悪王、龍蓬は忠臣とぞ云。主君を三度諫るに用ゐずは山林に交れとこそ教へたれ。何ぞ其非を見ながら黙せんと云や。古の賢人世を遁れて山林に交りし先蹤を集て、聊汝が愚耳に聞しめん。
殷代の太公望は皤渓と云谷に隠る。
周代の伯夷叔斉は首陽山と云山に篭る。
秦の綺里季は商洛山に入り、
漢の厳光は孤亭に居し、
晋の介子綏は緜上山に隠れぬ。此等をば不忠と云べき歟。愚かなり。汝忠を存ぜば諫むべし。孝を思はば言べき也。
先汝権教権宗の人は多く、此宗の人は少し、何ぞ捨多付少と云事。必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。
麒麟鸞鳳は禽獣の奇秀也。然れども是は甚少し。牛羊烏鴿は畜鳥の拙卑也。されども是は転多し。必ず多きがたつとくして少きがいやしくば、麒麟をすてゝ牛羊をとり、鸞鳳を閣て烏鴿をとるべき歟。
摩尼金剛は金石の霊異也。此宝は乏く、瓦礫土石は徒物の至、是は又巨多也。汝が言の如くならば、玉なんどをば捨てゝ瓦礫を用ゆべき歟。はかなし、はかなし。
聖君は希にして千年に一たび出、賢佐は五百年に一たび顕る。摩尼は空く名のみ聞く、麟鳳誰か実を見たるや。世間出世善者は乏く悪者は多き事眼前也。
然れば何ぞ強ちに少きをおろかにして、多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希也。木皮は充満すれども布絹は些少也。汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。
爰に愚人席をさり、袂をかいつくろひて云、誠に聖教の理をきくに、人身は難得、天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は難聞、一眼の亀の浮木に遇よりも難し。
今既に難得人界に生をうけ、難値仏教を見聞しつ。今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。夫一劫受生の骨は山よりも高けれども、仏法の為にはいまだ一骨をもすてず。
多生恩愛の涙は海よりも深けれども、尚後世の為には一滴をも落さず。拙きが中に拙く、愚なるが中に愚かなり。設ひ命をすて身をやぶるとも、生を軽くして仏道に入り、父母の菩提を資け、愚身が獄縛をも免るべし。能能教を示し給へ。
抑信法華経其行相如何。五種の行の中には先何れの行をか修すべき。丁寧に願聞尊教。
聖人示云汝交蘭室友成麻畝性。誠禿樹非禿遇春栄華さく。枯草非枯入夏鮮かに注ふ。若先非を悔て正理に入らば、湛寂の潭に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑なかるべし。
抑仏法を弘通し群生を利益せんには、先教機時国教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時折伏を行ずるも非也。折伏の時摂受を行ずるも失也。然るに今世は摂受の時歟、折伏の時歟、先是を知べし。
摂受の行は此国に法華一純に弘りて、邪法邪師一人もなしといはん、此時は山林に交て観法を修し、五種六種乃至十種等を行ずべき也。折伏の時はかくの如くならず。
経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ(頤口)誉れを檀にし、邪正肩を並べ、大小先を争はん時は、万事を閣て謗法を責べし。是折伏の修行也。
此旨を知ずして摂折途に違はば、得道は思もよらず、悪道に堕べしと云事、法華・涅槃に定置、天台・妙楽の解釈にも分明也。是仏法修行の大事なるべし。
譬ば文武両道を以て天下を治るに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。
東夷南蠻西戎北狄蠭起して野心をさしはさまんには武を先とすべき也。文武のよき事計を心えて時をもしらず、万邦安堵の思をなして世間無為ならん時、甲胄をよろひ兵杖をもたん事も非也。又王敵起らん時、戦場にして武具をば閣て筆硯を提ん事、是も亦時に相応せず。
摂受折伏の法門も亦如是。正法のみ弘まて邪法邪師無らん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝すべし。是天下の静なる時筆硯を用るが如し。権宗謗法国にあらん時は、諸事を閣て謗法を責べし。是合戦の場に兵杖を用ゆるが如し。
然れば章安大師涅槃疏に釈して云昔時平而法弘。応持戒勿持杖。今時嶮而法翳。応持杖勿持戒。今昔倶嶮応倶持杖。今昔倶平応倶持戒。取捨得宜不可一向。此釈の意分明也。
昔は世もすなをに、人もただしくして、邪法邪義無りき。されば威儀をただし、穏便に行業を積て、杖をもて人を責ず、邪法をとがむる事無りき。
今の世は濁世也。人の情もひがみゆがんで、権教謗法のみ多ければ正法弘りがたし。此時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用也。只折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責よと也。
取捨得其旨一向に執する事なかれと書り。今の世を見るに、正法一純に弘まる国歟、邪法の興盛する国歟、勘ふべし。
然るを浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は法華経を雑行と名け、剰へ千中無一とて千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書り。
真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論の法と定めたり。正覚房は法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ、釈尊をば大日如来の牛飼にもたらずと判ぜり。
