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総在一念鈔

第一巻 定本番号 12 正嘉2(1258) 分類: その他

祖寿: 37 

    12  総在一念鈔
釈籤六云総在一念別分色心[云云]。問云総在一念者其何者耶。
答云一偏難思定いへども、且一義を存せば、衆生最初一念也と定む。
心を止て倩按ずるに、我等が最初の一念は無没無記と云て、善にも不定、悪にも不定、闇闇湛湛たる念也。是を第八識と云。
此第八識は万法の総体にして、諸法総在して備るが故に是を総在一念と云。但是八識の事の一念也。此一念動揺して一切の境界に向といへども、所縁の境界を未分別。是を第七識と云。
此第七識亦動揺し、出でゝ善悪の境に対して、可悦喜可愁愁へて、善悪の業を結ぶ。是を第六識と云。
此六識の業感して来生の色報を獲得する也。譬ば最初の一念は湛湛たる水の如し。次に動揺して一切の境界に向者、水の風に吹れて動ずれども波とも泡とも見分ざるが如し。
又動揺して善悪の境界に対して、可喜喜、可愁愁者、水の波濤と顕れて高く立上るが如し。次に来生の色報を獲得者、波濤の岸に打あげられて大小の泡となるが如し。
泡消るは我等が死に還るが如し。能能思惟すべし。波と云ひ泡と云も一水の所為也。是は譬也。法に合せば最初の一念展転して色報をなす。
是を以て外に全く別に有にあらず。心の全体が身体と成也。相構へて各別には得意べからず。譬ば是水の全体寒じて大小の冰となるが如し。
仍て地獄の身と云て洞然猛火の中の盛なる焔となるも、乃至仏界の体と云て色相荘厳の身となるも、只是一心の所作也。
依之悪を起せば三悪の身を感じ。菩提心を発せば仏菩薩の身を感ずる也。是を以一心の業感の冰にとぢられて十界とは別れたる也。
故に十界は源其体一にして只是一心也。一物にて有ける間、地獄界に余の九界を具し、乃至仏界に又余の九界を具す。如是十界互に具して十界即百界と成なり。
此百界の一界に各各十如是あるが故に百界は千如是となるなり。此千如是を衆生世間にも具し、五陰世間にも具し、国土世間にも具せるが故に、千如是は即三千となれり。
此三千世間の法門は我等が最初の一念に具足して全無闕滅。此一念即色身となる故に、此身は全三千具足の体也。是を一念三千の法門と云也。
依之地獄界とて恐るべきにあらず、仏界とて外に尊ぶべきにあらず。此一身に具して事理円融せり。全無余念不動寂静の一念に住せよ。
上に云ところの法門、是を観ずるを実相観と云也。余念は動念也。動念は無明也。無明は迷也。此観に住すれば此身即本有の三千と照すを仏とは云也。
是以妙楽大師云当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界〔云云〕。若此観に不堪人は余の観に移て、可観最初一念起心。起心者寂静の一念動じて迷初る心也。
此動念は全三諦也。三諦者心の体は中也。所起念は仮也。念に自性無は空也。此三観成就する時、動念即不動念と成也。是無明即明と観ずるを唯識観と云也。
縦ひ唯識観を成といえども、終には実相観の人に成也。故に義例云〔妙楽釈〕本末相映事理不二と云へり。本者実相観、末者唯識観、事者唯識観、理者実相観也。
此不思議観成ずる時、流転生死一時に断壊して果位に登也。是を事理体一の不思議の総在一念と云也。此性具を顕して観音は三十三身を顕し、此理具を照して妙音は三十四身を現ずる者也。
若不然仏の分身、薩の化身、之を現ずるに無由。又此理を不得時は胎金両部の千二百余尊、大日の等流身・変化身も更に以て難得意。
是等の法門は性具の一念の肝要也。可秘蔵可秘蔵。
此一念三千を天台釈云夫一心具十法界一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間百法界即具三千種世間。此三千在一念心。若無心而已。介爾有心即具三千[云云]。
介爾者妙楽釈云謂細念也[云云]。意はわずかにと云也。仍て可得意様は次第を以て云時は一心は本、十界は末也。是思議の法門也。
不思議を以て云時は一心の全体十界三千と成る故に取別べき物にもあらず、表裏も無之。一心即三千、三千即一心也。譬ば不覚の人は冰の外に水ある様に是を思ふ。
能能心得る人は冰即水也。故に一念と三千と無差別一法と得心べし。
仍て天台釈云只心是一切法一切法是心。故非縦非横非一非異玄妙深絶。非識所識非言所言所以称為不可思議境。意在於茲[云云]。