禅宗は法華経を吐たるつばき・月をさす指・教網なんど下す。小乗律等は法華経は邪教、天魔の所説と名けたり。此等豈謗法にあらずや。責ても猶あまりあり、禁めても亦たらず。
愚人云、日本六十余州人替り法異といへども或念仏者・或真言師・或禅・或律誠に一人として謗法ならざる人はなし。雖然人の上沙汰してなにかせん。只我心中に深く信受して、人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。
聖人示云汝所言実にしかなり。我も其義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命とも、或は寧喪身命とも説く。
何故にかやうには説るゝやと存ずるに、只人をはばからず経文のまゝに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有て、命にも及ぶべしと見えたり。
其仏法の違目を見ながら、我もせめず国主にも訴へずば、教へに背て仏弟子にはあらずと説れたり。
涅槃経第三云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨。若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也。
此文の意は仏の正法を弘めん者、経教の義を悪く説んを聞見ながら、我もせめず、我身及ばずば国主に申上ても是を対治せずば、仏法の中の敵也。若経文の如くに、人をもはばからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧也と説れて候。
されば仏法中怨の責めを免んとて、かやうに諸人に悪まるれども、命を釈尊法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて、謗法を責るを、心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝実に後生を恐れば、身を軽しめ法を重ぜよ。
是を以て章安大師云、寧喪身命不匿教者身軽法重死身弘法。此文の意は身命をばほろぼすとも正法をかくさざれ。其故は身はかろく法はおもし。身をばころすとも法をば弘めよと也。
悲哉、生者必滅の習なれば、設ひ長寿を得たりとも、終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢也。
非想の八万歳未免無常。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況や人間閻浮の習は、露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだ也。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身也。若此道理を得ば後生を一大事とせよ。
歓喜仏の末の世の覚徳比丘、正法を弘めしに、無量の破戒此行者を怨て責しかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責て終に命終して阿閦仏の国に生れて、彼仏の第一の弟子となる。
大乗を重じて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙豫国王は不退の位に登る。憑哉、正法の僧を重じて邪悪の侶を誡る人かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ん事無疑。
南岳大師の四安楽行云若有菩薩将護悪人不能治罰乃至其人命終与諸悪人倶堕地獄。此文の意は若仏法を行ずる人有て、謗法の悪人を治罰せずして、観念思惟を専にして、邪正権実をも簡ばず、詐て慈悲の姿を現ぜん人は、諸の悪人と倶に悪道に堕べしと云文也。
今真言・念仏・禅・律の謗人をたださず、いつはて慈悲を現ずる人此文の如くなるべし。
爰に愚人窃意顕言云誠諫君正家事先賢の教へ本文に明白也。外典如此。内典是に違べからず。悪を見ていましめず、謗を知てせめずば、背経文違祖師。其禁殊に重し。今より信心を至すべし。但し此経を修行し奉らん事叶がたし。若其最要あらば証拠を聞んと思ふ。
聖人示云今見汝道意鄭重慇懃也。所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是妙法蓮華経の五字也。檀王の退宝位龍女が改蛇身只此五字の所致也。夫以今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡八万法蔵の広きも、一部八巻の多きも、只是五字を説んため也。
霊山の雲の上鷲峰の霞の中に、釈尊結要地涌付属を得ることありしも、法体は何事ぞ只在此要法。天台・妙楽連六千張疏玉道邃・行満並数軸釈金併此義趣を出ず。
誠恐生死欣涅槃運信心至渇仰遷滅無常昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば、滅せぬ罪や有べき、来らぬ福や有べき。真実也。甚深也。是を信受すべし。
愚人合掌折膝云貴命染肝教訓動意。雖然上能兼下の理なれば、広は狹を括り、多は少を兼ぬ。然処に五字は少く文言は多し。首題は狹く八軸は広し。如何ぞ功徳斉等ならんや。
聖人云汝愚也。捨少取多の執須弥よりも高く、軽狹重広の情溟海よりも深し。今の文の初後は必ず多か尊く、少が卑しきにあらざる事、前に示すが如し。爰に又小が大を兼、一が多に勝ると云事、談之。
彼尼狗類樹の実は芥子三分が一のせい(長)也。されども五百輛の車を隠す徳あり。是小が大を含めるにあらずや。又如意宝珠は一あれども万宝を雨して欠処無之。是又少が多を兼たるにあらずや。
世間のことわざにも一は万が母といへり。此等の道理を知ずや。所詮実相の理の背契を論ぜよ。強に多少を執する事なかれ。汝至愚也。今一譬を仮ん。
夫妙法蓮華経者一切衆生仏性也。仏性者法性也。法性者菩提也。所謂釈迦・多宝・十方諸仏・上行・無辺行等、普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗七星・二十八宿・無量諸星・天衆・地類・龍神・八部・人天大会・閻魔法王、上非想雲上下那落炎底、所有一切衆生所備仏性を妙法蓮華経とは名くる也。
されば一遍此首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集る時、我身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出る。是を成仏とは申す也。例せば篭の内にある鳥の鳴時、空を飛衆鳥同時に集る。是を見て篭の内の鳥も出んとするが如し。
爰に愚人云、首題の功徳妙法の義趣、今所聞詳也。但し此旨趣正く経文に是をのせたりや如何。
聖人云、其理詳ならん上は文を尋るに及ばざる歟。然ども随請示之、法華経第八陀羅尼品云汝等但能擁護受持法華名者福不可量。此文の意は仏鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守んと誓給を讃るとして、汝等法華の首題を持人を守るべしと誓ふ。其功徳は三世了達の仏の智慧も尚及がたしと説れたり。
仏智の及ばぬ事何かあるべき。なれども法華の題名受持の功徳ばかりは是を知ずと宣たり。法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に篭れり。一部八巻文文ごとに、二十八品生起かはれども、首題の五字は同等也。譬ば日本の二字の中に六十余州島二入らぬ国やあるべき、篭らぬ郡やあるべき。
飛鳥とよべば空をかける者と知り、走獣といへば地をはしる者と心うる。一切名の大切なる事蓋以如是。天台は名詮自性句詮差別とも、名者大綱とも判ずる此謂也。又名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も亦以如此。
愚人云如聖人言実に首題の功莫大也。但知不知不同あり。我は弓箭に携り兵杖をむねとして未知仏法真味。若然所得功徳何ぞ其深からんや。
聖人云、円頓の教理は初後全く不二にして、初位に後位の徳あり。一行一切行にして功徳不備無之若如汝言功徳を知て植ずんば、上は等覚より下は名字に至るまで、得益更にあるべからず。今の経は唯仏与仏と談ずるが故也。
譬諭品云汝舎利弗尚於此経以信得入況余声聞。文の心は大智舎利弗も法華経には信を以て入る、其智分の力にはあらず。況や自余の声聞をやと也。
されば法華経に来て信ぜしかば、永不成仏の名を削て、華光如来となり。嬰児に乳をふくむるに、其味をしらずといへども、自然に其身を生長す。医師が病者に薬を与ふるに、病者薬の根源をしらずといへども、服すれば任運と病愈ゆ。
若薬の源をしらずと云て、医師の与ふる薬を服せずば其病愈べしや。薬を知るも知ざるも、服すれば病の愈る事以て是同じ。既に仏を良医と号し、法を良薬に譬へ、衆生を病人に譬ふ。
されば如来一代の教法を擣簁和合して、妙法一粒の良薬に丸ぜり。豈知るも知ざるも、服せん者煩悩の病愈ざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども、服すれば必愈ゆ。行者も亦然也。
法理をもしらず煩悩をもしらずといへども、只信ずれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報寂光の台にのぼり、本有三身の膚を磨ん事、疑あるべからず。
されば伝教大師云、能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏と。法華経の法理を教へん師匠も又習はん弟子も、久しからずして法華経の力をもて、倶に仏になるべしと云文也。天台大師も法華経に付て玄義・文句・止観三十巻の釈を造給。妙楽大師は又釈籤・疏記・輔行三十巻の末文を重て消釈す。天台六十巻とは是也。
玄義には、名体宗用教の五重玄を建立して、妙法蓮華経の五字の功能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈云如提綱維無目而不動牽衣一角無縷而不来。
意は此妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来らざる事なく、善根として動かざる事なし。譬ば網の目無量なれども、一の大綱を引に不動目もなく、衣の絲筋巨多なれども、取一角絲筋として来らざることなきが如しと云義也。
さて文句には、如是我聞より作礼而去まで文文句句に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈を設けたり。
次に止観には、妙解の上に所立観不思議境の一念三千、是本覚の立行本具の理心也。今爰に委くせず。
悦哉、生を五濁悪世に受といへども、一乗の真文を見聞する事を得たり。熙連恒沙の善根を致せる者、此経にあひ奉て信を取と見えたり。汝今致一念随喜信。函蓋相応感応道交無疑。
愚人低頭挙手云我今よりは一実の経王を受持し、三界の独尊を本師として、自今身至仏身此信心敢無退転。設ひ五逆の雲厚くとも、乞ふ提婆達多が成仏を続、十悪の波あらくとも、願くは王子覆講の結縁に同からん。
聖人云、人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず飜へさん。魔来鬼来るとも騒乱する事なかれ。夫天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば豬の金山を摺、衆流の海に入、薪の火を盛になし、風の求羅をますが如くせば豈好事にあらずや。