故一念非一念即三千也。三千非三千即一念也。依之事理体一修性不二法門也。此一念三千の不思議は国土世間に三千を具するが故に、草木瓦石も皆本有の三千を具して円満の覚体也。
然れば即我等も三千を具するが故に本有の仏体也。仍て無間地獄の衆生も三千を具し、妙覚の如来と一体にして無差別也。
是を以て提婆が三逆の炎、忽に天王如来の記を蒙る。地獄すら尚爾也。何況や余の九界をや。心智都滅せる二乗すら尚成仏す。何況や余の八界をや。
故に十界の草木等も一一に本有の三千の仏体にして、悪心悪法と云て可捨物無之、善心善法と云て可取物無之。故に今の経には此理を説顕すが故に妙法蓮華経とは題する也。
妙法者十界の草木等に三千を具す。一法として可捨物なきが故也。蓮華者此理を悟る人は必ず仏と等く蓮華の台に処し、蓮華を以て身を荘厳し、蓮華を以て国土をかざる故に云也。
知ぬ、此身即三世の諸仏の体也。若此理を不得者をば仏種とは不名。故に妙楽釈云若非正境縦無妄偽亦不成種[云云]。
爰知ぬ、法華以前の諸経は権法を説交るが故に塵劫を経歴して受持すとも仏種となるべからず。仏智を説顕さざるが故也。仏智を説ざるが故に悪人女人成仏すとは不云。
故に天台釈云他経但記菩薩不記二乗但記善不記悪但記男不記女但記人天不記畜。今経皆記也[云云]。
妙楽釈云縦有経云諸経之王不云已今当説最為第一。兼但対帯其義可知[云云]。如此釈爾前の諸経は方便にして非成仏直因也。
問云法華以前の諸経の中に円教と云て説殊勝法門、何ぞ強に爾前の諸経をば不成仏種子簡之耶。
答云円教を説といへども、彼円は仏の種子を失へる声聞・縁覚・悪人・女人成仏すと説ざるが故に、円教の至極にあらず。究竟に非るが故に、仏意を不挙故に、又仏智にもあらず。
されば非成仏種子也。依之諸経をば対法華皆簡也。爰を以て大師云、細人麁人二倶犯過。従過辺説倶名麁人[云云]。仍て余経をば不名妙法蓮華経也。
問云一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱ては何の益か有んや。
答文盲にして一字を覚悟せざる人も信を至して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先口業の功徳を成就せり。若功徳成就すれば仏の種子をむねの中に収て必ず出離の人と成也。
此経の諸経に超過する事は誹謗すら尚逆縁と説。不軽軽毀の衆是也。何況や致信心順縁の人をや。故に伝教大師云信謗彼此決定成仏等[云云]。
問云成仏之時三身者其義如何。答我身の三千円融せるは法身也。此理を知極めたる智慧の身と成を報身と云也。
此理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで之を現じて、衆生を利益するを応身と云也。
此三身を法華経に説て云如是相如是性如是体と[云云]。相は応身、性は報身、体は法身也。此三身は自無始已来我等に具足して闕滅なし。
雖然迷の雲に隠されて是を不見。悟の仏と云は此理を知る法華経の行者也。此三身は昔は迷て不覚不知、仏の説法に叩かれて近く覚りたりと説をば迹門と云也。
此三身の理をば我等具足して一分も不迷、三世常住にして無所不遍と説をば本門と云也。若爾ば本迹は只久近の異にして其法体全く不異。
是を以て天台釈云本迹雖殊不思議一[云云]。悟者只此理体を知るを悟と云也。譬ば庫蔵の戸を開て宝財を得が如し。外より不来。
一心の迷の雲晴ぬれば三世常住の三身三諦の法体也。鏡に塵積ぬれば形不現。明なれば万像を浮るが如し。塵の去事は人の磨くによる。像の浮ぶ事は磨に非ずばならじ。
若爾ば転迷覚悟は行者の所作による。三千三諦三身の理体は全非人所作。只是本有也。
又迷を修行する事は人の作なりといへども、但迷の去処を見ざるなり。百年の闇室に火をともすが如し。全く闇の去ところを見ず。是転迷覚悟返流尽源也。
無明即明は唯名迷悟、無明法性は全く其体一也。穴賢穴賢。各別には得心べからず。若迷悟異体と得心ならば成仏の道遼遠ならん事、一須弥より一須弥に至が如し。
自本不二なる理体に迷が故に衆生と云、是を悟るを仏と云也。よくよく此大旨を心得て不可有失錯也。我等が生死一大事也。出離の素懐也。豈入宝山手を空くせんや。
後悔千万すとも敢て無益。閻魔の責獄卒の杖は全く不撰人只罪人を打。若人間に生れて其難処を不去百千万劫を経歴すとも不聞仏法名字。三界に昇沈して六道流浪の身となるべし。
出離の要法を不聞事可悲可悲。可恐可恐獄卒阿防羅刹の責を蒙ん事を。
 日蓮  花押